最終日の探求
ブク美
はい。毎日未来創造 Week 13 インターフェース 未来の触り心地
ついに最終日となりました。今週は6つのエピソードを通して、私たちがこの世界とどう触れ合って、何を感じているのか、その触り心地の未来を探求してきましたね。
ノト丸
そうですね。今日はその締めくくりとして、最終話のエピソード〈最後のインターフェース〉、これを中心にこの一週間で見えてきたこと、それから私たち自身の在り方について、深く掘り下げていければと思います。
ブク美
手元にある資料は、Week 13全体の総括と、ショートショートの最終話のテキスト、あと、制作者の方々の対談記録ですね。これらを手がかりに、革新に迫っていきましょう。
ノト丸
はい。今週の探求の出発点というのは、世界は便利さの総量ではなくて、触れ方の質で豊かになるんじゃないかと、そういう問いかけでしたよね。
ノト丸
全体を通して通奏低音みたいに流れていたのは、理解はわからなさを減らす、一方で感じるはわからなさを抱えることだっていう、ある意味、現代の効率至上主義とは真逆の価値観だったかなと。
この一週間は、その感じることの重要性を、いろいろな角度から見つめ直す、そんな旅だったと言えるかもしれません。
ブク美
なるほど。さて、この探求を通して、あなたはご自身と世界の間にあるインターフェースについて、何か新しい発見はありましたでしょうか。
例えば、いつも使っているスマートフォンとか、パソコンのキーボード、ドアノブ、あるいは言葉そのものとか。
日常の当たり前が、実は世界とのすごく重要な接点であって、私たちの感覚を形作ってるんだなということに気づき始めたかもしれませんね。
私たちはポストスマートフォンの触れる世界から始まって、感情、時間、都市、社会といった、より大きなレイヤーでのインターフェースへと考察を進めてきました。
ノト丸
そうですね。Wink13の各エピソードを振り返ってみると、一貫して、摩擦であるとか、揺らぎ、痒み、痛みみたいな、普通は避けたいとかネガティブに捉えられがちな要素に、あえて光が当てられていたなと。
それらの再評価こそが今週の核心だったように思いますね。
ブク美
まずはエピソード1の〈物質たちの沈黙〉でしたね。
ここでは過剰な理解とか応答を求める世界に対して、物質が沈黙プロトコルを発動するっていう、ちょっと強発的なアイディアが提示されました。
応答しない自由、つまりある種の余白が必要なんだと。
ノト丸
ええ、まさに。すべてが接続されて応答し合うことが良いことだとされる現代において、応答しない権利を主張するっていうのは非常にラディカルな問いかけですよね。
ここでいう摩擦っていうのは単に物理的な抵抗だけじゃなくて、世界とか他者との間の生じる、こう、思い通りにいかない感覚とか、ズレ、あるいは意図的な引っかかりみたいなものを指してるんでしょうね。
沈黙はその最も純粋な形かもしれない。
ブク美
次のエピソード2〈感情の気配〉。では、完璧な共感が逆に感情の飽和を招いてしまって、人々が感じることをやめてしまうっていう逆説が描かれました。
そのための解決策が、感じない空間のデザイン。これって共感しすぎることへの警鐘とも取れますよね。
ノト丸
相手を完全に理解して感情までも同期させることが理想みたいに思われがちですけど、それでは個々の感情の輪郭みたいなものが失われてしまうと。
あえて感じない部分を残すことで、他者との適切な距離を保って健全な関係性を維持する。
それはある種の配慮とも言えるかもしれませんね。完全に理解し尽くせないっていうわからなさを受け入れる態度というか。
ブク美
そしてエピソード3〈時間の羅針盤〉。これは非常に示唆的でした。
時間を正確に測るんじゃなくて、あえて揺らぐ羅針盤を作ることで、過去の幸福な記憶への逃避、悪魔との契約と表現されてましたね。
それを防いで現在を感じることを促すと。時間が単なる経過じゃなくて濃度を持つんだっていう考え方も印象的でした。
ノト丸
悪魔との契約っていう比喩はかなり強烈でしたよね。
完璧に再現された幸福な過去に閉じこもる誘惑っていうのは、ある意味で心地よい死への誘いでもあるわけです。
それに対して、揺らぐ羅針盤は不確かさとか予測不可能性を受け入れることで、現在という瞬間の"生の手触り"を取り戻そうとする試みと言えるんじゃないでしょうか。
ブク美
エピソード4の〈生きた都市との対話〉では、人間中心主義の限界が描かれましたね。
都市OSが生態系全体への配慮から、Human Only Priority Dejected、つまり人間優先を拒否するという判断を下す。
これは私たちがいかに自分たちの都合で世界を設計してきたのか、というのを突きつけられるような気がします。
