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  2. 【GMV 503】好き嫌いを選ぶ自由
2021-11-29 45:45

【GMV 503】好き嫌いを選ぶ自由

鬼のような母を嫌わずに済む?
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
昨日、Twitterでセミナーのテーマをアンケートしてみました。
昨日はじめて1日というふうに設定したので、今度からもっと短くしようと思いました。
わりと面白かったので、またやろうと思っています。
もしよろしければ、投票していただければと思います。
やってみたことがなかったので、最大に4択しかないということも知らなかったし、
考えてみると、あれではリクエストになっていないんじゃないかと。
ただ、ありそうな名前をアンケート調査してみただけ。
ただ、思ったのとは違う。予想とはすごく違ったので、やってみないと何かともわからないなと思って、
これからも思いついたらやってみたりします。
多分、これのリクエストとかもしてみたいと思うので、
よろしければTwitterチェックしていただけると。
一番わかりやすいのは、僕にDMでも送っていただけるとわかりやすいんですけど、
わりとそういうものっていうのは、よほど言わないと来ないものなので。
あ、そうだ。ぶっちゃけ相談のご質問なんですけど、
ちょこちょこいただいています。とても助かります。ありがとうございます。
これこそ、尽きると。
私のアンケートとかリクエストとかは、なくてもなんとかなるんですけど、
あっちはないとなんともならなくなりますので、ぶっちゃけ相談は。
よろしければ送っていただきたいと思います。
あれはですね、あれも匿名なので、何も特定することはできませんから、
特定しやすいような名前であれば特定できちゃいますけどね、
ほとんど実名で書かれるとか、そういうことでなければ大丈夫です。
私がのきばとか書いたら、それは一発なんですけれども、
そういうことなので、わからないようにしていただき、
わかられたくなければ、わからないようにしていただければいいかなと思います。
もう一つ、今週の土曜日に、
Good Vibes勉強会シーズン2の最終回がありますと、
これはテーマがですね、ギフトモードでしたね。
これは多分総集編なので、総集編らしい内容になると思います。
オンラインなので、ギリギリ参加でもいいと思いますので、
よろしければですね、当日空いてたら参加するみたいなのでもいいと思うので、
よろしくお願いします。
私もちょっとまた考えていきたいと思います。
でもギフトモード、正直甘えを受け止めるでもいけるなという感じを、
03:02
今は私は結構持っております。
甘えを受け止める話なんですが、
本題っぽくなっちゃいますけどね。
体に受け止めさせちゃダメだっていう話を、
割と最近は強調したいと思うんですね。
甘えを受け止めるとなると、本当は一つ意識とか、
自分の頼りなさみたいなのとも、
欠別みたいな話も必要になってくるんだけど、
それはGOOD VIBESにも強く強調されていることですし、
自分としてはまず体に受け止めさせないということは、
つまり体に受け止めさせてるんですよね、私たちはこれを。
なぜなら私たちは体だとしか思ってないので、
他に持って行きどころがないと思っちゃうんですけど、
体に受け止めさせないということを、
体に受け止めさせないということをやると。
そして、表にも愛に出さない、体にも受け止めさせないとなると、
どこなんだって話が必ず出てくるはずなんですよね。
その時に、私の言うところの母親機能と、
この母親機能というのはいっぱいはないので、
これはセミナーの時に私が衝撃を受けたので、
いっぱいあると思われていた。1個なんですよ。
母親機能というのは1個。
母親というのは自分の心の中で1個なんですよ、基本的には。
まずそこを、母親機能をここという時に必ず活用すると。
ここという時に必ず活用できるし、そういうためにあるものなんで。
母親というのは、私の母はひどい母でしたって話も出てきちゃうんですけど、
母国語って言うじゃないですか。
母国語って言った時に、私の母はひどい親で国語も教えてくれませんでしたっていう話をしないですよね。
別に不国語でもいいかもしれないけど、不国語とは言わないですよね。
母国は母国じゃないですか。他の国では知りませんが、日本語では母国言いますね。
そういうようなものだと。
ただその時に母を連想しないとおかしな話になるので、
しないとダメなんだけど、でもイコール実母である必要はないということも大事なんですね。
