1. のらじお
  2. おとこのこの繊細さについて
2023-03-13 31:39

おとこのこの繊細さについて

spotify apple_podcasts
ホモソーシャルの中からは見えないことが多いんです。

「どうせ死ぬ三人:#024 【恒例お便り回】エモについて+【映画感想回】「秒速5センチメートル」」https://open.spotify.com/episode/7e0Wrvrsw7tpSmEQ4EUi28?si=6be34d826f5449b4
「100分de名著 フェミニズム」https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2023special/
イザベラ・ディオニシオ「女を書けない文豪たち イタリア人が偏愛する日本近現代文学」https://amzn.asia/d/5x8RpHd
柚木麻子「ついでにジェントルメン」https://amzn.asia/d/h8M8OM6
秒速5センチメートルのストーリー
かえ
のらじお
muro
はい、のらじおのMuroです。
かえ
のらじおのかえです。
muro
今日は、言い訳をしたいんですよ。
かえ
言い訳、はいはい。
muro
僕がもう一つやってる、どうせ死ぬ3人っていうポッドキャストあるんですけど。
かえ
はい、聞いております。
muro
ありがとうございます。
それで、秒速5センチメートルっていう新海誠監督の映画の観測会をやったんですよね。
かえ
聞きました、はいはい。
muro
で、そのこと自体は別にあれなんですけど。
かえ
うんうん。
muro
僕がね、秒速5センチメートルが2007年か8年くらいの映画だと思うんだけど。
うん。
見た後に、当時好きだった女の子に、この映画が面白かったと言って、紹介して。
うん。
で、その子が見て、見た後の感想が、男の子って繊細なんだね、だったっていう話をしたんですよ。
かえ
はいはい。
muro
その、どうせ死ぬ3人の中で。
かえ
うん。
muro
言ったら、僕が男の子って繊細なんだねって言われたのを、いろいろな解釈がされてるようで、感想を読むと。
かえ
うんうん。
muro
で、すごく僕に同情的なコメントとかもあったんですけど。
かえ
うん。
muro
なんか、あまり真意が伝わんなかったなと思って。
どうせ死ぬ3人の中では、繊細なんだね、男の子って繊細なんだねっていう言葉の真意を説くみたいなのが話題の中心じゃなかったから。
うんうんうん。
あんまり話ししなかったからしょうがないんですけど。
うん。
あれの、僕が考えるあれのシーンみたいなのがあって、その話をしたいんですよね。
うん。じゃあ、これはあれですか、その回を聞いて聞いた方がいいですか。
かえ
そうだね。
どうせ死ぬ3人の話の流れ。
muro
聞いた方が、みんなは意味がわかるけど、別に意味がわかったからといってどうという話じゃないから、好きにしたらいいんじゃないかな。
かえ
好きにしたらいいですか。
muro
全てを理解したいのであれば、やっぱり、映画を観て、秒速5センチメートルを観て、その後どうせ死ぬ3人を聞いて、その後これを聞いたら。
かえ
よくわかる。
muro
よくわかるとは思うけど、なんかそれほどの話じゃないから、好きにしてくださいって感じで。
秒速5センチメートルって、あれなんですよね。
小学校の時に、お互いが好きだった男の子と女の子がいて、中学校の時に片方、女の子の方が転校してしまって、一生懸命電車を乗り継いで会いに行くみたいな。
雪がすごく降ってダイヤが乱れた日で、会えるか会えないかわからないみたいな状況の中で、お互いがお互いを信じ続けたことで会えたみたいな。
で、その強烈な記憶を持った男の子と女の子が、その後男の子の方が種ヶ島なんかに引っ越しちゃって、いよいよ会えなくなって連絡も途絶えがちになっていくんだけど、どうなるその後みたいな話で。
男の子の方はずっとその女の子が好きで、山崎雅也氏の、なんだっけな、まだまだ探しているよっていう曲がテーマソングなんですよね。
男性の繊細さについての解釈
かえ
そうなんだ。
muro
どんなに君の姿をってやつ。
かえ
どこにもいないみたいなやつですよね。
muro
どこにもいないけどずっと君を探しているよみたいな曲なんですよね。
で、それが所々でかかってて、男の子はずっとその女の子のことを思い描いてて、高校生の時も社会人になってから恋人がいるんだけどうまくいかないんですよね。
