好奇心があり、欠陥にオープンな状態。 自分と、そして相手とつながる意思があるという状態なんですね。
これがですね、NVCの本にも書いてありますし、 "「わかりあえない」を越える" にも引用されているんですが、
ルミの野原(Rumi's field)というふうに言うと、 NVCの人はよく知っているんですけれども、
他の学びの場でも言葉がよく出てくるんですが、 「間違った行いと正しい行いという思考を超えたところに、
野原が広がっています。 そこで会いましょう」という言葉があるんですが、
私にとってこのゼロステップは、その野原に行っている、 到着している感じなんですね。
この人が降りていく階段を(スライドに)付け加えたのも、 私の中で表面的に現れている言動と感情、
そしてニーズというふうに層が降りていくというかね、 だんだん自分の大切な真ん中のところに、
ハートのところに降りていく。 頭で考えている、思考ではなくてハートですね。
ニーズは丹田のあたりで感じる感じでしょうか。
頭よりも降りていくというイメージで 階段をつけました。
実際、これを私が体験したのは、 観察・感情・ニーズ・リクエストを1回やったんだけれども、
まだ観察の部分で、やっぱり相手は悪いよね、 私も悪かったけど、みたいな、
善悪だったり、道徳的思考が抜けていなかったんですよね。
その時に、一緒にブレイクアウトに入った人に、 あれ?観察になってなくない?みたいな、
この言葉では、ビデオカメラに映したように言えるんですよ、 知的に。
だけれども、そこに感情とか、体は戸惑っている、 そこにそうだというふうに、
踏み落ちていない、「いや、でもというふうに思っている、 その思考がまだあるよね」と言われて、
もうちょっと、感情・ニーズ・観察。 もう一回、出来事を思い出して、
感情・ニーズって何だかプロセスしてみたら どうかなというふうに言われて、
え?観察・感情・ニーズ・リクエストって 1回やったらいいんじゃないの?と思ったんですけど、
言われた通りに、何度かやってみたんですね。
そうしたら、観察の部分、感情が起こる刺激になった観察の部分、 出来事の部分に対する見方が本当に変わっていたということがありまして、
その時に、観察って知的に何が起こったかを口にすることではなくて、
実際に体も、ただその出来事が起こったというふうに捉えられる状態なんだ、 というふうに体感した、身に落ちたことになりました。
この、なるほど、観察が心の底から体全体で出来ている。
その出来事は、実際には(相手の)言動が自分の好むような言動じゃなかったり、
自分のニーズを満たさない、ニーズを大切にできない、出来ているとは思えないような状況だった、
状況というか言動かもしれないんですけども、ただそれがそうであったという事実として、
それが起こったと、相手にも何らかの理由があるだろうし、相手もニーズを満たそうとして、
最善を尽くした結果、その瞬間にはその言動が出たんだというふうな、
本当に今この瞬間で生じている、この場合は過去のものをプロセスして、
過去のものをその瞬間に起こったことはあるのままに見る、という事が出来ているんですね。
見る気があるという状態になる、それがゼロステップですね。
観察感情ニーズリクエストというのは、自分の中でプロセスするのにも使えますし、
相手に表現する時にも観察感情ニーズリクエストで表現する事も出来ますよね。
特にNVCを学んだばかりの頃は、練習会で日常で他の人にやるとまた変な顔をされたりとか、
何言ってるか分からないとか、逆に繋がりの役に立たない事もあるので、
練習会でやる時に、観察感情ニーズリクエストという風に言う、表現として使うというのを練習しますけど、
その時に、このゼロステップにある状態で、こんな事が起こったり、私にこんな感情が生じて、
それはこんな私の大切な事があるの、それで私のニーズを一緒に大切にしてもらうために、
こういう事をしていただけるかしらとか、これを聞いてどう思うという繋がりに必要だという風に、
正直に表現する時に、観察感情ニーズリクエストで伝える前に、
ゼロステップに自分はあるかということを確認する必要があるんですね。
なので、自己共感の状態でOFNRをしている時には、逆にゼロステップにいないんですよ。
まだいろんな反応とか(道徳的、善悪の)ジャッジとかがあるからこそ、観察感情ニーズリクエストをして、
自分に繋がろうという風にしているので、自己共感の時の始めた時に言われるゼロステップにはない。
ただ、プロセスをしていく中で、そのありのままに見られるという状態に身体の意識もなります。
