収録開始からの雑談
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ゴールデンウィークを明けましておめでとうではないですか。
たくさん休みをいただきまして、このグッドモーニングボイスもですね、だいぶ久しぶりの収録といった感じがします。
先日までですね、妻の実家の方に帰っておりましたので、
そちらではですね、朝この収録をなかなか撮るという場所もなければ条件もなかったので、ちょうどよかったのかなという感じなんですが、
かなり久しぶりで朝、楽をさせていただいていたので、今日はなんかちょっと結構厳しい目な感じですね。
雨もざんざか降ってるんで、あと2時間ぐらいで一気に暖かくなって一気に晴れるみたいなんですけど、今寒いんですよね。
寒くて、しかも雨降りで、厳しいなと別に何も厳しいことはないんですけど、家の中で撮ってるわけですからね。
暖も撮ってますしね、楽なもんなんですけど、まあまあ久しぶりの収録。
しかも今日はグッドバイブス編なんですよね。予定ではそういうことにしてあるので、何を喋るのかを全然まだ決めてもいないんですが、
グッドバイブス編で、ちゃんとグッドバイブスに即して喋れるんだろうかと。
あと、この番組をちょっと、月間はなんとか編なので、まあまあこのままでいくんですけど、
水・木・金、うち2日にして短めにしようということを今目論んでいるんだけども、目論み通りになかなかこれもいかないんですよ。
なんだかんだ最終的には一応の形を持って決着するんですけど、すぐ変えたくなるのが私の性分というか、
こういう人はいっぱいいますけど、すぐ変えたくなるんで、コロコロ変えているんですが、
だいたい今の形に落ち着きつつあるんだけど、短くしたいというですね、
僕は実は短くは全くしたいと思ってないから短くならないんだけど、
聞いている方にしてみるとやっぱり50分というふうにいきなり表示されるのは、
一部の方を除いて多分ハードル高いだろうと。
だからこれを20分にするとですね、短くて済むからいいぜというのもちょっと不思議ではあるんですよね。
だってそれだったらつまり聞かないのが一番いいわけですよ。
0分で済むんだから。だから僕は短く情報を収集できるから、
短ければ短いほどいいっていうので、ショート動画とかリールとかがどんどん流行っていくんでしょうけど、
非常に不思議な現象だよなとは思うんですよ。
昔からですね、思うところがありまして、こういう話をしているから長くなるんだな。
推理小説ってあるじゃないですか。概して分厚いじゃないですか。
でも推理小説好きって多分分厚いの好きなんですよ。だって長く読めますでしょ。
本が薄いほどいいっていうのは相当不思議な話でですね、
大体面白ければ厚いほうがいいに決まってるわけですよ。面白いんだから。
漫画ってそうじゃないですか。すごい面白い漫画が1巻で終わるとか、打ち切りになるとか、悲しいですよね。
だからドラえもんとかは6巻で最初打ち切られたらしいんですけど、結局今100巻とかまでいくわけで、
面白ければ厚いほうがいいに決まっているよね。
社会的な意義について
だから聞きたいものであれば長いほうがいいに決まってると僕は思うんですよ。
結局この時間の話って変なもんでですね、これ100チャレンの編ですればいい話なんだけど、
あの、刻んでるだけなんですよ。
短い時間でたくさんのことをしないと損だとか、
短い時間でたくさんのことができるようにしたいっていうのって、
24時間って話にした場合、極端な話100に刻めば1つあたりの時間めちゃくちゃ短くて済むし、
3つに刻むと8時間ずつ取れるわけじゃないですか。
ただどこで分けてるかって話をしてるだけなのに、
なんか長く使えてるかのような錯覚予知ってんですよね。
長く使えてるかどうかって実は寿命だけで決まるんですよ。
もし人間の一生で考えるんだったら、100年と10年っては90年分違うんだけど、
これは寿命の問題をしているだけなんですよね。
で、寿命を長くする方法しかないと思うんですよね、時間術って究極的には。
どう使うかって話をみんなされるけど、どう使うかの価値っていうのはですね、
これはいつもこの話はホント100チャレ向きなんだけど、
100チャレで常に議論になってるんですけど、僕はもう結論は簡単だと思うんですよね。
それは社会が決めているんですよ。有意義かどうかってのは社会が決めてるんですよね。
もし社会が決めてる部分をゼロにしちゃうんだったら、
全部自分で決めるわけだから、好きなことだけずっとしてればいいわけじゃないですか。
そこをどう刻むかとか、より有意義について、
有意義って言葉が既にもう非常に重要だと思うんですよね。
充実とかもね。私はこれが嫌だから、充実とか意義とか成長という言葉を原則としては回避してるんですね。
僕は今はそれほど嫌だとは思わないんですよ。
意義あることばっかりするにしても、充実しているばっかりでも別にこの言い方も妙に聞こえるかもしれませんけど、
僕は20代の頃からですね、
ライフハックの人たちってすごい社会的だなって思ってましたよ。
自分の価値観だけで決めるのに意義とかはいらないんですよ。
意義って言い出すのはオリンピックに参加することに意義があるんですよね。
これは社会的な言い分ですよね。
そういう社会的な価値観を持っている人たちにとっては、
社会的な価値観を持っている人たちにとっては、
投入してきているから意義があるということがですね、
社会でも個人でも成立するように思うわけじゃないですか。
ライフハック系の仕事術では特にそうですけど、
ケースでは必ずこの社会のためなのか私のためなのかという問題がなぜか出てくるんですけども、
ここの整合性を取りたいという意識があるんですよね。
ここの整合性を取りたいというのは、私が好きでやることが社会のためにもなったら都合がいいって話をしているわけじゃないですか。
それでお金も儲かれば尚のこと良いって話ですよね。
3つくらい弁図書いて、好きなこと、意義のあること、自分が儲かることみたいな、
その都合の良いところのど真ん中を取りたいという意識があるわけですよね。
それが社会に良いかをしたいという意味のはずなんですよ。
今僕は別に、それはグッドバイブス編にここら辺でなるかな、
