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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今ですね、10月30日日曜日の19時42分で、日本シリーズのただの第7戦ですね。
そこをちょっと振り切って、上で収録中なんですけれども、
めちゃくちゃ気になるけれども、多分これは夜の9時45分ぐらいにピークが来るんじゃないかと思って、
とりあえずまだ8時前なので、ここは見なくてもよかろうというような判断じゃないですけどね。
これは勝手な憶測でしかないんですけど、そんなような感じで今収録に臨んでいるところです。
で、直近11月3日でついにですね、100日チャレンジの第1期、卒業時期ということでですね、
ここで喋ってどのくらい意味があるのかわかんないですけど、
ぜひ100チャレンジにご参加いただいている方はこの卒業式、無料ですからね、ご参加いただけると。
最後に僕ちょっともう1回ぐらいは、今日喋るようなことなんだと思うんだけど、喋ろうと思っておりまして、
基本的に私ですね、ここ最近ついにというのか予約というのかね、
自分の中ではだいたいこういう感覚だっていうのを掴めてたんだけど、
ようやくこれが伝わるかどうかは別として、人に向かって先送りしないメンタル技法みたいなものをとりあえずお伝えできるようになったと思うんですね。
納得されるかどうかはまた別ですよ。
だけども多分これに嘘はなかろうというところまでようやく来れたんで、この話をせっかく卒業式なのでですね、
第2期、第3期も12月早々にももう始めちゃう予定なので、そこでまた話しますけれどもね、
とりあえず卒業式の時にこれを聞いていただくと多分納得がいかないはずで、
なんかご質問出るんじゃないかと期待しているんですよ。
聞かれないとわからないんですよね。
その何を答えるべきなのかというのか。
ということで11月3日文化の日ね、4時から100日チャレンジ卒業式。
もうこれね、そろそろ98日目ということで、100日ちゃんと全部投稿していただいた方も結構いらっしゃいましたからね。
非常に私はそんな方はもう本当数えるほどしかいないんじゃないかぐらいに思ってたんですけど、
結局最後の最後までお付き合いいただきまして大変感銘を受けました。ありがとうございます。
それでですね、今日お話ししたいのはつまりそのことなんですが、
書き上げ塾のCMも先日〇〇1番組使ってお話ししましたけど、それにもすごく絡む話ではありまして、
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ただ今回の話は100書くことだけではなくて、タスクですよね。
主にタスクといってもトイレとか食事とかは先送り続けることは不可能ですからね、必ずやります。
これが実はすごく関係があるんですけれども、
例えばタスクにですね、誰それに連絡するとかっていうのを先送ってるとするじゃないですか、
それってつらいからとか面倒だからって人は言うんだけど、それは真実じゃないと僕は思うんですよ。
人に連絡するっていうのはやっぱり、よほどそれに対するハードルとか衝撃みたいなものを感じてない限り、
そんなに大変だから先送るものではないと思うんですね。
連絡したくてしたくてたまらない人っているじゃないですか。
例えば恋人とかね、でもなかなかできないってことあるじゃないですか。
それはする気持ちが足りないとかではないですよね。
するのが怖いからじゃないですか。
僕は実はですね、いろんな理由があって、
繰り返し先送っている対象は怖いから以外の理由は本当はないんだろうなと思うんですよ。
ただ怖いと言っても先送る対象それ自体が今みたいに恋人への連絡が怖いっていうのと、
例えばですけれども、部屋の片付けが怖いっていうのは話が全く違うとは思うんですね。
怖さ自体が問題なケースもあるし、怖さじゃないものが問題になっちゃうケースもあるんだけど、
どっちにしても怖いっていうことが深く食い込んできているというか、
その恐怖感があって、その恐怖感があって、
その恐怖感があって、その恐怖感があって、
結論から言っちゃうというか、結論がそもそも奇妙に聞こえると思うんですけど、
手元にですね、フェアバーンという人の人格の精神分析学という、また異様におかたいですね、
これでも文庫なんですよ。
講談社学術文庫でこのですね、2004年に発表された文章で、
フェアバーンという人の人格の精神分析学という、また異様におかたいですね、
これでも文庫なんですよ。
