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おはようございます。働く人に送る精神分析チャット、第1021回となります。
7月18日、木曜日の朝7時36分ですね。
今日は珍しくリテイクしておらず、グッドモーニングボイスとか口場知らなかった、記念すべき初めてなんじゃないかと、一発でそこができたので。
やや意識していたかなと思うんですけど、意識しているって不思議な言葉のような気もしますね。
お知らせです。8月4日日曜日の日曜日に渋谷にて、ラスクシュート手帳術を開催します。
これは渋谷でリアル開催ですけれども、オンラインでもご参加いただけるし、すべての収録はできませんけれども会場もありますからね。
収録も配信できるかと思いますので、よろしければそろそろご検討いただければと思います。
ライトニングトークですね。ニンテトレーナーさんによるライトニングトークを中心に、今後はご参加者の方のライトニングトークというのもどんどん募っていって、
皆さんで手帳をどういうふうに使っているかのシェアというものを展開していきたいと思っていますので、そっちのほうをやってみたいという方もぜひご参加いただければと思っております。
私が今かなり注目しているのはこのiPadで手帳をやっているという方が認定さんで、今回少しお話いただけると思っているんですけれども、
アナログではないんですよね、現実には。でもタスクシュートという枠組みから考えるとこれは全然デジタルではないので、
手で書いているわけですからね。絵ですからね、ある意味。だからアナログでもあるという非常に独特のハイブリッドがタスクシュートが、
昨日もですね、タスクシュートクラウド2がiPadでの表示には大変向いているっていうのが出てまして、
それがこれからやっぱり一つの流れ、ストリームになっていくんじゃないかなとちょっと思っております。
私自身はiPadで長い間ペン持ってやるっていうのがなかなかしっくりこないんですよ。
すごいしっくりきそうなスタイルなんだけど、全くしっくりこないんですよね、これがね。
上手くやれた試しがなくて、気がつくとそんなことはしなくなってる。ペンは5章大事に持ってるんですけど、本当に5章大事に持っちゃってるんですよね。
絵が描くのが堪能でないということはあるにせよですね。ちょっとこう、なんかもったいないなーって思ってはいるんですが、
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もう諦めつつあるんですよ。これ上手くやれない私にはっていうのがね、あるんです。
非常に絵が描けないからむしろ勝手に成形してくれるモードとかあるじゃないですか。
すごい良いようなんだけど、あれが上手くできた試しはないんですよね。不思議ですよね。
まあまあそんなわけで、文章はどうしても、文章というかメモですらキーボードで取ってしまうという感じがして、
で、フリックの方が僕はやっぱり早いんで、iPadで打つよりは全然手書きだとしてもですね。
結局iPhoneだったらむしろもっとメモは取るってことになって、とっても不思議なんですよ。
iPad miniなんて本当ちょうどいいような気が、あれでペン持ってね、やるとちょうど良さそうに思うんだけど、
これが全く僕には適合しないスタイルなんですね。謎ですか。まあそんな感じです。
8月4日ですね。こういうことがお好きであれば是非検討いただけるといいかなと思います。
さてですね、今日はここのところですね、連日のようにおかげさまでワンオンセッションを申し込みいただきまして、
継続的に募集をかけていきたいと思うので、空いた時間を取りたいという方は是非チェックしてやってほしいんですけど、
これをやっているうちにですね、やっぱり私は、いわゆる臨床経験が足りない。
全く足りてないっていうのもですね、連日痛感させられておりまして、
まず経験とやっぱ知識だよなっていうね、これがすごく身に染みています。
こういうこともしょっちゅう言ってるような気がしますけどね。
今更のようにロジャーズじゃないですけど、慶長なんて唱えてみておるわけですけどね、
3ヶ月チャレンジで慶長させてもらいますみたいな感じで、なんか慶長にかけてるような感じなんですけど、
この慶長はある時に3ヶ月チャレンジで思い知ったんですよね。
あの話の中には全部がある。ただ聞いている時にはわからないんですよ、残念ながらね。
そもそも初めて聞くお話ですし、家族歴とか背景とか養育歴とか、わからないわけですね。