比喩に近いものなので、母なる地球とか言うじゃないですか。
私の母はひどかったんですという話をここで持ち出すところではないんですよ。
もちろん本当の話、厳密な話をしていけばですね、
自分の母親がどういう育て方をしたのかということと、
これは非常に関係あるし、全く無縁に進めることはできないんですけれども、
母親機能といった時に、自分の母親の場合にそんな機能は成立するはずがありませんってことには、
ストレートにはならないんですね。直結はしないということがあります。
06:05
だから自分が甘えを受け止める、あるいは人の甘えを受け止めればいいので、
甘えを受け入れて叶えさせるという話をしているわけでもないので、
受け止めるという機能を自分の中で発揮できると。
その場合には、母親というのは実母が立派な人であるとか、優しい人だったという話は、
私は甘えさせるという話をした時に優しくするという話はしたことがないんですよ。
まず絶対しないようにしているはずだから、していないと思うんですよね。
うちの母だって別に優しかったわけじゃないんでね。
優しいかどうかは関係ないと言ってもいいぐらいなんです。
そもそも私は優しいお母さんみたいなのがいらっしゃると思いますよ、世の中に。
ただ、優しいお母さんというのと甘えさせてくれるお母さんというのが、
多分イコールで結ばれちゃうんですけど、
このケースがむしろ自分の母親がそうでなかった場合の方が、
はるかにそういうイメージが強くなると思います。
自分の母親が普通に優しければですね、
あの、なんか奇妙に甘ったるい感じのお母さん像ってのは、
手でこないはずだと思うんですよ。
そういう話の延長で、最近読みまくっているのはもうすでに本題に入っているんですけどね。
高階涼子さん、漫画家で。
最近反省を多分まで3巻で終わってしまうんですよね。
僕はあの内容だったら20巻ぐらいにしてほしいんだけど、多分3巻になってしまうでしょう。
2巻なんですね。2巻でようやく、割と初期代表作だと聞いたことがある赤い沼っていう、
私ピアノを習ってたんですね、小学校の時。
先生の家にあったのを読んで、衝撃を受けたんですよ。
すごい怖い話だった。梅津和夫さんより、梅津和夫さんの結構ファンだったんですけど、
よっぽど怖いな、これはと思って。
高階涼子先生の本、結構読んだんですけど、以来、赤い沼がですね、今思っても不思議だったんですよね。
なんてことない、しょうもない感じのストーリーでもあるんですよ。
なんであれがあんなに、夢に出てきそうっていうのはまさにあんな感じで。
でもホラーだというのは確かなんですけど、ホラーなんだけど、別にそんなにエグいシーンが出てくるってわけでもないし、
ストーリーをよく考えてみると、何とも言えず込み入ってないストーリーなんですよね。
過度にシンプルすぎて、正直小学校2年当時の私でも考えつきそうなストーリーで、
なぜこれがこんなにインパクトが強いんだろうと思ったんです。
ザクロが出てきてね、心臓なのかな、ザクロの、人体を食べるということがザクロの味と似ているっていう、
09:03
そういうような、ちょっと後で読み直そうと思ってるんですけど、
私はそれを読んで、中学時代にわざわざザクロを買ってきたという、
ちっともどう考えてもこれは人肉とは関係ない味だったんですよ。
ちっともこれは人肉とは関係ない味だと思ったんですけれども、
見た目の問題なんでしょうけどね、
別に二度と食べなくていい程度の果物だなという印象を受けました。
赤い沼という作品があって、
なんであれを彼女が、高階先生があんなにこだわって処理したのかというか、
作品に仕上げたのかというのが、
ようやく半世紀を読んでよくわかりました。
言ってみれば自分のお母さんなんですよね。
ちょっとね、岸文人なんですよ。
要するに、岸文人伝説を作品化したのが多分赤い沼なんですが、
それは普通に岸文人伝説を作品化するというのは山のようにありますよね。
問題なのはそこじゃなくて、
高階さんのお母さんという人をそのまま作品化してもいけそうなレベルなんですよ。
そのぐらい高階さんのお母さんというのは、
岸文人的なものを連想させる方なんです。
でも考えてみるとですね、
自分の子供を食すなどというのは怖いですよ、もちろん。
子供が読むんだから怖いけど、
実に稚拙な作戦じゃない。
生存戦略としては幼稚極まりないですよね。
それで先が続くわけがないですね。
よく中国でも言うんですよね。
自分の足を食うようなもんだという表現があるんだけれども、
要するにどっちにしてもそれは先がない戦略なわけですよね。
その先の無さというのはどこから来るんだろうというと、