どっちでも同じことだと思って、別にどっちでもいいんだけど、
昔は嫌だったんですよ。意義あることなんてしたくなかったし、充実した時間の使い方なんてとんでもないと、
ないんですよ。
ヒステリーと身体のメッセージ
それが社会に良いかをしたいという意味ではないんですよ。
それが社会に良いかをしたいという意味ではないんですよ。
昔は嫌だったんですよ。意義あることなんてしたくなかったし、充実した時間の使い方なんてとんでもないと、
内心は結構思ってた。30代から少し変わりましたけどね。
そういう意味で、ここら辺はですね、皆さん個人個人の価値観でよくよく検討するところだと、
僕はこの言い方よくするんですけど、要は何が言いたいかというと、
社会のために社会というものに良いかをしたいとどのくらい思わせられているからゆえに、
それをすると意義があると感じられるのかってことですよ。
ちょっと長くてまどろっこしくなったけど、そういうことだと思うんですよね。
なんとなく教養豊かな本を読むといいんじゃないかとか、
今話題になっている、ちょっと古いですけど、例えば一時非常に話題になりましたね。
サピエンス全史か。なぜサピエンス全史とか、銃、鉄、何とか病原菌だっけ、
とかを読むということがいいと思うのかってことですよね。
読んだ後何を得たのかって思うのかってことの時に、
どの程度社会というものとの関わりを意識しているのか。
別に僕はサピエンス全史は読んだんですけれども、
やっぱりこれを読むんだったら、面白かったですよ、面白かったですけど、
これを読むんだったら、私だったらフロイト読むなって思ったもんなんですよ。
で、大抵の人そうはされないじゃないですか。
多分フロイト読んでもつまらないと思うんですよね。
ここにその人その人の個性ってものが強烈に現れるんですけど、
その個性の中に社会というものが入り混じってるわけですよ。
私からするとサピエンス全史を読んでも、
私は社会に貢献するのに大して役に立たないんですね。
ファクトフルネスもそうですけど、あんまり僕があれを読んだからといって、
僕が社会への貢献度が増すとは思えない。
だから私はこれを聞かれている方は賛同してくれるかもしれませんが、
大体の人は賛同してくれないと思うんですが、
ドーラの章例を読むわけですよ。
で、おそらくこれを好んで聞いている方の中には
10%ぐらいしかドーラの章例を読んでられないと思うんですよ。
なぜならば、ドーラの章例を読んでもですね、
多分章例ドーラですが、全然社会に貢献できる気はされないと思うんですよね。
でも僕はあれを読む方がよっぽど今の世の中に必要なものが
手に入ると思っているわけですね。
ここのところに大きな素語があって、
この素語はつまり僕の個性と皆さんの個性の違いなんですよね。
で、どうして章例ドーラを読むと僕は世の中の役に立てる気がするかというと、
つまり世の中はヒステリーだらけだと僕は思っているからですね。
ヒステリーだらけだというのはつまり、
僕と意識と身体は乖離している。
で、身体というのは必ずメッセージを発してくる。
これはよく言われることですよね。
そのメッセージはでも身体が発するというのが
普通の今時の自己啓発書で一般的に書いていることですが、
フロイトは無意識が身体を使ってメッセージを発していると言っているわけですよね。
しかもそのメッセージたるや、
ここら辺はさっきの話に絡むんだけど、
正しさってものが絡んでいると。
正しさを武器にして嫉妬というものを正当化するために
身体を使うってことが実によく起こるんだと、
僕はこの通りだと思うんですよ。
でもこれこと通りだと思う人はね、
読んでいてもつくづく退屈だと思うんですね。
でも私は人にこれは絶対正しくないよって思った時は、
人はだいたい嫉妬というものと正義ってものを必ずから、
嫉妬ってすごく正義的な話出てくるじゃないですか。
私はあの人の妻なのに、あの人は他の女とって言った時に
二つの感情がありますよね。
一つは正義って気持ちがあって、
もう一つは要するに男女の関係における競争心ってやつですよね。
こういうようなことが歯医者とかでも間違いなく起こると思うんですよ。
その時その人がごくごく普通の言葉を使う、
つまり神経症水準って意味ですけど、
象徴が使えて言葉が使えて言葉のやり取りができて、
その人がしゃべっている言葉の意味は、
おそらく他の人が使っている言葉の意味と大きくは違わない。
信号が道路の上で赤になっていたら、
信号じゃないな、
何かが道路の上で赤く光っていたら、一応注意を払う。
これがつまり普通の人の水準、神経症水準なわけですよ。
あの赤は綺麗だねって思うだけだったら、
これは神経症水準とは違うんですよね。
非常にまだ幼稚であるか、
そうでなければ精神病水準という方向に入っていくわけですね。
そうじゃない人、つまりごく普通の人がこうやって、
言葉のやり取りもできる、
ごく普通に会社に勤めていられる人が、
嫉妬で気が狂いそうになるみたいになるとすると、
ここにヒステリー的な症状が現れやすいわけですよ。
この人はおそらく寄生を発したりはしない。
あるいは、いきなりライバルの男だか女だか知らないけど、
殴りかかったりもおそらくしない。
もしかすると出すかもしれないけど、
たぶん怪文章を出したりもしない。
何をするか、
一番起こりそうなこととして、
まず体調がおかしくなりそうだ。
これはすっごくヒステリー的な部分があると思うんですよね。
だから省令ドーラみたいなものを繰り返し僕は読むんですよ。
で、こういうことって世の中で僕の見たところ、
あちらこちらで学校でも、
それこそ観光庁でも、
小さな組織、大きな組織を問わず、
家族の中でも頻繁に起きるんですよ。
熱が出ましたとか、
下痢をしましたとか、
なんか僕ボツボツができましたとか、
なんかよくわからない水ぶくれができちゃいましたとかね。
いろいろあるんですよ。
なんとなく毛だるいとかまで含めれば頭痛がするとか、
しょっちゅうあるじゃないですか。
全部僕はこれは、
ドーラを中心に沿って心身書みたいな本を読めば書いてることだと思うんですよね。
これがですね、サピエンス全書でもほぼ全く出てこない。
あれだけ分厚い本の、
