2024-06-14 36:03

実践的なスピリチュアリティ 問14&問18にまつわるあれこれ

NVC大学出版の「実践的なスピリチュアリティ」はNVC創始者マーシャル・ローゼンバーグ博士との一問一答集です。

この本に収録されている質問31つのうち、2つに書かれていることを中心に、CNVC認定トレーナーの苅部ミュア 智美(かるべみゅあ ともみ)が、「私はこう捉えています」を語りました。

 

NVCはほぼ終わりなき探求・究なので、現時点での「こう捉えています」だと受け取っていただければ安心します(^^)
 

認定トレーナーだから正解を知っている、というのはないものなので、自分にとってはどうか、マーシャルは何を言わんとしていたのか、を問いに回答(解答ではない)したマーシャルがその当時に考えていたことに思いを馳せ、ご自分でも聞きながら、そして聞いた後にも「自分はどう捉えているか」を探求していただけると嬉しいです。

 

一人でぶつぶつ話しているだけですが、動画としても撮ったので、苅部ミュア 智美(ともちゃん@シドニー)はどんな人かをみたい人はこちらでもどうぞ✨ (内容は全く同じです)
 

🍀 🍀 🍀 🍀 🍀


普段の読書会の録画は参加者さんのシェアなどもあるので一般公開をしませんが、どんなことを話しているのかの一端が伝われば、と思い、一般公開しています🌻 

実際の読書会では参加者さんの気づきや実体験などが話されていて、毎回もっともっと豊かなやり取りなので、ご興味があればご参加ください♪ 

実践的なスピリチュアリティ キンドル & 紙の本 https://amzn.to/49tAVET 

読書会イベント告知ページはこちらです: https://resonationsydney9.peatix.com/... 

5月8日(水)〜7月10日(水) 20:00-21:30 

NVCの精神性とは?を探求・究する 

「実践的なスピリチュアリティ」を読みながらマーシャルの言葉からそれぞれが現時点で受け取っているNVCの精神性をシェアしつつ、お互いのシェアからも学び、探求・究する場になれば、と思っています。

 *単発参加できます


 

サマリー

彼らは神を知ることで、お互いの繋がりを得ることができます。愛しき神聖なエネルギーとの親密な繋がりを感じることで、天国を体験し、命に戻ることが必然です。 問14と問18についての実践的なスピリチュアリティに関する話題が語られています。 ニーズと手段を分けることは実践的なスピリチュアリティにおいて重要であり、ニーズには特定の人や物が関連付けられないというオプションもあります。

