1. 働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト
  2. しょうもない自分のことでも肯..
2024-09-17 50:37

しょうもない自分のことでも肯定はできる【1054】

精神分析「チャット」でした。
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サマリー

このエピソードでは、タスクシュートの時間術や約束を守ること、メラニー・クラインの精神分析における影響が語られています。一人での仕事の重要性やAIとの関係、社会におけるフェイクニュースの影響についても考察されています。また、自己肯定感や人間関係における正しさについて議論されています。特に、正義感とその影響が社会や個人にどのような影響を及ぼすかが掘り下げられています。信田紗友子さんの見解を通じて、アダルトチルドレンの概念や精神分析の影響が考察されています。個人の生きづらさの原因を親に求めることができるため、責任がないという視点が紹介されています。内面的な葛藤とそれに対する肯定の重要性についても探求されています。アトピーや人間関係の影響を通じて、自己受容のプロセスが語られています。自己受容の重要性が述べられ、リアルな自分を肯定することが成長に繋がるというメッセージが伝えられています。

タスクシュート時間術の重要性
おはようございます。働く人に送る精神分析チャット1054回をお送りします。
はい、9月17日火曜日7時59分です。まもなく8時ですね。
ちょっとちょっと涼しくなってきて、まあこれを撮ってるところはクーラーは効かせるようにしてるんですけど、喋ってるとですね、
蒸気してきて暑くなってきて、よくわからなくなってしまうので、よくわからない話を連日しておりますが、
とりあえずは、昨日もですね、J松崎さんと3waysというのを3本も撮って、単独で喋るというのは必要ないんじゃないかとすぐ思うのが僕の
せいなんですけれどもですね、まあ、あの日曜日の逆算せずに締め切りに間に合わせるタスクシュート時間術、
おかげさまでひどく盛況ででしてね、私がびっくりするくらいだったんですが、ありがとうございました。この
感じで、ちょいちょいやっぱり、まあちょいちょいでもないですが、このポッドキャストは一人でひたすら喋ろうと、
改めて少し思いましたね。 あのこれ、別途なことでは、
相方呼ばないじゃないですか、対談にしませんよね。 対談にしようかなと思うこともあったんですけど、3waysが入ってね、もう対談もあるんで、
もういいかなと思うようになりまして、やっぱ単独でやるっていう仕事を、 とにかく減らさないようにしようと。
理由はですね、結局一人じゃなければ言いたいことを完全に生きるのは難しくなるということと、
つい相手に頼る、頼るのはいいんだけど、頼る中でですね、私の言うことは言わなくていいやということになりやすいという、
この問題を2つともやっぱり、あの 問題じゃないんだけど、そういうふうに2つともあるのは、どっちもあんまり
利き手にとっていいことではなかろうなというふうに思いますんで、 あの私は単独でやっていくやつは確保しておこうと思います。
人とコラボするのは、まあまあ嫌いじゃないんで、やるんですが今後も。 あの
とりあえず単独というのはなくさないようにしようと、 いう感じですね。
これでね、収入的な部分が完全に型がつけばですね、 完全に型がつくなんて日が来るのかは知りませんが、つけば、
まあその拡大という努力をせずに済むなっていうのはありますが、 今のところは、あのそういう見通しも全然立たないんで、
全方位拡大努力は続けなければならないでしょうし、 ジェイマスザキさんとの活動はね、もう拡大の一途をたどるしかある意味ないなっていうふうにも
思いますんで、あっちはあっちで頑張っていこうという感じなんですが、 だからといって一人仕事を縮小させるのは
メラニー・クラインの影響
何とか踏みとどまろうと、そういう感じですね。 縮小させるどころか消すのは、もうなんかこう
あっという間にできちゃいますからね。 まあそういう感じの
変な決意表明でした。 9月の22日日曜日にタスクシューター手帳術の回の第4回をやります。
渋谷とオンラインハイブリッドでやります。 ぜひ遊びに来てください。
先日の日曜日に私がまとめましたように、 私にとってはあれが最終的な一つの回だろうと思っています。
なぜタスクシューターは約束を守ることができるのか。 そして言うなら、なぜ手帳術の人とかライフハッカーは仕事が好きなのか。
これへの答えが私はそこにあると思っております。 だからGDDであろうとパレットジャーナルであろうと何であっても仕事は進むんですよ。
あの論法から考えればですね。 仕事が進むというよりはタスクシューターは多分約束を守るでしょう。
それには劣機としたわけがある。 ただそれはタスクシューターが約束を守らせるのに非常に有効な機能を発揮するとか、
まあ多少の機能を発揮するんですけど、非常に有効である必要は別にないと。 そして手帳も同じ。
すごく有効でなくても、仕事を進める上ではもしかしてほとんど役に立たなくてもですね、 仕事は進む。少なくともライフハッカーは仕事好きになれる。
仕事好きだからライフハッカーになっているとも言えるんですけど、 ここに鶏たまごがあるんですけどね。
パレットジャーナルでも同じです。 パレットジャーナルが仕事に役に立つたたないは微々たる問題です。
ただ、パレットジャーナルを仕事で活用している人はきっと仕事が得意でしょう。 それはですね、鶏たまごだけ、だけれども機能を果たすということです。
GTDも全く、GTDは相当、ちゃんとGTDが好きになれば絶対仕事は進むし仕事も好きになるでしょうね、おそらく。
これもGTDは仕事にも役に、しかし逆説的に聞こえると思うんですけどね、 役に立たなくてもいいんですよ。
