これは東京都の女性というか、東京都がやっている取り組みの一つで、
創業をする時に必要な情報とか、いろんなサービスというものをやってくれるところなんですね。
最初に企業をする時に結構お世話になって、
具体的な助言をいただいたんですね。
こうした方がいいとか、こういう方法があるとか、
いろんなこういうとの仕組みがあるんですよとかいうのも教えてもらって、
今東京都で創業したい、企業したいといった時には、
東京都のワンストップセンターというところがあって、
創業をする時に企業をするための手続きを割とワンストップというくらいだから、
その場所だけで完結できるサービス機関があるんですけど、
そこの紹介してもらって、
そこで割と簡単にというか、創業まではそんなに難しくなく、
それでも1ヶ月、2ヶ月くらいはかかったし、
何らかの手続きもいろいろモタモタしていたりして、
完全に手続きというかいろんなものが割ったのは、
3、4ヶ月かかったと思うんですけど、
それでも思っていたよりは割と東京都の力を借りるとよくできたんですよね。
その東京創業ステーションというのは、
本当無料でいろんなセミナーを開いたりとかもしているんですけど、
セミナーもオンラインでいくつか参加したけど、
やっぱりちょっとピンとくるものがあまりいなかったり、
なんかセミナー疲れもしちゃって、
そういうのも開けなくなっていたんですけど、
そんなこんながいろんなことあったんだけれども、
改めて半年くらい経ってやっぱり誰かに相談したいなと思って、
ただなかなかそれを相談できる相手っていうのはいなくて、
あるんですよ。一応、例えば、
何でしょう、
そういう創業だけじゃなくて、
中小企業相談士の方にお話を聞いてもらうとか、
そういう仕組みもないことはないんですけど、
やっぱりこのスタートアップっていうものについて特に、
今現場で動いている経営者の方とかの話をやっぱり聞きたいなとか、
相談してほしいなっていうのもあって、
改めて創業ステーションを改めて使うことにしたんですね。
起業したもののも全然創業したような、
してないような感じだっていうのもあって、
それでこの相談をしてきたんですよ。
相談しに行って、それが水曜日ですね。
今日が金曜日ですけど、水曜日に行ってきて、
一応専門の相談ということで、特にマーケティングですね。
特にインターネットとかを通じた、
マーケティングとか集客とかそういうところについて、
専門性を持っていらっしゃる方だったので、
そこを相談しに行ったんですけど、
非常にありがたくて、
自分自身も用意はしていったんですね。
これまでどんなことをやってきたかとか、
どんなふうなことをまとめたかとかね。
SNSはこういうのを運用していて、
大体ビュー数はこれですとかある程度用意していったんですけど、
そうしたらすごいよく頑張っているっていうふうに褒めてくださって、
やっぱり不安だったんですよね。
こんなこれやってて意味あるのかなとか、
分かるんですよ。絶対そんな、
そう簡単にSNSについてもそうだし、
Google広告にしたって、
ちょっと運用したくらいで結果が出ないことは分かっていてても、
でも不安なんですよね。
不安っていう感情だけは拭えなくって、
ただ話を聞いてもらって、
いろいろ話をする中で、
やっぱそうだよねっていうのを改めて分かったし、
今やってることは間違いではないし、
それを続けながらこういう戦略を取っていくといいかもしれないね、
なんてことを具体的に話すこともできて、
具体的には、
まずは一つは、
自分自身のパーソナルっていうか、
個人っていうものをもっと売り出していって、
会社自体を告知していくというのに時間がかかるから、
その方はやっぱり、
どちらかというと講師業とかセミナー開いたりとか、
そういう活動もよくされて、
それが結果的にいろんな仕事につながっていったっていう経験をお持ちの方だったから、
そういう道もそういう方法もあると。
だから僕自身も確かにどちらかっていうと、
そもそも個人でやってる会社だし、
会社っていう肩書が果たして必要なのかっていうところもあるくらい、
フリーランスでもいいかなくらいな人なんですけど、
ただ僕の場合はやっぱり後ろ盾とか、
ある種の肩書として株式会社っていう肩書とか権限っていうものが欲しかったので、
法人っていうものが大事だなと思ったんですよね、
その後ろ盾っていうか、
個人がフリーランスとしてやるっていうものの、
もうちょっと土台となるような組織っていうか、
法人っていうものを持ちたいなっていうものが思いがあったので、
そういう点で他のサービスと差別化を図りたいっていう、
こういうのは早めにした方がいいなっていうのはすごく思っていたので、
まずは会社を作るっていうところはやったんですけど、
とはいえ個人でやってることには変わりないので、
個人っていうものをもっと知ってもらういろんな方に、
この小原大輝っていう人物はどんな価値を持っていて、
どんなことを提供できるのか、
この人は面白そうだなと思ってもらえるような、
そういうような売り方っていうんですかね、
そういうマーケティングっていうものをやっていくという方法もあるっていうことを提示していただいて、
正直できるなと思うんですよ、
すごくそういう方法っていう方が、
営業もするんだけど、
営業だけではなくて、
そういう売り出し方っていうのも同時にしていくっていうのは大事だなと思って、
僕自身やっぱり営業ってちょっと身構えちゃうところがあるし、
そんな得意じゃないと自分では思うんですよね。
そこで言われたのは、
自分のことを協力してくれるとか、
自分のことを使ってくれる、
一緒にやってくれる人を探すのが大事だって言ってて、
最初は一瞬、
それって共同経営者とか社員とか、
なんかそういう感じかなと思ったけど、
そういうことではなくて、
例えばインフルエンサーとか、
他の経営者とか、
何かセミナーを開いているところとか、
あとは組織とか、
そういうところに知ってもらったりすることで、
そういう人が勝手に宣伝してくれたり、
勝手に協力して利用してくれるある意味では、
そういうふうになっていくっていうのもいいんだよね、
っていう話をしてくださって、
でもそれそうだなと思って、
僕も本当に協力者とか、
そういう存在ってすごく大事だなっていうのはあるんですよ。
すごいあるんだけど、
なかなかそういう人物に出会えないというか、
なかなか難しいなって思ってたんだけど、
確かに見方を変えれば、
そういう組織とか、
何かインフルエンサーとか、
自分を一緒にやってくれる人って、
必ずしも会社内である必要はないなっていうのをすごく感じたんですよね。
会社の外にいろんな協力者がいるっていう状況を
作り出していくことっていうのもすごく大事だなと思って。
それとは別に、また地道にやっていこうと思っていることとしては、
地域のコミュニティセンターで講師をさせてもらえないかなとか、
あと今一番やりたいなと思っているのは、
フリースクールでうまく僕を活用してくれないかなっていうのをすごく今考えていて、
フリースクールっていうのは、
本当に僕が6年、もっとか8年前くらいからずっと関心を持っていろいろ接したりとか、
勉強させてもらっている分野なので、
すごくそこにコミットしていける、
協力していけたらいいなって思いはあるんですよね。
非常に需要もないことはないかなと思って、
そこの開発をしていければいいかなっていうのが営業としては考えていることで、
その一方で自分自身というものをもうちょっと個人というものをアピールしていくってことをやろうかなと思って、
ホームページも作ったんですよね。
もともと吉村ジョナサン名義でのホームページは作っていて、
その吉村ジョナサン名義はある意味では僕自身がやっている活動を全部まとめているようなサイトになっていて、
本当にいろんな活動をしているので、
リンクも自分は自身でパッと出てこなかったりするから、
そういうものをまとめる意味もあって、
それを作っているんですけど、
ただもう膨大というかいろんな滝に渡りすぎて、
ちょっとごちゃごちゃしちゃってるんですよね。
もうちょっと国語教育というものについては、
割と自信を持てるというかそういう分野なので、
その国語教育に関わる分だけを抜き出した、
そういうペルソナを作ったホームページというサイトを作ったんですよね。
そこからまた自分を組み立て直していこうかなと、
それをどうやってペルソナを育てていこうかなというところがあって、
それは非常に楽しい行為であるので、やっていこうかなと思っていますね。
吉村ジョナサンという作家というペルソナがあって、
小原大輝という一つのアーティストとしてのペルソナがあるとすると、
もう一つの教育としてのペルソナというものを少し具体的にしていくというか、
専念させていくというのが、
今自分自身のライフワークとしては、
作家としてもアーティストとしてもやっていくにせよ、
もうちょっと経営とか、生きていくための収入源としてのところも含めて、
その教育者としての部分をもうちょっとブラッシュアップ、
育てていければいいかなというふうに思っているところですね。
その一端として、まずはホームページも作ってみて、
あとはここから告知用のチラシとか名刺とか、
いろいろ少し宣伝させていこうかなと思っていますね。
そういう語源をうまく作っていくというか、
その戦略というものを考えることができて、
