裏切りを告げるイエスと動揺する弟子たち
ヨハネ十三章二十一節からお読みします。
イエスはこれらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。
まことにまことにあなた方に言います。あなた方のうちの一人が私を裏切ります。
弟子たちは誰のことを言われたのかわからず、当惑し、互いに顔を見合わせていた。
弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。
そこでシモン・ペテロは彼に、誰のことを言われたのか尋ねるように合図した。
その弟子はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。
主よ、それは誰のことですか?
イエスは答えられた。私がパンキレーを浸して与えるものがその人です。
それからイエスはパンキレーを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。
ユダがパンキレーを受け取ると、そのときサタンが彼に入った。
するとイエスは彼に言われた。
あなたがしようとしていることをすぐにしなさい。
席についていた者で、なぜイエスがユダにそう言われたのか、わかった者は誰もいなかった。
ある者たちは、ユダが金入れを持っていたので、祭りのために必要なものを買いなさいとか、
貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていた。
ユダはパンキレーを受け取るとすぐに出ていった。
時は夜であった。
以上です。
今日はこのところから、イスカリオテユダとヨハネと題して見言葉からお話いたします。
イエスに愛されたヨハネの謙遜と親密さ
皆さんおはようございます。
今日2月最後の日曜日ですが、
昨日と今日と4月を思わせるような暖かさになると予報通りで、
花粉も飛んで、きついかと思います。
洗濯物も家の中に干したりとか、そんな季節になりましたが、
早いですけども、季節の移り替え。
今日は、ちょうど4月5日が今年イースターですけども、
その前の受談集とも関わりがあるような、ユダの裏切りのところから見ていきたいと思います。
実は13章からイエス様の洗浄という行為が続いている場面です。
おそらく、いわゆる最後の晩餐の時じゃないかと言われていますが、
沈黙が広がったんですね。
主であるイエス様が、突然奴隷のように弟子の足を洗ったという場面がありました。
その時に、その沈黙を破ったのは、いつもの通り、
デシャバリのペテロですね。
主よ、決して私の足を洗わないでください。
彼の言葉によって、沈黙は破られました。
そして今日の場面も、2番目の沈黙です。
それは、イエス様がですね、
まことにまことにあなた方に言います。
あなた方のうちの一人が私を裏切ります。
12人しかいなかった中で、
そのように言われて、まさにここであるように、
お互い顔を見合わせて衝撃が走ったわけですね。
そして、その沈黙を破ったのも、実はペテロでした。
ペテロはですね、13章24節見ると、
あいずしたとありますが、そこは元の言葉で見ると、
うなずいたという、まさにですね、よくやりますよね、こうやって。
そういうことの首を振るジェスチャーをおそらくして、
それは誰だとヨハネに聞かせたという場面でした。
そのところからですね、今日3つのことを見ていきます。
1つはですね、イエスに愛されたヨハネということで、ヨハネについて。
そして2番目は、イエス様の愛を拒んだユダということです。
そして3番目はですね、
そのようなユダに私たちもなりたくないと思っていますから、
そんな私たちはイエス様の胸元へかみ込んでいく。
そんなことを見ていきます。
今日の場面は、まさに暗い夜ですね。
時代劇なんか見るとね、食事をする場面、夜の食事をする場面、
今もタイガドラマでやってますけどね、信長が中心に。
暗い中でロウソクを飛ばして食事したり、三次を交わしているわけですね。
そんな暗い夜の夕食時というか、杉越の食事の時に、
たった数人だけスポットが当たっているんですね。
イエス様と弟子のヨハネと、そしてイスカリオーテのユダ。
そのおそらく3人を取り上げていきたいと思います。
まず最初は、1番目。
イエスに愛されたヨハネということですね。
ちょっと読んでみましょうか。13章25節。
その弟子はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。
主よ、それは誰のことですか。
この福音書を書いたのは、ヨハネの福音書と言われている通り、
おそらく十二弟子の一人のヨハネです。
しかしこの福音書の中で、バブテスマのヨハネという名前が出てきますけど、
弟子のヨハネという名前は一回も出てこないんです。
その代わりに、イエスが愛しておられた弟子という表現で、ここを含めて3回出てきます。
21章に7節と20節、合計3回で。
なぜそのように言ったのか。
いろんな説がありますが、おそらく彼はですね、
十二弟子になったという高い地位とか、