だったら何でもいいのかというとそうではないです。 このGTDの部分がゼルダの伝説大好きですだと仕事滞るでしょう、おそらくね。
ここがあのライフハックとか仕事術の仕事術たるゆえなんです。 でもそれらはゼルダよりも仕事にはるかに役に立つって話じゃない。
いくらかはそれは役に立ちますが、はるかには役に立たないと僕は思いますね。 でもゼルダとGTDだったらGTDの方が仕事が進む。
社会とフェイクニュースの影響
GTDとタスクシュートだったらタスクシュートの人の方が約束はきっと守る。 理由ははっきりしましたねっていうお話を15日にしたつもりです。
これが22日にも適用できると。 ここにタスクシュート手帳っていう考え方が投入できるんだなというのを、私はまあまあおおむね確信できたと。
確信はしてたつもりなんですけど、もう数年前から。 あれほど大々的にお話したのは15日がおそらく最初。
で、もしかすると当分はあんな話はしない。 やっぱりちょっとデリケートになってしまいますからね。
僕は嘘はないと思うし、どれを選んでもいいという意味でも何も悪いことはないと思ってます。 そして今までとやることを変えなくていいという意味でも、あれ聞いたからって変える必要全然ないじゃないですか。
心置きなくやれるようになるというだけですよね。 それで十分だと私は思うんです。
あとは私は私の立場なのでタスクシュートを推進していくと。 仕事術においてはですね。まさに仕事術なんですよ。
もうちょっと言うとやっぱ仕事習慣なんですけどね。 あの
なんというのかな、約束を守ることが大事なのか、 仕事を早く進めることが大事なのか、仕事をたくさん進めることが大事なのか、
仕事を好きになることが大事なのかはあまり変わらないですよね。 でもそこを細かく言うとライフハックの様々な手法の違いとなって現れてくる。
タスクシューターはおそらく約束を守りたいというタイプが多いんだろうなと。 そういう大筋ね。別にそれ仕事が好きになりたい人もいるでしょうし、
より生産的になりたい人もいるでしょう。 そこは矛盾しませんけど、約束を守るのと生産的であることは矛盾しませんよね。
ただ、どっちに利点があるかで選ぶツールは変わってくるだろうなと。 自然とね。ということだと思います。
ということで22日よろしくお願いします。 今日の話もそういうことに絡んでくるんですけど、先週いろんなお話しましたよね。
一時的にアダルトチルドレンがホットになり、僕の中で。 いつもいつも毎度申し上げている通り、ここで僕が喋っていることは
性格性にも書くし、専門性も書いてるし、 要するにチャットなんですよ。おしゃべりなんです。
雑談なんですね。私はこれがとっても今は意味があると思っているので、 専門的な話かどうかなどというのはですね、
今後ますます大事になるとともに、今後ますます私たちが気にしたくないことになってもいくはずなんですよ。
AIというものまで出てきましたからね。 AIは専門家かっていうような話と似てます。
専門性にこだわるという方は、要するにある、まあ結局精神分析的に言うと脅迫的ということになるわけです。
そこには正しさというイリュージョンがあります。 これはもう、私はこれが信田沙耶子さんのアダルトチルドレンで確信したんですね。
正しさというのはイリュージョン。間違いない。 でも我々はそれにこだわりたがるし、従って炎上もする。
多分私がこの今しゃべっている内容を全部ノートに上げていけば、 そしてそれがバズれば確実に炎上すると思うんですね。
でもそれは正しくないというただそれだけの理由でしかないんですよ。 ただそれだけっていうことに、
マイを潜める方はですね、ノートに書いてあること全部正しいなんてことが、 婚輪際起きない。今後ますます起きなくなっていくっていうことを、
受け入れるしかないと思うんですよね。 じゃなきゃインターネット移送するしかなくなりますから。
世の中にはフェイクニュースってものまで出てきたじゃないですか。 あのフェイクニュースとAIは僕は非常に深い関係が、深くある意味面白い関係があると思うんだけれども。
とにかくですね、精神分析が正しく表現されているかどうかなんていうのは、
勉強するってのもおかしい。読めば読むほどナンセンスだと思うんですね。 あの一例、一例ただと死小動ですね。
死小動って何なんだと言う。生きている人間がね、生きている動物が死小動を持つのかよっていう。
でも人間だけは少なくとも起死年齢を持つ。 他の動物は持たないと思うんだけどね、起死年齢を持つんですよ。
死ぬ死なないはまた別としてですよ。死にたくはなるわけじゃないですか。 でフロイドがタナトス、死の小動って言った時、生の小動と死の小動がありますと、エロスとタナトスですね。
エロスとタナトスですって言った時には、彼はそんなに深いことを考えてたとは思わないんですね。
でもこれを異常なほど深くしてしまったのがメラニー・クラインというおばさんなわけですよ。
これといった専門の大学を出たわけでもなく、院はもちろん出ておらず、医療の専門家でもない、しかし精神分析界ではおそらくダントツのビッグネームになった一人の女性なんですね。
あの人の存在というものがやっぱり僕は非常にいいなぁと思っているわけですよ。
でも彼は彼女は一歩もフロイドを超えたということにしなかったわけです。
どう考えてもあの人のタナトスの考え方、つまり死小動を赤い小動に持ってって、本当にエロスとタナトスを極めて抜き差しならない対立軸に置いてみたというのは、正しい正しくないは別として、彼女の臨床にはすっごい影響を与えたわけじゃないですか。
僕はあれを何と表現すればいいのかわかんないですけど、カワイハヨンさんは人は死ぬことを知って生きているという過酷な人生を生きているんだって、まあ彼らしい実にうまい言い方だけど、こうやってタナトスを包摂していった感じがするんですね。