本当に好きな人がいるから。
女の子の方は順調にいろんな人と恋をして、最後どうやら結婚するらしいみたいな感じで。
で、その二人っていうのが道端ですれ違ったような気がするんだけど、お互いあんまり分からなくていたかもしれないんだけど、再会できないみたいならしさなんですよ。
で、当時ね、今でもそうだと思うけど、新海誠監督が好きだったりとか、この秒速5センチメートルが好きな人、特に男の人はこれを女性側の裏切りと捉えたんですよね。
男の子の方はいつまでも好きなんだけど、結局別の人と結婚してしまうみたいな。
なんていうか、話と捉えたんだけど、どうせ死ぬ3人ではそういう話じゃなかったですよね。
お前が探しに行かねえからだよっていう話で、男の人の方が責められてたけど、当時のおそらくそういうのが好きな人たちっていうのは女性の側が待たなかったみたいな評価だったんですよ。
で、その時に色々考えたんですけど、その時好きだった女性に、男の子って繊細なんだねって言われたのがどういう意味だろうと思ったわけですよね。
かえ
僕のこの繊細さについての解釈っていうのは、言い方はいろいろあると思うんだけれども、恋してる対象の女性をその人そのものを見るみたいなことしてないよねっていう話だと思うんですよね。
muro
その子に何かしらのものが投影されていて、つまり男の子の側のある意味の妄想というか、想像上の存在みたいなのが現実の女性に投影されていて、
かえ
その投影されたものに対する恋心みたいなものが描かれていると。それを良いと思うのは同じような精神性を持っているからだよねっていう意味だと僕は理解したんですよ。男の子って繊細だよねっていう言葉。
深海誠についての批判と理解
muro
はい、わかる。
なのでその時に問われていたのは、現実の人間と対話するっていうか、人間関係を作るかどうか。
もしくは自分の想像上の存在っていうのを現実の存在に投影することで人間関係を築こうとするのかという、僕のものすごい基本的な態度を問われていたと僕は理解してたんですよ。
なのでその時に深海誠と決別するっていうのは、自分の内的な存在を現実の存在に投影するという態度に常に批判的であろうとする。可能であればそれをしないみたいな態度を子供が取っていくんだっていうのが僕の考えだったわけなんですよね。
だからその深海誠のことを好きと言わないみたいなことは僕にとってかなり大事なことなんだけれども、それがどうせ死ぬ3人の放送を聞いただけだと皆さんには当たり前のことなんだけど伝わってなかったなって感じ。
かえ
深海誠がすごい気持ち悪いっていろんな人に批判されてるし、それもわかるんだけど、彼を弁護するんだったら、そんなことは深海誠もわかってたと思うんですよね。
muro
主人公が、小学生の時に好きだった女性というもののある意味の変化みたいな、現実の存在との広まっていくギャップみたいなものを直視せずに、投影し続けるみたいなことをしたから人間関係が破綻したんだけれども、
かえ
それを表現するためにちゃんとその女性の側、秒速5センチメートルに出てくる女性の方は結婚するわけですよね。別の男の人に。それは当時のファンが批判したような裏切りとか待たなかったとかいう話ではなく、彼女は現実存在なんだっていうことを表現する。
muro
だから、そんなにうまくいくはずがないというか、そういう内的世界に着こもっている人間がうまくいくわけないんだっていう話に、全体としてはなってるだろうなと思ってるんだけど、別にそこは強調されてないので、全体としては内的世界に着こもっている男の子のセンチメンタルを一時間今日見せつけられる奇色の悪い映画だと思う人もいるだろうなっていう感じで、
かえ
すごくわかるという感じっていう、そういう話をしたかった。
とてもわかる、わかりました。
私あれなんですよね、新海誠さんに限らず、新海誠作品は君の名はしか見たことないですけど、それも似たようなところがあると思いますけど、
muro
私、男性の描く物語に登場する女性っていうもので、リアリティを感じたことがあまりないので、新海誠さんに限らず。
かえ
だから私、女性の小説ばっかりしか最近読まないんですよね。読まないというか、もうそうなってきちゃったみたいな感じ。
muro
読めない。
かえ
ぼんやりしてるなーって感じてしまう。男性の描く登場人物の女性みたいなもの。
