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2024-05-14 51:51

なぜケアする?【GMV983】

仕事を進めるための現実原則。

Summary

ネットコミュニティの盛り上がりやマーケティングの有効性、ゲーム感覚の重要性、特定の性格分類の問題点について考えられるエピソードがあります。性格分類や人格診断の分類軸について考察し、その限界を指摘しています。なぜケアする?【GMV983】のエピソードでは、削るべき虫歯についての議論や自己愛とアセスメントに関する考察、仕事における快楽原則を超える必要性について話しています。仕事において他者を説得する際、自己愛とケアの関係が重要であるとされています。妄想分裂的なポジションに入ることで、編集者に納得してもらえるロジックを提示することがケアに繋がり、本の説得力を高めることができるとされています。グループセッションを通じてカウンセリングの関係性がより一方的になってしまっていることに気づくでしょう。

ネットコミュニティの盛り上がりとマーケティングの有効性
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
5月14日、火曜日の朝7時19分ですね。
はい、久しぶりにグッドモーニングボイス的、しか、なんか今日はひんやりしていて、なんか最近本当にこの、ありますね。
今日は行けそうだっていうと、今日は厳しいっていう感じの、そういうのがありますね。
今日は、天候的にはやりやすいけど、なかなか厳しさもあります。
はい、ではですね、早速行きたいと思うんですけども。
その前に、17日のタスクシュートジャーニーというのを、ケンスーさんのゲストでお招きしてありまして。
これ、お高くもないですし、ケンスーさんの物語思考、読んでるわけですけれども、結構面白いですよ。
なるほど、こういう話なのねっていう、最初読んだときは、最初読んだというか最初、概略を読んだときはちょっと分かってなかったんですよね。
なるほど、割となんていうんですかね。
Jさん、私も言うような話なんだけど、ただ、やっぱりフォーカスの当てるところが違うんですね。
そういうことなんだなって思いました。
大筋言ってることは、結構かぶってるんだけど、多分全然違う印象を持つと思うんですね。
それは、話の重点が全然違うところにあるからなんですよ。
ものすごいある面、根絶丁寧な本とも言えます。
ここをすっごく開くんだね、みたいな感じの展開させるところが、私たちが展開させないところなんですね、どっちかというと。
本当に僕は、Good Vibesであれ、タスクシュートであれ、そこじゃないんですよね。
自然とそこには目が向かないってところが、やっぱりここが人のパーソナリティなんだなと。
同じようなことを仮に考えていたとしても、目の付けどころが全く違うんですね。
それをすごく痛感しました。
ゲーム感覚の重要性
例えば、倉田健三さんがGood Vibesでもゲーム感覚でやるって言うじゃないですか、おっしゃることはあったんですね。
JAさんもまた全く違う文脈でゲーム感覚でやりましょうね。
これは全く違う文脈なんだけど、この2つのゲーム感覚の焦点は、僕にはすごいしっくりくるんですよ。
JAさんが言ってるのは、タスクというものを実行するにあたって、あるいは実行できなかったとか、先送りしちゃったとか、
全部ひっくるめてこれはゲームだと思ってやりましょうねって、まさにそのことを先送りゼロでも割と繰り返し強調しましたよね。
これはゲームだと思ってやるんですよっていうね。
失敗したからといって、ゲームの失敗も一定の心理ダメージあるかもしれないけど、そんなことを覚えてもいないじゃないですか。
あそこで死んでしまったみたいなね。
倉田さんの言うゲーム感覚というのはまたちょっと違って、例えばこう罪悪感を放すようにしましょうって言われても、罪悪感持っちゃいますよね。
でもこれはある意味ゲームだと思ってくださいみたいなそういう、あるいはイリュージョンにどっぷりまみれて人を攻撃したくなりますよね。
でもそれはもう終わったことはゲームだったとでも思うというか、そういう感じなんですよね。
結局のところ幻想であれば、そこで起きていることはよほどのものがないといって致命傷を負わないよっていうような意味もあると思うんですよ。
ゲームで死んだからといって傷は負わないわけですよ。
ゲームの自分の戦闘機が爆破されても、かすり傷一つを負わないわけです。
ゲームなんでね。このゲームという言ってみれば比喩ですけれども、非常に僕はウィニコと連想するんですけどね。
僕らはゲーム見てても時々すごい致命傷を負った気になるじゃないですか。
先日千葉ロッテはひどい負け方をしたんですよ本当に。
どう考えても勝てるだろうという試合を2つも落として、しかも1つはエラーで落として、本当にまさにゲームなんですよでもあれは。
だってゲームですもんね。ゲームって言いますからね。
しかも僕と関係ないじゃないですか。千葉ロッテがどれほどひどい負け方をしても、私が何のダメージを受ける理由もないわけですよ。
勝ったニポハムのファンだったらめちゃくちゃ喜べるわけですよね。同じ光景を見ていて。まさにゲームなんですね。
という文脈で使えますよね。物語志向というケンスーさんの物語というのはまさにゲームなんですけれども、
ここで言う、ここで言うっていうのかな、同じことを言っているんですよ。
起業したり大好きなことをしましょうと言っても難しいでしょうから。
ゲームだと思ってやりましょう。ここら辺まですごい似てるじゃないですか。
ではそのゲームの仕方をこれから一冊の本を使って解説しましょうに入っていくんですよ。
ここは全然違いますよね。我々はゲームの仕方というものをここで、いやゲームだと思ってやるから失敗しても辛くないとか、
そういうつまりこれは失敗した時のある意味なんていうのかね、心の持って行きどころみたいな話を私なんかはしやすいんですけれども、
ゲームという比喩で。ゲームという比喩そのものの遊び方っていう話になっていく。
しかもその本は結構読まれるんだなっていうのがですね、私には新鮮なんですよね。