色々あるんだけど、要するに
自己投影という極度に現実見当を見失っているナルシシズムなんだと思うんですね。
自分さえ良ければいいのは極地なんですよ。
食うというのはまさにそういうことですよね。
自分さえ良ければいいと言いながら、破壊されているのは自分自身なわけで、
このパターンにハマり込む時というのは、
ハマり込ませられている人の方はよくよく観察すると、
かなりいろんなことが見えてきて、
よくこういう話をする人がいますよね。
嫌いになりたくないという表現があるんですよね。
12:02
高階さんの反省の中で、僕が一番強く印象に残ったエピソードに、
牛乳が嫌いだというのがあるんですよ。
牛乳が嫌いなのは、彼女はだんだん酷くなって、
この話を先週もしたんですけど、牛乳が飲めなくなって、
見ただけで吐くようになると。
これはつまり、好きになったり嫌いになったりするのは、
自分次第でできるということなんですね。
彼女はそういう話を書きたいわけではないく、
ただただ牛乳嫌いになったエピソードについて書いているだけなんですけど、
とってもいい話というか、いい話じゃないんだけど、
リアリティがありまして、こうやって人は、
嫌いなものを作り出すことができるんだというのを、
わざわざと描写してくれているんですよ。
本当にあれだけで一貫は無理だけど、
ワンエピソードとしてはちょっともったいないなというレベルで、
たぶん私たちが嫌いなものは、
全部こうやって作り出されるんだろうと思います。
念入りなというか、当然なんだけど、念の言ったことに、
どうして嫌いになったのか思い出せないんですね、簡単には。
簡単に思い出せるようでは、嫌いにはなれないんですよね。
私が本を書いて、
佐々木さん、ああいう本を書かないでくださいって言われたことがあるんですよ。
一度や二度ではないんですよ。
とは言っても、100回も言われたってことはないんですけどね。
言われたことがあって、
私、佐々木さんのファンなんです。
とても好きなんで、嫌いになりたくないんですって言うんですよ。
非常に甘えているじゃないですか。
ここが面白いなと。
つまり、人がある種の振る舞いをすることによって、
その人のことを嫌いになると僕らは思うんですね。
でも、あの牛乳のエピソードはそうじゃないことを、
この上なくよく示してくれている。
牛乳の味が嫌だとか、匂いが嫌だって言うんじゃないんですよ。
彼女は牛乳が好きだったんだけど、
嫌いになる決意をしたし、
嫌いになることがすごく自分にとって強いんですよね。
しかし、嫌いになることがすごく自分にとって都合が良かったんですよね。
だから嫌いになった。
自滅的ですよね、このエピソードは。
自分の足を食うほどじゃないけど、
好きで、しかも自分に有益なものをわざわざ嫌うことで、
別種の都合の良さを選択したわけです。
これを僕らはやるんですよね。
やっておきながら、やったという事実は忘れる。
忘れる。だって都合が悪いですし、
この事実を覚えていたのでは、本当の意味で嫌うことはできないので、忘れる。
そうすると、あたかも外的な要因によって何かを嫌いになったと思うので、
15:00
好き嫌いは自由じゃないって考えるんですが、
好き嫌いは自由な選択の結果なんですね。
だから、その人はもし、僕の立場上言いにくいですが、
僕のことを嫌いになりたくなければ、
嫌わなければいいんですよ。
ところが人はそうは言いませんよね。
さっきの振る舞い次第で、私は嫌いになるか好きになるか決まるのであって、
好き嫌いは自分の自由にならないんだから、
相手がちゃんとしてくれなきゃ困るよって考えるわけじゃないですか。
この考え方が妥当な感じがして、
この逆を考えると無駄に責任を負わされていると思うんですけども、
逆なんですよね。
これをやっていくことで自由じゃなくなっていきますよね。
だって私の振る舞い次第で、私のことを嫌いになりたくないのに、
嫌いになっちゃったというのは強制された結果になってしまう。
牛乳嫌いになったのは高階さんの場合、
強制された結果では全くなかったんですよ。
自分の自由意志によって嫌いになった。
私は好き嫌いって全部ああいうもんだと今では信じられるんですね。
好き嫌いは僕の自由意志で決まるんですよ。
外的に強制される事柄ではないんですね。
まだ確信しきれてないから僕は青年期とかをむやみに恐れちゃうんだけど、
間違いなく私ほど恐れる人は少ないんですよ、見てると。
つまり僕は青年期を嫌いになったんですよね。
いつどのようになったかをちゃんと思い出せないんですよ。
ここにちゃんとしたカラクリが働いてるんですね、心は。
人は好き嫌いを決める。