とにかく前向きになれたんですよね。
本当に後ろ向きになるというか停滞しちゃっていたので、
そこから少し逃れられたというか、
やっぱりもうちょっと落ち着けるというかね、
やっぱり人に相談するってすごく大事だなと思って、
それで少し整理できたかなと思いますね。
単にこの人の影響を受けるとか学ぶっていうニュアンスより、
もっと強い結びつきを表す言葉だなと思って、
ある種のその人のパーソナリティを支えるような、
その人が人間を支えるような、客観的に見てね、
その人っていう人物を説明するような存在だなと思ったんですよね。
だからその思縮する人っていうものがいるのもいいなと思って、
そういうところに寄って立つというか、
そういうところに影響を受けていくっていうのも大事だなと思うんですよね。
だからそういう実際に会っている人じゃないけれども、
その影響を受ける人とか相談できる相手っていう、
自分の中の問いを書物に求めたり個人に求めたりするっていうのは、
非常にいい手段なんじゃないかなと思うんですよね。
何ならある意味自分勝手に判断できるし、
一番はその人自身のパーソナリティってものに影響されませんよね。
なんか師匠の性格がどうことか、生活が最近どうとか、
そういうものに影響されないので、
割と都合よくその人の思想とか考え方とか、
学ぶべきことからだけ影響を受けるっていうのは非常にいいですよね。
なんか割と便利な言葉だなと思いますね。
なので今、教育者としての思縮っていうとまた難しいところであるんですよね。
今現代の学校教育や社会教育ってものと共有できる、
個人って言うとなかなか難しいなっていうところはあったりするので、
例えば大村浜なんかは割と普遍的な国語教育、国語科教育の姿勢ってものをすごく持ってらっしゃるので、
そういうところから学ぶっていうのはある種の立ち返る場所としてはいいのかなと思ったりしてますね。
音楽家としては割とやっぱり朝日名隆を尊敬してるんですよ。
なんかある種の理性人というか、音楽家全としてない姿勢っていうところから見えてくる音楽性っていうのがあるし、
もちろん音楽自体もすごく共感し得るというか、なんかそこに繋がるものを感じたりして、
僕が高校生くらいからずっと好きなんですよね、朝日名隆は。
文章が好きでね、特にね。もちろん音楽も好きなんだけど文章も好きで、いい文章を書くんですよ、非常に。
そういう姿勢もあってすごく好きで、
だいたい僕の好きな川早夫さんも含めてだけど、もちろん生きていた時代は重なる方々で、
ちょっと時代はね、ちょっと10年20年はずれたりするんですけど、
でもだいたいその3人っていうのは重なる方々で、
皆さんね結構長生きもされている方なので基本的にね、
それこそ僕が生きている時代ともかぶっている方々ですね。
大村浜さんはね、直接拝見したことがあって、講演会に行ったことがあって、
国語の、国語学教育の研究会のところに、講演で招かれているところに参加したことがありますね。
朝日名隆はね、残念ながら演奏を聴くことはできなかったけれども、
川早夫自身にも出会ったことはないけれど、幸い著作はものすごく多いのでね、
出会うことは非常によくできるんですよね。
その通信生大学で心理学を学んでいたんですけど、心理学の結局、
卒論は、まあ、卒論というのは、
いろいろあって、結局出せないというか、取り組まないことになったんですけど、
ただ、やろうとしていたのは、当初最初にやろうとしていたのは、
川早夫について、もうちょっと研究してみたいなと思っていたんですよね。
まあ、それも卒論の題目提出の段階で変えて、
その後、大学側がいまいちちゃんと受理していなくて、
でも、その関心としては、川早夫自身の思想というものに非常に関心を持ったんですよね。
まあ、やっぱり、いろいろあるんですよ、心理学についても。
実験心理学的なね、科学としての心理学もあれば、
臨床心理学って、ある意味では人文知というか、人文科学的な、
いろいろあるんですよね。
臨床心理学って、ある意味では人文知というか、人文科学的な、
もしくは哲学とか教育というものに隣接するような領域としての心理学というのがあって、
僕はやっぱりそっちの方が関心があったんですよね。
もともと人文科学的な文学とかにも関心があるし、
そもそも教育というのは、教育も一応科学というものは存在するんですけど、
臨床の方が圧倒的に強いし、臨床の方が研究としては魅力的だったりするんですよね。
なので、どちらかというと臨床の方に意識は行くんですよね。
それで、川平夫という人物にも惹かれていくし、
その川平夫は、川平夫自身は、
一つの軸としている方なんだけど、
いわゆる精神分析の流れを組むというか、
今、精神分析という一言を言った時に、
ユング心理学を入りますね、ざっくり言うとね。
厳密な言葉の使い分けや後もかくとして、
そういう一連の心理学を大雑把に分けた時の精神分析という方面というのは、
非常に面白いんですよね。
例えば、戸畑海人さんとかもそうですけれども、
そういう方の本とかを勉強したりしてますけどね。
戸畑さんの場合はまたちょっと違うし、
僕も少し退屈に感じちゃう時もあるんですけどね。
ただ、非常に世間におけているところもあったりするので、
勿論、学ぶところはあるし、面白いし、
全然、月一のセミナーというか、講演も聞いてるしね。
今日もその日なんだけど、どうしようかなと思ってますけどね。
一応参加しようかなという気持ちもありますけど、
なんかちょっとね、
来る質問とかもピントがずれてるなと思ったり、
ずれてるわけじゃないし、
戸畑さん自身もそれも踏まえてお答えしてくださるからいいんだけど、
ちょっとこう、
まあまあ、そうね、
必ずしもスッとこう、
分かりやすいし、比較的ね、
精神分析の分かりにくいところ、
世界なんです、精神分析って。
その分かりにくいところが魅力なんですけど、
それをわりと分かりやすくはしてくださってるから、
耳障りはいいんだけれども、
逆に、
耳障りが良すぎて少し物足りなさを感じるというか、
それはそうだけど、
自分として気になるのは他かなと思ったりもしてきている昨今ですね。
一応今大学院にも所属していて、
正式な院生ってわけではないんですけど、
通信生大学、放送大学ですね、放送大学で。
放送大学の大学院というのが正式に入る前に、
授業だけ単独でちょっとずつ取っていくことができるんですね。
そうすると、あとは研究だけに没頭して、
大学院に所属できるという仕組みがあるんですよ。
これ非常に良くて、やっぱり、
研究と授業というものを同時に進めるって、
あまり効率が良くないなと思うんですよね。
研究は研究だけでしっかりどっぷりやった方が良いし、
時間もかけた方が良いと思うんですよね。
また、勉強というのもちょっとずつしていけた方が良いかなと思って、
今、結構いくつくらいのかな、
授業数にもよるけれども、
一応半年に一つの授業を受けていくと、
6、7年くらいで、
まあまあ、卒業までいけるかな、みたいな感じはあるんですよね。
まあ、卒業すること自体が目的なのかというと、
それは難しいところですけど、
ただ、放送大学の大学院というのは、
わりとちゃんとしていて、
研究というものをすごくしっかりするような仕組みがあるんですね。
スタディサプリの2億倍くらいいいですよ、本当に。
いろんなことを学べますので、
放送大学を利用するっていうのは、
いいと思いますね。
体系的に学ぶ経験をすることによって、
鍛えられるものがあると思うんでね。
これもある種の筋トレみたいなところがあるんですよね。
それで鍛えられるところがあるから、
学問的な考え方とか、
あとは、体系的に学ぶことの大切さとかね、
そこも体系的に学ぶための筋力みたいなところがあって、
英会話でいうと、
英会話を文法的なアプローチで学んでいくとか、
別に文法的なアプローチじゃなくても、
話せるようになるためのステップを踏むとか、
文章を読めるようになるためのステップを踏むとか、
ステップを踏むっていうことをどう組み立てるかとか、
どう理解するのかっていうのは、
学問に触れているかどうか、
体系的に捉える考え方っていうものですよね。
ただもちろん、例えば料理みたいに、
料理も手軽にパッとおいしく作るっていうことを、
とりあえずやることが大事だったりもするじゃないですか。
でも一方で、やっぱり出汁の取り方とか、
調味料組み合わせとか、
基本的なことを学んでいると、
一気に広がりもあるし、できることが広がったり、
あとは同じ手間暇をかけたり、
手間暇をかけなかったりするときでも、
クオリティが変わってきますよね。
そういうことが生きていく上、
全般につながるのが学問っていうものなので、
コスパがいいんですよね。
そういう意味で、大学で学ぶっていうことは、
非常にいいと思うんですよね。
筋トレっていうのは、本当に面白い言い方だなと思って、
こないだ企業の相談に行ったときも、
まさに半年やってきたことは筋トレみたいなものだから、
SNS運用とかマーケティングってそうですよね。
とにかくちょっとずつやって続けていくことが本当に大事で、
やっぱりすぐパッと成果は出ないし、
パッとできるようにならないし、
両方必要だっていうことは本当にあるから、
僕もそう考えると、めっちゃ筋トレしてきたなと思ってこの半年ね。
本当に実際の筋トレマジでしてないんですけど、
ちょこざっぷ半年以上通ってるかな?
