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  2. ライフハックと心身症【GMV930】
2024-02-05 48:58

ライフハックと心身症【GMV930】

コントロール幻想に頼らない。

サマリー

クラゾノさんに行ってみれば、一対一のセッションのようなものを受けさせていただきます。ジンマシンが引かれた後に、アトピーも一緒に治りました。トイレトレーニングの際の脳の制御、情緒問題や理想化、脱価値化についての話、心身症における身体表現とドラマの関係について考察されています。ライフハックの話に移ると、2008年のスマホの流行でライフハックもピークになりました。メモに例を挙げると、マニュアルがないため、書籍がマニュアルの代わりとなり、精神面がライフハックとして表現されます。ライフハックと心身症の関連性についても考察されています。仕事術として捉えられるライフハックは、ストレスや辛さを軽減する手段としての役割を果たしており、心身症のメカニズムとも関連しています。自己犠牲精神や幻想、コントロール感について語られるライフハックの記事と心身症の本を通して、仕事術の効果について深く考えます。

00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
2月、2月の今日は何日なの?
えーと、5日ですね。月曜日、朝9時42分です。
うん、寒いですね、はい。
この辺が今年の寒さの底なんじゃないかという気が、関東では本日雪が降るとか言っておりますけど、
あの雪予報ってTwitterでどころどころつぶやかれてる方いらっしゃいますけど、
すごいわかりにくいというか、ややこしいんですよね。
23区内でって言った時と東京都内でって言った時は広さが全然違うんで、
関東は、北部は雪めちゃくちゃ降るんですよ。
例えば群馬県の湊とか、もう豪雪地帯と言ってよくて、
今年はわかんないですけどね、南東だから。
トンネルを抜けたら雪国だったって有名なのがあるじゃないですか、アバタヤスナリの。
あれ多分僕は群馬県だと思うんですよ。
群馬県、関東じゃないですか。
だから関東で雪が降るっていうのは、全く平野部に大半の人は住んでるからですね。
関東に雪が降るでは意味があまりなくて、
結局は平野部にも降るって言った時、
ただしこの平野部にはより井町付近あたりとか本庄とか埼玉県もですね、
あの辺も入りますから。
この辺神奈川でもですね、多分箱根町とか、
私の家からは近いけれども、箱根町とかに雪が降るかどうかを
23区付近の人は多分全く興味がないと思うわけですね。
だから23区に降るってなったら、もう全然話が違うわけですよ。
大問題なんですよね。
要するに何でかっていうと、大混乱が起きるからですよね。
私が生まれた頃から関東で雪が降ると電車が一斉に、その数がおかしいんですよね。
一斉に止まるから大変なことになるんですけれども、
そこから50年近く経ってるのに、
結局のところ首都圏はほぼ雪対策をまともにやってないなって感じが、
まあ滅多に降らないですからね、結局。
そういうわけですね。
八王子に降るってのと、八王子は市ですけど、
千代田区に降るのは話が違うんですよね。
なのでまあ、今日は多分首都圏も降るのかもしれない。
いや、降るんでしょうね。
ただ、降るのと積もるのはまだ全然違いますからね、この辺は。
降っても翌日晴れると全部消えたりしますから、
最近は東北でも暖かいんで全部消える日もあるみたいですけどね、
昔は考えられない話でしたが、
まあそんなこんなでですね、
ちょっと気になるところではありますよね。
あまりお知らせというのが今はないんですけれども、
今日はですね、話のテーマが2つに分かれていて、
僕の頭の中で最近ずっとこれなんですよね。
分析の件とライフハックの件が、
水と油のようにパリッと分かれてしまっていて、
セパレートしちゃっていてですね、
僕の心の中では混ざってるんだけど、
両方するといいんでしょうけど、
両方すると一個一個別の話をしているような感じになっちゃって、
両方してみようかなと思っているわけですね。
この番組は実験的な側面が強い番組なんでね、
まずは分析系の話からいきたいんですけれども、
結局今日はライフハックの話をしたいと思ってるんですよね。
何を話したいかというと、
シンシンショウっていう本があってですね、
これは3カ月チャレンジの方にちょっとお勧めされたに近いんですけど、
こういうことがもっと起きてほしいというか、
もっと起きてもらうべく何かやろうと思っているんだけれども、
3カ月チャレンジは私がやっている中で、
私独自のプロジェクトとしては、
本当に稀に見る成功だと思っているわけですが、
滅多にこういうふうに、
これはうまくいってるしやってよかったっていうのは、
僕の中ではすごい少ないというか、
すごい頑張って、
例えば前回の失敗をしたとは全く思わないんですけど、
東京ライフハック研究会のように、
すごい頑張ってやったんだけど、
狙ったような結果にはならなかった気がするっていうのはいっぱいあるんですね。
あとは、私がやってるわけじゃないんだけれども、
大変、私がやってるわけなんだけれども、
私がこういうふうにやろうみたいに思ったわけじゃない、
なんとなくついてったらうまくいきましたっていうのも結構あって、
これで僕は生きてるようなところがあるんですけどね。
3ヶ月チャレンジのように、
私が一応主催し、温度取りをし、
これは狙った以上にすごくいい結果になったなーみたいなのはあんまりない。
