滝並ゆかり先生の感想
こんにちは、のらじおのmuroです。
こんにちは、かえです。
どれくらい前かな?
配信のスケジュールでいくと、たぶん3回前ぐらいに、
宮崎駿の君たちはどう生きるかについて話したじゃないですか。
はい。
あれ、ちょっと驚くべきことがありましてね。
あの回、漫画家の滝並ゆかり先生が聞いてくださったらしいじゃないですか。
感激ですね。
ツイッター上のコミュニケーションだと気持ち悪さが出ないかどうか、
すごい不安で素っ気ない感じのコメントを返してたんですけど、
マジで嬉しかったです。ありがとうございます。
これ聞いてるかわかんないけど。
ガッツリここぞとばかりに、私たちは無痛恋愛がしたいについての感想っていうか、
あれ本当に素晴らしいと思うので、熱くお返事しました。
もしこれまた聞いてくださってたらありがとうございます。
もしあれだったら概要欄に、私たちは無痛恋愛したい。
あれウェブ連載で毎回最新回が無料で読めると思うんで。
もう本も出てる。
3冊ぐらい出てますよね、たぶんね。
素晴らしいですね。
というかね、話それちゃったら申し訳ないんだけど、
たまたまパパとオルドミーを発掘してしまって最近。
私それ見たいと思った、読んだことないですけど。
全部で25巻あって、プラス11巻。
そんなにあるんだ。
出てるのかなって思うんですけど、
これが1987年から連載開始なんですよ。
生まれた年?
生まれてちょっとしてから。
僕86年生まれなんで、ほぼ同世代なんですけど、
35年前って本当に同じだなって思ったんですよ。
同じっていうのは何を指したかっていうと、
なんて言うんだろう。
パパとオルドミーって基本的に特に前半は、
過不調性的なものに対して、
登場人物の主人公サイドの人たちが基本的に苦しんでるっていう話なんですよ。
主人公不死家庭なんですよね。
5歳をすごく勧めてくる親戚とか、
父の妹のおばがキャリアウーマンで、
上場企業の開発部でどんどん出世していってるんですけど、
すごく結婚を勧めてくるとか、
社内の環境も結婚してことぶき退社することをみんな望んでるみたいな。
お母さんはどうした?亡くなったんですか?
お母さん亡くなってるって言ってますよ。
そんな感じで、主人公のお友達とか、
散歩中で会った人とか、だいたいみんな過不調性的になるものみたいなものに苦しめられているっていう話だなって思ったんですけど、
それがある意味で分かりにくいかもしれないなって思ったんです。
そのようなスコープで見れば分かるんだけど、
それが僕からすると相当分かりやすく書いてるんだけど、
他方その問題の乗り越え方が、ブランド物の服を買うとか、
お父さんとオープンテラスのカフェでおいしいサンドイッチを食べるとかで乗り越えていくんですよ。
幸せみたいな。
幸福みたいなものが、バブル期だから。
物質的な豊かさによって都心のマンションを買うとか、経済的独立によって他者の干渉から逃げるみたいな、逃げるというか、他者の干渉を防ぐみたいな感じの対象をするんですよね。
だから、問題の中心が過不調性であるみたいなことが、ある意味でそのような視点を持ってない人には分からない話だな。
ファンシーな夢物語みたいな感じで、不思議の国のアリスをモチーフにしたような話とかもいくつかあって、
主人公の女の子が原始をするみたいなのが結構あるんですよね。
現実とファンタジーの境目がなくなるみたいなところがあるから、
なんていうかな、その点で何の話をしているかちょっと分かりにくいかもしれないですけど、ここで話が戻ってくるんだけど、
関並ゆかり先生の、私たちは無通恋愛が主体は、一切の弁解を許さないような、非常に他の解釈、ありえないよねみたいな感じで、
過不調性の持つ問題みたいなのが、明らかにされ続けるっていうのが、すげえっていう。
35年経ってみて、これほどはっきり言わないと分からない人たちがいるっていうことなんだ、みたいな。
関並先生が最新回リツイートしたりとか、ポストしたりとかしてるのに、時々リプライトがついてたりとかするとか、
ツイッター上で感想を上げてたりとかするんだけど、これだけ分かりやすく書かれても不愉快な人いるんだみたいなのが結構面白いなと思ってて、ぜひ皆さんも読んでみてもらいたいなって。
ぜひぜひ。
君たちはどう生きるかの話
若いって、10代の子とかね、読んでみたら、グルーミングの問題とかも描かれてたりとかして、
これ結構大事だけど、あんまり誰も教えてくれない話なのがあってもいいなって思ってるんですけど、
今日、全然その話題じゃなくて。
冒頭の、君たちはどう生きるかの話で、ちょっと僕分かんないことがあったんですよ。
ツイッター上で、たまたま全員女性だったんですけど、たまたまおそらく全員30代後半から40代前半ぐらいの、
たぶんすごくちゃんとしたところで働かれている方が、感想として、
あの映画が非常に凡庸でつまらない、老人の戯言だったっていう感想をしているのを、たまたま立て続けにいくつか見て、
なんでそう思ったんだろうみたいなのが、結構疑問だったんですよね。
なんでだと思います?
