2022-09-15 29:57

【672GMV】なぜ私たちはクモを怖がるのか?

無意識に好きになり、無意識にイヤになる
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ただいま、9月13日の19時44分で、このパターンが今、なかなか板につきつつあるかなという感じですね。
この時間帯ならここで撮れるといった感じがします。
そしてここで撮れればですね、平日日間は回るんだなという感じがあります。
あとここで撮ると、いまWebログオンにしているからなんですけど、30分縛りがあって、これがですね、なかなかうまいこと言っているような気も最近ちょっとしてきました。
9月25日日曜日の15時から、第1回のですね、3カードセミナーというのをやります。
タスク管理がテーマで、岡野淳さんとZoeさんと3人でやって、この回でそんな話をするのもどうかと思うんだけど、
タスク管理の話をもちろんするんですけど、1人手持ちは30分くらいなんですが、
このなるべく真相に近い森林話と絡めたタスク管理系の話がしたいなというふうに思っています。
これ聞いていらっしゃっている方はですね、割とお馴染みの用語が出てくるんですけど、
その日に初めて聞くという方にとってはもしかするとあれなので、その日どうやってうまく説明しようかなというのを今ちょっと考えているところであります。
よろしければチェックしてみてください。
今日はその辺の話をしようかと思ったんですけれども、
朝方ですね、娘を朝7時頃に駅に車で送るときに、特に帰り道でですね、
倉園さんのポッドキャストを聞くというのは半ば習慣化しているんですね。
アップされていた場合はなんですけど、それをしかも平日日間とかじゃないので、倉園さんのポッドキャストはですね、
これを何回かに分けて聞くというのをやっているんですよね。
グッドワイブスミッドナイトラクザというのをスポティファイの方で聞くといいかなと思われます。
だいたいですね、平均的に見て35〜36分が平均かなと思うので、
考えてみると実に長さ的にはこのグッドモーニングボイスとよく似ていて、
平日確か月水金に配信されていたような日がします。
そこで聞いたのを聞きながらですね、今日やることが変わってしまったというか、変わったんですよね。
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昨日の鈴木みたいな話になるんですよ、完全に。
そうだ、この話もしようと思ったのが、傷つくって話なんだけど、傷つくっていう話って結局不思議なことになるんですけどね。
長時間に息づくんですよ。
私はこれはですね、何でなんだろうと考えていて、そうかそうかと思えるようになったんで一応お話ししてるんですけど、
そうかそうかがですね、頭の中で繋がってきてるんだけれども、いざ言葉に出すとそんなに綺麗には繋がってないなということがよくあって、
だから物を書いたり、こうやって喋ったりするのって大事なんですよね。
人が聞いてもロジカルかっていうのと、自分の頭の中でロジカルだっていうのはイコールじゃないんですよね。不思議なんですけどね、これも。
フロイトのですね、自画とSだったかなというタイトルの本があって、結構いろんなこと言ってるんだなと思うんですけど、自画とSという本が、論文なんですけどね、あるんですよ。
これがですね、私は大事なことがいろいろあって、すごいなと思うんだけれども、ここにそれがあるんですよね。
非常に言葉遣いがわかりにくいから、今時この本を読んでHSPだの、心が傷つくだの話を理解するためにこれ読まないだろうなと思うんだけど、やっぱりですね、これがいいなと。
なぜならば、ダイレクトにここに入ってきている本ってあんまりないんですよね。
あとちょっと思うんだけれども、引用しても多分わかりにくくならない。言葉の使い方が実に独特で、わかりやすくはどうしてもないんですよね。
早い話、僕のある程度理解を持っていることもありますよ。
でも書いてあることからして、多分嘘じゃないのは、長字画というのはですね。
そうそう、その前にこの話しなきゃいけないんですね。
曲書論という言葉があるんですよ。曲書の曲は放送局の曲ですね。書は場所ですね。曲書論というのは場所なんですよ。
つまり、心を舞台と例えた場合、曲書論的に考えると、意識・全意識・無意識にフロイトに言わせると分かれるんですね。
意識ってのは、つまり自意識なんですよ。今意識できていることを多分意識って言うんですよ。
