1. 人生相談のための精神分析的ラジオ
  2. 私たちはみんなどこか幼い。ま..
2025-04-14 57:56

私たちはみんなどこか幼い。まごつくことがあって当たり前だと思う【1167】

シンデレラは夢から覚めなければならない。
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Summary

このポッドキャスト第1167回では、精神分析に関する新たな視点が紹介され、参加者が実生活でどのようにその知識を活用しているかが語られています。山崎孝明さんの言葉を通じて、専門的な知識と実践の関係について深く考察されています。エピソードでは、精神分析と関連するさまざまな人間関係の複雑さが探求されています。特に、精神的な健康と金銭的な関係性、宗教との違いが考察され、現代的なカウンセリングの変化や、それによる曖昧さについて議論されています。 また、サイコロジーと心理的な立場の違いについても探求されています。シンデレラの物語を通じて、クライアント目線の重要性や心理臨床における複雑さが取り上げられています。自己成長の過程で直面する葛藤や、コミュニティの役割についても語られています。幼少期の夢と大人としての現実のギャップに焦点が当てられ、理想化と脱価値化の心理的メカニズムが探求されています。 さらに、成長やアイデンティティの葛藤に伴う幼さについても触れられ、シンデレラの物語を用いて社会的な役割の変化が考察されます。精神分析を通じて内面的な成長とその難しさが探ります。

精神分析の新たな視点
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1167回をお送りします。
4月14日月曜日、朝7時24分です。 かなり久しぶりに7時30分より前ですね。
J松崎という名称に改称したポッドキャストで、J松崎というタイトルでありながら、私も出ているわけですが、
このポッドキャストでですね、冒頭に最近なんとか、例えば最近、昨日佐々木老貴が投げたんだけど負け投手になっちゃって悲しい佐々木です、みたいなことを言うじゃないですか。
このポッドキャストのためのネタを取っておきたいという心理が働くために、こっちで関係ない小ネタを言うのが
絞り込まれるという傾向が抑え込まれるというか、脱し惜しむわけですね。まあ拷問期的になるわけですね。
いや、そういうことがありまして減っております。こっちで雑談っぽい小ネタを出すやつ。いくつかはパッと思いつくんだけど、言いたくなくなるというね。
こういう、これは力度っていうには、相当精神力度というには、かなりしょぼい例な気もしますけど、そういうようなことのある種積み重ね、
極端に積み重なる人の場合は、それがこの人特有の不幸というものを沼らせると言いますかね。そういう話をここではしているつもりなんだなと。
で、それとはまた、まあこれは小ネタになるんですけど、こちらのポッドキャストがすごく最近ですね、ありがたいことにいいねが急進してるんですよ。ここにちょっと驚きで、
母数が少ないせいではあるんだけど、ほとんど3分の1か4分の1ぐらいがスタイフだけで見るとですね、いいねが3人に1人か4人に1人なんですよ。
すごい数字だなと思ったりして、ちょっとびっくりしてます。あと、やや母数そのものも増えつつあって何かあったんだろうかというですね、フォロワーさんも、なんかおかげさまでここのところで急に10人ぐらい増えていらっしゃってて、
いやほんとこう、ありがたいし不思議な現象が起きているなと思っている次第です。いやありがとうございます。
目指せ3桁という母数が3桁いってませんからね。 目指せ3桁なわけですが。
あと3ヶ月チャレンジもおかげさまでですね、第10期がもうあと1、2名でとりあえず10期上限とするかなと。
一つ考えることがですね、出てきまして、ようやくリニューアル騒いでいた時代も終わりつつある。まあ時代じゃないけど時期が終わりつつありまして、
新しい企画をまた軽くね、ジェイ・松崎さんも5月に帰ってくるということですし、まあそれにその頃には企画をなんとなくこう、
春になったし、作っていくといいかなと思いながら、
まあまあなんとなく固まっていくつつある企画が1個あって、それをキンキン形に少しはなったらね、発表したいと思っております。
別にあの、ラシオシンデルとかではないんですよ。言うことがボクがコロコロ変わる人間なんで、本当に付き合っている人に本当迷惑をかけているかもしれませんけど、
あのこのタイトルもどんどん変わるじゃないですか。 だから言って、明日変えましたっていうのはちょっといくらなんでも避けたいんで。
せめて言って1週間は持たせたいから、まるでもう少し形に、なんか考えすぎたのが昨日の晩ぐらいなんで、それはちょっと、それもう少し
言えるようになってから言おうねみたいな、そういう感じにします。 まあ子供みたいなんでね、そういうのある意味で。別に悪いことだとは思わないんですけど。
山崎孝明の考察
で、その3ヶ月チャレンジ、あと本当に1、2名入っていただくと、まあ非常に万々歳なんで、現在
お悩み中の方にはお願いしたいと思うんですけれども、せめて最初のね、お試しセッションぐらいをお試しいただけると、まあいいかなと思っております。
はい、で、まあその何をそこでやってるのかというのは本当に難しくて、昨日たまたまですね、これは素晴らしいと思って、本当にこう、どうすればいいのかな。ノート書けばいいんですかね。でもノート書くのはいいんですよ、別に。いいんですけど。
山崎孝明さんのね、あの精神分析についての、ほぼほぼ彼一人語りで、やっぱこういうのが必要だよなと思ってたんですよ。YouTubeで見られますが、あの山崎孝明精神分析でやれば多分ヒットすると思うんですよね。今のところ3回ぐらい出ていて、もうバッチリ3回聞いてるわけですけれどもね、あの
まあこれあればもう、なんかこの番組いらないじゃんとは言いませんけれども、ちょっと趣旨が違うから。だけどまあそういう私からすると、本当にね、この山崎さんという人はなんかこう、そんなことは向こう様は全く考えてないんですけど、私にとっては私が欲しいものを出してきてくれるというところがすごいんですよ。
すごいというか、それがすごいというか、私にとってなんか偉く都合のいいコンテンツを作ってくれると言いますか、それもちょっと言い方が悪いんだけど、精神分析の歩き方、精神分析ってものを現代ではどういうふうに人は活用し、どこら辺がネックなのかを説明してくれるガイドが欲しいなと思ったら精神分析の歩き方っていうのが出てきて、まさにそういう内容だったわけですよ。
