2022-08-04 39:39

【645GMV】ノープランでいこう

計画がなければ責任もなくなる
00:00
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
いや、涼しいですね。
こう、涼しいとですね、
長々と喋りたくなるような気が
するんですが、
ネタがですね、
今日は妙にあるように思うんですよ。
今日の話は、これがメインになるんですけども、
ネタがたくさんあると
いうのは不思議なもんで、多分今日4つか5つのネタあるんですが、
私はもう書き留めることは絶対しないんですね。これはもう意識的にやめているんですよ。
僕の中ではこれが今日のノープランというテーマの一つになるんですが、
ネタってつまり、書き留めるのはそんな4つもあるけれども、
今日喋れるのは1個だから、
残り3つが無駄になってはもったいないので、ネタ帳に書き留めておいて、
ストックしておけばあと3回分は喋れるっていう話ですね。
みんなそう思ってそうやるらしいんですけども、
僕はそのネタ帳のネタを使うことはきっとないだろうなって思うんですよ。
それが非常に不思議に聞こえるかもしれませんが、
私にはそれは全く違和感はない、今はですね、ないんですよ。
で、このもったいないというのはつまり、
ここが多分ポイントだと思うんですが、もったいないと思うという意識は、
まあこれはこの言葉でいいかな、偽りの自分の考え方なんですね。
今日のポイントはですね、散々話している通りなんですけど、
この偽りの自分は何もできないんですよ。
この偽りの自分というのは不安に対処すること以外は何もできないんですよ。
本当は不安に対処することもできないんじゃないかと思うんだけど、少なくとも不安に対処しようとするんですね。
そして不安に対処しようとして出てくるあれやこれやがイリュージョンなんですけど、
これを私はプランと今は呼んでいる部分が大きいんですね。
多分偽りの自分が何か悪いことが起きた、または起きそうなので、
それに対する対応策としてこうしよう、ああしようと考えるのがプランなんです。
しかもこれは脳内で形成されるものを私は主に指しているんですね。
紙に書き出すというのが若干これよりマシだと思うんですよ。
ネタ調に言い足すのもややマシかなと思うんですけど、マシなだけなんですけど。
不安な時の私は偽りの自分が圧倒的優勢なんです。ほぼ全域を占めようとするんですね。
ほぼ全域かもしれない。でも100%偽りの事故ってのはおかしいと思うんで、言葉の綾ですけれどもね。
03:04
本当の自分がとにかく後ろの後ろの方に引っ込められてしまうわけですよ。
だけれども例えばこれを喋るとか、セミナーで喋るのもそうだし、物を書くのも全部偽りの自分にはできないことなんですね。
だからネタがあっても喋ることはできないと思うんですよ。
というか思うんではなくて、これは私の実感としておそらく事実なんですよ。
アウトプットアウトプット人が言うのはですね、インプットばっかりしている時に偽りの自分が、
インプットが全部偽りの自分がやるわけじゃないんですよ。
ただ何かに対する予防策として、何かのネタを貯めるために本を読むだとか、そういうことをやっているとですね、
アウトプットをよほど意識的にしない限り、いつか本当の自分は出てこれなくなってしまって、
偽りの自分が圧倒的に優先になるために、いつもネタを大量に貯めるというハメになるはずなんですよね。
ここに、なんでそうなるんだろうって思われている方が、ライフハック系には特に多いみたいなんですけど、そうなるはずなんですよこれは。
ウォードが違うんでね、本当に不安なのにアウトプットするはずがないんですね。
アウトプットというのは、不安に対処する手としてはおよそ最悪のものに近いと思うんです。
アウトプットすれば、いろいろ言われる可能性を増やすじゃないですか。
偽りの自分がやりたいってことっていうのは不安に対応することなのだから、不安を増やすのはいかんわけですよ。
不安を増やすような真似をするのは愚かしいんですよ。
だからどんなにネタを貯めても、それはネタが切れることに対する不安、ネタが切れる不安に対する対策としてネタを貯めるわけだから、
それを出すはずがないんですね。出せばまず減るじゃないですか。
しかも、ろくでもない人に絡まれて痛い目に遭うじゃないですか。と偽りの自分は考えているわけだから、
つまりアウトプットするために本当の自分が必要なんですね。 だからネタを貯めたところで、それを出すはずがないんですよ。
というわけで私は今日4つか5つあるネタ、たぶん明日になれば全部忘れるんですけど、それは惜しくもなんともないものなんですね。
