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こんにちは、のらじおのmuroです。
こんにちは、かえです。
今回はね、めっちゃ久々にお便りいただいてるんで、そのお便りについてお話できればなーと思ってます。
前回、前に一回だけあったよね、お便りにお返事するの。
一回ありましたね。
別に僕たちを無視してるわけじゃなくて、お便りがそれ以来ぶりに来たんです。
そう。お便り、なかなか来ない。
来たんだけど、ちょっとお便り今から読み上げていきたいんだけど、
今回、お便り頂戴したお名前とか、本人特定できそうな情報っていうのは、ちょっと僕たちの方で控えさせてもらおうかなと思ってて。
というのは、お便り頂戴した時に文面を読んでみたところ、
僕の理解では、僕なしかえちゃんが投稿者さんに対して、非常に肯定的な反応をしてくれるんじゃないかっていう、期待があるのかなっていう読み方をしたんだけど。
ちょっと正直、あまり同じ意見ではないっていう感じだったので。
これ配信聞かれて、もしかしたら機運が変えされるかもしれないんですけど、
あまり皆さんが特定されないような形でっていうことにしようかなと思って。
こんな感じですけど、皆さん懲りずにお便り頂ければいいかなと思って。
お便りを下さったことは本当にありがとうございます。
お便り頂いてありがとうございます。
ちょっと意味添えなくて申し訳ないですけど。
ちょっとお便りの方を読ませていただきますね。
女の子の衣装選び問題
ご本人もちょっと愚痴っぽくてすいませんっていう出だしなんですけど、
最近こんなことがありました。
小学校1年生の娘さんが学校で演劇をするんだと。
娘さんの役は狼の役なんだけど、狼の役が男の子2人、女の子8人の10人なんだと。
この10人の親が集まって、狼役の衣装を決めたんだっていうお話で。
それが何なのかな。
インターネット上の通販のサイトで、狼の衣装が5種類くらいあって、
5種類のうち2種類は長ズボン、2種類は半ズボン、
もう1種類がチュールっていうんですか、スカートの衣装だったんだと。
夏の演劇なので長ズボンはやめようねっていうふうに、
お母さんたちの中で合意されたんだけれども、
そのうち半ズボンのこの2つのパターンから選んではどうかなって思ったんだけれども、
その10人のお母さんたちのうちある女の子のお母様が、
うちの子はスカートじゃないと履かないと思うっていう話を言い始めて、
スカートも一応オッケーになって、
半ズボンの2パターンかチュールの1パターンのこの3種類のどれかから選びましょうっていう話になって解散になったんだと。
数日後、LINEグループでみんな何を選んだかっていうお話になったときに、
女の子8人いるらしいんですけど、その女の子の8人のうち、
投稿者さんの娘さん以外の7人が全員スカートのチュールの衣装を選ばれたんだという感じになったんだと。
投稿者さんとしては学校で狼が出るような演劇をするんだから、
もうちょっと狼っぽくワイルドっぽいズボンの衣装がいいんじゃないかと思ったんだけれども、
他のお母さんたちがスカートチュールの衣装、しかもそれが可愛いからそのチュールの衣装にするんだという言い方をしていると。
うちの子もチュールを選びましたとか、女の子たちのチュールが可愛い衣装でやる気が出る方がいいよねみたいなノリがあったんだと。
それはどういうことなんだろうか。
小学校1年生の子供たちでさえ、狼みたいなワイルドな役をするときでさえ、
可愛くなければいけない女の子たちとそれを称賛しているお母さんたち。
この子供たちは虎でも象でも、下手したら宇宙人役でも、ひらひらスカートにリボンをつけて可愛い私をするのではないかということをおっしゃっていたんだと。
狼らしい服を着て思い切り狼の演技ができる子たちの方が、登校者さんにとってはよほど可愛くて、
でもそういう気持ちというのは他のお母様方には理解されない。
うちの子、スカートじゃないと履かないと思うと言っていたお母様というのは、
様子もオーラも、僕たちのノラジオで取り上げたバターのカジュマナにすごくそっくりなんだと。
発言を聞くだけで、一体どういうことやねんと心が涙つし、
その発言をきっかけに結局全員が女の子は可愛くという本音をむき出しにして、
スカートを選んだという混乱ぶりに、久しぶりにエネルギーを吸い取られたんだと。
さらにびっくりだったのが、カジュマナにのママのお子さんが、
私、そもそもお母さんにスカートしか見せてもらってないズボンの衣装は知らなかったと後で教えてくれたんだということで。
これが娘さんがそれを本当のこととして言ったのか、もしくは嘘として言ったのかわからないんだけれども。
バターを思い出して、ノラジオであればこのもやもやをわかってくれるんじゃないかと思ってお便りしたんだ。
日本の女性がこんな感じなら、もう急ぐ外国に行った方がいいのではないかといろいろ考えてしまいます。
そういうお便りでした。
はい。
どうですか。
まず、このお手紙についていろいろ取り上げるときに、
2つだけは確認しておきたい。
これはもう議論の余地なくいかないのではと思うことがあって、