精神分析の中身についての説明が全然ないじゃんと、本の中で著者が自分ツッコミしてるんだけど、私にとってはそれでよかったわけですよ。いや、その中身についての細かい部分は松木さんと藤山さんの原則読んでるから、とりあえずその周辺系の話が読みたいと思ったら、ちょうど周辺系の話がポーンと出てきて、しかもめちゃくちゃタイムリ、これが大事なんですよね。
1970年の状況とか、お好みけいごさんとか書いている、それは当時書いたんだからしょうがないんだけど、そういうのはあったんだけど、今1970年とは様相が全く違うじゃないですか。しかも僕2000年初頭にアメリカにいたから、よくわかんなくなってたわけですよね。
そのオウムが起こった後ですよね。オウムが起きたし、そのちょっと前にWindows95が出て、世の中が大きく変わる頃の心理臨床会もまた大きく動いたんですけど、その辺の事情がさっぱりわかってなかったんで、その辺の事情をつまみらかに書いて、かつ今の精神力動系がどのように生きているかを詳細に専門家が語ってくれたら便利だって。
めちゃ俺に、なんであんたに都合がいいんだって言われると、それも困るんですけど、こういう番組やってるし、こういう3ヶ月チャレンジとかもやってるんで、それは是非抑えておきたいと思ったら、そのまんまのものがポーンと出てきたんですよね。すごいびっくりしました。
その後に僕は、精神力動っていうのは、分析というのは週4じゃなきゃダメだと、アムステルダムショックと言われてるやつですよね。週4じゃなきゃダメだというのはどういうことなのかと、それは藤山直樹さんの本にも山崎貴昭さんの本にも必ずと言っていいほど出てくる話なんですけど、週1回でやってる、この時に例のあれですよね、平成のありふれた心理療法という主題で、
藤畑海斗さんがバリバリ書いてくださったんで、一生懸命読んでたんだけど、藤畑さんのはまず面白い、幸福絶倒感があっていいんですけれども、要するに一般の読者にすごい目線が向いているんで、個人的にはもうちょっと、これも変な話なんですけど、
なぜあなたは専門でもないくせに専門書を欲しがるのかと言われると思うんですけど、専門家ではないけれども、エンタメを読みたいわけではない。エンタメでこれが読めるのは大変嬉しいんですけどね。でも私が読みたいのはエンタメではないんですよね。
やっぱり専門的なことを専門家が書いたんで、そしてつまびらかに、要するにエンタメってつまびらかにはならないんですよ。表面を書いているある意味で、それはそれで入門というか、その世界に触れるという意味ではいいんですが、さすがに藤畑さんが書かれているようなことはおおむね全部知ってるわけですね。
で、それを笑って読めるから素晴らしいんだけど、私は知りたいのであって、笑いたいわけでは必ずしもないわけですね。何ですかね、ガイドが欲しいところにお笑いをよこされましたみたいな、ただお笑い系のガイドっているじゃないですか。
私昔、高校時代に奈良に修学旅行に行った時、ずっと笑わせてくれるガイドっていう素晴らしいガイドさんに出会ったんだけど、それはつまり笑わせてくれるガイドなのであって、私としてはガイドが欲しいわけで、笑いたいわけでもなかったんで、そこらへんが藤畑さんの場合はほぼ笑って終わってしまうという幸福なんだけど、もうちょっと違うものも欲しいわけですよね。
で、長くなりましたけど、山崎孝明さんが週1回って本を出してくれて、またこう、まさに犬が肉か何か欲しくてハッと言ってるとそこに骨付き肉出てくるみたいな、出してくれてるのが山崎さんなんだけど、そういうニュアンスなんですよ。
そこに今度は動画が無料で、なぜか出てくるんですよ、精神分析についてのですね。そういうわけで、だから私は山崎さんのドキドキイベントをさせて、こういう人には僕は突撃で何のコネクションも何にもなくいきなりコラボしてくださいとかって平気で言う、
多分そこはネジが1本飛んでるんで、そのネジの1本飛んでることによって僕はちょっと成形立ててるようなところ多分ありますんでね。普段もそういう風に全然思わないですよ。例えば遠畑ガイドさんのね、いくら笑っても彼に連絡取りたいとか取ったことないし、思わないんですよ。
Xでフォローしたり、インスタフォローしてないけど、フォローとかはするけどね。別にいきなり連絡取りたいという、連絡取りたくなって取ることもあるかもしれないけど、そういう時は割とコネクションとかを気にして、多分そういうことなんですよね。出版社とかを経由しようとしちゃうんですけど。
山崎さんの場合はもういきなりダイレクトメッセージを送って、今度話をしてくださいみたいな、ちょっと頭の奥行っちゃった人なんじゃないかって、多分彼は警戒したと思うんですけどね。そういう人間なんですよね、私は。そういうところがある。不意にそれが発動されるんですよね。
専門性と実生活の結びつき
話を戻しまして、もうちょっと経ったらゴミを捨てに行ったりするので、ちょっと途切れる可能性があります。というか、途切れます。3ヶ月チャレンジもいよいよ10期になりまして、何をそこでやってるのかの説明は相変わらず難しい。
これで山崎さんの話になったんだ。山崎さんが先日、そもそもこれは何をやってるのかを説明するのは難しいと。専門家が言うんだからしょうがないよね。私のように専門でない人間が言うのはしょうがないでしょ。山崎さんが言うには時間を売ってるんだと。それもいいんですけど時間を売ってるのかなと一つはまず思いました。
あと関係性をサービスとして提供している。これの方が僕にはしっくりきますね。だから一定の時間を確保したそこでの関係を売ってる。そうすると彼一流の言い方ですけどね。水商売とどう違うんだということになるじゃんと。そんなには違わないんですよみたいなことをまた彼一流の言い方で言ってたんですけど。私はでもそこでやっぱりちょっと考え込むわけですよね。聞きながら考え込んでたんですよ。
水商売とはそれにしても結構違う。一番違いは何って言われると酒が入らないことだって思ったんですよね。飲まない人もいるかもしれないけど何しろあれ高いじゃないですか。なんか知らんけど言ったことないからわかんないですけどね。なんかウイスキー一杯5000円とかするとかいうやつでしょ。
つまりそれって関係性を売ってるってことなのかもしれないけど、関係性が酒がないと成り立ちにくい関係性なんだなと。これをシラフでやろうとしてるよなというのを考えてみたわけですね。で、ここでやろうとしてることというかここで行われてること。