正しさと嫌悪
あれだけ教養の豊かな人が書いた本の中の、
どこを見てもほとんどかなり少なくしか出てこないんですよね。
僕はだから興味が十分そっちには払えないんですよ。
結局僕の視観点ってそういう意味では狭いんですよね。
なんか2万年の人類の歴史を俯瞰するとか、
面白いんですけど、面白いんですけどね、
それによって意義のある本を読めたなって、
意義のある本を読めたなって感じを僕は全く感じられない。
面白かったなになる。
そういうことはつまり、僕はですね、
ある別の観点から貢献したいんだなってことになるじゃないですか。
社会貢献というものはしたいんだとしても、
僕はそういう幅広い観点からはできないんですね。
やっぱりごくごく身近なところ、
多分私に直接持ちかけられる相談事というのは、
こういう形を取るっていうところにしか、
自分は興味の焦点を焦点化とか言ったりしますが、
合わせることができないんだなっていうのが、
最近よく思うところなんですね。
だから最近はそういう話ばっかり読んでいる気がするんですよ。
分析だけではないんだけど、
不登校の人の話とかそういうのばっかり読んでいる気がします。
で、グッドバイオス編で、
大体グッドバイオスの話に近づいてきたなと内心思ってたんですが、
今日は告知系をもう忘れちゃったなと思ったけど、
15分経ったんで、告知はもう一旦スルーしまして、
このまま入っていくんですが、
今言ったような事情でですね、
私たちが多分日頃一番悩みがちなのはですね、
要するに正しさなんですね。
正しさというか正義感みたいなものと、
自分の尊徳というもの、
あるいはもうちょっと言うと情緒的な何かみたいな、
情緒的な心のモヤモヤとか、
心のざらつきとかいろんな言い方しますけど、
嫌な気持ちになったってことですね。
これをセットにした時が一番僕らがやっぱり苦労しているところなんだと思うんですね。
で、もちろんグッドバイオスはそこには非常にしょっちゅうよくて、
手当てされてくるわけなんだけど、
私はほとんどそれでこと足りるはずだって思っているんですけどね。
原則的にはここが何とかなっていれば、
つまりこの嫌悪って言うじゃないですか、
好き嫌いと善悪は本来別のものですよね。
これ好き嫌いと善悪は本来別のものですっていう話をするために、
ある意味ではそのある種の人生相談なり、
カウンセリングなりはあるわけだけど、
我々はこれがなかなか得意じゃないわけですよ。
好き嫌いと善悪をパチッときれいに分けてしまえると言うのであれば、
その人はもう妄想分裂ポジションに入っていくことはないんだけれども、
つまり総極的なものの発想を取らずに済むんですけれどもね。
好きなものと嫌いなものがあります。
でもそれは正しさとは何の関係もありませんと、
パッと言える人は楽なんですよ。
というか非常にある意味できた人だなっていう印象を与えるはずですが、
いずれにしてもその人も楽なんですよ。
でも我々は嫌いだという感情を持ったとき、
必ずその人の欠点を探しに行くはずなんですよね。
つまり正しいものを嫌いにすってはいけないと
教わったか思い込んでいるところがあるので、
嫌いと正しさを両立させられない。
その人は間違いなく正しくて何の問題もないんだけど大嫌いです。
というのをさらっと言うのは実は結構難しくて、
ましてその人に何らかの軽い攻撃、
注意をされたり怒られたり、
相手の機嫌が悪い様子を見たりするというだけでもですね、
必ずその人に嫌いだという意識を持ったら変をしちゃうんですね。
その人は悪だということにもなってしまう。
この二つを混ぜるから我々は、
苦しみというものが多分発生するわけですよ。
長寿がせっかく成立しつつあるところに、
良いおっぱい、悪いおっぱいの問題を同時に抱え込むことになると。
つまりその人が嫌いだというだけでは済まず、
その人は間違っているという判断もしたくなる。
そうすれば嫌いになってしまう。
そうすれば嫌いになってしまう。
間違っているという判断もしたくなる。
嫌いと悪とミス
そうすれば嫌いになってもいいんだということになるという理屈なんですね。
これはですね、なぜか家とか学校が普通に適用しちゃうんですよね、僕は。
これをやめれば、教育の中からこれを排除できればですね、
よっぽどその後の人生は楽になるんですけれども、
ここを逆にするんですよね。
好きって嫌いというものと善悪というものを混ぜこぜにしてしまう。
好きなものは良いものばっかりだし、嫌いなものは悪いものばっかりだと。
これはすこぶる都合がいいように思われるんですよ、当然のことながら。
あいつは悪人だから私は彼が嫌いなんです。
あるいはあの人は悪いことをしたから私は彼が嫌いになったんです。
これが一番多いんだけどね。
これをやると、その人と仲良くすることはその一印が困難なんですよね。
その中年の危機なんてある意味これだけで形成されていたという点、
これだけではさすがにありませんが、
これだけで形成されていたんじゃないかなという気すらするんですよ。
男女の関係でもそうですけれども、
嫌いになるということと、失策を犯したということと、
悪事を犯したということが全部一緒になるじゃないですか。
そうすると、嫌われないためにはミスはできない。
悪事はもってのほかってことになるんだけど、
我々は悪事だってしかねない上にミスは絶対犯すんですよね。
だからそれによって嫌われるという事態が本当に発生するならば、
必ず自分のことをいつか嫌いにならなければいけませんよね。
自己嫌悪って言葉があるじゃないですか。
やっぱりここでも嫌いと悪いが混ざってるんですよ。
これ最悪だと思うんですよね。
仕事でミスをして、ミスってやつが自己嫌悪に陥る。
ミスと悪と嫌いが全部一緒になるんですよ。
これと仲直りするのはこんなに極まりない日ですよね。
自分というものがミスはするし、悪事はするし、
つまり悪人だし、その上だからこそなのか、
嫌いな人を好きになる方法がほとんど見受けられない
嫌いになりましたということになってしまったらもう絶望的じゃないですか。
二度とミスをしないとか、二度と悪事を犯さないという無理な誓いをしてあげく、
それでもなかなか好きにはなれないわけですよね。