講談社学術文庫でこのですね、201ページ目に大変重要な図が、
なんでこういうのをですね、不意に見失っていたのかが不思議なんですけど、
ここにですね、あるんですよ。
僕がずっとお伝えしたかった内容が図示されているという、
多分そういうふうには誰も考えてくださらないでほしい、
精神分析の専門家の人が聞いても、はあって感じだと思うんですけど、
僕の中ではこれでいいんですよ。
僕にとってですね、精神分析というのはこういうふうに使うためのものなんですね。
体系だった理解はしたいと思っているんだけど、
僕はやっぱり精神分析受けたこともないし、
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多分精神分析家になれるということもないので、
結局断片的に扱うことになるんですよね。
こういうのはダメなのかもしれないんですけど、
いいことにしちゃっているんですよ。
僕の中で勝手にですね。
ここがですね、あれなんですよ。
オーソリティというものでない、
つまり何者でもないものは持つメリットだと思うんですよね。
先日ね、戸畑海人さんの、彼は私塾ってよくおっしゃっているんですけどね、
よくは言ってないから時々言ってるんですけど、
オンラインの授業を受けているんですよ。
お金払ってるんですよ。
これ、彼は大学を辞めたからこういうことが言えるんだって言ってたんですけど、
そういうことなんですよね。
あるポジションにいて、そこでサラリーをもらっている限り、
それは何か仮に発言をしてもポジショントークになっちゃうことってあるんですよ。
あるいはポジショントークだというつもりは本人なくても、
人がそういうふうにみなしてしまうというのを避けようがないポジションってあるんだと思うんですよね。
そういうのを辞めて、そこからサラリーをもらっていなければ、
もうへっちゃらなんですよ、ある意味。
そういうのに近いことかなというふうに思ってますね。
で、この図の中のど真ん中にセントラル英語。
僕、この言葉がダメだというか、この言葉が無理があるって思うんですよ。
中心自我って書いてあるんですけど、
この中心自我、何を意挙して中心自我なんだよって思うんですよね。
自我に中心があるのかどうかすらも怪しいものなのに、
さらにその自我の中心はこれですって言っちゃうっていう、
その根拠は何なんだろうっていうのはあるんだけど、
でもこの図の中心自我っていうのはやっぱり非常に重要で、
この中心自我はですね、最近よく僕が話題にしてるんですけど、
良い対象と悪い対象っていうか、好きな対象と嫌いな対象、
なんて言えばいいんですかね、切り裂かれるというか引き裂かれるという感じがあるんですよね。
で、その好きな対象っていうのは何でもいいんですけど、
例えば甘いものとか、ひどいケースになってくるとギャンブルとかになってくるんだけど、
とにかく魅了されちゃうんですよね、その対象に。
これが悪いんですよ。
つまりこの魅了される結果として必ず現実のですね、センターから外れて、
このセンターって何、じゃあ何でそれがセンターなの、モラルなのって言われると困っちゃうんだけど、
つまりですね、ここで北山治さんという人がマッチュリの処女を出してくるんだけど、
つまりこの魅惑的な対象の中心自我っていうのは、
センターじゃないところにあるものはイリュージョンだからセンターじゃないんですよ。
このセンター、セントラルなエゴっていうのは、
現実に唯一存在できる私みたいなイメージで、
これはですね、面白くもなんともないんですね。
09:04
面白くもなんともないんですよね。
面白くもなんともないっていうのも非常に語弊があるんですけど、
ババ・レイコさんが、自我心理学で私が教科書というふうに言ってるんですけど、
自我心理学の教科書みたいな本を書いているババ・レイコさんが言う言い方を使うとですね、
じんわりとした幸せみたいな言い方になっちゃうんですよね。
で、これが大切なんですよ。
北山さんは割と、自我心理学の教科書みたいな本を書いているんですけど、
このセントラルエゴっていうのは対象じゃなくて、
現実に存在している私なんですね。
それってつまり、よく字が丸っていうふうに何でも書いちゃうんですよね。
図で、二次元の世界で図でグラフィックっぽく書くとそうなるんですよね。
丸って書いて私とかね。
でも私って別に丸くないし、
境界線もないんですよ。
ふわっとしているわけですよね。
ふわっと。
で、このふわっとしている私っていうものが、
なんて言えばいいんですかね。
セントラルエゴだと思うんですよ。
多分フェア・バーンが考えるところ。