最近よく言ってますが精神分析というのはそこで起きていることを喋るにしては非常に簡単な話をしている。だってある意味嫉妬とかですからね。嫉妬って別に難しい話じゃないですよね。子供でもわかる話ですよね。ましてもっと言ってくるとお母さんがいなくて寂しいって話してるわけですよ。
それのどこに難しさはないじゃないですか。なんか精神力道とか精神分析が難しくてとよく言われるわけですけど、実態に関して言えばそんなはずはないんですよ。難しくはないよねってことなんですよ。水商売に例えている山崎さんの話もそうなんですけど、難しいことは喋ってないですよね。
つまりみんなやりたいことなんですよ。ある意味別に僕はそれ以外全然やりたくはないんだけど、でもみんながやりたいわけはわかる気がするんですよ。きれい目のお姉さんが出てきてお酒を一緒に飲んでくれると。だから何って感じもするんですけど、でもそこでお金がたくさん動くわけじゃないですか。しかもそれって難しい話ではないですよね。難しいわみたいなことはないじゃないですか。ケイリー・ハミルトンの法則みたいなんではないじゃないですか。
そこですごい頭を使うとか、むしろそこで全く頭を使いたくないと言ってるわけですよね。たぶんなんですけど。これにしては難しいことがあるところでは起こるっていう難しさがあったりして、いよいよよくわかんなくなってくるんだけど、まあでもつまりなんでこれが難しいんだろうかと。
私も精神分析がなんとかわかるようになったと言えた時には50年もいたわけですよ。もう一方で言うとわからないまま死んでてもおかしくはなかったわけですよね。人生50年経った時代もあったわけですから。50年かけてこれがわかるっていうのもどうしたもんかなと思うんですけど。
運が悪かったということはあるし、筋が悪かったということもあるんだけど、これにしてもちょっとわからなさすぎだよなと。で、サンチャリでやってることの説明の難しさとか、山崎さんが時間を売ってる関係性を提供している。
でもそれは水商売とどう違うのかというところで、少なくとも言い淀まねばならない。まあ彼は言い淀んでないけどきっぱり言うけど、でも言い淀まねばならない。宗教っていうのも出てくるんですけどね、当然出てきますよね。うちの親父がやってることはまさにそういうことでした。
宗教と精神分析の違い
ただ宗教は宗派によるかはわかんないんで、うちの宗派はそうだったけど、今度は金を取らない。だからビジネスになってないんですよ。相談料って一切もらえませんから、宗教では。うちの親父はだから真夜中に叩き起こされてわけわからん話を3時間ぐらい聞かされても1円ももらわない。これが宗教ですからね。
ここでまた大きな違いがあるんですよ。チラフでやるとなると酒が入らない。お金を取らない。これすごいやっぱり本質的な問題を、本質的な何だろうな。本質的な何かがそこにあるんですよ。で、精神分析はほら時間区切るじゃないですか。だから時間を売ってるわけですよ。区切るから値段がつくわけですよ。
宗教のすごいところはあれは3時間で終わるのは相手がくたびれるからであって、3時間で終わりましょうねとかそういうのはないんですよ。永遠に続くんですよ。永遠に続くものはお金取れないですよね。区切りがないわけだから、そこには。
水商売とか全然違いますよね。飲み物にそもそもお金かかってますよね。ヘラで酒出すことはないですから、水も出しませんからつまり何も出さないんですよ。だからお金取らないんですよね。あれ別に時間を提供してるわけじゃない。もちろん関係を提供してるわけでもない。だから何も提供してないから掘るものもないんですよ。
これはですね、でも私の体感覚として3ヶ月チャレンジにはもちろんお金はいただいているから宗教ではないと僕は思うんですよね。お金をもらってしまったら、兵士企業はなんとか教って言ってても、しょうご教とか言ってても宗教ではないと僕は思うんですよね。
いやお金もらってるでしょって言われるかもしれないけど、あれはお金はもらってるけれども何かの対価を要らないわけではないんですよ。これは寺の非常に経営というものの謎の一つなんだけど、一つたりともそうなんですよ。実はね、お金は勝手に置いていくものなんですよ。
だから私はお金はうんこだっていうのは別に何の違和感もなく入ってきたんですけどね。あれはいらないからあそこに置いてあるっていうようなノリがあるんですよ。何でもそうなんです。だからお寺にはここもまた大変虐徹的ですけど物は溢れてるんですよ。だって物いっぱい持ってきてくれるんで。いらない物は持ってきてくれるんで。
という立てつけなんですよ。もちろん立派なものを持ってくるっていう人もいますけど、大筋それは社会的地位がどちらかというと高い。だから全部が寄付によってのみ成り立つ商売みたいなノリがあるんですね。ビジネスライクに見ればですけどね。ただそれはあんまり意味のない話を私は聞かされてる気がするんですよね。あれを寄付だって言ったところで何の意味もないなって感じはするんですよね。
それはお金に価値があると思っている世界のものの見方であって、建前かもしれないけどお金には何の価値もないと思っている世界において、それが寄付だとかいう言葉に意味はないんですよね。
実際に頂かないわけですから。お葬式の時、私も子供の時はびっくりしたんですよ。お葬式でお金をかけるのはお葬式屋さんなんですよ。だから非常に極端で、そういう人はさすがにこっちから見て、いやいややばいんじゃないかと。だからすっごい葬式屋にお金払うけど、寺にはほんのちょっとしか出さないっていう人っていらっしゃるんですよ。すごいやっぱり変わってる方が多いです。
まあこう言っちゃなんですけどね。すごい独特です。そういう人って。例えばお葬式屋さんには200万ですけどお寺には2万とかね。すっごい極端ですよそれって。こっち側から見るとね。何の価値観なんだそれって感じがしますね。ほとんどだって一番主要な分をやってるのは結局うちの父ですからね。
お葬式屋さん、確かにお葬式屋さんはお膳立てはする。なんつうんだろうねあれはね。例えて言うならこういう感じなんですよね。演劇が行われました。役者はほとんど無休で働いていますけど、帝国劇場かなんかでやりましたみたいな。なんかよくわからないノリになっちゃうわけですよ。そういうやり方って。
でもそれはある種の価値観だし、ある種の方針ってものがそういうお支払いされる方にはあるなとは思いますけどね。話が盛大に逸れてるし20分も経って、しかもここで一旦ちょっと打ち切りますね。
はい、でですね。戻ってきて。改めて考えてみると、この3ヶ月チャレンジでやっていることっていうのは、精神力道で扱っているものの中でも特に、
今の時代では、カウンセリングでももしかしてここを扱ってないカウンセリングってないと思うんですけれども、極力この辺を扱わないようにしているものをむしろあえて扱うようにしているのではなかろうかという感じを意識している気がします。