同じようなことだと思うんですけど、投影されている感を感じるから、感じることの方が多いから、それにいちいち引っかかってしまうから、男性の描く物語がだんだん読まなくなっている。
muro
まだね、読んでないんだけど、この話するなら読んでおけばよかった。
かえ
あの、イザベラ・ディニシオっていう方が書かれた、女を描けない男たちっていう本があるんだよね。
muro
これイタリア人が日本近現代文学について書いた評論本。
まだ1ページも読んでないんでわかんないんだけど、
森妖怪の舞姫ってあるじゃん。
舞姫ってさ、ドイツでできた恋人かなんかを妊娠させて置いて帰って狂ってしまうみたいな小説なんだけど、
それについて、それぐらいで狂うかみたいなツッコミが入ってる本らしいんだよね。
かえ
実際にモデルになった女の人は日本まで追っかけてきたらしくて、森妖怪を。
muro
っていう話らしくて、なぜこの男性っていうのは女性を描けないのかみたいなことが書かれているらしくて、すごいちょっと楽しみにしてるんだよこれ。
かえ
読みたい、それ。めっちゃ読みたい。
子供の時は読めたんですよ。10代、高校生ぐらいまではそんなことあんまり思わなかったんですけど、
描かれるのはほとんど大人の話だし、小説の。
例えば恋愛とか男女が出てくるような物語って大人の話が多いから、へーみたいな感じで読んでたんですけど、
だんだん自分がその世界に入って、自分の世界の話として、話というか自分の世界をモチーフとした話として、
小説とか読んだ時に、ぼんやりしてんなって思っちゃうんですよね。
muro
ぼんやりしてるってどういうこと?
かえ
なんていうか、それこそ投影されている。
人格がはっきりしない。
muro
機能として出てくるよね、女性がね。
かえ
機能としても出てくる。機能として出てくるし、意志をあんまり、はっきりとした意志を感じられないから。
なるほどね。
muro
現象みたいな感じで見えて、釈然としないな、みたいな感じですね。
僕、あんまり覚えてなくてあれだけど、村上春樹の小説とかって多分そういう感じだよね。
男性の描く物語におけるセックスと女性
かえ
そう、私だから、またなんか村上春樹一冊、最初に読んだのが特に良くなかったと思うんですけど、
ノルウェーの森を最初に読んで、あ、この人合わないと思って、もうそういう形で読んでないんですよ、小説は。
あれは読みましたけど、アンダーグラウンドは読んだけど、小説じゃなくて。
あれはロポだもんね。
うん、あれはドキュメントっていうか。
muro
ロポタージュだからね。
だから違うけど、ノルウェーの森読んだ時に、うわ、ぼんやりしてんなって思った。
ノルウェーの森ではあんまり気づかなかったけど、ねじ巻き鳥クロニクルの時に思ったんだよね。
あれはねじ巻き鳥クロニクルかな?
なんか突然セックスさせてくれる女の人が出てきて、セックスした後に世界が突然変わるんだよね。
とかいう機能として出てきて、これって男性が描く物語ではよく出てくるモチーフだなと思った。
なんかね、押井守っていうアニメ監督いるじゃん。
彼が書いた漫画で、西新宿戦線異常なしっていう漫画があるんだけど、東京の真ん中でクーデターが起きて
東京がその開放区になっちゃうっていう話なんですよね。
東京以外のところっていうのは、普通の日本としての日常生活が送られるんだけど、東京にはクーデター軍が支配した地域があって、
クーデター軍と日本軍みたいなのが、自衛隊が東京の境界で睨み合った状態も到着しちゃうみたいなあれなんだけど、
主人公の男の子は地方の出身なんだけど、非日常を求めて東京の中に入って行って開放軍に入るんだよね。
開放軍の中の落ちこぼればっかり集まっている部隊に入って、
その落ちこぼれ部隊に三つ銘が下されて、
その三つ銘を持ってきた情報商工の若い女の人と一緒に、独立紅蓮隊みたいな感じで冒険が始まるみたいな漫画なんだけど、
物語の途中でその情報商工の女の人が主人公にセックスさせてくれるんだけど、
その後その情報商工が拉致されちゃうんだよね。敵対勢力が。
「ノルウェーの森」と「ねじまき鳥クロニクル」に見る描かれ方の違い
muro
その主人公の男の人は、その女の人をどうしても助けに行かなきゃいけないって言うんだけど、
ボンクラ部隊だから戦力とかがないわけよね。装備もないし。無理だ無理だみたいな感じになるんだけど、
俺は絶対助けに行くんだみたいな話をしたときに、独立紅蓮隊の中におじいちゃんが、
君ね、かつ丼と同じなんだよ。
俺は初めてかつ丼を食ったときにこんなにうめえもんがあるかって思ったんだけど、