その時の戦は忘れる。
そうしないと多分嫌いじゃなかった時の事を思い出しちゃうと、
嫌いじゃなくなっちゃいますからね。
つまり思い出せれば嫌いじゃなくなる可能性が高いんですよね。
思い出せないんですけど残念ながら。
だから今私は、これ精神分析療法そのものだと思うんだけど、
思い出す事に色々努めてるわけです。
思い出せればですね、
大概嫌いになったものの嫌いになった原因を思い出せると、
嫌いじゃなくなる。
少なくともそれは和らぐんですよね。
高階先生多分牛乳嫌いになったエピソードを思い出して漫画に書いたから、
以降牛乳は多分また嫌いじゃなくなったと思うんですよ。
で、大事なのはここから先で、
高階さんは同じ理由で母親を嫌いにならなくていいはずだと思ったんですね。
ここはちょっと過剰にシンプルすぎるんだけれども、
この発想は大事だと思うんです。
母親は嫌いなんですが、思い出せなかったんですよ。
どうして嫌いなのか。
嫌いになるだろうなっていうお母さんではありますけどね。
キシボシンあれほど上手く書けるほどだから。
だけれども、同じ構造で母親の事を好きになれるはずだって彼女は考えて、
18:01
もう一回お母さんの方に接近していくっていうエピソードは、
私はそこはすごい重要だと思うんですよ。
上手くいかないんですけどね。
お母さんはやっぱり凄まじいっていうか、すごい人なんで、
要するにもう一回逃げ出すことになるんですけど、
ここで僕が大事だと思うのは、
このアプローチ逆だと思うんですよ、実は。
例えば牛乳が嫌いになるのをやめましたと。
だけど牛乳を大好きになって毎日グイグイ飲まなきゃいけないわけではないんですよね。
ここは難しいんですけど、
お母さんのことを嫌いにならなくてもいいんだけど、
距離を置いといた方がいい関係ってやっぱりあると思うんですよ。
ああいう人の場合は。
物理的な距離を。
ここの距離は実は物理的な距離なんだけれども、
精神的な距離以外の何物でもなくなってしまってるんで、
好きであれば近づけるはずだって、
私たちは考えちゃうんですよね。
そして同居を始めてしまう。
ここ非常に強引というか、
なんていうんですかね、万有ですよね。
逆に言うと、この発想を取る限り、
距離を空けた時は嫌いであるっていうことになってしまうんですね。
でも物理的な距離が空いてることと、
物理的な距離が空いてないことが、
イコール好き嫌いに比例するわけではないじゃないですか。
それを言ってたら、近くに住んでる人は全員好きだし、
遠くに住んでる人は全員嫌いだってことになるけど、
そんなことにはならないですよね。
でも私見ておりますと、
うちの妹なんかもちょっとそうなんですけど、
この物理的な距離が近いか遠いかは、
自分の精神的な好感と嫌悪感に比例しているという感じを抱えちゃってるんですね。
この感じを抱くと、私はちょっと飛躍するんですが、
東郷出張所っぽくなるに違いないという気がしているんですよ。
物理的な距離で好き嫌いを測るというのは、
結構危険な感じがして、
近いのに嫌いだっていうのが、
その人の中では自己矛盾になってしまうんですよね。
近いならば好きなはずだと。
だけれどもそういう言い方をすると、
遠いならば嫌いでもいいみたいな、
そういう話になっていくんですけど、
ということは遠ければ遠いほど、
その人のことを非常に強く意識して恐れている。
原理、田口奈さんの話の中で、
これが結構頻繁にリモートコントロールでも受けているような、
遠くに母親を置いたときは嫌いなわけですから、
この論法から言って、
すごく遠くから、遠くにいるにもかかわらず、
その影響から逃げなければいけないというふうに意識されているんですね。
この話、グッドワイルスの話と非常に近いと思うんですが、
要するに嫌いな人を作り出してしまうと、
世の中がその分怖くなる。
これは一見したところ、
円を切ったり、距離を置いたりするから、
OKじゃんって思うかもしれないですけど、
21:01
あの漫画を読むと、むしろそうではないということを
意識させられる気がするんです。
やっぱりそんなに恐ろしいものを、
離れれば離れるほどある意味、
怖くなるわけですよ。
距離が開くということが、
ある種の嫌いだということの象徴であるならば、
遠ければ遠いほど、その人のことは、
よりひどく嫌っているということになりますよね。
そうすると、この話の通りのことを、
僕は以前、2、3人の方から聞いたんですね。
いや、ほんとひどい人なんで、
遠くに行かなければダメなのよっていう話を聞いたんですよ。
で、その人今どこにいるのって聞いたら、
一人の人はパリだって言うんですよ。
いや、パリ?
