2023-03-28 51:33

【760】内心を読む弊害

内心というものはない
00:05
おはようございます。グッドモーニング・ボイスです。
ただいま、3月28日火曜日の夜20時ですね。はい。
もはや、モーニングとは何ぞやという感じですが、あの、まあ、いや、いきさつはともかくとして、実家に帰っていたためにですね、
昨日は一日が潰れ、今日は朝から、なんかこう、歯医者に行ったり、薬場に行ったりしているうちに、こういう時間になってしまいましたと言った感じです。
で、あの、今週はもうお知らせは飛ばしてですね、このまま、あの、今回は本題に入ってしまおうと思うんですけれども、
最近ですね、自分、しばらくですね、こう、長字画対象、対象ってつけているのはこれから軽く説明しますが、
要するにこう、長字画というものが一つの僕の今、いまいまのホットワードで、これに集中しようと思い始めて、しばらくやっているんですね。
で、あの、目標は、まあ、起こらないことなんだけど、えっと、もう、起こることにまつわる全てを、もう、やめていきたいと、手放していきたいと、いうふうに、えっと、思うようになって、
とにかく、いろいろあるんですけれども、あの、自分はもうこう、まずまず自分の問題というのは、どこから行っても最後はこいつに来るなという、長字画対象と、まあ、子供時代のね、えっと、自己対象、このセットの問題なんだなと、
最近本当に思うんですよね。で、まあ、どこを、こう、に、えっと、どこにチャレンジしてもいいんだけど、やっぱり自分の場合はこの長字画対象が一番問題で、あの、まあ、一番黙らせたいというのか、えっと、なんて言えばいいんですかね、不合理な存在というのかな。
えっと、私に何ももたらさないのに、私からいろんなものを求めてくるという、そういう存在、いうならばですね、まあ、あれですね、その、無駄にエネルギーをいっぱい食うが、あんまりこう、恵みをもたらしてくれないというか、そういう存在なわけですよ。
そのことを、えっと、つくづく感じるので、まあ、そうは言っても、そんなものとずっと付き合ってるからにはわけがあるんですけど、えっと、そのわけを含めてもですね、もう、えー、とにかくこう、まあ、腹立たしいっていうのはおかしいんですけどね、えっと、腹を立てないために、えっと、これを黙らせたいのに、これに腹を立てるというのは、なんかいかにもナンセンスなんですけれども、まあ、そういう問題。
03:20
で、えっと、今日はですね、まあ、あの、個人セッションと言いますか、その3ヶ月チャレンジを現在やっていて、最終3ヶ月目に入ってきて、まあ、過強に入ってる感じなんですね。
で、この3ヶ月チャレンジでは、すべての参加者さんと毎週1回ショートタイムでセッションをすると。
まあ、このショートタイムが、えっと、微妙に1時間突破したりもするんですけど、まあ、えっと、方針としてショートタイムね、えっと、カウンセリングじゃないんで、別に時間を絶対守んなければならないとは思わないんだけど、ショートセッションをしているわけです。
で、ここで内心というキーワードが出てきて、これは私の問題と全く原則同じだと思ったのでですね。
えっと、まあ、全く私の問題と同じなわけじゃないんだけど、この超自我の問題というのは、人それぞれの性格に合わせて、あるいはその時に置かれている状況に合わせて、さまざまなパターンを持ってくるんだけど、そのさまざまというのはそんなに多くはないんですよ。
まあ、あるワンパターンじゃないんだけど、数パターンしかないんですね。
で、そのうちの一つにこの内心を読むというやつがあって、昔私も大いにこれで悩んだんですね。
今これは大いにやらなくなっているんですけれども、やっぱりこれがですね、これもまた超自我問題という、私がセットで持っている超自我対象症候群みたいな、長いんだけど、漢字ばっかりなんだけど、そういうものの一つだなと。
全部消えたら実にいいんですけれども、なかなか全部は消えてくれてないわけですね。
さまざまなあの手この手でというのが、あの手この手を超自我がとる理由は本当はないんですけれどもね、実にさまざまなところからぴょこぴょこ出てくるわけですね。
モグラ叩きみたいなんですよ。叩いても叩いてもなくならないみたいな。叩いてはいないんだけどね。
まあそういうことが、の内心と。内心という問題。で、内心というのはですね、内心を読むとかって言うじゃないですか。
僕はその、自分の経験というよりは、よくこの話をすると通じるということと、確かに自分もそういうところがあるというので、よくATMに並んでる人の後ろの目が気になる、あれなんですよね。
その時我々は、その人の内心を読めている気がしているんですよ。
06:00
たぶん何もたまたやってるんだとか思われてるんだろうなって思い始めると辛くなるわけじゃないですか。
で、内心を読むのの面白いところは一つには、この辛くなるってことしか起きないような日が僕はしているんですね。
いや、この人内心で俺のこと好きなんだろうなとかって思える話もあるはずなんだけど、あんまりなくて。
内心でこいつは俺のことをやがってるんだろうなとか、うるさいと思ってるんだろうなとか、脆いと思ってるんだろうなっていう方がはるかに多いんですね。
