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2020-10-16 38:25

【GMV 237】私たちが苦しむのにやめられない3つのイリュージョン

人としての達成感が欲しいこと、罪を認めたがること、本当のことを知ってると思い込むこと
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
昨日ですね、たまたまブログを読んでいて、
昨日たまたまオンラインセミナーを大橋栄奏さんと一緒にやったんですけれども、
その時にも似たようなことを思ったんですが、
グッドバイブスにせよ、タスクシュートでもいいんだけど、
何でもこう、ある種の問題にはですね、
他にも伝えるべきことが同時多発的にあってですね、
これどう伝えたらいいんだろうっていう、
一個一個伝えてもいいんだと思うんですけど、
いっぺんに伝えたいことがあるんですよね。
これいけないと思うんだけれども、
あれですね、いろんなやるべきことがあって、
どれも優先順位がスーパープラスプラスプラスプラスプラスですみたいな状態で、
どれもなんですよね。
だからどれかだけを伝えるってわけにはいかないんだけど、
この1時間のうちにこれ全部伝えられるはずないよなとかって、
そういう悩みで割と動けなくなってしまうことがあるんですよ。
まあそれ動けなくなっちゃいけないって話を、
タスク管理でもグッドバイブスでもしているはずなんで、
動けなくなっちゃいけないんだけど、やっぱり人間、そういうところがあるんですね。
これなんかですね、先日ゲドセンキを娘が読んでたんで、
やだら夢中になって読んでるんで、
そういうのって何となく気になって覗いたりするじゃないですか。
で、こういう話だなと思ったんですけど、
唐突で申し訳ないんですが、
私たちって波のようなものだなと、
まあそれに書いてあって、
これ仏教でもよく出てくる例えなんですけどね、
波だと思い込んでいる海みたいな話なんですよ。
で、これ聞いたことが初めてだという人は多分いらっしゃらないんで、
何となく想像つくと思うんですが、
波っていうのは消えちゃうじゃないですか。
しかも儚いものの象徴みたいに、
これ泡みたいな話の時もあるんですけどね、
淀みに浮かぶ泡沫ですよね。
要するに歌方は形があるようでないようで、
消えゆくものの象徴みたいな話で、
まあ仏教的ですよね、非常に。
これは当然バラバラ意識の話をしているわけですよね。
波というものがですね、消えない、消えないとするとか、
永遠に自分はこの形であり続けたいとか望むのは、
意味がないことだというような話を下の戦記で出てくるわけですけど、
私たちはなぜかですね、
人としてどうあるべきかとか、
人間として生まれたからには何を成すべきかとかって言い出すわけですよね。
03:02
これを波がやったらとても変じゃないですか。
波として形作った限りには、
この辺の岩は破壊してからじゃないと死ねないとか思っても、
意味ないんですよね。波は海なんで。
だけれども僕らは海であることは忘れて、
自分が波であるというふうに確信して生き始めるわけですよね。
それがイリュージョンということだと思うんだけど、
かっこいい波でありたいとか、サーファーの役に立てる波でありたいとか、
様々ありますけれども、
そこら辺の波とは違う光り輝く波でありたいとか、
意味が全くないんですよね、この海であるということを考えてみると。
なんだけれども、この意味の全くないというのはどういうことかというと、
そんなものは存在しないということだと思うんですけど、
私たちはそう思わないわけじゃないですか。
人として生まれたからにはという話を、
このセミナーの講師なりがしていたり、あるいは学校の先生なりがしていたりして、
それがものすごく奇妙な感じとかは受けないんですよ。
ということはつまり、あのかっこいい波のようでありたいと波が思うのと
全く同じことをやっていても、そっちは変だと思うんだけど、
こっちは変だと思わないんですよね、人は。
人はつまり、自分が海だということは無視して生きているわけです。
ここのところで、さっきのいろんな話が同時多発的に出てくるわけですよ。
いろんな悩みがですね、自分が波だと思った途端に
ありとあらゆる悩みが一斉に発生して、全部イリュージョンなんだけど、
一斉に発生してですね、これをどう伝えるか的な話が
グッドバイブスとか、仏教でもそうなんですけど、あるわけですね。
だから偶話がいっぱい出てくるんでしょうね。
結局ゲドセンキで話されていたのは、そもそもゲドセンキが偶話ですからね。