パリなら大丈夫じゃないですか。
ちょっとうちの奥さんにも、
その件があったりした時があったんですけどね。
東北に住んでいるご両親というのが、
遠いだろう、それは十分に。
うちの母にもちょっとそういうところがあって、
実家は北海道なのに、
影響を及ぼしてくると言わんばかり。
この発想って、
すごくこの少し、
幻覚を見ている感がありますよね。
影響を及ぼしてくるという、
影響を及ぼすという言い方っておかしいですよね。
距離を越えてくるみたいな感じがある。
つまり、自分が意識しているわけですよ。
意識しているレベルが深ければ深いほど、
その象徴的な行為の意味が大きくなっていくんですね。
遠くに来ているぞっていう、
遠くまで来たぞという、
遠くまで来たほど、
その人のことを意識しているということは、
その人はある意味、
物理的に空間を越えて、
恐れさせることができるんだぞということを、
自分に言い聞かせているようなものです。
だからパリになっちゃうわけですよね。
パリからでも、あの人は、
私に悪い念を送ってくれる恐ろしい人だ、
みたいな言い方になるわけですよ。
これ、遠ければ遠いほど怖いですよね。
一方で言うと、火星とかのほうが、
ますます怖いじゃないですか。
火星からでも影響を及ぼすことができる。
もう、ほぼ人間ではないですね。
こういうふうに思考が進んでいっちゃうんですよね。
イリュージョンなんですけど、
イリュージョンに程度はないんですけど、
より強化されていく感じがあるわけです。
この感じがですね、
高島先生の辞典を読んでいると、
すごくひしひしと感じられてきて、
こういう意識を感じさせられるんだなっていうのを、
実感できるすごい良い作品なんですね。
私にはわかんないですよ。
わかんないですけれども、
だって人の母親ですからね。
なんかこの感じ、絵で描かれているから
伝わってくるんですよね。
遠くまでも逃がさないってよく言うんですよね。
あの人からは逃げられない。
逃げられるに決まっているわけじゃないですか。
大して万能の力を持っているわけじゃない。
でも、この詩の反論が受け付けられることが滅多になくて、
24:02
私もこの詩の話が、
例えばパリの人のケースでは、
パリからだったら大丈夫でしょうって言うけど、
あなたはあの人のことを知らないからって
必ず言われることになるんですよ。
まるでテンプレートみたいにですね。
でも、この恐れていることを深刻に恐れているときは、
他人の言は大体受け付けないです。
どんなに割と無理のある理屈であっても、
その人の中ではばっちり、
恐怖感がばっちりなので、
いろんな理屈が出てきて、
聞いている方はどうしてもですね、
なんて言えばいいんですかね、
太陽が西から昇る論を徹底的に
解き伏せられているような感じになるんだけど、
しょうがないなとは思うんですよね。
カウンセリングでもしているんだったら
ちょっと別なんだろうでしょうけれども、
話をただ聞いている側としては、
ここは納得しておくしかないよねってことに
なってしまうんですよね。
それは突き放している感が
出ちゃうんですけれども、
例えばツイッターで少しでも
悪評を立てられたら、
もう自分はおしまいだって思って
いらっしゃる方っているんですけれども、
そういう方に向かってですね、
それが一体何の影響があるんだって、
肌で聞いていると思うわけですよ。
だからどうしても軽くあじらいたくなるっていうのが
本音になりやすいんですけど、
そうすると相手の人にとってはやっぱり
きついわけですよね。
うーんと、なんていうんですかね、
後ろの沼からお化けが出ると、
絶対的に信じている人の話を
一向に聞いてくれない親みたいな、
そういう感じになってしまうんですよね。
だからキシボジンなんですよ。
あの作品はそういう風にして読むと、
なるほどなあっていう感じを、
当時私は小学校2年で
ピアノの先生ん家で読んだんで、
もう全く違うように本当にこう、