それはどういう演技をしようとも、どういう狼らしい演技をしようとも、
その劇自体にもしかしてやる気がない子とかもいたとしても、とにかく子どもはみんな可愛いっていう。
どういう演技をしようとも、どういう思いを持っていようとも、とにかく子どもは可愛いっていう。
こういう子どもは可愛くて、こういう子どもは可愛くないとかじゃなくて、みんな可愛いっていうところは絶対にブレずに。
知っておきたいんですけども。
っていうのと、あと小学校の劇は子どものものだから、
親の何か思いとかやり取りとか関係ないなっていうのが、それはちょっともう絶対そうだと思うので、
っていうのをまず思ったんですけど。
それで、今お手紙読んでもらって、
リスナーさん、このお手紙くださったリスナーさんが問題にしていることっていうのが三つあると思うんですけど、
それが一つは、狼10人のうちの女の子8人の中で、
この方の多分お子さん以外の7人が全員スカートだった。
ってことは、この方のお子さんは半ズボンを選んだっていうのが問題。
で、次がスカートが狼らしくないっていうこと。
で、もう一つが、グループライン内で自分以外のお母さんたちが、女の子はスカートの方がかわいいというか、女の子はかわいくがいいよねみたいな。
だからスカートがいいよねっていうのが、この人の言ってる問題点三つだと思うんですけど。
で、一個ずつ考えたいかなと思うんですが、まず、狼10人のうち女子8人、7人がスカートを選んだこと自体は問題じゃないと思うんですよね。
その自由に選んだのであれば。
選択肢を3つのうちどれからも選んでいいよっていう話に、お母さん同士ではなったわけで。
しかも、この都交社さんの認識としては、半ズボンだよねという共通認識があり、スカートも一応OKっていう。
スカートは例外的な、つまりこの初めに言い出したお母さん以外は選ばないんじゃないかっていうのがあったんだけれども。
結局蓋を開けてみるとほとんどの女の子がスカートを選んだっていう、そういうことなんだけれども。
これは一見問題のように見えるけれども問題ではないっていう話だよね。
それはなぜなら選択肢が3つあって、それを自由に決めていいって。
カジマナニのお母さんの娘さんがスカートしか提示されなかったって言ってるけど、それはその家庭の方針だから。
お母さん同士でその3つの中からどれを選ぶかって決めて、その家庭の中で子どもとどういうコミュニケーションをして、どの衣装を選ぶかっていうのはそれぞれの家庭の方針なので。
別に文句を言う筋合いのもんでもないし、合意したルールから逸脱してないっていう、そういうことかなと思うんだよね。
3つの選択肢があって、7人がスカートを選んだこと自体は問題じゃない。
次に狼らしくないこと。
狼らしい衣装を着て、狼らしい演技をする方が良いというのがリスナーさんの意見だけど、
狼らしくないっていうことは問題じゃないっていうより、狼らしいっていうのが女の子らしいとかと同じだと思うから。
狼らしさの偏見
そうね。差別構造として同じなんだっていう。認知の構造として同じだから。
だから別にスカートの狼がいてもいいわけじゃないかなと思うんですけど、私は。
だって、この劇は手紙に書いてあったんですけど、狼と7人の、7匹の子やりの劇なんだけど、
多分だけど、お話の中でわざわざオスの狼とか書いてないと思うんですよね。
そうね。
狼って言って、絵本の写真絵とか確かにどうもうなオスの狼の絵みたいなのが書いてあるけど、別にギャルの狼でもいいわけじゃないですか。
そうね。
だから、もちろんスカートの狼でもいいと思うし、半ズボンの狼でもいいと思うし、子供たちが自分で選んでそれを着たかったんだったら全然スカートの可愛い狼でも全然いいと思うんですね。
象でも虎でも宇宙人でもリボンつけてヒラヒラの劇を全然していいと思うし、男の子でもスカートの可愛い狼をやってもいいと思うんですよね。
だから、狼らしくないっていうことを問題にすることが問題だと思うから。
そうね。100歩譲って狼らしくなきゃいけないとしても、それって演出上の問題だから、すごく強力な監督がいて、例えば宮崎駿みたいな監督がいて、絶対狼はこうなんだって言うんだったら、そしたらいいです。演出したい。その人の責任でね。
でも、たぶんその辺が子供の主体性に任されているのであれば、別に投稿者さんが考える狼像にマッチしてないことっていうのが、それは投稿者さんの問題であって、他の誰の問題でもないことだよね。
ジェンダーによる価値観の違い
三つ目が、グループラインで他の方たちが女の子はスカートが可愛いよというような発言をしたことは、これは確かに女の子はスカートが可愛いよねっていうこと自体は、
ジェンダー的な固定概念が確かにあるっていうのはわかるけど、その辺はちょっとはっきりわからないから、私たちの手紙でもわからない。
お母さんたちがどういう要件でそれを言ってたのかわからないからね。
子供にスカートが可愛いからこれを選びなさいって言ったのか、子供がスカートが可愛いからこれがいいって言って、その選択を肯定しているのかわからないから。
まあでも確かに公の場で、やっぱり女の子はスカート可愛いよねっていう関連を共有しようとするのは、確かにジェンダー的にはちょっと偏ってはいるかもしれないけど、