自分だろうと他人だろうとこの観点で好きか嫌いかが発生しているなら、
いくらでもどこにでも適用されてしまう。
たぶんそのうちこの観点でいけばほとんどの人が嫌いになり、
ほとんどの人がミスばかり犯す存在になって、
ほとんどの人が悪人になっちゃって、自分もそこに含まれるんですよ。
この世界はどこに善人とか正しい人がいるのかっていうぐらい、
たぶんそういう人はいない世界ですよね。
いるっておっしゃるんだけど、いるはずないと僕は思うんですよ。
好きな人を嫌いになることはこの流れではできるんだけど、
嫌いな人を好きになる方法がほとんど見受けられない。
だから例のあれですよね、名前すぐ忘れるんだけど、
心からの反省が見られるとか、そういう話をし始めるわけですよね。
だから心からの反省が見られなければ、
嫌いなままでも結構だっていう話になってるんでしょうけれども、
だからあれ、反省させると犯罪者になるわけですよ、人はね。
これもタイトル、本のタイトルですから、
実際に反省した人が片っ端から犯罪者になるわけじゃないですけど、
あれは彼がその名前を忘れてるんですけど、指摘されてるんですけど、
とても厳しいですよ、とても厳しいと僕は思います。
そして今でも、今この瞬間にも会社と学校であれば
しょっちゅう行われてしまっているんですよ。
つまり、人を反省させるだけでなく、万引きでも何でもいいんですけどね、
大概万引きとかなんですよ、会社での大きなミスとかなんですよ、
これに付け加える言葉として、
あの著者は非常に大事な指摘をしてるなと思います。
私たちはあなたのことを見守ってますからって言うんですよ。
これはつまり、長寿がセンサーを強化するぞっていう風に
捉えられるんですよね。
長寿が心の中のポリスになってしまうんですけど、
犯罪を犯したみたいな話になってくると、
長寿が、ポリスが、四六時中あんたのことを見てるからね、
っていう話をするわけですよ。
めちゃくちゃ嫌じゃないですか。
この、これだったら、
24時間ですからね。
しかもそれは、
自分が何か嫌な出来事とか、むしゃくしゃすることとかが、
多分、数年以上続いてきた挙句のプレッシャーに耐えかねて、
何か悪いことをしたり、ミスをしたりしたということの、
何かの結果として、長寿がポリスを強化するからねって、
あれ、言ってる人は多分、愛情をもたらして、
愛情をもたらして、
言われてる方からすると、たまったもんじゃないですよね。
あの、ずーっとみんなに見張られてるような気分になると思うんですよ。
反省させると犯罪者になる話
だから、反省させると犯罪者になりますを書いた人は、
必ずこの子はまた万引きをするって書いてるわけですよ。
で、実際大概そうなると。
これが例の、反省させると犯罪者になる話なんですよ。
これは、
長寿がポリスを強化するからねって、
長寿がポリスを強化するからねって、
反省させると犯罪者になる話なんですよ。
これは、
なんつーんですかね。
流れが全部、
逆を向いてるっていうのでもないんですけど、
全部、あさっての方向を向いてるような感じがするんですよ。
自立の問題
私たちって、この問題、
つまり、グッドバイブスの問題を考えるときにですね、
私はよく、
結果としてですね、グッドバイブスがそう言ってるってわけじゃないんですけど、
結果として、話は自立の問題を指摘しているってよく思うんです。
田園さんが時々こう、時々ではなくよく、
分断とか分離の選択っておっしゃるじゃないですか。
我々はあれをですね、なぜ選択するかというと、
自立に向かおうとしたときに、そうなっちゃいやすいときがあるはずなんですね。
嫌いだから、人と距離を置くみたいな話なんだけど、
ここに必ず、自立って問題が加わってきているんですよ。
ほとんどの場合そうなんです。
離婚してもいいですかみたいな、
女性のエッセイコミックみたいなのはあるんだけど、
必ずと言っていいぐらい、夫への嫌悪感というものは、
同時に自分の経済力をつけるって話になるんですね。
自分の経済力をつけることができて、
あのモラハラみたいな夫から逃れられて、
本当に自分は幸せになったみたいな話をすると受けるんだけど、
これってつまり、自立をするって話と、
嫌いな人から離れるっていう話が両方混ざっているはずなんですね。
で、この自立っていう問題が、
自立ってつまり大概親からっていう話じゃないですか。
経済的自立って話をした時、
普通は親からの自立を意味します。
僕らはいつもそうなんだけれども、
自立したいと思う気持ちって人間にはあるんだけれども、
同時にできれば自立したくないという気持ちも
必ず抱えているはずなんですよ。
例えば、昨日たまたま出たんですけれども、
接触障害っていう、つまり食べ過ぎてしまうっていうのと、
全然食べられなくなる虚食ですね、
っていう問題って大体セットで現れるんですが、
この話は自立でこらえるんですね。
精神分析とか一部のカウンセリングでは。
今では接触障害を基本的にセルフコントロールの観点から見るのが
主流だと思うんだけれども、
多分、ある種の本にぶつかるとですね、
必ずこの問題は自立の問題として捉えられているはずです。
つまりあれなんですよ。
グッドワイブス流に言うと愛の問題なんですよ、
この接触障害というのは。
どうしてかというと、
人は結局、さっきも言いましたが、
自立したいと思ってもですね、
別に分離したいわけでもないじゃないですか。
自立と分離って違いますよね。
ただ、これがごっちゃになりやすい家庭環境は確かにたくさんあるわけです。
家を出てやるっていうのが自立になっちゃうみたいな。
自立と家では違うじゃないですか。
親のしつけが与える影響
でもやっぱりそこがごっちゃになりやすい家庭環境ってあるわけですよ。
そして、超自我が強い場合、
今日はこれがテーマなんですけど、
正しさが強い場合、不安は非常に強くなるんです。
これは経験した人には別に説明を要しないことだと思うんだけれども、
親のしつけがとても厳しい家庭で育った人は、
親にしがみつきたいという気持ちもかなり強いはずです。
これは当然ですよね。
他の人によってはしばしばですね。
なんであんな厳しいお母さんなのに、
あの子、お母さんにあんなにしがみついてるんだろうっていう人もいるんだけど、