でも私はメラニ・クラインがタナトスに込めた、この破壊小動というものに込めた力強さはですね、やっぱりそんなもんじゃなかったと思うんですよね。
もっと圧倒的に破壊的なものを、つまりこの破壊性を何とかしなければ人は生きていかれませんよっていうような感じで、まさに死んじゃいますよっていう感じでクラインは意識したと思う。
これはですね、私は死をもじさないっていう感じに聞こえるんですよね。自爆テロ的な何かね。非常に破壊的なものがあり、これがですね、全く僕がよく自分の人生でおいて全く釣り合いが取れてないなって思うんですよ。
非常に破壊的で、何と言うのかな、建設的でないものがある。ただ、この力が強いってことだけは意識した方がいいと思うんですね。
死をもじさないからできることがあるみたいなことを、昔の人は言いがちだったわけじゃないですか。
まさにそういう力が何かある種の方向を変えたりですね、歴史的な事件を生み出したり、記憶に新しいところでは9.11ですよ。
私たちの社会は、そっちを使ってやっていたら大変なことになるということを、みんなもうはっきりと第二次大戦の頃に叩き込まれてしまったんで、叩き込まれたんで、ああいうものには何の力も与えてはいけないんだっていうのを合言葉のようにして頑張ってるわけで、この頑張りは大事なんだけど、でも実際には影響を全く受けていないというような言い方は、かなり無理があると思うんですね。
自己肯定と正しさ
例えば私が、私はそういう日記圏なんだなどかと思うんですけど、留学した時にもですね、帰ってこい帰ってこいっていっぱい言われたんですよ、9.11のほぼ直後、行ってから15日目くらいですからね、もうちょっと経ってるから行ってから30日目くらいに起きたのがあれですね。
で、私は帰る気は全くなかったし、それどころか私はテロの関係ないと思うんだけど、テロで一番有名になっちゃった会社の飛行機で常に往復してたのにガラガラだった。本当にガラガラだった。このガラガラ一時とっても影響は受けたわけじゃないですか。
あの時に全然違うですね、もう一つの、アメリカにも当然JALと全日空みたいなのがあるからもっとあるんだけど、シカゴで日本に行くとなればこれだよねってのが大体決まっているわけですよ。そっちに乗って帰ってくる人ばっかりだったんだけど、もちろん私はそんなことはしない人間なわけですね。だってガラガラじゃんみたいな感じで。
往復便で両方とも一列貸し切りで、それでしょっちゅう寝てましたから。当時はもう王様みたいなもんだったんで、使ってくれる人は神様ですぐらいのノリがあったんで。あれ普通にやってるとめちゃくちゃスチュワーデスに怒られるんだけど、アメリカの。全然もうみんなチェヤホヤしてくれて。だってもう一人で3人ぐらいを相手にできるみたいなんで、しかも安いっていう。
そういう愚かなことを、まあみんな愚かだって言ってたんですけど、僕にはさっぱり理解できないんですよね、その辺のことが。で、みなさんテロの影響を少しでも受けちゃダメだって平気で言うんで、どういうもんかなと思うんですけれども、まあそういうもんですよね。
ただ、私はそういうこう、ある種の自分の無謀さみたいなものってのは誰から引き継いだんだか知りませんけれども、それが僕の生き方になっているんですよ、結局。
私、この何の後ろ盾もなく、何の正当性もなく、精神分析チャットとか言ってるわけですよ。これを正意識の人が聞けば、部分的に正しかろうと間違っていようと、多分怒りを買うっていうケースはあり得ると思うんですけど、興味がない。
もともとそうなんじゃないかなって思うんですよね。私、つまり、バックボーンを持つっていう発想がなくはないですよ。ただ、偉い気迫なのは確実なんですよ。自分が持ってる資格も全然なく、まともに組織に属したということもなく、
そして、なんだかよくわからない肩書きで生きていて、この肩書きをどうこうしようという気すら全然ないわけですね。ただここで喋ると。これを真に受ける人もいらっしゃるんでしょうけれども、これをいくら真に受けてもですね、何も積み上がっていくっていうものとは違うんですよ。
昨日以前に喋ったことについて、私は責任が取れない人間なんですね。だから、これにどこにも正しさがない。で、私は正しさというのはそもそもイリュージョンだとほぼ確信しているんで、それがお前の正しさだと言われれば、そういうメタ的なことは言われれば、そうではないとは言えませんけど、まあ僕はそうではないと思ってるんですけどね。
要は僕の親たちとこれは関係がありまして、うちは宗教だったわけです。正しさの塊で生きてるわけですね。生きてるというか成り立っているわけですよ。それは組織力というものに変換されていくわけです。うちは正しい、うちは正しいって言ってるわけですよ。で、正しいから病気は治る。正しいから幸せになれ。だから正しいからうちに来なさい。
これが勢力というものを形作り、これに勢力があることがその勢力の正しさを証明するという立ちつけになっているわけじゃないですか。世の中的にはね。けれどもですよ。けれども、絶対にそういうことをだけでやっていくことは不可能なんですね。それをやると核戦争をやることになってしまうんですよ。で、思想堂じゃないですか。
だからこれはどっかで諦めなければいけない。どっかでこの正しさが絶対だっていう生き方をしていくってことには無理が出てくる。それを私は中高の頃に痛感させられたわけですね。敵対勢力がでかかったわけですよ。そしてその対立が激しくなっていく。
例えば何が起きるかというと、家を無欲の凱旋者が取り囲むとかいった事態が起きるわけですよ。私もあれはですね、なんつうんだろう。肝が冷えるっていうのとはまた違って、何とも言えず恐ろしい気持ちになっていく。ここから先はもう何でも起きちゃうというね。
無法地帯に放り込まれて、しかもやばい目にあってるような、何の目にもあってないから、それはそれ自体がイリュージョンなんだけど。そしてね、ここで大事なのは父、父ですよ。結局父です。エディプスコンプレックスの父ですよ。俺が正しいんだから俺の言う通りにしとけば間違いないんだと。