私はこのゲームでどう失敗したか、つまり私たちは現実にやっていることそのものがゲームだと言っているに過ぎない。
ケンセルさんもおっしゃってることは同じなんだけど、そのゲームの遊び方を学ぼうっていう考え方というか、そういう本なんですね。
そういう本は私は多分書けないなって気がするんですよ。理由は簡単で、
それを一冊本を書き続けるモチベーションとしては、あなはだ弱いというかほぼ全くないという感じがするからなんですよ。
だって私はゲームの遊び方を学びたいとは別に思わないから、そうなんですよね。そういう風に言うより他はないんですよ。
だからなるほどこの後でキャラクター設定とか出てくるのはいかにもなんですよね。
ゲームではキャラクター設定ってするじゃないですか。私は先送りゼロのゲームをするキャラクターを設定したいとまでは思わないわけですね。
だからもちろんこのやるゲームが違うんですよ。ケンセルさんはまさか先送りゼロのゲームをしたいとは思えない。
やっぱり彼は起業というゲームをしたいわけですよ。そうするとなるとやっぱりモチベーションが違ってきますよね。
私は起業というゲームには全く興味を持ってないから起業してないじゃないですか。
まさにそういうことになっていくんですね。ここがパーソナリティなんですね。
という話をケンセルさんの口から聞く方が絶対にいいに決まっておりますので、興味あったら17日の金曜日に15時からオンラインでやりますのでよろしくお願いします。
合わせて19日、ちょっと今ですね、告知ページを大幅に手入れして頑張っている手帳セミナーですね。タスクシュート手帳のセミナーを開催します。
これ第1回になります。前回のはベータ版だったので今回が第1回となります。14時から始まります。
こちらを簡打でリアルであり同時に会場開催もしてアーカイブも配信させていただくので、よろしければぜひご参加いただければと思います。
特定の性格分類の問題点
こうしているうちに時間が経っていくので本題に入ろうと思うんですけど、先日PRの仕方とかなぜこんな話をしてるんだろうっていう感じが今見て思ったんですけど、
一昨日のことは僕にとってはもう実質消去なんで、心の中から消えていくんで、それを話題にしていただければまた再生するんですけど、それはその時の話なんですけど、
そういうようなことをちょっとしゃべろうと思っているんですけどね。今日はざっくりとした話っていう、テーマの方向性がフラフラしているわけですが、
この仕事って何なんだろうっていうのをずっと考えながら、たぶん一昨日のような話もしているわけですよ。
カウンセリングでないのはもう僕の中でははっきりしてきたんですね。カウンセリングではない何かなんですよ。
これは今まではほぼエクスキューズに近かったんですよ。僕に精神分析は無理だからという。
でも今はそれはカウンセラーに任せればいいんだっていうのがすごく鮮明になったんですよ。
だってあっちじゃないとやれない話っていっぱいあるんで。
例えば、そっち入院されている方のカウンセリングなどというものは、そもそも私たちは見当もつかなければ目に触れることもない。
なぜならそれは病院の中で行われていることですからね。そういうような話がいっぱいあるわけですから、
私がそこでやっていることと同じかどうかを考える必要すらない。違うに決まっていると。
例えばお医者さんとの連携とかできるはずがないですからね。
だからそういうふうに考えていくと、まずこれはいわゆる医療行為には属さないなっていう。
そこをはっきりさせとけばいい話だなと思ったんですよ。
その上で、例えばどうして診断みたいなことが入ってきやすいんだろうと。
入ってきやすいというのは、例えばビジネス書でも人格障害のパーソナリティみたいなのが、
巷にあふれ始めたことがあったわけですよ。
今でも、例えばアダルトチルドレンとは、アダルトチルドレンというのはDSMに果たして乗るだろうかというのを
私は興味を持って眺めておりますが、アダルトチルドレンの性格分類という特徴みたいなのは、
私が結構幼い頃と言ったら言い過ぎかもしれないけど、
でもだいぶ前、20,30年前からあったんですよ。
20,30年前のほうがあったぐらいなんですよ。
ビジネス書時代以前なんですよ。
ビジネス書時代なんてないですけど、ビジネス書というものがこの世に流布するようになる前から
アダルトチルドレンって結構本屋さんに並んでたんですよ。
今のほうが少ないぐらいですね。
でもネットでは非常によく散見される概念で、
のぶたさんがいわゆる、この話やめよう。
のぶたさやこさんという方を検索してみてください、興味ある方はね。
アダルトチルドレンという概念を提唱されてから、これはだからあるんですよ。
今ではもう日本では少なくとも括弧たる字を確立しつつあると思うんですけれども、
なぜ性格分類から入るんだっていうのがまず僕の、
これはアメリカで留学中に教えてもらったから、
なぜなのかは一応理解はしたんですけど、納得できてるわけじゃないんですね。
そしてよくあることですが、こういうものができてしまうとですね、
そっちに注目が集まってしまうということが往々にして起きるわけです。
つまり発達障害とは何かとか、
HSPとは何かというのが全て症例的に見るというか、症状としてのみ見る。
最終的には特徴だけが出回っていくんですね。
アダルトチルドレンはこういう特徴があります。
この話はどうしても私のような人間には、なぜそういう特徴が出てくるんだっていう、
そっちに意識が回るわけですよ。
こういう困った人いますよねっていう、
性格占いみたいなものを提示されると、
ひどく納得がいかなくなるんですよ。
それはつまりA型は貴重面って言ってるのと何も変わらなくないっていう感じがするわけです。
貴重面になる理由を、血液のタンパク質のこういう構成になっているから貴重面になりましたと言うんだったら、
やはりそこを繋いでほしいわけですよね。
こういうタンパク質の構成になると脳にこういう影響を及ぼすから、
その人は貴重面という行動が現れるんですとは言わないじゃないですか。
貴重面という特徴があります。A型だからですってなってしまうじゃないですか。
そうすると、なぜっていうふうに考えたくなりません。