そんなもんかもしれませんけどね。
しんしんしょうという本がお勧めされたというか、
読んでみてよかったというお話を伺って、
私も読んですごくよかったんですよ。
ただ、すごく読みにくい本なんですね。
タイトルがしんしんしょうというマッシグラでして、
あそこですよ。リブラリア戦書というね。
なんかこう、知ってる人は知ってるかな。
なんかこう、うる気あんのかそれっていうような、
いい表紙なんだけど、うる気があるようには見えない表紙ね。
みすず書房さんとかにもよく見られますね。
岩波さんもそういうの多いですね。
なんかこう、うるならもう少し考えないとダメだろうなという感じ。
昔はこれでも売れたのかもしれませんけどね。
で、アレクサンダー・ミッチャーリヒというのも、
なんか聞いたことないじゃないですか。
精神分析詳しい人でもあんまり聞かない名前だと思うわけですよ。
訳している人も、
多分そこそこ、そこそこというか有名な方ばっかりなのかもしれないけど、
私は知らない。
で、この心身症、葛藤としての病2とか書いてあってですね。
もうなんかこう、いかにもなわけです。
いかにもこう、大学で課題図書にでもされない限り、
普通は見かけることがなさそうな本。
で、この中でもですね、
版紙の方が読みにくい本だとは思います。
もっと今だったらこれを読みやすくされてるんじゃないかなと思うんですけど、
やっぱり非常に印象に強く残る。
そうだろうなっていう感じがする。
箇所が何箇所もあって、何箇所もあるんですよ。
そのうちの一つに、涙を流すというのは、
悲しみというものがこう、
悲しいと感情に感じた人が脳の中でこういう風になって、
何かを分泌させて涙を流すというのではないんだっていうね。
そういう風に思っちゃうじゃないですか、私たちは。
原因がそういう心理的なものであれですね、
脳内で起きて、こういうプロセスを経て、
涙を押し出すぐらいだ、そういう印象で。
そうじゃないんだってことをこの人が言っていてですね。
同時に起きるんだっていうね。
起床っていうのかな、その順番を追うとさっきみたいになると思うんですよ。
そこに間違いはないと思うんだけど。
同時に起きるって何を言いたいかというとですね、
心の中に悲しい、例えば人は悲しいって言うこともありますよね。
悲しそうな顔をするってこともありますけれども、
何か心が悲しみを表現するとか、言葉で悲しみを表現するとかありますよね。
涙というのは身体が悲しみを表現している、
つまり身体が悲しんでいるというのが泣くってことなんだっていう。
今の説明の2つに違いあるのって思われるかもしれないけど、
僕はこれは重大な違いがあると思うんですよ。
ご飯食べてる方いたら申し訳ないですけどね、
下痢ってよくあるじゃないですか、ストレスから下痢をする。
その見方やめろってことをこの著者アレクサンダー言ってて、
つまりストレスを受けました、胃腸の調子がおかしくなって、
さっきの涙と同じですよ。
起床を追うわけですよ、私たちはね。
AになりBになりCになりDになりで胃が収縮するとか、
わからないですよ、僕ド素人なんで適当喋ってますけど、
コルチゾールが分泌されて、うんたらかんたらで、
大腸の働きが水分吸収がどうったらこうたらになって下痢をする。
それやめろってことなんですよ、アレクサンダーが言ってるの。
そうじゃないんだと。
涙が悲しみの身体的表現であるならば、
下痢とは身体による不安の表現なんだ。
こう聞くと、え、おかしくないって思わないですかね。
それはなんかオカルトっぽくないっていう。
さっきのじゃあ涙と今の下痢はどう違うんだって話が、
僕はこのアレクサンダーの意見の方がはるかにしっくりくるんですよね。
そう捉えると、なるほどなって思うんですよ。
これによって悪いものを食べたから、
それこそ生アキとかね、
外で生アキ食べちゃったら下痢しましたっていうのと、
すごい明日のプレゼンが辛いっていうふうに思ってたら下痢しましたっていうのとは、
全然違うじゃないですか。
でも、この大腸がうんたらかんたらの説明だと、
どっちも同じになるから、
その身体のいわゆるプロセスを追う説明は優れているとされていて、
私たちは大体そっちのモデルを信じてるんだけど、
これはですね、僕はその捉え方をしていると、
この心身症という問題を全然解決できないっていうのを、
2、3年前に知ったわけですよ。
猛烈に思い知ったわけですね。
よくこの番組で言ってますけど、
全身ジンマシン事件で、
これがクラゾノさんのところに、
ジンマシン出ましたって相談に行ったわけじゃないんだけど、
クラゾノさんとのワンオンワンセッション
クラゾノさんに行ってみれば、
ワンオンワンセッションみたいなのを受けさせてもらう。
で、ジンマシンが引いた後に、
アトピーもついでに治ったんです。
これすごい大事なポイントなんですね。
クラゾノさんのワンオンワンで、
直接効果が出たのは、
直接なのか間接なのか、
とにかく影響によっていい結果を私が得たのは、
ジンマシンの方なんですよ。
で、アトピーはそのついでに治ったんですよ。
僕はここから精神分析というのは、
ものすごく本気で、
僕なりにね、
ものすごく本気で勉強するようになったわけですよ。
シンシン症による精神分析の学び
このシンシン症というのが、
私の大きなエポックメイキングな出来事だったわけですね。
そんなにいいもんじゃないんだけどね。
つらいんでね、あれはね。
このシンシン症って、つまりそうなんですよ。
このシンシン症の中にも出てくるんだけど、
お尻の肛門周りに、
いっぱい出来物できちゃうおじいさんの、
かわいそうなおじいさんかな?