昭和のお父さんで、しかもお坊さんですからね。究極的にはこれで推しているわけですよ。じゃあ無欲の凱旋者取り囲んできましたと、寺を。信者さんとか家族とか、まあ私のようにね、女子供が後ろにいるわけですよ。信者さんにはお父さんもいっぱいいるんだけど、この場合はみんな女子供になるわけですよ。家父長生とはそういうもんですよね。
じゃあお父さんが、つまりお坊さんが、ご住職が、この右翼を向こうに回して、お前らそんな取り囲んでるのやめて、家に帰れと言って帰らせることができるのか。無理。無理に決まってる。向こうは金で雇われてるんで、仕事なんでね。そんなことができるわけがないし、そんなことで帰るわけないんですよ。
こっちが怒られも、向こうはその100倍ぐらい拡声器使って怒鳴りまくってくるわけですよ。で、もちろん人高にもできるしね。いかにあれがですね、向こうが本当にやる気になったときに大変なことが起こるかということ。
右翼だけならば、よくは叫んでるだけで終わってしまうんですけれども、凱旋車だけならばね。凱旋車だけでなくなったときが、やっぱり世の中的に恐ろしいと思うんですね。
まあ幸いにして我々はそういうふうにはならないし、別に誰が死んじゃったわけでもないし、ところか石が飛んできたわけですらないんでね。
対立と社会モデル
ただ私はああいうときにやっぱり炎上というものの何点ですかね、結局正しさなんですけれども、もちろん凱旋車の方は正しいからこれやってんだとは思ってないと思うんですよ、ある意味。
これは仕事なんでね。で、こっちは正しいと思ってなきゃいけないんだけれども、じゃあみんながみんなここにいる人たちが、うちの父はともかくとしてみんながみんなどう思ってるかなんて究極的にはわかりません。
でも多分正しいと思うでしょうね。こっちが正しいんだって思うでしょうね。じゃなきゃもうここに残る理由何もなくなってしまいますからね。
とにかくそういうことが起きたときに、お父さんというものは結局のところ喧嘩が強いっていうだけではどうしようもないよねっていう。
だって喧嘩だったら負けるんで、数からしたって勝てっこないんでね。向こうはそういう意味でも仕事なんでね。
だからここはやっぱりどこかで抑鬱ポジションになるわけですよ。
思想動で行ってしまったら、本当に事故破壊的な行動になってしまうじゃないですか。そういう事件が秋葉原とかで時々起きたじゃないですか。
で、死をもじさないとか言ったってですね、それで何になるのかっていうのは相当怪しげな話なわけですよ。
ここすごい難しいんですけどね。死をもじさないっていうのに対して、もっと真剣に受け止めろっていう話がどうしても出てくるんで。
先日ののぶたさやこさんがそれをやるとファシズムになっちゃうっていうふうに喋ってましたけど、
でもそういう社会モデルってのは話をそういう方向に持ってきやすいところがありますよね。
で、私はそもそもここに死をもじさないっていうような話に、情緒的にはすぐそうなれるんですよ。
実際その対立の中にいた時にはみんなそういうモードになって、私はただ冷めているというふうに見えるというだけでめちゃくちゃ怒られる。
これがつまり戦争中によくあった話ですよね。もっと真剣にやれと。進んで死ねという話になってくるんだけども。
すっごいそこをメラニー・クラインがタナトスというものを拡大解釈した。
多分フロイトは面白くなかったんじゃないかと思うんですよね。
フロイトは多分ですけどそこを言いたかったわけじゃないようにも彼の論文における思想動を見ると。
クラインはどう見てもそういう方向に持ってったんですよね。
そしてこれを収めなきゃダメだよって言ったわけですよ。
死をもじさない。お母さんと差し違えてやるとかお父さんと差し違えてやるとか。
お父さんが虚勢をちらつかせるなら私こそお父さんのおちんちんを切り落としてやるっていうのはダメだと。
あなたそれのおかげで生まれてきたんですよっていうことをここで身に染みて、思い知って。
そう書いてるかどうかは別として、でもそういうふうに読めるんですね。
申し訳ないなと思って感謝するようになりなさいと。
結局そういうことなんですけど、その前にしょんぼりしちゃいますよねと。
その前に腹も立ちますよねと。
そういう一連の感情的な動きっていうものをぐるっと回ってきて一周して、
世の中そんなに真っ白にはできませんと。
でも世の中真っ黒なわけでもありませんと。
だからあなた灰色としてちゃんとこれから生きていくっていうことに感謝しましょうねっていうことになっていくんですけど、
この辺全然面白くないですよね。
聞いててこれが面白いっていう人は大変謙虚だと思います。
でも僕はこれが面白いとは思えないだろうなと思うんですよ。
うちの父はともかくとして、あの時右翼に囲まれて逆情というか非常に情緒的に燃え上がっていた信者さんがいっぱいいらっしゃっていて、
あの人たちにそんな話をしても、
こういう場面でそういう話はそもそも役に立つかっていう感じを考えてみるとですね、
感覚的には話すことすら全くできなくなるだろうみたいな感じしかしないですね。
この種のことがあらゆるところで再現できるからクライン理論っていうのは優れているわけですよね。
私はみんな嫌うけど、でもこの話を嫌う割にはリンチに怯えるし炎上を恐れるんですよ。
炎上とかリンチみたいなものって結局このクライン流のタナトスって大体説明できているはずで、
やっぱり個人としては、社会モデルとしてはまた別に、
だから炎上どうしますかとかフェイクニュースどうしたらいいんですかっていうのは知らんってことになっちゃうと思うんですよね。
新聞説ではそこを解決できるとは思えないけど、その過虫に置かれた人が自分の衝動で破壊的行動に出るっていうのは避けられる。
避けられるというか、一旦それは置いといて自分の仕事に向かうことができる。
これがですね、無理があるんですよ。
実際に対立的な組織がすごくでかかったとしましょう。