それが惜しいと言っているのは、偽りの自分の言い分であって、貯めれば安心だという、
何かを誤解しているんですね。貯めれば安心だというのは、出す時には何の意味もない発想なんですね。
だから私が思うに、アウトプットというものは続かないんじゃないのかなという感じがするんですよ。
ネタがあれば続くっていうのは、大きな間違いじゃないかなという感じがします。
間違いというか、原理的に少し何かがこう
06:03
整合性が取れていない感じがするんですね。
ノープランという話は先日ですね、先日というか昨日なんですよね。
倉園さんの一番新しいポッドキャストを聞いて、この話がいろんなインスパイアがあったんですけど、
もともとこのノープランという言葉それ自体はですね、私か大橋さんが考えたところがあるんですね。
オリジナルの言葉だという意味じゃないですよ。ノープランは絶対どこかにあったに決まってるんですけど、無計画をただ英語にしただけなんで。
ノープランという発想がタスクシュートにあるんですよ。大元に。大元にっていうのかな、途中で出てきたって感じなんですね。
特に私が言ったのかな、それをですね、大橋さんが発展させて、LプラスPDCAっていう風に直したというか、
なんていうんですか、発展させたんですね。で、それってつまりPDCAのPが問題なんですよ。これがプランじゃないですか。
ここから始められないでしょうっていうのが、タスクシュートにはやってると出てくる発想なんですね。
これを実は私は伝えていたわけですね。100日チャレンジで。
だから、倉様さんのお話の中にあったような、ノープランでもプランでもそれはどっちでもいいっていうのもそうなんですし、
究極的にはそうなるんですけども、特にグッドバイブス的に考えていけばそうなんだけど、
タスクシュートの文脈では、ここはもっとこだわるところなんですね。トランクスかブリーフぐらいの差ではないんですよ。
これはつまり、Pから始められないでしょうっていう話を大橋さんがなさった時に、これはタスクカフェなんかでもしてるし、
ブログにも記事としてあげてあると思うんですけれども、だいぶ前なんですよね。2002、何年ぐらいだろう。
とにかくだいぶ前なんですよ。一番最初に出たのはたぶん震災より前だったと思います。
だからかなり初期の頃に、記事は震災前じゃないかもしれませんけれども、発想としてはずっとあって、Lから始めようっていう、まずログから始めようっていうのがあるんですよね。
その前にDoがあるんだけど、ここにまた微妙なところがあるんですよ。GTDを多少意識していることは確かで、GTDには洗い出すっていうのがあるんですよね。
気にかかっていることを全部洗い出す。あれがログだっていうふうに我々は捉えていたわけです。
あれプランじゃないでしょうっていう発想なわけですよ。あれは記録じゃないですかと。
まず記録をしているところから始まるでしょうと、その記録をもとでにプランを立てるんでしょうっていう話をしていたわけです。
それそんなに大事なことなのかって思われるかもしれないです。どうせサイクルなんだから、Pから始めようとLから始めようとDoから始めようと、結局回るんでしょうって話はそうなんですよ。
だから最終的にそこに行き着くでしょうって言われればそうなんだけれども、ここにですね、やっぱりその頭で考えたことの方が偉いのか、実行したことの方が偉いのかっていうことに対する価値観の差があると思うんですね。
09:13
今おかしさはここあんまり強調されなくなりました。例えばタスクシュートをここがまた、だからそういう議論を僕が吹っかけるわけですけどね。
100日チャレンジでもそうでしたけれども、つまりタスクシュートをプランニング優先で使うという考え方もあるんですよ。
タスクシュートっていうのはPDCAとはそもそも何の関係もないところから出てきているわけですから、あれにPDCAなり第2領域なり、それこそ第2領域か7つの習慣なりを当てはめるというのは、
あくまでもあのツールにそういう解釈のために使うという役割を与えた結果であって、あのツールそれ自体にそういう考え方が内包されていたわけでもなんでもないわけですね。
だから、だけれども最初は我々というのは、私と大橋さんもすごく原理主義的だったところがあったわけです。
特に私はね、大橋さんに比べてある種、全然私は応用じゃなくて論争好きなところがあるわけですよ。
だから、原理主義的に押すならば、それそうじゃないだろっていうのがあるんだけれども、そういうことを言い続けていると広がっていかないんで、
やっぱり大橋さんは途中でもう少し応用にする方向に僕らのですね、舵を修正してきているところがあって、