ただこの入り組んだ話の中には全部があるっていうのが、その時その頃に、
その頃っていつかっていうと3ヶ月チャレンジでない4期ぐらいですかね、
直感的に理解できるようになってきたんですね。
後から考えると、なぜあの時あの話がそこに出ていたのかっていうのが、
全部わかるような気がする時がやってくるんですよ。
こうやってまとまってくるとですね、最初から何かのヒント、
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推理小説じゃないですけど、ヒントは最初からあったっていうことに気付くんですよ。
これをやっぱり見落としてしまうというか、スルーしてしまうんですね。
わかんないからしょうがないんですけど、私はつまり聞いてる側の人間というのは、
聞いた時が初めてですし当たり前ですが、話している人は全部わかって話しているので、
要所要所が取捨選択されてますね。
これも当たり前ですが、全部しゃべると同じ年数かかっちゃうので、
全部はしゃべるはずがないですよね。
取捨選択をする。取捨選択をするのと、取捨選択されたものを聞くのに分かれて、
分かっているようでお互い分かってはいない。
少なくとも聞いている方は十分は分かってないんですね。
で、このミシンリングがあってですね、要するに。
だから分からなくなるのが、勢い分からなくなってるわけですよ。
この分からなさがですね、後になってくると、
なぜあの時分からなかったのか不思議だってことが起こるんですね。
だからちょっと推理小説っぽいんですよ。
やっぱり聞き込みが足りないなっていうのを、毎日のように思い知る。
ふいにその日がやってくるんですよ。
ずっとあの方が言ってたことはどういう意味なんだろう。
意味は分かるんですよ、もちろんね。
いわゆる言語水準以上のやり取りをしているので。
昨日話しましたけど、いわゆる成人発達理論みたいな話における分析っていうのでもそうですが、
でも基本的にはプレイエディプスの世界に生きてるわけじゃないわけですよ。
プレイエディプスのやり取りをしてるわけでもないわけですよ。
基本的にはやり取りは言語水準でやってるんで、
話はお互いがやってれば了承済みの話であり、話が通る話なわけですね。
話が通る話なんだけど、実は分かってないんですよ。
この実は分かってないということがですね、
僕はとりあえず特に1回セッションの時は、
一定のまとまったお話を伝えする義務はあると思ってるんで、
理解した範囲内でまとめて話すんですが、
なんかこう、そういう感じはしたが、本当にそうかっていう感じは残ることがあるんですね。
でもそれによって相手の人にまた補完してもらうと、
とりあえずまとまるってことはあるんだけど、
もっと大きい文脈から見ると、やっぱり十分ではない。
そして十分でなくてもいいんですよ。
それこそグッドバイブスの裏相のケツさんのグッドバイブスじゃないですけど、
本当のことは分からないんで、ここも大事なんですよ。
相手の人にしてみると、その方の空想も混じった話になってますし、
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まず主観を通してますしね。
ただ大事なのは事実関係の話ではなくて、
なぜそこでその話がなされているのかってことですよね、私に対して。
これはもう私にしか分からないから、他の人には違う話をされると思うので、
私にしかされてない話っていうのはあるんですよ。
そしてその人がしている話は全てが事実に基づいているとも限らないんですね。
もちろんこの気持ちの問題みたいなのも一緒に織り込まれてますし、
そういうトータルで、今ここで起きていることなんです。
過去の養育歴についてお話はされてるんだけど、
過去の養育歴を今ここで喋ってるっていうことの意味なんですよ。
それが不意に境界されるんですよね。
理解が進む瞬間があるわけ。
その時に、あそっか、初回そういえばそういう話出てたなみたいなのが、
いきなり全部ではないけど、大事なポイントが思い出されてくるんですね。
そうすると、必要な質問というものができるようになるんですよ。
ここにミッシングリンクがあったな、みたいなのが何となく分かる。
その時に例の、昨日もお話はしたけど、
ハクチューンを見てることがしばしばなんですよね。
だって知りもしない人のお父さんやお母さんを僕が勝手に幻想というか幻聴で声聞いて、
その人と喋ってるんで、お風呂の中とかでよくやるんですけど、