そこでだから、この方がもしできることがあるとしたら、私の娘は半ズボンを選んだけど、半ズボンも可愛いよとってもっていう風にそこで発言をしたらいいかなって思うぐらいで、
スカートが可愛いといったことをすごく休談しなくても、自分から発信していけばいいんじゃないかなっていう風に思いました。
うん、そうね。なんかすごく難しい問題なんだけど、だなと僕は思っているんだけど、
何らかの古いと思われる考え方みたいなのを持っている人に対して、それが誤っていると別の誰かが思うと。
でも、これはそれが間違っていると考えている人にとっては正しいものと間違っているものがあるんだけれども、現実には考え方Aと考え方Bがあるに過ぎないので、
確かに今日、僕はあんまりそれほど先進的な考え方を別に持っていないんだけれども、僕から見ても、女の子ならスカートでなければならないと思うみたいなのは、あまりにもステレオタイプ的だなとは思うけれども、
それが何らかの正しさに照らして裁かれなければならないほどのことではないと思うんですよ。
それは、正しい間違っているというところで裁き裁かれるものではなくて、これまでの価値観と違う価値観を持っている人が、自分の力で変えていくしかないから。
でも変えたいのであれば、ここで戦うしかなかったんだよなって思うんですよ。
間違っているって思ってもしょうがなくて、だって現実はあるんだから、そのような価値観を持っている人は現実にいるから、目の前にいるときに戦うしかないなって思う。
それを必ずしも、こんなことで愚痴を送ってくるんだ、戦えって言ってるわけではなくて、別に愚痴を言ったっていいし、そういうふうに考えたっていいんだけど、
間違っているから断罪したいっていうお気持ちはわかるんだが、別に賛成はしないっていうことなんですよね。
僕がその場にいたら、なんだかなって多分思うと思うんですよ。
女の子はやっぱりスカートじゃなきゃねって言われたら、僕子供いないけど、うちの娘には好きな格好させますけどって思うと思うし、
でも別に好きな格好させちゃダメって決めたわけじゃないから、そういう価値観の人が集まりに自分がいるだけだから、
断罪的になっているときにそれに賛成はしないっていう感じなんですよね。
親の選択の問題
そうですね。もしリスナーさんのお子さん以外が全員スカートで、リスナーさんのお子さんが何か不安になるんじゃないかっていう心配みたいなものが実はあるのなら、
逆にチャンスだと思うんですよ。リスナーさんのお子さんにとって。
あなたは自信を持ってズボンを履けばいいんだよっていうことを伝えるチャンスだと思うのかな、私だったら。
その子が自由な選択をしていいし、彼らもまた自由な選択をしたんだっていうふうに納得できたら、すごい良いと思うから。
そうだね。その通りだと思う。
すごくいい原型になるかなと思いますね。そんなことも考えないくらい、すでに自然なことだったらそれはもちろんとてもいいし、っていう感じじゃないかなと思うんですけど。
このリスナーさんに当てはまるかどうかはわからないけど、私の今までの女性と意識して生きてきた経験と、
あと時々見る、そういう女性が女性のヘミニズムとかジェンダーに平等じゃないかったりする態度に断罪するっていうのが時々あると思うんですけど、
そういうのを見てて思うのが、どうしても自分がそういうジェンダーギャップに苦しんだりそれに対峙したとき、自分が女性であることに不利みたいなものに出会ったときに、
どうやったって、でも私もそれを認めていたっていうところにきつくと思うんですよね。
ホモソーシャル的な社会の中で生きてたら、なんで女の子であるがためにこんな苦労するのかって思うと同時にそれを考えてたら、いやでも私もそれの中でそれを認めたりとか、それを利用したりしてきた部分があるっていうところが絶対に出てきてしまうから、
すごいそういうときに、自分の危うさみたいな、自分もその中に、その構造の中にいる危うさみたいなのに気がついたときに、そこに一貫性を持つために厳しくなるとは思うんですよね。
自分自身にもそうだけど、ついつい周りにもっていうか、私は女性らしくある必要はない、別にスカートじゃなくてもいいっていうことに、すごいアンテナがビンビンになるから、周りでそういう女の子らしくみたいな言葉に出会ったときとかに、
ハイレッドカードを出したくなるんですよね、イエローカードを。全てにそのアンテナを張ってないと、自分もまた流されてしまいそうな危うさみたいなものを抱えているので、
だからなんか、気持ちはわかるみたいなところがあるみたいな感じ。私もスカートが可愛いと思ったことがあるとか、女の子はスカートが似合うと思ったことがあるとか、力仕事を男の人の方に回したことがあるとか、
でも、フェミニズムって一人一人の問題ではあるんだけど、構造の話じゃないですか。
この社会がそのような構造になっていることが一番の問題で、
でもその構成員は一人一人だから、一人一人が気をつけていくのはそうなんだけど、やっぱり構造の方を否定することに目を向けた方がいいんじゃないかなって思う。