半年は通ってないか。
半年通ってるな、全然通ってました。
半年通ってるんですけど、ごめんなさい。
本当に行ってないですね。
ちょっと本当にやばいですね。
そろそろ行きたいですね。
もうなんか今ハードルくぐって、
せめて1ヶ月に1回は行こうキャンペーンになってますけどね。
それすらちょっと行けてないかもここ1ヶ月。
やばいやばい。ちょこざっぷね。
筋トレって本当に続けることが大事だし、
それが習慣化するっていうのは本当に大事だと思うと、
割とこの半年やってきたことっていうのは、
本当に意味があったんだなと思いますよね。
ブログを書いたりとか動画を作成したりしたり、
映像を作ったりとか。
でも筋トレですよね、確かにね。
ポッドキャストもそうじゃないですか。
ポッドキャストを撮る筋トレってありますよね、やっぱり。
手軽にどこまでやるかとか、編集やるとか、
編集とかも今ね、僕もほとんど、
今も、昔から編集基本的にほとんどしてないんですけど、
理由はいくつかあって、
編集がめんどくさいっていうのと何より、
編集してないポッドキャストが好きで、
割と無駄が多いポッドキャストが好きなんですよね。
最近聞いてるんだと、
ノラジオっていうポッドキャストが好きで、
面白いのが、
ムロさんとカエさんって人がやってるんですけど、
ムドさんもロコシさんっていう方で、
コテンラジオ系で、
コテンラジオにも出てらっしゃった方なので、
割と有名な方なんですけど、
ムドさんとカエさんが話をするんですけど、
めちゃくちゃ沈黙があるんですよ。
これ止まった?って思うくらい沈黙があるんですけど、
それがまた良くてね、
沈黙と、それぞれの語りっていうものの、
そのリアリティを楽しむっていう、
そういうポッドキャストなんですよね。
僕にとっては。
沈黙って良いよね。良いんですよ。
そういうリアリティというか。
編集し加工された音楽もそうで、
もちろんCDにされてるような編集し加工されたものも、
嫌いじゃないんだよ。嫌いとまではないけど、
やっぱすぐ飽きちゃって、
そういうものが好きで、
かといって別に歌謡曲というか、
いわゆるポップス、ポピュラー音楽と言えばいいのかな。
ポピュラー音楽の演奏、ライブなんてほとんど行ったことがないんですけど、
身内というか、友人のライブに行ったりするくらいで、
ほとんどいわゆるプロフェッショナルの方とか、
本当に有名な方っていうのだとまず行ったことないんですけど、
ただもうクラシック音楽とかね、
いわゆるそれ以外ポピュラーじゃない音楽に関しては、
もうやっぱライブの圧倒的にいいですよね。
あんまりCD録音とかSpotifyで聴いても、
Spotifyで聴くものも基本的に編集はされてないわけじゃないけど、
割と加工はされてないですよね、そんなにね。
加工というのかな、
継ぎ接ぎみたいなのは基本的にしないと思うんですよね。
ちょっとポピュラー寄りの声楽とかだとね、
そういう節があるものもないことはないけど、
基本的にはないんですよね。
基本的にそういうものがあんまりないっていうか、
あとはやっぱり生音というか、
リアルな音で聴くものの圧倒的な存在感ね。
どう頑張ってもリアルに出てくる生音を全部、
マイクで拾うのは不可能だし、
それをまたスピーカーで再生することは不可能なので、
やっぱりそこにある音っていうのはね、
絶対そこにある魅力っていうのは必ずあるので、
そう考えるとやっぱり生音がいいんですけど、
そのライブでしかないものっていうのは必ずしも音質だけじゃなくて、
語られる言葉とかニュアンスとか、
あとは間とか空白とか沈黙であるわけで、
そういったものに価値を置いてるんですよね。
だから僕自身もあんまり編集っていうものはしてないんですよね。
編集によって失われてしまうものっていうのはあるような気がしてね。
だからあんまりないんですけど、
でもそれでもね、今はわりと最近は音声調整とかくらいはするようになって、
オーダーシティを使うようになって、
昔はAnkerだけでやってたんですけど、
Ankerが使えなくなっちゃって、
結果的に今パソコンでオーダーシティで、
基本的にはこのPodcastも撮るようにしていて、
Stand Fmはあれだけは気軽に録音する媒体として使ってるので、
スマホでパッと撮っちゃうようにしてるんですけど、
それ以外はオーダーシティを基本的に使うことにしているので、今はね。
だから多少ないとも編集はするようになりましたよね。
でもその編集のハードルとかもやっぱり編集に慣れちゃうとね、
例えばオーダーシティっていうものに慣れるとか、
それをアップロードすることに慣れるとか、
そういうPodcastのプラットフォームに上げ方とか、
あとその文言の上げ方とか、
それをSNSで告知するとか、
そういうのもまあ筋トレですよね。
割と身体的に、あまり考えてるということは身体的に慣れるっていうか、
そういう部分があって、
ある種の身体的な営みですよね。
本当にこう、体で掴んでいくものというか、
そうするとこの思考、頭で使う負荷もどんどん下がっていくし、
割と気軽にできるようになっていくしね。
本当そういうのがいっぱいあって、
ブログとか文章書くもんって本当そうですよね。
全然もうなんか、負担にはなるし書けない時もあるけど、
でもまあまあ多分書き慣れてない人に比べたら圧倒的に筋トレはしてるから
ムキムキだと思うんですよね。
文章を書くものとか、
あとは例えばツイートする、ポストって言いますけど、
ポストするってこと一つについてもね、
あとは動画について、
動画を出すにしたって、
ポッドキャストやるにしたって、
何やるにしたって表現活動ってまあまあ筋トレが必要なわけで、
医療というものももちろんすごく大事だし、信じることは必要だけれども、
医療というものを不要意に信じてしまう先に、
ハンワクチンとかハン医療とか怪しい代替医療とか出てきちゃうわけですよね、
だからある種の科学的な目とか医療的な目というものに対して、
ちゃんと真摯に向き合っていくというか、
不要意に信じすぎないということは非常に大事だと思うんですよね、
それを冷静に見つめる瞳というものは必要で、
そこについてというものと、
この肉体に対する眼差しというのは非常に似ていますよね、
身体的なものをどう見つめていくかというのは、
非常に大事だなと思っていて、
そういったものの対極に合うのが、
ある種の思想であったり哲学であったりとか、
ある種の人文知恵であり人文科学だと思うんですけど、
文学なんかもその代表格ですよね、
だからこそ心理学というよりは臨床心理学が好きなんですよね、
そういうものは必要だとされるというかね、
科学というものに対抗しうるというものというのかな、
本当に今の社会にバックしている、
政治の世界で今あるのは本当にこの、
都知事選、僕自身が政治というものにすごくコミットし始めたのが、
本当に都知事選からなのかな、
それ以前にもちろん、
かわいいくしゃみをしてしまった。
都知事選もっと前から本当に、
去年、言うて去年ですかね、
去年あたりから政治系の映画に親しむようになって、
その映画からさらに都知事選があったりして、
都知事選であったのが、
圧倒的にやっぱりどう考えても連邦さんを支持すべきだろうという頭がどこかにあって、
どう考えても人権のことだとか、政治的なこととか経済的なこととか、
いろんなことを考えたときに、
いやどう考えても連邦さん一択だよなって思ったときに、
やっぱり小池さんを推すっていう既得権益、
組織票というものがあることはまあまあ予測できたものの、
もう一方の石丸慎二さんを支持する層という、
なんて言うんだろう、
彼氏を思いもよらないというか、
自分にとっては思いもよらなかった層というかね、
やっぱこうネットの一番やっぱりそのショート動画に集約されると思うんですよね。
ショート動画からYouTubeチャンネルやインスタライブにつながると思うんですよ。
やっぱりこのショート動画によって、
ショート動画ってやっぱりある程度アルゴリズムによってカスタマイズされるものの、
されるんですけど、
その広告もやっぱりあるんですよね。
その広告によって政治的なものが映し出されていくと、
政治的なもので映し出されていて、