人生でその後何回もかつ丼を食うに従って、これが別に特別なものじゃないということがわかってきたんだっていう話をするんだけど、
それがかなり僕の中で印象的なエピソードだったんだよね。
今年2023年の正月に、100分で名庁でフェミニズムやったじゃん。
あれの時に僕結構目から鱗だったんだけど、そのホモソーシャルの説明があったんだよね。
それまでホモソーシャルって、僕単純に男社会とか男性社会に批判的な文脈で使う言葉だと思ってただけなんだけど、
あの中で結構明示的に説明されてたのは、
この社会っていうのは男性同士による序列の付き合いによって、
この序列の付き合いみたいなもののシステムを維持するためのアウトカーストとして女性っていうものが位置づけられているから、
女性差別っていうのは構造的に社会の中にあるっていう説明だったんだよね。
で、なるほどって思った。
かえ
思った。めっちゃなるほどって思った。
女性の描かれ方について
muro
その通りだと思ったんだけど、この活動の話ってマジでその話なんだよね。
かえ
ホモソーシャル内の常識みたいなのがあって、この常識を維持するためのアウトカーストとしての女性の話なんだけど。
muro
だから、男性が描く物語で女性が機能として現れるのは、そのぼんやりとして現れるのはそのためだと思うんだよね。
かえ
私は女性だから、逆はどうなんですか?
例えば室越さんが女性の描く小説を読んだ時に、男性について書かれていることに何かリアリティがないとか、ぼんやりしてるなみたいな感想は持つんですか?
muro
あんまり思わないね。
かえ
あ、そうなんだ。
muro
わかんないけど、その視点であんまり見てないから。
かえ
これが結構構造的なジェンダーギャップだと思うんだけど、
muro
抑圧されている方のジェンダーじゃないから、そこに対する感度が低いんだよね。
そういう見方を気づかない。
かえ
女性が描く男性だからこう、みたいにならない。
muro
女性が男性を特別な形で描く時って、だいたい愚かか暴力的に描かれるから、そうだなって思う。
愚かであるか暴力的だよねって思う。
小説『エルゴとフリン寿司』の分析
かえ
ゆずきあさこさんっていう、これのラジオでバッターをやりましたけど、
小説家の短編集で、ついでにジェントルメっていう短編集があって、
去年出たやつかな。
その小説の中で私が一番好きなのが、
エルゴとフリン寿司っていうタイトルの、
エルゴっていうのは抱っこ紐のことなんですけど、
抱っこ紐のメーカーの名前でエルゴっていうのは。
フリン寿司はフリン関係のフリンで、寿司は食べる寿司なんですけど、
最初は男性視点で話が進むんですよ、しばらく。
フリン相手を連れてオシャレな寿司屋に来た男性の目線で話が始まって、
そこに来た、産後間もない、すごい格好もボロボロのっていうか、
普段着に髪もざんばらでノーメイクの女性が現れて寿司を食べ始めることに
批判的な視線を送るところから始まるんですけど、
その男性の視点っていうのはホモソーシャル的な視線なんですよ。
自分には美しいフリン相手がいて、
そういうオシャレな寿司屋にその子を連れてくるだけの財力があって、
これは男性の中でも選ばれたものしかできない、自分は特別な人間だし、
この店はそういう特別な人間しか来る資格がないんだ、みたいな男性の視点から始まって、
そこに同じようなカップルが何人もいて、連れてこられた女性っていうのがいるんですよね。
最初はその女性たちも、このようにして連れてこられるのには自分には女性的な魅力があるからっていう価値観で来てるんだけど、
その現れたザンバラ神を振り目出して、産後間もない部屋着でやってきた女性が、
そこで好き放題振る舞うことによって、その店の中でホモソーシャルが壊れ始めるっていう話なんですよ。
作品の評価について
かえ
これがすっごい分かりやすくて、だんだん連れてこられた女性に自我が芽生えてくるんですよね。
その話のストーリーの始めの方はホモソーシャルに則ったルールで進んでくるのに、途中からたった一人の登場で、
みんなが男性がその女性を恐れ始めてやってきた、ルールに一個も従わない女性っていう脅威に男性が恐れ始めて、
その女性たちは男性の恐れを感じ取って、自分たちに自我がなかったことに気が付き始めるみたいな。
最終的にみんなヒールを脱いで手に下げて、3人の不倫、それぞれ不倫相手として連れてこられた3人が決託して店を出ていくみたいな話なんですよ。