で、フェア・バーンのその対象、いい対象、悪い対象、
この番組でもおなじみのいいおっぱい、悪いおっぱいみたいなそういうやつなんだけど、
要するに同一のものを分割って言うんですけどね。
これが分裂じゃなくて分割なんですよね。
二つに分けるんですよね。
分けるとずばっと切れて、
同じものを二つに分けるって本来無理なんで、
同じものを二つに分けられないんですよね。
これあくまでも概念的な話なんで、
同じものを二つに分けて、
例えばですよ。
例えば、いいスイーツ、悪いスイーツってのはこれは、
つまりスイーツのいい側面と悪い側面について言ってるんだけれども、
これが思考がですね、
なんて言えばいいんですかね。
分化しやすい時っていうんですかね。
これは多分僕の思うに、
間違ってるかもしれませんよ。
間違ってるかもしれませんが、精神分析で言う精神病部分とか、
精神病的な状態ってきっとこういう状態なんですよね。
精神病的な状態ってきっとこういう状態なんだろうなっていう風に思っているんです。
っていうのは、なんかギャンブルに狂うとかって言うじゃないですか。
でもその時その人にとってのギャンブルっていいものなんですよ。
ギャンブルのいい部分っていうものが、
ギャンブルの全ての部分を代表してしまっていて、
だからですね、
抑えが効かないんですよね。
その部分について、
フェアバーンは、
無意識の領域でやっぱりそこは動いてるからそういうことが起こるんだというのを、
やっぱりこの図の中で書いてくれてるんですね。
この図があるというのはとても助かるんですよ。
図はまあ嘘なんだけど、
12:00
図があればですね、
少なくともフェアバーンがどう考えてたのかは、
頭の中身の一部にせよはっきり分かるわけじゃないですか。
精神分析っていうのはこの辺がややこしくて、
同じ言葉を人が違う意味で使っちゃうから、
結局どういうつもりでこの人がこれを書いたんだろうっていうのは分かりにくくって、
それですごく困るんだけど、
そんなのは臨床しないで本当は分かんないんですって平気で書いてあるから、
もう分かんないものを読ませてるんだけど、
分かりっこないんですよみたいな、
そういうですね、ちょっとずるい感じがするわけですよ、
こっちからしてみれば。
でもこっちは訳あって分かりたいわけですからね。
分かることは目的じゃないんだけど、
分からないと困ることが多いんですよね。
分からないと困ることがあるから分かろうとしてるわけです。
例えば今この番組でなぜこの図が私にとって重要かというと、
これで私は先送り問題っていうのが必ず、
こういうことも僕くさかんに言うからね、
どうせまた来年違うこと言ってそうですけど、
それでもこれで先送りっていうのはしなくなるなと思っているんですよ。
これはリスケしないって話ではないですからね。
やろうと思ったことに向かった瞬間に嫌になってできないとか、
そういう話ですよ。
私の知っている中でこの問題に一番食い下がってくださるのが
エフタさんなんですね。
とはいえめんどくさいとか、
とはいえやるのが怖いんですとか、
そういう話をギリギリのところまで突き詰められるんですよね。
これはよっぽどお本人の中に問題意識がここにあるんだなと
聞いているとやっぱり思わされますよね。
なんとなくできちゃうみたいなことがなかなか起きないから
こういう話をされるんだと思うんですよ。
そのセントラルエゴにいればですね、
私の考えではいれば、
その程度のことを大変すぎて先送りするはずがないと思うんですよね。
ここに何かを持ち込む必要はないと思うんですよ。
セントラルエゴっていうのは、
ババアレイコさん流に言うじんわりとした自己の感じとか
ふんわりとした自分の感じってもので、
これでやれるんですよね。
ことさら、だから僕はよく思うんですよ。
別に構わないと思うんだけど、
ことさらワクワク感とか、
やる気に満ちているとか、
やる人の喜ぶ姿が見たくてとかって思わなくても、
このセンターにいる限りは実行できると思うし、
このセンターにいる限り、
人をあんまり待たせたくないとか、
約束を守りたいと思うのは、
ごく自然の流れでできると思うんですよね。
娘がですね、
5歳とか4歳の頃は、
ちょっとお皿を持ってきてくれるっていうと、
すっとんでいってくれるんですよ。
あの感じなんですよね。
あれはすごくやる気に満ちているように見えるかもしれないんですけどね。
私の感じでは、
15:00
センターにエゴがあるときっていう人は、
あんなにすっとんではいかないけど大人になると、
ああいうふうに、
ごく当然のようにできるはずのことがですね、
もしできなくなるとすれば、