そのゼロステップであると、正直な自己表現も相手に受け取られるらしいものになるし、
自分ができるだけ自己共感できているものが、他の人に共感する時には、
自分の反応から何か言ってしまうのではなくて、もっとスペースがあって、
相手はそういう風に思ったんだねという風に、相手に共感を差し出すことが大事になります。
このゼロステップというのは大切なステップだなという風に思っているので、ご説明してみました。
実際にどんな風な感じになるかというと...あ、まずクレジット(誰のワークかを明確にする)。
先ほどのゼロステップというのが生まれるまでには、まずマーサルがNDCを組み立てた。
そしてそれを先ほど言ったジョン・ゴッドマンさんが練習会に使っていて、
そして彼の持論としてゼロステップというのがあるというのをジムとジョリに伝えたということですね。
私はジムとジョリから聞いたので、こうやってクレジットを見せしています。
もしこれを誰かに伝えたりするときにはよければ、マーシャルという人が作ったNVCのこととか、
ジムとジョリという人がいてねとか、ジョンの名前を覚えていたら素敵だと思うんですけど、
私もあまり覚えていないので、いつも見るんですけど、そうやって先人の知恵を受け継いで伝えしているんだよというのを伝えていただけたら嬉しいなと思います。
そして、もしこの動画を見てゼロステップという考え方がすごく自分に役立ったというようなことがあったら、
ジムとジョリにメールを書いてみてください。
これは概要欄に内容を書いています。
さて、観察・感情・ニーズ・リクエスト、まず自己共感にやってみると、
例えば私の家族の話なんですが、先日、水が入ったコップにあたってコップが倒れてテーブルに水がこぼれたことが起こりました。
次女は、私がたまたまキッチンに行ったんですけど、「タオルちょうだい!」って言ったんですね。
私はタオルを渡した。
次女が拭いた。
その後もまだ水が残っていて、次女が、「もう一枚タオルちょうだい!早く!」と私に言った。
これが刺激になった出来事です。
この出来事、言動によって私はムカムカ、イライラ、モヤモヤしたんですね。
なぜかというと、もちろん手伝いたいんだけど、そんな言われ方をしたくないとか、
ちょっと水がこぼれてさっさと拭きたいのがわかるんだけれども、命まで取られるわけじゃないから、もうちょっと落ち着いて物事をしたいとか、
気楽さ。
タオルを取ってくれると嬉しいなとか、そういう言い方もいいんだけど、音としてね。
取ってくれるって言ってくれると、私も入るよっていう気楽に渡せる。
水がこぼれたぐらいで緊張状態になりたくないみたいな感じですね。
ちょっとリラックスして飲み物と行っていたいなという気楽さ。
あとは本物さですね。
かといって、事情が何かを押し殺して、私がそういうふうに優しく言ってほしいからって言って、
焦ってるときに無理やり、「マミー、タオルもう一枚取ってくれる?」っていうふうに言ってほしいと思ってるわけじゃないんですよね。
本物さも大切。
そして私のタオルをもちろん渡すんだけれども、喜びから渡したい。
自分の選択肢して渡したい。
水を拭いている人がタオルをちょうだいって言ったら、タオルをあげるべきだとかですね。
あとはその言い方にビクッとして、こちらも反応でわーって慌てて渡すのではなくて、
きちんと渡したいと思って、その瞬間的なものなんですね。
時間をかけて渡したいなって言って渡すとかではないんだけれども、
その選択っていうのも大切だったなと思いました。
それでリクエストとしては、水をこぼしてびっくりしたのかな。
でも私はその声のトーンにびっくりしているよ。
ひとつ一緒に呼吸をして落ち着かないっていうふうにリクエスト。
もちろん向こう側はノーという可能性がありますよね。
そのこと言ってないんだ、私は聞いてるんだから黙ってっていうふうに言う可能性もあるんだけれども、
そういうリクエストにするということがあります。
ここに至るまでには、このリクエストを頭の中で考えて、
言う前にゼロステップに入る必要があるんですよね。
だからニーズとリクエストの間にゼロステップに自分はいるかっていう確認も必要なんですけれども、
実際に頭で組み立てているときにはリクエストまで言ってみても
しっくりしないなと思って何度も観察・感情・ニーズ・リクエスト、
出来事を思い出して、感情はって行ったり来たりすることがあります。
観察・感情・ニーズ・リクエストを1回で一通りやるっていうふうに思う人もいるかもしれないんですけど、
ここは何度も何度も、しかも観察からニーズに行ってとか、感情に戻ってとか、