そういうふうに考えたときに、3つ出るようなと思ったんですよね。
3つ、即座に私たちが最もイリュージョン的でありながら
日々絡め取られがちで、しかも手放し難い。
1つが罪悪感というやつなんですよね。
やっぱりこれ全部絡み合っていて、罪悪感だけが出てくるわけじゃなくて、
自分が波だと思った途端に出てくるのが罪悪感で、
他の波が罪悪感を持つべきだという発想まで出てくるんですけど、
罪悪感があるわけです。
なんで罪悪感があるかというと、結局それは波として生まれてきたからには、
このまま何事もなく海に飲まれてしまっては残念だという気持ちから
06:03
罪悪感が生まれるわけですよね。
俺は何もしないまま、もうすぐ岸壁にたどり着いちゃうみたいな、
そういう発想ですよね。
そうすると達成感というものが、この罪悪感とはいつもだいたいセットになっていて、
だから絡んでるわけですよね。
達成感も最上級だと僕は思うんですよ。
イリュージョンの中では、一番私たちが人として生まれたからには、
時間を無駄にしていてはいけないとか、雑務ばっかり押し付けられていてはいけないとか、
そういう発想になってくるわけじゃないですか。
それはつまり、雑務ばっかりやっているような波であってはならず、
もうちょっとサーファーの役に立つ波でなきゃいけないという、
他の波との比較というものがあるわけですよね。
これも自分が海であるということは、無視した瞬間に必ず出てこなければならなくなる感覚で、
これを私たちは全くこの話を自分が語るときには、
むしろこれを逆のことを言ってくる奴は、頭がおかしくしか見えないわけです。
ちなみに、自分は海であるというふうなことに間違って思い至った波のことを心理学では宗教コンプレックスと呼ぶんですよ。
ゴッドコンプレックスという言い方もあるんですけど、要するに病気だとみなされるんですよね。
グッドバイブスで言うような一つ意識とか言ってる奴は、
コンサータでも飲ませようみたいなそういう発想は現にアメリカにはあるんですよ。
治療の対象になっちゃうわけですね。
一つ意識に目覚めてはいけないわけですよ。
人は個体であるからね。
それが常識であり正常であり正気だということが確定してしまうと、そういう話になるわけです。
海は同時に波で、波は同時に海だっていうのはですね、いけないわけですよ。
海というのは波の集合でしかないという、そういう視点からすればですけど。
で、この他の波と比較するとか、他の波と比較して自分はちっともいいことができていない波だとか、
そういう風に考えてみるとここら辺にいる波も全部同罪だとか、つまり罪なわけですよね。
ことと次第によっては罪を犯しておきながら反省もしないみたいな。
これが例の反省させると犯罪者になりますという岡本さんの本のタイトルにもあるような話につながってくるんですけど、
こういう話が出た時には一斉にこの問題が実は背景にあって、たった一つのイリュージョンを手放せば全部消えるんですけど、
つまり自分は実は海なんですということを思い出せばですね、全部この問題は消えるんだけど、
09:00
これを例えばタスク集団のセミナーとかでお話しするわけにはいかないので、雑務ばかり私が引き受けなければならないんですとか、
私はいろんな上司にダメ出しをされて、実際ダメな社員なんですけれども、
今すごく、例えば強心症か何かで苦しんでるんだけど、ここで逃げ出すのは敗残者なんじゃないでしょうか、
そういう罪悪感に苛まれておりますっていう話もあったりすると、タスク集団的に自分を海だということを思い出しましょうと言ってもダメなので、
グッドバイオス的にもそれだけ言って伝わるとは思えませんけれども、要するにですね、例えば比較をしないとか、
比較をしないですらグッドバイブスではスムーズだけれども、タスク集団となるとスムーズではないですよね。
タスク管理の話をしていて他の人と比較するのはやめましょうという話をしてもですね、
比較をしているという自覚自体が乏しいケースも多々あります。
比較してるに決まってるんですけどね、自分はダメな社員だって既に比較してるし、
ここで逃げ出すのは甘えだというのは完全に比較をしているので比較してるんですけれども、
比較してるということになかなか自覚的でない場合は、結局セクションいっぱいにする時間の組み方はやめましょうとか、
早く眠れるようにする終了予定時刻や就寝予定時刻を1時間早めましょうとか、
そういう話にどんどんなっていくわけですよね。
でもこの話はさすがにこうちょっと虚しいっちゃ虚しい感じもするわけです。
減るはずがないですからね、そう思っただけでは。
