2022-09-16 29:54

【673GMV】傷つくこと、顔色をうかがうこと

超自我とは内的対象表象の集合と理解してみたら見えてきた話

00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
9月14日の20時16分を回ったところですね。
回ったとか言わないですよね、このような中途半端な時間は。
ようやく今週はですね、これでおそらく完結できるだろうと。
なんとなくこのパターンでうまくいけたような気がします。
ちょっと回数間違えたりですね。やっぱりね、難しいんですよ。
こういう取手出し、取手出しに限りなく近いんだけど一応予約してますからね。
ちょっと難しくなると間違うんですよね、私は。
あんまり気を張らなくしてますしね、最近。
気を張っても気を張らなくても間違う率変わんないなっていうのもちょっと最近学び始めました。
今日はですね、もうCMするのもなんだか思い出せなくなったんで。
CMすっとばしていきなり本題に入るんですけど。
その前にですね。
クラズノケゾウさんがグッドバイブスミッドナイトラフザというポッドキャストを始められていて。
結構面白くて断続的に聞いているわけですね。
そうするとどういうことが起こるかというと、面白いと言うべきなのかわかりませんが。
私は自分の喋ることってなんでこうやたらこ難しくなるのかなっていうのを。
考え込んじゃうんですね。
タスクシュートについて話してても、なんで私はこういう難しげなことを言いたくなるのかなと。
私が言わんとしていることとか言っていることは、クラズノさんがミッドナイトラフザで言っていることとほぼ同じだと思うんですよね。
ほぼ同じなんだけど、あっちの方がすごいこなれているように聞こえて。
最終的にこれは話の上手い下手なのかなと思っていたんですけど。
もうあるんだろうけれども、やっぱり私は自分が考えるにあたってはこういうルートを通らないと理解できないってことがわかってきたんですよ。
自分が理解するときは今私が喋っているような、このポッドキャストで喋っているようなルートを絶対通っちゃうんですよね。
絶対通っちゃうんですよね。
クラズノさんのようにごく普通にありそうな風景を通した方が理解しやすいような気がするんだけど、
私はあのままではやっぱり理解できないんだってことが最近ようやくわかってきたんですよ。
はっきりとこういう対象をしてみて、照らし合わせてみてですね。
これがしょうがないんだなって思いましたね。
個性と役割という言い方をしてもいいんですが、要するに私はこうじゃないとできないんだってことがだんだんわかってきたんですよ。
だから、小難しいという風に言われるのが好きなわけじゃないんで、
03:03
いろいろ知っていると思われたいとかはさらさらないんですね。
いろいろ知っているわけではないですしね。
よくこの番組で何かの専門家では私はないんですっていうのは、ある種の防衛でもあるんですけども、
実際そうだってこともあるんですね。
私が実際に持っている資格って英検の2級だけスキーのライセンスを持っていたような気もするので、
関係ないんですよ。とにかく私が喋っているようなこととは何にも。
で、もう一つは、最近山間さんって方がですね、山脇さんって方が言いたいこと山々ですっていう、
最近ちょっとブログ更新されてないような気もするんですけど、追ってないからわかりませんが、
本人の星になるっていう本を書かれたんですけど、私はそういうつもりはないんだけど、ちょっと近いことがあってですね。
何の資格もない人間でも物を言う資格はあると思っているんですね。
少なくとも権利はあると思っているんですよ。
このカウンセリングだの、精神分析だの、何でもいいんですけど、最近で言うとね、
ウェルクとかそういうのが話題になりましたね。こういうことをやっていると私は良くないと思うんですよ。
人生相談でもそうですし、健康でもそうですけど、それらは一人一人のものですよね。
そういう意味、専門家のものじゃないと僕は思うんですよ。
だから専門家としての信用を毀損するとか何とかそういうことを言い始めたり、
素人が下手に何とかかんとかってやたら言っていると、物も言えなくなる。
これはいわゆるファシズムで物が言えなくなるとかいうのとは全然違うんですよね。
昔から結構言われていることではあるんだけど、じわじわと世の中そういう風になりやすいよなって思うんですよ。
専門家じゃなければ物が言えなくなったらたまったものじゃないというのがあるので、
私はもうようやく50近くになってきて、ここまでくれば人生折り返しだしね。