その通り。だから、今回のお便りの趣向法って、やっぱり根本的な危うさがあるなと思っていて、
つまり、女の子らしさみたいなものを、女の子らしさじゃなくてもいい、何でもいいんだけれども、狼らしさでもいいし、人間らしさでもいいし、日本人らしさとかでも何でもいいんだけど、
その、らしさみたいなものを押し付けられる社会にとって、社会からの圧力によって選択不可能にされるっていうことがすごく問題で、
でもそれは女性らしいとか狼らしいとか日本人らしい的なもの、ここでは例えばスカートだけれどもを禁止しろっていう話ではないと思うんですよ。
どちらでも選べるという状態にすることが大事なのであって、今回はそうなったと思うんですよね。
スカートでもいいし、半ズボンでもいいよっていう選択肢が提示された。選択肢が提示されるっていうことがおそらく構造の問題においてはすごく大切なんですよね。
これをじゃあスカートは禁止しようぜっていう話になると、この逆向きの、同じ構造を持った逆向きの問題がもう一回発生するにすぎないじゃないですか。
女性性の濃淡というか尺度じゃなくて、それが自分の選択であるかどうかっていうのが大事みたいな。
今回、投稿者さんの問題意識としては、親が勝手に決めており、それが子どもに押し付けられてるんじゃないかっていう話もあると思うんですけど、それはあるかもしれないと思うんですよね。
ただ、日本の法制度上、ある程度保護者としての権利みたいなのがあるわけだから、そこに文句を言いたくなる気持ちはわかるけど、かなり難しくて。
であれば、親同士の関係の中で、ご本人が働きかけを親に対してするべきだったのかなって思った。
価値観の再生産
ちょっと後ろの方で、梶間奈美のママの子どもがスカートしか見せてもらってないって。
投稿者さんが聞いたのかなって思ったんですけど。
子どもから突然そんな話するのかなって思うけど。
もしかしたら、この投稿者さんの娘さんが半ズボン履いてたのを見て、あれ半ズボンでも良かったんだって思って言ったのかもしれないですけど。
親同士で片付けるしかないんじゃないかなって思ったっていうのと、全然レイヤーの違う話なんだけど。
全然レイヤーの違う話。これすごいジェンダーの話として、今まで話してきたけど。
僕、ジェンダーの話っていうより、うちの子はスカートじゃないと履かないと思うっていうコメントの政治性があんまり取れてないところがやべえんじゃないかなって思ったんですよ。
このメッセージをいただいた時に。
これは女の子のママが自分の子にスカートを履かせたいっていう戦いだったと思うんですよね。
もしかしたら他の6人の女の子のお母様方もそうだったのかもしれない。
うちの子はスカートを履かせたいって本当は思ってたのかもしれない。言わなかったけれども。
非常にハイコンテクストな政治性のある発言だった。
政治性っていうのは大きい意味での政治性じゃなくて、村の人間関係っていうか、人間同士がこれを言うっていうことの意図とか意味みたいなものがあるんだっていう話で。
それじゃねえの?って思うんですよね。
たぶんそれをあえてその人が言ったってことは、このままだと全員半ズボンだぞっていう気がしてたんです。スカートを。
スカートじゃないと履かないと思うって言ったお母さんっていうのは、自分か子供かわからないけどスカートを希望するけど、
この流れだと狼はズボンだぞっていう感じのところに先に、みんなが決める前に先に言って、スカートを選んでもいい状況にしてきたっていう感じで。
うまいなって感じではあるんですけど。
でも、子供のいる親の経験上、確かにそういう子はいるから、スカートじゃないと嫌だ。逆に女の子でスカートは絶対履きたくないっていう子もいるから、
衣装はこれだよって言った時に、モチベーションが下がるのを避けたいっていう親心だったら、まあわかるんですよね。だから選択できるようになったことは、いいことだったと思う。
それでじゃあ、だからみんなスカートにしようよってなったらちょっと待ってってなるけど、選べるようにしようよっていう結論が出たのは、そりゃあいいんじゃないって。
で、みんなスカートを選んできても、まあこれとこれ、実際はわからないですけど、家庭で何が起こったかは。でも選択肢があるという状況で、結果7人がスカートだったっていうこと自体は別に問題じゃなかったし。
で、このリスナーさんも政治性を出していこうとするんだったら、その時に、そうなんだ、うちはズボンがいいって言うかもみたいに先ちょっと言っておけば、もしかしたらもう一人ぐらいハムズボンの人が出てきたかもしれないですね。
お母さんの発言を見て、こんな人スカートなんだったら、うちもスカートがいいかもって思った人はもしかしたらいるかもしれない。
もしくは、これは女の子ってスカートって流れなんだなっていう理解を他の7人はした可能性、他の6人はした可能性ありますよね。
別にそれは無視してもいいとは思いますけど。
それは無視もしてもいいんだけど、僕はポイントはそこじゃないって思ったんですよね。
そこでメタメッセージがどういうふうなことがやり取りされてたのかっていうことが、この話のポイントで。
ジェンダーの問題っていうより、コミュニケーションって難しいよねっていう話なんじゃないかなって思った。