とにかく中年の男性の話が、
初老の男性の話が出てくるんですけど、
これは本当に正しいだろうなって思うんですよね。
この人はどうしてもね、
いろんな人に言い返せない、
屈服させられるっていう言い方ですんだけど、
めっちゃ気持ち上がるんですよね。
きちんとした人なんですね、すごく。
このきちんとしたっていうことと、
本当オカルトに思われるかもしれませんけれども、
フロイトは言ったわけですよ。
きちんとするということと、
肛門の関係を考えろっていうのね。
何を言ってるかというと、
トイレトレーニングと肛門の関係
トイレトレーニングの話をしてるわけですよ。
特に大きい方。
やっぱり大きい方を、
ある意味、
おむつの中にいくらしても
良かった時代があったわけですよ。
あんまり気持ちは良くないかもしれないけど、
幸せな時代だったわけですね。
なんとかしてくれちゃうわけですよ、母親が。
普通はね、多くの場合はって言っておきますね。
一般的にはそうなんですよ。
だけどそれを、
トイレットトレーニングと脳のコントロール
肛門にまつわる筋肉の
発達をさせてですね、
脳でコントロールしろと言われる
こうな時代が始まるわけですよ。
これをトイレットトレーニング
というわけですね。
そうすると、以降は、
今までOKだったことがダメになるんですよ。
これってひどいじゃないですか、ある意味。
美容によっては。
今までOKだったものをダメにされるのは、
困るわけですよ。
そんなね、まだ言葉もまともに
喋れない頃から、
OKOKみたいに言われてたのがダメダメ、
もうそれやったら最悪だっていう、
これがおかしいわけですよ。
僕らの情緒にはこういう問題がいっぱいあるんですよ。
あの、
一気に逆転しちゃうというやつね。
昨日、昨日じゃないな、前回も
ここで喋りましたけど、
うつぱんの話が
そうだったじゃないですか、うつぱんさんは
後にも、大学に受かれば
一切は免罪。
落ちればもう人生おしまい。
極端ですよね、この2つは。
トイレットトレーニングみたいなところに
こういう極端さがね、
あるわけですよ。
一気に反転してしまうっていうのかな。
情緒がついていかなくなるのは
大体この種の話なんですよ。
精神分析家が注目するポイントも
大体この種の話なんですよ。
理想化と脱価値化の話ですね。
あの人はもう本当に
素晴らしい人で、みたいな。
恋愛してるとすぐ怒りますよね。
あれ以上の彼氏はいない
みたいなことを言ってたのに
あいつはクズで最低の男だみたいな。
急にどうしてそうなるんだ
ぐらいな感じで。
浮気をしたのかとかもあるのかもしれないけど
この評定はおかしいでしょう
という話なんですよ。
で、マイケル・バリントという
精神分析家が
ジェットコースターを取り上げましたね。
これも非常にいい例ですよね。
もう何度も何度も
1日中乗ってる人もいれば
キャーとか言って1日中乗ってる人もいれば
もうそもそも一生乗れない
みたいなことを言う人もいますよね。
この量化的なのは何なのかというと
量化ってのは
アンビバレントの量化ですけど
両方の価値ね。
常に我々は注目する
ポイントですよね。
客観性がそこにないぞと
あると思うんですよ。
どんな人でもあると思ってしまう。
ジェットコースター乗れない人は
いやもうあれ絶対自分無理だから
って思ってますよね。
危険だと。
でもあんなに喜んで乗る人達はどうして
っていうのが
主観で決めることではないんですか
っていうのが分からないわけですよね。
ここは本当に大事なポイントですよ。
バンジージャンプとかもきっとそう。
バンジージャンプとかもきっとそう。
先日じゃなくてもだいぶ前に
出した高梨さんって方と
エフタさんって方の教授に
容量の悪い人への
仕事従事図鑑だっけ
のためのかな
あそこに出てくるんですよね。
高梨さんが社長に
怒られてくださいと。
怒られるのはダメなんだってことですよね。
バンジージャンプなんじゃないですかね。
でやっぱり
あればあれ思うわけじゃないですか。
怒られてもなんとも思わない人っているじゃないですか。
怒られるのがね
反日時に怒られたいっていう人はさすがにいないと思うんだけど
量価的だってことですよね。
いやもう雇ってもらえるなら
怒られるくらい全然いいですよ
っていう人から
いや怒られるんだったらもうこの会社来ません
っていう人までいるわけですよね。
ここに量価的なものがある。
でそれは客観的なんでしょうか
ってことなんですよね。
そうじゃないんじゃないのかと。
でも客観的としか思えないほど
バンジージャンプは無理なんですよ。
無理な人からしてみれば。
それはなんでか。
その主観どうして
主観というのはつまり
イマジネーションなんですかね。
イマジネーションなわけですよね。
客観ではないから現実とは言い切れない。
言えない。
この他の人にはそれは
知覚できない何かがある。
つまりお化けなわけですよ。
お化けというのは恐ろしい人にとっては
もう本当に恐ろしい。
バンジージャンプと全く変わらない。
つまりその人にとってお化けは本当にいるわけですよね。
だけど
当然いないと思う人からするとですね。
いや墓場に夜行くのが何が恐ろしいんですか。
っていう話になってしまう。
昼と何も変わらないじゃない。
その人にとってお化けは存在しない。
ですよね。
だから客観というものはないんだ。
特にこの種の
ジェットコースターとかバンジージャンプとか
怒られることとか
トイレトレーニングとかね。
人間の心に
凌駕を作り出してしまうところに
すごい注目する。
情緒問題と理想化・脱価値化
でこのさっき心身書に出てきた
かわいそうな
男性は