で、全意識ってのはこの番組でも何回か出てきてるんだけど、思い出そうと思えば思い出せることは全部全意識なんですね。前意識って書くんですよ。
で、無意識ってのは思い出そうとしても思い出せない。つまり、はっきり言って心の中にはない感じがすること。
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ここがあるよって言ったのが彼の一つの発見なんですね。
で、曲書論が場所だとすると、舞台だとすると、役者が長字が字がSなんですよ。
だから長字が字がSはイコール曲書論ではない、曲書ではないんですよね。この二つは別々なんですよ、ある意味。
ただ、Sはだいたい無意識の領域で動いてるよと。でも、ほら、我々Sを意識することもあるじゃないですか。
ものすごく眠いとか、ものすごく何かが食べたいとか、そういうことってありますよね。
つまり、Sはいっつも無意識人ってわけではないし、Sイコール無意識だと言うんでは、そういう説明されちゃうことがあるんだけど、そうではないんですよね。
多分これはですね、舞台と役者っていう説明が一番近い、いい感じがするなと思うんですね。
長字がと字がとSは役者。意識・全意識・無意識は舞台。そういう感じがするんですね。
で、だいたい字ががどこで動いてるかっていうと全意識なんです。これは非常に大事なポイントだなと僕は思います。
字がってのは一見意識にいるように思うかもしれないんだけど、無意識に近いところにも行ったりするんですよね。
字がの行動半径は広いわけです。だから字がが気がついていないところで動いてしまっていたり、だから無意識に何々するとかって言うじゃないですか。
僕の場合、無意識に字がは何かをすることはなくて、全意識で何かをするんだけど、やっぱり全意識はグラデーションでですね。
意識に近い全意識もあれば、無意識に近い全意識もあるわけですよ。
ただ区切りはありますよ。思い出しそうと思えば思い出せることと思い出せないことは違いますからね。
だから字ががですね、かなり無意識に近い全意識の方で働いているときは、我々はかなり不注意になっているということなんですね。
心がオルスになっているというのはそういう時の表現だと思います。
問題は長字がなんですよね。
普通に考えれば長字がというのは何々しなさい何々しなさいでうるさい奴だから、意識の上にかなり全意識に近いところっていうイメージがあるんだけど、長字がって無意識に働きますよね。
ここが私はグッドバイブスの話と近いなと思っているんですね。
長字がって無意識で働くじゃないですか。何々が正しいんだっていうのを我々は無意識のうちにやってしまいますよね。
やってしまうって言い方がないんですけど。
これがですね、精神分析でも問題になっていて、言ってしまえばですね、長字が無意識でやたらと働くということは良いことではないんですよ。
何かが正しいとか何かはいいものだとか、それは絶対そうしなきゃいけないんだというのが無意識で動き回っているというのは、
本人にとっては大変都合が悪い事態を招きかねないんですね。
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そのフロイトが書いているところによると、多くの神経症患者、多分彼が見たんですよね。
その神経症患者というのは、罪悪感、彼はね、罪責感って言うんですよ。
日本人がこう訳しているんですよ、罪責感っていうふうに訳している。
これ罪悪感なんだと思うんですけど、罪責感が問題なんだと。
罪責感というものがすごく深いところにあるんだと。
で、それがほとんど無意識的であるっていうのがすごく大きな問題を生み出すんだという考え方を、彼はジガトエスっていう論文の中で結構書いているわけです。
これがですね、私はまずいろんな、我々の今回の傷つきとか、いった話に出てくると思うんですけど。
つまり、まずよしやし。よしやしって私たちは無意識に決めている気がするんですよ。
で、よしやしっていうのはですね、長字が的だと思うんですね。少なくとも長字がっていいだ悪いだ言いますよね。
非常に簡単なところで言うと、こういうテレビを見るのは良くないとかっていうのは長字がじゃないですか。
それどころかですね、私最近ずっと思ってるんだけど、これはちょっと長字がと言い切れるかどうか分かりませんが、食べ物の好き嫌いってそもそもどうしてあるんだろうって思ったんですよ。
この辺のことは何かフロイドにあったかな、ちょっと分かんないんですけどね。