僕はお母さんにしがみついてるとか、
人見知りがすごい激しいっていう子は当然だと思うんですよね。
お母さんの厳しい子が人見知りが強く、
お母さんにしがみついてばっかりいて、
なんか引っ込み事案で後ろの方にいるって当然じゃないですか。
そういうふうに僕は考えるんですけれども、
だってお母さんがああでもない、こうでもないと、
いちいちいろんな一挙手一投足って言うじゃないですか。
さっきの長寿がみんなを見張ってるぞっていうのと同じなんだけど、
お母さんの目が光ってるわけですよ。
下手なことは言えない、下手なこともできないってなると、
お母さんが指図した通り以外に動くのはかなり困難になる。
動くのはかなり困難になるから、
お母さんのそばから離れたくないですよ、子供にしてみれば。
心細くも当然あるわけです。
この心理がどこまでも進行していくわけですよ。
途中からよくわからなくなってくるわけですね。
例えば、別に分離の選択じゃなくたって、
家庭内の正しさの差異
仕事で東京とかに上京しますといったときに始まるわけですよ、この問題が。
でも、家の長寿がというのかな、家の規制は厳しかったと、
家のルールは厳しかったということになったときに、
この人にしてみればですよ、
家から出るということ、それ自体がすでに一つの不安要素になるわけです。
恐れと不安ですよ。
なんで不安なのかっていうと、
一人で生きていくのは心細いとかっていうのかもしれないけど、
そうではないと僕は思うんですよね。
この人は、家の正しさというものは、
ただ漠然と正しさだけじゃないんですよ。
ここら辺が僕はどこをやるんそうっておかしいなとよく思うんですけれども、
家においける長寿がの正しさというのは愛情なんですよ。
この話はおかしな行動、
グッドバイブするところのおかしな行動と関係があって、
本当は長寿がのように振る舞わないほうがいいのかもしれない。
怒ってばっかりいるっていう愛情の示し方、
大変問題があるのかもしれないけど、
でもそういう示し方をする家は少なからずいっぱいありますよね。
少なからずいっぱいあるってくだらない言い方ですね。
たくさんありますよね。
つまり長寿がというものは、
むやみやたらにいじめるために長寿がやってるわけじゃないわけじゃないですか。
例えば子供が危ないことをしないようにとか、
ちゃんとトイレでうんちはするようにとか、
全部長寿が的な、いわゆるしつつ、
その中にはその家その家の、
これが個性なんだけど、
80億の個性っていうふうにくらどんさんおっしゃいますが、
つまり家の流儀にはめちゃくちゃ個性があって、
多分他の人が見たらその家のやり方って、
すっごく納得いかないと思いますね。
これはグッドバイブスでですね、
人の個性というものは一人一人違っているんですっていうのを、
一人一人違っているだけでも嫌かもしれないけど、
いえいえ違っているっていうのはですね、
例えばその食卓とかのごく自然の様子を見ると、
多分他の家の家庭で育った人は、
いろんな意味でそれはダメだ、それもダメだ、
それは子供のためにならないとか、
それは子供に厳しすぎるとか、逆に甘すぎるとか、
めちゃくちゃ言うことが出てくる人がいっぱいいると思います。
これはすべて長寿がの強さですよね。
こういう風にするのが正しいスタイルだし、
いいスタイルなんだと。
例えば一家揃って、うちは4人だけど、
4人揃って食事をするのが正しいんだと、
いうことに結構こだわっている家庭ってあると思うんですよ。
これ完全に正しさじゃないですか。
家によっては別にみんながバラバラに食べればいいんじゃない、
全然そこに違和感はないよって家庭があるはずですよね。
で、例えばそのお子さんの家庭で、
例えばそのお子さんの中の男の子が、
一家揃って食べるべきだっていう家庭で、
20年間育ってきて、
方や女の子の方はみんな別々に個室で食べるっていう風な、
あるいはもう寝っ転がりながら、
ご飯っぽいものをテレビ見ながら食べるっていう家庭で育って、
結婚でもしたらどうなるかというと、
もうずっと喧嘩しそうですよね。
そんなことはいくらもありそうじゃないですか。
ここに僕は毒親とかモラハラとか組み込むのっていうのは、
結婚における家庭の影響
やっても構わないですけれども、
慎重を期すべきだと思うんですよ。
どっちが正しいって話をするのは、
ナンセンスな感じがするんですよね。
別に何の根拠もないんでね。
それは親の好みだったことが大きいんで、
ただ親は自分の好みを押し付けてましたとは言いませんよね。
私たちは正しく家庭を運営してきたんだっていう思いがあるでしょう、当然。
だから子供の方にも、
ご飯は特別な事情がない限りは一家揃って同時にいただきますするべきだよね、
ぐらいに思う家だってあるわけじゃないですか。
僕はあるんだろうと思うんですよ。
こういうのを推測の形式をとっているということは、
うちは別にそうでもなかったってことなんですよ。
だからそういう家庭の人と結婚すればですね、
そこをうるさく感じるはずなんですよ、僕の場合は。
僕の長寿がそうは言ってないからね。
つまり一人一人正しさというものは別々にあるんだけど、
それは確かに家庭で作り出されたものである可能性が高くて、
つまり親対象が心の中でそう言ってるという可能性が高くて、
自己矛盾
そしてそれがつまり正しさであり、その人の個性であるし、
そしてあんまりそれを意識もしてないんですよね。
同時に食べるべきですとか、
部屋に貼ってあったとかいうわけじゃないんですよ。
親父の子ごとみたいな居酒屋のトイレで貼ってるように、
一家揃ってご飯食べるべしとか、
別にその家に書いてたわけじゃないんですよ。
そういうふうに何十年もしてきたから、
それが当然正しいものだと、
意識もしないレベルに入ってるわけですよ。
それがつまり無意識ではないにしても、
はっきりと意識するレベルではない正しさとして、
長寿がは深くこう、
心の深いところに根差しているわけですよ。
で、その人は外に出て、
自分で生活をしようとした時に、
一種の不安を覚えるんですね。
なぜかというと、
だって一人で生活し始めたら、
一家四人揃っていただきますってできませんよね。
分かりますよね。
これは全然不思議な話じゃない。