そういうことじゃないですか。
そういうことだと。
自我がないんですよ、ホモソーシャルの中での女性には。
muro
認められないんだよね。
よくできた話なんですよ、その話。
気付かないんだよね、たぶんね。
かえ
日常生活の中でホモソーシャルで生きてるから、小説の中でホモソーシャルから見た女性みたいな描き方をされても、そのように見えているから気が付かないっていう話なんだと思うんだよね。
そのように見えているから気付かないよねっていうのが、男の子って繊細なんだねっていう言葉に込められているわけですね。
すごいですね、かっこいいな。
muro
かっこいいよ。
やっぱそこで愚かさを悟るかどうかって試されるよね。
かえ
試されてますね。
muro
人間としてね。
かえ
かなり試されてますね。
muro
愚かだなと思ったけど。
かえ
うろこしさんはその一言の意味深な部分に気が付いて考え始めたけど、流しちゃう人の方が多いでしょうね。
なんかちょっと嫌なこと言われたなっていうので、もう忘れちゃう人の方が多いと思いますよ。
muro
そうか。
でもかなり本質的な指摘だよねって僕は思う。
すごい聞いたっていうか、とても短くめちゃくちゃ皮肉なこと言ってるって感じですね。
だからそうなってくると、新海誠監督が本当にそういう人かどうかわかんないけど、
かえ
ここで仮に新海誠監督が言うとしたら、そのようなものを褒めるとか、そのようなものを好きであるって言うっていうのは、一個の政治的な立場になっちゃうからね。
muro
オーソーシャルな社会構造を肯定して、それに気づかないふりをするんだという立場を取ることになってしまうから、まあねって思うよね。
かえ
私、洋足5センチメートルは見てないけど、表現物として映画とか、
芸術みたいなものって思想に賛否をつけるっていうか、その思想に賛成するか、それを支持するかみたいな視点以外にも、
この世にはないから、ないっていうか認められないから、芸術の世界でだけその美しさというものを自分の思い描くっていうか、理想っていうか美の一つの形として作る、芸術家として作る。
これはダメっていうか、現実世界で良くないこととわかっているけど、一つの美の形として作る、みたいなことだったら、
muro
宮崎駿を描く戦争とかね。
かえ
まあ、悪くはないかなって思うけど、わかった上でですね、すべてをわかった上で、みたいな。それはありかなと思いますけど。
muro
社会監督がわかってないとは思わないんだよね。
本質的なラインが揃っているから、そこに対する強烈な美しさがあると思うし、
かえ
それは別に。
muro
モディファイされているところっていうのが、めっちゃあると思うんだよね。
だから彼、一人きりで作ってた非常にスモールバジェットの映画を作ってたのに、
超ビッグバジェットの映画を多分チーム使って使ってるから、プロデューサーとかいろいろな人が入ってると思うんだよね。
入ってもなお変わったところと変わってないところがあるから、自覚的ではあると思う。
かえ
それが今の時代で微妙なというか、はっきり良いとも悪いとも、まだ社会が決めきらないというか、
それが問題であることすらわかってない人も多い時代だから、思想的な部分が問われてしまうような感じがあるけど、
芸術における死と殺人の描写
かえ
例えば殺人とか死とかを美しく描く絵画とかがあって、
誰もそれを、たまにはというか、何か例えば殺人の原因、
これを美しいと思うことが犯罪の原因だって言われてしまうこともあるけど、
でも割り切って、これは美しいけど本当にはやらない世界のこととして、美術として認めてることたくさんあるじゃないですか。
でもそれって死とか殺人がダメだってはっきりわかってるから成り立つから、
逆にこのホームソーシャルとかジェンダーが社会の中ではっきり認知されだしたら、
そういう特別な美意識としてもう一回成立するかもしれないと思うけど、
でもそれになるにはすごい成熟した社会がないと難しい。
これ通ってます?意味。
muro
意味わかる。
通ってると思う。わかると思う。
かえ
わかります?伝わるかな。
muro
伝わんなかったらまたお便りで聞いてもらう。
お便りもあんま使ってないからね。聞いてもらってあれば思います。
かえ
はい。
muro
じゃあこんなもんですかね。
かえ
はい。
muro
はい。ごきげんようむろでした。
かえ
ごきげんよう。
31:39

コメント

スクロール