例えば私は芋など栗などが好きなんですね。そういう系の食べ物が好きなんですよ。バナナとかね。
それ好きになりなさいと言われたことはないんですよね。
で、うちの妹はですね、私の妹は人参が嫌いなんですよ。
これは好きになりなさいと言われていたような気がするんだけど、ついに慣れてないんですよね。
だけども、これが生まれつきそうなのかって言うと僕は多分違うと思うんですよね。
僕は覚えてる限り生まれつきバナナが好きだったわけではないんですよ。
どっかで好きになったんですよね。
これってつまり好転的なんですよね。別に不思議なことじゃないですよね。好き嫌いが好転的だっていうことそれ自体は。
ところがですね、ここでちょっと詰まったんですよ。
例えば食欲ってSですよね。Sの無意識ですよね。
食欲ってこれから食欲が上がってくるなみたいな。時間で測ることはできても、そういうのないじゃないですか。不意に来ちゃうじゃないですか。
これから食欲が上がってくるぞみたいなの。全然意識できない。
ある程度無運転に慣れてくるとこういうことが起こるんですけど、別に全然眠くなくてさぁ出発だみたいな感じで家族で出かけるじゃないですか。
でもあるバイバスに乗ると不意にふーって眠くなるってことって多分運転手だったら誰でも経験してることだと思うんですけど、あれすごい無意識的ですよね。
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Sが眠く、なんていうんですかね、睡眠欲を発揮してる感じしかしないんですよ。
これから眠くなるぞって絶対運転手は思いませんから。嫌ですからね。どうせ戦わなきゃならないから出てきちゃったら。
すごくSってのは無意識的だと思うんですよ。だから食欲ってのはSで無意識的だと思うんですけれども、好きだ嫌いだあるじゃないですか。
食欲なんだから食べ物だったら全部好きでも全部食べたくなってもいいはずなんだけど、ある意味ものすごく食べたくなるものとそうでないものってありますよね。
つまりSが働くためには良い食べ物が必要なんですよ。その良い食べ物って誰がどう決めてるんでしょうね。
これ僕が超自覚決めてるとするとピーマンだのレタスだのだけが好きになっても良さそうだけどそうはいかないけど、Sだけが決めているんだとすると多分何でも食べたくなると思うんですよね。
あからさまに食べ物なのにそれが嫌いだとかっていう人いるじゃないですか。
例えば私の知ってる人にメロン嫌いだっていう人がいるんですよ。これすんごい不思議だなと思うんですよね。何が決めているんだろうと。
生まれつきだとか遺伝だとか言うんだけど大体そうじゃないですよね。
例えばうちの母はね、肉が嫌いなんですよ。全く食べられないんですね。これすっごい違和感があって、だってみんな肉は好きじゃないですか。
肉が食べられないというのが生まれつきなのかというと、例えば遺伝的なのかというとうちの母方の実家の人たちみんな肉好きなんですよ。
すっごい分からんなと思ったんですよね。肉嫌いになりなさいっていうのはあんまり言われないと思うんですよね。
だけどうちの母は全くダメで少しも口に入れない人だったんですね。
もうひどいときになってくると匂いがするだけで嫌だとか言うんで、母の皿だけ別ですき焼きとかを食べるときも先に肉を入れる前に野菜だけ取って食べるとかするんですよ。
ところが先日すげえびっくりしたことにその母がですね、今74後なんですけど肉食ってたんですよ。ものすごい驚きました。
僕は見ている限りでは50年間、50年間生きてないけど48年間肉を食べる母は見たことがなかったんですけど食べてたんですよ。
で、なんで肉食べてんのって言ったらあれ?とかって言ってんですよ。要するに無意識なんですよ。
これっておかしいじゃないですか。でも僕目の前で見たんでね。なんで肉を食うんだと。
そんな70何年も食べてない肉を食べて大丈夫なのかと思ったんだけど全然大丈夫なんですよ。
つまり体が受け付けないとかじゃないんですよ。で、生まれつき食べられないのでもないんですよ。
だけど嫌いなんですよ。本人にしか分からないような理由なんでしょうけどね。本人も分かってないなと思ったんですよ。平気で食べてたからね。
このことを見てから思ったんですね。好き嫌いを何が決めてるのかはさっぱり理解できない。
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最近ちょっと話題になったんですよね。知り合いの人と蜘蛛だゲジゲジだゴキブリだはなぜ嫌いなのか。