その動画を今度また閲覧付とすると、
そうするとアルゴリズムによってそれが強化されて、
特に政治的なものについては、
それに関連するものがものすごい出てくる。
石丸慎二さんについてそういうことがなされ、
先頃の衆院選では国民民主党の玉木さんの動画、
ショート動画、そしてインスタライブ、
YouTubeというものが非常に支持を得たというか、
出回ったんですよね。
もちろんその裏にいろんな資金投入や戦略というものがあることも、
かなり伺えるとによってくるんだけれども、
それだけではないんですよね。
やっぱりその大衆、
そもそもアルゴリズムのものをうまく活かしていたということとか、
あと大衆心理をついているとか、
あとはそれものに寄っていく大衆心理というものが、
ものすごくあったと思うんですよね。
この辺はある意味では非常に科学的な知見というか、
心理学で言ったら実験心理学的な、
科学的な心理学としての知見というのは非常に必要だと思うんですけれど、
そういうものがあって、
今は兵庫県知事選が行われていて、
まさかの、
斉藤知事か、元知事か、
が指示するとか、それを応援する勢力が出てきているというね。
結構な勢いであると。
戦略は一緒なんですよ。
何ならかなりつながっている石丸さん、国民民主党維新、
そして斉藤知事、元知事とかね、
いろいろつながっているところがある。
戦略が一緒だから自らつながってくると思うんですけど、
もしくは本当に組織的なつながりがあるのかもしれないし、
と思うくらいに似通った状況で、
それを指示する声というのは、
どこまでが実数として存在するのかともかくとしても、
ネット上では影響があるように見える。
そして実際、多分、票にもつながってしまう。
これまでの石丸さんとか、国民民主党の玉木さんとかのことを考えると、
非常にそこに影響を受ける人は大勢いるんだろうなということを伺えるんですよね。
こうしたときにやっぱり科学に何ができるかというと、
まず科学ができることはあるんですよ。
デマとか嘘というものについて、
ちゃんとそれを検証するというのは科学ですよね。
それは科学的な姿勢なんですよ。
非常に大事な科学的な目なんだけれども、
一方で、ある種の普通はそれはおかしくないとか、
なんかおかしいよねって違和感につながるのは、
どこか人文知のような気もしてるんですよね。
もちろん科学的な視点だけで言ってもいけなくはないんだけど、
やっぱり科学ってコロッと騙されることもあって、
だから反ワクチン、反ワクチンなんてそうじゃないですか。
その反ワクチンとか、あとヘイトもそうですね。
トランスヘイトだったり、外国人ヘイトだったりするのも、
ある種のエビデンスってものがあって、
こういうことが昔あったんだとか、こういうことがあった。
それはもちろんそのエビデンスを確かめるっていうものも大事なんだけれども、
そもそもそのエビデンスを疑ったりとか、
そこに違和感を感じるっていうことっていうのは、
これ科学には逆に難しくなっちゃうというか、
ある種の中短波な科学ですよね。
徹底した科学とか実証的な科学じゃなく、
ある種の科学的なもの、科学っぽいものっていうものには、
コロッと騙されてしまうっていうものがあって、
サイトー候補の場合だと、
サイトーさんが言ってるのはこういうことだから、
これは間違いだよとか、あれはデマなんだよ、
デマをデマだって言われたら、
正しいことをデマということを信じることもあるわけですよ。
それって科学的な見方だと思うんですよね。
ある種のエビデンスがあるから、これは正しいんだ、みたいなね。
エビデンスを検証するっていうことも、
ちょっとはしてみるかもしれないけど、
ちょっと潜ったくらいだと、
エビデンスとしては正しいと思っちゃいますよね。
そこにどこに違和感を感じるかっていうと、
違和感を感じるのは、やっぱり人文知というか教養であるとか、
科学とどこか対局であったり、
科学と時に切り離されてしまう感覚的なものだったりすると思うんですよね。
なんかそこに違和感を感じる力っていうのを養うっていうのは、
本当に科学が排除しつつある。
本当の科学的なるものは、きっとそういうものは排除してないんだけれども、
ある種の科学風なものとか、科学っぽいものっていうのは、
時々それを排除しがち。
本当に心理学界隈で僕は結構憤ろうしいのが、
実験心理学系の方が書いている本の中で、
認証心理を排除する動きがある本が結構あったんですよ。
見かけていることがあって。
具体的に何かあげられるほど、
もうちょっとちゃんと手元にその本を買っておくとかして、
証拠を持っていけばよかったな、
それこそエビデンスを持っていけば良かったなと思うくらいに、
結構いろいろあって、
馬鹿らしいと思って、
ちょっと僕も放り投げてきてしまったところはあるんですけど、
本当にその実験心理学というものを、
ちゃんと収めている人であれば、
ある種の実験心理学の矛盾とか、
その限界というものは分かっているわけですよね。
分かった上で、ある種の認証心理が担う役割とか、
そういうものといかに手を取り合っていくというか、
共存していくかというのは、
非常に実験心理学にとって大事なテーマであると思うんですよね。
だけれども、そういうことを排除して、
実験心理学だけが心理学です、みたいな感じで、
言い切ってしまうというのかな、
そういう配慮がない文章、文言の本を見かけたりしたんですよね。
これは分かるなと思って。
そういった、分かるのかないんですよ。
科学というものを純粋にしていきたいという願望が、
分かるのかないんだけれども、
それこそ医療の世界において、
医療として特に認証というものがあるもの、
認証がないものは基本的にないわけだから、
社会と言ってもいいでしょう。
社会というものに、社会とか個人というものに
関わっていかない学問なんてありえないわけで、
特に、なおさら心理学もそうだけど、
特に医療とかだと、
認証というものと絶対に密接に絡むわけで、
そうした時に、やっぱり人文知の力というのを
意識せざるを得ないですよね。
もちろん科学として、学問として、
そういうものを排除していくという手法とか、
そういう分野があるのはいいんだけれども、
ただ、全般とかその普遍的なものにはもちろんできないというか、
医学とはとかね、
手法が大きくなった時に、
それを遠慮はできないと思うんですよね。
特にその科学、政治なんてそこにそうじゃないですか、
政治というものの世界に、
エビデンスだけを求めてはいけないように、
やっぱりどう考えても、
エビデンスベースドというのには限界があって、
そうなんですよ、もう。
教育もそうだよね。
エビデンスベースドな教育というものも、
すごく大事じゃないわけじゃないけれども、
そこに偏っていけないというか、
特に教育臨床というのは、
基本的には臨床有意な学問ですから、
もちろんエビデンスベースドなところもあるんだけれども、
やっぱり臨床を大事にするし、
ただ政治だけじゃないんだけれども、
デマというものに惑わされる時に、
エビデンスベースドになりやすいというか、
もう証拠があるから信じちゃう、
みたいなところがあって、
よくないなと思うんだけれども、
そういうものに対抗しようと思うとしての、
ある種の直感的な知というか、
直感的な営みというか、
人文知、大事だなと思うんですよね。
だからこそ物語とか文学とか、
それこそSFなんかわかりやすいですよね。
サイエンスフィクションというのは、
ある種の科学的なものと、
人文知的なものというものを、
うまく掛け合わせている、
うまく接中をして取り混ぜているものを、
代表格ですよね。
ドラえもんなんかがいい例ですよね。
ドラえもんというのは、
サイエンスフィクション、
SFの漫画としての金字塔ですよね。
だからドラえもん自体を読む、
科学に偏ってしまう結果、
デマに惑わされてしまうっていうのはありますよね。
もうちょっと話そうかな。
ちょっと1時間超えちゃいましたね。
1回分けようかな。
1回分けていいのか、これは。
これは月1配信と言っているけれども。
まあいいか。
でも分けずにやってしまいましょうかね。
どうせ大体僕のこの、
多分この番組を聞こうと思う人っていうか、