僕はここはものすごくなるわけですね。
これがアダルトチルドレンであろうと、ボーダーラインであろうと、スキゾイドであろうと、
同じふうに書かれてしまっているっていうのが大きな問題だと思うんですね。
ボーダーラインですからね。僕この言葉にこだわってますけど、
だって境界例って書いてあって、境界っていうのはまず何の境界だっていうふうに考えたくなりますよね。
何かと何かの境界だから境界なわけですよね。何と何の境界なのか。
境界に特徴がありますって言われると、もうなんだかさっぱりわからないじゃないですか。
境界に特徴って、境界って線ですからね。線にどういう特徴があるのか。
その線に、線の性格を持った人がいますと、こういうふうに言ってるわけですからね。
文字面だけを覚えればね。で、その線にある特徴というのが、例えばこう、
両脚に触れやすいですとか、人をすごく理想化したかと思うと、
その人ごとが急に大嫌いになって憎み始めます。気をつけましょうみたいな。
わけわかんないですよね。なぜって感じがするじゃないですか。
性格分類の限界
その人の性格が線的だからです。っていう話になっちゃうわけですよ。
僕はこれは、そこに大きな謎を見ちゃうタイプなんですね。
これを読んでると、だんだんだんだん横溝精子の本を読んでる気持ちになってくるんですよ。
意味がわかんないけれども、なんかこう、断片的なヒントが散りばめられているようだ、
みたいな感じで、気がつくとWikipediaを3、4時間読みふけるみたいなことが起こるわけです。
そこで多くの人、何か過集中とかを心配するらしいんですけど、僕はそうは全然ならなくて、
Wikipediaではわからんということになって、松木さんの本とかを読み出すんですよ。
そして世が更けていくわけですね。
なんで僕はこうみんながなることに、自責の念をお持ちになるのかがわからないですね。
僕はそういう時に仕事を抱えていて、締め切りが迫っていても、
全然悪いことしたという気は全くしないんですよ、実はね。
だってしょうがないじゃないですか。読みたくなったんだから。
読みたくなったんだから。
しかも、なんていうのかな、
なんていうんですかね、これはね。
それこそだいぶ昔の、こういう時に思い出すのがあれなんですよね。
橋端たけしさんのNo Second Lifeなんですよ。
僕はそれをまんま信じてるわけじゃないんですけど、
二度と人生がないんだったら、やっぱり締め切りなんかにかまっている場合じゃないと思うんですよ。
ここが僕の中ではすごく割と鮮明なんですよね。
二度とない人生で、一番興味がその時あることをやっていて、
そのことに後悔するっていうのはナンセンスな感じがするんですよね。
だから、締め切りを優先していればならないっていうのは、
縦前としてはその通りだし、そうなんですけど、
しょうがないんで、締め切りについては後で考えようということで、
とりあえず信田さんの本とかを読みふけるわけですよ。
そして結局よく分かんなかったっていうことになるわけですね。
本の中身が分かんないわけじゃないですよ。本の中身は分かります。
私に分かんないと思っているのは、
例えばアダルト・チルドレンの人は、先日ツイッターに書いてあったんですね。
アダルト・チルドレンの人はすぐ恋愛しまくってこれっぽくなると。
いやいやいやいやって思うんですよね。
アダルト・チルドレンというのは直訳すると大人子供じゃないですか。
大人子供はなぜ恋愛をしまくるんだっていうここをつないでほしいんですよね。
A型だから貴重面ですよりはだいぶマシな気がしますけども、
大人子供は恋愛ができませんって言われても、
同じように人は納得してしまいそうだなと思うんですよ。
なぜ恋愛をしまくるんだとか、
なぜ恋愛してうまくいかなかったらすぐ相手取り替えればいいやと思ってしまうんだと。
これは境界例とどのくらい似ていてどのくらい違うんだろうと。
境界例と似たところあるじゃないですか。
ボーダーと言われている人は人をすごく理想化したかと思うと急に嫌いになりますと。
相手を取り替えればいいと思っています。
アダルト治療だよって書いてあると似ているところがあるわけですよ。
だけどマイルドになっている感じはする。
だとするとどのくらい似ていてどのくらい違って何が原因で似たり違ったりするんだろうって気になりません?
私はこういうのがわかるまでは調べ続けたくなるという。
しかもそれを学者的にはやらないんで。
ただただ手近にあるもので当たりのつきそうなものを読んでいくという方法以外持ち合わせてないので、
すっごい時間がかかるわけですよ。
だから世が更けていくわけですね。
今している話は脱線ではなくてちゃんと脈絡を僕の中では一応珍しく保っているんですけれども。
私が今やっているような仕事を位置づけるにあたってですね。
一番入ってきやすいのがこの奨励主義ってやつなんですね。
この奨励主義にアメリカの森林諸森林はかなり基づいている部分があるわけです。
奨励主義だけでやってるわけではないですけど、奨励主義ってすごくあるわけですよ。
という特徴、つまり診断的な特徴を探っていくわけですね。
このやり方は正しいんですよ、原則として。
つまりすっごくわかりやすいところで言うと、
例えば鼻がいっぱい出てますと、くしゃみが止まりませんと。
こういう症状というものを見ていって、
あ、花粉症ですねというふうにまず当たりをつけてから、
分類の専門性と通俗心理学の違い
本当かどうかを一応証拠立てるような何かを調べていくというのは、
身体の病理を探る上でも普通にやるじゃないですか。
これを真理にも当てていて、大筋外さないんですね。
ただですね、これを性格占いに使うというのはどうかって話なんですよ。
あの人好きぞっぽいよねとかっていう、すぐそういう話に出ます。
なるじゃないですか、現実的にはやりやすいから。
つまりあの人A型っぽいよねっていうのとか、
あの人獅子座っぽいよねっていうのと何ら変わらないよことを、
我々はやりたいんですね。
なぜかというと、この話はちょっと脱線気味ですけど、
もう社会心理学に入ってるんですけど、
要はこれは分類したいわけですよ。
なぜ分類したいかというと、