それはあるかもしれない。私はそういうのを無視していくタイプなので、わかるつもりはないぞっていう感じだけど。
でもほら、この都交社さんが意図的に無視したなら、こういう感じでは送ってこないと思うんですよね。
そこの部分にもうちょっとアンテナ貼ってもいいんじゃないって言い出したね、梶原にのママがちょっと変なんじゃないかみたいな言い方だけど。
僕はなんか変というか、こういう人いるよねっていう感じだから、すげーよくいるタイプの人だと思うから。
この人の価値観がジェンダー論的にはちょっとオールドスクールだったとしても、そういう人がこの世に存在することは現実なので、現実の中でディールするしかないんじゃないかなって思うっていう感じで。
この人の行動がもう少し頭おかしければ、確かにそう思うよねっていう感じかもしれない。
突然泣き出すとかね。
突然泣き出すぐらいだったら、それでも結構いると思うんだよな。
スカートじゃないとダメなんですって突然泣き出す人とかって多分いると思うんですよね。
なんとも言えないっていう話で。問題意識としてはよくわかるし。
この女の子はスカートだよねってお母さんたちが選ぶことによってそのような価値観が再生産されますよねっていうのは確かにそうなんだけど。
選択可能性の重要性
それがまあ選択可能であるっていうことが、その選択可能性っていうのが子どもたちにどういうふうに提示されたのかよくわからないけれども。
少なくとも母親同士の合意では選択可能であったっていうことがあって、それ以上望むっていうのはさっき言ったその同じ構造を逆向きに作り出すだけだっていう罠にはまり込むんじゃないかなって思うって感じですよね。
そうですね。
わかんないね。
娘さんは半ズボンで良かったのかな、投稿者さんの。スカートが良かったのか。
選んだんじゃないですか、写真に。
手紙に写真が添えられてたんですよね、衣装のスカート、子どもが実際にコスチュームを着ている半ズボンの狼の衣装と長ズボンとスカートの写真があって。
それを見て投稿者さんのお子さんが選んだ。
それを選んだっていうことだけが大事だと思う。この一連の出来事の中で。
だから、あなたは半ズボンを選んで素敵だよって言うので、じゃあ楽しんでねって、それでいいかなと思う。
6歳にしてって書かれてるから、可愛いっていうのも子ども的可愛いじゃなくて、6歳にして女の子は性的に消費される対象であるところの自分みたいなものを植え付けられるっていう感じなのかなと思うんだけど、
それとスカートを結びつけるっていうのも、かなり微妙な話だと思うんですよね。
私は17歳くらいから19歳くらいまでは、最近の言葉で言うと脱コル的だったんですよね。脱コルっていうのは脱コルセット。
なんか韓国から出てきた言葉みたいなんですけど、脱コルセットっていうのはコルセットっていうものがすごく女性を抑圧する象徴として、女性らしさという抑圧から脱する、それを捨てる。
例えば化粧をやめるとか脱毛をやめるとか、それこそスカートを履かないとか。
その頃、私の17歳、19歳の時は脱コルっていう言葉はなかったけど、自分としては、政治人はもちろん女性だった。もちろん今も女性だからその時も女性だったんですけど。
結構前に喋った、舐め人間勢敗御免のかえって、男性のバレエ指導員の人に殴られたりとかしたのが一番大きな経験として、舐められないみたいなのがテーマだったんですよ、私にとって。
舐められないぞみたいなのがあったので、若さとか幼さみたいなのを極力出さないファッションを意識的に心がけていて、ジーパンとTシャツみたいなユニセックスのファッションとか、
あとはスカートでもロングスカートでシャツにカーディガンみたいな、学校の先生みたいってよく言われてたんですけど、そういう格好をずっと知ってたんですよね。好んで、もちろん好んで。
でもまあ、発端としては舐められないぞみたいな。可愛らしさと幼さとか、女性らしさと若さみたいなのを私の中で結びつけて、そういう格好を意識的にやってたんですね。
で、ある日、19歳の時に、友達、私もフロコシさんも同じ研究室の一つの後輩ですけど、女の子の友達の家に行ったんですね。その子はロリータファッションが好きだったんですよ。
ロリータファッションの好きな女の子の家に行って、部屋の中もすごい可愛いものがたくさんあって、うさぎのリュックとか、すごく服も大事にしてたから見えるところに飾って、ロリータの服もたくさんあって、可愛いお家だったんですけど。
女性的なスタイルの弱さ
で、そこにお邪魔して、一晩二人でフランス映画を見て過ごしたんですよね。一晩中。で、そのまま泊まって、朝起きて。で、その時、何かそういうフェニミズム的なこととかファッションのこととかを喋ったわけじゃない。ただ二人で映画を見て楽しく過ごして、一晩寝て起きただけなんですけど。
すごいなんか、私の中で、こう、はっと気がついたことがあって。それが、なんか、女性的なスタイルを楽しむことは弱さじゃないなって思ったんですよね。
その子の家で一晩過ごして。で、これを、なんか、これについて考えなきゃいけないと思って、印として帰り、地下鉄の地下街で、短いフレアスカートを買って帰ったんですけど。