奥さんとかにもいいくるめられてですね。
例えば
交通事故にあって
賠償金取りましたと。
きちんとした人だから
これでもう農場をきちんと
交通事故にあった賠償金で
農場をきちんとしたいってところは
強迫的なところがあるわけですけども
あぜ道をまっすぐにしたい。
あぜ道を曲がっているのは嫌なんですよ。
そういう
あれなんですよ。
この言葉で言う拷問期っていう
わけですね。
拷問期へのこだわりがある。
トイレはきちんとしないとみたいな。
ムチとかには
少しも出ないようにして
トイレに行って綺麗にして
お母さんに褒めてもらうんだっていう
こういうね
この気持ちっていうのが
逆転するとそれは褒めてもらって
綺麗だと素晴らしいって感じるのかもしれないけど
ここには万能
幻想があるんで
ちょっとでも出てしまったら
一大事だってことになるわけじゃないですか。
これが
こういう気持ちをいろんなところに
投影していくわけですね。
お金をちょっとでも無駄にしてしまうのは
とんでもないことなんで。
それはお漏らしするのと何ら変わらないぐらい
ひどい話で
だからきちっとお金は
通帳のお金も
何もかも1円単位で
漏らすことなく
この漏らすって言葉を
僕は聞くと必ずこの件について
今考えるようになったわけですよ。
非常に新鮮的だなって思うんですよね。
だって何で漏れるって言葉を
心身症における身体表現とドラマ
ここで
使うんだろうっていう話ですよね。
だから水漏れとかね
非常にいろんなところに
この感覚っていうのが私たちは
持ってる気がするんですよね。
とにかく綺麗に
きちんとまっすぐに
あの
つまりコントロールってことだ
ですよね、これはね。
だけどこの不幸な方はですね
心身傷に登場する不幸な方は
奥さんに取られちゃうわけですよ。
いろいろあってね
話はややこしいんだけど
要は奥さんに取られて
なぜ道まっすぐにできないわけですね。
でもこの人はきちんとしてたいから
奥さんと口汚く
罵り合うとかがやなわけですね。
あるいは奥さんの気持ちも
なんていうのかな
クリーンなものにしたい
わけでしょうね。だから俺が我慢しよう
ってことになるわけですよ。
むやみに肛門に力を入れてると
何が起こるかっていうとその付近に
吹き出物がいっぱいできると
怒りの表現ですよね。
怒りの身体表現。
いやそんなのオカルトでしょうって
思うじゃないですか。僕も
思ってました、はっきり言って。
思ってた時代はあります、フロイトの話に。
でも自分がこれになってみるとね
自分がこれになってみると
うわー
出てるわー全身から出てるわー
みたいな感じでね。僕の場合は肛門の
周りじゃなかったけど。で
顔には出ないんですよ。一つもですよ。
人に知られるという意味で
つまり他人には知られないんですよ。
家族にだけこれを
知らせたいという意図がないならば
一体こんな現象が
なんで起きるのかと。いやでも
お医者様とかね
少なくとも身体症状の方を
深く疑う人は
いやいやそれはでも体が
おかしいんじゃないのと。だから病院行きなよ
というわけで僕も病院に行ったわけですね。
リューマ治科から
胃カメラ脳部から内視鏡検査から
よくありがちですよね。
こういうのってね。10件ぐらい
試すんだけど、はい正常です。
健康です。異常はバッチリです。
みたいなね。どこに行っても
出てこないわけです。なんにも体から
出てこない。こういうのを心身症
というわけですね。で
倉園さんにワンワンしたら
速攻消えていくっていうね。ボカルト
になっちゃいますよね本当に。
でも私たちは
泣くことをボカルトだとは思いませんよね。
考えてみると
なんですごく嬉しかったりすごく悲しかったり
千葉ロッテが同点スリーラン
打ったりすると目から水が出てくるのか。
ボカルトじゃないですか。
なんでなのかっていうですね。
さっぱり
わからん話であると思うんですよね。
これは身体表現
というものが
自然に起きるものだと
考えたらいいと思うわけですよ。
そこのプロセスを時間差で
追うんじゃなくてですね。
お医者さんとか解剖学とか
人体の勉強してる人は
ここをプロセスとして順番で追っていくのは
すごい大事だと思うんですけど
我々が認識するべきことは
そうじゃなくて
胃がね
痛いみたいになったときに
昨日悪いものを食べたんじゃないか
っていうその時間差のことを考えるのは
悪くないと思うんですよね。
でもそれと同時に
これが心の表現であったら
どういう意味なんだろうっていうのを
同時に考えるのも
悪くないことだと思うんですよ。
だって我々は
悲しければ泣くんだから
そこを涙が出る脳内プロセスを追ってても
しょうがないじゃないですか。
そうじゃないですよね。
何が起きたから身体までが動員されて
泣くという表現を
使う必要を
泣くという表現を使うということは
これはコミュニケートしたいということですからね
誰かと。
そういう表現をどうして使っているんだろう
なぜ身体というものに
表現させたんだろう
身体に表現させるというのは劇ですよね。
ドラマじゃないですか。
僕はどういうドラマを今演じているんだろう
ってことも
同時にあると思うんですよ。
だから私は最近腸の調子がおかしくなったり
あのー
あんまり今日はきれいな話になっていませんけど
そういうことが起きたらですね
これだけを考えるのでやめるということは
しないようにしているわけですよ。
些細なことが
あ、些細なことだったのかもしれないけど
些細なことなんですから
だってトイレとトレーニングなんて
些細なことじゃないですか。
男の子とか女の子とか
ちっちゃい子にとってだけですよね。
それがすごく大問題になってくるのは
些細なことなわけです。