その人そんなに嫌だとは思わないという女性だったんですけどね。そんなに嫌だとは思わない。
こういうのって結局生まれつきでないことは確実なんですよね。うちの子を見てても分かるんですね。
生まれつき蜘蛛とかビビってないんですよ。赤ちゃんの頃は全然大丈夫なんですね。
ある年を過ぎると確かに気持ち悪くなってくるっていう言い方を今頃してるんですよ。13歳ぐらいですね。結構大丈夫な方だったんですよね。
私自身がそうなんですよ。僕は子供の頃って蜘蛛とか平気で捕まえてたんだけど、今ダメなんですよね。
触れもしないってことはないけれど、まあちょっと気持ち悪いなと。
嫌いなんですけど、私の中のSは多分蜘蛛が生まれつき嫌いだったわけじゃない。
だいたい私は12、3歳までの頃全然全く問題なかったですからね。むしろ好きぐらいな感じでしたから。
嫌いになったんですよね。習慣のせいなんだけど、最近そういう昆虫学者みたいな人がいて、
なぜ昆虫を人は嫌うようになるかみたいなのを書いてたんで、それ読もうと思ってたんですけど、まだ読んでないです。
ただ言えることは、こと、私に関してですけど、虫に関しては長寿が絡んでるっていうのはわかります。
嫌いになるべしみたいなものを受け入れちゃったんですよね、どっかで。
あまりにもいろんな周りの人が、例えば母なんですけど、すっごい嫌うんで、ある程度受け入れてしまったんですよ。
この感覚が、自意識で働いてないんですよね。無意識で働いちゃってるんですよ。
だからもう、なんか、私は本能的に虫が嫌いだぐらいな、そういう嫌悪感みたいなものが働いているんですよ。
で、Sってのは欲動だ欲動だって言われてるから、欲動ってことは全然違うんですよ。
例えば性欲だったら、見栄えなくいけそうな気がするんですよ。
僕はやっぱり食欲でこれを考えるんですよね。見栄えなく何でも食べたくならないし、単なる食欲だったら。
少なくとも食べ物なら、食べられないものはダメだと。
だけど私たちは良いものを食べたがる。
良い人とくっつきたがる。
この良いってのを決めてるのが、とにかく自分の欲望だったり、自分の欲望だったり。
良いものを食べたがる。
良い人とくっつきたがる。
この良いってのを決めてるのが、全部が長寿がだとは思わないんだけれども、
すっごい長寿がに左右されている感じってのはします。
特に性はですね。
だから性は、このSに対して、ダイレクトコントロールってのはさすがにおかしいと思うんだけれども、
相当強烈にインフルエンスしてるんじゃないかなと思うんですね。
こういう性欲が登ってきても、基本的に抑え込んで登らせない。
もし登ってきそうになっても、こっちは剣をしろぐらいだ。
つまり、近づきたくなると気持ちが悪くなるとか、気持ちが悪いっていう言い方、時々しますよね。
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近づきたくなると拒絶するとかね、そういう風にしておかないと、
つまり長寿がってのは文化的にSをコントロールする役割を負ってるわけですから、
それは良いことですよね。しょうがないですよね。
トイレに行くとき、何かそういうことをしたくなったらトイレに行きなさい。
これは文化に迎合する形で長寿がが指示を出すわけですよね。
Sを変換しろと自我に言ってるわけですよ。
これは普通のことだと思うんだけれども、
明らかにこれが変な形で出るんだと思うんですよね。
食べ物とか、好き好きというものに変換されていく。
これが一番良い方法ですから。
Sを結局ある方向に方向づけたいんだったらば、好き嫌いに訴えるのが一番良いじゃないですか。
だから何かが好きだった場合にはSがそっちへ行って良しだし、
行って良くなさそうなところを嫌いになったら良いわけですよ。
私はそういうのの犠牲になってるのが蜘蛛とかなんじゃないかなって思ってるわけですよ。
ここからがややこしいところなんですけれども、
良い悪いというものを長寿がが決めて、
それに誘導される形でSが動かされているという風にするとですね、
悪いものが問題なんですよね。
良いものはまあまあ問題じゃないじゃないですか。
食欲というのも良い対象に向かってSが働けばそれでいいと。
好き嫌いというのは結構言われますから、
体に良いもの好きになりなさいって言うんだけど、
Sはそんなに簡単にはコントロールされないにしても、ある程度はコントロールされてくれる。
だけれども、何か出来事があった時にですね、