やっぱりそこにはハードルの変な高さがあって、
そのハードルの変な高さって作り出されているものだというふうに思うわけですね。
僕の考えですよ、これも。
間違ってるかもこれもわかんないですけど、
このセンターにいられるというのが、
グッドワイブス流に言う心の平安なんですよ。
そして大事なのは、
この状態は黙ってて永続するようなものではないんですよ。
これはいつでもしょっちゅう踏み外すんですね。
この点においてグッドワイブスで言う話と、
精神分析の特にイギリスの方の対照関係論で言っている、
精神病部分と非精神病部分っていうのが人にはあるんだよっていうような考え方とか、
妄想分裂ポジションと欲打つポジションって、
欲打つポジションっていうのが結局正常なポジションなんだけど、
があるんだよっていう考え方とが近いと思うんですよね。
いつも僕らはこの時点で、
行ったり来たりをしないわけにはいる。
行ったり来たりが、例えば、
倉田さんのような人だと少なくて済むかもしれないけど、
なくなりはしないっていう話なんです。
どっちかのポジションに永遠にいられるようなメソッドとかではないと思うんですよ。
あるいはメソッドでそもそも、
どっちかのポジションに永久にいられるってわけにいかないと、
もし仏教が、
仏教が、
仏教が、
どっちかのポジションに永久にいられるってわけにいかないと、
もし仏教で中庸っていうじゃないですか、
セントラルっていう言葉と中庸っていうのは近いなと思うし、
たぶんですね、
永遠に中庸にいられるって言うんだったら、
その人は悟ってるんだろうなって感じがします。
北山治虫さんはやっぱり面白いことを言っていて、
ウサギとカメの話を持ち出すんですよね。
ウサギとカメのあの話は結局、
ウサギが圧倒的に強いんだけど、
最後はカメが勝つじゃないですか。
あのカメに自分がずっとセンターとしているっていう状態が、
いいんだけれども、
ウサギが本当の意味で負けてしまうというのは、
現代社会ではありえないんだっていうことを書くんですよ。
つまり、永遠に競争してなきゃいけないわけですよ。
呪いだけど、
グズのように言われるんだけど、
実は賢明なカメが最後は勝つんだと思って、
カメであり続ける、
勇気をくれる物語みたいにして、
読みましょうね、みたいな感じで書いていて、
そういう話なんですよね、これはね。
ウサギポジションに行かなきゃならないことってあって、
ぴょんぴょん跳ねるんですよ、そういう時は。
でも、カメポジションに戻れるというのが大事で、
なぜかというと、
ウサギポジションっていうのは要するに、
イリュージョンだから。
このイリュージョンに永久にいようという、
寝ようねっていう発想が世の中にはあるんだけれども、
18:02
そのポジションはイリュージョンなんで、
永遠にはいられないんですよね。
寝られるっていう話もあるんだけど、
それは多分本当じゃないんだと思うんですよ。
だから寝ちゃうんですよね。
あれはお話ですけど。
で、
さっきから散々言っているセンターにいたいんだけれども、
このセンターにいる私を絶えず誘惑してくるのが、
魅惑的な、この場合誘惑するっていう風に書いているから、
フェアバーンは。
まさにそういう感じなんですけど、
つまり、いい対象とかいうやつは良くないわけですね。
人を引っ掛けるんですよ。
いい雰囲気で。
いい感じでいたいとかって言うじゃないですか。
私、あれ昔からダメだなと思っていたんですね。
いい感じの私でいられればいいって言うんだけど、
いい感じでいられれればいいって話をタスク管理に持ち込むと、
何が起こるかというと、
いい感じでないときは仕事をしなくなるんですよね。
私、あれは絶対おかしいと思うんですよ。
大体私の腰痛って慢性的なところがあるし、
目がシュパシュパするとかもほぼ慢性的な反応がするんですよ。
しかも私はアトピー持ちでしたから、
肌どっかしょっちゅうほぼ絶え間なく痒いわけですよね。
いい感じを待っていたら、仕事を永遠にしないんですよ。
私のような人間は。
でもタスクシュートっていうのは非常に大事なことを教えてくれて、
でもあんた物を食べるよねっていうことなんですよ。
腰が痛くて目がシュパシュパして、
肌が痒くても物は喜んで食べるよねと。
同じようにタスクはできないのかねっていう感じがね、
タスクシュートにはあるんですよね。
だから僕はことさらにこのタスクは赤とか、
このタスクは青とかも好かないんですよ。
一応今、タスクシュートクラウドはモードっていうので
色変えられるところまであるんで、
趣味で色変えたりはするんだけれども、