人を分類するとマッチングしやすいとでも、
僕らは思う悪い癖があるんですよね。
これ悪い癖なんですよ。
これは認知リソースを節約できると、
あるいは時間の節約になるとでも思うらしいんですけど、
そうは本当はいかないんですよ。
なぜならばこの症例の分類の仕方は非常に過渡的なものだからですね。
一見したところそう見ようと思えば、
そう見えるかもしれませんけど、
果たして専門家の人だってアダルトチルドレンと見るのか、
パーソナリティ、性格、人格障害的なものと見出すべきなのか、
ということを厳密にやれって言われて、
住人の人に聞いたら結構住人トイローなんですよ。
全然違うことを言い出す人も必ず出てきます。
学派とか流派とか主義とか、
その人の物の見方によって、
で、全部正しいんですよ、多分ね。
大土、よほどいい加減な人でない限りは、
おおむね正しいんですよ。
でもお互い自分の方が正しいって言って、
喧嘩もできるぐらいにはずれてもいるし、
信じてもいるんですよ。
というぐらいデタラメなものを、
素人が扱ってですね、
適当に分類して、
それが現実に有効であるように、
用いることはできるはずがないんですね。
多分これは専門家だって、
そんなことを日常でやってても、
無駄なことをやってしまうんですね。
まさにB型とA型と、
私B型の人なら気が合うからっていうのと、
何にも変わらないレベルに用いる。
きっとそうなると思うんですね。
そうでなくても、
この分類軸はどんどん変わっていくんですよ。
この分類軸はどんどん変わっているんで、
今DSM、
この分類を一番世界でちゃんとやってるのは、
僕はDSMだと思うんですけれども、
もう一つあるんですけどね、
世界保険機構でやってるやつとあるんですけど、
よく似てます。
5なんですよね。
今改定されてバージョン5なんですよ。
このもう5になるまでに、
4.何とかとか3.何とかとかあったわけですよ。
DRとか何とかRとか付いてるのもあったんですよ。
つまりどんどん改定されていくわけですね。
だから、
診断の限界とアセスメントの重要性
最終決定版でも何でもないんですよ。
例えば、
ヒステリーという項目が消えたとかね、
そういうことがあるわけです。
しかもこれが人口に解釈するときにはですね、
名称が変更されたりしてますからね。
名称が変更されてるんじゃなくて、
歪んでしまっていたりしますから。
一番分かりやすい例がナルシス、
ナルシシズムですね。
ナルシストとかって言っちゃうじゃないですか。
あれは多分正確にはナルシシストなんですけど、
誰もナルシシズムだと思うんですよ。
正確にはナルシシストなんですけど、
誰もナルシシストとか言わないんですよね。
だいたいナルシストって日本語に訳そうとすると
できないじゃないですか。
ムヌボレヤとかになっちゃうんだけど、
ナルシシズムは自己愛と訳されていて、
これすら語訳だと言われていて、
でもナルシストは自己愛者かって
誰も言わないですよね。
ナルシシストなんだけど、
ナルシシストとも言わないですよね。
人はナルシストと言ってるんです。
あれはもう和製英語なんですよ。
で、ナルシストとナルシシズムは
ほとんど同じ言葉なんですよ。
自然と関係ないですね。
そういうことが起きているんだと思うんです。
アダルトチルドレンだって
多分そういうことになって、
よっぽど人口に感謝していけば
自然とそういうことは起きると思う。
それはしょうがないと思うんですよ。
抑鬱症と抑鬱ポジションは
多分全然違うんですよ、
言ってることがね。
しょうがないんですよ、それは。
で、このしょうがないことが、
でもしょうがなく進展していきましてですね。
私たちは、
省令主義の片鱗みたいなものを掴んで、
多分自分のコミュニケーションとか、
人付き合いに活かそうとするんだけど、
実際に生きてない。
何かそこにはただ誤解が漂ってるだけで、
生きてるとは言い難いことが起こるんだけど、
起きちゃうんですよ。
なぜなら分類すれば対処しやすくなるという、
私たちの壮大なイリュージョンが
私たちをこう、
くらませていくんですよ。
そういう意味で、
私たちが生きていけば
生きていけない、
というような壮大なイリュージョンが
私たちをこう、
くらますんで、
すごくよくできた分類軸に沿って
動きたくなってしまうというね、
盛んにこれについた警鐘が鳴らされるんですけど、
なぜならば、
この分類を作ってる人は、
この分類が不完全になることをよく知ってるんでね。
知ってるんで、
警鐘鳴らすんですけど、
基本的にはスルーされていきますよね。
本書いた人は本売りたいですしね。
だから人格分類みたいなもので、
本書いちゃった人はですね、
それが通俗心理学であろうと何であろうと、
売りたいですし、
通俗だからまるまるデタラメですとは
思われたいわけで、
人はいないですし、
しょうがないところは絶対あると思うんですよね。
そうしてまあ、
ことは進行していきます。
ここもまあ、
ある程度はしょうがないと思います。
しょうがないばっかり言ってますけれども、
全くしょうがないんですよ。
ナルシスト、ナルシシストと言えとか言ったら、
しょうがないんですよね。
そう言っても正確にはならない。
実行愛という話もそうですし、
アダルトチルドレンでも、
ボーダーでも何でもいいんですけれども、
それをやらないということは、
何が意味するかというと、
アセスメントしないということになるわけです。
やっぱり私は自分が、
たぶんのの医者だと言われかねない
ポジションにいて、
ノラカウンセラーと言われても
全然構いませんけれども、
そういう風にポジションに
いって、
自分が、
まずしてないですよって言うべきことは、
アセスメントだなって思うんですよ。
人を分類しないってことになるわけです。
これは診断のために、
一時的にする分類であって、
それを医療行為として、
専門家がやる上では、
やむを得ないと思うんですよ。
よしよしは置いといて。
やりますよね。
削るべき虫歯の議論
やらないわけにいかないですからね。
例えば、この歯は削るんですよ。
削るんですよ。
削るんですよ。
削るんですよ。
削るべき虫歯なのか、
そうでないのかは、