まあ、表現物っていうか、会う人と会わない人がいるのは絶対そうだから、別にいいとは思うんですけど、その人に会わなかったっていうので、
でも、あの映画が凡庸でつまらないなーって感じるのは、追いやすいストーリーが見つけにくいからかなとは思いました。
分かりやすい。
例えば、千尋が異世界に迷い込んで、居場所を見つけて成長して帰る、みたいな、そういう一連のストーリーが千と千尋とかにはあったし、
もののけ姫とかも、人間と動物の生存上での戦いみたいなメインっぽいストーリーがあったけど、
まあどの作品もメインストーリーがあるようで、割と君たちはどう生きるかみたいな部分もいっぱいあったと思うんですけど、
でも、親切な追いやすいストーリーが一本あったから、とても分かりやすかった。
けど、ちょっと君たちはどう生きるかは確かに、あなたたちは今からこの道をたどっていくんですよ、みたいなのが確かになかったと思いました。
なるほどね。ずっとやぶこがされてるみたいな。
そうそう、一個一個が、これとさっきのに何の繋がりが、みたいなことが多分連続して起こっているみたいな感覚になる。
で、いろいろ物語を表現するものって方法がいっぱいあると思うんですけど、例えば映画もだし、小説もだし、
もっと視聴するものでもドラマ、もっと短いドラマとか、漫画もだし、あるじゃないですか、いろいろ。
でも、私は個人的に思っていることとしては、そういう何か表現の媒体のものって、全体で表現されてるんだと思うんですよ。
ストーリーはその一部であって、色もだし、音もだし、画面の切り取り方とか、そこに出てくる一つ一つの小道具とか、
そこの設定の年代とか世界とか、その時間の流れの速さとか、全部で表現されていて、しかもなんでそんなことをするかっていうと、端的に言えないからだと思うんですね。
端的に言えることだったら端的に言ってしまえばいいんだけど、言葉にしにくい、端的に言ってしまうと誤解を与えてしまうことを、できるだけ誤解を与えないようにして人に伝えるために全体で、
丁寧にやってるのがそういう作品だと思うので、思いっきりそれをやったっていう感じなんじゃないかなと思うんですけど、君たちはどう言ってるか、余すとこなくっていう感じに私は受け止めました。
作品の評価と表現
逆に無駄を一切省いたらああなったんじゃないかなみたいな感想。だけどストーリーを重視して映画を見たいっていう人には、すごい訳はわからないだろうなとは思うなっていう感じ。
なるほどね。そうか。それは一理あるよね。
それは一理ある。その話をしてた、あれがつまらなかったって言ってた人の、なぜつまらないと思ったかっていうのが、僕としてもよくわからなかったから。
前後に特に説明はなかったから、いまだによくわからんけど、かえちゃんの説明は確かに一理あるなって思った。
わかんなかったってことだよね、その人たち。でもそうか、結構みんな断言してたから。
つまらなかったって。
わかんなかったならわかるんですよ。わかんなかったんだ。けど、たわごとだったとか、凡庸だったっていうのは、そのように判断する根拠みたいなのがどっかにないと断言できないんじゃないかなって思ったんだけど、
何のあたりに根拠を求めたんだろうってなって、かえちゃんのような説明だと、ストーリーがない根拠になって、全体的にたわごとだったとか凡庸だったっていう印象になったってことだよね。
そういう仮説。
まああり得るか。そうか。
存在的にもわかりやすい人が少なかったんじゃないか。
存在的にもってどういうこと?