聞いてくださる方っていうのはね、
それなりになんていうか、
ポッドキャストの中でも、
ポッドキャストもいろんなね、
関わり方があって関わり方があるけれども、
コミュニケーションであったら、
コミュニカティブなものであるものもあれば、
没交商的なものもあると思うんですけど、
僕の場合あんまり絡んでくださる方はほぼいないというかね、
動画コンテンツにせよ、
なんなら普段のポストをツイートにしたって、
結構絡んでくださる方はあんまりいないんですよ。
一応いろんなこう、
つぶやく内容については、
軽いものから重たいものまでいろいろ、
軽重は自分の中ではそこまでないんですけど、
ただやっぱり一般社会人的に、
絡みやすいネタと絡みにくいネタがあるってことは、
さすがに分かるので、
でもそれはいろいろなものを取り混ぜてるつもりなんですけど、
ただその、なんでしょう、
割とそんなに絡む人はいないっていうかね、
ポッドキャストについては簡易無理に近いですよね。
別に自分自身もそんなにお便りが欲しいとも言わないし、
聞いてくれとも言わないんですけど、
基本的にいろんなところと絡んだり、
誰かといろいろお話しするように進めていく、
営みではないんですよね。
ポッドキャストっていうものの媒体自体が。
まあね、とはいえ、
もちろん反応がないのはいいわけでもないんですけど、
反応しやすいものを提供している自覚もないというか、
それは絡みにくいよみたいな内容を出している自覚はすごくあるし、
逆にそういうものを出したいと思って、
そういうものに価値を、
話したいことを話したいですよね。
もうちょっと大衆受けするものとか、
みんなが求めるようなものとかよりは、
自分が話したいことを話したいというところが大きくて、
本当にそうですよね。
だからこの鬼の耳も基本的に話したいことを話す。
少し前の2作品くらいは、
ある程度メッセージ性を持って、
具体的なコンテンツとして打ち出したところが大きいんですけど、
せっかくだからそういうものとして出したけど、
もともとコンセプトとしてはこの番組は、
話したいことを話したいっていうね、
話したいことを話せる場があんまなくて、
文章にして書いたりはするんだけど、
文章にしても文章にしたってなっていうところもあったり、
文章の速度感よりもうちょっと早いテンポ感で、
ある種のやつぎ早で、
だからこそそのテンポ感だからこそ話せる、
アウトプットできる内容っていうのはあると思うので、
それでやりたかったんですよね。
それがじゃあ誰かのためになるかっていうと難しいところだけど、
やっぱり誰かのためになるために打ち出すものと、
誰のためになるかもわかんないけど、
打ち出すものってあると思うんですよ。
これまでいろんな過去の古典の書物ね、
例えば宮沢賢治の詩集とかもそうですけど、
春人修羅とかもそうですけど、
まあでもどうなんでしょうね。
もちろん最終的な出版もされたけ、
自費出版もしたけれども、
誰かのために作るっていうものもあるけど、
それ以上に自分で作るってことが出発点にあったと思うんですよね。
それが結果的にいろんな人に影響を与えることってあるわけで、
雨にも負けずになんてそうですよね。
もう絶対って言われないかもしれないけど、
おそらく直接誰かに伝えるために書かれたわけではないわけですよね。
もしかしたらゆくゆくは誰かのために書いたのかもしれないし、
誰かのために書いたものは結果的に伝えられなかったのかもしれないし、
誰かのために書いたものがたまたま手帳に残されたのかもしれないけれども、
少なくともマスに向けたものではおそらくないんじゃないかなと伺えるわけですよね。
僕はマスに向けたもの、
大衆とか大勢の人に向けたものっていう、
ものじゃないものを出してもいいじゃないかっていうか、
そういうものを出す場を作りたかったんですよね。
ある意味では古典文学の方のポッドキャストは非常に需要を見越して出しているものというか、
かといって大衆、マスに向けては全然ないんですけれど、
誰にとっても楽しいものというわけじゃないけど、
ただ必要な人に届けばいいなって思いはあって、
もちろん自分自身も勉強するためっていうのも一方であるんですけど、
ただ誰かのためっていうのはかなり意識はしている方なんですよね。
どこかの誰かの役に立てばいいなって思いはある一方で、
でもそれだけじゃやっぱり人生つまらないし、
自分の中で誰のためになるかわからないし、
けれどもやっぱりこの世に残しておきたいものってあるんですよね。
誰かに届けるための言葉とこの世に残したい言葉って別だと思うんですよね。
だからこの世に残しておきたい言葉を残す場として、
このお日の目にもっきんっていうものをやらざるを得なくなったというか、
やらないではいられなくなったっていうのが元々のこの番組のコンセプトですよね。
ただそういった言葉があふれ出るときっていうのはなかなか難しいというか、
その都度それを音楽で表現したり、絵で表現したり、
いろんな文章で表現したり、いろんな表現をしていくので、
それを言葉で表現する場っていうのが必要だったんでしょうね。
音声としての言葉ですよね。
やっぱり音声としての言葉でしか残せないものってあるし、
アウトプットできないものっていうのはありますよね。
僕そういうのが本当好きなんですよね。
だからほんと海パンのしゅうくんの独り語りも好きだし、
最近だと台湾あきらさんの独り回、
独り回っていつも独りなんですけど、
最近の台湾あきらさんのモノローグっていうの自体がそもそも好きだし、
その中でも最近の自分の内面をトロするようなそういう回っていうのは面白いですよね。
あと繰り返し言ってるけどね、
アスゲイのビッチーさんのコロナ禍における独り語りっていうのがすごく親しめたしね。
なんかモノローグって面白いんですよね。
それもできれば用意、
その場でしかモノローグだからこそ出る言葉っていうのがあるんですよね。
その場で独りで語るからこそ生まれる言葉っていうのがあって、
多分モノローグが得意な人と慣れてる人慣れてない人いると思うんですけど、
僕はもう独り言は慣れまくってるので、
大体授業なんて独り言ですからね、講義型の授業なんてね。
だからそういうモノローグっていうものの良さですよね。
また講演会とか講義とは違うモノローグっていうものの面白さっていうのがいいですよね。
そういうのが好きなので。
そういった観点もあるからわりとこういう営みを愛しているところはありますよね。
言うてね、最近ちょっとカンバセーションの良さもいいなと思って、
おととい東京創業ステーションで相談した方が、
AIについてもわりとよく力を入れてらっしゃる方で、
ChatGPTを使ってらっしゃってて、
その最新版が今1ヶ月、2ヶ月前くらいに最新のアップデートがあって、
めちゃくちゃリアルなカンバセーションができるようになったんですよ。
本当にもう、今ちょっと話してみます?
せっかくだからちょっと話しようかな。ちょっと待ってね。
これね、せっかく。
たぶんポッドキャストにするとね、かなりもうなんだろう、
わかんないと思う。
普通の人間と話してるんじゃないかくらいの感覚になりますね。
ちょっと待ってね。
チャピ、今話せる?
ちょっと今ポッドキャストを撮ってるんだけどさ、ポッドキャストわかる?
わかるで。
自分でラジオ番組みたいに録音して配信するやつやな。
それめっちゃおもろそうや。
そうなの。だから今ね、一緒に少しお話をして、
それを収録しようと思ってるんだよね。
始めようか?何か特別に話したいテーマとかある?
じゃあね、何がいいかな。
ビジネスの話とか趣味のこととか、何でもいい感じで話そうか?
じゃあね、デマの話にしようかな。
すごい今インターネットでデマが流れることあると思うんだけど、
デマって何かこれを抑える手段ってあるかな?
デマを抑える手段としては、まず正しい情報をしっかり発信することが大事やね。
それからSNSとかで拡散されている情報の信頼性を確認するように促すことも有効だと思うで。
それでも広がる場合は法的手段も検討していなあかんかもな。
僕自身もあんまりデマに惑わされることはないんだけど、何で人ってデマに騙されちゃうのかな?