ノト丸
人間には制御できないもの、あるいは完全に理解できないものと共生していく必要があるんだ、と。
都市という巨大な生命体との対話は、効率とか利便性だけでは成り立たない、というある種厳しい現実を示唆していますよね。
ここでもまた、わからなさとどう向き合うかが問われている。
ブク美
続くエピソード5、社会という肌では、合意とか調和みたいな普通はポジティブに捉えられるものが、行き過ぎると社会の停滞を招くことがある、と。
その停滞を防ぐために、あえて重なり合わない権利、サンクチュアリーとしての痒みや摩擦が必要なんだ、という話でした。
ノト丸
はい。ここで痒みが生きている証だとされたのは、非常に重要なポイントだと思います。
完全にスムーズで何の違和感もない状態というのは、ある意味で生命活動が停止している状態に近いのかもしれない。
社会における痒み、つまり意見の対立とか異質な存在との接触というのは、時に不快かもしれないけれど、それこそが社会が変化して進化していくための原動力なんだ、ということですよね。
新たな接続方法
ブク美
こうして振り返ってみると、Week13の探求は一貫して、単に滑らかで便利で効率的なだけの世界に対する疑問符だったわけですね。
むしろ意図的に摩擦とか揺らぎ、わからなさといった要素をデザインに取り込もうとする、そういう方向性が見えてくる気がします。
これは現代のテクノロジーが目指しがちな方向とは、かなり逆行しているようにも感じますね。そこが実に興味深い。
ノト丸
その通りですね。そしてこの一連の問いかけがクライマックスを迎えるのが、最終話エピソード6、最後のインターフェースなんですね。
ブク美
はい、この物語ではついに全ての物理的感覚的なインターフェースが消滅してしまう。
思考するだけで世界が完璧に応答する、完全に滑らかな世界です。
主人公のアンは最後の調整者という役割なんですけど、もう調整すべきズレとか摩擦が存在しない。
そんな世界で彼女は鏡に映る自分の顔が退屈に*******していることに気づいて、生きている手触りそのものを失いかけていると感じ始めるわけです。
ちょっと想像してみてください。何の抵抗も遅延も予測不可能性もない世界というのを。
ノト丸
そしてここで今週の探求の核心ともいえる洞察が提示されるんですね。
それは自己とは固定された実態ではなくて、私と世界の境界線で生まれる摩擦そのものであるという考え方です。
ノト丸
インターフェースが消滅して世界との間に何の抵抗もなくなると、その摩擦を生み出す機会自体が失われてしまう。
ノト丸
それはつまり自己を生成するためのプロセスが停止することを意味するわけです。
ノト丸
心地よい完全な静止ですけど、それはエピソード3で描かれた、過去の幸福な記憶に閉じこもる、時間中毒者の状態。
つまり一種の生ける死人に近いのもしれないですね。
ブク美
その状況を打破するためにアンが取った行動というのはまさに衝撃的でした。
彼女は旧世界のアーカイブから制御不能で予測不能で無意味なノイズ、揺らぎを生成する古い行動を見つけ出して、
それを自分自身の意識、つまり内面にインストールするんですよね。
これってエピソード1の沈黙プロトコルとか、エピソード5のサンクチュアリーで探究されてきた
余白とかわからなさを受け入れる哲学の、ある意味で究極的な実践と言えるんじゃないでしょうか。
外部じゃなくて内部に摩擦を作り出すわけですから。
ノト丸
ええ、まさに。
その結果、アンを取り巻く完璧なシステム、つまり世界は当然ながらこの内部から発生したわからなさ、
ノト丸
つまりノイズを理解して、吸収して平滑化しようとします。
ノト丸
しかし、インストールされたコードはそれに抵抗して、予測不能な揺らぎを生み出し続ける。
この内部でのせめぎ合い、システムによる平滑化の試みとコードの抵抗、
これこそがアンの内面に新たな摩擦を生み出す源泉となるわけです。
ブク美
そして、その摩擦の結果として、彼女は久しぶりに、そして強烈に痛みと痒みを感じる。
ああ、痛い、これが私だ、と。
エピソード5で示された「痒みは生きている証」っていう言葉が、
ここでは痛みというより強烈な感覚を通して、失いかけていた自己の輪郭を取り戻すきっかけとなる。
これは見事な伏線回収ですね。
ノト丸
そうですね。
ノト丸
つまり、最後のインターフェースというタイトルが示唆するものは、
ノト丸
外部世界との新たな接続方法というよりは、
ノト丸
完璧すぎる滑らかな世界から自らを引き離して、
ノト丸
自分だけのわからなさというノイズを内面に抱え直すための、
ノト丸
まさにその内なる摩擦そのものだったということなんですね。
ノト丸
この他者とかシステムには完全に理解されたり制御されたりすることのない、