はるかに多く聞く気がするんですよ。
まずこのこと、単純にこのこと一つ取っただけでも、内心を読むメリットって少ないなと思うんですよね。
だって嫌な気分になるばっかりなんで、内心を読むことによっていい気持ちになることっていうのがすごく少ないんだったら、この内心を読むこと自体の報酬ってすごく少ないことになるじゃないですか。
少なからぬ人が言うのは、内心を読むことで、つまり内心を悪く読むことで、自分のアドバンテージを確保できるって言うんですよ。
一旦これは仮にそうだとしても、すごく割は悪いと思うんですよね。
コストパフォーマンス的にはかなり最悪だと思うんですよ。
実には内心を悪く読むほど、結果が良くなるって言ってないんですよね、ここでは。
多くの方が指摘しているのは、内心を悪く読んでおくほど、私はいらぬ失敗を減らせるから安心であるっていう話をしていると思うんだけれども、
その場合、内心を悪く読むのは、かなり断続的にそうしておく必要があるわけじゃないですか。
例えば有名な人にメールを出すとか、そういう時にこれが現れると思うんですけど、
でもこの有名な人が私のメールを読んで、もしかすると秘書とかに、秘書じゃないですけど、アシスタントに丁寧なメールを書かせるけど、
内心ではなんてウザいんだろうって思われるかもしれないとか、そういう時にこれを使いますよね。
この時も、例えばその有名人の内心をうんと悪く読んでおくほど安全だって話になるわけですが、
そういう話をよく聞くんだけど、つまりそうすると多分メールなんか出さない方がいいよねってことになるはずなんですよ。
一つ一つそうやっていくとね、例えばこれもよく聞くんだけど、
ツイッターなりで、今度4月1日に私セミナーしますけど、セミナーのCMをすると、それを読んだ人の気持ちとして内心ではですね、
09:02
こいつはCMばかりしている、金もなくてダメなフリーランスだと思われるという風に思っておく方が安心だというわけですね。
そう思っておかないと、バンバンツイッターで宣伝をして、多くの人の内心でですね、多くの人はそれに対して抗議の文章とか書かないだろうし、
デモとかも起こさないと思うんですよ。あくまでも内心で気を害するというわけなんですよね。
だから表面的には見えてこないんだけれども、みんなは内心、このCMを見て気分を害している。
で、そういう風に人の内心を悪く推測しておけばおくほど、図に乗ってろくでもないことをせずに済むから安心なんだという考え方でいくとですね、
必然的に私はCMを極力打たないほど良いってことになるわけで、そうすると多分私はセミナーをしないほうが良いってことになると思うんですよね。
そもそもセミナーってあれじゃないですか、人によってはこんなセミナーしやがってる、カンセリングの知識も資格もないくせに、
こういうちょっと怪しげなことをしているという風に誰かに内心思われてるかもしれないと、その人も抗議の文章とか送ってこないから余計怖いってことになるわけですよね。
そうした時、やっぱりその人の内心を悪く悪く考えておくほど良いと、ただ非現実的なほど悪く考えるほど良いってことになってくると、
その人はもう怒り浸透で家に火をつけにやってくるとか考えるほど良いってことになるんだけど、そう考えることはできないと思うので、
内心で気分を害するあたりなんでしょうね。
で、内心でとりあえず何でもいいんだけど悪く思っておくほど良いわけですね。
だから私はそのうち収益、収入源を多分無くすことになると思うんですよ。
これを本当に実行したらですね。
ということは無くしていないってことはですね、どっかで妥協しているんですよね、その内心悪く思う戦略というのも。
多分とことんやれば誰であってもですね、人の内心は結局表には現れないから内心なわけだから、
何もできなくなっていくはずなんですよ、どんな人であっても。
どれほど好かれている人だとしてもですね。
で、この内心というのがまずそんなに悪いものになる理由は、今言ったような内心を悪く予測しておくことで、
図に乗らずに済むという考え方だからなんですけれども、
この図に乗らずに済む、何でもいいんですけどね、
やらかしてしまわずに済むでも、
下げる敵意を未然に減らしておくでも何でもいいんですけど、
全てこう何らかの形でネガティブな判定をそこに含んでおりますよね。
で、それもそうしておく方が安心だっていう理由だって言うんだけれども、
12:04
ということはですね、私はそれは、
ここがちょっと説明がですね、厳密にやろうとするとややこしくなってくるんですけど、
長時間対象がアクティベートされる直前の付近って感じがするんですよね。
つまり、そういうことに文句を言い出しそうな自分の心の中の親みたいなもの、
親対象なんだけど、親みたいなものが目を覚ましかけていることに対する不安なんだと思うんですよ。
まず、例えば私なんかは割と図に乗ってるとかには興味がないんですよ、他の人がですね。
つまり、図に乗っていることを問題にするかどうかっていうのは実は相当個人差があって、
絶対それはダメだ、調子に乗ってるとか図に乗ってるというのはほぼ死刑に相当すると思っている人から、
私のようにあんまり興味が湧かないっていう人までかなりここはばらけるんですよね、実は。