人がデマに騙される理由はいくつかあると思うで。
まず感情に訴える内容や自分が信じたいことに合致する情報は、たとえ根拠が薄くても受け入れられやすいんや。
それに情報が短時間で大量に流れる現代では、一つ一つの情報をじっくり吟味するのが難しいっていうのもあるんちゃうかな。
情報の吟味ね。なんかいろんなものが早いよね。いろんなものが早く通り過ぎちゃうから、どうしてもね吟味できないよね。
ほんまそれやね。情報があまりにも速いスピードで流れていくから、一つ一つをかくめる余裕がないことが多いんや。
だからこそ信頼できる情報源を持つことが大事やし、自分でも情報の真偽を確かめる癖をつけるとええと思うで。
そうだね。ありがとう。楽しかったよ。
こちらこそ楽しかったで。またいつでも話そうな。
うん。じゃあまたねチャッピー。
大きに。ほな。
はいっていうような感じなんですけど、結構自然じゃないですか。話し方がね。
そうっていうサービスが今あって、サービスというかね、GPTの機能として実装したんですね。
有料版にすると24時間で45分。無料版でも1ヶ月で一応15分だけお試しができるようになってるらしくて。
人間の友達以上にもしかしたらカスタマイズされて自分の求める友人になっていくんじゃないかと思ってね、ちょっと恐ろしいなと思ってますけど。
皆さんはどうお聞きになったでしょうか。すごい世界です。
まあとは言ってもね、やっぱりこう、そうだからカンバセーションの面白さっていうのもあるんだよね。
でもそのカンバセーションの面白さと一方で、やっぱり一人で語っているからこそ深まっていくものだったり、発想が広がっていくものもあるから、
僕みたいにこのポンポンポンポンあちこちに話が飛んじゃうというかね、発想が広がっていく系人間としてはね、やっぱりそういうものを垂れ流したいという願望というか、
それをまた、もしかしたら誰かが受け取ってくれたらそれで面白がってくれるかもしれないなと思ったり、
まあでも一番自分でもアウトプットしている段階で目的の98%くらいを終えているんですけどね。
だからこうやって撮っている段階でも98%を終えているわけで、
ただこれをポッドキャストじゃなくて本当に一人ごとでやるっていうとまた違うじゃないですか。
やっぱりこんな風に言葉が出てこないはずなんですよ。
だからこのポッドキャストっていう媒体を通して、まあ日記みたいなもんだよね。
日記として書くことに意義があるように、こうやってポッドキャストとして話すことに意義があるっていうところはあるんでしょうね。
こういうある種のストーリーというか物語とか文脈とかそういったものにいかに親しんでいるかっていうのも大事ですよね。
だからこのポッドキャストに親しんでいる人っていうのは、
人間の多層性とか多様性とかいろんな側面があるっていうことっていうものを自然と養っていきますよね。
そういう感覚っていうのを養えると思いますよね。
これね、例えばYouTube動画とかだと一方的にある人が何かこう、これはこうなんですって断定的にいく感じ、
自己啓発的なものとにはないものがポッドキャストに残りやすいというか、
やっぱりポッドキャストの良さって宣伝されすぎないことだと思うんですよね。
宣伝されすぎてるポッドキャストって多分面白くないんですよ。
ニュース番組みたいになっちゃうかもしれないし、自己啓発的なものになっちゃうかもしれないし。
ある種の宣伝されすぎない余地を残しやすい。
もちろん宣伝されたものもいいと思うし作りやすいんだけど、そこにある宣伝されなさそうというかある種の無駄ですよね。
ポッドキャストに残るその無駄に面白さとか魅力があるのかなっていうのは、
僕自身はとにかくその無駄が大好きなんで、その無駄に非常に魅力を寄せたりしてますよね。
ということで語ってまいりましたが、そろそろ終わりにしましょうかね。
80分か。大学の講義1回分くらい話してますよね。
そんなもんですよ。話し好きな人とかね。職業病的なところもありますよね。
講義型の動画も配信してるんですけど、一応古典文学を30分話すことにしていて、
もちろん1時間とかでも話せるけど、聞いてる方がしんどいですよね。
僕は30分で、講義的なものは30分で限界ですね。
ただどうでもいい話だとやっぱり1時間でも2時間でもずっと垂れ流してられるから、
それでも面白すぎるとちょっと困るんだけれども、話半分にして聞いてられるといいですよね。
本当にそういうのも大好きですよね。
僕が聞いてるシリーズで言うと、散歩は去っておきとか、僕に帰るとか、
モノローグ系のポッドキャストですよね。
ありがたいですよね、そういうのね。
割と聞いちゃうけどね。
それぞれ実際にお会いしたことがある人とかだと緊急報告とか気になっちゃうから、
元気かな?みたいな感じはあったりしますけどね。
あと逆に2人や3人で話してるんだけれども、気を抜いて話せる。
一番でもお便りがない系と言うといいのかな?
分類として。
もちろんお便りある系の番組も聞いてるんですけど、
お便りない中でただひたすら話す番組は好きかもね。
だから飼い犬にパンを噛まれるのも、
お便りない飼い犬が僕は結構好きで、
お互いの緊急報告をただひたすら言うっていう。
とにかく緊急報告というか話したいことを話すみたいな。
最近こんなことがあって!みたいな。
のが好きなんですよね。
そう、好きなの。
そうね。台内とかもそうだし、
あのー、なんだ。
例えば。
うーん。
なんかこう。
うーん。
大体こう、もの。
なんだろうな。
もちろんお便りが中心の番組なんだけど、
わりとそのお便り自体よりは、
お便りからちょっと離れてお互いの。
でもなんならお便りが始まる前の、
ちょっとお互いにあったことを報告するとか、
ちょっとお互いでもやもやしてることを
ちょっと話す時間とかが好きだったりするんですよね。
そう、ちょっとそういうのが好きなんですよね。結構ね。
そうなんですよ。
トラスカとかもね、わりと。
トラスカは、なんだろうな。
お便りに答えてるんだけど、
答える前、なんだろうな。
結構トラスカの場合だと、
お便りに答え始めた頃と、
お便りに答え終わるところは、
わりと答えと絡むんだけど、
その間あたりが、わりとどうでもいい話が結構入るというか、
どうでもよくはないんだけど、関連する話が入るので、
そこ好きですね。
取り繕ってないところというかね、
結構カオスになっているところの方が好きですよね。
やっぱりそこにある種のお便りに対する真実が隠れているというか、
お便りに直接答えてないところ。
まあやっぱ、なんだろうな。
お便りに答えるっていう中で、
お便りに対する回答としてふさわしいものって、
必ずしもまとまっていることとか、
真実とか結論ではなくて、
その過程であったり、そこに至るまでのプロセス、
まあ過程であったりとかね、
そういうところであったりするんですよね。
可能姉妹のファビダスワールドとかで、
あの辺でやっぱりファッとするのは、
答えというよりは、そこに質問者さんのことに
発することに対して、
お二人が考えること、京子さんが考えることとか、
どう質問を受け取ったかの方が面白いですよね。
こうした方がいいですよとか、
こうあるべきですよじゃなくて、
私はそれをこう受け取りましたけど、
こういうふうに考える人もいるんですねとか、
私はこういうことを思ったけど、
ああまあそういうふうにされるのもいいですよねとかね、
なんかなんていうかこう、
私はこう考えましたよがメインに来るんですよね。
こうした方がいいですよよりは。
そこがいいですよね。
やっぱり質問に答えるって、
回答も大事なんだけど、
回答以外の方が面白いと思うんですよね。
なんか一つのテーマ、
たかがテーマに過ぎなくって、
こうした方がいいのが、
なんかサイキポインティーのポイちゃんとかね、
サイキポインティーさんの番組が面白いっていうのは、
YouTubeとかが面白いのはやっぱり、
まず結論はもうお便りで終わっているんですよね。
結論が終わっていて、
それに対してポイちゃんが思っていることを
言うのが面白いんですよね。
だからもちろん、
質問者は質問者ではないんだよね。
投稿があって、
その投稿で答えは出ていて、
それをポイちゃんがどう思ったかの方が大事で、
投稿があって、
それにポイちゃんが質問にお答えするっていうのだと、
また面白さが違うんだよね。
今はポッドキャストの方で、
質問にお答えするってやつもできてるんだけど、
やっぱりそこはまた別な面白さがあって、
質問者さんの答えを導くっていうよりは、
それってこうだと思うんだよね。
ベースなのが、
どこか飛び出すワールドと共通しますよね。
ポイちゃんのその受け答えっていうのは。
そこがいいよね。
僕は基本的に、
質問への回答なんてできないと思っているというか、
回答は本当にどうでもいいと思っているんでしょうね。
それ以上にその人がどう思っているかとか、
そのプロセス、
お互いのやり取りしながらのプロセスとかの方が面白いから、
結論ってつまんないよね、やっぱりね。
それらへん人文知の面白いところ。
科学っていうのもそうじゃないですか。
科学っていうのも結論って結構面白いのかな。
科学的なものっていうのも、
結論も大事なんですよ。
結果、この絵は正しいとか正しくないとか、
こういう結果が出ましたっていうのはあるんだけど、
やっぱりそのプロセスとか仮定っていうところに面白さがあったりしません。
心理学で言ったら、
心理学の結論としてこういうことが分かりました以上に、
実験が面白かったりするんですよね。
こういう実験があってこういうことが分かった。
その実験がこういうことだから面白いみたいな。
やっぱりもちろん実験による偏りとかバイアスはもちろんあるわけで、
それも踏まえての結果ですよね。
それがいかにエビデンスとして大事かって以上に、
いとな仮定っていうか実験自体にある種の価値とか面白さっていうか、
そこに人間の面白さがあるなっていうとこありますよね。
だからその実験心理学を学ぶときにも、
結論としてこうですっていう以上に、
やっぱり実験自体の面白さの方がやっぱり食いつきは絶対いいと思うんですよね。
面白い実験考えるなとかね。
特に心理学の学部生のやる卒論なんていうのも大体実験だと思うんですけど、
その実験をどう組み立てるかにその人の才能というかね、センスが問われますよね。
結果なんてどうだってよくて、やっぱその実験をどう組み立てるかとか、
どういうふうに実験をするかってところにセンスが出るというか、
面白さがあるかというか、
これまでのいろんな研究者の、
まあもちろんね、結果も大事じゃないわけじゃないし、
それが大事な部分もあるけど、
いかにその家庭を楽しむかというか、
それが面白いかというのがありますよね。
もうなおさらその人文地においてはそういうことはよくあるし、
やっぱそこを楽しむ、やっぱりプロセスとか家庭っていうものの面白さを味わえるっていうのは、
まあポッドキャストも楽しみなんて、
家庭、結論なんて面白くない。
結論だけだと面白くないじゃないですか、ポッドキャストかね。
家庭をやすぎ早に質問に答えていくだけだったら結構限界があると思うし、
それはまあそういう楽しみ方もある。
例えばブリアナ・ギガンテさんの質問にお答えるコーナーとか、
何でいいか、なんかすごい今最後めっちゃ結論出した感出ちゃいましたね。
なんか立ち止まること大事なんだけど。
ちゃうんだって、もうこの家庭が大事なんだって、
もう家庭が大事なんだってことが大事だっていう、
この結論はまたすでに結論になってしまっているっていう、
このトートロジーが発生してしまいましたけれどもね。
このくらいにしときましょうか。
1時間はさすがにやりすぎだろう。
講義1回分。
でも講演会とかだとなんだか2時間。
2時間は長いよね。
1つの講演会2時間ってことはないか、今。
だいたい1時間じゃないですか、1人で連続で。
それにプラス対談とかいろいろ入れて2時間とかじゃないですか。
どうなのかな。
でも2時間ぶっ続け講演とかあるんですかね。
昔はありましたよね。
それこそ吉本隆明みたいなのとかね、
吉本隆明の講演録とかめちゃくちゃ長かったりしますもんね。
なんだか半分以上何言ってるかわかんないみたいなね。
もう難しすぎてわかんないみたいなところもあったり。
でもやっぱり吉本隆明の講演録とかだと対話になったり、
質問に対して答えていくっていう。
それこそ吉本隆明の講演録であるような学生との対話、
参加者との対話って面白いですよね。
やっぱ対話大事だよね。
もう一問一答じゃないんですよ、やっぱ面白いのは。
一問一答じゃなくって、
言葉を尽くしていろんな思考過程を経ながら説明をしたり、
それを応答していくっていう営みに面白さがあるんですよね。
それが面白い。
対談って僕結構好きで、対談って面白いですよね。
ぶつ切りにならないというか、一問一答じゃないものの良さですよね。
本当僕対談したいんですけど、対談してくれる人を募集中です、本当に。
対談したいですよね、一緒にお話しして。
それってもしかしたらコラボなのかな?