今ではPDCAもありだし、第2領域もありですよと、7つの習慣でもいいよと、なんならGTDの考え方で気になることを洗い出したやつを全部そこに洗い出してみましょうみたいなのも含められるんじゃないかというところまで来ているわけですね。
来ているんだけど、私はノープランなわけですよ。
その割と原理主義的に最初に言い出した、この多分LプラスPDCAにも結局私は十分乗っかりきれなくて、やっぱりノープランを前面に出して自分の中ではやってきているというところがあったわけです。
これは途中でですね、本、私がそれこそタスクシュートに出会う前に、「仕事は楽しいかね?」という、仕事のみたいなタイトルの本があって、あれがノープランの私の割と原型にある。
原型はあれじゃないんだけど、あれもすごく自己啓発の中でこれほどノープランをはっきり言い切っている本は珍しいということで、私は繰り返しこれを懸伝してきているわけですね。仕事の中で。
何しろ仕事の中だから、相性もいいじゃないですか。仕事は楽しいかね?という本を仕事の中で紹介するというのは、私の中ですごいしっくりきていたわけです。
12:00
だから早々に、読んだのは留学中に、実はマックスストラテジーを読んだのはですね、英語だったんですよ。課題図書ではないんだよね。誰かが…
……………………………………
はいはい、落ちましたね。いいところで、このアラームが鳴ってしまうんですけどもね、いろいろあって、この時間までにゴミを出すみたいなのがあってね、このアラームを止めるとこれが落ちるという、非常に不思議、謎しいようになっていてショックを受けるんですけども、マックスストラテジーの話ですね。
つまり、仕事の楽しい金の元処は、アメリカにマックスストラテジーというタイトルだったと思うんですけどね、これをアメリカのおばさんが私に、私好きそうだからと言ってくれたんですよ、親切な人で。
で、それを読んだ、読んで、あーって思ったのが最初なんですよ。2002年くらいは非常に簡単な英語だったので、すごい勉強にもなったし、その後日本に帰ってきてから役所を買って仕事なので紹介するというような流れなんですけどね。
これが全くもうノープランで、一番僕が笑ったのがウォリス・エリティンは、もし最初の夢を叶えていたら工事現場の監督になっていただろうというのがあって、確かそういう感じだったんですけど、めちゃくちゃ面白かったんですよ。
エリティンのイメージにも合ってるじゃないですか。あの人大統領になっちゃうわけだけれども、最初に夢を抱いたのを叶えようとしたらそうなっただろうと。
他にもバスケットのスター選手も実は学校の先生になりたかったんだよとかそういうことが書いてあるんだけど、こういうことなんですよ。こういうことも含むんですね。
つまり、最初に計画を立てた計画っていうのはそんなに大したものなのかっていう問いは少なくとも絶対に必要だろうと。
だけど本当にもっと問題なのは、特にタスクシュートみたいなのをやっている時に、初期の初期の頃から多分私がノープランということをそんなに早い段階で打ち出したくなったのは、本当に最初の東京ライフ研究会というものが北信也さんという方が主催されていて、すごい占拠な会があったんですよ。
一時80人くらい来ていたこともあったんじゃないかな。その中で繰り返し問い合わされていて、九州に行って同じような会をやったことがあって、その時300人くらいいらっしゃったんですけど、その時も私に来た質問の中で一番と言っていいくらいだったのはタスクシュートに関しては、
これを100日後にも、100日後のタスクシュートを自動的に組めるようにできないかという、そういうプログラムを考えたぞみたいな話を頻繁にいただいて、これはあれだな、何とかしたいなと思って考えたのがノープランという考え方と。
つまり私の考えではそっちに伸びていけばいくほど逆へ向かうんですね。このことはですね、私本当に最初の頃から大橋さんは意識されていた気がして、私、大橋さんと出会ってからかなり長いことタスクシュートを使わせてもらってないんですね。
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この話もなんか悲願でるみたいな言い方になっちゃって恐縮なんですが、別に彼はこれを彼だけのために作ったものだから、人に使ってほしいとかは思ってなかったみたいなんですよ。
だけど私はどうして大橋さんの画面を見るっていうことが頻繁に起こっていたから、当時かなり濃密に2人で仕事をしていましたから、この変なExcelの時間がギシギシ書いてある、僕の当時の感覚からすると、当然時間管理とかすごい主体人間なわけですから、絶対使いたいと思ったんですよ。