原則同一色でやるべきだってずっと思ってるんですね。
それは全てのタスクの色が同じに見えるからではなくて、
全てのタスクに対して一番その、何て言うんですかね、
セントラル英語で今日は行こう。
セントラル英語で向かっていくのが理想的な感じが僕はやっぱりするんですね。
ここで理想とか言っちゃってますけどね。
あの、つい先をくる時に私たちがやることって、
たぶん良い何かをイメージしてそっちに走ってしまうんだと思うんですね。
今日ははっきり言ってしまうんだけど、
私はこういう時決まってファンザなイメージになっちゃうんですよ。
これがよく感じちゃうんですよね。
で、問題なのはですね、それが悪いってことじゃないんですよ。
なぜそこに行っちゃいけないの、モラルなのって言われると困るんだけれども、
そうではなくて、この良いは、
この良いはクセものだってことなんですよ。
この良いに、えーとそうだな、
僕の場合平均で時間を測ってるんで、
これまで27、8分なんだけど、27、8分そっちに行くじゃないですか。
21:04
だいたいこれを脱線、まあ脱線と言ってもいいかセンターだから、
脱線したと言ってしまいますけれども、
そうやって最初に行く時はこれを悪いとは思ってないんですよ、それほど。
むしろ良いんですよ。
お酒やめられない日とか、でもこれ今日だけだからって言って飲む時とか、
どうしても甘いものが食べられないとか言う時に、
よく見えるじゃないですか、絶対に。
抑えられないぐらいなわけですからね。
あるいはギャンブルでもいいですよ。
お金がワーッと入ってきた良いイメージって悪くないじゃないですか、絶対に。
で、27、8分脱線した後にすっかりその対象は何かですね、
恐ろしく悪くなってるんですよね。
色褪せるというのかな。
自分は今まで、やっぱりですね、多くの昔話が書いてた通り、
起きてみたら周りには枯れ葉だったみたいな、
あの感じがすごいするんですよね。
その間、時間の無駄をしたと言うんではなくて、
その間僕は現実の中にいたはずなのに、
現実じゃないところにいたって感じがするんですよね。
フェアワンはすごくこの辺のところがはっきり描写されていて、
セントラルエゴっていうのは唯一、
この名前は私はいいと思わないんだけど、
セントラルエゴっていうのは唯一現実に関わってるんですよ。
で、この良いだ悪いだをやりだした時に、
僕らは間違いなく幻想の世界にいるんですよね。
浦島太郎なんですよ。
竜宮城に入っちゃうわけですよね。
だから3日が3年だったりするわけじゃないですか。
あるいは3日が30年だったりするわけですよ。
もう一旦夢の世界に入っちゃったら、
あなたはもう夢から覚めちゃダメなのよっていう、
あれは感じがしますよね。
タワデバコは。
夢から覚めると自分が現実にどういうことになってるのかというのに、
直面しなければならなくなるから、
でもめちゃくちゃそれはとんでもない話なような気もするわけですよ。
まさにマッチ売りの少女で、
もう覚めないんだったら天国行くしかありませんよっていうね。
それはやっぱりこうまずいでしょうと。
この天国っていうのもまたよくそういう表現で言われるじゃないですか。
天国に行かせてやるみたいなね。
ドラッグと何かの世界ですよね、あれはね。
天国に行っちゃやっぱりまずいわけですよ。
そこでもう価値観みたいなの出てきちゃいますけどね。
アンデルセンはそのことにすごくこだわってたんだと思うんですよ。
貧困で生きるくらいなら天国に行くしかないんじゃないのかみたいな。
そこにはちょっと社会的なレジストみたいな気持ちも非常にありましたけども、
彼の多分、周りは。
でも我々は多分そうじゃないと思うんですよね。
いいものに、
よくよく自分について考える必要を思うわけです。
24:02
つまりセンターであるエゴは現実に直面していて、
面白くもなんともないんだと。
仮にしましょう。
そうすると、それって自分の中にあるエゴが、
自分の中にあるエゴが、
自分の中にあるエゴが、
自分の中にあるエゴが、
自分の中にあるエゴが、
ないんだと。
仮にしましょう。
そうすると、それってつまり、
イリュージョンでいいから、
夢の中にいたいってことなんですよ。
無駄なことを、無駄な時間を過ごすというよりは、
現実の価値はどうなったんだろうってことですね。
夢を見ていたいっていうのは、
つまり現実を無視したいって意味です。
だから現実が価値ゼロになったっていう表明なんですよ。
魅惑的な夢を見ていたいというのは。
その夢は、
永遠に夢見ていたら死んじゃうんで、
いずれ必ず現実に帰ってくるんですよ。
その時、明らかに夢で自分を目を眩ませているわけだから、