メタファー的な登場人物が多かったから、青鷺も結局何者かわからないのはわからないし、
なんで鳥ばっかりなんとか思い出したら、なぜそれがそこにあるのか説明、言葉で説明しにくいものばっかり。
でも言葉で説明できないから映画にしてると思うんだけど、わけわからんてはなるかもしれんなぁとは思いますね。
そうか。難しいな。
私も一番20歳ぐらいの時に、初めて演劇に触れた時に、衝撃団の演劇を見た時に、これなんだと思ったんですよね最初。
しかもアングラ衝撃団。
これは一体すごく圧倒されて、びっくりしたんだけど、私の知っている物語の表現物と違うぞっていうのがあって、
それこそかなりね、印象としては君たちはどう生きるかに似てたんですけど、その時受けたその演劇の演劇と。
で、これは一体どういうことなんだってしばらくずっと考えてて、かなり断片的な集合体だと思ったんですよね、その時その劇。
美しい断片的な場面の集合体だった。
一応主戦のストーリーは薄くあったけど、どうもなんかそのストーリー自体にはあまり意味がない気がするっていうのが強くて。
でもいろいろ、それからいろんな小説とか映画とか絵画とか音楽とか、自分の中で積み重ねていくうちに、
あれは演劇でしかできないから演劇でやっていることなんだなって思ったんですよね。
うーん、なるほどね。
あれは絵画でもできないことだし、小説でもできないことだし、映画でもできないことがあそこで行われていたんだなって思った。
で、そうなるとなんかやっとわかったっていうか、すべての場面がつながってきたみたいな。
その時は断片的に見えたものがだんだんつながってきたっていう感じで、私は結構その経験があって、
いろんな映画だったり、もちろん全然これわかんねえって思うことまだまだあるんですけど、
私のちょっと理解が届いていないものはたくさんあるんだけど、
なんかそういう視点がちょっと前よりは持っているようになったかなっていう気がするんですよね。
なるほどね。
なんかこれ説明できてるかな。
どうだろう。
僕は今のでわかったんだけど。
ああ、よかった。
わからない人もしかしたらわかんないかもね。
アングラ劇団の話が抽象的だったんだよね。
時系列とか時代背景とかいろいろおかしくて、整合しようとすると物語としてすごい変なんだけど、
ただそれは何らかのメタファーというかシンボルとしてそこに現れているから、
シンボルの関係として物語を読み解くと確かにメイクセンスするものがあるっていう。
私たちはやっぱり童話もあれだけど、
わかりやすい物語に慣れているというか、そういうものに親しんできているから、
ずっと時間軸で流れていく、誰かが主人公の一貫した話の流れがあるっていうところから、
なかなか抜き出せないんだけど、
例えば演劇だったらそこにいることがすごい大事で、
あとその場面の一つ一つ全部で、話が流れていってだんだん終わりに向かっていくんじゃなくて、
最初から最後まで全てでまるっとこれで完成品みたいなイメージっていうか、
何かが始まってだんだん経て終わっていくっていうよりは、
ここからここまで全て包括的に一つの作品みたいな、
そういうタイプの映画だったんじゃないかなって思うんですね。
君たちはどう生きるか。
なんか媒体の次元感覚みたいなのを、
みんながどういうふうに捉えてるかわかんないんだけど、
説明の重要性
話すとかっていうのはかなり一次元的なコミュニケーションというか、
時間に対する制約がすごく強い。
文字とかもそうなんだけど、
時間に制約されないみたいなのは実はあんまないんだけれども、
ただ他方、本とかって全部を読んだ後っていうのは、
その本の中にの時空間っていうのを、
こっちの脳の中で好きなように組み立てること、組み替えることができる。
そうすると本の中の時間間隔っていうのが、ある意味でなくなり、
ストーリーのようなリニアに進んでいく。
本のストーリーのようなリニアに進んでいく一つの軸が大事なんだ。
大事というより、
すべてが起きたことが要素として、分解組み立て可能になるっていう。
君たちはどう生きるかの中の下の世界とか塔の中の世界みたいなのは、
まさにそれ。無時間的な世界だから、いろんな時間から人が来てる。
本当ですね。