それを思ったのは2006年、2007年、その辺ですから、本当に私はフリーランス駆け出しの頃で、大橋さんが言う通りにやってれば間違いないどのくらいに思っていたから、
まだ私は実家で家族と一緒に暮らしていて、家族で旅行に行っても大橋さんとのスカイプを当時でミーティングするっていうのは家族旅行のど真ん中で、その今の中でこれからミーティングするからみたいな感じでキキとしてやってたわけですよ。
その時にタスクシュートをようやく使わせてもらった時に不思議なツールだなと思ったんですね。
1日も組むわけだから、例えば原稿を書くみたいなのが上から下の方までずっと書いていくわけじゃないですか。
当時はただそういうのをずっと書いていくだけだったので、特にこれといった何かすごい機能みたいなのはなかったから、今のタスクシュートクラウドみたいなのじゃないですからね。
ただエクセルなんでずっとずらーっと書いていって、あれこの原稿どう考えても午前中にやるはずなのに、気がつくとやるのは夜の8時みたいになってるぞっていうことが起こるわけですよ。
そうすると、その原稿ここで大丈夫なんだろうかって思うわけですよね。
例えば旅行先で夜の8時だったらみんなで食事してたりするじゃないですか。どう考えてもこれおかしいだろうと思うようになったりするんですよね。
その時にセクションっていうようなものは当時からあったんだけど、ようやくセクションというものが、当時セクションと必ずしもはっきり命名されてたんじゃなくて、とりあえずおはじめのセクションとつけておいたですぐらいな感じで、
ABCDEFみたいな記号の方が眼前に迫ってきてるんですけど、Fダメじゃないかなみたいなことを考えたりしているうちに、
これそもそもこのまんまいったら何時になるのっていうのをシミュレートしてくれたらいいんじゃないだろうかと大橋さんに申し掛けたんですね。
あのシミュレート機能が私なんですよ、言ったのは。
そしたら大橋さんがうーんとか言って渋るんですよね。これに私はすごい感銘をかけて、
このシミュレーションって絶対欲しくならないだろうかと思ったんだけど、大橋さんはしばらく色々な返事は出されなかったんですね。
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割とすぐつけてはくださったんですけど、この辺は私すごく待遇良かったんですよ。
だけども、結局大橋さんは気乗りしてないんだなっていうのは当時すごい感じたんですね、私は。
どうしてなんだろうって本当に思ったんですよ。
その時によく考えるようになって、もう一つ私がすぐ大橋さんに、これもすごい筋違い極まりないんだけど、
大橋さんこのタスクシュートを使っているとですね、繰り返しっていうやつが何個も出てきて困りますっていう、
今思うと非常にトンチン感というかトンチン感だよね、筋違いなことを言って、
いやそれでいいんですよってさらっと言われて、これも衝撃を受けたんですよ。
なんかもうちょっと違うことを僕は期待してたと思うんだけど、繰り返しになるのはあんたの活動が繰り返しだからでしょっていうことなんですよ。
全くその通りなんだけど、僕はそうは思ってなかったってことなんですよね。
絶対にそうじゃないだろうと思ってたんだけど、全部繰り返しになっていくじゃんっていう風に感恩したんですよね。
この二つのことがあって、私は時間管理という考え方について、時間管理って大橋さんは言わなかったけど、非常に考えさせられたんですね。
なんで自分が思った通りにできていない気がするのかとか、
どうしてそれこそ私当時第二領域という発想は一切持ってなかったけど、
やりたいこととかやるべき大事なこととかいうやつができないのか、
隙間時間というものが活用できないのかというのを一遍に、一遍にですよ、
その一週間で全部わかったような感覚があったんですね。
これをタスクシュートユーザーの人には必ず味わってもらえるはずだっていう、
必ず味わってもらえるはずだっていう思いが僕の中にあるんですよ。
使ってさえいれば、使っていればわかるはずだっていうのがあるんですよ。
なんかね、これを口で一生懸命説明するほど馬鹿げたことはなくて、
だって私はそれまでも何度も何度も時間の計画立てては失敗してきたわけじゃないですか。
見積もり、見積もりっていうのかな、当時は見積もりっていうことすらなかったけど、
月間時間を使おうとしてみたり、それこそ第二領域をやろうとしてみたりしては失敗してたわけですよ。
机はぐちゃぐちゃだし、書棚もぐちゃぐちゃだし、何とかしたいと思ってたけどどうにもできないと。