で、それは何かっていうと、私がやってたことっていうのは、女性性を抑えることで、女性としての周囲からの期待に応えないっていうのをやってたんですよね。
控え目であるとか、身体のラインが出る服を着るとかいうのをやらないということで、女性性を抑えていた。ロリータの人たちがやってるっていうのは、過度な女性性の表現。
お姫様みたいなとか、お人形さんみたいな服、すごいリボンいっぱいで、スカートフリーフリーで、みたいな。それはそれで、周囲の期待に応えてないんですよね。
まだ今よりもっと15年くらい前って、ロリータってすごい異質な存在として扱われてた特別な人たちみたいな感じだったし、
彼女たち自身も結構ロリータ戦闘服とか言ってる人たちもいて、それっていうのは、過度な女性性で周囲の期待を裏切っている。
で、これって何か違うのかなって思って、じゃあどういうことかなって思ったら、ちょうど良さを求められているんだなって思ったんですよ。
社会からちょうど良い女性性、そのどこかしらのちょうど良い、私たちがもし女性性を期待されているって思っているのなら、
それっていうのは、その途中にあるちょうど良さを求められているんだって思って、ちょうど良いって何だよと思ったんですよね。
で、それで、そうじゃない、やっぱり自分で選択できるっていうことが強さなんだって、その時思って、
何かひとつ私の中で取れたっていうか、脱美したような気持ちになったんですけど。
だから、スカートと女性性みたいなのが全然結びつかない、本当はっていうか。
求められているのはちょうど良さであって、ちょうど良さというものは存在しないのだから、従わなくてよいという感じだなって思ったっていう話。
そうだね。求められているのは従属することであって、自分で選択をすれば、それがいかなる選択であっても従属にはならないっていうことなんだよね。
そうそうそうそう。だからもちろん、たまたま周りの求めるちょうど良さに合致していたとしても、その人の好きな服とか選んだ服が、
例えばモテファッションみたいなものがあるとして、それに合致していたとしても、それはその人の選択である限りは、自由な選択であるに間違いないっていう感じだと思うんですよね。
そうね。支配されないことが大事だからね。いわゆる女性らしさ的なるものとか、なんとからしさ的なるものそのものがダメなわけじゃない。
それはあまりにも記号的な理解なんだと思うっていう感じですよね。日常生きてたらね、いろいろなんだかなと思うことあるとは思うんですけどね。
あまりこの今回のエピソードを聞いて、日本のお母さんダメだな、外国に行った方がいいですよとはあまり思わなかったっていう感じですね。僕からしてみたら。
そうですね。選択肢が提示された時点でだいぶ、狼らしさと男性性というか、ズボンみたいなものを結びつけられてしまったら、今度はスカートを履きたい男の子の問題、選択が認められなくなっちゃうから。
それでもいいはずなので。
そうね。象でも虎でも下手したら宇宙人役でもひらひらスカートにズボンつけて可愛い私であることが本人の選択であれば何の問題もないですからね。
全然いい。
そんな自分のこと可愛いって思えるなら、素晴らしいことだと思うんですよ。別に。
いいですね。楽しく劇できるって感じ。
それは可愛くなければいけないっていう話をしてるわけではなくて、自分のこと可愛くないと別に思ってたっていいんだけれども、自分で受け入れられるっていうか、最近結構つくづく思うんだけど、苦しみが少ない方がいいと僕は思ってるんですよね。
本人が苦しまないのであればいいんじゃないかなと思うんですよ。苦しみが少ない方がいいっていうのは、別にあらゆる苦しみを否定するわけではないんですよ。
最近ね、君たちはどう生きるか見てからジブリ関係の本とか雑誌とか記事とかたくさん読んでるから、全然誰も幸福そうじゃないんですよね。
あの人たちね。ずっと苦しい話をしてて、僕は自分がこういう感じだから、じゃあ全部辞めてしまえばいいのにって思うんだけど、彼らはやりたいわけですよね。
その先にしか生み出されないものもあるというのは、僕もなんとなくわかる。
だから苦しみたくて苦しんでて、そういう苦しみもあるよねっていうのはわかるんだけれども、別に全ての人間がそのような苦しみの果てに自己実現しなければいけないとは僕は特に思わないんですよ。
そのような苦しみがなければ自己実現されないっていうストーリーっていうのは本当に良くないと思ってるんですよね。
なので、別に可愛い私でも可愛くなくてもいいし、ひらひらスカートでもいいし、そうじゃなくてもいいんだけれども、本人たちが苦しくないのであればね、いいんじゃないかなと思うんです。
これは投稿者さん自身もそうだと思う。僕は今回のお手紙を読む限り、ジェンダーの構造の問題なのかな、この投稿者さんを苦しめてるのはって思ったんですよ。
投稿者さんが問題だと思っていることによって、本人が傷つかれたりとか苦しまれているのではないのではないかなと思って。
じゃあ何なのだっていうのはよくわからないんだけど、このお手紙から。そこをどうにかしたほうがいい。ご自身が苦しまなくて良いようにするのがいいんじゃないかなと思ったって感じですかね。