保身のを含めて言うんだけど、何の専門的なものも得ずに物は言いまくるぞっていうね、
そういう決意をここ数年してたんですよね。
最近ようやく安心してそれをやれるようになってきたんですけど、
人の口に戸は立てられないって言うじゃないですか。
まさにあの通りね。僕の口に戸は立てられないよっていう話なんですよ。
どんなにこれについてそれは危険だ、ダメだって言われても構わずしゃべるもんねって感じなわけですよ。
絶対臨床心理師とか公認心理師とかは取れないですから、私には。
いつか取る気ないですよっていう話でもあるんですよ。
青口の奥さんがですね、そういう僕のポジションと態度に心配もしてくれているんでしょうし、
06:03
もっと稼いでほしいというのもあって、取ってほしいって盛んに言うんで、
ここだけは申し訳ないなと思ってるんですけど、取る気はさらっさらないんですよ。
いつか取るからとかって言うんですけどね。
いつか取るとか言ったってもう50ですからね。
今から取るっていうのは非常に微妙な話だとは思うんですよ、私なんかがね。
というわけで、何と言われようと構わないっていうのはこういう感じなんだなっていう風になりました。
その上でなんですけど、この小難しいのは好きなわけじゃないですよ、自分でもね。
でもこういうルートをたどってしまうんですよね。
このルートをたどると私にはわかりやすくなるんですよ。
最近、倉園さんがちょうどね、傷つくって話をされてたんですけど、
僕もここ、同じような話をずっと考えてました。
これは同じような活動の取り組みの中でその話題がホットになったことと大いに関係があって、
完全に偶然というわけではない、むしろどっちかというと必然的な感じもしますよね。
いずれにしても僕はやっぱり相変わらずルートがね、専門用語を使わずにはいられなくて、
もう今日は思いっきり出しちゃい、いつも通り思いっきり出しますけれども、長字画なんですね。
この長字画というのを違う言い方をすると、ここも非常にややこしいんだけれども、
何度も言ってますが、アメリカには自我心理学という形で精神分析は発達しました。
ヨーロッパの方では、こっちが源流だと思うんですけども、対照関係論という言い方で発達しました。
僕は対照関係論の方が細かいと思っています。
そして対照関係論の方が精神病の難しい統合失調症とかね、重度のうつとか、
ちょっとした自閉みたいな難しいのも扱えるようになっている。
つまりボーダーラインよりも病状が重いという意味です。
ボーダーラインより重い方が神経消費量重いかどうかというのはまた違う問題なので、
この辺は本当に説明していると長くなってダメなんですけれども、
とにかくヨーロッパの方では重い方も精神分析で扱えると。
ある意味アメリカの方では、今では違うと思うんですけど、
ボーダーラインよりは軽い人たちを扱うのが精神分析。
ボーダーラインより重いのはタブーだよっていう、だからボーダーラインだったと。
そういうところがあったわけですよ、とにかく。あったんだと思う。
資格がないというのはこういうことですからね。
嘘を言っているかもしれないと常に思っておいてください。
だけどこれ専門家が言ったって同じだと思うんですけどね、僕はね。
まあまあいいや。
それで、何がこう、深い、なんていうんですかね、細かい、細かくないか。
それはよしよしと必ずしも言えない面もあるんだけど、
例えば自我心理学アメリカの方では超自我ってさらっと言うんですよ。
これはプロイトもそうだったけど、超自我って言うんだけど、
じゃあ超自我って何よって言い出すのが対象関係論者のやり方なんですよ。
09:05
なぜならやっぱり重いからなんだと思うんですよね、扱ってる対象が。
私は対象関係論の方まで行かないと、我々一般の私のようなですね、
ライフハック好きみたいな人間の本当の問題ってものに当たってこないって思っているんで、
自我心理学は分かりやすいんだけど、
あの分かりやすいやつだけで僕自身をケアしようとしても上手くいかなかったから、
意外に健全な人を相手にするときは深掘りしなきゃならないっていう矛盾みたいなものがあると思っているんですよ。
だけれども、えっと何て言うんですかね、僕らは健常者なんですよ。
だから精神分析を次元に受けるならば、自我心理学のそれでいいんだけど、
本を読むということによって効果を得なければ、
対象関係論の方までヨーロッパの源流の方まで行かないと十分じゃないって私は思っているんですね。
で、その自我心理学っていうところの長自我っていうのはお父さんなんですよ、フロイト的に言うと。
昔のお父さん厳しかったってことですよね。
とにかく厳しい親みたいな。で、なんでこれが傷つきと関係ある?