だからそれもすげーわかりやすく表現してもらってるっていうことだよね。
物語というものの性質について、
めちゃくちゃわかりやすくあそこに具現化してもらってるっていうことかなと思うんだけど。
確かにな。
分からなかったんじゃなくて、それが分かった。
だって分かった上で何か凡庸だったんだと思うんだよな。
分からないことを凡庸と評価したのかな。
本人じゃないからね、なんとも言えないんだけどね。
何か期待を、何かしらの期待があったから、
反発してる、そういう批判になるかなと思うから。
だから私は今回よりも、風立ちぬの時の方がそういうのすごい思った。
逆に、風立ちぬすごい純愛映画だったみたいな人が続出してて、びっくりした。
その純愛の部分だけ抜き取られて、
二人の愛の物語として受け止めてる人がすごい多いって感じたんですよね。
街の周りでは。
それに結構ショックだった。
どこが?みたいな。
恐ろしい映画じゃなかった?みたいな。
私すごい恐ろしかったけど、みんなすごい素敵な愛の物語だったみたいな感じだったから、
全然見えてる世界が違うみたいなのがはっきり見せられた感じで恐ろしかったですね。
我々の一族は年々体が小さくなる。
簡単に言葉も喋れなくなる。
だから、まあそうだよね。
それに比べたら、私がすごい恐ろしかったものをみんなが美しいものを、美しいってその道徳的な、なんていうの?
美しい愛として、私が恐ろしい生きるっていう、この人の言ってる生きるっていうことの恐ろしさみたいなのを風立ちぬで見たと思ったのに、
みんながこう、愛の物語を見てたっていうそのギャップの恐ろしさに比べたら、
君たちはどう生きるかが凡庸だって言われてるほうが全然マシみたいな感じ。
危険じゃないもんね。
風立ちぬを純愛だと思うことは社会的に危険な現象なんですが、
君たちはどう生きるかを凡庸だと思うことは別に危険じゃないからね。
怖くはない、恐ろしくはないって感じ。
わかんない部分は多いよねっていうぐらいの。
そうか。ちょっと話が違うんだけど、
なんていうかな、最近ほら僕はもう一個やってるポッドキャストの同性死ぬ3人っていうのがあるじゃないですか。
あれで、ゆる言語学ラジオの水野さんがゲストに来てくれたんです。
すごいですよね。
もう、ポッドキャスト界の大スター、水野さんが、
よくわからないポッドキャストに来て話してくれるっていう、夢のお話だったんですけど。
そこで水野さんが、水野さんと前にね温泉に行ったんですよ、群馬の。
その時に2人で話した時に、その場にはもう1人行って3人で話した時に、
僕の説明の仕方についての話になったんですよ。
僕が前職で、説明が悪いという、説明の仕方が悪い、難しすぎるっていうフィードバックをよく受けていたんだという話をして、
で、前職でやる中で僕は一つの気づきを得たんですよね。
僕の物事の理解っていうのは基本的には、
何らかのもうすでに分かっていることがあり、それに対してデータがあり、
そのデータを積んでいくと、さらに分かったことが出てくる。
で、その上にまたデータをついて、分かったことがある。
みたいなものの理解の仕方をしてたんですよね。
だから分かりやすく説明するっていうのは、
積んだ順に見せて、
しかも分からないってことは、このデータの妥当性とかが分からないんだと僕は理解してたから、
このデータ部分はこうなってるんですよ、みたいな。
こっちのデータはこうなってるんですよ、みたいなのをそこを細かくさらに喋るっていうことをやってた。
で、その方式で改善しなかったので、僕はさらにいろいろなポッドキャストとかいろいろな人が喋ってるのを観察して、
次の気づきを得たんですけど、
それは、人間が分かったと思ってる時って、パンチラインを聞いてる時なんだって思ったんですよ。
新聞で言うところの見出ししか読んでないというか、見出しにバーンってあった時に、この記事全体の意味はこの見出しなんだっていう理解の仕方をする。
で、その記事の中に結構間違ったこととか結構違うことが書いてあっても、見出しの方を信じる。
あ、YouTubeのサムネイルみたいなやつですね。
そうそう。だからYouTubeとか地上波とかで字幕が出るじゃん。