アパートか何か借りて一人暮らしを始めました。
いつご飯食べてもいいです。
何なら食べてもいいです。
不安になるじゃないですか。
自分は正しいことができてないような日がしますよね。
だから人によっては、
まるで家でやっていたかのように、
独特のセレモニー形式をそこで頑張って踏襲するかもしれません。
自立への不安
ご飯を用意して、
6時になって一人でもいただきますと言って、
家族がいるかのように振る舞う。
僕はこの真理というものを成立させるのが、
つまり環境としての母親という意味だと思うんですよ。
だから環境としての母親という時に、
僕はよく畳んだシャツとか言ってるんですけど、
実は物質的なことは何の意味もないんですよ。
心の中だけの問題なんです。
あれはたぶん中だけじゃないんだけど、
そこがミニコットの難しいところなんだけど、
中と外を同時に意識させるような何かなんですよ。
これはGood Vibesの判定から若干ずれてるんで、
やめますが、
要はそこにたどり着いて、
やめますが、
要はそこに正しさが持ち込まれようとしているということですね。
だから人によっては脅迫的になっちゃうわけですよ。
そうしたいと思ってなくても、
ちょうど6時に食べなきゃいけないとか、
ちょうど12時にお昼はちょうど12時みたいになったら、
なんかちょっと脅迫神経症っぽいじゃないですか。
パラノイアっぽさも少しあるじゃないですか。
でもそれはそういう意識が入ってるわけじゃないんだけど、
でもそういう苦しさみたいなのを覚え始める可能性はあるわけですよ。
一方では自立したいんですよ、その人は。
やっぱり一人で自分でちゃんと整形を立てて、
自分でちゃんと料理をして、
自分でちゃんと掃除もして、
長寿家がもたらす影響
自分の生活と自分の面倒を見たいという気持ちがある。
でも他方ではかなり強い長寿が怒られてばっかりいたって話ではないですよ。
例えばその家がみんないつもなぜか頑張って、
12時に4人揃って食べてましたと。
いただきます必ず言って、ごちそうさま必ず言ってましたと。
終わる時間も1時ちょっきりでしたみたいなね。
そういう家だったとしたら、
そこでめちゃくちゃ怒るとこはなくても、
ドッグ親みたいなんじゃなくても、
長寿がの支配力はかなり強いわけですよ。
そしてこうしていれば自分は安心して生きていけるんだっていう気持ちに、
すっごく強くとらわれているから、
独立したいと思うとき、
この気持ちはすごい妨げになるんですね。
クラトンさんはイリュージョンで、
緑の本でわかりやすく、
例えば何かに遅刻して会社をクビになって路頭に迷うって書かれてたんだけど、
そういうイリュージョンは多くの人はそこまでは持たないわけですよね。
あれはわかりやすく書いてるわけです。
ほとんどの人が気にするのは、
例えばこういう家に育った人は、
ああ、家族がいないと、
この家に育った人は、
ああ、家族と一緒にご飯が食べれてない、
もう自分はなんかこう生きていて、
ちゃんと生きていないんじゃないだろうかみたいな不安にとらわれる。
これが長寿が多分もたらす一つの大事な不安なんだと思うんですね。
あるいは今日は疲れていて、
とてもご飯の支度をする気にならない、
これはもうダメなんじゃないだろうかみたいな不安。
この人が意識の上でそういう不安に強く襲われるってわけではないです。
だから無意識って言葉は大事なんですよ。
こういう不安に無意識で襲われるんですよ。
夕方、夜、とっぷり日が暮れてるんだけど、
残業でヘトヘトになって、ご飯の準備もできていなくて、
家族揃ってもいただきますができないっていう不安にとらわれるんですよ。
脅迫症っぽいけれども、
この人の心理からすると、
これは脅迫症って呼ぶのはコクじゃないですか。
結構これは辛いことになっていくんじゃないかと思うんですね。
例えばですよ、
だから早く家族作んなきゃっていう気持ちが
無意識の中で肥大化していくと思うんですね。
どこにも本来ここで家族を作るのを急ぐ理由はないんだけど、
自分で料理を作ればいいんだけど、
なんなら近くの居酒屋に行ってご飯を食べればいいんだけど、
そういう風な発想を取れないんですよ、多分。
長寿家というもののルールが厳しいというか、
その人の本人の中で強く根差した場合、
これがだから自立の問題なんですよ、やっぱり。
自分で自分の世話ができないっていうところに
僕らの目は行きがちなんだけれども、
そうではないんですよ。
その人が持ってきた正しい生き方のスタイルってものがあって、
しかもそれがですね、上手くいっていた場合、
家族4人でだんらんで幸せになって、
家族4人でだんらんで幸せに生きているなっていう気持ちが、
つまり長寿家が減っていることは決して悪いことじゃないってことですよね。
そこには環境としての母親の苦労っていうのは、
明らかにかなり色濃くあるはずなんだけど、
自立と依存の葛藤
ある種の異性がそこに伴っているってことにも
気づく必要があるんですけれども、
とにかくそういうことがあって、
その時はすごい幸せだったという気持ちが強くなるんですよね。
それってつまり、親が親ってちゃんと生きていた方がいいんだよっていうメッセージを
無意識の方から発している感じになるはずですよね。
それをできていない自分っていうのが状況してきて、
状況してきたばっかりで仕事始めればそうなりますよね。
普通に考えれば。
だけれどもその人にしてみるとそれはとっても辛いことになるわけです。
ちゃんと生きられていない。お腹も空いてきた。
で、ご飯の用意してくれる人もいない。
そしてみんなでいただきますをする家族がいない。
っていうような潜在的な気持ちっていうのかな。
潜在って言葉を多く避けたいんですよね。
ジェンダー平等と自立
あれはスピリチュアル的な言葉なんで。
やっぱり無意識ですね。
無意識がそこを言ってみればメッセージを発してくるわけです。
早く家族作ろうと。
ちゃんとご飯の用意をしてもらっていただきますよと。
で、ここでその状況している人が男の子だった。
状況している人が男の子だった場合ですね。
家族のために食事を時間までに用意をしてくれる優しい奥さんがいればいいなって思いそうじゃないですか。