どっかである程度の基準があるじゃないですか。
そして専門家なら、
大体意見が一致するべきじゃないですか。
この医者さんだと、
ドリルで掘りまくるけど、
他の人だったら、
全然別に掘らなくても、
そもそも削りもしないよっていうのは、
やめてほしいじゃないですか。
通う人間としては。
同じことがあるということです。
ただし、
医療行為でないならば、
そういう判断を、
基本的にしなくていいよ。
どう考えても酷い虫歯なら、
剥いちゃいけんよとは言う。
だから、そういう意味では、
専門家を紹介するなり、
進めるということは、
あってもいいとも思うんですけれども、
少なくとも私は、
あんまりそういう方向の仕事ではないと思っています。
自分のはですね。
だから、やっぱり医療行為ではない、
ということなんですよ。
自己愛とアセスメント
だから、一番最初に考えることは、
アセスメントをしない、
ただし、アセスメントしないというのは、
自己愛について何も知らない、
という意味ではないんですよ。
ここのところなんですよね。
例えば、自己愛という、
病理とされているもの、
これの症状とか特徴ではないんですよ。
大事なのは。
アダルトチルドレンというものが、
DSMに乗る、乗らないわ。
ともかくとして、
特徴とか症状ではないんですよ。
大事なのは、
私の仕事の上で大事なのはですね、
その人がどういう特徴があるか、
どういう特徴を備えているとか、
誰と情が合うとか、
そんなことは関係ないんですよ。
私にとって、
大事だと思うのは、
そういう、
なんていうんですかね、
その人を自己愛的な方向に
向かわせている、
力というもの。
これが精神力道ですけど、
力というものがあって、
おそらくそれは、
家族歴というものが、
無関係ではなくて、
家族歴に原因を置く
というわけじゃないですよ。
そんなことはできないんですね。
家族との関係がこうだったから
こうなったっていうほど
単純にはいけないんですよ。
これはでも、
やっぱり体の病気でも
同じだと思うんですよね。
甘いものを全然食べないのに
虫歯になっちゃうかわいそうな人って
いるじゃないですか。
虫歯になる全原因は
甘いものだけにあるわけじゃないんで、
ただ、そのうちの人が
仕事における快楽原則の超越
虫歯になりやすいですよね。
こういうことは、
心理の場合は、
より強く色濃く出るというのは
確かだと思うんですね。
確かなんだけど、
だから聞きますけれども、
聞かないとわからないなと思ったら
尋ねますけれども、
聞いて、なるほどなと思ったからといって
それが正しいわけではないんですよ、
やっぱりね。
ただ、ただですね、
やっぱりそこには力は働いてくる。
その人を、
漢文的表現ですよね。
その人をして、
自己愛たらしめる力みたいなものは
働いてくるんですね。
この力が仕事をする上で
すっごく邪魔になるというケースは
すごい考えられるんですよ。
私が考えるべきは、
たぶんここだけなんだろうと。
ただ、この力を無効化する
なんかね、
能力とかは私には別にないので、
この力というものは、
つまり、
いろんな意味でですね、
自分にも働いているわけですよ。
私はある程度
自己愛的でもありますからね。
つまり、
私にも働いているわけですよ。
この力を私が、
私の仕事を邪魔させないために
やっているのは何なんだろうな
って思った時に、
少し何かが、
なんていうんですかね、
サポートできる可能性というものが
見えてくる。
この時にそれをやれば、
相手の人の力も、
無効化できるかというと、
そんなことはないんですよ。
そんなことはないんだけど、
無効化するということが、
この世に行われていますっていうのを
提示する価値は、
極めて高いと僕は思うんですね。
この力には逆らえないだろうって、
例えば、
何かの、
それこそお酒でも、
それこそカフェインでもいいんですよ。
カフェインに依存しているっていう人が、
このカフェインの魅力には
抵抗できないじゃないですか
抵抗している人がいますっていう話は、
悪くないと思うんですね。
で、
実はかなり厳しい状態から、
こういう方法によって
抵抗できた人がいます。
だいたいそういう話は、
最初聞いた時はですね、
実にそらそらしく聞こえるんですよ。
例えば、カフェインの、
これは一例ですよ、
そういう話があったわけじゃないですよ。
カフェインの自分に対する魅力から
逃れるために、
ずっとゲームしてました。
あれは、
きっとアレじゃないと思ったけども、
でも、
これをつぶさに聞いていくうちに、
見えてくることは、
いっぱいあるわけですよ。
でですね、
この際話を少し単純化しちゃうんですけども、
というのは、
話、
喋ってるだけの話なので、
中傷的なレベルが
行き過ぎていると、
分かりにくくて、
しょうがないと思いますんで、
仕事の邪魔になる力ってのはですね 例えば快楽原則って仕事の邪魔になるんですよ
のすごく 気持ち
愉快なことは嫌で
気持ちのいいことがいいっていうのは生きていく上では絶対に必要な感覚なんですね だから生まれたての赤ちゃんがこれすら備えてなかったら
これすら備えていないまま生まれてくると思うんですけれども これを早い段階で備えないと厳しいじゃないですか
何が嫌なのかは伝えられなくてもとにかく今嫌なんだってことは伝えてくれないと 親としても非常に困るわけですよね
暑いのに我慢しちゃう赤ちゃんとかね あるいは暑いことを苦痛だと思わない赤ちゃんとかね
すぐに命に関わります だから快楽原則っていうのは生きていく上では非常に重要な第一戦略になっていくわけですよ
最初に我々がこれ多分学ぶんですけどね 学ぶのはこれのこのこれを学ぶ以前の
育ててる人は大変ですよ だからフェミニズム的にミニコットのいう
補正的一時的没頭みたいな概念がいやそんなの母親神話でお母さんに 苦労を背負わせるのは許せないっていうのも分かるんですが
8でもやっぱ出生外傷って言葉もそうですけど出生というのは大変なエネルギーいる けれども現段階ではこれはもう母親にしかできないじゃないですか
将来はわかりませんけれども現段階では無理なわけですよ だから
シャーナイという部分はやっぱどこかにあると思うんですよ生き物である以上生き物 は人工物ではないので