傷つきと関係あるよね多少は、傷つきと。
つまり傷つくってのはですね、着せずして怒られるから傷ついちゃうんですよ。
赤ちゃんは別に悪気はないんですよ。
いやおもらししちゃったって普通なんですよ。
おもらしはするんですよ、昨日もしてたし。
だけどある日言われる、突然言われるとショックを受けるじゃないですか。
こういうショックについて自我心理学の方では、
なんていうんですかね、ちょっとしたトラウマみたいなそういうのも扱ってたんだけれども、
対象関係論のイギリスの方ではずっとこれを深く言って、
これが心臭とかピンで刺されるような心のトラウマになるんだよっていう話を深掘りしてるんですね。
びっくりするじゃないですか。
着せずして、なんていうのかな、それは悪いことなんだよっていきなり言われたら困っちゃいますよね。
昨日までカレーベラベラベラってなっちゃうんですよ赤ちゃんはね、うちの子もそうでした。
だけど今日になって急にそういうふうに汚く食べちゃダメなんだって言われたらびっくりするじゃないですか。
これが傷つくってことじゃないかと思うんですよ。
例えば私がこのポッドキャストで普通にこうやって喋ってて、
割とポッドキャストに対してツイッターとかでも好意的なフィードバックが戻ってきたり、
百日チャレンジとかでも好意的なフィードバックが戻ってきたんだけど、
急にある種のところからささきさんあれは非常にまずいですよって言われたら結構傷つくと思うんですよ。
こういうことになりたくないから今ではコミュニティを囲っておいて、
安全なところで喋ろうっていう話になってほしいじゃないですか。
僕はそれじゃダメだと思ってるから、
何と言われようと構わないから誰が聞いてても構わないところでバンバン喋ろうって思ってるわけだけれども、
それはそういう私を見ると強そうに見えちゃうわけですよ。
12:02
それぐらい今の時代というのは、今の時代に限らないかもしれないですけれどもね、
警戒して皆さんやってるんだけれども、
僕はこの警戒ということをやるってことが嫌なので、はっきり言って、
もう警戒しないことにしているわけですね。
今のように言うってことは、そういうことを意識せずに、
意識せずにまではできてないんだけど、
そのうち意識せずにできるようになりたいとは思っています。
なぜならば、そんなものはインピンジメントじゃないからだというのが私の言い分なんですけれども、
それがですね、例えば傷つきみたいなのは、
つまり長寿が最初にやってきた遭遇とよく似ているわけです。
お漏らししちゃいましたと、ベタベタにしちゃいましたと、
夜寝ようとしている時に騒ぎまくりますと、
この人ダメだって言われると、赤ちゃんはどこかのタイミングでショックを受けたはずなんですね。
これを新宗は言葉が重すぎるとは思います。
でも、それぐらいのインパクトがあったんだよとウィニコットって人は言ったわけですね。
もうびっくりしたはずなんですよ、我々はみんなね。
人によってはすごい怒られているかもしれない。
よっぽどよくできたご両親であったとしても、
少々厳しめに来ちゃう時があったとは思うんです。
その時の赤ちゃんのショックはそれなりにでかかったというふうに、
よく見ているとわりと気づくんですよ、そういうことって。
子育てしている時、どうしても0歳1歳児の時にやっちゃうんですよね。
これが全くないで済んでいる赤ちゃんっていないんじゃないかって私は思いますね。
これをフロイトは快楽原則と現実原則って言ったんだけれども、
現実原則はだから厳しいっていう話ではないんですよ。
親は別にそこでトラウマを与えようとしているわけではないから、
そこが大事な点なんですけどね。
あくまでもそれは人間という文化で生きていく上で、
善意の方向性でこっちに引っ張っていきたいという気持ちがあるわけなんですよね。