そうしようと心がけただけではですね、自分のタスクというのは減らない。
何よりも誰の目にも明らかなわけですよね。
タスクを減らすんじゃなくて、すぐに寝るなり入院するなり強制的に休養を取るなりしなければいけないわけですよ。
そのような発想というのは一つの価値観なので、
もちろん医者が強制的にそれを言って出社してはいけませんという紙でも発行すればそれはそれでいいんですけれども、
そうじゃない場合にはですね、結局ここは価値観の話になってしまうんで、
奥さんは何というかとか、旦那さんは何というかとか、親はどういうかとか、上司はどういうかとか、
同僚はどう思うかとか結局こう比較の話になっていってしまうんですよね。
同僚は同じ状態だったけれども見事仕事をやり遂げたとかそういう余計なエピソードが入ってくるわけですね。
あっちの波はあの形のまま頑張ったが俺はここで崩れてしまいそうだとかそういう話じゃないですか。
意味のないことを喋ってるんだけどすごく意味があるように多分ある視点を取れば見えてしまう。
達成感と罪悪感というのはこういうふうに結びついてるんだけど、同時多発的に出てくる問題なんですよね。
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どっちかだけってことは滅多にない気がするんです。
罪と達成感、この二つだけでもかなり十分な気がするんですけれどもね。
もう一つがですね、これも同じなんですよ。
同じなことを別方向で喋ろうとするから自分の中で無理な意味が出てくるんですけど、本当のことを僕たちは知らないってやつですよね。
今ここでもいいんですが、同じなんですよね。
私たちは海であるということを忘れて波であるという風なイリュージョンを持つとですね、
波としての達成感を欲しがるし、達成できない罪悪感を持ってしまうし、そして本当のことが分かっているような気がするんですよね。
一斉に他の波を見渡して、色々分析を始めて、こういう形で、こういう方向を向いていて、こういう風に進んでいくと。
未来はこうなるだろうと。形もみんな似たり寄ったりですから。
波というのはリズムですからね。だけど波形のパターン通りの波って実は一個もないじゃないですか。
だけれども私たちはこう、そういうものがあるように思う。形のいい波がいい思いをし、ダメな波はなんか海のもくずと化す。
それも素早く化すみたいな、そういう勝手な世の中の法則をですね、作り出すわけですよ。
これも勝手なというと多分かなり怒られるんですよ。
今波と海の話してるから誰もあんまり咎め立てされないと思うんですけれども、
これが人だということになると途端にものすごく僕は怒られると思うんですよね。
世の中では差別を受けて酷い目にあっている人も現にいると。
この現にがとても大事だと思うんですけど。
で、それは構造的な問題だって言うじゃないですか。
つまり構造的ということは構造がまるで先にあるみたいな話ですよね。
例えば男と女というものがあって、女性はガラスの天井というようなものがあって、
一見女性が多く働いている、活躍しているように見える職場でも、
実は意思決定役員は男しかいないんだとか、そういうことが現にあるんだと。
そういうものは類似の会社があちらこちらにあって、構造というものが先にある。
つまり男が優遇されるという構造が先にあって、
どんなに優秀でも女性は役員の中に入ることができないという構造がですね、
私たちの現実に優先して存在していると。
先に現実があるんじゃないという話なんですよ。
パターンが先行してあるという話なんですね。
これが私がさっきの海と波のよくわからんだという話の中には、
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実は入っちゃってるんですけれども、
海と波の話をしている限りは多分お目こぼしされるんですよ。
だけどこれが人に当てはまった途端に多分怒られると思うんですね。
だからやっぱり偶話で済ませたいなと思ってしまうところもあるわけですけど、
ゲド戦記を書いた人がどう思ってたかは別としてですね。
だけどミハイル・エンデの桃みたいなのもそうだと思うんですが、
やっぱり偶話にしておく限りはですね、
そうだなって人はすぐ思ってくれる部分があると思うんですね。
だけどあれを現実の話とした途端にやっぱりこう、
いろいろとこう、イリュージョン側からのバッシングっていうんですかね。
これ自体イリュージョンですけど、
そういうものが普通にあってですね、
なかなかこう、そんな話は飲むわけにはいかなくなると。
本当のことは何も知らないというのは、