なんかこうまどろんでるんですよね。
お風呂の中で寝ちゃまずいんで、まどろんで、
風呂に入ってるという意識は保ったまままどろみながら幻聴、
見えたものを聞いて、
いきなりなんかね、こう、あ、そうか。
なんで俺これには気づかなかったのか。
アホだなって思ったり、面白いなと思ったり、
とにかく大体の場合全部入ってるんですよね。
最初のお話には割と全部入りだったりするんですよ。
不思議な全部入りなんですよ。
でもまあ無理だったなとも思いますけどね。
どんなに傾聴してどんなに聞き込んでいたとしても、
やっぱりわからないことはわからないんだなっていうのはありますけど、
で別にわからなくてもいいっていうこともあるんでね。
その辺はどいたけおさんがよくおっしゃってたみたいなんですけど、
わかろうとしすぎてはいけないみたいなね。
それはそうだとは思うんですけど、
でもこのわかろうという意欲が機能しないと、
なかなか聞き込むこともできませんから私では。
美音クラスになってくると一切わかろうとしないんだけれども、
注意を漂わせてるみたいな、
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そういう特殊な芸当ができるようになるのかもしれませんけど、
僕じゃあ無理なんで、そこまではね。
平等に漂わせる注意とか、あれはフロイトの言葉ですが、
平等に漂わせる注意が大事だってのは、
やってると本当によくわかってくるんだけど、
そんなことできませんからね。
そもそも分析と違って空間を共有してないんで、
どこに平等に漂わせるんだよって話も当然ありますしオンラインでは。
人間の空間意識って本当に不思議で、
どこってのはある気がするんですよね。
二人の間の空間みたいな、ないんですよ本当は。
二人の間には空間はあるかもしれないけど、
その空間は意識されてない。
私と海外にいる人の間にある空間ってどこだよって話になっちゃうんで、
そんなものはないんだけど、
でも心の中には空間があるんですよ。
この心の中に空間があり、しかもそこに時空が流れているということ、
時間が流れているということになると、
それはよく打つポジションに入っているわけですよね。
いきなり話が飛んでますけれども、
心の中には空間があるってことですよ。
この心の中で例えば、私の場合で言うと、
何でもいいんですけどね本当にね、
好きなことをイチャイチャしてますみたいな空間があったとすると、
すでに私はよく打つポジションにいるんで、
いつよく打つに襲われるかわかったもんじゃないですよ、
そういう安逸を貪ってますと。
なんでかっていうと、空間がないからこそ排出でことは済むんですよ。
なんかこうね、私がセッションで失敗したなと思ってしまうと、
グッドバイブス的にはあれですけど、やっぱり失敗したなとか、
後悔したとするじゃないですか。
この時、苦痛だから排出しようというだけであれば、
ほとんど私は心の空間を使わないので、
それはもうだけど、セッションに来た人が悪いよねみたいな、
よくわからない理屈を振りかざせるわけですよ。
自分の心から排出しようとするから、
悪は自分の中にはないわけですよ。
悪は外にあるってことにするわけですね。
この場合、空間っていらないじゃないですか。
私が良くなかったかもしれないっていうのは、
そういう情景なりイメージなりを、
心の中に留めておくってことができるってことですよ。
できちゃうと、悪は心の中にあるじゃないですか。
誰が悪かったにせよ。
そうすると、その心の中にある悪ってのは、
そもそもいつ起きたんですかっていう、
時間の流れが意識されてしまうので、
それはさっき起きました。
私がやりましたみたいになってしまって、
欲打つ的になるわけですよ。
これが欲打つポジションですよね。
だから心の中に空間があるってことは、
すでに時間はあるわけですよ。
多くの場合、その心の中の中身は記憶ですから。
記憶というのはつまり、
さっき起きたっていう意識ですから、
この同じ空間には、
時間という形によって、
複数の空間が入れられるっていう意味になってしまって、
そこでお前は何をしたって話が出てしまうわけですよ。
そこでお前は何をしたって言ってるのが、
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当然私の長自我なんですけど、
自分で自分を、過去の自分を攻め始めるわけですね。
これが欲打つポジションですよね。
だから空間が心の中にありますっていう人は、