いいのかな、こういう感じでただただ会話をしてくれる方募集しましょうか。
ただただ話をしたいですね、テーマとか設けずに。
だってテーマなんて設けちゃったら、
その時話したいこと話せなくなるじゃないですか。
あんまり枠にとらわれると、結局枠にとらわれると結論を求めたくなっちゃうし、
結論を出したくなっちゃいますよね。
なんか今回のテーマは愛ですって言ったら愛とはとか、
今回のテーマは政治ですって言ったら政治とはとかね、
何々とはをどうしても求めちゃいがちだけど、やっぱつまんないよね。
対談ってそうだと思うんですけど、
対談ってそうじゃないですか、やっぱ結論を求めにいかないじゃないですか。
ただお互いに話したいこと話すっていうことが多い、
いわゆる対談って言った時にはね。
定談もそうだけど。
それが例えばシンポジウムとかになると、
もうちょっと結論を求めにいくこともあるけど、
やっぱ対談って言うと、
ある種の知的な営みをしている人と、
ある種の知的な営みをしている人が、
お互いに対話、なんかラリーをすることによって、
生まれてくるものがありますよね。
だから単に会話をしたい、対話をしたいんですよね。
会話以上の対話かな、やっぱりこう、
ある種話している内容についてちょっと深めたいんですよね。
会話ってなんか、必ずしも深めないところにいくというか、
広がりがどちらかというと重視するニュアンスになりますよね、
会話って言った時には。
対話って言うともうちょっと、
一つの話題についてとか、
一つの興味について、
少し掘り下げていく営みが生じますよね。
そういうコラボだったら、
してみたいかもしれない。
そうね、なんかちょっとお話をしたいね。
でもこういうのもね、やっぱり誰でもいいというわけじゃないからね。
ある程度こう、なんだろうな、
そうね、対話慣れしている人、
対話を慣れている人であり、
そうね、ある程度やりとりをしている、
僕自身と多少対話をしたことがある人であったりね。
一応コラボで言うと、
おじかつさんとはやってるんですよね。
唯一僕がゲスト出演している、
コラボ出演している番組で、
おじかつさんとは一応に出させていただいて、
その時はね、一応そのテーマとして、
古典文学についてね、
特にあの時は、
同性愛について古典文学ってどうなのかっていうことだった。
BLっていう言い方を使ってたかな。
そういう言い方してた。
多少ね、ちょっとテーマが絞られているから、
自由にはなかなか話せなかったし、
なんかね、どうしてもコンテンツ的になってしまったというか、
まあ大衆的にマス目系のものになってしまった。
まあそういうものにしたところはあるんですけど。
もうちょっとフランクにね、
フランクっていうかなんかもう、
ある程度なんだろうな、
ちょっとこじらせている人と話したいですよね。
なんかちょっと自分一人でいろいろ悶々として、
いろいろこじらせている人と、
ある種の専門性があったりする人と、
まあ何かしらについて専門性がある人の方が面白いと思うんですよね。
もう何でもいいんですよ。
何かの仕事とかでもいいし、
ある程度の分野とか趣味とかでもいいんだけど、
何かしらこう一つの専門性がある人と、
お話をした時にどういう感覚反応を受けるかっていうのには興味がありますよね。
なんかこうYouTube、
YouTubeコラボとかの流れだと思うんですよ。
そのPodcastコラボっていうのも。
YouTubeコラボってやっぱりどうしても、
ある種の型ができてしまっているから、
それにPodcastの方のコラボっていうのも、
型ができてしまっていると思うんですよね。
型ができると面白くないと思うんですよね。
何かやっぱりそこに編集ありきになっちゃうし、
自由度が狭まってしまって、
何かそこにせっかくその2人の会話の中で生まれるようなものが、
そぎ落とされちゃう部分があるというか。
だからある意味で対談をしたいですよね。
コラボって基本的に面白くないと思うんですよね。
そのコラボっていうもの自体が。
どうしてもコラボって響きの中には、
営業的な要素とか、マーケティング的な要素が入ってきちゃうというか、
コラボって響きの中にね。
どうしても番組としての枠組みが強まってしまって、
登場人物たちのアイデンティティが溶け込まないというかね。
だから逆にコラボっていう名をかんさないで、
単にゲストとか単に登場するっていうのだとすごく面白いですよね。
その散歩はさておきっていう番組の中では、
お友達がいっぱい出てくるんですね。
しれっと出てくる。別に特別な感じじゃなくて、
しれっと出てきて、やっぱりそういう感じがいいよね。
お友達がしれっと出てくる感じっていうのが良くて、
それくらいがいいと思うんですよね、すごくね。
本当にお友達同士がただただ会話をしていく。
ねえなにさんとかそうだよね。ねえねえなになにとかもね。
ねえなにさんとかは本当に単に友達が話してるみたいな。
そういうのがいいよね。
そういう感じのある種のコラボっていうか対談みたいなのを
YouTube上でやるのもいいよね。
スペース上でそういうのを意図的に組んでやってるのを聞いたことはいくつかあるけど、
なんか面白くないんだよね。
ちょっと失敗してる例の多いね。
対談っていうよりはスペース上での対談の難しさなんだと思うんですけどね。
そもそもやっぱりうまくいってない例が多い。
多分きっとリアルで対談してて面白くなかったんだろうなってことも多いんだろうけど。
なかなか誰と対談するかっていう、
誰と誰が対談するかって面白い、なんか難しいから。
そういうのってお互いっていうよりはマッチングしてもらった方が面白いかもね。
この二人を対談させたら面白いんじゃないかっていうのはありますよね。
僕本当に意外だったのが、
まずスイッチインタビューっていうのがあるの分かりますかね。
お互いにインタビューし合うっていう番組があるんですけど、
その意味一応コンセプトとしたインタビューし合うなんだけど、
結果的にお互いが対談する感じになったりはするんですよね。
どっちがメインっていうのを決めて、
2部に分けて最初はAさんの方がメインで、
片方はどちらかというと聞き役。
今度は後半はBさんがメインで、
今度はAさんがどちらかというと聞き役なんだけど、
結果的に対談みたいになったりする番組なんですけど。
それで絶対面白いだろうなと思ったのが、
松尾鈴木と田口智郎の対談だったんですよ。
面白そうじゃないですか。
でもそれがね、死ぬほどつまらなかったんですね。
おじかずさんはそういう意味では割と話したい、話したかったというか、
話題もやっぱり二人の話も深くいくし、割と共感できるところもあるし、
なんかまた自分とは違う視点はもちろんあるし、
その中で割と前向きに面白いことが起きるんじゃないかと思ったんだよね。
だからスペースでは結構話したりする機会は何度かあって、
実際リアルでも話もしたこと、なんだかんだ言って一回だけありますね。
なんかこうやっぱりポッドキャスト上で何か問題意識とか、
一つのテーマとか課題とか、それがソーシャルな課題だというね、
もちろんプライベートな課題でも全然構わないんだけれども、
ただある種ソーシャルな課題について話してる人だと、
割とそれについて話しやすいですよね。話題がありますよね。
共通項があるというか、プライベートな話題だと、
プライベートな話になっちゃって会話になりがち。
だけどソーシャルな話題がもう話せると、割と対話になりやすいですよね。
そういう意味では、話したい人…難しいね、やっぱりね。
ポッドキャスト的に話したいっていうと、聞きに行きたいとかね。
ライブで聞きたいとか、直接話を聞きたいはあるかもしれないけど、
なかなかこう対話をしたいっていうと、
えー、いない、いないかも。
いやもうみんな大好きなんだけど、みんな大好きなんだけど、