それがイヤガラスをするとか、やたらファックスを送ってきてファックスが詰まるとかね。
いろんなことが起きるわけだけど、この騒動しい中で、わかった、しょうは関係ないから受験勉強しましょう。
落ち着かないじゃないですか。
でも僕はこれだと思っているし、厳にこれはできるように自分をしつけたんですね。
これはたまたまだったんですけれども、そういうことをしたんですね。
この騒動は騒動としてあるけれど、結局自分が等身大で考えたときには、等身大に戻ってやらなければならないことがあるんですよ。
だから欲打つポジションが大事なんですよ。
これは僕はウィニコットの方が正しいと思うんですよね。
メラニー・クライニーはここで、その過虫のど真ん中にあって、罪の意識、怒り、悲しみで欲打つ、そして罪悪感、感謝っていうプロセスを言うんだけれども、
そっちは結局のところ発狂気味の時の状況なんだと。
ウィニコットはそういう感じで、どっちかっていうとそこのプロセスに過度にこだわらないっていうのを進めていた気がするんですね。
いいですか。こういうのは正式の話じゃないですからね。
僕がただ読んで思ったことを適当に喋っているっていうことを必ず意識しておいてください。
つまり何のバックボーンもないからね。
信田紗友子さんの影響
ただの物語であり、ただのおしゃべりですからね。
責任を取りたくないって話とは違うんですよ。
そうではなく、責任なんて取れるわけがないってことなんですよ。
そして正しさは幻想なんですよ。
僕はこれを信田紗友子さんのライフから学んだ気がするんですね。
彼女の言説から学んだというよりは。
話が飛んでいるんだけど、飛んでいるのもおしゃべりである以上、当然話は飛ぶわけね。
信田紗友子さんってすっごく正式から外されてた人なんです。長らく。
その裏見面みたいな話は当然言論のカフェでも出ました。
でも、つまり彼女は公認心理師で現在あるし、正式の人なんですよ。
結局アダルトジルドレンって概念はアメリカ発だし、
アルコール依存症という人に育てられる子供は好意傾向を持つみたいなのをアメリカの研究がしている。
これを取り込んだわけですね。
でも私はここ、私の解釈かもしれませんが、
でもアメリカで自我心理学とはいえ精神分析というものを
でもアメリカで自我心理学とはいえ精神分析があれほど一斉を風靡して
影響を受けないわけはないと思うんです。
私はアダルトジルドレンっていうのは完全に精神分析の影響下にある概念だと思うんですね。
それは、私がアダルトジルドレンだと考えればその人アダルトジルドレンなんですっていう
信田さんの発想はアメリカ発のものなのか信田発のものなのかは知りませんけど、
精神分析的だとは思うんですよ。
精神分析というのは何かっていうと、
クライアントが精神分析を受けに行く必要を認めたときに始まるものなんですね。
これは完全に同じような内容を含んでると思うんです。
しかもアダルトジルドレンの定義は、
私の生きづらさは親に起因すると認めた人っていう定義があるんですね。
これにどこにも客観性はいらないってことなんですよ、これは。
私がそう認めれば私はアダルトジルドレンなのであるっていうここを起点にしろと。
しかも親に起因するとは言ってるけど、親に原因があるとは言ってないんですよ。
前にも言いましたけど。
これはとても大事だと思うんですよ。
精神分析を受けるのも自分で決めることなんですよ。
精神分析というのもやっぱりエディプスコンプレックスだから、
私の課題は親に起因するって言ってるわけじゃないですか。
親に原因があるわけじゃないんです。
まして精神分析は実の親とすら言わない。
真的現実としての親なんですよ。
責任の所在
真的現実としての親によって私はこのなんだかよくわかんない心のモヤモヤを抱えるようになり、
これを何とかする必要性を認めてここに来ましたっていうのが精神分析の始まりですね。
だからこれは私は基本同じ、全く同じようなことを言ってると思うんですね。
で、これを認めた時にそれまで例えば私が悪いから人と仲良くなれないとか、
私がちゃんとしていないからちょっと慢性の病気になるとか思ってたんだけど、
そうではないんだと、私に責任はないんだと、
親に起因してるんで、基本的にだって子供を選べないわけですから、
親に起因するということはつまり私に責任はないんだと、
この責任がないということを誰でも言えるんだというのが、
アダルトチルドレの概念の素晴らしいところなんだというのが、
信田紗友子さんの定義なんで、
この定義にのっとって考えるならば、
例えば私がアトピーになるとかなってきたわけですけど、
それは私が結局結果を追うことになるんだけど、責任はないんですよ。
無意識だとしても、しかもその無意識を真的現実としての親が作り出しているんだとすると、
責任はないわけですよ。
私これ完全には乗っかれないんだけど、自分がアトピーだった経験からして、
信田さんはアトピーっていうのを出してくるんですね。
アダルトチルドレが良くなる病気であると。
これは他人が定義してねえかって感じもしなくはないんだけど、
そこまで厳密なことは、
彼女の本では追求したダメなことになっている感じが僕はするんで、
あんまり考えないことにして、考えないことにして読むと分かりやすくなるんですね。
哲学書みたいにして読むのが一番ダメってことです。
こことここは矛盾してないだろうかみたいなことを考えながら読むと、
わけ分かんなくなっていくんで、
さらっと読み流し、
ただ私の場合には精神分析が下地になっているなと思って、
そこを当てるようにして読んでいくと非常に分かりやすくなる。
だって、親に起因するが故にアトピーになり、
そして親の対立、夫婦の対立みたいなものをなだめるために、
アトピーになるんですっていうのってまさに精神分析力じゃないですか。
これはもう少年道羅そのものですよね。
作業に近い何か。作業じゃないんだけど。
リアルはリアルなんですよ。