そういう時が一番長寿がというのは働きやすいんだけれども、
何か出来事があった時の対処法というのかな、
良い対処法、悪い対処法と、
そういったものに僕らは散々出くわすわけですよ。
あるいはこうなんだろうな、どういうのがいいんですかね、
自己PRみたいなのをする時に、
良いPR、悪いPRみたいなのを必ず意識させられるんですよね。
SはSなので、たぶんですね、
例えば他人に対して好意を示したいというのも、
Sは多分愛の欲動みたいな言い方をするんだけど、
あると思うんですね、普通ですよね。
文化的に考えてみても、初対面の人に対してある程度好意的に出る、
友好的に出る、ニコニコするとかね、
基本好きになるみたいなのはおかしくないと思うんですよ、Sの働きとして。
ここででも長寿側は例によって例のごとくで、
21:00
好きな人、嫌いな人、良い人、悪い人っていうのをやりたがるんですよね。
やりたがるんですよ。
どうしてもそれは親の観点を引き継ぐっていうこともありますし、
私たちはいろんな意味で人を選別したがるというところがありますから、
美味しい食べ物にSが向かいやすくなるように、
良い人にSが向かいやすくなるように、
やっぱりそうやってそれこそが文化的に良いことだっていう考え方のもとを動いてると思うんです。
ところが、世の中には良い人だけがいるわけではないわけですよ。
長寿側が言うところの良い人だけが生きてるわけじゃないですよね。
当然、悪い人も生きてるわけですよ、長寿側的に見た場合ですよ。
長寿側的には悪い人っていうのがいて、
つまり長寿側的に悪い食べ物とか、長寿側的には悪い虫とかがいるように、
長寿側的に悪い人っていうのがいるんですよ。
このところに僕は一番、何て言うんですかね、
私も自我も困るし、Sも困るし、みんな困るっていう、
そういう事態が当然発生しているんですよね。
悪い人がやってきましたと。
それは、蜘蛛や悪い食べ物っていうのは、
要するに食べない方がいいよっていうような食べ物、
嫌いな食べ物もそうですけれども、のようには扱えないですよね。
蜘蛛のようにシューって吹きかけてどうにかするとか、
外に追い出すとか、そういう状況があるんですよね。
悪い人が出てきても。
でも今の僕の理由は、そうしたいんじゃないのかなって思うわけですよ。
Sに対して、長寿側はこの悪い人間と一緒になるのは問題だっていう風に思ってるわけだから、
本当はシューって吹きかけたりしたいんじゃないのかなって思うんですよ。
この悪い人間と一緒になるのは問題だっていう風に思ってるわけだから、
本当はシューって吹きかけたりしたいんじゃないのかなって思うんですよ。
ここでその人と出くわし、話、表面的には仲良く知ってることをやっていたら、
Sと長寿側が極めて近い位置、つまり無意識に近い位置にいるんだから、
大変気分が悪いんですよね。
そしてなぜそうなのかがはっきりとはわからないはずですよ。
長寿側が無意識に近い領域にいるということは、さっき言った通り全意識よりも下なんで、
思い出そうとしても思い出せない、意識しようとしても意識できないその領域で、
Sと長寿側が動いているわけですよ。
この人に人間なんだから近づこうとする一方、この人は悪だっていう、
そういう悪いものなんだ、何か悪いことがこの人と一緒にいると起こるんだっていう、
そういうコントロールの仕方を同時に発生させているわけだから、
一つには回避性ってことが考えられますよね。
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対人恐怖的にその人と対応することになる。
あるいはHSP的になる可能性がありますよね。
その人がとにかく怖いと。
これは無意識に働いて無意識に機能している部分なので、
怖いという感じは最初は一切抱きませんけれども、
その人が大きな声を出す、ちょっと失礼なことを言うっていうのは、
もうものすごい耐えがたいことに感じられるはずです。
蜘蛛が嫌いな人が蜘蛛を見るような感じを与えるはずですよ。
あるいは、これはまだマイルドな対応の仕方なんですけど、
無意識の状態が続いていた場合、特にですね、
その人が性欲というものとそれを関連させている場合には、
接近していきつつ処罰したいというふうに思うはずです。
つまり、Sの欲望としては異性だから接近したいと考えるとします。
女性が男性に接近したいと考えるとします。
しかし長時間が同時に、好きならばこの男を悪い方に、
言ってみればシューってやりたいわけですよ。
そうすると、男性に対しては、