当然私たちが構造というものに苦しめられているかどうか、
本当のところはわかっていないという話になるはずなんですけれども、
この3つが僕の今のところ、
グッドバイブスで振り払いやすい、振り払うべき大きなイリュージョンだなと思うんです。
しばらくグッドバイブスで過ごしていると忘れてしまいますよ、これ。
罪悪感なんて今更ですね、人に持ったり持たせたりと、
自分が持ったり人に持たせたりと、
一番論外な感じのイリュージョンなんですけど、
これはでも仕事場ではですね、一番多く実を見受けられるイリュージョンかもしれない。
自分が達成できていない。
つまり、未達のことが多すぎる。
期待に応えられていないという理由で自分が罪のある存在だ、
罪悪な存在だとみなして自分を罰しにかかるんですね。
これだけで説明するのは多分いけないことなんだと思うんですけど、
これが抑鬱的な真理を生むのは間違いないので、
まずこのイリュージョンを、その状況の過酷さとは関係なくですね、
状況が過酷になってしまったらこの種の罪悪感を持つのはしょうがないってことになったら、
意味がないですよね。
だから、どういう職場での例えば残業が100時間を超えてますみたいなことがあったとしても、
それはやっぱり緊急避難的に休むべきですけど、
罪悪感を持たないということによって多分抑鬱というものは相当予防できる、
これは予防的な話になりましたけど、予防できると思うので、
罪悪感を持たないというのはすごい大事なことだと思うんですよね。
この話は必ず未達って話と、つまり会社でのプロジェクトがまず未達のものが多すぎるとか、
自分の仕事が遅すぎるとか、容量が悪すぎるって言うんだけど、
その先に必ずあるのは人として達成したい、最低限こういうことは達成して、
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その他大勢のまま埋没したくないというのがどっかに絶対繋がっていると思うんだ。
そうでないならば、休んでしまって会社の人たちみんなにしょうがないやつだと思われても何ら問題ないはずなので、
さっきの波と海の話を思い出していただきたいんですよね。
他の波にお前の形は悪いとか言われても全然問題ないじゃないですか。海なんだから。同じ。
こういう視点に入ればこの問題って実は最初から存在しないんですよ。
だけどそういう視点に入らないのでしょうがないのでっていうのは変だけれども、
そうするとあなたは何を失うんですかとか、クラウドの慶応さんが一つ一つ丁寧に聞いてくれるわけですよ。
つまり波が波だというイリュージョンを持ったままで、本当にそれで困るんですかとか一つ一つ丁寧に聞いていくんですよ。
でもこれはすごく倒破するべき距離が長いんですね。
実はこれは、実はあなたは海なんですということに気づいてもらえれば一発で解消されるんです。
けれどもそこはそれを言われると皆さんの宗教は嫌いだという気持ちによって拒否されるので、
本当にそっちの波の方が美しいんでしょうかとかそういう話から入っていくしかないんですね。
そういうところでも喫緊にどこから手をつけるべきかと思ったときに、
昨日のブログ読んだりセミナーしてみたりして一番思ったのがやっぱりこの罪悪感を何とかするということだなと。
これすらもタスク習得的な、タスク管理的なセミナーではダイレクトに言うのは難しいケースが多い。
たまにダイレクトに言えます。
その上司への罪悪感はいらないですというのは言ってもいいケースはあると思うんだけど、
明らかにその罪悪感が問題なんだけどそう直接言うのも文脈上おかしいという場合は、
もうさらに違うアプローチを考えなければいけない。
でもやっぱり早い段階で罪悪感というもの、罪悪感は絶対罰をしたいというのに結びつくので、
ただ罪悪感を取り除こうと思ったらやっぱりその人の達成されていない、
人として私は何も成し遂げていないという、そして人として何も成し遂げていない奴は結局バカだという風ですね。
そうは人は思ってるでしょって言われると、いやそんなことは思ってないって言うんですけれども、
そういう視点がどうしても突きまとうんですよね。
やっぱりこう、私は波以外の何者でもないっていう発想から来ると、それが入ってきちゃうんだと思うんですよね。
それでその罪悪感を手放しましょうという話は、
必ずこう同時に達成感というものにこだわるのはやめましょうという話になる。
これが特に現代人には強い恐怖感があるんですよ。
21:04
だから海と波の話をしなきゃなんなくなるんです。
ハリウッドのなんとか賞を取っても、
倉野さんがよく出す事例で言うと、