そうですね。気にしなくていいみたいな感じ。
何が気にならなかったのか、やっぱりちょっとわかんないんですよね。娘さんの、ご自身の娘さんが一人だけ半ズボンだったのが嫌だったのか。
これだから、もし3・4だったら良かったってことなのかな。
わかんないね。
もし結果がスカート4、ズボン3とか、8台だから4・4か。スカート4、ズボン4だったら別に問題じゃなかったって言うんだったら、そこについて考えた方がいいっていう感じ。
何が違ったのかって。スカート4だった場合とスカート7だった場合と、自分の中でどの部分の心が動いたのかについて観察したほうがいいかなって思うかな。
例えば、これが本当にズボン8だった場合に、かじまなにのお母さんの娘さんが当日劇観に行って泣いてて、本当はスカートが良かったとか泣いてたら、どういう気持ちになったかとか、そういうのがあるんじゃないかなと思うんですよね。
それは投稿者さんの気は済んだかもしれないけど、それは6歳の女の子の気持ちを傷つけて得たものだから、本当にそこまでして得なきゃいけないものだったのかっていうことですよね。
いろいろなパターンがあると思うんだけど、どうなったら自分が納得できたのかっていうことですよね。
そうですね。この今日、今、現実と自分がこれだったらよかったっていうのと比べて、どこが問題だったのかをもうちょっと細く注目したほうが、これ今後楽になれそうだなって思う。
娘が一人だけだったことだったのか、それとも女の子でスカートが可愛いっていう雰囲気。それだったら、それはもうこの人が自分で働きかけるしかないし、っていう感じかな。
そうね。
リベラルであることの難しさ
リベラルであることの難しさだと思うんですよ。
なんていうか、宗教的レジュラスであったりとか、コンサーバティブであったりとかっていうのは、保守的な人とか宗教的な人っていうのは、答えを一つに定めるっていうやり方をしているから、それに反したものはすべて間違ってるという考え方ができると思うんですよね。
リベラルであるっていうのは、相対的であることとか多様であることを肯定しようとするから、原則的には他人の判断っていうのに文句を言えない。
文句を言えるのは、その意見が全体主義的であって、他人を支配したりコントロールしたりしようとしてるときにのみ文句を言えるわけですよね。
だからその点で、保守とリベラルって、コンサーバティブな人とリベラルな人っていうのは相入れないわけですよね。
コンサーバティブな人からすれば、多様性、多様性って言ってるんだから、なんで俺たちのこと認めてくれないんだっていう話をするんだけど。
それは一理あるんだけれども、なぜ認められないかっていうと、あなたが他者を認めないからだっていう話なんですよね。
あなたが他者を認める限りにおいて、あなたが何を考えているかのが自由なんだけれども。
心の中で差別意識を持っていたとしても、それを別に他人にとやかく言われる必要はないんだけれども、我々の社会は差別を許さないので、差別的な振る舞いをしたらいけませんよっていう話をしてるから。
その部分でだけコンフリクトする。その部分でだけ文句を言えるわけですよね。
最近ってことじゃないけど、読んだ本ですごい良かったのがあって、それが、ちょっと待ってください。ちゃんとした証明を確認するので。
坂井潤子さんの男尊女子。女婢じゃなくて男尊女子っていう。
オリーブの罠の坂井潤子さん。
そうそうオリーブの罠、私すごい好きなんですけど、オリーブの罠の人のこの本。この本が私にとって新しかったんですよね。
どういうところが新しかったかというと、ジェンダーの話をずっとしているんですけど、
坂井さんいくつだったかな。
バブルを経験した世代の、バブルを20代ぐらいで経験した世代の人なんですけど、
この人が書いていることっていうのが、自分の中に染み付いている男尊女婢的な部分が、
どうやっても払拭できない部分があるっていうのを告白している。正直にすごい告白して、
女の人が奢られるべきとか、力仕事は男の人に任せるべきみたいな部分。
頭ではそれは平等じゃないっていうのは分かっているけど、
もう染み付いたものとして、自分の中にあることを認めざるを得ないっていう。
だけど私はやるしかないっていう感じなんですよ。
それが自分の中に染み付いていても、それを理解して、自分にそれが染み付いているということを理解した上で、
それを出さないようにとか、それを他人に押し付けたり、自分がそれに従って行動したりすることをやめるしかないっていう本なんです。
こんなに正直な本には初めて出会ったと思って、でも確かにそうなんだろうなって。
私にもそういう部分がきっとあるなって思ったんですね。絶対ある。
男女の関係だけじゃなくて、人種とかもっといろんな世の中にある差別について、
私の中にどうしても払拭できない部分っていうのが絶対にある。
でもそれを認めた上で、できるだけ出さないようにやるしかないっていうのは本当そうだなと思ったっていう。
そういうことだと思うんですよね。
僕も相番自分がダメになるっていうか、もうすでにダメかもしれないっていうのは結構思うんですよね。
どれくらい前かな?3、4年くらい前?