ここを悪意だと捉えた時に、神経症の種みたいなものがそこで巻かれるっていう話なんだと思うんですね。
ただ、多少のトラウマはやっぱりそこで受けちゃいますよね。
それも何度かね。だから累症外石って言うんですよね。
レッドカートみたいなものですよ。
何度も何度もそういう小出しに、一つ一つは緩やかかもしれないけど、
これからトイレでしなさいとか、夜は早く寝なさいとか、静かにしなさいとか、
繰り返し繰り返し累積でやっていくとその外症が大きくなっていって、
一定のトラウマのようになっちゃうみたいな、そういう話ですね。
で、面白いのはですね、この超自我って何?っていう話をした時に、
自我心理学的にそれをいろいろ図式的にちょっと見てみると、
親の顔色ってそういうもんじゃないだろうかっていう考え方があるわけですよね。
15:00
これが内的対称の表彰って言うんです。
前もちょっと言いましたよね。内的対称表彰って六字熟語になっちゃうんですけど、
内的対称っていうのは親の顔ですね。
親の顔ですね。
こういう風なルートを取らないと僕はなかなか理解できないですよ、こういう話って。
内的対称が親の顔だとするとその表彰中の表情ですよ。
親の顔の表情です。
つまり親の顔色を伺うって話に近いんだけれども、
僕らはそれを見ることによって自分の行動というものを測るということを多少はするじゃないですか。
つまり人の顔色である程度のことがわからないと困る部分がありますよね。
こういうことをすると人はこういう顔をするだろうと。
つまり人前でみんなの悪口を言うとみんなはこういう顔をするだろうってなんとなくわかるじゃないですか。
これが内的対称の表彰なんですよ。
それが長寺画として機能してますよね。
で、これって大きくずれていたら結構困るじゃないですか。
ここ大事なポイントなんですよ。
普通に生きていける人というのはここが大きくは現実とずれていないはずだという理論が背景にあるんですね。
精神分析では対面では人の顔を見ないというのは非常にこの辺と兼ね合いがあると思います。
文化的に我々は例えば教室でいきなり踊りだすとみんながどんな顔をするのか、先生がどんな顔をするのか、
おそらく当たらずといえども遠からずなんですよ。
これがわかるから長寺画というものは心の中で機能するわけですよ。
ということはこの顔色というのかな。
この顔色がですね。
顔色。
そうだな。
この表情の変化に関する推測が非常に厳しめに出る人と非常に甘めに出る人といるだろうということは十分推測がつきますよね。
私がちょっとしゃべるとみんなが嫌な顔をするに違いないと思っている人はすごく引っ込み事案になると思います。
これを厳しい内的対象表彰と言ったりするわけですよ。
厳しい長寺画と言ってしまえばそれでいいんだけど。
一方で私がいろんなことをやらかしてしまってもみんな結構ニコニコしているに違いないと思える。
つまり非常に甘めな内的表彰を持っている人は非常に自己表現というものが豊かにやれると。
どっちがいいかと言えばですね。
よしやしはないんだけれどもおそらく甘めな方が生きていて無理がないケースが多いんだろうと思うんですよね。
すごく厳しめにそれを推定しているという人はそれ現実の推測がそれに近づいていけないと思うんですよね。
そういう人は現実の推測がそれに近づいていきますからおそらく苦労するんですよ。
ところがどっちが傷つきやすいかって考えるとちょっと難しいじゃないですか。
みんなが優しい顔をしてくれると思っていたところ実はすごい厳しいのが現実でしたと。
その人すごく傷つきそうですよね。
一方でみんなが厳しい顔をしそうだと推測している人が実際本当に厳しい顔をされましたと。
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どっちが傷つきやすいかと。