でも病気になったんだよと。
お母さんこっち見てよというわけじゃないですか。
そしてお父さんとお母さん喧嘩やめて、
二人とも私のこと見てよっていうわけじゃないですか。
そうやってお前は病気になったんだぞって言われるのは、
それはそれでいろいろ思うところはありますし、
そうじゃないんですけど、私にしてみればね。
そうじゃないんだけど、
でもこのアトピーが親因的なものであると、
そして親因の起因しているものが親にあるっていう点では間違いではない。
僕の中でも。
だから大筋は同じことを言ってる。
ただそんなに具体的に詰め込まれてみると、
いやそんなにPRだけが、
少なくとも母親にPRすることだけが目的だったわけでは全然ないとは思うんですけれども、
分かんないですけどね、はっきり言って分かんないですよ。
所詮は物語なんで。
だから事実はそこにはないってことが大事なんです。
あるのかもしれないけれども、事実そのものはつかめない。
ただ事実の説明ができる。
その説明に自分が納得できるかどうかは決められるっていう、
それがある意味全てなんだと思うんですね。
見解の違い
だからここで真実と正しさにこだわるっていうことをやると、
そこから前へ進めなくなってしまうので、
そして私はこのポッドキャストを喋るのをやめなきゃなんだとなる。
これをやめないでほしい人がいる以上、
私は何の責任も取れないけどやめはしないっていうことを選択できるなと思うんですね。
まさに僕は結局信田さんが言ったのはそういうことだろうと思うんですよ。
当時としてアダルト・チルドレンという概念は、
正式の特に精神分析では取り入れられることがなく、
ほとんど試みられることすらなかった。
変えりみられるかすらなかった。
で、基本的には主流派から完全に盗観視されていた。
ですが今は主流派の中のトップにいる。
それはまあ主流派がお亡くなりになっていたからね。
長生き大事なんですね。長生き大事ですよ。
だって信長と秀吉とイエスで最後に勝ったのは長生きした人じゃないですか。
長生き大事ですよ。対立するということになればですけど。
だから最後まで生き残ったということもありますし、
今になって見直されてくる。
もうめちゃくちゃ宣戦違いますからね、言ってることがね。
いやあれもう全然ダメだよみたいなところから、
いやこれこそただ信田ってことになっちゃいますから。
それが正式の中で起こるんだから、やっぱりイリュージョンなんですよこれは。
私が思うのはですね。
だからここで私が何を言おうと正しくないし、間違ってもいないんですよ。
これが私の多分ライフスタイルでもあるんですね。
だって私ってそういう人間じゃないですか。
今でこそ一応どっかの理事ですけど、
基本的に組織に属するということがなかったし、できなかったし、
子供のところは無理やり生まれ落ちたところが大組織でしたっていうことだったんだけれども、
そこをバックボーンにして生きているわけじゃなかったですよね。
ビジネス書なんか書いてたわけですから。
ビジネス書ってそうじゃないですか。
あんなものっていう人はいっぱいいて、絶対アカデミーから見ればあんなものなんですよ。
でもアカデミーの人が今ビジネス書を書くんですけどね。
つまりそういうものはどんどん変わっていくんですよ。
ポップ心理学っていうふうに書く人もいます。
野良カウンセラーがポップ心理学を書くってもう最悪じゃないですか。
でもそれがですね、まさにそういうふうに言われてきた信田沙耶子さんが公認心理師のトップのほうに行ったりするんですよ。
だからそういうことについてああだこうだ考えておくことは、僕はやりたくないんですね。
自分の生き方そのものが全否定するようにしなきゃならないほど、
私は自分の今の人生で困ってないので、こういうふうにしたいなというのが全然ないんで。
これが一番良かったように思っちゃっているぐらいですから。
要するに肩書きがつかないんですね。
作家のとか言いますが、最近物を書いている頻度もぐっと落ちましたしね。
正直何もないんですよ。ただの佐々木翔子なんです。
これをまたかっこいいって言ってくれる人もいるんですけど、そうではないです。
みんな同じなんですよ絶対に。
怖いというのはわかるんです。
責められたくないとか炎上したくないというのは。
でも炎上というのはそこにそっちの勢力がどんどんどんどん積み増されてきて、
そっちが絶対正しいっていうほどの力を得れば確かに怖いかもしれない。
でも覚醒器を使って叫んでいるだけの間、その後ろに支持者が現れてこない間は、
結局のところ声が大きい、その声の大きさの迷惑を耐えられればなんてことはないんですよ。
自分が正しいと思いたければこれは辛いかもしれませんけれども、
私は別に自分が正しいわけじゃないというのはよくわかっているので、
どっちも間違ってますから、これ大事ですよ。
過去1000回の中には私の発言の中には相当いい加減なものが大量に含まれてます。
気付きは全然ないですけど、この間間違って消しちゃったのは間違っただけなんでね。
アダルトチュルドレに関しても私の認識は確かに以前何回か喋ったことがあるんですけど、
ほぼ間違いなく5回でしたし、今だってこれを信田さんが聞けば、
いやそうじゃないんだって言われる可能性は大いにあります。
それはいいんですよ、別に。
そう言われて、ああそうだったなと思ったら謝っとけばいいんですよ。
これが凱旋者っていうものだって思っておかないとダメだと思うんですよね。
ダメだってことは全然ないんだけど、僕はそういうふうにやっぱり自分の経験からして感じるんですよ。
凱旋者に囲まれるっていう経験はですね、恐ろしいという人もいるでしょうけど、
面白がるより他しょうがないなっていうふうに思うこともあるわけです。
そして自分の父ちゃんは当てにならないと。
でもあれですよ、人間の中にまた平穏が戻ってくれば、俺は正しいんだから俺の言うことを聞けと。