すでに自分で自分の内省ができ、
反省ができるということを意味するんですよ。
で、これをやりたくないですという場合、
できませんとやりたくないですは違いますよねってことを、
松木さんが言っていて、
できないんだったら精神病推奨。
やりたくないからやめ。
空間せっかくあるけど使いませんというのが、
パーソナリティ障害ということで、
何をするかっていうと、
じゃあちょっと気晴らしにパチンコでも行こうみたいに、
行動に訴えてしまうわけですね。
心の中から、心の中に嫌なことが留まっているのが嫌だから、
気持ちよくなるわけですよ。
ウサを晴らすために温泉とか行っちゃうわけですよ。
温泉に行って気持ちよくはなるんだけど、
その時はなんかすっきりするんだけど、
心の中に空間があるんで、
家に帰ると戻ってきちゃうわけですよね。
嫌なこととか悲しいこととか残念なこととか、
さっきやらかしたなっていうのが、
温泉に行った時はおいしいものでも食べて忘れるんだけど、
車飛ばして家に帰ってくると戻ってくるわけですよ。
それがつまり、
嫌な考えは心の隅かを求めるみたいな話で、
カウンセリングに行ってそれを排出して、
カウンセラーの方に押し込むということによって、
カウンセラーの人が抑鬱を代行してくれるというやり方があるんだけど、
それもやっぱりカウンセリングを受けている時はいいんだけど、
戻ってくるとですね、
家に戻ってくると戻ってきちゃうじゃないですか。
だからこれから逃れられない。
もともとそれはその人の心の中にずっとあるものなんでね、本当は。
これがただ空間があるかないかによって、
あるいはそのキャパシティの大きさによって排出が増えるか、
心の中に留めておけるかという違いは出てくるんですよね。
心の中に留めておいて、
初めてある意味その反省しないという、
あえてですね、グッドワイブス的に罪はないとか、
これは考えている結局結果ですから。
一切何も考えずにこれはできませんから。
一切何も考えないと大抵の人は、
排出して人のせいにするか、
ひたすら行動に訴えるということになってしまうので、
要するに精神病水準か、
パーソナリティ障害で頑張るしかなくなるので、
うまくいかないわけですよね、多くの場合。
嫌なことがあったわけですからね、既にね。
それはないことにはできないので。
というわけで心の中に空間があるという話になっちゃってたわけですけれども、
話を元に戻しますとですね、
これを人のものを私の心の中に留めて、
私がそれを消化に入るんだと思うんですよね、
一種の理由ですよ、これは当然。
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この消化に入る過程で、
まどろみみたいなものとか、
物思いみたいなものが始まって、
相手の人のおっしゃっている話の全体というものを、
自分の心を使って咀嚼というのか、
理解というのかしていくわけですよ、多分。
これをやるためには、
素材にもっともっと集中していかないと、
素材はつまり相手の方からもたらされるエピソードなんですが、
これが素材になっているので、
この素材にもっともっと意識をどんどん集約していかないと、
とてもじゃないけど、
何かに行き着くことはできないので、
形状という話になると、ロジャーズになると。
非常に遠回りしてきましたけれども、
そういうことなんだなと。
そういうことなんですけどね。
そんなのは、そこら辺の教科書に普通に書いてあることなので、
抽象的には十分理解、
誰だってって言ってもいいぐらいの、
今さらな話なんですよ。
しかし、いざこれをやるとなると、
やっぱりこう、やったことないですからね、こんなことはね。
1回で人の話をそんなに込みったところまで理解していくっていうのは、
そしてそれが私に話されている意味まで含めて、
理解を深めていくっていうのは、
やっぱりこう、なかなか、なんて言うんですかね。
努力を要、要努力ってやつですね。
努力を要しますねっていう話をしたいだけなわけではないんですよ。
そしてここから、意外なほど、想像以上にと言ってもいいぐらい、
あの、全概念って言ったらいいのかな。
あんまりこの言葉は、私もよくわからない上に好きでもないんで、
出さないようにしてきたっていうところもあるんですけどね。
あのですね、意外なほどやっぱりこれがですね、
私の思い込みかもしれませんし、
読んでる本に偏りがあるっていうのはわかるんだけど、
でもそうじゃない気が本当に、