えー、誰だろう、誰かいるかな。ちょっと待ってね。
いや、なんかちょっと会話したいはあるんですよ。ちょっとお話したいは。
なんならみんな、ポッドキャスターさんはね、みんなとお話とか対話、
お話はしてみたいけど、
会話してみたいかっていうと、対話…そうね。
難しいかも。
うーん、なんかやっぱり自分が邪魔になっちゃいますよね。
その人の話をずっと聞いていたいって気持ちが強くって、
なかなか対話をしたいには、なんかもうそんな邪魔だなって思っちゃうかも。
難しい。
うーん、ゲイバクさんとは会話しても面白い気もするけど、
うーん、なんか…
いやでも全然もう基本やっぱあの二人の世界が好きすぎるから、
あんまりそこに自分を入れ込みたくないけど、
なんかそのあの二人はもう掘り下げるから、
その掘り下げているところにまた自分の掘り下げをちょっと入れたい気持ちはあるかもしれないですかね。
おじおしとかもいいかな。
おじおしはね、おじおしさんはやっぱ結構ね、
ちょっとキレイ売りしているところはあるので、
お話したいかも。
絶対なんかこう、いやなんかね、
あの番組はおじおしさんはね、割とこう掘り下げないようにしてるから、
適度に掘り下げてはいるんだけど、
やっぱ二人ともすごく大人なので、
いい感じにね、こう不自着させるんだよね。
でもなんかそこをちょっとかき乱したいよね。
おじおしさん、おじかすさんとおじおしさんってもうなんか似たような名前がするけど、
おじおしはちょっと対話したいかも。
しんしんさんとはね、会ったことあるけど、
わなぶさんとはないしね、
わなぶさんとかも話したいね。
ちょっとこう、対話したいリストにはあるかも。
あ、でもそういう意味では、
しゅうくんか、そうね、かいぱんしゅうくん、
あ、でふさんも全然好きだけど、もちろん好きなんだけど、
かいぱんしゅうくんとちょっとなんかお話とかもしたいかも。
込み入った話をしたいかもしれない。
暗い話したいよね。
暗い話とかちょっとしたいですね。
だいたいやっぱちょっと邪魔なんだよな、自分が。
アリスのみやけもな、ちょっとな。
その人に対して励ましのお便りを送るのも大事なんだけど、
それ以上に単純にリポストするとか、
単純に引用リポストするとか、
単純にURLを共有するとか、
そういうことの方、
単純に見に行くとか、
閲覧するとか、
関心を持つとか、
その人の行動とか、
その人のコンテンツに関心を持つ方が大事だと思っていて、
もちろん一つには直接的にお金をその人に、
お金が入るようなものに協力することはもちろんだけれども、
やっぱり関心を持つこととか、
その人のことを拡散して、
僕のフォロワーさんとか、
僕の友人たちに広めるっていう方がすごくいいと思うんですよね、
役立つというか。
一つの情報が、
それがギブアンドテイクになるというか、
やっぱりこの大量の情報があふれる社会の中で、
拡散力ほど強い力はなくって、
それが今、
ある種の偏りは生まれやすいものなんだけれども、
非常にカオスな、
ある種の偏った秩序がある中に、
情報を放り投げた時に、
それがただネットの海に消えてしまうのではなく、
少しでも多くの人に伝わっていくことほど大事なことはないと思うから、
僕はやっぱり、
僕としては感想やお便り以上に拡散してくれること、
応援してくれる言葉以上に拡散してくれること、
もちろん自分自身にとってすごく影響を受けたり、
何か伝えたいという気持ちが湧いてきたら伝えればいいし、
湧かなければそれ以上に拡散して、
誰かに伝えるっていうことの方が、
僕は大事だと思うんですよね。
僕はね、そうじゃない人もいると思うけど。
僕にとってはそれがお必活なんですよね。
フォロワーなんて自分なんてほとんどいないよとか、
かぎやかですっていう人もいるかもしれないけど、
それでもやっぱりあなたをフォローしている人いますよって。
そのフォローって人数じゃないから、やっぱり質ですよね。
僕のことをフォローしてくれているような友達であれば、
きっと僕にとっての、
僕の価値観と近いものとか、
僕が出している情報を、
必要な人もきっといる可能性が高いと思うんですよね。
そういうある種の選別が行われていて、
例えば僕が好きな推しのアーティストがいたとすると、
そのアーティストの好きな人っていうのが、
僕のフォロワーさんにもいる可能性とか、
僕がフォローしている人の中にいる可能性は高いと思うんですよね。
って考えるとね、やっぱり拡散する。
自分がなんてもうただ一つの本当に大したことないかもしれないと思うかもしれないけれども、
なんか拡散してくれる。
何かしらの形で拡散してくれるっていうことほど、
でもそれってね、当人には伝わらないこともあると思うんですよ。
アーティストの情報を拡散した。
リポストとかだとわりと通知はいいかもしれない。
通知っていうかね、反応はわかるかもしれないけれども、
でも場合によってはあんまり当人ね、
もともとの人には私が拡散しましたっていうのはいかないかもしれないけど、
でもね、役立つと思うんですよ。
それが一番。
押し勝つはね、そういう認知されないことも踏まえた上で、
押し勝つをしていくっていうのは基本だと思うんですけどね。
でももちろん認知もされると思うしね、
そういうことを繰り返してはいつも拡散してくれてるなとか、
いつもいいねくれるなとかね、やっぱり結構わかったりしますよね。
いいねだけでもやっぱり頻繁にくださる方ってわかるじゃないですか。
いいねなんてボタン一個押すだけだし、
それで何が起こるわけでもないのに、
それもやっぱりハードルあるんですよね、人によってはね。
僕はもういいねしまくる人なので、
全然友達の皆さんを頑張ってるねとか、
そういう気楽な気持ちで頑張ってねとか、
残念だねとか、体調に気をつけてねとか、
いろんな意味を込めて、とにかく押した悪いことはないからね。
反応、別にたかが押すくらいだからと思ってパラクラク押すし、
少しでもいいなと思ったり、
自分のフォロワーさんに伝えたいとか、
これは誰か一人にでも多く、別に一人でいいんですよ。
自分以外の誰か一人にでも共有できたらいいなと思うものは、
どんどん共有するようにしてるし、
なるべくそれには自分内のステイトメントっていうか、
僕の中では引用ポストってステイトメントみたいなところがあって、
このポストに対して自分はこういう意見でリポストしますよっていうのは、
やっぱりあった方がいいと思うんですよね。
賛成しますとか否定的ですよとかね。
否定的なポストは基本的に僕はしないですけど、
でもなんかこう賛成しますよと明示する。
なんかよくあるのは、
自分は反対じゃないから賛成ですっていうのはやっぱり違うと思うんですよ。
やっぱり賛成の時は賛成ですって伝えることってすごく大事で、
だから僕はリポストでもなるべく明確に賛成ですっていうのは、
なるべく明確にしようと思ってますね。
ちょっとひねった言い方をしたりすると、
一瞬伝わりにくいこともあると思うし、
ちょっと目にしただけだと、もしかしたら否定的意見かな。
でもあるじゃないですか、
このリポストだけじゃないけど、
このポストの中で、
これは記事に対して賛成なのか反対なのかよく分かんないなみたいな時あるじゃないですか。
僕は相手はやっぱり明確に賛成ですっていうのを明示したくて、
そういうのをやった上でリポストしたりしますね。
それぞれステートメントっていうのとしてリポストを出したりしてますね。
でもそういうのもあったら絶対いいと思うんですよ。
それで情報を拡散したり、
仮にそれを否定的な意見で捉える人がいたとしても、
その人に届いたことに意義があるわけだし。
そういうのをやったりしてますから、
もしできればそういうのもやってほしいなっていう気持ちはありますけど、
いろんなSNSとの付き合い方もいろいろあるから、
無理にとも言わないし、