まともに受けたんで、
怖い話だって思ったんだけど、
そういう話では全然ないんですね。
でもこの怖さが伝わっているってことが
大事なんですよね。
後ろの沼から、
ニのような母親なんですけどね、
高階先生にとっては。
ただ我々にとって、
読者にとってはそうではないので、
怪物が出てきて、
心臓食い散られると、
実に恐ろしい話として読むんだけど、
この恐ろしさが、
遠江戸五日ですよね。
このような体験をした人が、
言葉によって伝えられない、
もっとプリミティブな手段によって、
人に何かを伝えようとした時に、
成立する、
その表現形式です。
僕は、
これも余談になってしまうんですけど、
コミュニケーションで、
遠江戸五日は、
そこら中で行われていて、
やっぱりカウンセリングとか、
精神分析のこの話も時々してますけど、
秘術みたいに取っておくんじゃなくて、
27:02
世の中中の人がシェアするといいと、
僕は思っちゃうんですけどね。
僕らのコミュニケーションは、
大変ある意味切れずで、
人はですね、
遠江戸五日なんかに頼ってなくて、
言葉でやりとりしているつもりになってますが、
そういうケースは、
むしろ稀で、
でもちゃんとやりとりできているっていうケースは、
ほんと少ないなって思うんですよ。
異心伝心とかって言うじゃないですか。
あれまさに遠江戸五日みたいなもので、
ちょっと違いますけれども、
原始的なんですよね、あの方法。
なんか相手がいい漢字を伝えてきたから、
いい漢字を受け止める。
相手がなんか怒りを含んでるから、
怒りを受け止める。
こういう調子で、
言葉に表しているものが不十分で、
また言葉に対する注目度も不十分で、
結局言葉によるコミュニケーションが不十分だから、
その大きく空いた穴を、
直接的なやりとりで補っちゃってるわけですね。
これもまた甘えですけれどもね、
この辺はしかも日本人というのは、
多分発達してしまっているので、
これを高度だと思い込んでるんですよね、
空気を読むとかいうの。
あれは私は知説なんだと思うんですよ。
どちらかといえば、
技術的にはですね、
よしよしではない、
技術的にはですね、
よしよしではないんですよ。
どっちがいいって話はないと思うんですね。
また、どっちかが100%になることは絶対ないと思うんです。
ヨーロッパ人だって空気は読んでますよ。
間違いなく。
ただ、これの含みの程度をどのくらいにするかと。
これをやりすぎると、
ほぼ言葉というものが無意味になってしまうので、
例えば罵声とかがそうなんですけど、
罵声って言葉の中身にはほぼ意味ないんですよね。
あれは。
怒りさえ伝わればいいわけで。
これが空気を読むっていうことの基本原理だと思うんですよ。
分かるってことですよね。
相手がどういうつもりでこれを喋ってるのかは。
そこに問いどいつかというものがあって、
つまり直接伝わってきてしまうわけですね。
私に直接結局伝えられたのは、
究極2話ですよ。
高階さんにとってのお母さんというのは
どれほど怖い存在であったかということが、
あの赤犬魔という作品で伝わってくる。
そしてこの時に、
僕は子供だったから何を連想したかというと、
母が深刻に怒ったときの調子なんですよ。
ホラーだと思っているものはそれなんですよね。
お母さんが猛烈に怒ったときのことを
私は思ったわけですよね。
そういう身体的な反応に近いもの。
それがあの作品によって、
母が深刻に怒るということは、
心臓を食いちぎられるような恐怖感があるんだ
ということが、
ああいう作品を通じて伝わってくるんですよね。
だから上塚蔵さんとか、
一般的に、
哲賀治虫さんもホラーを描きますけど、
そういう作品におけるホラーとは
インパクトの違う。
なぜならば、高階さんそれによって
30:01
非常に苦しんだという経験が終わりだから、
これが伝わってきたときの恐怖感というのが
絶大だったわけです。
子供でしたからね、私は。