そうすると、図に乗っているから罰しなければいけないとか、パージしなければいけないっていうのは客観的な指標じゃないんですよね。
確かに客観的ではないと思うんですよ。法に書いてないですもんね。
図に乗ったものは懲役3年以下または50万円の罰金とかそういうの書いてない。
僕は書いてるのは見たことがないような気がするんで、多分あんまり民法とか刑法とかこれは詳しくないですけどないと思うんですよ。
ということはこれは客観じゃないんですよ、多分。コンセンサスも得にくいんですね。
コンセンサス得られるっていう風に調子に乗ってる人に対して攻撃的な人は言うんだけど、僕は全然同意できないんですよ。
多分調子に乗ってる人を見るとすっごい気分が悪くなるというのは多分にかなり限られたバイアスの強い主観なんですね。
この主観は、でもそういう漫画っていっぱいありますよね。あいつ図に乗ってるから締めようみたいな。
なんか不良系なんですけどね、あんまり僕の人生と関係があんまりこれまでなかったんで、正直ピンとこないところもあるんですよ。
なんかよく出てくるからそういうことってあるんだろうなと思う一方で、
僕がそういうものを毎日毎日見かけていたかというとそういうことがないんで、
もっと違うことの方が問題になりやすいような気が僕はするんですが、
まあその図に乗っている系の話、何でもいいんですよこれは。何でもいいんです。
後ろの人を待たせていてもたもたしているでもいい。もたもたと図に乗っているのは全然違いますもんね。
で、両方ともダメだっていう人ももちろんいるでしょうし、どっちかがダメだって人もいるでしょうし、
どっちもオッケーだって人もいるんだと思うんで、つまりこれは主観なんですが、
その主観の中でここを抜したいのはやっぱり長自画対象、その人の長自画対象だと思うんですね。
15:01
で、その人の長自画だと私が、長自画だと言っても全然いいんだけど、
対象っていちいち繰り返しているのは親とはもう別口なものになっている、別物になっていると思うからなんです。
多分その人のお父さんかお母さんか両親両方はそういう価値観は持っていらっしゃったと思うんですよ。
つい乗っていちゃいかんよみたいなそういうのを持ってたか、もたもたするんじゃないと散々言ってたか、
そういうことはあったと思うんだけど、もう言ってないと思うんですよ。
耳元でバンバン言われてるってわけじゃないと思うんですよね。
だからインストールとかって言うんだけど、インストールっていうよりも、
自分の心だってことをここは強く意識しておいたほうが、多分この問題に対峙するにあたって僕はいいと思うんですよね。
心にインストールされたっていうと、実体があまりにも何も見えなくなってしまうから、
それはそれで液状みたいになっちゃうんじゃないですか。
インストールって液体じゃないんだけど、
なんか組み込まれきったみたいな感じがあるじゃないですか。
でも僕はですね、この種のことを考えたとき、自分がそういう疑心暗鬼ってやつですよね。
実体のない不安、勝手に他人の心を読み始めて不安になりだしたとき、
決まって親対象、親じゃないんだけど、そういう親対象的なものが起動した感じを持つんですね、私は。
というところを割と大事にしたいんですよ。
大事にしたいというのは、これを何とかしてしまいたいと思ったときに、
完全に自分の心と一体になっていると何ともしにくいんですよね。
なんかやっぱり自分の心の中に違いないんだけど、外でもあるような感じがする。
この感じがすごく邪魔なんだけど、自分の主観でもあるのに同時で客観的な雰囲気をまとっている。
そういう長時間みたいなのが起動したときに、人の心を読み出す気がするんですよ。
とりあえず、私がそうだな、以前大阪の方で、
それこそ調子よく売れている本の講演をするべく、
割と本位にしていた方と教材するセミナーのメールを送ったことがあるんですね。
この時に僕は内心をすごく読んだんですよ。
すごい嫌な気持ちになったんですよね。
メールを送って、一緒に大阪で教材セミナーさせてくださいって書いただけなんですけど、
こういうのを書くのを僕は当時非常に苦手で、今でも得意ではないんだけど、当時は非常に苦手で、
しかも本がそこそこ売れているという自分の下心を意識していたために、
すごい恐ろしかったんですよね。
なんか相手の人が怒り出すんじゃないかと思ってビクビクしてメールを打ったんですよ。
メールを打って既読になってしばらくレスがなくても、すぐレスする理由どこにもないんで、
そこですぐのレスを求める方がどうかしてるんだけど、すぐレスがないとですね、
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相手の怒りの顔が浮かぶような、私はイメージ能力ないんで浮かばないんだけど、浮かぶような日がしたんですね。
これが私が思うに親対象というか長寿が対象が目を覚ましかけた時に起こる現象なんですよね。
ここのところずっとこの種の話をしているんだけど、万能空想が成立しきった後の感じとは違うんですよ。
万能空想が完全に成立して、私の中でスプリットが起きて、私が良いおっぱいの、つまり長寿がからの正しい出てきを完全に受け入れるとすっきりしてしまうんですね。