私ですねこのHSPの人とかいろんな人の話を聞いていると厳しめに推定している人が実際に厳しくされた時の方が遥かに傷つきやすいなと思うんですよ。
ここに一つの不思議さがあるなっていう風にずっと思っていました。
ただこれは考えてみると非常に当たり前なんですよね。
根本的にみんなが甘い顔をしてくれるそういう想像の世界で生きている人は時々本当に厳しい目にあったとしても結局のところ人間は心の中で生きている時間が長いので現実に厳しい顔をされるというのは短い時間ですよね。
これよく言われることなんだけども現実に厳しいことを言われるのは短い時間ですよね。
よく油断しているとかいい気になっているとか調子に乗っているとかっていう人はそれはつまり自分の内的表彰はその人にとっては大概厳しいものなんだろうと思うんですけど。
でもですね甘めの内的表彰に生きている人っていうのはですね多分そういうひどいことを人に言われたとしても一晩寝て起きてみると甘めの内的表彰が心の中に残っているためにすぐ元に戻れるんですよね。
回復が早いわけです。
そういうことになりますよね。
だって実際に人とリアルに接する時間ってのは常にそれより短くなるケースが普通なわけだから特にそういう怒りっぽい人と顔を合わせる時間っていうのはよく傷つきやすい人に聞いてみてもですね実際には短いわけですよ。
私はその私そういう人聞いたんですけど上司に怒られるともう3ヶ月は立ち直れないんです。
3ヶ月ずっとその上司といるわけでは決してないですよ。
3ヶ月ずっといるのは誰となんですかって言ったらその人の長寿がですよね。
その人の内的対象の表彰と3ヶ月ずっといるんですよ。
怒ってばっかりいる親なのか学校の先生なのか知りませんけどその人が世間の顔色だと思っている顔色の集合体みたいなもの。
それと3ヶ月いてその顔がみんな怒ってるから怖いんですよ。
でこっちを傷つきやすいって我々は言うだと思うんですね。
一見したところ想像以上に落差が大きく怒られた時の方が傷つきそうなものなんだけれども
多分現実にはそうじゃなくて傷つくってのはですねその時のショックとしてはどっちでも同じぐらいなんだけれども
その後の引きずり方が全然違うんだと思うんですね。
甘めの内的対象の表彰を持っている人はすぐ回復できるんだと思うんですよ。
だってみんなが優しい顔をしているのが普通だと思っているわけだから
怒られた時の記憶だというものは永遠に続くものでは全然ないですからね。
私は引きずりやすいんだと言っている人は途中でまたいつもの想像の世界に戻っているってことを忘れているに過ぎないんですね。
ここが2つ目の大事なポイントだと思うんです。
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その内的表彰対象というものはですね。内的対象表彰ですねごめんなさい。
は変えられるっていうことを忘れちゃいけないんですよ。
これ変えるの難しいよって言われるかもしれませんけれども。
だからこれもフロイトが言ったような話ですけれども
超自覚が無意識の底に沈んでちゃダメなんですね。
内的対象というものが完全に無意識の底に沈んじゃっていると自分じゃ手が全然出せなくなってしまう。
昨日あたりお話しましたよね。
無意識と全意識は違うんですよ。
全意識というのは思い出そうと思えば思い出せる領域だし
無意識というのはそれが難しいか不可能な領域。
私はこういうふうにものを考えないと理解できない人間なんですよ。
だから好んでこういうことを言ってるわけじゃないってことなんですね。
できればごく普通の言葉使いで説明したいんだけど無理なんですね。
これは一定の何かの欠陥と関係あるんじゃないかなと思うんだけど
これが長所でもあるような気がするんでしょうがないと思って聴いてくれてる人しか聴いてないと思いますけれども。