あるいはこの福音書を書いたという名誉をですね、
自分の拠り所にしなかったわけです。
イエス様に愛された弟子だということだけをですね、
イエスに愛されたということだけを、彼は拠り所にしたのではないか。
またそのイエスと自分の名前を並べて書くことを恐れ多いと思って、
彼の謙遜の現れが、このイエスに愛された弟子という書き方を知っているわけなんですね。
自分がこの書いているものに登場する部分です。
そして注目すべきことがあるんですね。
それはおそらくこの最後の晩餐と言われる場面ですけれども、
そのヨハネの席順です。
これまでお話ししてきましたように、
当時正式な食事あるいは厳粛な食事はですね、
このようにアイロン台ぐらいの高さのテーブルを置いて、
そして利き腕でない左腕を下にしてですね、
みんな寝そべりながらこの食事をした。
これが正式な姿なんですね。
今ね、結婚式披露宴で寝そべってたら怒られるわけじゃないですか。
ギワギワるいとか言って。
子供みたいなことするなって寝っ転がってる赤ちゃんと比べたり。
でもとにかく横になっていた。
そしてその時にイエスの胸元にヨハネがいたという書き方をしています。
おそらくこんな絵じゃないですかね。
イエス様がいて胸元にヨハネがいた。
ですから近くにヨハネがいたのでペトラを合図して、
ちょっと聞いてみろっていうふうに言ったように思われます。
そして胸元ですぐイエス様のですね、
胸の前にヨハネの頭がある位置に席を設けていた。
そしてこうのけぞるようにして振り返るようにして、
イエス様にですね、それは誰ですかって聞いたと思われるんですね。
実はこの胸元という言葉が特別な意味を持っています。
ギリシャ語ではですね、コルポスという意味です。
実はこの胸元コルポスという言葉は、
1章の18節でも使われています。
ちょっと読んでみましょうか。
とても大事な鍵となる言葉の一つです。
ヨハネ1の18、3、はい。
いまだかつて神を見た者はいない。
父の懐におられる独り子の神が、
神を解き明かされたのである。
この懐という言葉が同じ、
胸元と同じコルポスというギリシャ語の言葉なんです。
で、わざとこの言葉を主に愛されたと自称する弟子であるヨハネは、
並べて書いたというかですね、反映させて書いたと言われています。
なぜか、まあ、いろんな理由ありますけども、
おそらくまずこの1章18節でここで前も言ってみますが、
イエス様と父なる神様の親密な関係がですね、
こういう形で描写されている。
胸元にいる。
だから、もちろんイエス様は神でもあられますけれども、
道と親密な関係にあったからこそ、
この目に見えない神様を私たちに正確に寸分違わず、
解き明かすことができたということを、
この1章18節では言っているんですね。
そしてヨハネはそれに反映させるように、
私もイエス様と同じ、
イエス様が道の胸元にいたように、
イエスの胸元にいたので、
イエス様のことを寸分違わず、
この福音書を持ってあなた方に解き明かすことができるんですよ、
そういう示唆があったのではないかと言われているんですね。
そしてもう一つ大事なことはですね、
皆さんもお気づきになったと思いますが、
胸元というコルポスという言葉は、
親密な関係ですね。
ちょっと物騒かもしれませんが、
フトコロガタナという言葉ね。
それは君主に対する側近を言います。
相談役という意味があるそうなんですが、
信頼されていつも側に仕えていた側近を
フトコロガタナという言い方をしていたんですけども、
まさにヨハネはイエス様の側にいて、
アドバイスは多分しなかったと思いますけども、
イエス様から信頼され、そして愛されていた。
そのことがこの胸元という言葉に表れているわけですね。
道と肉が持っていた、
イエス様が父なる神と持っていた、
そのような親密な愛の関わりを、
ヨハネは主なるイエス様と持っていたということが表れています。
そして先ほども言いましたが、
だからヨハネは自分を主に愛された弟子と呼び、
それを名誉でもない地位でもない、
自分の拠り所としていたということがわかるわけですね。
私たちもヨハネのように、
イエス様に愛されているということを深く知って、
それを自分の拠り所として歩んでいくお互いでありたいものですね。
2番目、それと対照するように、
光と闇のように、闇の部分を見ていきましょう。
2番目、イエス様の愛を拒んだユダ。
そのヨハネの問いかけに対して13章26節、イエスは答えられた。
ここで読んでみましょうか。
私がパンキレを浸して与えるものがその人です。
それからイエスはパンキレを浸して取り、
イエス様の愛を拒んだユダの選択
イスカリアテノシモンの子ユダに与えられる。
ここからイエス様がパンキレをユダに与えた行為、
いくつか言えますけど、
ここではユダのことがフルネームで書かれています。
ですから非常に厳粛な場面なんですね、重要な。
そしてこのパンキレを浸してあげた、
チーズフォンデュなんてありますけどね、
フランスパンをいろんなスープに浸して食べたりすると柔らかくておいしいですけどもね、
この行為は何を表していたか想像つきますか?