神を知ることでの繋がりの重要性
はい、こんにちは。6回目の問14と問18のですね、読書会の動画を消してしまったので、それを補完するものとして、今動画を撮っています。
はい、問14は皆様、読書会に来た人はその場で音読したんですけど、一応読み上げてみますね。
「私たちは神を知ることで、このお互いの繋がりを得るのでしょうか。」
マーシャル「私は神について知的に理解することから遠ざかりたいと思っています。
もし、神を知るということが、愛しき神聖なエネルギーとの親密な繋がりを意味するのであれば、私たちはどの瞬間も天国を体験することとして過ごすことができます。
神を知ることで得られる天国は、この必然性を知ることです。 どんな地獄のような状況が起こっていたとしても、
私たちがこのレベルでお互いに繋がり、お互いの神聖なエネルギーに触れることができれば、
与えることを楽しみ、命に戻るのは必然なのです。 私は人々とともに過酷な経験をしてきたので、
この必然性についてはもう心配しなくなりました。 それは必然なのです。
私たちがその繋がりの質を得られれば、それにより行き着くところは、私たちが気に入る境地でしょう。
その効果には驚かされます。 政治的にも、宗教的にも、過激なイスラエル人とパレスティナ側の同様な人々との間や、
仏族と種族、ナイジェリアのキリスト教徒とイスラム教徒の部族の間にも、同様な例を挙げることもできます。
どの例でも、この和解と癒しをもたらすことの絶やしさに驚かされます。 もう一度言いますが、私たちがすることは、双方を相手のニーズに繋げることで、
それが全てなのです。 ニーズと繋がることは、私にとって神聖なエネルギーと繋がる、最も早い身近な方法なのです。
誰もが同じニーズを持っています。 ニーズがあるのは、私たちが生きているからです。」
この中で、まず、愛しき神聖なエネルギーはどんなものなのかという話をしました。
これに関しては、以前も話したことがあるのですが、 特にその愛しきという言葉がどんなところから出るのかということで、
マーシャルのお返事にある 東洋の宗教や詩人の言葉を読んで、彼らはこのエネルギーと個人的な愛にあふれる
繋がりを持っていることが大好きになりました。 そしてそれを愛しき神聖なエネルギーということによって、私の人生が豊かになることに気づきました。
愛しき神聖なエネルギーの働き
私にとってこの愛しき神聖なエネルギーは、命であり人生、命への繋がりなんです。 というふうに書いてあって、身近な人だったり、東洋の人だと、お花をめでるというふうに言ったりする。
そのめでるって愛って書くんですけども、そんな感じで、すごく身近で親密性のある
愛しきっていう。あと自分も含まれている感じですかね。なんかの養子の
養子の神かなっていうふうに言ったりしますけれども、東洋の神の概念だったり、精神性って
繋がりの中にある感じなんですね。遠くにいるとか、自分よりも上の神という存在が自分とは別にある
ではなくて、私たちの食べ物の中にも神様が宿っているし、私たちの中にも神様が宿っている。そんな感じで、私たちが大好きな
あの人にも、この人にも、もしかしたらあまり好きじゃない、あの人にも、この愛しき神聖なエネルギーがあるんだという
ですね。これはその今の問14の返事の一番最後の方に、誰もが同じ水を持っていますというのと同じで、誰もが命を持っていますという
だったりね、その命の神聖なエネルギーを持っていますというふうに読み替えることもできるかなと思うんですけれども、問18に行くと
普遍的という言葉も出てくるんですが、水は普遍性がある、普遍的であるというふうにします。
問14の一番最後にニーズがあるのは、私たちは生きているからですというふうに書いてあるんですけども、私たちの命、生きているっていうことを持続可能にするために必要なものっていう、必要なものっていうのはニーズという言葉で表されているんですよね。
なので、生きていないとそのニーズは必要ではない。
水だったり食料だったり親密さ、交流というのも生きているから、私たちの命が必要だ、それが存続するために必要なものというのがニーズですね。
私にもあるし、あなたにもある。お花にもあるし、お花は交流とかがあるかどうかわかんないですけれども、ただ森の木とかが根っこでコミュニケーションをとっているって別に人間が話すようなコミュニケーションじゃないかもしれないけれども、こっちは今水があまりないぞとか、今から例えばそれこそキリンがアカシアの葉っぱを食べるときにアカシアの葉っぱがある種の化学物質を
空気中に放出して、風のかざし物、アカシアの木は今からキリンがそっちに行くかもしれないぞという情報を得て、わざと葉っぱをちょっと苦くするというふうに言われています。
なので、そのふうに、いわゆる化学物質だったりホウモンだったり、電気信号だったりでコミュニケーションをとっているというふうに言われたりしていますが
それは同じニーズを持っている者同士ですね。私が痛いと痛いことはあなたも痛いんじゃないか、私が喜ぶことはあなたも喜ぶんじゃないかっていうね、そんなふうに繋がりの中で、あなたが嬉しいと私も嬉しい、あなたが健やかでご機嫌でいると私も幸せに暮らしていけるっていうふうなその繋がりの中にいるので