もうちょっと前か。原田有沙さんっていう方がいらっしゃるんですけど、その人が日本のヤバい女の子っていう本を出されてて、
その本を読んだ時に、僕はもうダメかもしれないと思ったんですよね。
いつ何が起きて、自分が倫理的に休談されたりとかしても、セルフディフェンスで生きない可能性が高いって思ったんですよね。
だから、そういう気持ちで日々生きてる。
問い続けるしかないんだと思うんですよね。
それは辛いし、答えを確かに誰かに提示してほしいけどできない。
もうみんながそれぞれで問い続けていくしかない。
目の前の相手に対してどのように関係していくのかを問い続けるしかないっていうことだと思う。
常に価値観がどんどん刺進されるし、自分自身で気づけない自分の非な部分、ダメな部分っていうのは絶対に消せないから、
それでも努力していくしかない。
でもそれがリベラルだと思うんですよね。
リベラルってそういうことだと思う。
はっきり線が引けないから、最善を尽くすしかないっていう感じだと思う。
この人に対する態度が、もう一人の人に正解かどうかわからない。
そうね。
それがあれば苦労しないっていう話だからね。
うんうん。
みんなで幸せになろうっていう感じで。
苦しまないように。
うんうん。
そうね。
あんまりいいコメントができなくて申し訳なかったですけど、
僕からするとこの同行者さんに言うのは、
ご自身の苦しみポイントを見つけて、それに対処されるのがいいんじゃないかなって感じですね。
うんうん。
20代と30代の考え方の違い
ご自身で思われている苦しみポイントは、たぶん苦しみポイントじゃない可能性がある。
うん。
っていうのが文面からなんとなく伝わってきていることですって感じ。
私としては、この件に関しては、子どもたちが楽しく劇をできたんだったらよしって感じですね。
そうね。
それ以外のことは全部サジだからね。
うんうんうん。
これが何かを学習するための一回きりのチャンスってわけでもないしね。
うんうん。そりゃそう。そりゃそうですよ。
6歳ですね。
まだまだこれから全然。
だんだん学んでいきますよ。
だって今、僕20代の人たちと仕事をしてますけど、全然感覚違いますもんね。やっぱね。
うんうんうん。そうですよね。
心配しなくても彼らは自分たちの価値観を育てていくだろうし、邪魔しないっていう感じですよね。
そうね。
自分が本当に正しいと思うなら、そこで正しいと思って振る舞えばいいし。
うんうん。
それがまたフィードバックとして返ってきますからね。
うん。
なんて保守的な人なんだろうって言われたりとかね。
うんうん。
あると思うから。
なーと。
最近僕あれじゃないですか。週刊プレイボーイでライティングをやってるじゃないですか。
うん。
で、編集さんさんを2人仕事させてもらってるんですけど、片方の編集者が男性なんですよ。20代の。
うん。
自称フェミニストだっていう話をされてて。
うん。
彼はどの程度本当にフェミニストなのか、どういう料金でフェミニストと名乗ってるのか、あんま詳しいことはしてないんですけど。
で、2人で一生懸命企画を考えてね、編集会議に持ち込んじゃうことはわられててね。
うんうん。
で、その断られる時の彼の言い方が面白いんですよね。
僕からすると、どっちかというとたぶん断ってる方の編集の知り屋の人たちの方が近いからね、年齢的には。
うん。
まあまあそう言うよねって思うけど、彼からすると本当になんなんすかねみたいな感じで言うから。
これぐらいの10年ぐらい差があるとこういう感じの感覚違うんだなって思うから。
子供の価値観の形成
今の6歳の子供はね、30代のお母さんにたとえ育てられてるとしても、この6歳の子が20歳になった時にはね、それなりの考えを持ってると思いますんで。
僕たちだってそうじゃないですか別に。
そうですね。
当時ね、その20代から30代でこぼこの母親に育てられて、彼女たちの価値観を持ってるかって言ったら全然持ってないから。
ご自身の問題としてちょっと1回もう1回この問題考えられてみたらいいんじゃないかなって僕は思いました。
はい。
こんな感じですかね。
はい。
はい。
ごきげんようむろでした。
ごきげんよう。