これはですね、実はユダに対するイエス様の愛が表された行為だって言うんですね。
13章1節のこの場面の冒頭、
イエス様は弟子に対する愛を最後まで示されるために足を洗ったとあります。
そのパスコードの部分では、
究極な愛、そして十字架の終わりまで弟子を愛し続ける愛、
その中に実は裏切り者とわかっているユダも省かれていなかったという行為なんですね。
どういう意味か、どこにイエス様の究極の愛が明確にするかということを見ていきます。
話をとりますけども、実はこの行為が裏切り者を示す行為だということを、
ヨハネ以外、たぶん理解してなかったんですね。
だから皆さん気づいたと思いますけども、
ユダが出ていった時に、
イエス様との会話の中で、
イエス様がユダに食事の用意しなさいとか、
お金を使って何かしなさいと言ったと弟子たちは思ったって書いてあるじゃないですか。
だから弟子たちはユダとイエス様のやり取りがわかんなかった。
そういうみんなの前でこいつが裏切り者だって言わないところに、
イエス様の愛と配慮が見えてくるんじゃないかと思うわけなんですね。
その上で、これはイエス様がユダに最後の決断の機会を与えたと言われています。
ユダにパンを差し出すことによって、こういう言葉が隠れていたんじゃないか。
こういう思いが暮れていたんじゃないか。
裏切りをやめるなら今ですよ。
あなたが今決断しなさい。
そういう意図がパンを差し出した愛を示す行為に現れていたんだと言われているんですね。
残念ながら選択を責められたユダは悪い方を選んでしまったわけですね。
こうありますね。13章30節読んでみましょうか。ユダからさん。
ユダはパン切れを受けるとすぐに出て行った。時は夜であった。
これがここの区切りの最後の言葉が夜であった。
ニコデモの場面と同じように夜は霊的な暗さとか、その人間の闇の部分を表している。
そういう要因が漂うわけですね。
突然ですけど、皆さんこの女性誰かわかりますか。書いてありますね。川中美由紀さん。
すみませんね。この方は素晴らしい方なんですけど、説教の品位が上かもわかりません。
なぜこんな話をするか。川中美由紀さんの代表曲を私もこの間初めて知ったんですけど、
二輪奏という曲があるんです。
それはどんな歌かというと、夫婦の静かで深い愛を描いた歌だそうです。
派手さはないけれど、日々の暮らしの中で支え合いながら生きる二人の姿を描いた演歌だそうで、紅白にも出た。
彼女はそういうイメージでずっと来て、来年かな。今年から50周年だそうです。
ただ、あるラジオ番組で、彼女は実はこう言ったんですね。
私は実は影がある歌の方が好きなんです。
そしてこう言ったんですね。そのまま文字起こししましたけど、私パッと見て分けありの感じしないでしょ。
でもね、人間ってそういう部分、影の部分であると思うんですよ。
火の当たる部分とそうじゃない部分とか絶対ある、人には見せられない、言えない、消しゴムがあったら消したい、書くとかね。
言ったんですね。それ私聞いてね、すごいなと思って思わずメモしてしまったんですけども、
ね、火の当たる部分とそうじゃない部分、人には見せられない、言えない、そういう部分が絶対誰にでもありますよ、自分のことを指して言っている。
このイエス様の最後の愛の招きを自ら拒んだユダの行為、それによってまさに人のですね、
闇の側面が一層浮き彫りになっているのではないでしょうかね。
そこにはイエス様の愛を拒んで、悪しき道を選んでしまうという人間の姿が見えてくるのではないかなと思うわけですね。
もちろんそれが描かれているわけです。
はい、そして3番目、それと関係して話を進めますけれども、ではイエス様の胸元へということを見ていきましょう。
先ほど言いましたが13章30節、ユダはパン切れを受けるとすぐに出ていった。
時は夜であった。
学者たちがよく説明するんですが、このイスカリオテのユダの場面がこのように厳粛にありありと描かれている、
それには弟子のヨハネの意図が現れている。
どんな意図か、それは後にこの物語を読む人が、
私たちが教訓とするためだ、と言うんですね。
イスカリオテのユダも他の11人の弟子と同じようにイエス様の側で3年間仕え、
イエス様の奇跡を見て、そしてイエス様の言葉を聞いて、
この子で表されているように、イエス様の愛の奉仕というか、
イエス様の愛をおそらく実感してきた1人だと思うんですね。
でもその弟子の裏切り、ユダの裏切りの行為はですね、
どんな愛された弟子であっても、そのような誘惑があり、
イエス様を裏切るような隙がある、
そういう罪が入り込むという戒めだと言われているんですね。
そして、ある学者に言わせれば、
私はそんなことないというのは自己欺瞞だと言うんですね。
その反対に、私たちに対して、
自分はユダのような罪を犯さないという、
鷹は膨らないようにという警告でもあるというんですね。
その学者はこんなことを言っているんですね。
自分のうちにあらゆる種類の罪を犯す可能性があると知ることが大事である。
自分のうちにあらゆる種類の罪を犯す可能性があると知ることが大事である。
かっかりするかもしれませんし、
私も見言葉を触れながら不安になるわけですね、残念ながら。
ところで、泣いている赤ちゃんを抱っこする、
それをして泣き止むコツとして抱っこします。
抱っこして泣き止むってありますよね。
こんな絵がありますけど、この絵と共通点分かります?