そういう意味でも不変性というのは、私のニーズとあなたのニーズ、命がある限りはまずどちらも同じニーズを持っているよねっていう不変性と、自分の中で今日もそのニーズが必要だし、明日もそのニーズが必要で、ニーズの強弱っていうのはあるんだけれども、たった今私がお腹が空いていないのに食べ物のニーズは低めなんですけれども
それは食べ物のニーズが生き生きとしていないだけで、あるはあるんですよね、食べ物が必要というとは必ずあるというそういう意味でも、自分の中の不変性と自分と相手、他の人とも同じように大切なもの、必要なものという意味で不変性というふうに言っています
ニーズと必然性
そんなニーズとは何ぞや、みたいな話も出ました
それから、ここから行こうかな、頭の方から行きましょうか
必然性という、必然なのですとか、必然性という言葉が何度か出るので、必然という質感の話も出ました
これは英語の言葉を別な言葉で、例えば約束すると、避けられない、避けがたい、避けられないのですというふうにも言えるのですけれども、つまり神を知ることで得られる天国、自分が愛しき神聖なエネルギーがある、そしてそれを感じている状態で得られる、この至福の感じ、天国は
それが、まず愛しき神聖なエネルギーは自分たちの中にあるというのは、必然、避けがたいものなのです、命がある、命のエネルギーがあるというふうにも言い換えられるので、生きている限りそれはあるのは、必然なのです、避けられません
そして自分が自分にそのエネルギーにすっかりこのレベルでつながり、お互いに愛しき神聖なエネルギーから、相手の愛しき神聖なエネルギーにつながる、そのレベルでつながるときに与えることを楽しみ、命に戻るのは必然なのです
逆に言うと、憎しみ合うことが難しい、相手は痛い目に愛がいるというふうに思うのが難しい、ほぼ不可能という意味での出現です
マーシャルは、いろんな人々とともに過酷な経験をしてきたので、自分も過酷な経験をしてきたし、仲裁をするとき、メディエーションと呼んだり、朝廷と呼んだりしているのですが、それをしているときに見聞きした過酷な経験を知っている
けれども、ニーズにつながったときに、このレベルでつながれるということが避け難い、必ず起こるということを見聞きしてきたので、経験してきたので、それが起こるということ、その必然性については心配しなくなりました
次のところで、どの例でも、若いと癒しをもたらすことのたやすさに驚かされます。普段、主難とか、あなたはこんなひどいことをしたという過去の話をしているときには、もちろん実際にそれは起こったことであっても、起こったことの中に解釈が入っているのですが
起こったことだとしても、感情とニーズのレベル、その普遍的にある。私は確かに、あなたの部族の人を殺したんだけれども、私も命令で仕方がなかったんだという外側に理由をつけると、対立はいつまで経っても平行線、何だったらひどくなっていくということなんだけれども
実際には、自分の家族を守るため、私だって怖かったんだとか、殺すことが悪いと思っている人を殺すことを快感に覚えるような教育を受けてきたんだというような、本当にここのそこから誰かを殺したいと思うかどうかといったら
自分の家族が同じような目に遭うのは嫌だということは、つまりは誰に対してもそういうことは起こってほしくないというのが根底に本当はあるはずなんだけれども、それがいろんなマスクされているというか、覆い隠されているもののせがある
実際にこのお互いの新鮮なエネルギーに自分のに触れ、相手のに触れ、そしてお互いが触れると、必然、もうはけがたい、早く若いと癒しがもたらされるよねということですね
最後にもう一度言いますが、私たちがすることは、双方を相手のニーズにつながることで、それが全てなんですというふうに書いてあって、自分のニーズじゃなくて相手のニーズなの?という質問があったんですけども
まずもちろん自分のニーズにつながる必要があるんだけれども、その先に相手のニーズにつながるところまでサポートした友にいたら、そこまでいったらもう必然的に起こるので、ミディレーターとして、第三者としてそこでサポート、その場をホールドする人としているとしたら
マシャルはNVCを実践するだったり、ギルだったり、トレーナーとして伝えるという意味では、双方を相手のニーズにつなげることをやろうとしているミディレーターとして、なのでそれが全てなんですというふうに言っているんだけれども、当事者としてはまず自分のニーズにつながって、そしてもしかしたらそうやって誰かのサポートを得て相手のニーズにつながるとする
相手のニーズにつながるということは、自分のニーズにつながることもそうなんだけれども、自分の人間性、自分が人間であるということだったり、全体性を取り戻すだったり感じる、自分の全体性につながる感覚がある、今ここの身体感覚があるというところにつながって、自分が人間である
血が通っている、息もしている、ニーズもあるというところにつながると、相手のニーズにつながることができやすい、そして相手のニーズにつながったら対立しているのは難しい、そんな話ですね