長寿がからの完全な出てきというのは、ほら見たことかっていうやつなんですよ。
こういうメールを送るから、そういう目に合うんだから、もう二度と送るのやめなさいね、わかったってなると割とすっきりしちゃうんですよ。
そして私は自分が指摘した悪事なんだか、失策なんだか、図に載った結果なんだかの部分は切り離せる感じがしちゃうんですね。
そうすると自分は白くなるんですよ。
白と黒でいうと黒を切り捨てて、黒ってほどのほどじゃないんだけどね、メールを送ったという黒を切り捨てて真っ白になった。
これで天下晴れて、ここにコミュニティの問題があるんだけど、そこはちょっと飛ばしますね。
人に後ろ指を刺されるっていう言い方するじゃないですか。
あの状態を脱することができて、潔白って言うじゃないですか、白なんですよね。
潔白になりましたという気持ちを手に入れることができるんですよ。
長寿がと一体化すると。正しいんで長寿が。
いかにも親っぽいところがありますよね。
まあ私の親がこうだったかっていうと微妙なんですが、なんかこういうのって親っぽさがあるんですね。
親と先生を合体させて、そこにちょっとですね、なんか世の中の正しそうな、なんか鉄腕アトム的な漫画のフレーバーをちょっと振りかけて、
なんか適当に白っぽくシェイクするとこういうものが出来上がるような、そんな感じがするんですよ。
いずれにしても、なんかこう私由来じゃないんですよ。
すべて親といい、教師といい、鉄腕アトムといい、別に鉄腕先生に何か思ってるわけじゃないんだけど、
そういうものを全部自分の外側から来てるような気がするんですね。
だからなんか客観的に正しいような気がしちゃう。
でも明らかにこれ私の心なんですよね。
だからこそ私の失策ばかりに興味があるんですよ。
ここが非常に大事なポイントですね。
で、この白い対象に同一化するとスッキリ出来るんだけど、
まだまだ相手が怒ってる気がする。
既読になったんだけどレスが来ないみたいな時は、もやもやっと心の中してますね。
このすごいもやもやした感じ。
ある種恐怖に怯えていて、これから悪いことが起きそうだ。
21:01
つまりこれから親に怒られそうだという気持ちを抱えている時は、まだスッキリしてませんよね。
この段階って私はスプリット直前だと思うんですね。
このスプリット直前の何とも言えない嫌な気持ち、これを手放したくて私たちは手を打っちゃうんだけど、
ここでこらえている時に我々は内心を読むという心理活動に入っていく感じがします。
つまり内心を読むというのは、この調子が対象が起こりだしそうだという、
この私の心の中で起きている状態をそっくりそのまま関係当事者の心に投影していくんですよ。
投影していくと言っても関係当事者その場合、見てもいなければ関わっていると言ってもメールを打った程度なんで、
実際には何の直接的なアプローチもしていないんだけど、ただただ心を読むんですね。
だから心を読むと言っているのは、相手の心を読んでいるのではなくて、
ただ自分の心を相手の存在の上に書き込んでいるだけなんですよ。
言ってみればスーパーインポーズみたいなもんですよね。
相手の動画の顔の上にヘノヘノモヘジの顔を描いたりできるじゃないですか。
あれと同じで、相手の心とはこういう状態に今あるんだと勝手に決めつけて絵を描いているようなものなんですよ。
これが投影なんだ。
言ってしまえば投影同一かなんだと思う。
相手はこのように怒っているのだと。
これいるに違いないではもはやなくね。
怒っているのだと。
怒っているのは自分の心の中の超自我なんだけど、
相手はこのように怒っているのだから超自我は空見たことかって言うんですよ。
全く自分の心と同じものを相手に見ているんだから、空見たことかになるに決まってるんですね。
自分の超自我の正しさ通りに相手の心が動いていると決定した以上、
それは推測ではなくて、なんて言うんですかこういうのは。
私が予言した通りになるぞっていう紙芝居を見せて予言した通りになったぞって言っているのに近いんですよ。
つまり、相手の心は関係ないということですね。
本当にそうであろうと本当にそうでなかろうとどうでもいいんです。
私自身そういう経験を何度もしてきているにもかかわらず、
これをやめないという愚かしさがどっかにあるんですよ。
愚かしはないんだけど、これだけのことができるんで。
読めたということに確信を抱けたほど正当率が高くないというか、あまりにも低いにもかかわらず、
24:00
なぜか毎度毎度100%的中できるような気になる愚かしさがここにあるんですよね。
当然なんですね。さっきも言った通り。
読んだ通りの心しか正解と認めない超自我の判定なんだから、
ここはこういう言い方をした方がいいなと。
超自我の想定でそれをやってはいけないんですよ。
私の超自我がそれをやってはいけないと決定したから、それは悪いことになったんですよ。
つまり、私が善悪を決め、私の超自我の対象が勝手に決めた善悪のその悪を私が成したから、
これが悪いことであるのは100%間違いないんですよ、最初から。
だからしかもそれは100%客観的に悪いことなんだから、
これをやられた他人は怒るに決まっているので100%正しく間違いなく怒るわけですよ。
これを持って我々は内心を読むとか言っちゃってるわけですよ。