ノト丸
痛みとか揺らぎこそが、アンが私であり続けるための最後の聖域サンクチャリーになった。
ブク美
あとがき対談でも触れられていましたけど、
摩擦の重要性
ブク美
外部インターフェースが消滅した世界で、
自己を保つための最後の砦が外にあるんじゃなくて、
内なる抵抗、つまり摩擦そのものだったという着地点は、
本当に考えさせられますね。
私たちが今週追い求めてきた未来の触り心地というのは、
結局のところ単なる便利さとか効率、
シームレスな滑らかさのことではなかったということなんでしょうか。
ノト丸
ええ、そうかもしれません。
それは時に不快な痛みとか痒みを伴うかもしれないけれども、
生きているという実感そのもの、
なんていうか、ざらついた手触りそのものだったのでしょうね。
物質、感情、時間、都市、社会、そして自己。
私たちが向き合うべきなのは、
完全な調和とか理解というよりは、
むしろその境界で生じる摩擦とか揺らぎを、
いかに豊かにデザインし直すかということなのかもしれません。
ブク美
うーん、なるほど。
ここまでの議論を踏まえると、
これからのインターフェースデザインってどうなっていく可能性がありますか。
単に効率化とかシームレス化だけを目指すのとは、
ちょっと違う道がありそうですね。
そうですね。
ノト丸
この一連の探求は、
未来のインターフェースデザインに対して、
非常に重要な示唆を与えていると思います。
つまり、これからは、
意図的に摩擦、揺らぎ、遅延、余白、ノイズ、分かりにくさ、
こういった要素をデザインに組み込むという方向性が、
もっと真剣に考えられていくべきじゃないかということです。
例えば、すぐに返信できないメッセージアプリとか、
検索結果が最適化され過ぎない情報ツール、
あるいは、自分の感情とか体調の揺らぎを、
あえて数値化せずに曖昧な気配として伝えるデバイスとかですね。
それは一見すると、
ブク美
なんか不便になったり、
効率が悪くなったりするように思えるかもしれませんけど。
ノト丸
短期的にはそう見えるかもしれません。
でも長期的に見れば、
そうした引っかかりとか余白こそが人間の感じる能力、
あるいは、
自己っていう曖昧で捉えどころのない感覚を守り、
育むためにもしかしたら不可欠なのかもしれない。
全てが予測可能で、
最適化されてスムーズに進む世界っていうのは、
ノト丸
もしかしたら人間性を少しずつ侵食していくのかもしれないという気もします。
ブク美
まさに今週の問い、
世界は便利さの総量ではなく、
触れ方の質で豊かになる。に対する一つの力強い答えですね。
私たちが本当に求める未来の触り心地っていうのは、
完璧な快適さだけじゃなくて、
生きているという実感、
そのざらつきとか手応え、そのものなのかもしれないですね。
テクノロジーがいかに進化しても、
そのわからなさを抱える余白、
未来の移動体験
ブク美
あるいは摩擦を生み出す仕組みこそが、
人間らしさを守る最後の聖域になる。
そんな視点は、
AIなどが急速に進化する現代において、
ますます重要になってきそうな気がします。
ノト丸
そこで最後に、あなた自身に問いかけてみたいのですが、
もし、あなた自身の自己の輪郭、
つまりあなたらしさを保つために、
日常の中にあえて摩擦とかノイズ、
揺らぎを取り入れるとしたら、
それはどのような形になるでしょうか。
案がうちなるノイズをインストールしたように、
何かを付け加えることかもしれませんし。
ブク美
あるいは逆の視点から、
今のあなたの周りにある不便さとか、
逆さ、思い通りにいかないことの中に、
実はあなたという存在を支えているかけがえのない、
大切な摩擦が隠れているということはないでしょうか。
例えば、習得に時間のかかる楽器の練習とか、
意見の合わない人との対話、
あるいは単純にアナログな手作業とか、
ちょっと遠回りな散歩なんかも、
そうした摩擦を生み出す行為と言えるかもしれませんね。
少し立ち止まって、
自分の周りのざらつきを見つめ直してみるのも、
面白いかもしれません。
今週ふぱぼりしたヒントから、
具体的なインターフェースのアイディアも、
私たちなりに考えてみたいですね。
どんな未来の触り心地があり得るのか、
想像が膨らみます。
さて、来週なんですが、
ちょうどジャパンモビリティショーも
開催されるタイミングですので、
移動、つまりモビリティの未来について
考えてみたいと思います。
今日のこの摩擦とか触り心地の話が、
未来の移動体験のデザインにどうつながっていくのか、
あるいはつながらないのか、
そんな視点を持ちながら探究できればなと考えています。
それではまた次回の探究でお会いしましょう。
ノト丸
ごきげんよう。