だからよくもないものがよく見えているということは、
その落差の分だけ、
悪い現実に置き去りに後でされるはずなんですよ。
ここまで踏まえた上でも、
なお夢を見たいんだというので、
あればしょうがないと思うんですよ。
それはもう夢を見るしかないと思いますね。
僕はでも、幸いにもなんですよね。
ここまで考えると、
冷めるんですよ、その瞬間に。
で、現実に戻っていけるんですね。
この対比をしない限り、
現実が辛くはならないんだって話なんですよ。
この対比をして、夢をすっかり味わうから、
現実の脱価値かってやつなんですけどね。
一段と凄まじくなって、
突き落とされるっていうのまではいかないにしても、
狸に一夜をもたらされた後の現実が起こるわけですよ。
寝てるところ上は葉っぱでしたって話ですね。
お団子は虫でしたみたいな、そういう話ですよ。
それでもいいって言うならば、
それでもいいっていうのが、
ある種の依存性というか、
ある種の依存性なんだと思うんですけどね。
それでもいいっていう状態で夢に入っていくならば、
それはそれでいいんだろうと思うんです。
で、なんですよ。
僕は先送りを、このフェアバーンのこの図を見て、
まずこういうことだろうと、
アンコンシャスネスのレベルに、
良いも悪いも両方置いてあるということからしても、
良いものに行くとき、僕ら無意識じゃないですよね。
ここをよくよく考えたんですよ。
ここに無意識とか全意識って書いてあるだろうかと思って、
27:01
この図を探したんですよ。
最初僕フェアバーンだと思ってなくて、
これクラインだと思ってたんで、
クラインの本ずっと探してて全然見つからなくて困ってたんだけど、
北山さんの本たまたま読んでたら、
フェアバーンの本に書いてあるっていう風に書いてあったんですよ。
で、フェアバーンの本を読んだはずだなと思ってずっと探していたら、
何のことはないページに折り目がついてあって、
超従業みたいな顔をしていたんですよ。
そこにレシートまで挟まっててね。
そこでなんですよ。
なんでこういう失格が起こるんだろうっていうのも面白いんだけど、
とりあえずいいとして、
良いものに行っちゃうのは無意識じゃないんですよね。
良いギャンブルに行くためにパチンコ屋に並ぶとか、
良いアルコールに浸るためにお酒買ってくるとか、
無意識でやってないじゃないですか。
ポイントは良さをそこに見ている、
その良さを見させる力が無意識に働くわけです。
だからここは気をつけなければどうにもならなくて、
だから私はワクワク感とかいった時に、
うーんって思うんですよ。
人事だからね、究極的には。
お客様だとしても僕自身のことじゃないから、
ワクワク感に向かっていって悪いわけじゃないって思うじゃないですか。
悪いわけじゃないんだけど、ワクワク感かって思うんですよ。
それって良い対象だからね。
ほとんどの場合そうだから。
ワクワク感に向かうということは、
多分何かを先送ることになるんですよ。
何かをやろうとした時ってワクワクしないんですよね、
私の実感では。
全くしないんですよ。
これが倉園さんの言う平安とか中央と完全に一致するのかは分からないんだけど、
僕の漢字ではもっと穏やかなんですよね。
これはパパレイコさんがよく書くことなんだけど、
境界連人格構造というものを心に持っている人にとっては、
この穏やかな漢字というものは、
恐怖あるいは空虚だという、
つまり、ある意味ではそういう心理状態って確かにあって、
二日酔いの時の何に向かってもいけない時の漢字ってあるじゃないですか。
舌はザラザラするし、水飲んでもすっきりしないしみたいな、
ああいう感覚の人にとっては、
良いも悪いもないこのニュートラルな世界っていうのは、
辛いのかもしれないですね。
で、嫌なタスクに向かおうとした時って、
こういう漢字になるんだろうなって思うんですよ。
でも、二日酔いならどうにもならないんだけど、
このニュートラルなはずのものが悪く感じると、
むなしく感じるというか、
憎らしく感じる時は、
憎らしく感じるってケースは多いと思うんだけど、
完全にイリュージョンだと僕は思うんですね。
これは悪い対象の方に、
30:01
今度は悪い対象に対象を見させるというか、
現実を見させる無意識に対して、
悪い対象に対象を見させるというか、
対象を見させるというか、
現実を見させる無意識の力が機能しちゃっているんですよ。
ギャンブルに引っ掛ける時は、
これが魅惑する、つまりものを良い対象化する、
ワクワクさせる、そういう無意識の力のせいで、
変に、僕の場合はファン座とかがね、
変にキラキラしちゃうんですよ。