あれってそうなんだと思うんですよ。ここを理解してくださいと。ここだけ理解すれば大丈夫です。っていうのが出るんだと思うんですよ。
だから僕はみんな分からないのは、この見出しと、この本文の整合性みたいなのが分からないと思ってたから、
この整合性を説明しようとすると、どんどん説明が微にり細にいるわけですよね。
ではなくて、僕が求められてたのは、この見出しみたいなのをバーン出す。
こみ出しみたいなのをバーン出すみたいなのが大事だっていうことを言われてたんだっていうことに、しばらくしてから気がついたんですよ。
なるほど。
で、水野さんにその話をしたら、そんなこと分からなかったんですか?みたいな。
むろこしさんみたいに物事を理解してる人ほとんどいませんよって言われて。
へーって思ったんですよ。
私どっちだろう?分かんないな。そんなの考えたこともなかった。
いや、かえちゃんはこっち側だと思うんだよね。
そうかな。
だって野ラジオでパンチラインから始まったことないじゃないですか。
ないないないない。だらだら。でもその全てが大事ですからね。
だめ。そういうのダメなんだよね。
今日の野ラジオ、3つぐらいのパンチラインで終わったはずだからね。
分かる分かる。私野ラジオでたまに、すごい沈黙が続いてドキッとしましたとかいう感じの感想をいただいて、びっくりするんですよ結構。
この間が必要だったって結構思ってるから。
だってどれだけ考えたかみたいなことが、その次に何を言うかを左右するじゃん。
この間の後のこの一言だから、この間を含めてのみたいなのがあるよねって結構。
だからこの間の時間に椅子の音とか雑音とかリップ音とかが入ってたりするんだけど、
他のポッドキャスターとそれ切って間を詰めるんだけど、僕このポッドキャスターのラジオは間を詰めてないんだよね。
間を詰めないでほしい。
大事だから。それデータだからね。
それも全部コミュニケーションの一部だから。
なーって思ってて、これ怒られますよ。
誰に?水野さんに?
水野さんにも、ゆる言語学ラジオで出るんだったら水野さんにも怒られます。
そうなんだ。
これはトップポッドキャスターの常識らしいですよ。
多分どの番組に出ても怒られますよ。パンチライン。
今日の話のパンチラインないじゃないですか。
ない。だって、でも、
宮崎駿をバカという奴はバカみたいなパンチライン出さないといけないんですよ。
でもそれだと嘘があるからね。
性格じゃないから。誤解されるから。
パンチラインの役割
僕も思ってたんです。
そしたらね、
それに、どうせ水野さんだけじゃなくて、僕は一人やってる牛を忘れるとか、
最近やってる牛を訪ねるって公開収録、コンテンツは出してないんですけど、
公開収録やってて、とかのフィードバックをいくつかもらって、
でもね、結局ね、そうなんですよ。
わかりにくい。結論は何?とか書いてるんですかね。
なるほど。
めんどくせえなとか書いてる。
じゃあもう勉強するのやめろって感じなんですよ。
人の話を聞くのやめろみたいな。お前は人の話聞けてねえって僕は思ったんですよ。
それを聞いた時に。
私たちは同じ研究室で、同じ先生のもとでいましたけど、
文化人類学ってそういうやつですよね、でも。
この人の喋らなかった間をとかについて観察するじゃないですか。
書き起こしの時とかね、言い間違いとか間とかを全部書き起こすんですよ。
そのまま書く。あえてそのまま書く。
私たちはその間とか言い間違いをそのまま、それを含めてその人を知るっていうのをしてきたから、
逆に私は自分が喋る時も、そうあることが真摯な態度だと思ってるんですよね。
データをネット去することが。
そうそうそうそうそうそう。
それが偽りのない飾りだっていう認識だからっていうのはあるんですけど。
でも確かに今の話で、君たちはどう生きるかについて思い返すと、
確かに君たちはどう生きるかにはわかりやすいパンチラインはないですね。
ないね。
ないけど、全体でっていうか、全体とか局所局所に散りばめられてあるものをこちらで拾っていくような感覚は確かにある。
だから、それって僕受け取り手の方の責任だと思ってるんですよ。
逆に言うと宮崎駿は相当信頼してきてるなっていうのも思った。
信頼されてるんですかね。
信頼されてるっていうか、
足切りがあるんじゃない?