もうこういう言葉を何度も何度も僕言ってますね。
つまりエディプスコンプレックスっていうものが絡んでくるなっていう、
お話を伺うたびに思う。
そしてそれは常に自分のエディプスコンプレックスについて、
悩み始めるきっかけになりますね。
なんかおばあちゃんで会ったのかって言われると本当困る。
ないんで。
やっぱりエディプスコンプレックスを発見したフロイトは偉いなと思うんですよ。
実際そんなことはないのに、
みんなこれ持ってるんだなっていうね、
慈悲。慈悲ではないんでしょうね。
人の心とはそういうふうにできてるんでしょう。
私も本当に別に不母に思うところは今ないんでね。
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もう持ち出すこと自体がちょっとね、
それこそ罪悪感とはでは言わないまでも、
やや良心が痛ぶというか。
良心だけに。
つまり親のセックスを見たかって話が
現光景っていう言葉で表現されてるんですね。
新聞籍では。
見ちゃいないと思うんですよ。
でもことはこれがややこしくする。
三島由紀夫がね、
午後の栄光って本で書いてますけど、
それが許せない。
そういうふうには書いてないけれども、
三島由紀夫は間違いなく精神分析をベースに置いてるんで、
14歳になる前にでかい犯罪を起こそうっていう。
14歳になっちゃうとあれですよ。
14歳未満の者はこれを罰してはならないという、
昔あったんですよね、一文が。
今ちょっと年齢下がってるような気がするんですけど。
これ頭のいい子は意識しますよね、はっきり言って。
じゃあ14歳前だったら、
殺し合ってもいいんでしょみたいな、
これはもちろん軽いのりの話ではないですよ。
梅塚雑夫さんが14歳という、
なかなかグロテスクで大長編の漫画を書いてますけど、
当然意識は入ってますよね。
とにかくこの14歳という年齢になる前に、
男の子がでかいことを指摘すっていう、
本当に指摘してるのかどうか大変怪しい。
その辺も三島さんは上手いんだけれども、
彼の中でやっぱり、
ママ父っていうんですよね。
再婚相手のお父さんと自分のお母さん。
お母さんめっちゃ美人でめっちゃスタイルもいいっていう設定なんですよ。
三島由紀夫だなって感じがするんですけど。
その二人のセクスを覗いてると、ずっと覗いてると。
その14歳になってない少年がね。
そしていつもその満14歳未満の者はこれを抜してはならないというのを読んでいて、
間もなく14になってしまうなってしまうっていう、
そういう心理描写が盛んに書いてあるんです。
これ現光景にまつわる話ですね。
現光景っていうのは、腹っ端の腹に光景ですね。
特にここはママ父になってますからね。
この父親が怒りと憎しみの対象であることは言うまでもない。
そしてその覗きが興奮しているこれも言うまでもないわけですね。
悪いお父さんがいいおっぱいを独占していて許せないんだけど、
自分はそれを覗くとなぜか興奮しちゃうよねっていう現光景にまつわるお話ですね。
完全にエリプスコンプレックスですけど、
これがですね、やっぱり私にも全く同じのがあるっていうのが考えてみると、
実に怒りじゃないですか。
私、当然父親は実の父親ですし、
現光景見た記憶もありませんし、
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そんなに父親に対してその理由で怒りを覚えた記憶もない。
端的に言うとないわけですよ。
しかし、私の散々喋ってますけど、
性的な死壁は完全にいい母親を精神的に罰するというところに
最大の何かが興奮材料になっちゃうわけですよ。
で、いい母親というのはここがですね、あれですよ。
なんだっけ、ひもての品格にも書いてありますけど、
日本の男はみんなロリコンだみたいな大きな誤解なんですけどね。
私が思うにそうではないんですよ。
そんなこと言うなら日本の男はみんなマザコンだの方がよっぽど、
それだったら世界乗っていってしまって、
ちょっと主語でかすぎるけど、まあまあその方が通りがいい。
大体それに日本の男はみんなマザコンだと平気で言うじゃないですか。
マザコンとロリコンって年齢が逆向いていてダメだろってやっぱりいつも思うんですよ。
自分の母親が自分より年下ってことだけは、
現段階では物理的にありえないし、
ロリコンっていうのは普通は年下趣味っていうことになっちゃいますからね。
僕は全く逆だと思っているんですよね。
マザコンなのは当然なんですよ。
で、問題なのは、しかし、