ここに行けば、もう一つある。
この魅惑する対象は、
僕に万能感を与えてくれるんですよね。
これ変な話なんですよ。
この魅惑する対象があると、
多分お酒がやめられない人は、
酒を飲むと自分が万能になったような気に浸れるっていう、
その予感があるから、やめられないんだと思うんですよ。
ギャンブルは僕はちょっと分かんないんですけどね。
でもギャンブルをすると自分は万能だとか、
善能だとかいう感じを抱ける何かがあるんじゃないかな、
という風に思います。
これがですね、うっすらとある時にそれに引っかかるんだけど、
この魅惑ってつまり、無能感じゃないですか。
完全なの。
この無能感に、
つまりこのセンターから外れた時は、
どっちかに行かなきゃいけないんですね。
だから白黒思考になるんです。
完璧主義だったり、
完璧にできるか何もできないかみたいになるのって、
変じゃないですか。
そのどっちでもないことしか我々はできないはずなんだけれども、
そのどっちかしかできないことになっちゃうんですよ。
完璧でなければ無能なんですね。
これが一番軽く出た時に起こるのが、
多分僕が思うにヒステリーと脅迫なんだと思うんですね。
脅迫というのは部屋がきれいに片付いているか、
どこかにゴミが落ちている残念な状態かの
どっちかしかないっていう話じゃないですか。
だから完璧をどうしても思考してしまうんですよ。
でもこれはかなり緩やかな感じなんですね。
これが非常に酷くなると、
完璧の世界に行って、
つまりマッチを吸って天国に行くか、
そうなければもう雪の中、靴もない状態で
取り残されるかのどっちかを選べかになるわけですよ。
これであれば日時でもいいかで夢見るしかないって思うのは
当然だとも思うんですよね。
でも繰り返しになりますが、
私たちはそこの状況には置かれていないと思うんで、
酷いって言っても、
せいぜい言っても、
これ辛いのはわかります。
これから仕事しようというのに、
自分無能だと言うんでは、
仕事に圧倒される、
これがハードルの高さを生んでるんだけど、
これは間違いなくイリュージョンなんですよ。
僕らはセントラルエゴになっている時が最強だから、
この話はいつか別のところで
もうちょっと詳しくする必要があるんですけどね。
加えて、
今日は簡易に言いますけれども、
これフェアバーンの図に無い問題として、
33:00
これをウィニコットが補ってくれていると、
僕の頭の中では勝手に補っているんですよね。
これもまた専門家には怒られるかもしれないけど、
僕はこういう飛躍をしてもいいんですよ。
素人だから。
フェアバーンの言うセントラルエゴを包んでいるのが
環境としての母親なんですよ。
環境としての母親とセントラルエゴは
セットじゃないといけないんですね。
これとセントラルエゴを包んでいると、
セントラルエゴはセットじゃないといけないんですね。
これで僕らは
このニュートラルな現実にいるのですけれども、
あえて今日はそう言いますが、
にもかかわらず万能なんですよ。
この感覚のまま入れば万全なんだけど、
ここに
良い対象のイリュージョンに入って、
自分を完全にしようって考えた瞬間に、
転落した後に完全に丸裸で無能な自分が
そこに置き去りにされる。
これは悪い自分のイリュージョンなんですよ。
決してこれがニュートラルではないんですね。
ニュートラルな私というのは、
支援者がいるんですよ。
環境としての母親という。
私の本当のお母さんが助けてくれませんでしたというのは
この際無しにして、
そういうことではないんですよ。
例えば空気があるでしょうって話なんですよ。
空気ないと死んじゃうじゃないですか。
宇宙で空気あるところって極限られてますからね。
地球の表層だけですからね。
空気があるでしょうってことなんです。
あえて言うならね。
あと水もありますよね。
多分日本に暮らしていれば、
飲める水があると。
これらとセットで僕ら最強なんですよ。
少なくともその目の前にあるタスクが
片付けられないほど弱いってことは絶対ないんです。
そういうふうに思えるってときは、
すでにイリュージョンどっぷりだってことです。
だからいらないんですよ。
自分を万能にする魅惑の薬の何かとか、
映像とかそういうのいらないんですよ。
なくても大丈夫だから。
で、これから現実に向かおうというときに
その現実の価値をゼロにしたりしなければ
悪いイリュージョンを使うと
これ簡単にゼロになるんで。
すごい簡単になるんですよ。
そういうイリュージョンにまた浸りながら
SNSとか見ればすぐわかります。
どれほど多くの意味付けとイリュージョンを使って