分からない人はいいけど、分かる人はきっといるはずっていう。
世界に対する信頼はありますね。
ヒューマニティに対する信頼があるんですよね。
全員には分からない。
全員に分かってもらうことよりも、
このまま伝えてわかる人がきっといるはずっていう、そういう
祈りとかの方を強く私は取りました。
確かに宮崎駿の作品はそうかもしれない。
だからそのパンチラインを作るのが多分鈴木敏夫さんの
仕事なんだ。
僕ね、ジブリ展に昔行った時にね、
このポッドキャストを伊藤茂里さんが聞くことないからいいと思うんですけど、
本当に伊藤茂里を倒さないといけないって思ったんですよ。
で、なぜかっていうと、トトロのキャッチコピーを作った家庭みたいなのが書かれていて、
トトロのキャッチコピーって、この変な生き物はまだ日本にいるんです。
見たことある。ポスターみたいな。
ちょっと性格じゃないかもしれないけど。
なんかそういう感じの見たことある。
で、伊藤茂里さんが初めに出した案は、
この変な生き物はもう日本にいないんです、だったらしいですよ。
で、そのキャッチコピー案を見た宮崎駿が、
キレたらしくて、
いるんだよって言ったんだって。
鈴木敏夫さんが伊藤茂里さんに、まだいるそうですって。
伊藤茂里さんがそのキャッチコピーに書き換えたんだって。
なんか通訳者みたいですね、鈴木さん。
そうなんだって思ったんだけど、
でも、そういう切り取り方をしないと、
トトロもわかんない。
もののけ姫とかもそうだと思うんですよ。
作品の理解
もののけ姫を見た後に、僕たちがどういう感情になればいいかとか、
どういうふうな作品の理解をすればいいかっていうのは、
究極的に言えば生きろなんだと思うんですよ。
風立ちぬも、今生きめ山だと思うんですよ。
生きねばだと思うんですよ。
けど今回はパンチラインないから、ポスターの中に。
ない、確かにない。
だなって思った。
なるほど。
でも、なんていうの。
わかんない。
わかんないんだけど、ちょっと傲慢な言い方かもしれないけど、
パンチラインを整理することは、
理解ではねえぞって思う。
そうですね。
だから、映画を作る人は映画を作る理由っていうか、
絵画を描く人は絵画を描く理由とか、
写真を撮る人は写真を撮る理由があって、
パンチラインにできないからだと思うんですよね。
そうだよね。
一言で言えないから、
あれだけの時間と努力を使って、
できるだけ純度高めで、
共有したいっていうのが表現だと思うので、
それをまたパンチラインに還元するっていうのは、
すごい本当はナンセンスだと思う。
ナンセンスというか、できないことだ。
不可能なことなんだけど、
やっぱり曖昧なものに不安を覚えるっていうのはあるかもしれないですね。
曖昧なままにしてよく。
理解のガイドにはなると思うんだよね。
いかなるパンチラインも。
それが誠実に作られたものであれば、
理解の助けにもなると思うんだけど、
全てではない。
全てではないなと思っていて、
それは受け取り手が何をどの程度分かりたいかという、
受け取り手の問題だよねって僕は思ってる。
僕は前職は仕事としてやってたから、
コンテンツをエンターテイメントとして作るっていう大前提があったから、
僕ができなかったのは、仕事人としての
僕の能力不足だっていうのがあるんだけど、
僕が作ってるコンテンツに関して、
同じような態度に取られても、
僕の答えは、あなたが分かりたいかどうかです。
っていうことを言うから、
ツイッターのフォロワーは減るし、
アップルポッドキャストのレビューはめっちゃ低評価だし、
だなーって思ってるんですけど。