シューってやりたいわけですよ。
そうすると処罰を与えなければならない。
これがですね、多分、昔ヒステリーと呼ばれていた活動の
かなり典型的なものになったんだと思うんですよ。
接近しておきながら、最後は酷い目に合わせると。
これはですね、同時に、接近していくと自分が必ず酷い目に合う
という一面で捉えることもできるわけです。
なぜかというと、長時間というのは結局、
どっちを酷い目に合わせてもある意味、いいわけですよ。
それはもう長時間のスタイルなんですけど、その人の。
その人の長時間のスタイルというのは、
つまりその人のご両親のスタイルなんですけども、
よく言うじゃないですか。
勉強しないと酷い目に合うんだからね、とか、
そういう言い方をするじゃないですか。
ああいうしょうもない人と付き合っていると、
酷いことになるからね、とかって言うじゃないですか。
つまりこれは、○○をしないと、あるいは○○をすると、
○○という痛い目を見るぞっていうのが、
割と長時間の一つのスタイルとして、
今まで使われてきた手法なんですよ。
これが無意識の中で働くということになってくると、
接近する、でも接近すると酷い目に合うっていう予感がしていて、
実際酷い目に合うわけですよ。
あるいは酷い目に合わせる。
こういう形を繰り返し繰り返し取らせるようになるっていうのがですね、
たぶん心が傷つくって言われている時に、
一番私たちが被害の典型的なパターンなんだろうと思います。
よく油断って言うじゃないですか。
僕油断って言葉すごい変だなと思ったんですよ。
油断していると酷い目に合うぞって言ってる人は、
だいたい油断は絶対できない人なんですよ。
世の中の油断している人に罰を与えたいという気持ちなんだと思うんですね。
それは自分が油断したら罰が必ず下るっていう予感なんですよ。
27:03
この予感を確実にさせられるものって言ったら、
私の考えではですね、
無意識に潜んだ長寿画だとしか思えないんですよね。
無意識だから当然、
どこでその長寿画が罰を誰に与えるか分かったもんじゃないんですよ。
で、それをやったらですね、
関係した人は必ず両者とも傷つくことになるじゃないですか。
この辺の話ってすごく自己愛の話と似てるなって思うんですよね。
関係した人は必ず酷い目に遭うんだよっていうそういう、
でもSの方は欲動なんで、油断とは何かっていうと、
Sが自由に振る舞うってことだと思うんですね。
それが油断だと思うんですよ。
ないしは油断っていうのは、
長寿画の監視下にない自我とSが両方で一緒にいい気になって、
例えばいい気になって食事をする、
いい気になって性的なところに行くとか、
いい気になって自己PRする。
全て全然悪いことじゃないんだけど、
長寿画にとっては非常に危険なことなんですよね。
で、なぜ危険なのかっていうのは、
断然重要じゃないんですよ。
これも不思議なんですけど、長寿画ってそういうもんなんです。
文化的言語なので、
お父さんなりお母さんなりが、
そういう風に文化的に言語をしていれば人生は良くなるんだよっていう風に伝えてきましたから。
これはマイルの伝え方。
悪い伝え方だと、
そういう風に文化に言語をしないと、
文化からとっちめられてひどい目に遭うんだからねっていうやり方。
こっちの方が多々あるんですよね。
これが油断に対する脅迫的な動きなんだと思うんですよね。
心理的な働きなんだと思います。
そしてフロイトが自我とSの中で脅迫症という形を取ると、
長寿画が無意識に働くようになると、
きっと脅迫神経症的な働きになると。
今日面白い話をある人から聞いたんですよね。
耳なし法一はなぜ耳にお経を書かなかったかと。
これを防ぐのがライフワークなんだと。
つまり油断なんですよね。
そんなあからさまに耳みたいなところに書かないっていうのが非常に面白いですよね。
そういうエアポケットみたいな油断っていうのは、
むしろ私は油断したから生まれたんじゃなくて、
チェックリストがなかったから生まれたんじゃなくて、
あそこは強烈なSの抵抗なんだろうと思うんですよね。
絶対これ以上長寿画の言いなりになっていたらいいことはないと。
そういう風にして油断というものを作り出すんだと思うんですよ。
そういう風にむしろあれを解釈しないと、
あの話って本当に単なる頭の悪い法一の油断みたいな。
法一の都市町さんか、そんな話になっちゃいますもんね。
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