母というものはやっぱり直接実母をイメージしちゃダメじゃないですか。
それはやっぱり生々しすぎるわけですよ。
そこで母親なんだけど脱母親化するという、
当然そういう親的操作をしますよね、無意識に。
だから年下のように思える年上の女性になるわけですよ。
現に私がセーラー服がどうのこうのっていうのに強い興味がいたのは、
記憶している間違いないと思うんですけど、8歳ですか。
まずここの段階であの種のことを書く人の頭の中にあるのは、
おじさんだってやつでしょ。
おじさんは生まれていきなりおじさんとして生まれてくるはずはないんですよ。
生まれてきた時は坊やなんですよ。
そしていつ性欲が発生するのかってことについて、
世の中の人のイメージがどこに置かれているのかわからないんですけど、
僕はフロイドはすごい正しいと思うんですよね。
エリフスコンプレックスって4,5歳ですよね。
遅くても6歳に送ると思う。
でも4,5歳だよな、もっと前だと思う。
3,4歳だと。
つまり少年の性欲が最初に活性化するのは3歳付近にあるはず。
おじさんって、おじさんになるまで性欲が活性化しないのかって言ったらナンセンスじゃないですか。
そのように考えるってのは本当にどうかしてると思うんですよね。
そんなことあり得ないじゃないですか。
春季の少年の引き出し漁ればすぐ分かる話ですよね。
今だったらね、とか。
キャッシュですよね。キャッシュ見ればすぐ分かりますよね。
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おじさんのはずがないんですよ。
だから、その時セーラー服に興味持ったらそれは年下趣味とは言えないじゃないですか。
半歳児ですからね。
私が遅くともう7歳には絶対あると。
小学校1,2年ですね。
もっと前だと思いますけどね。
だから僕はオクテだったってことですよ。
その時にセーラー服っていうのはですね、
お母さんですよ。
ただし、お母さんというのを意識する、
それを性的対象として見るのはすなに無理ですよ。
5歳と言えども、それは無理ですよ。
お母さんはダメだって思ってますもん。間違いなく。
同じぐらいの年頃にたって、
お母さんにいつまでもひっついてるって言ってすぐ殴るけるですからね。
昭和ってそういう時代ですから。
なんでお母さんにひっついてるって言うだけで殴るけるが始まるのか分かんないけど、
男の子っていうのはそういう目に合うんですよ、割と簡単にね。
私なんかよくエアガンとかで撃たれてたわけですよ。
エアガン痛いんですよ、めちゃくちゃね。
大体近隣にろくでもない奴がいてですね、
お前はお母さんと一緒にいたからエアガンで撃つみたいな、
わけわかんないことを言ってすぐ撃ち出すやがるわけですよ。
こういう目に合うから、当然お母さんは避けます。自然と。
だけども対象はお母さんのまんまだから。
さっきの午後の栄光ですから。
お母さんがそんなに綺麗だったんですかって言われると困るんだけど、
そんなことはない、ない、当然。ないんだけど美化するからね。
美化もしない理由がないじゃないですか、脳内ではいくらでも空想ができるんだから、
当然美化しますもんな。
美化するから美少女なんですよ。
だけどそれは高見お母さんなんですよ。
これが分かってないから、
マザコンだとかロリコンだとか意味の分かんないことが平気でまかり通ってしまうわけですね。
私はこれ、原光系、
それをそういう美少女お父さんがものにしているのを見ましたかって言うと
見しも見きもしありませんし、見てません。
と思います。
が、私が2歳の時に妹を生まれてますから、
当然やってたわけですよね。
ここで大事なのはですね、
私は妹を生まれた時のことを覚えてるんですよ。
2歳児の時の記憶とかないですよ。
でも妹を生まれた時のことは覚えてるんですよ。
これはやっぱり相当その頃に
強烈な空想をメラニ・クライン偉いなって思うんですよね。
多分2歳児の子を精神分析してしまったから彼女は
分かってるんでしょうね、いろんな言葉で。
聞いて分かったんでしょう。
私は多分知ってはいないですよ。
ここが難しいんですよね。
さっき全概念って言葉を串走りましたけど、
知っているはずないですよね、2歳児がセックスを。
でも知らなくはないんですよね。
藤山直樹さんが精神分析科の藤山直樹さんが
赤ん坊はもちろんおっぱいというものを知らないが
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ボールペンには吸いつかないっていう表現で