全然反的じゃない説明になってますが、ポストでもそうなんですけど、やっぱり手相を大切にしましょうっていうのがまず割とあると思うんですね。クライアントさんっていうか利用者さんが望んでもいないものを提供するのをやめましょうよというお話があると思うんですよ。
で、私あれはとても大事な教訓に近いんだけど、だなと思って極力そうしようとするのは大事だと思います。でもそれはそれだけ考えていてもだいたい無駄だっていうのも間違いない気が最近はしてきてるんですね。
つまり利用者さんは3ヶ月チャレンジも含めて参加動機がむしろ曖昧だと。むしろ曖昧な方の方がある意味アセスメントはしない。ここにもまたこの辺のことをまとめたら面白いかもしれないですね。
アセスメントはしないけれどもするとするとおそらくいわゆる正常というか健常者レベルに近い水準の人ほど3ヶ月チャレンジへの参加動機は曖昧になってくる。曖昧になるということはつまり手相がはっきりしないということですから手相を大切にしましょうってなった時には難しくなる。
対応しにくくなる。でも手相がはっきりされている方の方がどちらかと言いますよどちらかと言えばいずれにしてもゴーダー水準よりは健常水準に遥かに近い水準の方がほとんどなんですかっていうかほとんどみんなそうなんだけど、だけどつまりそれよりは難しいところの方がやっぱり個人認証の世界に世界ではメインなんじゃないかなと僕は思うんですよね。
自然と住み分けられるってことを言いたいだけなんですけどね。わからないけど。でも少なくとも手相がはっきりしてくるということはその人にとっての手に負えなさというか、なんて言えばいいんですかね。
それを譲りで対応しようとしたがるところを何か違う対処の仕方というか違う、だから関係性ってことになるんでしょうね。この言葉では避けたいっていうかそのこの言葉は違う気がするんだけど、違う取り扱い方をここではやっていきたいと。
その時に、精神分析ではないんだけれども、かかる時間の長さとか、かかる時間の長さ、必然的にかかるお金の中に金額の多さになってきてしまうんですが、あまり僕の方は考えない。
それはユーザーさんの方が、つまりここでも健常者水準ってことが出てくるわけですよね。それはユーザーさんが判断できると信じるみたいな感じ。
昨日まさにそういうようなことを山崎さんがおっしゃってたんだけど、私が今言ったのとほぼ逆になるんですよね。だから、どこかではユーザーさんに代わって自分の方で判断しなければならない。
例えば柔道のうつの人がお金もないのにこれから精神分析やりますみたいな話には乗れないって話をyoutubeでされてたね。それは福祉的には最もだと思うんですよ。
だから心理臨床は福祉的な世界でもあると思います。当然。だけど3ヶ月チャレンジでは必ずしもその通りに、まあその話って所詮失礼ですが、結局は架空の話なんで、そういうまんまの話にはなってないだろうなと思うんですけど。
欲打つが非常に重いと、でも私はその人の懐具合が手に取るようにわかるというのは信じられないんですよ。やっぱりそんなはずないと思うんですよね。お金がないって言ったって本当かどうかわかんないじゃないですか。
まんま信じることにしてもいいですけれども、実はそうでもないのかもしれない。我々いつもお金がないって平気で言いますからね。そうではないと思うんですよね。やっぱりね。少なくとも精神力動系精神分析のことがわかってる人っていうのはお金がないという表現の裏にはここには出したくない。
そしてでもここに来たいっていうこういうビバレントアンビバレント扱わないわけがないと思うんですよ。この程度のことをね。
重度に欲打つ的だけれどもお金がないわけじゃないとすると、その方は重度に欲打つ的なところの中で何とか頑張って仕事をしてるわけですよね。多分。
そういうことは何とか頑張って仕事をしているって言ってみればそこをサポートするのが私の仕事ですから。3ヶ月チャレンジでは。つまりこういう話をしてるわけですよね。
正規的には多分それは本当に投薬ってことになると思うんですよ。しかし何か着前としないと。で、面白いことにですね。
心理的立場の考察
例えば今の話はもう少しわかりやすい話ですけど、これを一段とわかりにくくすると会社に行こうと思った時だけ重度の欲打つになるっていうケースは多々あるわけですよ。
で、これを薬でってことになってくると、じゃあその薬ってなんで休日まで飲まなきゃならないの?薬の精神薬理学的にはそれはそれで理由がはっきりしてるんでしょうけれども、多分納得ができないっていう人はいらっしゃると思うんですよね。
で、その時に手相っていうのをはっきりさせられるのは結構それだけでももうきついっていうことは起こると思うんですよ。いや手相ということになってくると自分は会社に行きたいんだか行きたくないんだかわからないってことはあり得ると思うんですよね。
いや、実は全く行きたくないんだってこともあり得ると思うんですよ。症状を取ることに集中するっていう話をしてるとしても、結局それは力動系の人は力動系なりの見方をする。今の話はすごいこの番組にふさわしくなく、至って専門的な上によくわからない話をしてることになると思うんですけれども。
でも僕は、たとえ正規って一言で言っても、その人が一体何系の正規かによってこの事態はずいぶん違って見えるんじゃないんだろうかと思うんですよね。慎重にしてるって言われれば、そりゃそうなんだけど、でも山崎さんに教わったところによると、今、公認心理師だけで8万人いらっしゃるでしょ。
8万人が一斉に慎重にしている。どう見てもそこはないんだって言われても、そっかなーって思ってしまうとは思うんですよ。やっぱり薬理系統、昔の感じの精神科系統、人間中心主義的な系統、精神分析系統では絶対見方が割れると思うし。
割れてしまったら、ユーザーさんにしてみればですね、私がユーザーだったとしても、薬飲む飲まないってなってしまったら、私だってつまり、出るところに出れば薬投薬される可能性あると思うんですよね。
はっきり言って、今まで一度も精神科系の薬っていうものを提示されたことはないですけど、HSPギミレーとかに行って診療内科にでも行けば、ありえないことじゃないと思うんですよ。ここで薬飲まないとなったらダメな患者になるわけでしょ。不適応ってことになるわけですよね。
でも私は絶対飲まないと思うんですよ、はっきり言って。これって一体どういうふうに理解したらいいのか。一方で、それこそ私は大船のカウンセリングに少なくとも数ヶ月間通ったわけですよ。薬って話は一回も出なかったんですよね。一瞬も出なかったんですよ。