ドクターか看護師さん、これはたぶんお父さん。
これは抱っこしているピクトグラムですかね。
これ全部共通しているの分かりますか?
そうそうそう、さすがお母さん。
全部左胸に、ですよねこれ。
左胸に抱いているでしょ。
これがやはりある、それなりの科学的エビデンスがあるらしくて、
なぜ泣き止むかというと、
抱いている人の心臓の音を聞いて泣き止む。
それは母親の体内にいたときに、
この赤ちゃんが聞いていた懐かしい音だ。
だからそれを聞いて泣き止むんだと言われているんですね。
イエス様の胸元へ駆け込むことの勧め
母の体内でずっと聞いていた懐かしい音だ。
私たちが誘惑にあって、あるいは弱い自分の弱さを知って不安になるときに、
ヨハネのようにイエス様の胸元に飛び込んでいく。
私たちを作られて、母の体で練り上げた、
その創存の神様、イエス様の胸元に飛び込んで、
そして作られただけじゃなくて、最後まで愛し抜いてくださる、
イエス様の心の音を私たちは祈りの中で、
あるいは聖書の言葉に触れることによって、聞くことができるんじゃないかと思うんですね。
そうしてユダのようではなくてですね、
ヨハネのようにこのイエス様の胸元から離れずにですね、日々歩んでいく。
そんなことが大事なんじゃないか。
繰り返しますが、自分にもユダのような弱さや危なさがある。
そんな中で不安になることがあるかと思うんですね。
でもその時こそ、イエス様の胸元に飛び込んで、
助けてくださいと、祈りながら、見言葉を聞きながら、
イエス様の心の音を聞いていく。
その油断せずにですね、誘惑から神様に守っていただきなさいという、
そういうことをパウロがですね、別のところで言っているんですね。
そして神は守ってくれますよという言葉になっていますが、
そのパウロの書いた言葉を見ていきましょう、最後に。
第一コリント十章の十二節から十三節ですね。
読んでいますね。
ですから立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい。
あなた方が経験した試練は皆、これ誘惑とも読み換えることができるんですね。
あなた方が経験した試練、誘惑は皆、人の知らないようなものではありません。
ここで読んでみましょうか。
神は真実な方です。
あなた方を耐えられない試練に合わせることはなさいません。
むしろ耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
私たちはイエス様に助けを求めて、その胸元に飛び込むことができますね。
そしてイエス様はそんな私たちに手を差し伸べ、許し、そして誘惑に近づく力を与えてくださる真実の神様である、愛の神様であることを覚えて歩んでまいりましょう。
お祈りします。
天の神様、皆、お賛美いたします。
あなたはあなたの胸元から救い主イエス様をこの地に使わせて下さいました。
あなたのお姿、真実の愛を示すためです。
そしてイエス様は弟子たちを私たちを最後まで、そして最大の愛をもって愛し導いてくださる救い主であることを知ることができ感謝いたします。
弱さを覚える私たちでありますけれども、どうかそのような不安の中でイエス様の胸元に飛び込み、
祈りまた、あなたの御言葉を聞いて、あなたに支えられ歩んでいく、そのようなお互いであり、教会でありますようどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど、イエス様は御言葉にお答えする、黙祷の時間を持ちましょう。