これが大人であればね、
全然違ったと思うんですけどね。
ついでに言うならば、
私はそのとき、
ピアノの先生の教室にいましたからね。
これも大きな意味が、
今思えばありました。
私はピアノの練習を
すげえサボってましたから、
遊びに行くと嫌な思いを常にしてたんですよ。
非常にシチュエーションが合ってるんですね。
そこで、
キシゴ神神話を元にした、
現代風にしたコミックを読むと。
そのことの意味というのはですね、
もともとネガティブに
触れやすいときの心理状態が
一気にネガティブに、
しかもそれは、
結局ピアノの先生なんていうのは
当時はお母さんなわけですよ。
現に誰かのお母さんでしたし、
いかにもお母さんお母さんした先生が
お母さんお母さんして教えてくれる
うちの母とは全然タイプ違いましたけども。
ついでに言うならば、
そのピアノの先生は
結局ピアノで
多分当時稼がなければならない
事情があったんでしょうね。
迫力があったんですよ。
つまりこういうことなんですね。
いかにもお母さんお母さんした世界で
すげえ怒られると。
はっきり言って一週間の間に
バイエルの60話とか
一回も聞かずに言ってたから
すげえ怒られるわけですよ。
家に行ってもすげえ怒られると。
この感じ全体と
全然違いますよ。
たかしなさんのお母さんが
たかしなさんに怒るっていうのと
私の母だの
ピアノの先生が怒るっていうのは
全然程度が違うんだけど
私殴られたことがあるわけでも
ほぼないですしね。
ただそういうことなんですよね。
その時の心理状態が
全部マッチして迫ってくるから
夢に出るほど怖いんですね。
これは東洋ドイツ科なんですね。
結局うまく伝えられてしまったといえば
そういうことになるわけです。
こういうことがあると
話を好き嫌いに戻すんですが
母は嫌いだって思うのは
当然じゃないですか。
と思ってしまうんですよね。
ところがそうではないんですよ。
私は母を別に嫌いになったわけじゃないですもん。
つまり母を嫌うか母を好きでいるかは
私の自由意志なんですよ。
これをどう解釈しようと
私の自由なんですね。
どう解釈しようと
自由だということは
自分自身が
例えば運と距離を
今結構遠くに住んでますね。
実家から開けても
別に嫌っているからでは
全くないと解釈するのは
容易なんですよ。
お腹が悪いわけでも
何でもないと
そうすると母の影響など
私には一切及ばないんですね。
これは私の妻と話していると
すっごく違うところなんですね。
妻の方が遠くに
33:00
お母さん住んでいらっしゃる。
そうすると
一定の影響を及ばされている気が
彼女はする。
僕はそれは全く理解できないんですね。
なぜならば
例えば大宮とかまで行ってあげないと
家に来てもらうことも難しいんですよ。
地方の方ですから。
うちの母なんて
電車に乗って一発で来ようと思えば
来られますからね。
直接的に僕に影響を及ぼそうと言うならば
来てどなったりがなったりしようと
言うならば
来ること自体ができないんですよ。
でも
うちの母がそれをするとは
どうても思えないということも
ありますけれども
それを言うならば
私の義母の方は
そもそも来ること自体ができないんで
どうやったらあれで影響を
及ぼせると思うんだろうと
基本一つしかないですよね。
自分の心の中で
それが可能だと信じるレベルによってですよね。
そしてそれが実現するんだと
実現絶対しないんですが
そのレベルによって
第一実現したところで
なったことはないわけですよ。
うちで今日構えて独立しちゃってるわけですから。
でもそういうふうに
確信できるかどうかというのは
結局自分が選択したことになってしまうので
つまり自分次第なので
だから嫌いか好きかというのは
自分次第で決まるんですね。
これを
だけれども僕らは
容易には信じられない。
私が静電気で信じきれないような
なかなか信じきれないものが
あって
信じれば
簡単な話の数なのに