佐々木さん、診療内科とか行く気あります?みたいな話も一瞬も出なかったんですよ。そこでは少なくとも薬を飲まないことは適応的なわけですよね。
これって既に明瞭に矛盾してるじゃないですか。こういう話はどうなるんだっていうかどうもなんないんですけど。
でも、だから正規であれば答えがどっちに定まるってことは絶対ないなと。
これあれですから、税とかの話になればピンポイントでは決まらないんで、僕こういうのを学んで非常に考えるようになりはしたんですけどね。
つまり収める税の額って常識的には正規の税理士が言えば2人言おうと3人言おうとピンポイントに決まるとものすごくナイーブには思うじゃないですか。
でもそれはあまりにもナイーブな話で、そんなことは絶対ないと僕は思います。
税理士の人変わると収める税額って変わりますもん。
これはつまり正解がこの世にないというのは心理臨床のような世界じゃ絶対当たり前だよねとは思うんですよね。
だってもっと遥かに人工的な税みたいな話でもピンポイントに定まらないんですから。
だから弁護士とか税理士っていらっしゃるんですけどね。
そういう意味では心理士というのはもう真逆を向いてもおかしくないと。
でも真逆を向いてもおかしくなくなってくるならば、この言い方は問題があるとは思いますけども、
それでも真逆を向いてもおかしくないということになるならば、
なら非正規では何がいけないんだっていうのはいよいよグレーになっていくなぁとは思います。
私は別に自分の立場を擁護したいと今思ってるわけではないです。
僕はもう自分の立場は自分の中ではっきりしてるんで。
ここでただ何してんだろうっていう話。
で、難しい話はしてないというのはですね、
例えばシンデレラストーリーってありますけど、
シンデレラって別に難しい話ではないからみんな子供は喜んで読むわけじゃないですか。
あれはやっぱり母親殺しを含んでると思うんですよね。
母親殺しといっても架空の話ですけど、
やっぱりお母さんのおっぱい出ないとか言ったり、わがまま言ってやっつけちゃったかもしれないなと。
そしたら悪いママ母に化けちゃったのかもしれないなと。
同話ですからね。
で、その悪いママ母は掃除しろとか洗濯しろとか、
大きくなった女の子に対してお母さんが言いそうなことはただ言ってるだけのようにも聞こえますけれども、
なんだか黒いドレスを着ていて、今まで白いドレスを着ていたお母さんだったはずなんだけど、
突然黒いドレス着てるし、なんかお姉ちゃんばっかり悲劇するし、
なんかどこにでもありそうな話なんだけれども、シンデレラ的に言うとですね、
もはやお母さんは亡くなってしまって、悪いお母さんがやってきて、
ひどいことになっちゃったわけですよね。
それというのも全部、自分がわがままを言ったからかもしれないと、
心の中で思っちゃってるわけですよね。
これは私はどの家庭でもありそうな話であり、
ないかもしれないけど、
そもそもお姉ちゃんなんかいませんっていうこともあると思うんだけど、
これが体験生成の枠組みと、突然そんなこと言い出しましたけど、
藤山直樹さんが言った、
体験そのものをしてなくたって、そういう体験の意味はわかるんだってことですよ。
これは多分、普通の動物には無理なんですよね。
自分が体験していない体験をわかるってのは結構難しいことだと思う。
人間は幅広くそれが満ちちゃいますから。
で、それはまあどうでもいいんですけど、
他の動物にできるかどうかも主要な論点はここではなくて、
ただこの話簡単なんだけど、シンデレラ目線に立ってみると結構難しいんですよ。
私たちはこれを外部から見るから、
いや、それってつまりお母さんを殺したんじゃなくて、
お母さんの態度があなたが成長したから変わったんじゃないのってことになるだろうし、
いいお母さんと悪いお母さんがいるんじゃなくて、
お母さん最初から一人しかいないんじゃないのってことになるでしょうし、
当然シンデレラがそんなにいい子かどうかはこの話疑わしいよね。
お母さんは悪いお母さんなわけじゃないんじゃないのってことになるし、
別にそれはお姉ちゃんたちを否記してるんじゃなくて、
ただお姉ちゃんたちは武道会に行く年齢だけど、
あなたはまだそうじゃないんじゃないのって話になるわけですが、
それは客観目線というものであって、シンデレラ目線じゃないわけですよ。
で、シンデレラ目線に立つことが心理臨床じゃないですか。
利用者さん、クライアントさん、何でもいいんですが、
それこそビジネスカウンセリングだとしても同じであって、
仕事してる人目線に立たなければいけないじゃないですか。
ここで、いやいやあなたそれセックハラでもファーハラでもないから、
ちゃんと会社行きなさいって言っちまったら、
それはつまり外部目線になってしまうわけですよ。
その通りかもしれないけど、それは間違ってるわけですよ。
間違ってはいないんだけど、
目線が全然クライアント目線になってないんですよ。
つまり、クライアント目線に立つと、
簡単に話がものすごく分かりにくくなって、
はい、いいおっぱいと悪いおっぱいのスプリッティングですとか、
そんな精神分析のこと言われても、
私全然意味わかんないし関係ない気がするんですけど、
っていうことになっちゃうわけですよね。
これが僕が長らく精神分析が理解できなかった重大な理由なんですよ。
僕は幼児目線には立てないタイプの人間だったわけですよ。
で、幼児目線にほとんど立つんだと、
フロイトは最初に書いておいてくれてないからわけあって、
カウンセリングの適応
だって彼は幼児目線に立つけれども幼児になってるわけじゃないですからね。
彼は幼児目線に立つ臨床心理師なわけですよ。
ここが両方含まれているから、
あらゆる精神分析の本には当然、
だってそのための本だから、
わかんなかったわけですよね。
なぜなら私は臨床心理師ではなく、
幼児目線に立つ理由も持ってないから、
あくまでも外部目線ってものが外れないままずっと読んでいくと、
いいおっぱいと悪いおっぱいに分かれるんです。
おっぱいは一人の人間しかいませんけど、
よくわかんないことを言い出してるようにしか見えないし、
思いっきりセクシュアルな感じもするし、
さっぱりわかんないって、
自分と関係ないような気がするってことになってしまうわけですよね。
これを3ヶ月チャレンジでは、
それほど幼児じゃない、
つまりそれほど対抗が進んでいない人と、
やらなければならないなと思っているわけです。
公約とか目標行動とかを設定するとか、
ホームワークとかを一切利用しないならば、
私は利用したくないので、
つまりお部屋が片付けられませんというのに対して、