だけど、些細かどうかは関係ないんですよ。
これを身体表現になった
ということは
なんかこれを身体で表現したい
わけがあるんではないか
というふうに考えてみると
あるんですよ。少なからずあるんですよね。
そういうのが。
で、あるんじゃないか。
面白いことにこれは
あるんじゃないかって真剣に考え始めると
胃の痛み消えたりするんですよ。
こういう経験をしてみないとですね
心身症というものが
アレキサンダーが書いていることは
本当にでだらめにしか見えなくなる
と思うんですよね。
というかね、観点から見ることによって
のみこの本は意味をなし始める
本なんですね。急速に
意味をなし始めるわけですよ。
量化的ってのがすごい
ポイントです。つまり
表現したいんだが表現したくない。
そうですよね。
あぜ道をまっすぐにしようと思ってたのに
子供の小遣いみたいに
使われてしまった入学金とかね
に使われてしまったお父さんは
めっちゃ腹が立つわけですよ。
あぜ道曲がってるのを見るたびに
バーってなると思うんですよね。
その人はじゃあ
その吹き出物を腹から出したいんですか
出したくないに決まってるじゃないですか。
でも出したいわけですよね。
怒りというものを何らかの形で表現しないと
もう頭おかしくないですよ。
そういう意味ではすごく出したいと
見えますよね。
両方の目的を持っている。
絶対ジンマシンなんか嬉しくないんだけど
でもジンマシンにしてでも
表してやらないと
もう気が済まないっていう状態。
これがつまり両方を
同時に意味している。
泣いてる時ってそうじゃないですか。
涙ボロボロ流して
うわー涙出したいわって思ってないと思うんですよね。
両家的ですよね。
あの種の行動はいつでもだいたい。
だからこの両方という
両方ということですね。
トイレトレーニングって
そういうもんですよね。
昔は幸せだったのかもしれない。
でも今はトイレでしたいじゃないですか。
そういう両家的なものって
私たちの中にはある。
好んでジェットコースター乗ってる人も
絶対あると思うんですよ。
怖いというのはあると思うんですね。
でも乗りたいわけじゃないですか。
これが分からないんですよ。
乗りたくない人はですね。
この両家的だっていう部分が
自分の中で多分
こういうスリルを味わうみたいに
言葉で簡単に直すということなんだけど
そういうのを抑え込んでる
という話だと思うんですね。
ここまでが
分析的な話で
一気にライフハックの話に
切り替えてみたいと。
今日は実験的にね。
なんでライフハックかというとですね。
先日ある本を教えてもらって
それがライフハックの社会学
みたいなタイトルで
なんだったっけな。
すぐ分かんなくなる。
なんでだろう。
アバさん
という方だと
思うんですけどね。
とにかく
山田さんだ。
山田陽子さんという方が
ライフハックの現場から
という社会学の記事。
本でもあるんですけどね。
制度者っていうところから出ていて。
多分山田陽子っていう検索が
時はカネナリ、
感情もカネナリっていうタイトルで
不思議なタイトルだなと思ったんですけど。
これでここに出てきている
ライフハックの話がですね。
一部のところで
ちょっと共有してみたらですね。
妙に受けたんで。
盛り上がる。
なんで盛り上がるんだろう。
ライフハックっていうのは。
私の属している
コミュニティがそうだからと
言ってしまえばそれまでですし
そうなんですけれども。
なんでこのライフハックっていうのは
どういう意味なんだろうなっていうのを
ずっと今考えつつですね。
なんかこれやっぱり
ライフハック的活動は
僕はしないだろうなって思うんだけど。
タスクシュートって
ライフハック的活動だと言われれば
そうですけどね。
ライフハックの話を
ちょっとしようと思ったわけですね。
さっきの新進症から
かけ離れていますよね。
僕の中ではこの2つしかテーマが
基本ないと言っていいんですよね。
ライフハックの
つまり何の話を
していきたいかというか。
まず最初に思ったのは
ライフハックのピーク
これは2009年8年の
ノスタルジーなんですよね。
僕の感覚からするとすでに。
あの頃は良かったよなみたいなね。
そういう感覚でしかないわけですよ。
あんなことはもう
起こらないよねみたいなね。
あれがね、良かったと思っている人ばっかり
じゃないかもしれませんけれども
私は大変牧歌的で
幸せな時代だったと思うわけですね。
どうしてかというと
盛り上がってたから
そんなことが家できたんですけれども
モレスキンとかね
ロディアとか
メモですね。
あるいはこう
いろんなガジェットとか
結構お金費やして
日曜とかに集まって
その後懇親会とか
行って飲み食いして
楽しくやってたわけですよ。
何だったんだろうと今思うとね。
いや、何だったかは
なんとなくは分かってるんだけど
ここの山田さんも
書いてるんですけど
趣味の世界だなっていう風に感じたと。
感じただけじゃなくて
まさに趣味の世界なんですよあれは。
簡単に言うと
釣りが大好きなおじさんが日曜に集まって
釣り談義に
花を咲かせて
懇親会に、というか飲み会に行って
全然変わらないわけですよ。
そういうことのね。
ただ、
名前がたまたま
ライフハックという名前になってしまいましたけれども
なってしまったというか
そういう名前がついたわけですけど
ああいう
精神運動と言ったら
ちょっと大げさですけど
そういうものは絶対に
どうせ起きたに違いはないと
僕は思うんですね。
それはなんでかというと
IT時代がやってきたせいだと思うんです。
それまでの
これは僕の感覚ですけど
道具ってものは