これは読みでもなんでもないわけですよね。
で、実際はどうかというとですね。
実際はたまたま今回じゃないんだけど大阪でメールを出したときは、
相手の人はただお風呂に入っていて、しかも長風呂をする人だったんで
すいませんメール遅くなりましたみたいな喜んで一緒にさせていただきますと言って
めでたく一緒に協賛したわけなんですけど、
このデタラメぶりが不思議なんですよね。
デタラメぶりというのは全然予測通りじゃないのにもかかわらず、
こういうのは長寿が私は正しかったという証拠として
一つカウントに加えることをしちゃうんですよね。
私はこれ非常に面白いというかむちゃくちゃだなと思うんですよ。
何を長寿が言うかというとですね、長寿が対象なんだけど
私は正しかった、相手は内心では迷惑に思っていたんだが
いい人なので表面的には心よく受け入れた、
不利をしてくれたという解釈を長寿がとしては取るんですね。
私実際こういう解釈を私の心ではそれを信じきれないにもかかわらず、
長寿が対象がそう思っているという感じを抱ける。
どっちも私なんですよ。ここ非常に大事です。
私は分裂してるんですよこの時。スプリットしてるんですね。
長寿が、これがいい長寿がだって言ったから不思議なんだけど
いい長寿がによると、あの相手の人は本当はヘキヘキしていたと。
一緒に教祭なんかしたくない、面倒くさいし
佐々木とやっても大して得にならないんだけれども
この時はたまたま機嫌がよくお風呂に入っていたから
その後メールを読んで一緒にやってやるかと思ってくれたのだという解釈をするんですよ。
そして、ご丁寧にこの長寿がってのは
そう思っていた方がお前のためだぞって言うんですよ。
僕はそういう声をよく聞きました。
27:02
どう考えてもいい話ではないんですけど
まず私はこの長寿がのこの解釈に対して大変強い不信感を抱いているし
こいつ人間相当悪いなって思います。
あの、ろくでもない発想ですよねこれは。
この発想のろくでもないところは
人に好感を持った場合、その人のことが嫌いになるように
仕掛けられているってところにあると僕はよく思うんですね。
いわば一緒にやることするぐらいだから
少なくともその人はすごい人だと思ったり
いい人だと思ったりしているわけですよ。
私の自己対象的に。
ところが長寿が的に言うとですね
そう思っているのは正しくないと。
もっと相手のことを腹黒い存在だと思っておいた方が
安全だよっていうことがまずある。
そしてその解釈に沿っていくと
滅多なことでは物は頼まない方がいいんだけれども
どうしてもというならば頼む。
ただしその場合は警戒十分にしておいて
メールでもめちゃくちゃ減り下ってですね
ひたすら別に悪くもないのに謝りまくるわけですよ。
の上で頼んでみた場合
もしかすると本当は内心では気分を害しているんだけれども
その害した気分を表現はせずに
一緒にやってくれるかもしれないっていうような感じなんですよ。
この心理状態は何を意味しているかというと
私の心理状態そのものなんです。
つまり相手の長寿我は怒っているわけですよ。
相手の長寿我が怒っているんだけれども
相手は長寿我との折り合いをつける形で我慢したわけですね。
こっちもそうですよね。
長寿我が怒った時というのは
対外の場合我慢しますよね。
すっきりするほど相手に対して方言を投げたり
暴言を吐いたり怒りをぶつけたりはしないじゃないですか。
向こうの長寿我が例えば
いやいやそんな寿司なんかとやるなんて
軽く見られちゃいけないとかよくわからないことを考えてですね
正しさのもとに
いやそんなのはごめんだからと言って拒絶すると
すっきりするのかもしれないけど
そうはできないケースが多いですよね。
だから渋々引き受ける。これが長寿我的な発想なんですよね。
多くの場合僕らはそうしますよね。
つまりここの数回やっていた万能空想で
長寿我の怒りを爆発させて
すっきりして悪い部分は全部切り捨てる
ということを現実にどんどんやっていく人が多いかというと
全然多くはないわけです。
そんなことはまずやらないわけですよ。
相当力を持った人でも
実際には長寿我の怒りそのまま統一化して
30:02
ストレートに抜き出しにするなどという人はまずいません。
つまりこのモヤモヤというものが
発生したときには
長寿我の言う通りには我々は動かないんですよね。
結局そこで内心というものを
持つことになるし
人も内心というものを持ったことになるわけですよ。
人の内心を想像すると
モヤモヤするじゃないですか。
その時は既にモヤモヤしているわけですよね。
だってその内心は表現できない内心だから。
そして表面的には
もっと取り繕った態度というものを出す。
これが内心というものを意識した時の
私たちの心の持ちようなんだろうと思います。
もっと今の例を
遥かに単純化すると
今の例でも全く同じことは起きているんですけれども
遥かに単純化してみると
ATMの長蛇のレスですよね。
長蛇のレスなんて私実は見たことないんですけどね。
自分の後ろには。
せいぜい3人とかなんですけどね。
モタモタしやがってと思われているだろうな
と思うことはあっても
モタモタしやがってと直接
怒鳴りまくられたことは僕は1回もないです。