なんでなんだろうと思ってたわけだけど、それが一回言葉で説明されてもわからなかったと思うんですよね。
だけど私が一週間タスクシュート使ったら、全部わかったわけです。
これが起こるはずだって思ってたんだけど、
使ってもらっても必ずしもそういうふうにはならない。
ならないと言われることの方がどっちかというと多いということで、
やっぱり何か言わなきゃダメ、何か伝えていかなきゃダメだなと思った時に、
私が最初に絶対ここが逆だって感じたのが、
人によっては5年先のタスクシュートの今日みたいな、つまり5年先の今日ってことですよね。
21:01
自動的に生成するのがいいんだっていう、僕はこれが真逆だと思う。
大橋さんが最初に感じてたこととちょうど逆になってるっていうのが逆。
とにかくシュミレーションに色々反応がなかった。
ということは5年先のシュミレーションなんてナンセンスだと思っているっていうことが、
この論争は、論争っていうのが僕と大橋さんの中でのやり取りは、
色んな形でずっとそのまま続いて、すごかった時なんかは、
毎週3回スカイプで1時間ずつぐらい、もっと喋ってましたから。
こういう話は全部出し切ったんですよね。
出し切ったわけです、私たちの中では。
で、このノープランテのとにかくまずあるよねっていうのは、
タスクカフェとかで最初に伝えていったと。
伝わったという風に言えるのか分からないんですけど、
少なくとも大橋さんはGTDのように払い出していって、
見るっていうのをスライドで示されていてね。
で、それはこれはログでしょっていう風に言った。
あれはですね、僕には響いたと信じたい。
響いてなかったかもしれないけど、
私は響いたと信じたいわけですよね。
そういうことだと思うんですよ。
で、これが100日チャレンジというのは、
で、これが100日チャレンジで私がお伝えしたノープランテは、
佐々木さんが元気よく言い過ぎたっていうようなご指摘もあったので、
元気よく言い過ぎたのかもしれないんですけど、
この辺はっきり言っておかないと、
多分、元に戻っちゃうというか、
いや冗談で言ってるんだろうとか、
プランは大事だよねっていうことで、
全てが丸く収められてしまったら、
私のグッドパイプスの場であれば、
どっちでもいいっていうのも、
結局同じことだっていうのもそうだと思うんですけど、
タスクシュートにいくことに関して言うならば、
どっちでも同じにはならない。
どっちかというと、
未来思考にどんどん先へと伸ばしていけばいくほど、
何か本当にやりたいことから離れていってしまう。
つまり、そこに持ってきて、
タスクシュートのツール上の特性がありまして、
ツール上の特性ではないんだけどね、本当は。
今日のことがきちっと書いてあり、
実際にやれましたといったことが起きたときに、
それはそれで非常に欠航な話なんですけれども、
こうじゃないことに対する不安みたいなことが上がってくるわけですね。
あるいは、こうしていていいんだろうかとすら思う方が
結構出てくるわけですね。
これは私が実際に使ったときよりも
遥かに違った心理反応なので、
これについては別途、手当てをする発想を持たなきゃいけないなと
長らく思ってきているわけです。
私は1日がこうやって終わっていくということに
完全に納得したから、
24:00
第2領域とか7つの習慣とか、
隙間時間とか全部ダメなんだということが
よくわかるようになったんだけれども、
必ずしもそうはならないと。
私はそれはやっぱりプランへの固執というのが
強すぎると思うんですよ。
これを私がノープランと3個と4個といったぐらいで
変更されるとは思っていないんですね。
そんなにナイーブじゃないです。
180度変えましょうというのは大体ダメで、
戸畑海人さんが言っていたんですけれども、
1と変われば十分じゃないですかというのが実態なんですよね。
だから私はよくイメージが今はできるようになっているんですよ、
その辺は。
そのユーザーの方はおそらくプランでガチガチで
第2領域ばっかりというものが脳内にあって、
しかもそれをもしかするとログとは何の関係もなく
スクシュートにどんどん置いていくことすらやるんだろうなと。
しかもそこにおける時間というのは
何ら確定的な根拠を持っていないんだけれども、
それこそ8時から英語の勉強、8時半から何とかとかじゃないと
ダメになっているんだろうなと思うときに、
そういうものじゃないですよというのをまず言っておいて、
それはプランであってスクシュートは冒頭にプラン来ませんよ
ということをまず言っておいて、
私が実際にやっているところというのは
それよりもはるかにノープランですというのを言うと、