今日本で活躍している女性100人とかの写真に載っても、
実際にはそれでは何も達成されるわけではないんだという話は信じてもらえない。
サーファーに選んでもらうような綺麗な波になっても海であることに違いはないって話は多分誰でも簡単に納得されると思うんですけれども、
これが同じようには多分響かない。
最近それに関連して、本当のことは何も知らないでもいいんですけれども、
一つすごく心に刺さったのが、ちょっと違う文脈に聞こえると思うんですが、同じなんですよ。
柔道の古文の先生が子供に、柔道部でしょうね。
部員にひどい大罰を与えて、たぶん柔道の技とかをかけたんですよ。
はっきり言って、これもそのワイドショーでも言ってましたけど、これも今言っちゃいけないことなんだと思うんですが、
はっきり言って、この種のことは私の小学校、高学年の頃は頻発してました。
はっきり言って。
だってそういうことを自慢する先生いましたもん。
首締めてですね、締め落としてやるんだっていう話してましたもん。話聞かないやつらはって。
でも蔵野さんの話を聞くと、10年前に比べると、すでに私たちの時代はそれをバンバンやってると問題視されてましたし、
バンバンやる人は減ってたけど、昔はさらにバンバンやっても全然問題にもならなかったような時代だったと思うんですね。
今やると、完全にスクランブルとかで大々的に取り上げられて、30分その話が延々されるという時代なんだけれども、
その中でやっぱりあったんですよ、その顧問の先生は。
前々からそういうことを繰り返していたと。
勲告処分も受けたことがあるのかな、なんかそういう話があって。
反省の色が全く見えないって話になったんですよ。
で、みんなとても怒っていて。
そうなんですよ。
この大きなイリュージョンに大きな問題があるんですよね。
減ってるんだから、この流れの中できっと減っていくと思うんですけれども、
要は反省するはずないんですよ。
このことを私たちはついつい忘れる。
私たち誰一人として、そのスクランブルの人たち自身がそうなのに、もうその点をスルーしてしまう。
つまり、怒ってるわけじゃないですか。
怒ってる人は誰一人として、自分は怒りがちな人間だとは思ってないですし、
24:04
怒るということが好きだというわけでもないわけですよ。
みんなこう思ってるはずです。
怒らせる人が悪いと。
絶対そう思うじゃないですか。
この反省しない教諭の話を聞いて、これはもう本当にひどいとみんなが思うわけですよね。
この教諭のこの勲告を何度も無視して子供を占め落として楽しんでるこいつが、
私を怒らせるからこういうことをみんなで怒って喋ってるんだって思ってるじゃないですか。
誰も怒ってること自体を反省はしないと思うんですね。
この教諭絶対同じように思ってるはずですよ。
この首を占めて落とされた生徒はですね、すげえ悪いやつなんですよ、きっとその人にとっては。
何をしたのか知りませんけれども。
だから好きでそういう柔道の技をかけたわけじゃなくて、
怒らせるから、自分は怒りたくないのに怒らせられるから、
やむを得ず落とした。絶対そう思ってるはずなんですよ。
それなのになぜ反省させられなければいけないのかと。
絶対そういうふうにしか思わないと思うんですよね。
これこそ被害者なんだと。
この教育のために必ずしもやらなくてもいいのに、
他の先生とかが怒りも起こらないから、
自分がですね、そういう虚言あるんですよね。
ダーティーワークというんですよね。
汚れ役を買って首を占めて落としたのになぜそれで俺が責められるのかと。
悪いのは生徒じゃないかと思ってると思うんですね。
これ、柔道で締め技でこの程度のことを思わないはずがないと思うのは、
そのやっぱり反省させると犯罪者になります場合には、
人を殺しにした人もみんな同じロジックを持ってるからなんですよ。
殺しても人はそう思うんです。
あいつが俺に殺させるようなことを知れかすからいけない。
だから俺は嫌だったのに殺してしまって、
こんな牢屋にまでいられて、
俺こそ被害者なんだと本音を言えば書くんですよ。
そういうふうに。
みんなそうなんだっていうふうに岡本さんは書いてたんですね。
私絶対そうだと思うんですよ。
それ以外考えられないと思うんですよね。
殺して本当に申し訳なかったとは思ってないんですよ。
これを思わなきゃいけないってみんな言うわけじゃないですか。
やっぱり同じようにですね、そこに罪を見るわけじゃないですか。
だから犯罪ですからね、しょうがない面もあるとはいえ、
結局この柔道の小物先生にも罪を見るわけですよね。
だから罰さなければいけないと考える。