なので、問14が、「私たちは神を知ることでこのお互いのつながりを得るのでしょうか?」と書いてあって、それが愛すべき神聖なエネルギーと、神という外側にある知的な理解をしているものと同じように扱うのは違うねというか、そうやって知的に理解することから遠ざかりたい
自分の中の愛しき神聖なエネルギーと、親密なつながりを持つ、本当に自分のものとして、自分の一部として感じるということを話していました
問14とマーシャルの回答
さっきも言ったように、それを自分の中でつながって、相手のその愛しき神聖なエネルギーともつながる、そうすることで質問にあったこのお互いのつながりを得るのでしょうか、お互いのつながりは神聖なエネルギーにつながり、つながり合うと言われますよというお返しでしたね
問18、何がニーズをそのまま伝えることを妨げているのでしょうか、という問いを昨日は読みました
ところも、問14につながっているんですけれども、マーシャルの回答を読みますね、回答というのはお返しという意味で正解を伝えているというわけではない
「多くの人にとって感情のリテラシーを身につけることと同じぐらい、ニーズのリテラシーを身につけることも非常に難しいことなのです
実際には多くの人がニーズに対して非常にネガティブなイメージを抱いています
そうした人々は手がかかること、依存的であること、理工的であることなどをニーズとともに連想します
これもまた、支配構造にうまく適合して、経緯に従順になるように人々を教育した歴史に由来するものだと私は考えています
ご存知のように、人はニーズにつながっていると良い奴隷にはなりません
私は21年間学校に通いましたが、自分のニーズが何かを問われたことは一度もありません
そして私の受けた教育は、自分自身や他者の中に築いている、生き生きしているものに触れ
私がより生き生きするのを助けることに焦点を当てたものではありませんでした
権威が定めて正しい答えを導き出せば褒められるという方向性のものでした
ニーズを表現するために、あなたが使っている言葉に注目してください
ニーズには特定の人が特定の行動をとるという言及はありません
ニーズは普遍的です
人は誰でも同じニーズを持っています
ニーズのレベルでつながれて、お互いの人間性が見えてくると解決できないと思われた対立が解決できるようになるのは驚くべきことです
ニーズのリトラッシーと教育
私は対立葛藤を抱えている人たちと関わることが多いです
夫婦、親子、無俗の人々などです
このような人たちの多くは解決できない対立葛藤を抱えていると考えています
文装解決やミディエーション、調停、仲裁の仕事を長年続けていて今でも驚くことは
人々が疑いを診断し、診断し合うのを乗り越え
お互いの中で起こっていることにニーズのレベルでつながると
解決不可能と思われた紛争がまるで自然に解決してしまうように見えることです
先ほどの問14にもつながっているのが分かると思うのですが
ここで話に出たのはニーズのリテラシーを目につけるのは本当に難しいという話で
問26で私たちがやる必要があるのは
1.私たちのコミュニケーション
2.注意をどこに向けるか
3.意識を私たちの中で何が行き着いているのか
そして人生をより素晴らしいものにするとはに向ける
というシンプルなものだよね
同じ問いの返事の中で
2番目に人々が言うのはそれがどれだけ難しいかということです
というふうに書いているんだけれども
そのニーズというものがあるとか
どこに意識を向けるか 感情とニーズに意識を向けて
そして人生をより素晴らしいものにするという意図と目的を持って
コミュニケーションをしたり
いろんな言動を選択するということは難しい
つまりリテラシーというと語彙というふうに言ったりする
近い言葉としては語彙という言葉があるんだけれども
結局その言葉と質感と体験をくっつけて体現するというふうに言ったり
体得とかね そこまでいってニーズのリテラシーを身につけるというふうに言うんですよね
つまり感情の言葉 悲しいとか嬉しいとかっていうのは
この瞬間に感じている嬉しいの 色は重さは質度はどんな感じなのか
もし匂いがするとしたらどんな匂いなのかというぐらいありありと感じられていて
そしてニーズを今ここで大切なニーズは
私のニーズを聞かれることなんだという切実さを持って
それが満たされているときだったら本当にお腹のあたりで感じるぐらい
腑に落ちるぐらいに私は今聞いてもらうというニーズが満たされているというふうにね
体感と腑に落ちるというか質感を伴ってニーズを味わうだったり感じるだったり
それが確かにあるっていうそのニーズがあるから
それが願うほど満たされないと悲しいんだだったり
本当にそれが満たされて嬉しいんだっていうことなんだけど
そういうリテラシーを身につけるというのが難しい
なぜかというとここに書いてあるようにマーシャルもそうだし
私たちも多くの人はそうだったんじゃないかなと思うんですけども
学校に通っても自分のニーズが何か問われたことは一度もない
このようにニーズにつながらないような教育を受けたのはなぜかというと