8 やむを得ないところはやっぱ今日はこの言葉が本当多いですけど
やむを得ないですよね男に子供が作れないのはやむを得ないと思うんですよ 一時的母親的没頭っていうのは本当にどういうことなのかは難しいですけれども
最初にこう快楽原理すらはっきり備えきれていない赤ちゃんを育てるときには えっと他人事ってものがなくなるっていう意味だと思うんですよね
だから赤ちゃんの苦痛は私の苦痛本当にそれを体感として感じてしまうという段階が少なく とも生後12日はないと
8急速に赤ちゃんはそれを学んでいくと思うんですけれども 最初は無理だと思うんですよ最初は現に私子供を育ててた時に一番思ったのはですね
この子には食べられるものとそうでないものの区別がつかないんだなってのに驚いたんですよ 動物だからついててほしいところじゃないですか
なんかねそこらへんにある消しゴムを飲み込むとかはよく言われているんだけれども 飲み込むか普通でやっぱり犬とか本当ないですから家で昔犬買ってたけど犬なんて
外にいるの話だけど食べられもしないものを食べませんからね どんな子犬でもあれには驚くわけですよね
食べれないものを食べちゃうという人間ならではなんですよ えっとそれも学ぶわけですよね
僕に最初は普通か貝かすらわかんないまま生まれてくるという状態 非常に困るわけですねコミュニケーションが全く取れないですよねあるいそれでも取れちゃう
ところはあるんですがその時に一時的な没頭というもの つまり自他の区別が全然ついていない
普通の状態だったらそれは統合失調症と呼ばれてしまう心理状態っていうのは必要なんだ と
母親じゃないにしてもですね でえっと
ところがですねこの回復原則だけで行くっていうのは当然 仕事をする上では花々邪魔になります
だから我々は二次過程というものを備えていくしかないわけですよ えっと回復ではない原理というものを自分の中に8
備えつけていくまあそれが要するによく打つポジションと呼ばれるものなんですね どうしてもそれはうつっぽくなるかもしれないけれども後悔ってものが生まれるので
つまり回復原則っていうのは瞬間的な判断じゃないですか 現在的な判断ですよね完全に3次元的判断なわけですよ
8今苦しい今気持ちどっちかなっていうそれはなぜ気持ちいいとか なぜ苦しいとかを考える余地はあまりない
8これが非常にこう仕事する上では邪魔になるわけですね だって私がそうですけど原稿書くは苦しいやだやめようみたいになってしまった仕事一向に進む
なくなるわけですよ どうしてもここには経緯というものが必要になってくるわけですよね
だから歴史的ポジションイコールよく打つポジションなんですけれども 8なんでこの原稿書くことになったんだっけっていう経緯を思い出す能力が必要になってくる
わけです で我々はそれを自然に備えているんでこっちが現実原則になっていくんですけど回復原則を超え
なきゃいけないわけですよね フロイトがそういうことを書いてるわけですよ
8快楽原則を超えてっていう論文を書いているわけですよ でこれが非常に意外に難しいわけです簡単そうだけど簡単じゃないんですよね
苦しいのになってこれやらなきゃならないのっていう話がすぐに割と始まるわけですね 先日もあのまさに編集さんとその話をしていた時に
自分の仕事というのはこれなんだというのを仕事をしながら仕事のなんていうのかな 仕事の意味を実感していくっていうのが私これ結構
学校した原稿について編集さんとやりとりしていると起こるんですけれども あの全ての著作家がこれやってるかどうか知らないですけどね
編集者さんを説得しなければならなくなってくるわけですよ この説得内容紙に落とせって話なんだけど説得していくうちに8
まあいい争いみたいにならざるを得ない時があるわけですねこれはわざとやられてるのか もしれないし
はそこはわかんないんですけど非常に高快楽原則の方に8引きずり込まれるわけです 例えば先日あの
なんていうのかな 結局のところ仕事してると上司のケアみたいなことも上司のケアしないまでも
同僚のケアって絶対入ってきますよねみたいなことを書いてあるとするじゃないですか で編集さんが納得ができないと
例えば私の上司みたいな人間あるいは私の同僚でもいいんだけど こいつのケアは私がなでしなければならないんだって気になると
これまさに快楽原則をおっしゃってるわけですよ ハイクで動く仕事はにいるんだから8そのなぜケアしなければいけないのかの
経緯ってものがあるはずなんだけれどもいやそんなことはやってられないと なんなら著者のケアだって
著者はちゃんと8なんていうのかな人に期限をケアしてもらったり 締め切りをケアしてもらうんじゃなくて自力で全部書くべきだというふうに考え
自己愛とケアの関係
たくなる っていう話をされた時に徹底にかかることになるわけですよね一時的ここで起こっている
ことが私は3ヶ月チャレンジでやってることに すんごいにできているって思うことが多々あるわけです
で 8いろいろ言葉を尽くして説明するんだけど納得しないされないわけですよ
だんだん嫌になってくるじゃないですかここが大事なんですよね だんだん嫌になってきている時に私に起きていることは回復原則なんですよ
嫌なことは嫌だし気持ちの良いことは気持ちがいい っていう状態に入っていくわけです
なぜこれをやっているかが思い出せなくなっていくわけですね つまり妄想分裂ポジションなんですよ
妄想しているわけですし分裂もしているわけです つまり編集さんの一部いいところを取りたいわけですよ
納得してくれる編集さんはいい つまり良いおっぱいと悪いおっぱいなんですよ
編集さんだし 納得されない編集さんは悪い編集さんだと思うようになってくるわけですよね
つまり一人の人間を2つに分割していくわけです そしてその良い部分とだけ接触していたいと
恋愛関係で本当これ多いですよね その人の良いところとだけ付き合っていたいと
それが当然じゃないですかっていう時ほど僕ら3次元的になってるわけですよ その人と会うところもあれば会わないところもあって当然だって思うためには
4次元的な時間という経緯のあの 流れの中でその人の全体性その人というのは変化していくものだから変化する全体を好むためには