それに対してあからさまにノーだっていうのは結構難しいものです。
私と私の父の関係ぐらいであってもですね。
でも私はだからといって家族は暴力的だとは感じなかったし、国家と共謀してるとも別に思わなかったわけですね。
これだから見解の違いっていうのはどこまでもあるし、別にそれはそれでいいんですよ。
自己肯定の難しさ
そうは言っても、目の前で信田さんが現れて詰められれば僕きっと泣いちゃいますけど、
泣いたからといって別に僕が間違ってるわけじゃないんですよ。
泣いたからといって僕が心を入れ替えるわけでもないんですよ。
でも泣けば影響はこう来るでしょ。影響はこう来るんですよ。
こういうのは言葉で定義できるようには決して持っていけないってことなんですよ。
影響をこむっちゃいけないといったって影響はこむります。
心入れ替えなきゃいけないと言われても心は入れ替えられません。
相手が勝ったかもしれないけど、自分が間違うっていうことにはなりません。
こういうグレーはどこまでもどこまでもグレーなんですよ。
全然そうでいいっていうか、そういうものなんです、現実ってね。
どうやっても綺麗にはならないものなんですよ。割り切れもしないものだし。
で、残るはそれが嫌かどうかってことだけだと思うんですね。
僕はそれが全然嫌じゃなくなったわけですね。
人間関係の影響
嫌じゃなくなったからアトピー治ったんだけど、嫌だったら治ってないんですよね。
だから僕がアトピーだった時は嫌だったわけですよ。
嫌な気持ちはよくわかります。僕が嫌だから病気になってたんだから。
でも嫌ではないんですね、別に。
ちょっとガーデニングの影響ってありますね。
まっすぐに生える崎って一本もありませんから。
全部曲がってますから。
物によってはっていうか、大抵の物はそうだけど、なんでそっち行くんだって。
こっち行ってくれよっていう、だから支柱立てて縛ったりするんですけど、
失敗して失敗しますよね。
だからといって全部伸ばしておけばいいのかというとそうではないんだけれども、
とにかく支柱に縛り付けると大体失敗するんですよ。
よくできてます、生き物っていうのはですね。
僕らはめちゃくちゃ支柱に自分を縛り付けたがるんですよ。
これは人我じゃないです。
ここをみんな誤解するんですよ。僕もずっと誤解してたよ。
炎上するとか圧をかけられるとかマウント取られると言っては、
人が自分を縛ってると思ってるんですけど、その縛ってる手は自分の手なんです。
これはよく観察するとそうでない瞬間はないんですが、
これをいくら言っても、私は母に縛られたんだっていう人に対して言えないんですよ。
どこまでも押すわけにはいかない。
どこまでも押すと今度は僕が縛っていることになってしまうんで、
そういうふうに怒りをかって、しばしば置き手紙とか捨て台詞とかでさられることもあるんですけど、
これはこれでとてもいいことなんですよ。
こうしないと人はされないですからね、僕のところから。
で、さればいいってもんじゃないですよ、もちろん。
さらなくてもいいんです。
僕これね、のぶたさんの本の中で一番僕が間違いなくそうではないと感じるのが一つここなんですよ。
家族は去るということがしばしば解決になるんだ。
まあこれは間違ってるわけじゃないんだよね。
そういうしばしば解決になるでしょう。
でも私は妻のことを見ても娘のことを見ても、
自分の肉親のことを考えても、自分のことを考えても、
去ることそのものは解決になる感じはしないなって思うんですよ。
家は様々でしたけどね。
で、去ることが非難になることがありますよ。
つまり一時的に退避する。
で、なんなら離婚がそれを意味することもあって、
私はそれは全然ありだと思うんだけど、
去ることそのものは解決になる気はしないんですよね。
長い目で見るとっていうのも嫌な言い方なんですけれども。
これはですね、なんだろうな。
去ることはできるんです、人から。
だから僕から去るっていう人が僕から去るのはいいことなんだけど、
僕から去るのであれば本当はやっぱり、
親からも去れなければならない気がするんですね。
ほとんどの場合そうなんだけど、
人間関係にはやっぱり親子関係がちらつくんですよね。
ちらつきすらしないっていうケースは僕はない気がします。
だから誰かから去るときに親から去らないと意味がないというか、
なんていうのかな、
5割はやっぱり投影の産物。
5割は相手に親を見ているだけなんですよ。
親を見るのが嫌だからその人から去るっていうのはありだと思います。
しかしそのとき親からも去るっていうきっかけを得るぐらいは得ないと、
結局何からも去ったことにならない気がするんですよね。
現実を受け入れる
この辺松木さんはもう少し上手い言い方してます。
ある人が荒ぶれた考えって言うんですけどね、
彼はね、この考えが好きだと。
なぜならば、荒ぶれた考えというのはやり取りが効くからだと。
そういう書き方をするんですよ。
親が憎いみたいな荒ぶれた考えを持ってるわけですね。
そうやって親をずっと憎んでてもなーみたいに思ってると、
今度は松木さんが憎まれるようになるんですよ。
あんたは私を治してくれなくて憎いと。
この憎しみみたいなものは置き去りにすることもできる。
つまり松木さんのところに置いといて、
お前はダメな医者だっていうことになって松木さんががっかりすると。
こうして相手の自分はダメな人間だというのが置き去りになって、
松木はダメな医者だってことになってここに置き去りにされたんだけど、
ここにいつまでもこの考えは残んないと。
つまり松木さんはいずれ、
いや、そんなに自分ダメな医者じゃないなって思い直すことがあるわけですね。
その時この考えはどこに行くんだろうって考えてみると、
持ち主のところに戻っちゃうと。
僕はこういうことは必ず起きると思うんですよ。
嫌でも大でも起きると思うんです。
嫌だから他のところに置くんですよね。
これは都営同一化ですけれども。
置くんだけれども戻ってくるんですよ。