1回くらいあったって
当たったことにはなんないですよ。
僕はこの心配をしたことが少なくとも
うんと少なく見積もっても
1000回はある気がします。
1000回はあるな。
1回も本当にモタモタしやがってと
言われたことはないです。
だから1000中ゼロなんですよ。
1000中1000は分からない。
本当のことは分からないというやつですね。
この場合それを呼ぶ必要はないんだけど
1000中1000分からないくせに
ほぼ1000回とも客観的に
相手の心を読んでいる気がしてるんですよ。
明らかに構造的には私の長蛇が
モタモタするのはやめなさいと
言っているような気がするので
長蛇が起動するそしてスッキリできない状態
私の心の中にモヤモヤが発生した状態
つまりまだ操作終わってないんだけどな
って言っているとき
早くしろという長蛇の意思が
あるいは長蛇の意思ではないな
長蛇の声なんですけど
要するに長蛇が起こり始めているわけですね。
外の人を待ってるよって言ってるわけですよ。
その感じが私の心の中の
長蛇に完全に同一化もできない。
完全に同一化すると多分操作を切り上げて
やめることになる。
こうすればスッキリ私をするんでしょうね。
33:02
できないし長蛇を消し去って
目の前の操作に100%没頭しきることもできない。
この分裂したモヤモヤ状態を
外の人に投げちゃうんですよ。
私の心理状態とそっくり同じものを外の人に置く。
そうすると外の人がモヤモヤしていることになるんですよ。
私がモヤモヤしているように。
外の人はモヤモヤしている。なぜだろう。
それは私がモタモタしているからだって
これが一番妥当な答えじゃないですか。
外の人がモヤモヤしているとすればね。
こういうふうに私たちは内心を読んだ
気になるんですよ。
ただただ自分の心の状態を
外の人の心に置いてみているに過ぎないんです。
ここで確実にと言っていいか
どうか分かりませんが
おそらくこのことを非常に気に読む人は
わざわざこう言ってくるんですよ。
いや、外の人は本当に怒ってると。
なぜなら私は外でそういう目にあって
怒ったことがあるっていうふうに
わざわざ告白してくださるんですよ。
これを語るに落ちるっていうんじゃないかって
僕はやっぱり思うんですよね。
大会自然やってるわけじゃないんだけどね。
それはまさに私が
私の長自我というやつ
私の長自我の怒りというものを
人に反映させた証拠そのものだと思う。
私は怒ったことがある。
誰が腹を立てているのかというと
あなたがじゃないですか。
外の人がじゃないじゃないですか。
それ明らかに。
全く同じように振る舞うに違いないと言ってるけれども
その証拠として持ち出してるのは
結局自分の怒りじゃないですか。
つまり自分の価値観ではないですか。
ということは自分の親のおそらくね
その時目の前に親がいて
ほら外に人待ってるんだから早くしなさいって言ったんなら親だけど
多分親ですらないですよ。
だから僕は長自我対象って名付けておきたいんですよ。
あくまでそれは親のような顔をした
自分の心の一部なんですよね。
そしてそれに怒られている自分というものと
スプリットしてスプリットしつつあるんですね。
このモヤモヤを外に反映させている。
その証拠として持ち出すのが
自分なら怒るって言葉なんですよ。
それはこの構造から一歩も外に出てませんよね。
自分なら怒るから人は怒ってるに違いないっていう
投影をしたっていうことを
まんま言ってるに過ぎないわけですよ。
これを私はですね
1ミリもいらないと思うんですね。
間違いなく
36:02
少なくとも私の人生において
たとえ私が中の人に
モタモタしやがってと思ったことはあるにせよ。
おそらくある。
間違いなく若い頃はそういうことをいかにも
僕は思ったことがあるんですよ。
一度も私はガラスとかドドドンとかやったり
相手を殴りつけたってことはないんですよ。
これは何を言いたいかというと
この心理状態になったからといって
長時間を持ち出してですね
心をもやもやさせてみたところで
自体は何も未然に防ぐことはできてない
という意味になると思うんですね。
まず実際には人はそこで
こらえる存在だと思います。
自分がこらえているように。
自分とほぼ同じ心理状態になったからといって
そこで直ちに身の危険が迫っては来ないってことも
同時にある程度は証明している気がするんですよ。
私はちっと下打ちしたことあるって言っても
結局下打ちでとどまるってことを
別にある意味では
証拠立ててる気がするんです。
大抵の人が自分と似たようなものだと言うならば
最悪の事態が起こったとしても
相手が下打ちするってところで終わっちゃうんだと思うんですよね。
だから僕は戦中戦。
内心の読むっていうのは
そのまんま当たったという
実証を得たことはないっていうのは
そういう意味もあるわけです。
もし早くしろと本当に言われたとか
めちゃめちゃ窓ガラス叩き割られたということがあれば
実証になりますよね、それ自体は。
僕はそういう経験はないわけです。
しかも私の内心を
相手に投影していると考える方が
遥かに妥当なような実例だったら
山のようにあるわけですよ。
何より一番いけないなと思うのは
これをすることによって