でもなんか私も、
お店、スズメ道具店の
取材とか何件も来てもらったことあって、
いろいろネットの記事とか、
聞かれるのは分かってるんだけど、
聞かれて困るのが、
物を集めてる基準とか、
あと、今後目標は何ですか?みたいなのとか、
あと、どうしてこのお店を始めたんですか?みたいなこと聞かれて、
聞かれるのは分かってるけど、
聞かれるのは分かってるから、
なんとか自分的にこれでっていうような答えを用意して、
それを言うんだけど、
いつもちょっと上層じゃないんだけどなーみたいなのがあるし、
一言で言い表せないくて、
今までの私の結果ですとしか言えないんだけど、
そういうわけにはいかないから、
もっとも分かってもらいやすそうで、
もちろん嘘じゃない、それも要素の一つ、
っていうことを、代表的な一つを説明するんだけど、
なんかそういう感じ、似たような感じ。
パンチラインの価値
すごく大事なことは、宮崎駿と違って、
僕のこととかは、
特に誰も本当は興味がないっていう問題があるから、
興味がないんで、
ちょっと文句言ってみましたみたいなところは多分あると思うんで、
まあいいんですけど。
自分にとって大事な問題ですからね。
みんなにとってはどうでもいい。
私のお店についても、
私にとってもっと大重要な問題だから、
皆さんにはその中から分かりやすいもの一つでも、
分かってもらえたらぐらいでいいんだけど、
もっと言うと、
お金を払ってもらえるんだったら別に分かってなくてもいいみたいなところあるから、
その価値観に対してあんまりにも、
反しているとやばいけど、
なんか無理解だけど、なんとなく僕のこと好きだからお金払いますとかだったら、
全然いいなっていう感じ。
分かられたいわけではないんだけど、
分からないと文句言われても、
知りませんっていう。
言われたことないのかな、僕なんか。
大学の時の指導教官に20回ぐらい言われたけどね、
知りませんって。
大学の先生の仕事って知りませんっていうことなのかなって思ったぐらい。
全問答みたいですね。
自分で考えなきゃいけないんですよね。
自分で考えたものを自分の存在をかけて当てていかないといけないんですよね。
それ以外にあんまり価値がないんですよね。
知らないですよ。学問の場では多分そうなんですよ。
魂出してこいよって感じですね。
こんな感じですかね。
こんな感じですかねって言って全部終わるしね。
結論出してきてないからね。
なんかパンチラインで結論出した方がいいですかね。
できんな。
僕の中で今日のパンチライン決まってますよ。
何ですか。
金払うか文句言うかどっちかですっていう。
労力に見合った報酬出して文句言うんだったらしょうがねえなって思う。
それはプロダクトに対するクライアントの不平だから。
今日のやつ全部まとめてそれにされるんだったらちょっと不服です。
僕の言いたいことだから。
今日の僕たちのやりとりは分かる人に伝わればいいんだけど、
それが分かんなくてパンチライン必要な人に用意するならこれですって。
取り戻したいな。
このパンチラインだけ刺さる人にこのパンチライン残したらまた
Podcastに低評価つけられてしまう。
本当ですね。
逆効果じゃないですか。マイナスパンチライン残して
全体としてよくわからないけど最終的に
喧嘩売られた。
怒られたみたいな。
最悪じゃないですか。
最悪だね。
行為より存在に価値がある。
パンチラインとして。
今日の話で伝えたかったパンチラインこれですって。
難しいですね。
こんな感じですかね。
大丈夫かな。不安になってきた。
それではごきげんようむろでした。
ごきげんよう。