このことを説明されてたんですよね。
だから生まれながらにして赤ちゃんは
おっぱいは知っている。
でもおっぱいというものは知らないっていう状態があって
この辺のことっていろんな哲学とかでも
しょっちゅう話題になるじゃないですか。
タブララサって言って。
要するに全く節のまま生まれてくるのか
ある種の知識は持って生まれてくるのか。
持って生まれてくる派がだいたい今では
コンセンサス取りつつある気がするんですよね。
ピアジェがやっぱり赤ちゃんは空間の
下がガラスで落ちるってなったら
そこには近づかない。
つまり全ての知識は経験でいるわけではないんだ
っていうことですよね。
ある程度知っていることはある。
動物見てるとそう見えますよね。
動物って知識を持って生まれてくるわけじゃないけど
うちの昔飼ってた子犬もそうでしたけど
生まれて初日でも危険なところを
何らかの形で避けることができているんじゃないと
野生で生きていくことってできないと思う。
だから経験だけが知識を作るわけじゃない。
これに対して当てた言葉が
全概念という言葉なんですよ。
全概念としてのセックスは何なのか。
クラインの言葉だったかロイトだったか
現光景というものを見てなくても
サイキックリアリティはあるはず。
心的現実はあるはずだというわけで
現空想という言葉を開発しているわけですよ。
この辺は本当に言葉がいよいよ入り組んでくるんで
私もスルーしてきた感じなんですけど
でも現空想しか考えられない
私が知ったものはと思うんですね。
この現空想が私を興奮させるんでしょうね。
それが一番妥当な感じがする。
だから身元が生まれた前後で
私は父母のセックスを誤解してわけわからない空想を作ったわけですよ。
それによると多分なんですが
父母が一緒になって母をいじめて
こういう光景だった。
それっておかしいでしょって言われるかもしれないけど
空想ですから光景じゃないんだよ。
だから現空想の中では
おそらく父母が一緒になって母をいじめていた。
ここで分割するんですよ。
いいおっぱいと悪いおっぱいで
いい母親を悪い父母がいじめていた。
この悪い父母ってのは私にはもうおそらく十分あったと思うんですね。
つまり怒られるじゃないですか。
2歳ぐらいになってくる。
うちの親なら2歳児とかも平気でガンガン怒りそうなんで
怒られたと思うんですよね。
非常に攻撃的で意地の悪い父母というものがいて
33:00
時間の概念が不十分ですから
同じ空間を両者が占めてしまうんですよ。
それがいい母親をいじめる。
それを覗き見する。
これを空想と言うんだと現空想と言うんじゃないかなと思うんですよね。
5歳ぐらいになってくるともう
そのまんまの光景を想像するのは気持ちが悪いので
生々しすぎるので
いい母親は美少女に化ける。
悪い父母は不良少年少女ぐらいに化ける。
こういうビデオとかなら
私は間違いなくいけそうな気がします。
これを女性がやるとどうなるかなって
私はいつも最近考えるようになったんですね。
これを女性がやるとなると
いろいろ考えられますが
私のような空想ではありえない。
しかしおそらくベーシックには
相当似たものになるんではないかと思うんですよね。
ここでファルスっていう概念が
重要な意味を持ってくるんじゃないかと。
母親が2人いておかしくはないだろう。
シンデレラがそうですよね。
シンデレラのママ母っていう役をやっていて
シンデレラを掃除をしとか言ってるのは
あれシンデレラに掃除をさせ始めた母親ですよね。
シンデレラはおそらく相当甘やかされて育っているので
かなり大きくなるまでお掃除はせずに住んでたと思うんですよ。
だからいいおっぱいしかない世界に生きていたから
お母さんはとても優しかった。
お母さんはとても優しかった。
そりゃそうですよね。
ゼロ歳児の時に
あの種のそこそこ上流のお家だったら
お母さんはとても優しいわけですよ。
でも4歳5歳6歳となってくると
しつけとかいうやつが始まる。
3歳ぐらいかな。
始まると思うんですよ。
シンデレラは泣きながら掃除をしてましたって
お母さんがただ掃除しろって言ってるんですよね。
あれね。
だからママ母になってるっていうのは
シンデレラがいかにナルシスティックに生きてるか
っていう証拠だと思うんですよ。
お母さんは急に意地悪くなった。
そうかあれは本当のお母さんじゃないんだと。
この概念は非常に分かりやすいですよね。
ただあの話は童話なんで
そういう家事の話にしかなってませんけど