何か恐怖感がそこに走っちゃうという話なんですよね。
ネタなしでやると恐ろしいことだという話になっていく。
もったいないというのはまだだいぶいいんですよ。
ネタ捨てちゃうのもったいないじゃん。
これはもう恐怖なんだけど。
ネタがなかったら死んじゃうじゃんみたいな。
そこまで行くというのが、そこまで生きうるんだなというのを
僕は念頭に置いているわけです、今は。
面白い話があったんですよね。
先日も村野さんが聞いていて、
もう車の中だったから大笑いするというわけにはいかなかったんですけど、
中村君とかいう方、個人の人名が出てきても
村野さんしか知らない人なんだからわけわかんないと思うんですけど、
すごくきちっとノートを取ったり、計画通りに生きると。
僕はこれがですね、これはあれですね。
山田さんのこの番組でも紹介した家族ゲームに出てくる
新一君と全く同じだと思いますよ。
新一君、あれも非常に面白いんだけど、
新一君はそういうことを全く同じ、中村君そっくりの人なんですよ。
私でも身につまされるものがないわけじゃないんですよね。
倉熊さんに比較すると、私はすごく新一君側にさせられた側の人だから、
それこそテレビなかったですしね、うちに。
テレビ買ってしばらくは全く同じなんですよ。
極力NHKを見せようとするんですよ、親は。
これがまた面白くてですね、そういう親ってどういう親なのか様々なんですけれども、
27:04
うちの親父の傾向なんですよね、これ。
うちの親父って、いわば中村君に憧れている倉熊さんなんですよ。
そういう人なんですよ、うちの父っていうのは。
本当にズボラでめちゃくちゃで、整理整頓もできなければ時間管理なんてとんでもなくて、
とにかくきちんとしたことなんて何にもできないくせに、きちんとしなきゃ今日みたいなものには、
僕の10倍くらいハマっているんですよね。
それを僕に投影してくるという人間なんですよ。
僕からすると、うちの父に比べれば、私は1万倍くらいきちんとしているんだけれども、
それくらいうちの父ってのは、どうせこうなるっていうくらいひどいんですよ。
ひどいんだけれども、俺はきちんとしなきゃいけないと思っているから、
お前よりきちんとしているって思えてしまう。
非常に独特のおめでたさがあって、憎めなさがあってですね。
腹立たしいと思うことはしょっちゅうあって、うちの母とかそれでしょっちゅう喧嘩して、
うちの母の方がはるかにきちんとしてますから。
なのに、うちの母の方がズボラだみたいな感じになるから、喧嘩になるわけですよ。
喧嘩になるよね、そりゃあっていうふうに思う。
どこをどう見ても、うちの親父は論外ですから。
買ってきたものを全部なくして平気で言うっていうか、忘れてしまうんでしょうね。
そういうタイプなんですよね。
その父の影響があって、私はひどく、これは精神分裂の分裂じゃなくて、
ひどく分裂したところがあって、めっちゃくちゃ父とそっくりで、
もうそんな生理とかに何の興味もないというのが体の半分でできているんだけど、
肩やタスクシュートしまくるわけですね。
こういうのが同居しちゃってるんですね、私の中では。
どっちかというわけにいかなくて、どっちかってことができないんですよ。
もう完全にするのが、もちろん肯定的ですよ。
生まれつきコーナーじゃないんだけど、完全に注入されてしまったから、
もう半分ずつはそうなってしまってるんですよね。
だから本当はズボラなんだと思うんですけど、
みんなそういうふうに考えたら、
一方では大橋さんは無理だけど、やっぱり大橋さんみたいになりたいと思っているのが半分ぐらいではあるんですよ。
だけどこの半分はいつも攻めき合っちゃうんで、
どっちかになりきれないですね。
多分どっちかにはなりきれないだろうなって思いますね。
ただ中間がないんですよ、割と。
で、なんでそういう中村くんが、
家族ゲームの新一くん、彼が言ってましたよね。
なんであれはいけないの?いけないの?っていう話なんですけど、
いけなかないんですけれども、
でも新一くんは最後に、途中途中非常に重要な話のセリフを聞いていると、
著者の山田さんは精神分析家なのかって思っちゃうんですよ。
ハワイフラワーさんがそういう疑問を投げかけたみたいですね。
山田さんに会って話を聞いていると、
いやいやとんでもない、そんなの勉強するような人間じゃないし、
さっぱりわからない、こういうのは全部感覚で書くんですって聞いて、
30:03
すごい感心したって話をどこかで書かれていましたね。
そうなんでしょうね、きっと。
そういうことを、ハワイフラワーも書いていましたけど、
そういうことを知って書いていたのでは?