脱価値化が図られているかと。
それは現実そのものじゃないかっていう脱価値化なんですよ。
現実の価値というものをグッと切り下げておくと。
木製の表面とかでは
僕ら本当に絶対生きられませんからね。
現実の価値っていうのは
今生きている現実の価値が大変高いと思うんですよね。
で、その大変高いというのが
なんていうんですかね。
この大変高い現実という
セントラルエゴと一緒に
環境としての母親に包まれている
36:01
この大変価値の高い現実と
現実をいいと悪いに分けた
分割したものの見方っていうのは
両立しないんですね。
どっちかのポジションに行ってしまうんです。
だから精神病部分と非精神病部分なんですよ。
両立しないじゃないですか。
この2つの状態は。
僕が思うところの変動体モードですね。
この変動体モードと
変動体が活性化していないモードっていうのは
両立しないんですよ。
これが両立するんだったら
その人は相当の人です。
発狂してるんじゃないかって感じもしなくはないです。
だからこのことは後からしか分からないんです。
変動体モードのど真ん中にいて
いやもう絶対にドラッグ入れないとダメだとか
絶対にギャンブル行かないと今日は無理だとか
絶対にこの妻に言いたいことを全部言い切って
バッチリへこませてやらないとダメだとか
思うんですけどね。
思うんだけど
それこそ僕の場合ファン座をここで見ておかないと
この仕事は無理だとか思うんだけど
そういう時には
もう僕は非精神病部分に入ってしまってるんで
センターからエゴが
センターからずれてしまったんで
その時には分からないんですよ。
だけれども後になると分かるんです。
なんであんな風に考えたんだろうって思うほど分かるんですよ。
だからレビューが必要ってわけじゃないですよ。
レビューをするってのはそういうことなんだけれども
しなくてもいいんだけども
いずれにしてもこれを行ったり来たりはするってことです。
そしてこの踏み外した状態で
少なくとも仕事はやれないってことですね。
だからこれが少なくなればなるほど
仕事がはかどるのは当たり前なんです。
つまりセンターから踏み外さなければ外さないほど
センターから踏み外してる時間が短ければ短いほどいいんですよ。
で、このセンターにいられる時は
僕ら必ず今ここにいるんですよ。
面白いことにですね。
完全にセンターから外れた時というのは
完全に現実を無視してるってことなので
絶対今ここにはいないはずなんですよね。
で、多くはわざわざセンターを外した時に
僕らは好き好んで外すわけだから
だって現実にいるのは容易じゃないですか。
目の前にある現実を見るとか
目の前で言われていることを聞くとか
非常に簡単じゃないですか。
何の能力もいらないじゃないですか。
これをわざわざやめるということはですね。
何かとってもいいことがそこにあるぞと思ってるから
に決まっていますよね。
これがマッチューリーの少女の話ですよ。
素晴らしい家族といういない家族のところに行きたくなるのは
よっぽどそれがいいところだからか
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無理やりものすごく嫌な夢を見せられているかの
いずれかですよ。
それが多分いい状態と
魅惑された状態か
悪夢を見させられた状態なんですよね。
で、この2つは
この2つこそが同じものなので
どっちかを見たら
必ず両方見る羽目になって
しばらく現実には
現実に帰ってきたくないからそもそもこれをやったんですもんね。
っていう話なんです。
これがだから
フェアバーンの本の201ページの図を見ると
これが構造として描かれていると。
この構造は
私は見ることによって
これは絶対センターにいなきゃダメだろうと
少なくともこのセンターにいないときに
仕事が進むはずがないよねと。
だってセンターじゃないところは
無意識の領域に置かれているわけですからね。
無意識に仕事を進めていたら変ですよね。
無意識に仕事が進められるって言うんだったら
寝てればその間勝手に仕事を進めるってことになってしまいますからね。
私はそれは信じられないので
起きてるしかないなってやっぱり思うんですよ。
仕事を進めるんだったら。
そしてこれはこの図を見れば分かるんですけど
決してそんなに辛いはずはない。
これが辛いときは繰り返しになっちゃいますけれども
悪夢を見ているせいなんですよね。
もうすでにその段階で仕事をしていないに等しいんですよ。
万が一無理やりその状態で仕事をしていたとしてもですね。
多分それは仕事には対して
なっていないんだろうと思いますね。