でその内的表彰というものが内的対象というものがですね
無意識の底に沈んじゃってると変更が効く感じが全くない。
無意識というのは基本的に自分の手が出せないという意味で現実とよく似ているので
自分の無意識こそ無意識の底に沈んでしまう。
なので自分の無意識こそ現実だと取り違いやすいんですね私たちは。
クラノンさんがよくその正しさというものは変えられるとか
意味付けというものは自分がやっていると気づくことが大事ってのはこういうことなんですね。
意味付けとか正しさっていうのは正しさって長寿がですけれども
長寿がそれを正しいっていうところのものですけれども
無意識にあるんですよ少なからずね。
無意識で働いちゃうんですね。
そいつを自意識の上で働かせろっていうような話に近いんですよ。
気づくってのはですね。
そうすることによってこれ俺がやってるんだって気づけるんですよ。
別の言い方をするとこの内的対象だと思っていた父親の顔色なの
母親の顔色なの厳しかった先生の顔色なの
自分に嫌がらせをしてきた同級生の顔なのは
全部自分の心が作り出しているものなんだから
こいつらの顔は自分都合で変えられるんだっていうことに
気づくことが大事なんですよ。
これが無意識の底に沈んでいるほど気づきにくいじゃないですか。
それはもう絶対動かせないものなんだ。
残念ながら親御さんが理不尽だった方とかのほど
これを変えるのは無理だっていう風にお話になるんですよ。
それはいかに自分の手から遠くにあるかっていうことを
言っているわけですよ。
近くにあればやっぱり変えられるわけですよ。
だからこそ長寿がを意識の光の下に
引きずり出してこないといけないんですね。
そうすることによってこの内的対象の表情というもの
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表情って言っちゃいますけど
それは自分の都合で変化させることができるんだということが
分かるわけです。
必ずしもそんなに厳しい顔をしているんだろうかと
そんなに厳しい顔をしなければいけないほどのことを
自分したんだろうかっていうことですよね。
結局それは。
それが無条件でものすごく厳しい顔をする
しかもみんな揃って一斉にするっていうことになっちゃったら
それは恐ろしくて何もできなくなっちゃいますよね。
自分がちょっとでも喋るとみんなが不愉快そうな顔をする
そのみんなってどこにいるんですかと
そしてなんでそんな顔をするんですかと
多分答えられないんですよ。
みんなが誰なのかもよく思い出せない。
無意識だから。
どうしてそんなに嫌な顔をするのかもよく思い出せない。
無意識だから。
一方違うとそもそもみんなが嫌な顔をすると言っておきながら
それがどんな顔なのかがイメージできない。
実は私そうなんですよ。
私はよく話していましたけれども
頭の中にイメージってほぼ浮かばないんですね。
音声ばっかりになっている人間なんですよ。
多分このイメージと内的対象というもの
内的対象が顔が見えなくたって存在はしてますからね。
私の母の内的対象というのはあるのは分かるんですよ。
じゃあそれはどんな顔をしているのかって全然分からないんですよ。
これが無意識の底に沈んでいると
いうことの大きな問題なんですね。
だから最近私は一定の努力をして
これをやるようにしているんです。
私の中の内的対象と化してしまった人たちを
全部可能な限り引きずり上げては
優しそうな顔をさせる。
そんなことが効果あるのかと思われるかもしれませんが
効果絶大です。
びっくりする。自分でも。
みんなが優しそうな顔をしているって言っても
自分でもみんなが優しそうな顔をしているっていう風に
勝手にイメージするだけですよ。やってることはね。
そうすると私はみんなが優しい世界に生きているんだと思えるんですよ。