リクエストを作ってみて、まだしっくりこないな感情に行ってとか、
簡単な観察を見てみようというふうに、この段階が必ずしも真っ直ぐではなくて、
あちこち飛んだりとかして、このステップというか段階、プロセスを見るということをします。
もう一つですね、内部刺激というものを見ることもあります。
最初のうちは観察・感情・ニーズ・リクエストをしていると思うんですけど、
その後にですね、ジャッジをしていることに気づくんですよね。
この観察のところは先ほどと同じです。感情もムカムカ見られる。
で、内部刺激に気づくということは、あれ、私は今「自分で水をこぼしてその声で言うありえん」っていうふうに思ってるんだな。
「水をこぼすのは悪いこと」だったり、「人に頼むときは優しく言うべき」だというふうに考えているんだなというふうに気づく。
そうすると、その「べき」とか、「ありえん」という「水をこぼしちゃいけないだろう」とかね、
「こぼした人は悪い人で、頼むときにはもっと優しく言う」とか、「悪びれていう(べきだ)」とかですね、
そんなふうに思っているんだというふうに思ったら、それをちょっと脇に置いて、ジャッジをですね、脇に置いてみると、
もっと、このトーンが刺激になっているんだなとか、
早くちょうだいっていう声の大きさと、何だろう、強さ、
ほとんどにその速さとかね、そういうのを含めたトーン、声色、みたいなものが刺激になる。
手伝いたいという気持ちもあるのに、それじゃできないじゃんというふうになった。
だって、そんなので、いろいろ物を目指している。
自分も大切にされた。そしてもちろん自分のことも大切にした。
あなたがこぼしたんでしょう。あんたが、とかっていうふうに言いたいわけではない。
お互いが大切なんです。そして落ち着いて、
そうだ、命まで捉えてると思うのじゃなかったなというふうに、
今、本当の現実に戻って、そして気楽さと本物さ、選択がお互いにある状態で
いたいんだなというところになったら、
その声のトーンで言ってとか言わないでじゃなくて、
まず1回、一緒に呼吸して落ち着かないっていうリクエストですね。
そうすると、最初に観察で、例えば問題です、こういうふうになりました。
じゃあ、次女にお母さんは何て言ったでしょうっていうふうな感じだと、
また違う、このジャッジから来た言葉だったりとか、
ニーズが大切にされなかったっていうような、
犠牲者、被害者みたいなものも出てくるかもしれないけど、
お互いに大切にされたい。
次女だって今までの経験で、なぜか水をこぼしたら、
ああってなるという反応が出る人生を送ってきたということなので、
この人にも何か理由があって、そしてでも拭こうとして、
自分はこぼして、びっくりして、拭こうとしているという、いろんな角度から、
相手の人間性と自分の人間性を見たときに、相手もびっくりして、
焦っているような、私もそのときもきっとびっくりして、
なんかイライラした、モヤモヤしてるんだな、
ということを聞いて何ができるかなと思ったときに、
ふーんって呼吸をして、つかないっていうふうなリクエストというふうな見方も。
なので先ほども言いましたけれども、
ノーステップというのは、邪悪の判断もなく、
まっさらな出来事、まっさらな目で現実を見る、状況、
そこに在る出来事を見ることができる。
そして自分の身体関係も、びっくりしているとか、キュッときているとか、
頭がカッカしているとか、なんかジャッジしているのか、
そしてその身体関係は何が大切だから出てきているんだろうかという、
私にもニーズがある。どうして相手にもニーズがあってそれをやっているんだというと、
このニーズが、やることなすこと、人がやることは、
どのことでもニーズからきているよっていう、ニーズ意識につながって、
自分と相手の命を素晴らしくする、今思いつく最善を提案した。
もちろん、今思いつく最善なので、
相手の現実はまだ分かっていない状態なので、
リクエストしてみるんだけども、先ほど言ったように、
「そんなことをしている場合じゃない」とか、
また「そんな風に言ってないで早くタオルちょうだい」とか、
「嫌だ」だと言われるかもしれない。
言った後には、いろんな可能性がある。
相手がそうだねってやってくれる可能性もあるし、
もっとイライラするっていう可能性もある。
その後に何が起こるか、
イエスって言ってくれるか、ノーって言われるか、
という結果にはオープンであるという状態です。
画面共有を停止します。
いかがだったでしょうか。
ゼロステップ、どこかで聞いたことがある人もいるかもしれませんが、