これが今の時代、話をさらに難しくしているわけですよ。
ジェンダー平等でしょって話がここで出てくるわけですよ。
ここで出てくると何か僕は話が違う方向を向き始めたって気がしちゃうんですよね。
もちろんこの話は大事です。
だいたい一人で二人分稼げるのかどうかすらも怪しいのに奥さんが夜ご飯作ってばかりはいられないわけですよね。
奥さんももしかして仕事に行って残業しているかもしれない。
そうなっている可能性は今はむしろ高いでしょ。
そっちの方が。
だからこのかつてあった正しいスタイルというものをそのまま持続するのは難しいよっていう話が家族という一番ラディカルに出るとね。
家族は病気だみたいなそういう議論になっていくケースもあるわけですよね。
家族というのは国の陰謀だみたいな話になるというケースも当然あるわけですよね。
それはそのぐらいのことは私にも理解できないわけじゃないしそういう文脈の方もそこそこ読んではきてますから。
分かりはします。
分かりはしますけどこの話男女を逆転させても今困っている人はいっぱいいるんだけどなとは思うんですよ。
やっぱりお母さんが7時までにご飯の準備をしてくれる過程に帰りたいと思っていないと家帰ってみると真っ暗だったり当然ですけどね。
電気代もったいないからね。
家帰ってみたら真っ暗だったりするわけじゃないですか。
そうするとなんかとても悲しいとか自分はなんか仕事だけはしてるんだけど自立してる気が全くしないとか。
つまり自立をさまなげる力というのはそういう方向で働いてくるということなんですね。
自立を妨げる力ってあるわけですよ。
それは長寿がすごく支配主的になっている状態ということです。
親の言うことを聞いて親の愛情のもとにいれば安心して生きていけるのにわざわざそこを抜け出して自分で生計を立てようとするからこういうことになったとでも思ったらですね。
完全にそれはもう自立させないとする力ってものの自立したいという気持ちの葛藤がそこで起きているからそういう辛さみたいなものを感じなきゃなんなくなるわけですね。
だからこういうケースの中で例えばしょっちゅう実家に戻るとかいろいろと第二次的な対策が取られるようになるんだろうと私は思うんですね。
あるいはこう誰かの家に入り浸るとか何ならもう他の人と一緒に暮らすようにするとかいろんな方法が考えられるわけですよ。
つまり自立のスタイルを模索し始めるはずなんですよね。
小説『レズ風俗』における自立の物語
こういう時にですね私が思うんですよ。
ここを依存先を増やすという表現を取らない方がいいんじゃないだろうかと思うんですね。
この話であくまでも依存と自立の話にしてしまうとどうしても長寿が支配というものがいつまでたっても続くような感じから逃れられない。
実際にはこの中でうまい方法を考え出していくということはあるんですけれどもここをグッドバイブスみたいに愛という言葉にしてしまった方が私はいいんじゃないかと思うんですよ。
長寿が結局愛って話になって長寿が怒りって話になってるからみんな長寿が大嫌いって話になって自立とは異例であるみたいな話に極端に言うとなるので。
そういうふうにするとどこに向かって行ってもいいことはないっていう話になってしまうじゃないですか。
そこを避けたほうがいいと思うんですよね。
長寿が怒りみたいな話になったり自立は分離みたいな話にしないほうがいいと思うんです。
だから自分が今置かれている状況から考えてですね。
どうしてこの状態は例えば寂しかったり不安だったり家族を作ろうと急いでいたり女性から離れがたくなったりしているんだろうと考える。
この種の話が私は長田上さんのレズ風俗に全部書いてあると思うから私は本好きなわけですよ。
つまりあれ女性だったところもなおいいと思うんです。
あれを男性がやってるということになるとなんかストーカーの話になったりダメ男の話になってみたりそれこそジェンダー平等理解していない人の話みたいになっちゃうんだけど。
あれを主人公女性であると。事実女性だから長田上さんは。
女性であるというだけのことで全て今のような問題が全然回避されることになるわけですよ。
お母さんの元に戻ったとしてもいつまでもお母さんから離れられないみたいな批判もあまりされずにする。
あれを男の子がやると明らかにマザコンだろうみたいになってしまって明らかに攻撃の対象になるわけですよ。
寂しいから風俗に行きましたって言っても全然多くの人は納得してくれないと思うんですね。
そしていろんなところのカウンセリングに行ってハグしてほしいと思ってましたって言ってもすごい貴重い男だってことになっちゃうじゃないですか。
あれが女の子だと全てが丸く収まるように見える。
僕は男女どっちであっても変わらないと思っているわけですよ。
原則これはやっぱ愛を求めて物語なわけですよね。
僕はそこでも非常に感じたんですよね。
あの過程はそんなに愛情が不足していたりしているわけじゃない。
自立と依存の葛藤
ただその表現が驚くほど淡白なだけでしかない過程なんですよ。
見た感じ。つまりああいうことになるんだなって思うんですよね。
すごく愛情豊かなんだけどそう見えないというだけでも結構不安要素でいっぱいになって生きていく。
生きていくのが不安だし一人でいるのも不安だし。
だから二つの方向が常に模索されているわけですよね。
一つはつまり良いおっぱいというものを欲する方向。
これ完全に彼女はそうなんですよね。
お母さんと抱き合いたいというのを割とセキュララに書いている。
だから劣風俗行きましたって話だし、お酒に結局行くんですよね。
このお酒はもう完全に良いおっぱいなわけですよ。
つまり自立の問題ですよね。
だから自立と依存という観点で僕は見ない方がいいだろうという気がするんです。
そういう観点であれはまさに見たんだけれども、そういう風になるとやっぱり依存という話に自立できない以上依存だってことになって、
それからアルコール依存という話になってしまうので、やっぱりその選択は避けたいじゃないですか。
一方では怒りっていう選択になるんですよね。
漫画の初期の方ですけど、親に怒られてたかのように書いてある。
多分そんな事実はあんまりないんだと思うんですよ。
でも彼女はすごいやっぱり居場所を求めているし、いろんな人に怒られる不安というのを抱えて、