8その人全体性というものを時間軸の中で見ていかなきゃなんないわけですよ この軸はないんですけど
ここで8だから私はちょっと脱線するんですけど自分軸ってものを言うのが好きになれない わけですよ
この人は一貫してあってほしいって人に要求する権利はないと思うんですよね この人はどうであろうと好きだっていうためにはですね
8その人に軸があってほしいって言うようでは十分だと思うんですよ それはやっぱりどこかすごく妄想分裂的だと思うんですよね
私が好きなその人であり続けてほしいからあなた軸持ってっていう要求って非常に 華々しい要求だと思うんですよ
でも我々はするしてしまいますよね だから私も編集さんにや編集なんだからわかってよって言い出しかねないわけですよ
ここに僕の病理があるわけです病理って言ったら言い過ぎかもしれませんけど 自己愛があるわけですよ
つまり私の読者ならわかってくれる編集はわかってくれなくてもここまで行くと相当 倒作気味じゃないですか
いやあなた目の前の第一読者を説得させられなくて世の中一般の読者を説得させられない でしょうっていうのがまあ大筋ですよね
この時についでに言うとですねあの構造ってものはよくできてんだなって思うわけですよ つまり編集さんの例えば納得力が低いとするじゃないですか
そうすると低ければ低いほどいいわけですよ 納得力が最底辺の人すら説得できればこの本の説得力は極めて高いってことになりますよね
これが出版という世界のシステムによって生み出されるべき構造なんですよね 私たちが構造に抱えられているってよく精神分析の人が言うのはそういう意味なんだと
ここでその編集さんは編集さんが私を抱えてくれればいいんでしょうけれども たとえ編集さんに私を抱えきれなくても出版界というものが私たちを抱えてくれているから
本が生み出せるわけですよ その時のシステムとしては編集さんの納得力とか読解力の方が高くても低くてもうまくいくようになっていなければダメですよ
つまりそれがシステムってものだと思うんですよね でこの場合私はそのうち考え始めるわけですよ
改革原則にのっとっているとだんだん嫌になってくるから いやもうあなたはわかんなくていいです 読者はわかってくれますからみたいに
創作的な行動をとるわけですよ これはもう総的防衛に限りなく近いやり方なんだけど ここでちょっと踏みとどまってですね
そもそもこの本ってどうして書くことになったんだっけと なんで私はここで編集さんとディスカッションしてるんだっけということになってくると
自己愛を脱することができるはずなんですよ その時にやるべきことは何かというと私が編集さんを結局ケアするということになるわけですよ
説得するってそういうことなんで 編集さんが心の底から納得できるようなロジックをここで提示する これケアになるわけです
このケアがつまりその本の説得力を高めるという構造になっているわけですよ でこういうふうに編集さんをケアすることができれば
私がつまり言っているなぜ私があなたをケアしなければならないんだという気持ちの ケアにつながるじゃないですか
こういうまあ今のところではケアっていうキーワードが品質しましたけれども これが自己愛とケアの関係になるわけですよ
自己愛っていうのはケアされていない人の苦しみなんですよ だからナルシストとナルシシズムは関係ない
自己愛っていうのは言葉のもとがナルシシズムなんですけれども このナルシシズムっていうのは結局ケアされていないんで
その叫びなんですよね 究極的に一番奥底にあるのはそういうことなんだと思うんですよ だからこそ存在に振る舞うとか
それが章例ってやつなんですよ存在に振る舞うとか 勝手な理想像を持ってそれにこだわるとかですね
そういう話が出てくるわけですよ 相手のことを最初から見下しているとかそういう一連のものが出てくるのは その人がケアされていないから
その人が言いたいことはなぜ俺がケアしなければならないんだっていう ある意味では極めて最もな言葉なんですね
だって編集さんがおっしゃってたのは最もだったじゃないですか 情緒がパワハラしますなぜそのパワハラする情緒を私がケアしなければならないですか
ここから始まるわけですよこれは最もじゃないですか でもそれは本来の形であれば理想的な状況であれば
そういうパワハラをしたりせずにむしろ部下をケアするべきだろう そういう立場じゃないかっていう話をしているわけですよ
でここには必ずナルシシズムってものがあるはずなんです 本筋を言うとやっぱり皆苦原則があるわけですよ私は苦難だと
会が欲しいんだそれはなってもっともじゃないですか つまり初日の赤ちゃんだったらそれを言う非常に十分な正当な理由があるわけですよ
大人になってもナルシシズムにこだわるということはその時のケアが不十分だった わけですよね不十分だったかどうかは知りません
ただお母さんのケアが不十分だったと思い込むような何かがあるはずなんですよ それがえっとまあ分析的にはそう考えるんですよねお母さんのケアが不十分だった
私はここでもケアを主張したくなるんだとケアしてほしいんだ でも私たちはそれを一生持ち続けるんですよ
欲打つポジションと説得
なぜならお母さんのケアが完璧であるような子供はいないのでこのように どうしたって必ずどこかでケアはと散るんで
その時私たちは赤ちゃんとして正当な要求をしたくなるわけです あなた私のケアをするために私生んだんでしょっていうことなんですよ
でそのお母さんがこう言ったらどうかってことですよ いや私が何であなたの面と見なきゃいけないね
でもそれはあり得ることですよね私は何であなたの面と見なきゃいけないのよと例えば そのお母さんは8後から来たお母さんかもしれないわけですよね
8お母さんはもう特になくなっててシンデレラの世界ですよね ということはあり得る話なんですよ
だから私は何であなたの世話をしなきゃいけないんだって言われると子供は その言葉の意味がわからない年であればあるほどですね
トラウマになります そして少なくとも8この世の中ってそういうものなんだというふうに誤解する
つまりこの世の中中のまともに作られていないんだというふうに考える まあそれは誤解じゃないのかもしれませんけどね