大阪の人にお願いした時と
同じことをやってしまってるんですね。
私は一番私に関しては
一番私に好意を持っているか
私が好意を持って叱るべき人に対して
わざわざ悪意を持つような
心理状態を作り出しているわけです。
一番私の次に待ってくれている人が
少なくとも下振りしようと何しようと
待っててくれているわけだから
その人との関係は有効関係を期待して
叱るべきなんですよ。
長時間起動から内心を読むをやっちゃうと
この件に関しては大阪の一緒に
やってくださった人のことを考えると
一番わかりがいいんですよ。
一緒にやってくれたんですよ。
39:02
表面的なメールであろうとなかろうと
そもそもそのメールを表面的だと言うこと自体が
ある意味相当歪んでますよね。
つまりそれは心の底から出たものであった場合
一番有効な気持ちを持っていいはずの人を
ある意味一番敵対的な意識を持った人との
関係に置き換えてしまうんですよね。
しかし僕らはこれをよくやるんですよ。
一番仲良くしていいはずの人とか
一番世話になっていいはずの人を
わざわざ一番嫌いな人にしてみたり
一番敵対的な関係の人にしてみたり
一番憎み合っている関係の人にしてみたりするんですよ。
これを超自我機動によって
安全を確保するためと称して
やってしまうんですよ。ここがおかしいと思うんですよね。
これを盗作と呼ぶんだと思うんですよね。
精神分析の世界では。
逆転してますよね。
愛と憎しみの逆転なんだけど
一番有愛的な
心理状態に合っていいはずの関係が
一番黒黒としてしまう。
一番白いところが一番黒くなっていくんですね。
こういう逆転を引き起こすから
この超自我というのは
人として一番ダメな感じがするところがあるんですよね。
結局それって最終的に目標として
自分の安全というね。
自分事しか考えてないってこともあるんだけど
次に考えているのが安全というのも
価値が高いといえば高いかもしれないんですけれども
危険な目にあっている回数が
そもそもそんなに少なくて
ある意味日本みたいにですね
どの国から見ても極めて安全性の高い国にあって
わざわざ最優先にするのがそれか
っていうような安全は大事ですよ。
大事な地域に行けば特に大事です。
でも自分自身の安全を守るため
と称しているにしては
やってることがですね
あんまり安全の役に立っていないようなところがある上に
嘘が多すぎる。
嘘が多いってのは結局相手の気持ちを分かってるという
点で嘘をついているし
最悪の事態を想定していればしているほど
得になるというところも嘘をついているし
これが他の人もみんな
こう思ってるという点でもやっぱり嘘をついていると思うんですよね。
私ATMのではないんだけど
最近車の運転で同じようなことを思いそうになった時
必ず
何かもうちょっとマシなことできないのかなと思って
挨拶をするということにしているんですね。
これもどの程度これに
意味があるかは分からないんですけれども
42:02
何でも
できれば礼を言う。
悪くても何かこう
パッと手を挙げるかなんかはする。
つまり
ごめんねでもいいんだけど
これは前にポッドキャストで蔵殿さんがおっしゃっていたように
すみませんという代わりにありがとうっていうのは
こういう時に使うべきものなんだろうなと思うんですけれども
ただ何も言わないで勝手に内心を読んで
相手の腹を黒くするよりは
謝るんでも何でも
運転中言葉出しても伝わらないので
手を挙げるぐらいがいいんですけど
そういうことをするように
意識しているんですよ。
つまりATMで言えば
私最近ATMをそもそも使ってないからなんだけど
すぐ後ろの人に何か
お礼を言うんでもいいと思うんですよね。
そういう風にコミュニケートする。
内心を読まないというものです。
これをやっているうちに
運転中すごく増やしているんだけど
やっているうちに
内心読むっていうのは
敵意を伝えているのとほぼ変わらないなということに
なんとなく実感として
今まで私は頭でこういうことを考えていたんだけど
実感として少し感じられるようになってきた気がします。
とにかく
結局挨拶というのは有効感のある程度の表明なので
たとえそれが
ここではあえてそんなことを言う必要はないんだけど
たとえそれが表面的なものだったとしても
パッとコミュニケートした時というのは
内心を読む的なそういう何かは
停止するんですよね結局。
この内心を読むというのはどうせ嘘っぱしなので
内心なんか読んでない
自分の心を投影しているだけ
自分の心的な緊張感を投影しているに過ぎませんから
これをやるぐらいだったら
何かもっと安全のためだとしても
できることがあると思うんですよ。
一言を言えば相手の態度って変わるんですよね。
多少で十分ですよね。
多分相手の人はもたもたしているからって
怒りに打ち震えているわけではないんですよ。
もし怒りに打ち震えていると思うんだったら
自分自身が怒りに打ち震えそうになっているからなんだと
むしろそう思う方がはるかに
妥当性高いと思うんですよ。
これはそう思う人が人間ができていないとか
寛容さが足りないって話ではないんですよ。
そういう価値観をがっちり持つに至った
戦いがあるんだと思うんですね。
だから私は長寿が対象っていうのは