ここに絶対に確実に出てくることがあると思うんですよね。
分離なんですよ。
27:00
この柔道の先生のような人はとても私には理解できない。
言ってましたからね、スクランブルで。
やっぱりそうだろうなと思うんですよね。
あの人は私とは全然違う人間なんだと。
だからロジックが変わるわけですよね。
私がこの人に怒るのは私が正常な人だからだけれども、
この人が部員に面白がって首を絞めるのは
頭のおかしい先生だからだと。
こういう先生というのは昔からいたんだと。
この点だけは私たちと意見が合うんですけどね。
昔からいたんですよ、確かに。
頭のおかしい人たちが昔からいたのはなぜこの人たちが
まだ教師をやっていられるのかという理屈なんですよね。
完全に、なんていうんですかね。
人間じゃないんですよね、言ってみれば。
ここに僕はすごく、
なんていうんですかね。
波のイリュージョンってすごいなと思うんですよね。
他の波を見て自分と他の波は別なんだという意識が
強く働くんですよね。
そっくりなのにね、形がね。
同じような人間じゃないですか。
見た目も何もかも。
だけど別なんだという意識があるんですよね。
だから私はこうやっぱり、
倉野さんが言う通り、
同じ波なんだではダメで、
同じ人間なんだって話通んないじゃないですか。
いくらそういう話がみんながしているように聞こえても、
このわずかと言っては多分怒られるんで、
わずかとは言いませんけれども、
古門が部員を落としたということが起こったという話を持って、
既に同じ人間ではなくなっているわけですよね。
この視点で、こういう感覚である限り、
殺人犯が同じ人間だと思うのは無理だと思うんですよね。
多分でも同じロジックなんですよ。
怒る人に罪を犠牲にしたい。
あるいは自分が罪を持つ。
そして罪に対しては罰を与えるっていうこのロジックを持つってことは、
分離がそこにあって、
同じ波ではないんですね。
だからこういう話に発展させられるところまでいくのは困難かもしれないんですが、
同じ海じゃないとダメなんですね。
同じ海だということになったら、
2つあるわけじゃないので、
ここが海と波の場合はあからさまにつながっているからすごく簡単なんだけど、
私と古門の先生や私と受刑者の人とは、
どこかにつながりがあるということがそこまで自明でないので、
分離になりやすいんですよ。
ここまでだとずっと同じ話をただしているだけなんですけれども、
30:02
この3つのイリュージョンを一発で取り去るのはさっきも申しましたが、
つまり罪というのと人として、結局人としてどう生きるかなんですよこれは。
それがイリュージョンなんですよ完全に。
波としてどう生きるかというのがイリュージョンであるように。
おそらくこれがイリュージョンなんですよね。
本当のことを知っているという、
分離する時などというのはそういう確信を持っていますよね。
この古門の先生は先生をやるべきでない。
明らかに本当のことを知っているという人の発想だと思うんですよね。
これを一発で取り去ることはできるんだけれども、
その感覚は持ちにくい。
私が昨日セミナーをやっている最中に考えたのは、
なぜ人は自分が涙というイリュージョンを持ちやすい生き物として生まれているんだろうということを
大橋さんとのセミナー中に考えたんですよ。
考えたというか、そういう疑問がどうしても拭えなくなったんですね。
ブログをその後知人が読んでみても、そのことがやっぱりこびりついたので考えているんですけれども、
一つには、これはもう本当に倉園さんがおっしゃっているというよりは、
ただ僕がなんとなくジャストアイデアで考えついたものなんですけれども、
一つには、このイリュージョンを持つのが、
それこそ人として私がやるべきことなのかもしれないと思いました。
イリュージョンまみれになるんですよね、人って。
私は涙イリュージョンが多分他の生物に比べてもとびきり強いと思うんです。
このイリュージョンもとことん、なんていうんですかね、
味わうことで、これを通じて一つ意識に、
一つ意識というのはつまり、さっきのロジックでいうと海だということなんですけれども、
海だということを思い出すという、
このですね、一種の健忘みたいな、記憶喪失のようなものを味わい尽くすというのが、
人間というものがやることなのかなと、なんとなく思いました。
昨日ですね。
他の生物は多分、もっとはるかに一つ意識の中で生きていると思うんですよ。
イリュージョンも、これほど人ほど見るには、やっぱり脳が小さすぎるんですね。
猿とかすごい微妙な生物もいますけどね。
明らかにイリュージョンを操っている生物も、チンパンジークラスには結構いるんで。