この話あの生前説みたいな話につながっていくんですよ で結局その子からすると私はなぜ人のケアをしなきゃいけないと
赤車の時親もケアしてくれなかったのに人の系なんかしてまるものかぐらいな勢いになる じゃないですか
でそれを例えば8 これはもう単なる憶測からの世界ですけれども
が架空の話をしてるんですけどその人が将来大きくなって 8出版社に勤めるになりましたで何かこう
グッドワイブスとか何とか言ってる著者に8ペッチをつけたくなるわけですよ 8ケアをあの自分が損をしてもしましょうみたいなこと言ってるけどそうは言ってないん
ですけどね そういう文脈に近いものを見ると信号が光るわけですよ
8そんなことを人がする筋合いは一切ないんですよ みんな独立して自分のケアは自分で自分の起源も自分って面倒を見るのが常識なんですよ
とあなたのおっしゃってることは非常識なんです でもこれは妄想分裂気味ですよねこの主張を著者にぶつけるんだとすればじゃあなんであなたは
その著者に本書いてくれって言ったんですかっていう その経緯が飛ぶんですよ
ここでも欲打つポジションというものがすっ飛んでるわけですよね 完全に盗作気味だでもそれに対して著者はそういう人こそ
説得するべく頑張らないとおかしいわけですよ 最初から欲打つポジションを簡単に受け入れてくれるような人に対して
8ケアの重要性を説く意味は何ですよね むしろ自己愛的な人に向かってでもあなた一見損するように思うかもしれないけど
ケアすることがあなたのためになるんです なぜならっていうことを一生懸命頑張って言わなきゃいけないけど多分それではわかってくれ
ないと だからもうどうでもよくなってファン座を見に行くっていうのが妄想分裂気味なんです
私たちはいつもこの問題に引っかかってると思うんですよねいろんな意味で でいつも仕事を投げ出したくなっている部分があると思うんですよ
まあそれを美音的に言うと精神病部分っていうことになるんですけど で私たちは同時に一般的にはですけどおそらくすべての人が非精神病部分てのを持っている
わけです この場合精神病部分は限りなく3次元的な回復原則に近くてつまりこの種のものの考え方を
している人たちというのは3次元的な世界に住み 妄想分裂的な世界に住み精神病世界に住んでいるのはつまり
0歳児的付近に何かの判断力が引きずり戻されているこれは対抗って言うんでしょう けれども
8だからそういう例えば40歳になってその状態というものから抜け出せなくなった人に対して アセスメントをつけてこの種の判断をするんですよ
著者と編集者の関係
でも私はそれを自分の仕事でする必要性は全く認められなくなったんで大事なのは 結局
欲打つポジションに入れたところでえっと罪悪化を持たないという心理状態を保て ればそれでいいんですよね
そうすれば仕事は前に進むんですよ 結局この編集さんを私は説得するべきなんだっていうのを納得できればいいんですよ
それに納得できさえすれば8締め切りとか その本の売れ行きとかは一応にの次でいいと思うんですよね
この目の前の非常に説得しがたい人を説得するという気持ちに慣れるってことが重要で これに慣れてしまえばですね
後のことは多分うまくいくんですよこれを投げ出してしまいたくなって非常に極端な場合は あったですけどわかりましたじゃあそこの場所削除します
やって締め切りには間に合いましたっていうのはまずいと思うんですよね それはすごくあの総的防衛的に作り上げられた本になってしまう
そういうところを多分言って言って抑えていくってか逆か 抑えて言って言っていくっていうのが
まあ3ヶ月チャレンジでやっている内容なんだろうなと つくづく思うんですよね これはカウンセリングではないですよ 著者の編集さんを説得するのは絶対カウンセリングじゃない
むしろ逆かもしれない 著者が説得させられるという形を編集さんがカウンセリングしているのかもしれない
だからコンテナーとコンテインドって言うんですけど コンテインドは包まれる赤ちゃんですね コンテナーは包むからお母さんのこの立場は常時入れ替わるというのが健全なあり方なんですよ
大人の場合は でカウンセリングというのはその特殊系なんですね
基本的には常時は入れ替わらない でもまあ時々入れ替わるんですけど そしてその中で行われていることは非常にしょっちゅう入れ替わってるわけです
カウンセラーさんが喋ってそれを聞くっていうことありますからね ユーザーさんのほうが このときは聞いてるほうが包んでるから やっぱりコンテナーとコンテインドは入れ替わるんですよ
カウンセリングの一方的な関係性
で私が思うにですね まあそうは言ってもカウンセリングは特殊系なので 一般的にはカウンセラーが一方的にお母さん役をやるというフェーズが長くはなるとは思うんだけれども
やっぱり僕は3ヶ月チャレンジみたいなものはそういうことではないような気がする
だからグループセッションみたいなものをやったときには どっちかというと私が周りの人たちに囲んでもらってるみたいなところが出てきて
この体験がないとなんかこうすごく一方的な関係になってしまって 多分あれなんだろうなって感じも受けるんですよ
だから週1回にグループセッションになってんだろうなという 他人事みたいなことを言ってますけれども
そういう設定に気がつくとある程度なっていたなっていうことでもあるんですよね
本当につくづく編集さんと説得フェーズに入ったときに これは作り出されているような感じがして仕方がないんですよ
編集さんが作り出しているんではなくてですね その業界とかシステムとか会社がこれを作り出しているんだろうなって感じがするんですね
これがつまりコンテナーとコンテインドという関係を作り出すものが 構造と呼ばれているものなんだと思うんですね
この構造を持っていてしかし医療行為でないことをやっている そんなことはいくらでもありますので
っていうのがの一つが私の仕事であるし3ヶ月チャレンジであるし ある意味ではビジネス昇格ってことなんだろうという感じもするんですよ
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