今ではですよ、もう合理的理由はあるんですよ。
お部屋が片付けられませんっていうところに公約すると、
でも多分間の間ないですよね。
そうすると不適用になってしまう。
だったら行きたくないよねってことになってしまいますよね、
一歩間違うと。
でもそれには合理的な理由があるんですよ。
ここが大変なところなんですよ、我々としてはですね。
部屋が片付けられない、だったら我慢しちゃおうってことになるじゃないですか。
で、もう少しマイルドとは限らないんだけど、
マイルドらしく見える部屋を片付ける写真を撮るとかね、
部屋の写真を撮るとか、目標コードを設定するわけですよ。
首相を大事にするってことは、
首相ってのはその人が苦し紛れに言ってる可能性もないわけではないと思うんだけれども、
本当に言いたいことは部屋を片付けられないってことではないんだけど、
でも困りごと言えって言われると部屋片付けられないってとりあえず言っとくかみたいな、
ではこれをできるようになりましょうってことにセットされていく。
そこにまるでそれでは不適応だから来ているのに、
つまり社会には必ずしもしっくりこないから来ているのに、
ここでまたそれをやらされるような感じになるという問題は起こり得ますよね。
カウンセリングに適応しなきゃみたいな、
これは私は一つの難点だろう、
精神不適である意味そういうことをやってるようなと思うんですよね。
ここに適応できないって言って起こり出す、
少なくともネガティブな思いになると。
自己成長の葛藤
一言も分析家は、少なくとも分析家としてきちんとやってる方ならば多分、
いやあなたここに適応するべく頑張りなさいって絶対言わないはずなんだけど、
でも来ている人はここに適応しなきゃ。
一方は違うと先生が喜びそうなこと言わなきゃみたいな。
だからあれですよ、3ヶ月チャレンジやっててさえも、
いや佐々木ってなんか精神分析大好きそうだから、
夢の報告しなければいけないから夢ここにノートに書いておこうみたいになりうるということですよ。
夢報告してくださいねとは一言も僕が言わないんですけどさすがに、
そこを忖度してしまうわけですよね。
そういうことを僕らは生きてるところのあちこちでやりだすと、
めちゃくちゃ辛くなるわけですよ。
でもこれを自分でやるんだなってことに、
だからこういう話になりやすいんですけどね、
自分で築いていくことの重要性みたいな、
そんな話ばかりではないんだけど、少なくともそういうことはありますよね。
話は難しくはないと思うんですよ。
忖度するとかって別に難しくないじゃないですか。
ただ忖度しなくなるのは難しいことですよね、結局。
で、その時に僕は投薬という方法は取りたくないし、
忖度しなくなる目標設定や忖度した回数を数えるホームワークとかも一切やりたくない。
そのように行動を変容させるというやり方に、
それほど可能性を私は信じられなくもはやなったと。
ありますよ、一時的にそれだけが必要とするというケースにおいては。
でもそれは僕だったらよそでやったほうがいいと思うんですよね。
そういうことを専門的にやっている集団の中で、
特にそれは集団の中で、
だからこういう時にはコミュニティって話になってくるんですけど、
私は3カ月チャレンジはコミュニティを小さく緩く形成はしているものの、
3カ月チャレンジにおいては少なくとも、
コミュニティの力によって事態を解決しようという感じではないですよ。
僕は多分この辺で、いわゆる正規の臨床の方で、
このような3カ月チャレンジみたいなものを支持してくださっている方がいるとしても、
僕の誤解かもしれませんけど、そもそもそんな人いないかもしれないけど、
少なくとも批判はしないでおこうぐらいな人にしてみても、
ここでやっていることについての誤解はきっとあるだろうなと思っているんですよね、私は。
僕は大井を取るって言い方、北山治さんの、
あんまり深掘りしすぎないみたいなのをやや逆を言ってるんですよ。
ややですよ。真逆を言ってるわけじゃないです。
可能なら深掘りしようってことなんですよ。精神分析的に言うところの。
つまり対抗的なものに焦点を当てようとしているわけですよね。
かかる時間はわかんないです。僕はそんなに長くなくていいはずだと思ってるんですよ。
10年とか必要とする、わかんないですよ。わかんないけど10年とか必要とするのかもしれない。
でもそこまで大いに対抗というものに期待しているわけではないし、
意図的に対抗が起きるっていうことを目指しているわけではないんだけど、
でも対抗はもうやむを得ないぐらいには思っているわけです。
これに意識付けをしていかないんだったら、
この問題は多分、それこそ行動療法とか薬理療法といった方向でしか、
今のところ人類は少なくとも合理的とされている。
占いとか祈るとかはまた別で。
つまり宗教とか、それこそお酒を飲んだ席でその話をするとか、それも別で。
ただ、シラフで合理的にやろうとしたら、僕は自我指示的。
自我指示的は捨てられないと思うんですよ、僕はもう。
合理的な、ただ自我指示的と言ってもいろいろだと思うんですけどね。
で、セルフカウンセリング、だからノートを取るとか、何かを見返すとか。
私はそれも基本的にはやる意味がないとまでは思わないし、害になるとも思わないんですけども、
幼少期の夢と大人の現実
やっぱりそこにあんまり僕は期待しないんですよね。
どうしてもそれらの方法というのは、言うなら全意識的ですよね。
よくて全意識的だと思うんですよ。
で、私は無意識と対抗というものをここで考えないというのはあり得ないだろうって感じを多分持っているんですよね。
シンデレラストーリーっていうのはまさに幼女の夢じゃないですか。
で、あれは難しくはないけれども、でも幼女目線に立つということは、
それに抵抗がある人にしてみるともはや難しいんですよ、きっと。
それを専門的な用語を使っちゃってるわけですけど、アナルとか甲子園とかですね、おっぱいとか言っちゃってるわけですけど、
それはつまり幼児だからなんですよ。
でもそれを大人がやるとセクシャルな意味を意識せざるを得なくなってくるっていうような、あるいはその忖度みたいな。
だって恋愛って忖度の塊みたいな部分があるじゃないですか。
だからそういうものを無視してできないんですよね。
難しいのはその大人であると同時に自分の幼児時代を扱うということの難しさであって、
しかもそれを情緒的に言って言えば情緒的に。
シンデレラは最後階段を転がるように降りていくじゃないですか。
あれは無理やり背伸びして王子様と武道会に出るという、
要するに思春期以上のレベルに差し掛かりつつあるという夢を見てたんだけど、