基本的にはマニュアルというものが
当然あって
基本的な目的は一つ
せいぜい二つ
まあ
ないし三つとか
あったかもしれないけど
少なかったわけですよ、目的が。
目的がマルチユースってのは
めったに道具には
ないことだったと思うんですね。
車なんかが一番
僕はいい例だと思うんです。
移動しかできないんですよ。
あれほどのお金をかけて
たまに居住空間にしたり
する方もいらっしゃいますが
基本そのまま
無理がありますよね。
移動のためのツールでしか
ないわけですよ。
で、だいたい道具ってそういうもの
なんですよ。
ご飯炊く
道具にしても電話にしても
電話って言ってもスマホじゃないですよ。
電話です。文字通り。
人と会話をすることしかできないやつね。
オースターにしても
パン焼くことしかできないわけですよ。
そういうものなんですよね。
けど
アゾコンってものが出てきてから
話が一転した
わけですよ。何のためのものかが
人によって全然違う。
ここにインターネットがくっついてくると
もうなんだかわけがわからないというか
使い道が
特定できない。
使い道の特定できないものは
マニュアルがなくなるんですよ。
第一に。
なぜならば、使い道によってマニュアルの
書き方変わるんで
そうすると無限にマニュアルが
太くなるしかない。
そんなものを作る。
それに近いね。
コジェみたいなマニュアルがパソコンについてた時代って
ありましたけど、現実的じゃないですよね。
あれをつける方も無理があるし
マニュアルの不在
読む方は一層無理がある。
電話帳を
ゴミに出す時のような
時代にしか
引き起こさないので
いずれにしても消えたわけです。
今スマホだってそうだと思うんですよね。
スマホが出た時に
徹底的だったと思うんですよ。
ちょうどスマホが流星を誇った
2008年の記事だったんで
まさにそういう時代に
ライフハックもある意味
ピークを迎えたわけですよね。
メモっていうのは
象徴的なんですよ。
メモって文具の中では
ペンもそうですけれども
使い道が定まらない。
マニュアルはいらないと思うんだけど
メモ術みたいなものって
あるじゃないですか。
要するにマニュアルなんですよね。
製品には
マニュアルがつかなくなると
本屋にマニュアルを売り出すようになるわけですよね。
そのマニュアルというものが
不在のところを埋め合わせると。
精神面の表現
この多分精神が
ライフハックなんだと思うんですよ。
マニュアルがないなら
書いちゃいましょうと。
マニュアルとトラブルシューティングの
セットですよね。
これを
ライフハックと称しているんですよ。
その対象っていうのは
いつもそうなんだけど
マルチユースのものばっかりになると思うんですよ。
カメラとか
録音機がやや
存在して
スマホは圧倒的ですよ。
何に使うのかさっぱりわからないものが
非常にいいわけです。
何に使うかが
めちゃくちゃはっきりしているものについてのライフハックって
なかなか
評価されないと思うんですよね。
掃除機とか掃除機のライフハックとか
いらないじゃないですか。
掃除機は掃除をするためのもので
しかもゴミを吸い取るという
誰が見ても子供が見てもすぐ
それは何にするものだかがわかるもの。
ライフハックはいらないわけですよね。
使い方は
わかってるよってことになる。
使い方がわからないもの。
インターネットとかSNSとか
そういったものにライフハックというものが
向かっていくというか
隙間を埋めるようにして出てくる。
そういう使い方じゃなくて
こうやったほうがいいよっていう
ライフハックと仕事術
ある意味余計な仕方なわけですよ。
この
ピークが2008年だった
ということは
やっぱりスマホをどう使って
つまり逆に言うとではないんだけど
そういうものが出てきたときに
これが仕事にも使えるんではないか
っていう使えるんですけどね。
えーと
なんていうんですかね
目の早い人っていうんですかね
そういうものが好きで
先走る人は
仕事に使えるかどうか
瀬戸際か使えなかった時代から
無理してでも仕事に回していくっていう
そういう精神状態になったんだろうと。
ここに名前がついたんですね。
それがライフハックという名前だった。
仕事術って名前だった時もあるんだけど
仕事術だともっとこう
幅が広いじゃないですか。
この道具のユースケースに
ただひたすら向かうという
のだけに限定する
そうする必要が出るほど
ITがその頃
一気にこう世の中に
湧き出てきたというか
そして個人ユースになった
っていうことですよね。
会社が支給する会社のツール
という状態の先までいった
ような気がするんですよ。
だからすごく
その記事には
よく書かれていたわけですね。
当時関西ライフハック研究会
だと思うんですけどが
調査対象というものになっていて
これだけでも読んでいて
面白いなって思ったんだけど
調査対象になるんだな
社会学ではと。
もちろんGTTも出てきて
そういうもので
個人が充実していて
いいよねみたいな
なんかこう行為的に書かれている
わけですよ。
ただどっちつかずな部分を
残すんですけどね。
学者さんの書いている論文なんで
だいたいどっちつかずな部分
だって手放しで称賛すると
ペンですからね。
研究ってそういう風ですよね。
手放しでは
褒めたたえない。
そういう感じで
ライフハックの話が
研究されていた
わけです。
僕は今言ったような感じで
ライフハックというのを見ていて
ですね。
でも
ここにある種の
なんですかね
だから私はメンタルの方に向かったんだな
と思うんですけど
ある種の
ネガティブなものが
持ち込まれたと思うんですね。
いろんなその後のライフハックの変遷って