言うことを聞く 誰かの都合がいい言動をするようになるように
しつけられた教育をされてきたので
ニーズにつながると良い奴隷にはなれない
盲目的に誰かに従うということが難しくなるからです
この支配構造にうまく適応して権威に従順になるようにということで
支配構造と権威の話もちょっとしました
支配している人も親でもいいし 先生でもいいし 上司でもいいし
何でもいいですよ その権力を持っているだったり
そこで何か決定権を持っている人が支配とか権威を使うということは
実際は人間としては辛いことなんですよ
本当は本来であれば 誰か他の人のニーズを大切にしないで
そちらには目を向けない 自分のニーズだけ押すというのは
よっぽど切羽詰まった自分のニーズが満たされていなくて
これが満たされていないと生存に関わるという時か
またはそういう教育を受けてきて 自分の意見が聞かれることが当然だ 値するとか
自分が正しいことを言っていて 相手は分かっていないとか
とにかくNVCの本に書いてあるような 比較だったり値するという考え方だったり
あと責任を回避する 結局外側の判断に沿って言動をするということは
ニーズの普遍性と繋がりの質感
自分のニーズにつながっていなくて 私のせいじゃないです そういうふうに言われたからやったんです
責任の回避をしたりするんですが 命につながっていないコミュニケーションという言い方を
NVCのことは知っていますけれども
そうすると支配している人も 命につながっていないコミュニケーションをしているんですよね
どちらもすごく悲しくなりませんか
マーシャルは冗談めかしてというか 皮肉を込めて良い奴隷にはなりませんという
強めの言葉を使っているんですけれども
すごいメタファーというか 比喩でもあり 実際そうだなということで
本にくれたりとかも私はします
そんな支配構造とか権威とかが生まれるには それだけのお互いに
感情だったりニーズを見ないという 過酷な状態にいるからだという
そこに関しては支配する方が悪いとか 支配される方が弱いとか悪いとかということではなくて
どちらも本当に悲しいよねと嘆きたくなっちゃう
ここまで何年も何千年もそうやって生きてきた 私たちの先祖だったり自分の親だったりという
そして自分の子供たちにそれを傷がせようとしてしまった
私はNVCを知るまでそういうふうに育てていたので
大人が言うことを子供が聞くのは当たり前だみたいな感じで 言うことを聞かせたりとかもしたので
本当にそれを思うと胸が痛くなりますよね
そしてニーズにつながってNVCを実践して気づくのは 本当にそれがしたかったわけじゃなかったのに
あたかも親っていうのはそういうもんだだったり というふうに思ってやっていたなっていうね
なぜそんな怒らせるのみたいな 怒りたくないのにみたいな言い方を
私だって怒りたくないのにあんたたちのせいで みたいなことを言ってたりとかしたんですけど
そこに現れてますね 怒りたくないのになぜか気持ちに鞭を打って
親だからしつけなくちゃいけなくて 子供はしつけられないと何の判断もできないから
しつけなきゃいけないっていうふうに思っている そしてつらいつらい怒るっていうことを大切な子供に怒って
子供がAで泣いてビービーで泣いているのに何かをやらせるっていうね
今思ったら本当に胸が痛くなるような そのことをしてきました
なので私の受けた教育は 自分自身や他者の中に気づいている
生き生きしているものに触れ 私がより生き生きするのを助けることに焦点を当てたものではありませんでしたっていうのが
本当に私の場合はすごく響きました ここにニーズは普遍的です
人は誰でも同じニーズを持っていますっていうことが書かれていました 先ほどもそれは言ったんですけど
ただ一つ言っておきたいのが 繋がりっていうニーズはどんな感じがするんですかとか
どんな場面で繋がりのニーズが満たされている 満たされていないでしょうかっていうような質問が出てくる時があるんですけど
繋がりって何でもいいんですけど ニーズの言葉ってわざと抽象的にしてるんですよね
なので水っていうニーズの時に 飲み水とは限らない海に行くとか
水の音を聞くとか そういう具体的な手段としては そういうものを求めている場合もあるんだけれども
水っていうふうに抽象度を上げることで 私にも水のニーズはあるっていうふうになりますよね
それぞれが自分の水のニーズだったり 繋がりのニーズの質感っていうのを持っていて
それは必ずしても他の人と全く同じっていうことはないと思うんですよね
あとは繋がりのニーズが繋がりのニーズ単体であるわけではなくて その周りには信頼だったり安心だったり
触れることだったり温かみだったり 気空気かレベルだったり
その状況によって仲良くしているというか 一緒にあるニーズがあると思うんですけれども
そのグラデーションだったり模様みたいな感じ
もしニーズに一つ一つに色とか質感とか 硬さとか温度とかがあるとしたら
それが重なり合う部分と混じり合う部分とあるっていう感じはあって
普遍的ではあるんだけれども 全く同じとは限らないっていうふうに私は思っています