真夜中になって彼女はやっぱり元に戻るわけですよ。
対抗するんですよ。
だから階段を降り、転がり落ちるように降りていかなきゃならないし、靴は合わなくなるわけですよ。
というか靴履いてる場合じゃないんですよ。
だって少女は裸足で駆け出すじゃないですか。
いろいろありますけれど。
だから少女に戻るんですよ。
少女に戻るとドレスとかは着ていないわけですよ。
みすぼらしい服とかになっちゃうわけですよね。
子供時代の服だから。
自分がみすぼらしい服を着ていて、
なんでこんな幼くて子供っぽい服着てんだろうって思う瞬間って、
女性にはあると思うんですけれども、
男の子にもあるけど、
あんまり男の子はそういうことを全然頓着しないまま大人になる人も結構いますからね。
発達障害と言われるようなのは、
発達が障害してるんではないような気もしなくもないんだけど、
美容によっては発達障害ってことになりますよ。
で、やたら大人っぽい格好をしたがるのはむしろ子供の時じゃないですか。
そういう話で別に難しくはないと思うんだけれども、
この話の中には、
当然、今気がついてみたら、
私シンデレラだったんだけど、
王子様と舞踏会に行くとかいうことを夢見たっていると思ってばっかりいたんだけど、
気がつくと、もうあと1、2年で、
出産的霊気の菌を超えてしまいそうなんだけどっていう話って起こると思うんですよね。
こういう話をする難しさってあると思うんですよ。
シラフでは特に。
だから宗教なのか水商売なのかみたいな話になってくと思うんですよ。
防産にだったら言える話ってあると思うんですよ。
他のところ、見ず知らずの人にいきなりそんな話できないじゃないですか。
で、そういう話に踏み込まれるのも嫌だと。
言われたらセクハラだと言って訴えてやるって話になると、
話がすごい違う方向に行くじゃないですか。
しかし、自分1人だけでここで考えていても、
どうにもならないような気がするってこともあると思うんですよ。
理想化と脱価値化って言いますけれども、
ものすごく良いおっぱいとものすごく悪いおっぱいですよね。
幼児はしばしば、ものすごく良いおっぱいの夢を見てしまうわけですよ。
で、ものすごく良いおっぱいはこの世にありませんってことになると激怒するわけですよ。
王子様兼理想の母親兼、
自分を導いてくれる神父様みたいな人が出なければ、
私は自分の出産の話なんかしたくないんだ。
っていうことで、例えば何でもいいんですよ。
間違ってサンチャレに来てしまいましたと。
佐々木さんは理想の母親兼王子様兼神父様みたいな人だと思ってたのに、
佐々木生後でしかないことが分かって訴えてやるみたいな気持ちになると。
これが理想化と脱価値化であって、
つまり理想化と脱価値化っていうのはそこら辺で見かけると思うんですけど、
私も先日このポッドキャストでも言いましたけど、
会社に勤めてる時、どう見ても理想化と脱価値化やってるなっていう同僚の方がいたんですけど、
そういう人を見て他人事だと思ってはいけないってことなんですよ。
これは僕らはみんなやってきたはずなんです。
親に対して。
親に幻滅するって言うじゃないですか。
つまり親を脱価値化してるんですよ。
もちろん理想化することがとても少なくとも意識的に、
物心ついてから一度も理想的な親を見たことがありませんという、
ちょっと運の悪い方もいらっしゃると思うんですけど、
でも体験生成の枠組みは持ってるんで我々は。
そういう理想的な親にたまたま恵まれなかった、
そもそも最初から親いなかったという人であったとしても、
理想化と脱価値化はしちゃうんですよね。
親対象みたいなのに対して。
理想化された親が実は幻滅すると、
自分の心の中に理想的な親ってものが残ったりするわけじゃないですか。
それをひょっちゅうあちらこちらの人に投影しては、
化けの皮を剥いで、自分で剥いでね。
そしてひどかった、またしてもこいつらに騙されたってことになって、
どんどん現実に幻滅していくわけですよ。
現実の幻滅
自分の中にある理想の母親像というものがあったときに、
これも大体においてはですね、
その人の欲うつってものを生んでいくんだと思うんですよね。
理想の母親像というものは、例えば部屋はきちんとできている。
ここに片付けられないって話はつながっていくしかないと思うんですよね。
カウンセラーは理想的な人で、
心の真相について語ることもできるし、
片付け術も知っているみたいなものを僕に見るのかもしれないんだけど、
結局のところ画面越しにいる私は、
手をニョキッと伸ばして、
ただこうやっているんじゃないんだから、
部屋片付けてあげますってわけにはいかないし、
そうやって片付けられるのは僕にだと思うんですよね。
で、力道の話をいくら聞いていても、
部屋は1ミリも片付かないし、
つまり良いこと何も起きないわけですよね。
水商売と変わらないわけですよ。
酒飲んで気分良くなるんだけど、
現実は何も変わらないわけですよね。
で、幻滅するわけですよ。
片付いていない部屋と自分が取り残されて、
その時なぜ幻滅するのかというと、
理想の母親と自分が全然違うからですよね。
シンデレラの物語と幼さ
シンデレラだと思っていても夢は覚めるわけです。
12時の鐘が鳴ると。
で、相交して階段を転がり落ちるようにしてみると、
子供っぽい服を着た自分がポンとそこに取り残されていて、
そう、女子ろとか言っている理想の母親像っていうのか、
過酷な長児がというのか、
そういうものが掃除するよって怒っていて、
全然掃除ができていない自分がいて、
で、気が付くと出産もした方がいいのかもしれないって話になっていて、
ある種のパニックですよね。
そういうことって僕は起き得ることだと思うんですよ。
いくらでも。
私に現に起きたんだから。
私は出産する側ではないけれど。
結局のところ私は、
持てない商工群で困ってた。
今している話は全部ここから来てるんですよ。
単に持てない商工群だった私を、
女性の立場に置き換えて喋っていたに過ぎないんですよ。
だって全く同じじゃないですか。
僕のその脈のない女性に、
大学の同級生とかに声をかけていくのは、
結局僕は出産させる側の立場だけど、
そういう方向に立とうとするわけです。
なぜか。
だって自分父親になる年齢に差し掛かりつつ会った。
すげえ衝撃を受けたわけですよ。
いやなんか昆虫最終セットとかで楽しんでればよかったんだけど、
気がつくとなんか父親になるみたいな話になってるわけですよ。
気がつくとですよね。びっくりですよね。
いやだってそんなこと言われても、
タキシードとか着たことないわけですよ。
まだ一度もないですけどね。