そういう意味ではHSP的な話にもなるんですけど、怒られるっていうことが怖いって話はやっぱり全部長時間の正しさっていうことなんですよね。
正しくないから怒られる。
で、最初の話に戻ってくるんですよ。
悪いものは嫌ってもいい、自分はとても悪いから自分はとても嫌いだっていう自己嫌悪にものすごく落ちるんですが、
永田神さんは別に悪いことは何にもしていないわけですよね。
せいぜい職場で休憩時間でもないのに生のまま、これも痛々しい話ですけど、生のままラーメンとかを食べてみたり、その天末を全部漫画に描いてみたり、悪いことは別に何にもしていないと思うんですよ。
ある意味いいことしかしていないんじゃないかぐらいに思うんだけれども、本人はすごい自己嫌悪に陥るということになっちゃうから、
長寿が正しさ的に言って失策をしたものと悪いものは嫌ってもいいという観点、実際には嫌いになったものや好きになれないものを抜したいという価値観からその欠点を探し始めるというやり方なんだけど、
これは極力避けたほうがいいと思うんですよね、日常生活において。
嫌いになるのは構わないと思うんですけど、いや構わなくはないかもしれないけどグッドバイブス的には、でも嫌いになるのはしょうがないととりあえず思うにしても、その嫌いなものの嫌うべき理由を探さないということですよね。
ここまで話すれば、今日の話はだいたい繋がってきていると思うんですけど、私が言いたい結論はこういうことです。
嫌いだと思うものがあるとしますよね、TwitterなりFacebookなり、あるいは今日会った人、中でも職場での人とかなんでもいいですよ。
調子が支配というもの
会った人の中で嫌いな人って出てくるじゃないですか、その人を嫌う正しい理由を探したりしないってことです。
それをすると自立の妨げになるんですよ、必ず。
今の話は僕の中では繋がってるんですけど、今が飛躍に聞こえたとしたら、僕が喋っているこの48分の喋り方に問題があったんですが、まあそういうことです。
この嫌いになるということと、悪いっていうことと、ミスを犯すってことを3つごっちゃにするということは、つまり調子が支配というものに絶対的な正当化を与えてるってことになります。
正しさは絶対に正しいんだって意味になります。その正しさは他の人たちと共有できないものです。
特定の家庭、特定の先生とか、特定の学校とか、特定の文脈においてのみ正しいってものを全世界に適用するぞっていう宣言になるので、
調子がが私を支配することを、ここがポイントです。調子がが自分を支配することを正しいと認めてしまいますということになります。
だって自分がミスをしたり、自分が悪いことをするから自分を嫌いになる、自分を嫌いになる正当な理由の根拠というものを調子がに与えちゃってるんで、調子がって自分自身ですからね、無意識だけど。
これを与えてしまっていた上で、この調子がからここに大きな矛盾があるんですけど、離れて自立しようって言ったって無理っていうもんじゃないですか。
完全にその支配下に置かれている中でですね、自分が考えて自分の判断で自分のケアをしていきましょう、できっこないですよね。
全部調子がにお伺い立ててやっているっていうやり方をずっと選択してきたのに、急にそんなことできないじゃないですか。
でも急にそんなことするしかないんですよ、自立するってことは。つまり自立するってことは、自分で決めるってことなんですね。
だから先ほども言ったように、そこに食事があるかとか、そういうことは大事ですけどね、そこに多端的な質があるかとか、そういうことが大事なわけではないんですよ、やっぱり。
ここは心の問題なんです。自分でそれをどう決めるかを自分だけが決めていい、ここに心細さとか不安を覚えるってことは、正直か正しいって思ってるからそうなるんですよ。
何をしてもいいはずなんですよ。いつご飯を食べても、外食しに行っても、食べなくてもいいっていう風に、やっぱりそう思うと突然不安に襲われるっていう状態をなるべく避けないといけないというか、
やっぱりそうならないと、家から外にいただけでは、自立してるような状態って得られないじゃないですか。何よりも心細さと不安から逃れられなくなっちゃいますよね、それをやってると。
これが全域に、全エリアに僕は、適応されてしまってるというのが最大の問題なんだと思うんです。
だから私は一番冒頭で、話は一応繋がってるんですよ。サピエンス全史でもファクトフルネスでもローラーの症例でもいいんだけど、自分が読みたい本だけ読みましょうねという話なんです。
これはある種のトレーニングでもあるんですよ。人が、人がというのはつまり社会がなんだけど、社会がこの本を読むべきだよって言ってる本を読むってことは、結局充実した時間とか意義ある行動とかも全部そうなんだけど、
選択することの重要性
僕らは選択するにあたって一瞬一瞬必ず何かを選択するじゃないですか。極簡単なことでも選択するじゃないですか。
磨き粉を買うのだって、こっちを買うかあっちを買うか、より高くて良さそうな方を買うとか、いろんな選択があるじゃないですか。
特に本を読むだろうという選択は、いかにも正直なシャシャリ出てきそうな選択なんですよ。別に漫画ばっかり読んでたっていいし、何なら読まなくてもいいんですよ。
これさっきの食事の話と全く同じなんです。ここのところで長時間にお伺いを立てている間は、長時間支配っていうのが続くんですよ。
そうすると、自分で選択しなければいけないという事態に対して、絶対不安を覚えると思うんです。
この不安を覚えている限りは、母親代わりになるような女性とか、その環境を作り出してくれる家族とか、そういったものが自分になければ生きていけないという思いに囚われてしまうと思う。
そうすると、良くても悪くても、その結果が良かろうと悪かろうと依存的なものっていう状態からは逃れようがないという感じがするんですよね。
その状態は、良くても悪くてもって言うけれども、少なくとも不安はずっとあるだろうなって気がします。
なぜならば、この構造がおかしい。長時間に頼っているんだけど、長時間って長がついているけど、時間ですからね。
自分ですからね。そこに正しさがあるような気がするんだけど、結局自分ですからね。決めているのは自分なんで。