どうしたって。
僕はそのことを外遷者騒動で理解したんですよ。
結局自分が勉強しなきゃいけないっていう問題は、
自分から去ってはくれない。
いや、外遷者来てたから勉強にならなかったんだよねとは言える。
言えるんだけど大学を落ちるのは自分だってことは、
思い知らなきゃいけない。
よく川口介次っていう漫画家がね、このことを書くんですよね。
もう長いからいい加減にしますけど、すいませんね。
チャットなんでね。
タイムスリップしてあの人あれ好きだからね、だとして。
未来っていうですね。
アメリカ型の巡洋船も自衛隊が活用してたはずなんだけど、
ミッドウェイ海戦の中に何故かタイムスリップしていっちゃうわけですね。
で、こういう騒動が起きた時って人はその騒動にだけ気を取られるようになるじゃないですか。
当たり前ですけど。
だってタイムスリップして来時代戦の中に戻っちゃうわけですから。
50年ぐらい遡ってですね。
だけれどもそういうシーンの時に川口介次さん大体必ず入れてくるんですけれども。
お食事当番ですよね。給食当番の人が、
俺たちどうなっちゃうんでしょうって言うんだけど、
分からないけれども、腹は減るから飯は炊くんだよって言うんですよ。
こういうことなんだと思うんですよ、等身大というのは。
僕らはどんな問題に巻き込まれているとしても、
一番手前の問題から逃れられることは永遠にないと思うんですね。
だから、外戦車が来ようと炎上しようと、
やっぱり、X字状足すAX足すBXプラスCが絶対値マイナス1のとき、
いや絶対値でマイナス1は取らないね。
というのは、やんなきゃならないんですよ。
そういうふうに考えることができるようになったところが、
僕は欲打つポジションだと思うんですね。
なんでもいいんですけど。
なんかこう、すっごく情けなーい感じがするうち、
すっごくやってられなーい感じがする僕はしたんですよ。
なんかね、一人でずっとうわーってやってるところから部屋に退いて、
なんか一人っきりでしょうもない、
僕は当時しょうもないエッチなコミックをしょうもなく読みながら、
しょうもなく勉強する気全くしないんだけど、
そしてしてもたいして今から僕の、
当時の勉強しなさからしてどこにもうかる気しないんだけど、
なんかこうセンター試験の問題とかを解き出すと、
ほんとこう吐きそうになるぐらい、
吐きそうになるっていうのとは違うんだけど、
吐きそうになるぐらい味気なーい感じがした。
あれが欲打つポジションとはよく名付けたもんだなと思うんですよね。
肌も痒かったしね。
ほんとに味気ないなーって。
砂を噛むっていうのはまさにこういう感じだな。
砂噛んだことないですけどね、ほとんど。
思ったもんなんですよ。
でも、そこでやるし、
そこで結局わからないけれども、
腹は減るんで飯は食うんですよ。
だからご飯を炊くと。
要するにタイムスリップしても茶碗洗いをしたり、
トイレ掃除をしたりしなきゃならないわけですよね。
めちゃくちゃ欲打つ的な感じがするんですよ、不思議なことにね。
たぶん、えっと、なんて言えばいいのかな。
現実ってこれだよねっていう時の、
一番残念な感じがした時の現実。
ここでやっぱり悲劇のヒロインみたいになっちゃダメだと思うんですよね。
いやもうほんとに酷い目にあってるから勉強もできなくて、
そう言いたくなりますよ、絶対に。
なるんだけど、どうせ全部、最終的には。
そしてそこでそういう、なんて言うんですかね。
ナラティブを自分に語ったり、自分が悲劇的だと感じたりするのも、
全部自分の心のやってることなんですよ。
現実がやってることではないんですね。
現実はどうにでも選択できなくもないんですよ、やっぱり。
別に、やろうと思えば。
別にロリなんとかっていう雑誌のことだけを考えててもいいわけじゃないですか。
全然違うことを考えててもいいわけですよ。
で、さっきの勉強のことを考えててもいいわけですよ。
本当は選択できるってことなんですよね。
現実的な選択しかできないってことでもあるんです。
ここで万能空想を発揮して、なんかすごい賢くなって、
それこそコウとリュウホーに出てきた長寮みたいになって、
武力を、外戦車を撃退して、なんかこう弁説を振るうみたいな、
そういうヒーロー空想に浸ってても全然いいんですよ。
散々浸りました。
でもそういう現実はないんだけどね。
別にいいんですよ、空想なんて。
これは万能空想ですね。
ただこれをやってる間はPSポジションから出られないと言いますか、
どっかここの考え方の中には現実的にいらねえっていうやつがあって、
タナトスに身を任せたいっていう、死をもじさないみたいな、
お母さんのおっぱい出ないのが許せないってことなんだけど、
だから実にここには原始的な感情が含まれてるんだけど、
やっぱりそれは親に起因はしてますよね、間違いなく。
おっぱいだから、お母さん。
でも親に原因はない。
そりゃあそうですよね。
偽善者が来ていること、いや父親に原因はあるけど、
でもやっぱり親に原因はないんですよ。
そしてその時しなきゃいけないのは結局は受験勉強なんですよ、現実的にはね。
面白くないですよ、そりゃあ。
でもリアルな自分っていうのは、
リアルな自分の受容
リアルな自分が生きてるってことがいいことだと少しでも思うなら、
やっぱりリアルな自分がやってることはいいことなんですよ。
きっと。
この感触を当時は掴んでなかったんだけど、
でも結局そうなるよなっていうほぼ諦めでやってたんだけど、
今になってみると、その感触は私の役には立ってるんですよね。
だからお金がなくても肩書がなくても、
佐々木は生後なんだっていう、
これでやっていけるのは多分、
あの時のあの諦めの良さみたいなものと繋がっているような気がするんですよ。
だから抑鬱ポジションは歴史があるし、歴史的ポジションとも言うんだと思うんですね。
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