6年ぐらい前に、
ハワイフラワーさんが、
そういうことを、そういうことを、
カイハヤも書いていましたけど、
そういうことを知って書いていたのでは?
ろくなものにならない。
だから自分は小説は書けないんだっていうふうに落としてたんですけど、
なるほどなと思うんですよ。
倉園さんもよくそんなような話をされるんですけど、
こういう話は全部自分で考えたものであって、
そういうどこかで読んできたという話じゃないっていう話は、
多分そういうことなんだろうなっていうふうに思うんですね。
私なんかは、やっぱり全部読んでく側の人間なんですよね。
読まされてきたからっていうのがやっぱり大きいんですよ。
中村くんのお家では大河ドラマしか見ないっていうのとよく似ていて、
やっぱりそこに強いコントロールが働いていると、
うちの父なんだけど、
あのズボラな人のコントロールが働いていると、
そういう方向性に自分があまりにも向かっちゃった後では、
完全にそこから払拭するのは難しいんですが、
ここにですね、偽りの事故ってなっているのは、
これはウィニコットのこともある。
私はやっぱり陰陽型の人間なんで、
これはウィニコットからみたいなのがあるんですよ。
ウィニコットだけが言っていることでは当然ないんですよ。
例えばユングはペルソナっていう、
やっぱり私はこうなんですね。
誰それはこう言ってる。
多分これとこれは同じ概念だみたいなのが多いんですよね。
いいと思っているわけじゃないんだけど、
多少好きだっていうのもあるのと、
性分は間違いなくあるんですよね。
ペルソナでもいいんですけど、
問題なのはペルソナより僕はやっぱり
偽りの事故の方が概念として優れてるんじゃないかと思うのはですね、
これと不安、これと恐怖がセットであるっていうことを、
あれほどつまびらかにした人は、
ウィニコットが最初の感じがやっぱりするんですよね。
つまり新一組には恐怖があるんですよ。
それは小説の中ではっきり書かれていて、
つまり私自分は外に出られなくなったと。
新一組の弟がいて、弟が不敵だから暴力家庭教師を雇って、
ボコボコに殴って勉強できるようにしてあげるんだけど、
結局その家庭教師は最後、
自分は何もできなかったんだっていう告白をするんですよね、新一組。
で、何で何もできなかったかっていうと、
あれですよ、教室でうんちを漏らしちゃったことがあって、
その恐怖からもう外に出られなくなって、
つまり偽りの事故が表面を覆ったんですね。
本当の事故はいないんですよ。
戸畑階人さんもこの話あったし、
この教室で訴訟する系のトラウマってでかいんだなっていう風に、
これは非常にフロイト的ですよね、トイレットトレーニング。
トイレットトレーニングというものは、
すごく自立と関係があるっていうのを、
フロイトはあれほど言って、
そしてみんなに汚い話だなって言われて、
こう品種交換という、
33:01
非常に世の中っていうのはあれだなって思うんですけどね、
こういうのを聞いていると。
まあまあそういう感じで、
新築の戸畑さんは外に出られないんだけど、
新築はつくづく自分も外に出られなくなったんだと。
ただ自分は半歩先が読めるという状況を
常に確保しておかないと外に出られない。
だから30歩向きに出て、
起こった出来事をノートに書いて、
少し先のことを全部計画しておいてから行動すると。
でもそういうのはほとんど嫌になったというわけで
不登校になっちゃうんですけどね。
これがやっぱり問題だろうと思うんですよ。
あまりにも不安対処法が上手くいっていると思い込みすぎると、
こういうことが起きるんだろうと、
一番最初のネタの話に戻るんですよここで。
ネタがあれば安心だという人は
ネタが使えなくなるはずなんですよ。
この理屈をとことん突き詰めれば
そういうことになるじゃないですか。
増えれば増えるほどネタが良いんだから
ネタを使うというのは危険なことですよね。
ネタを使う危険はネタが減るだけじゃなくて、
そのネタは大したネタではなかった。
そんなものを大したネタだと思う人は
あんたはバカだと言われるという危険を伴うわけですよね。
アウトプットすれば。
ここで倒作が起きるわけですよ。
先日お話しした倒作。
つまり、本来アウトプットするためのものだったはずなのに
アウトプットしないためのものになってしまうんですよ。
これだから転倒してますよね話がね。
倒作というのはクライン的に言うと不毛だったり
つまり不毛だと何も生み出さないのが倒作だということですよね。
それに関わる、まつわる何かなんだけど。