あるんだけども
ネガティブなっていうのはつまり
仕事ってつらいよね
できればやりたくないよな
っていうそういうものが
ここに入ったと思うんですよ。
これは必然だとも
思うんですけど
ある意味ライフハックとは
別のところからやってきた
とは思うんですね。
要は
身体化と行動化
仕事が効率化できるとか
時短になるというのは
辛さが減るっていう意味にも
当然取れるわけです。
生産性を高めるっていうのは
表現としては
ライフハックに
目的と定義を与えたのであって
私はただ
使い道が定まっていない
ツールが仕事にも役に立つのではないか
というところで
合流させたのがライフハックだと思うんだけども
それが生産性
効率化
時短という話になってくると
いや仕事辛くて
っていう精神が
ここに入ってくると思うんですよ。
それが容量が悪い人のための
仕事術
とかっていう
表現になってくると思うんです。
それはもともと
ライフと直接は
関係なかったと思うんだけども
あれですよ
簡単に言うとマグロ船にはとても乗れません
っていう心理が
ライフハックと合流していく
そういう話じゃないかなって思うんですね。
ここに
僕の多分
精神分析とか心身症
といった
話との合流点が
たぶんちらつくんだろうな
僕はそこすっごく意識してたんだよね
っていうところでようやく
この話2つの話をした
意味が出てきた気がするんですね。
精神分析には
アクティングアウトって言葉があるんですね。
行動化って言うんですけど
つまり
葛藤は行動化されることがあるわけで
心身症っていうのは身体化とも
言われるわけですよ。
つまり私なんかもそうでしたし
例えば明日プレゼンがある
って言ってたらお腹が
キリキリしてきたみたいな
それを現在の表現では
なんて言うんですかね
説明はプロセスで
なされるんだけど実は
理由はしてないんですよね。
ストレスがコルチゾールを分泌し
って話になった時に
ストレスはもう終わってるんですよね。
身体に
どう表現されるのかの説明としては
すごくこれは
良いと思うんですよね。
目に見える形にしていて
偉い説明の仕方なんですけれども
これってつまりストレスが
身体ではこういう変遷を遂げて
身体ではこう表現されます
って話になっちゃってるわけですよ。
さっきのアレクサンダーさんが
言ったのはそういう説明は捨てろ
って話なんですよ。捨てろってのは
捨てなくてもいいと思うんだけど
我々はこういうのは捨てなきゃいけない
みたいなズバッと書くんですよね。
何が言いたいかというと
その胃のキリキリ
というのがストレスというものの
身体的な
捉え方なんだっていう
それ同じことなんじゃないのって感じも
すると思うんですけど
大事なのは
そこで
ストレスというものは依然として
あるんだってことなんですよね。身体の上というのが
身体の中で
ストレスがコルチゾールに
っていう話を始めると
体の部分ではストレス関係なく機械的に
身体が動いてるみたいじゃないですか。
でも我々は身体を持った生き物としては
そう感じてないですよね。
相変わらずすごい辛いですよね。さらに何か
辛さが追加されたような感じがして
辛いと。
こっちの辛さの方、身体での
辛さ、心での辛さみたいなものを
同時に
受け止めなさいね
っていう話を多分してるんだと思うんです。
だからこの身体化って
精神分析では
言ったりするんですよ。でこれを行動に
表したら行動化っていうんですよ。
例えば
そんなに胃がおかしく
なってるのに
プレゼンだって言うと
すごい甘いアイスを
いっぱい食べるみたいな行動化が
起こるわけですね。
もっとすごく奇妙になってくると
夜叫び出すとかね。
そんなことは
プレゼンぐらいではないかもしれないけど
分からないですからね、そんなことはね。
だから行動化、身体化
ってのはですね
心身症との関連性
つまり表現な
わけですよね。何かを誰かに
訴えていると。訴える相手が
いないとわけ分かんなく
見えるんだけれども
多分どこかにそれはあるんだ
という話なんですね。
ツパンさんがほら、ゴミを漁っているカラスに
向かって突進していって
大声を上げるっていうシーンが
漫画に描かれてるんですけど
あれは行動化の一つだと思うんですよ。
分かりやすいかもしれない
行動化なんだけど、人生すごいうまくいかないから
カラスに向かって
怒るっていうのは。でも
分かりにくいですよね。パッとするを見た
人の立場からすると。
そういうような
ことが私たちはいろんな
形で、例えば
ゲームをするとか
SNSを眺めるとか
いろんな形で実は
細かな形では
人目につかないような形では
やっているに違いないと思うんですよ。
そのうちの一つに
先送りってものがあって
この辺で僕が
ライフハックとか仕事術というものを
メンタルに扱う時の
話としては見えてくる部分が
あるんだと思っているんですね。
この問題は
僕は今まではずっと
基本はライフハックで何とかしようと思ってたんですけど
これをライフハックで
何とかするということはつまり
例えば
カラスに突進したい
気持ちになった時でもいいんですけど
その時に
一つでも自分の問題を解決するべく
タスク上に乗せようっていうのは
辛すぎて無理だ
と思っているんですよね。もう既に。
既に。
胃がキリキリしている時に
それでもプレゼンの資料を装飾して
うまくいけば
全てが丸く収まるからっていうのは
ストイックすぎるし
何かを
強引に無視しすぎている
感じがするんですよ。
だから僕はもう
そっちの解決というのは
調子がいい時に限定し
調子が悪くなって
きたらですね
きたら
心身傷みたいな観点に
切り替えた方が