結局のところ半ズボンでTシャツ着て、
昆虫最終セット持って歩いてる方がよっぽどマシな人間が、
渋谷とか歩いてナンパとかして、
成功するわけないじゃないですか。
世の中には物好きな人はいらっしゃいますけどね。
でも僕の場合は運が悪く、
百中ゼロみたいな世界で勝手にどんどん傷ついていたわけですよね。
これは全くシンデレラなんですよ。
確かに私の心の中には4歳ってころがあって、
なんかグリム童話を読んでいれば、
あ、ショウって賢いのねって言ってくれてたはずだったんですよ。
そういう女性が現れるはずだったんだけど、
気がつくと鶴の足が何本で、
亀の足がどうたらでっていうのが、
30秒以内に解けないとボンクラだって言われる世界。
すげえひどいじゃないですか。
悪いオッパイじゃないですか。
というか悪いママハハですよ。
あの優しかったトシコさんはどっか行っちゃって、
悪いトシコさんになっちゃったわけですよ。
僕はPSポジションだけにいるわけじゃないから、
母が2人いるとはさすがに思いませんでしたけど、
まるで別人のようだと感じたことは何度もあります。
だってまるで別人のようになりますから。
あの人はあの人で、
朝日川の田舎でね、
なんか親父が殴っては酒を飲むみたいな親父だったから、
ああいう風になったわけですけど、
過酷な長寿が内在化されたんで、
しょうごのことは手さえ出さなければ、
何を言ってもいいんだぐらいのノリがあったわけですよ。
だけどそれがひどいことだとあんま思わないんですけどね。
でもやっぱりね、だってシンデレラのお母さん、
何もひどいことはしてませんよね。
しょうがないですよね。
シンデレラに掃除を教えるっていうのはあり得ることですよね。
武道館に連れてかないですよね、そりゃあね。
寝てる間にこっそり出かけちゃいますよね。
シンデレラは置いていかれたって言って泣きますよね。
そりゃそうですよ。
だからこういう風に役割がどんどん交代していくから、
あの話実は難しいってことに精神分析的にはなるわけですよ。
でもそれは精神分析用語で無理やりこうやって説明するから難しいんであって、
簡単な話なんですよ。
僕の渋谷で昆虫最終セット持ちながらナンパしてたのも、
役割の交代と心理分析
すっごいこの話に似てるんですよ。
結局シンデレラは5歳児か6歳児なのに武道館に行っちゃったわけですよ。
で、王子様が多分物好きだったんですよ。
踊ってくれたわけですよ。
だからあの王子さんはすごい問題がある人だと思うんだけれども、
まあいいんですよ、別に王子だから。
現代だったら多分問題になるんだけど、
あの時代の王子様だったらOK。
なんだけれども、気がつくとやべえってことになるわけですよ。
だから階段を走って降りてかなきゃなんなくって、
だってもう気がついたら超恥ずかしいじゃないですか。
何をウチョウテンになってたのって感じがするじゃないですか。
僕もそうだったわけですよ。
気がついたら結婚とかしていてやべえってことになったわけですよ。
何をウチョウテンになってたんだろうって感じがするんだけど、
年齢が30中盤に差し掛かってるから、
それっぽい振る舞いをしておくほうがないわけですよね。
だから、いや部屋は片付けられませんとか、
なんでもいいんですけどね、人前で話すのはダメなんですとか、
いや朝起きられませんとか、
全部普通ですよね。
自分が5歳児だと思えば。
そしてここで対照関係論ですよね。
あなたは5歳児であることをやめたことなんてないんですよって言ってますよね、あれね。
PSポジションとDポジションは行き来するのであって、
シンデレラは階段登ったり降りたりするのであって、
階段の下がなくなった世界とか、そういうものはないんですよ。
行き来はするんですよね、私たちは。
これをエリック・エリクソンみたいな世界、
あるいは知らんけど、
孔子様はそうじゃないようなことを言ってますよね。
死中にして不悪とか言ってますけど、
30代というものを卒業できるかのような言い方をしてますけど、
果たしてどう思ってたのかわかんないですけどね。
エリック・エリクソンだってどう思ってるのかわかりませんけどね。
基本的信頼VS不信みたいな、
そこを乗り越えると次は何とかない。
ああいうのはやや脅迫的な心声の人には受けるわけですよ。
教育者っていうタイプの人にも受けます。
グレードってあるじゃないですか。
だけど僕は信じられないんですよ。
だから何でしょうね。
これを信じられる、
少なくとも僕は精神薬理学というものは、
この話は微妙で、
専門家にはNOと言われるかもしれないけど、
僕は精神薬理学とか、
特に第一、第二世代の認知行動療法においては、
信じてたんだと思うんです。
卒業主義というようか、卒業ベースの考え方。
私はエディフスコンプレックスは卒業しましたと。
もう二度とお父さんとの葛藤なんかでは悩みません。
私が父親なんですって一度でもなったら、
二度と五歳児にはならないって信じてなければ、
報道というものが変容することによって、
治療というものが成立するっていう発想を、
信じるのは難しいんじゃないかなと、
私は思います。
成長とアイデンティティの葛藤
薬ってのはつまり、
20歳には20歳なりの正常さというものがあって、
そこの常識というものがあって、
脳の機能が底をきたしていなければ、
その年齢にふさわしい行動は自然と取れるっていうような、
自我適応的な考え方が最初から成立してるんだと。
五歳児が網持って渋谷をうろうろしたりはしないということになってる。
僕は心の中では、
みんな五歳児が網持ってうろうろしてるという部分はあるはずだと思うんですよ。
だから行ったり来たりであって、
うまいことでやれるときもあるかもしれないけど、
全くうまくいかないときもあるに違いないと思うんですよね。
この行ったり来たりという感じを持ってる人間にしてみると、
やっぱりこの行ったり来たりしたときの来たときの、
その感じというものを取り扱わないですよっていうのは、
なんならそこは薬で保護してしまいますよっていう話とは、
なんかその、なんて言うんですかね、
覆いを取ってしまうしかないような感じがする。
覆いを取るという話をしないんだというのは、
一理あると思うんですよ。
でも私はビジネス心理にも関わらずというべきなのか、
私はビジネス心理だからこそと言いたいんだけれども、
覆いを取ろうとするっていうことについて、
返答していかないわけにはいかないんじゃないかなと、
長くなりましたね。この辺にしておきます。
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