それ本当じゃないじゃんって思われるかもしれませんけど
本当はそもそもないんですよ。
本当なんてどこにもないわけですよ。
どうせこんなものは
僕がみんなと呼んでいる人々のピックアップ自体が
みんなとは言えないじゃないですか。
それは僕が勝手にピックアップしているだけの人々ですよね。
しかも最も中心にいてやっぱり最大の影響を与えているのは
私の母ですからね。
他の人にとってはそんなことあるはずないじゃないですか。
私の母の世論などというものは
それこそ蔵園さんにせよ、大橋さんとかにせよ、誰にせよ
私の母の世論なんてへでもないじゃないですか。
これは私にしか影響を与えようがないものですよね。
私の父もしかりですよ。
私の場合は小学校に嫌な先生がいたとか
27:00
何人かいるんですよ。
そういう内的対象として厳しい顔をしている人たちが。
そういうのことごとく上げていっては厳しい顔をさせないと。
たったそれだけのことを今やっているんですよ。
具体的に。
一人一人ですね。
非常に違います。
びっくりするくらい違う。
これで傷つくってそういうことなんだということがよくわかります。
残念ながら最初のエピソードとかを覚えているわけないんですよね。
最初に私が傷ついたエピソードっていうのは幼稚園ぐらいまでにしか遡れない。
だけれども、もし私を傷つけるような両親だった場合
もちろん多少は傷つける両親でした。
当たり前のことですがね。
で、あった場合、私が1歳の時だったらもっと優しくて全然傷つけなかった。
なんてことあり得ないわけです。
私が1歳の時、2歳の時でもやってたに決まっているんですよ。
で、私はそれを思い出せない。
これが無意識に沈んでしまった長寿がなんですね。
無意識に沈んでしまうのが当たり前なわけです。
その頃から長寿がすでに十二分に発揮されていた。
母はどうせ険しい顔でやたら怒ったということがあったに違いないです。
ただ私はそれを一つも思い出せないんですね。
当然のことながら。
ゼロ歳児の時からあっという間に、
泣き喚いているのに対して理不尽にも怒ると。
なんで怒られなければならないのか、
私にはさっぱり理解できないわけです。
だって泣くしかないわけですからね。
でもやっぱり怒られたことはあったでしょう。
1年間私が泣きまくった時に一度も怒られなかったというような親ではなかったと思う。
だからそれはしょうがないんですよ。
しょうがないんだけれども、
そういうことがトラウマになり得た。
トラウマというのはこの場合ちょっとおかしいです。
でも無意識に沈み込んだ内的対象としての表情。
泣きまくるとこういう顔をするんだということを私は知り、
決してそれに対して僕はポジティブな気分にはおそらくならなかったであろうというそういう思い出です。
そういう思い出があるから誰かが目の前で怒っていると。
ただそれだけのことで私は怒られなければならないんです。
そういうことがトラウマになり得た。
トラウマというのはこの場合言葉が強すぎる気はしますね。
目の前で怒っていると。
ただそれだけのことで私はその一番古い記憶から心の傷を触られてしまうんでしょうね。
それが私は大変嫌なので人の顔色を伺うという非常にトンチンカンなことをするわけですよ。
トンチンカンなことなんですよ、これは。
そんなことをいくらしても私の内的対象とは何の関係もないんですよ。
目の前でおじさんが怒っているということと、
私の心の中のみんなが嫌な顔をするということは全然別のことですよね。
でもそれが分かるか分からないかといったら分からないわけです。
それが分かるようになるとだいぶ違ってくるということは今実験中だということですね。
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