というかそっちを遥かに重視した方が
無理がないだろうな
って感じがするんですよね。
やっぱり
さっきのアレクサンダーの
本に出てきた
男の人はですね
何とかしてそれを奥さんに
伝えると。
で、その時に
自己犠牲とか
何て言うんですかね
自分が子供に対抗して
トイレの時に
一生懸命我慢しているっていう
そのメンタルに戻らない
現実の
何て言うんですかね
現実の
現実との
やり取りの仕方ですよね。
そういう方向に向かう
意識を発揮しないと
多分永遠に
身体に
体に表現してもらう
自体を誰かが分かってくれるようになるまで
自分は胸に抑え込む
とかそういう風になっちゃう
と思うんですよ。
僕はその仕事術というものは
実はその一環になりかねない
っていうのが
言いたいことなんですよね。
この番組で多分。
結局は私が仕事をちゃんとすればいいんだ
っていう発想
取りがちじゃないですか。
これ万能幻想の一種だと思うんですよ。
あの
自虐的世話役って言葉も
精神分析に出てくるんですけど
そういう風にものを収めてしまう
人っていらっしゃいますよね。
家で例えば
子供が勉強しない
お父さんは外にいてパッシングばっかりしてる
みたいな。だから私が頑張ろうと
お母さんもめっちゃ頑張っちゃうみたいな
そういう発想ですよね。
それ、あぜ道をまっすぐにするお金
取られたおじさんと
よく似た発想だと思うんですよ。
そういう風にね
自分がなんとかすべて
自己犠牲精神や幻想について
頑張ればこの事態を救えるんだ
っていう発想を取ってしまう。
ものすごく自己犠牲精神が強いんだけど
ある種の対抗が
そこで起こってるっていう風に
見てみる必要もある
対抗というのは子供帰りなんだけれども
なんかこう
けなげな女の子が頑張ってるみたいな
ところまで
後退しているんですよね。もっとできることが
あるんじゃないかと。少なくとも
勉強しなさいと言うみたいな
そういう話もあるわけじゃないですか。
そこに無力感も積もってくるんだ
と思うんですけれども。
で、えっと
そうやって現実と関わる
というのをしないときには
必ず僕らは万能
幻想ってものをそこに
持ち込むわけですよ。
つまり一見した通り
自己犠牲精神がすごい高い人というのは
自分の能力に
ある種の幻想を抱いている
私がめっちゃ頑張れば
この家全体を救い
救うことは可能だっていう
その発想は
自分のめっちゃ頑張る能力を
すごく高く評価していると
ほとんど無限に評価している
わけですよ。だからこれは万能
幻想っていうんだと思うんですよね。
そして、ついでに
その発想というものは
自分が
壊れない存在だ
ぐらいに思ってますよね。
自分は大丈夫なんだ
っていうね。その根拠はどこにも
ないんだけども、それもなんか
自分は無限に頑張れるみたいな
話になってると。ついでに
言っておきたいんですけれども
グッドファイブスはこういう発想ではない
ですからね。ランドのケイゾーさんの
グッドファイブスも
人によってはこういう風に受け止め
かねないなって思うときがあるんだけれども
そういう風に受け止めちゃってる人が
いるなって思うんだけど
あそこに自己犠牲精神ってゼロなんですよ。
コントロール感と仕事術
聞きしたところそれは不思議に思うかもしれないけど
それはですね
一つ意識っていう観念で
自己犠牲精神はゼロになっている
はずなんですよね。
ここで私がめっちゃ頑張れば
って言ってる人は
私と夫とか私と子供を
分離して捉えているんですよ。
彼らは一種の
なんちゅんだろうな
悪人とは言わないけど
ダメ人間なわけですよね。でも私は
そうじゃないから
自分だって発想を取るっていうところには
一つ意識ではないものが
そこにはあるはずなんですよね。
彼らと私は違うっていうことですよ。
だからここに
自己犠牲というか
その過剰な辛さを
ちょい込まずに結局のところ
依頼されたことをやるっていう
話にはなるのかもしれないんだけど
でも依頼されたことをやるのと
子供は放っておいて
お父さんもパチンコで放っておいて
私が
家と仕事と家事と
全部両立してみせるみたいなのは
やっぱり誰にも
依頼されてないですからね。
そういう意味では
違う話だと思うんです。
これは自虐的世話役っていう
割と有名な
言葉がありまして
これも分析に出てくる
ところどころ出てくるんですけれども
この世話役というよりも
自虐的というよりも
自虐的はすごい大事なんだと思うんですけど
そしてこの
そういう万能空想を抱くようになったのは
何でかっていう話が
大事かなと思うんですね。
そこにコントロール幻想がありますよね。
混ぜ道まっすぐにしたい人と
よく似た幻想があります。
いずれは
自分のそれが分かってくれるはずだ
っていうコントロール感を
どこまでもどこまでも発揮しようとして
体が
体にメッセージを出させている
というのか
体からメッセージが出ちゃっているというのか
その辺がすごく
ややこしいとは思うんですけれども
そこに僕は
仕事術をやらないほうがいいと思うんですよ。
仕事術でこの事態を
全部救ってみせるんだ
ということで
自分がやるべきことを膨大なリストにして
これ全部やれば
世界は救われる
っていうのってやめたほうがいいと思うんですよ。
それは
全然誰もその人に
望んでいない結果を
結果としてその人に
その人自身も望まない結末を
迎える羽目になるんじゃないかな
というのを
ちょっと国家的な
ライフパックの記事を読んだり
心身症の本を読んでいるうちに
僕の頭の中でぐるぐるし始めたのを
今喋っているわけですね。
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