これを性的に説明するから古い人は嫌われるんだけど
でも倒作って性的に言ってまさにそういうことじゃないですか。
そこに至る過程を楽しむんでしょう。
それはそれでありなんだけれども
そこに至る過程にばっかり楽しみが向かったら
子供は産まれないじゃないですか。
脱がせるとか、そういうことにあらゆる喜びを求めるように
脱がせさえすればいいみたいな
そういう話になっちゃうじゃないですか、倒作って。
よくそういう現象が起こりますよね。
相手が恥ずかしがってさえいればいい。
そこでも欲望が完全に満足されたら
少なくとも子供はできないですよね。
そういう話なんですよね。
だからネタをいっぱい試さえすればいいって話になりやすいんですよ。
新地君がそうなっていて
ノートに計画をぴっちり書いてさえいればいいっていう感じになっていくんですよね。
ああいうふうになったのは
結局お母さんがものすごく心配性でですね
そしてこう、これもお母さんが言ってたんですけど
お母さんが言ってたんですけど
お母さんが言ってたんですけど
お母さんが言ってたんですけど
そしてこう、これも倒作に限りなく近いんだけれども
36:02
外面というものが整っているという状態を最善とするわけですね。
新地君みたいな超優等生が
改正候補みたいなところに入っているというのは非常にいいわけですよ。
その子が不登校になるっていうことほど
恐ろしいことはないですね。
最後のシーンがそれで終わるんですよ。
僕らが駒のように動かないことほど
お母さんにとって恐ろしいことはない。
最後にお母さんが泣き出して
私のために学校に行って新一って言うんですよ。
このシーンは私は非常に感じさせられるところがあったんですよね。
ずっと新地君は言われるんですよ。
勉強してるのはあなたのためなんだからと。
他の誰でもあなた自身のためなんだから。
みんなそう言うじゃないですか。
新一君が冗談じゃないと。
自分のためだったら誰がこんな面白くもないことを
するものかというふうに内心で思ってるんですよ。
でも最後の最後の最後になって
お母さんが私のために学校に行ってって言うわけですよ。
ここで新一君は心を揺さぶられて
つまり偽りだったじゃないですか。
あなたのためっていうのは偽りの自分のセリフだったんだけど
お母さん実は私のために行ってほしいわけですよ。
これが本当の自分なんですよね。
お母さんにとっては。
この時初めて何かが伝わってくるわけですよ。
やっぱりそう来るよなっていう感じで心を揺さぶられて
じゃあどうしようかってところで小説は終わるんですよね。
かわいはようがこの小説を取り上げてて面白くて
こういう人が我々のところにこれから来るわけだと
そういうふうに締めているわけですよ。
どういうことなんだと思うんですよね。
私はノープランっていうのは
これらを全部含むんですよ結局。
プラン立てるのは趣味で
それこそブリーフとトランクスみたいな話なんだけれども
それだけを取り上げればその通りなんですけれども
でももしタスクシュートみたいな
わりと強力なツールを使って
自分の不安というものに対応するために
プランニングをカチッと固める
これは多分意識されないと思うんですけど
無意識のうちにそういう流れになっていった時に
この通りに起こらないということに対して
かなり深い恐怖感が感じられる日がやってくるんだと思うんですよ。
だからそうきたかって言葉が出てくるんだけど
そうきたかでは済まないっていう感じになっちゃうと思うんですよ。
これが崩れることに対する極めて強い不安が発生した時
動きが二つ起こると思うんですね。
一つは非常に多色的になって他人を罰したくなる
他人を罰したくなる
非常に強く罰したくなると思うんですよね。
想定通りに動かないお前ら
全員火破りにするぐらいのノリになっちゃうと思うんですよ。
無理だからどうなるかというと
プラン通りにできない今度は自分に
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その責任を全部ユータンをさせるんですよね。
これを100日チャレンジのコメントを読むたびに
私が微妙に感じさせられるというか
濃厚にしばしば感じさせられると思うんですね。
この辞席を辞めないと
たぶんことは始まらないんじゃないかという風に
やっぱり思うんですよ。
それを辞めるための一番最初に聞きそうなことが
ノープランなんですよね。
最終的に僕が出した結論としては。
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