あとここで話に出て 私も今もう一回言いたいのは
ニーズには特定の人が特定の行動を取るという言及はありません というふうに書いてあるんですよね
これはミキ・カシュタンさんという認定トレーナーさんが わかりやすくまとめたプラトンのことを
PLATOって書いてプラトンっていうふうに英語では言うんですけれども それをもじってですね
Pはパーソン 人(Person) 。Lはロケーション 場所 (Location) 、Aがアクション 行動 (Action)、 Tがタイム 時間(Time)、 Oがオブジェクト 物(Object)、
ニーズと手段の重要性
なので人 場所 アクション だから言動 そして時間 物がくっついているニーズにくっついているときには
それはニーズではなくて手段だよっていうふうに言っていました
確かにそうなんですね あなたに聞いてほしいっていうのは あなたに聞いてもらうっていう手段なんですよね
なので聞いてもらうっていうニーズを満たすときに あなたに聞いてもらうと一番深く満たされるし
量も多くというか ウキウキ度が上がるのであって 聞いてもらうっていうニーズは
もちろんパートナーなり親しい人なり 目の前にいて今対立している人がいたら
あなたにっていうのは本当に強く感じるんだけど でもあなたに聞いてもらうというニーズはないんですね
聞いてもらうっていうニーズ そしてそれを今この状況で満たす
一番自分が考えられる最善の そして最強の手段があなたに聞いてもらうということですね
ここのニーズと手段を分けるっていうのは すごく大切な意思を実践する上で大切なので
ちょっと力説しておきました あとはニーズのレベルでつながれて
お互いの人間性が見えてくると解決できないと思われた対立が 解決になるのはできるようになるのは驚くべきことです
これは先ほども触れましたね あともう一つニーズには特定の人が特定の行動を取るという言及はありませんに関して
放課後タイムに質問をいただいて このNACの本の25ページでの3行目ですね
2行目から読むと 一連を挙げよう 例えば母親がティーネイジャーの息子に対し
3つの要素を次のような言葉で表現する ペリックス丸めた靴下がコーヒーテーブルの下に2つ
テレビの脇に3つもあるとお母さんはイライラしてしまうの みんなで使う部屋はもっと片付いた状態にしておきたいわ
ここまで感情ニーズだというふうに言っている ここの本の部分では その後にすかさず4つ目の要素を加える
非常に具体的な要求を これは要求というふうに書かれているのですがリクエストですね
脱いだ靴下はあなたの部屋か 洗濯機に入れておいてくれないかしらというふうに言うのですが
その質問がお母さんはイライラしてしまうの、は感情ですね その後のみんなで使う部屋はもっと片付いた状態にしておきたいわ
というのはニーズではないよねという話だったのですが 私はその時にはまず母親がティーンネイジャーの息子に
例えば休息のニーズがあるとか 整理整頓のニーズがあるとか 秩序のニーズがあるとか
自習性 主体性 相互サポート あなたは自分のものをやって 私は自分のことをやって お互いにサポートしようみたいな
というふうに言うことも ティーネイジャーの息子さんがニーズ概念が分かっていたら
伝わるかもしれないのですが もしNVCを実践していなくて それこそニーズリテラシーがない人に
ニーズの言葉をそのまま言っても伝わらないのです 実際に相手が分かるコミュニケーションをしないと
そこにはしがかからない コミュニケーションというのはキャッチボールなので キャッチボールができないのです
なので この第1章のここから与えるの 25ページで書いているのは
みんなで使う部屋はもっと片付いた状態にしておきたいわというふうに書いて ここがニーズのところということになっているんだけれども
これは教科書通りのニーズの伝え方ではなくて ストリートジラフとか日常語でNVCをやるという言い方をしたりもしますけど
そういうふうにニーズを もうちょっと実際の状況に即して書き換えたものだと思います
なので 方程式とか文法は観察環状ニーズリクエストで ニーズは特定の人とか物とか場所とか言動がついてないよという
オプションがついてないよというふうに言われているんだけれども 実際にやり取りするときには
特にNVCをやっていない人とやり取りするときには こういう砕けた方に味方になることもあるよという例が先ほどのNVCのほうにありました
結構盛りだくさんだったのに動画がなくて残念ですが そして参加してくださっていた人のシェアも 自分たちの人生の中にある例とかも
あとNVCをやっていての気づきとかもいろいろあったんですけれども 個人的なシェアもあったので一応割愛して
ちょっとレクチャーっぽい感じになりましたが 総まとめという感じで動画を撮ってみました
かなり長くなってしまったんじゃないかなと思うんですけれども もしこれが参考になったら幸いです
ではまた来週以降お会いしましょう
36:03

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