だけど、時々お話しする昆虫クラスにはほぼ全くいないですね。
絶対無理だろうなと思うんですよね。幸せなことに。
そう、幸せなんですよね。
だって、どう考えても海と波でいうと、海であると知っている方が幸せに決まってますからね。
波であるイリュージョン、何ら幸せを生み出さないですよね。
でもこれが、私たち人間が楽しむもの、楽しむというのは、
33:04
愉悦の愉ですね。
立心弁つける愉悦。
イリュージョンを楽しむという生き物だったなという気がするんですよ。
だからこの三大イリュージョンに、こんなに血まなこになるんですよね。
人として何を達成するべきかということと、
達成していない奴は地獄に落とせという罪悪と罰のイリュージョンと、
私は世界の何もかもの構造を知り尽くしているというこの三大イリュージョンがですね、
好きですよね、明らかに。好きだと思うんですよ。
これを疑う奴は、宗教コンプレックスというものがあるので、
コンサーター、何を飲ませて治療をしなければならないという人たちすら、
医者ですからね、そういうことを言うのはアメリカ人ですけれども、いますから。
ヨーロッパにもあるんですけどね、そういう考え方。
つまり、波なんですよね。波として生きるイリュージョン。
海だというふうに言い出した人は病気であるというぐらいに、
この波のイリュージョンというのは、私たちに一種の確信を与えるし、
多分好きなんだと思うんですよ。
サーファーに選ばれる波でありたいとか、
台風の写真の時に写真に乗るじゃないですか、ある種の波を。
こんな波が来ました。写真に乗りたい人、写真に乗りたい人いっぱいいますよね。
アメリカではとにかく殺人でもいいから写真に乗りたいという人がいっぱいいるので、
警察は色々と有名人の敬語とか超大変なわけですよ。
有名人殺せば写真に乗れますからね。写真に乗りたい。
つまり特別であるという、特別でないものは罪であるというイリュージョンですね。
結局これはそういうことだと思うんですよね。
特別でないもの、他にも色々あるとは思うんですけど、
特別でないものというのがすごくピックアップされる気がします。
だからこそ、自分でない、自分のようでない、自分の仲間ではないものに
罰したくなるという。
これはすごく年々マシになっている気がします。
正しさ、やっぱり同じなんですよね。達成、本当のことを知っている。
だから正しいということ。
そして罪を持っているものを罰したいということ。
罪を持っているものは何かを奪ったという意味なので、
奪うということはですね、
それが奪われうるものだという考え方に基づいていますから。
36:01
例えば、あの人は私の時間を奪ったって言うじゃないですか。
それは罪なんですよ。
だからその人は罰されなければ気が済まないという話になるんですよね。
それは自分が究極的にはですけど、いつか消える波であるという
信念がない限り、ありえない発想ですよね。
自分が海だったら消えてなくなったりしないんで、
消えてなくならないということは、時間を奪われて困ることは何もないわけですよ。
別に波としての形が消えたって、そのことによって失われることは何もないので、
ゲイド戦記のハイタカじゃないな、ハイタカじゃないな、
誰かそういうセリフがあるんですよね。
永久に生きたいと思ったらこの海を永遠に止めなければいけないみたいなセリフがあるんですよ。
そういうわけにはいかないですよね。
自分が死にたくないからといって世界を停止させるみたいな。
だからイリュージョンなんですよね、これは完全に。
なんですけれども、この話の中では、
イリュージョンが実は私たちにとってとても魅力的に映るので、
だから私たちは結局イリュージョンを味わい尽くして、
そこを通じてですね、これはイリュージョンなんだなということに気がついて、
現実のことを思い出して幸せになる。
こういう生き方っていうのが、なんとなく人間みたいなものがやらされている生き方だなという、
やらされているというのもどうかと思うんですけどね。
なぜならイリュージョンなので、本当はやっぱりないものですからね。
本当はないものというのは、
そうですね、やっぱりVRみたいなのが一番いいと思うんですけど、
VRで苦しんでいると思っていたけれども、
撮ってみれば実はなんてことないという、
そのVRが大好きっていう生き物が私たちなんだろうかなというふうに、
ちょっと昨日思い悩んだというのか、
考え込ませられたというわけですね。
38:25

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