そこに性を持ち込むんですよ。
そうすると何が起きるのか。
ママ母が実母をいじめる。
そこを興奮する。
ありそうな気が僕はすっごいするんですよね。
それは原空想的な世界ですよね。
こういうことがですね。
養育歴の話。
親生親類筋の話。
盛んになされる登場人物の間において
この原空想が動いてると私は思うんですよ。
現に私だったら
ロボの話をするとき
さっきのような不良少女に連れて行かれちゃった
真面目な女の子みたいな想像に
絶対に関係があると思うんですよね。
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これが力動的に動いてくると思う。
こういう話を人にするときに
どこをどう主者選択するかというのが大事になってくる。
ものすごい大事になってくると思うんですよね。
母親2人いない?その話の中に。
っていう話ですよ。
片方は親戚のおばさんになってるかもしれませんけど。
そういう話を聞き込みながら
でももちろん親戚のおばさんの話として聞くんですよ。
聞くときはね。
それが言語水準って意味じゃないですか。
だから言語水準は
分かったような気にはなるけど
分かりはしないと思うんですよ。
具体的にそこで取り沙汰されている
自分との人間関係と
イメージされているときに
そこに込められている意味とは
一致していないってことですよね。
本人はしかも一致していないとまでは思ってないにしてもですね。
そういうことが起こっているというふうに
想定してかからないと
ある程度ね。
想定してかからないと
本当に単なる
その人を取り巻く人間関係について話を聞かされているような気になってしまうんだけど
そんなことはあり得ないと私は思うんですよ。
やっぱりブラック企業の
ハワハラ上司
特にそれが男性だった場合は
それ悪いお父さんだよねっていう
悪いお父さんとは何かってことですよ。
で、その悪いお父さんは昔
私のことをよく殴りましたみたいな
それは絶対悪いでしょっていう話になってきます。
同一視されるっていうのは
そういう意味だと思うんですよ。
そういう話ってよく聞くじゃないですか。
やっぱり普通にね。
だからこの普通によく聞く話の中で
普通によく聞きありそうな登場人物が
いろんな人がいろんな人について喋っているにも関わらず
なぜか似たような話になっているというのは
やっぱりそこに人間のやることだから似ているっていう解釈もあると思うんだけど
そうではなくて
人間のやっていることに対する解釈は似てくるっていう方が
遥かに私には説得力を持つなって感じがするんですよ。
いや、でも部落企業悪いじゃないですかって言われると
だから困るんですよ。
部落企業は悪いです。
でもそれは今ここで私になすべき話ではないと思うんですね。
その話だったら
それこそ厚生労働省とか
わかりませんけれども
なんかそういう労働に関する問題を扱っているところに
だから今ここでその話はなぜ出てきたのかっていうのが
変わってくるんですよ。
その人その人で。
部落企業が悪いって話を私にしても
世間話になってしまうじゃないですか。
それをわざわざお金払ってする話ではないと思うんですね。
いや本当ですよね。
最近トヨタも良くないですよね。
じゃあってことになっちゃうんですが
それはよもよま話ですよ。
それをするならそれをするのでいいんでしょうけど
39:00
それだったらどっか喫茶店に行って
2人で話しとけばいいわけですよ。
そうではない話をやっぱりそこではなされていると
たとえ表面的にはどういう話をしているのもせよ
そうでない話がなされていると
だからやっぱお金って大事なんだろうなっていう
カウンセリングにおいてね
カウンセリングがただで行われてしまったら
部落企業は本当に単なる部落企業になってしまって
そこに悪いお父さんも悪いお母さんも
ハルスも何にも出てこないってことになっちゃうんですよね
前提として。
それじゃダメですよね。
それではその人の情緒にとって
何一つ問題提起がなされていないまま
おしまいになってしまう
いうことなのかなと
その辺のことをウィニコットが言ったんでしょうね。
国家が保険で相談を肩代わりしてしまったら
クライアントはカウンセラーを憎めなくなるじゃないか
こういういかにも彼らしい独特の表現ですけど
カウンセラーを憎むってことが大事なんだよっていうことなんですよね
それは憎しみとしての逆転移みたいな話に
繋がっていくんでしょうね
結局それはあなたは親を憎んだことがあるでしょう
っていうことなんですよ