自分の外にあるような気がするというふうに思うんです。
45:02
生まれた時からそんなにATMで
ほっぱ屋で行動しなければイライラするなんて
赤ちゃんはいませんから。
これは間違いなく獲得してきた価値観であって
そこで少なからぬ人が時間を大事にしたいって言うんだけど
それはとんでもなくデタラメで
大体ATMを使っている段階でも
時間をそれほど大事にしているとも思えないし
そこで失っている時間なるものが
仮にあったとしても
十数秒から数十秒っていう世界だと思うんですよね。
それは問題じゃないんですよ。
ほとんどの場合、急げとか
早くしろって言ってる長時間って
ただ言ってるだけなんですよ。
長時間が正しさというものを
スプリットしたい時
要するに間違いをスプリットしたい時ですね。
スプリットして切り離してしまいたい時というのは
私たちはいつも同じです。
何かを失っているものを取り戻したいとか
孫徳の話をしているのではなくて
ただダメな部分を切り落としたいと思っているだけなんです。
だからこういう変なことが起きるんですね。
ダメな部分を切り落としたいって言っても
自分の中からダメな部分を切り落としてみたところで
自分は正しい部分だけ残して出来上がるということは
出来ないので
昔の今でもやってますけれども
スペックで人を選ぶのと何ら変わらない話ですから
その人の良い部分だけを手に入れて
悪い部分は
特性をかけたものを手に入れたいというわけですよね。
恋愛関係でスペックを先に取ると
そういう話になっちゃうと思うんですけれども
そういうのに近いんですよね。
悪い部分というものを切り落として
良い部分だけ取り残そうという
そう勝ちづけたいという
これを教育の場面では
ヘッドリバイクをやろうとした時に必ず出てくる
だから急げって話が出てくるんだろうと思うんですけれども
この話は私が今まで
生じがというものと万能空想と
ここ数回でやってきたやつの
もう少しですね
現実に生じがちな方の話です。
今回した話は
結局その実際にはすっきりして
スプリットオフしてしまう
切り離してしまうということができるケースもありますが
かなり過激なことをしなければならない
それこそ外科手術的なことになってしまう
そういうことをするよりも
僕らは遥かに堪えて我慢して
モヤモヤするということの方が
現実としては多いように思います。
ただどっちの場合も長寿がのために生きている
みたいなことになりかねないんですよね。
48:00
生きているときは決まって
長寿がが相当悪い意味で
大活躍している感じがあります。
これを
やめるためには
やめるためにはというか
やめたいと思った時には
つまり内心を読むという
モヤモヤというものをやめたいと思った時には
すっきりを目指すのはもちろん
過激すぎる上に
この次のモヤモヤを招くというのを
確実にするのでお勧めはできないんですよ。
残るは
さっきの私が今やろうとしている
コミュニケートみたいな
内心読まないことなんですけれども
つまり直接やり取りをするということにも
なるんですけれども
自分の内心というものを
やっぱり
持たないことなんだろうなと思います。
この人に対して私はこう振る舞っているけど
内心ではこう思っているみたいな
ああいうやつを持たないことなんだろう。
結局それは
さっき言ったような悪い意味で長寿が
活躍する時に私たちに非常に怒りやすいことなんですよ。
内心を持った時って
モヤモヤしているわけじゃないですか。
はっきりと言うこともできないし
自分の気持ちを抑え込みにかかっている。
なぜ抑え込むかというと
やっぱりそれも安全と正しさのためだと思うんですよ。
ここでブチ切れるというのは許されていない。
そしてだからといって
自分自体に納得もできていない。
そういう時につまりATMで待ちながら
本当はガラスを叩き割ってやりたいぐらいなんだけど
我慢してやっている。
そういう時に私たちは内心というものを持ったような気が
やっぱりするんですよ。
これも緊張状態にあると思います。
長時間起動して緊張状態にある。
この時に内心というものを持った気がする。
あるいは人の中に内心というものがあるような気がする。
どっちも多分真実じゃないんですよね。
真実はただ
長時間を完全に満足もさせられない。
だけど長時間が起こっているから
自分は気が切れない。
この心理的な緊張状態がそこにあるっていうだけ。
だからこの緊張状態が
解消さえされれば
自分も含めて全ての人の内心というものが
多分意識されなくなっていくという気がします。
実際私は今全く
内心というものを意識していないんですよ。
なぜなら私が今緊張していないからなんですよ。
51:01
セミナーとかをやる前ってすぐ僕らやるじゃないですか。
人前に立った時緊張する。
ああいう心理的な緊張状態は必ず
他人の内心か自分の内心かあるいは両方というものを
意識しますよね。
聴衆の人は内心退屈しているんじゃないかとか
そういうふうに思い始める。
それは内心があるってことじゃないですよね。
自分が緊張しているってことの反映でしかないと
そういうことだと思います。
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