あの牛乳の例のようにですね
自分が決めてることなんだと
好きか嫌いか
それが怖いかどうかは
全部自分次第で決定できるんだと
だってこれが決定できるんだったら
すごい自由じゃないですか。
何でもやりたい放題とも
言えなくはないですよね。
一番嫌なもの一番好きなものに
変えることだってできちゃうわけですから
真剣にやろうと思いさえすれば
自分がやってる限り
静電気なんかがむしろ難しい方で
プロジェクトの仕事なのは
全くこの通りでできるんですね。
この仕事は嫌だ大変だなと思っていたものを
容易で好きだと思うことは
簡単なんですよ。
そういう風なものだと信じれば
つまり外的な要因によって決まる理由が
1%もないと思えれば
簡単なんですよ。
これが簡単だったら
仕事って相当簡単ですよね。
ところがこれが
全く逆だと思えば
すっごくつらいものになります。
全部外によって決まるんだったら
私がどうこうできる余地なんて
一切ないですから
静電気というものは世にも恐ろしいものだって
私そう信じてた時期あったんでね
金属なんか触れやしないですよ冬に
一個も触れなくなるんですよ。
ノートパソコンも開けられなくなるんですよ。
あれできたこと何度もありますからね。
36:01
多分見ていた人はいないんで
あれだと思うんですけど
セミナーとかで私が
ノートパソコン見てじーっと見て
じーっと見て困ってるんですよ。
そういうことあったんですよね。
開けたくないんですよ。
触れられないんでね。
霧吹きかなんかが欲しいところなわけですよ。
あるいは濡れたおしぼりとかね。
この感じなんですよ。
病理というものは。
高階さんのコミックで
もう一つすごい面白いのがあって
これはもうほぼほぼあれだなって感じがするんですけど
幻聴が聞こえることがあるんですね。
全部悪意なんですけれども
と言っている心の声が聞こえた気がするっていう
シーンが何回かあって
ここまで来るとあれなんだよなっていう感じなんですよ。
でもしょうがないかなと思うんです。
何しろ
すごい言い方なんでね。
お母さんが。
お母さん何をしているのかというと
お母さんは
第1子のお姉ちゃんの方
第2子なのかな、お姉ちゃんの方に
自分のいい部分を全部投影したんですね。
私が自分がいいと思っている自分の長所を全部投影した。
そして残った自分の嫌だと思っている部分を
全部高階良子さんに投影したんですね。
だからいくら攻撃してもいいということになっちゃうわけです。
人は自分の弱点には
悪口じゃないですからね。
でもあやってお前は本当にグズなんだからとか
あるだけお金を使っちゃうとか
褒められるとすぐ調子になる。
全部自分への悪口なんですよ。
子供に向かって喋っているつもりでいて。
これも東映ドイツカーみたいなもんですよね。
もっと濃い感じがしますけどね。
だからあれですよ。
これも世の中にシェアされればいいのにと思うんですけど
親に怒られて悪口言われたら
そのことを親は大変気にしているんだなという風に
切り替えればいいんです。
これは多分例外が全くなくて
しかも非常に発見すると笑っちゃいます。
本当に笑ってしまう。
私も母にいろんなこと言われたし
父にも言われて
本当にお前はこうでこうで
これ全部自分への悪口なんですよ。
それも相当気に病んでるんです。
で、現にここを言われた時に聞いていて覚えておいて
そこを褒めてあげると
褒めてあげると親は喜びますよ。
めちゃくちゃ喜びます。
無頂天になったと言っていいようなものが感じられるはずです。
ちょっとちょろいなって思っちゃいますけど
自分の親とかだとね。
これ人の親でもできます。
関係が近ければですね。
例えば、うちの奥さんに
うちのお母さん、義理のお母さんが
こう言ってるっていうのを聞いたら
それを気にしてるんですよ。
そこを褒めてあげる。
相手のお母さんに向かって
ちょろいですよ。
ものすごく。
これは私が何となく理解したことだったんですけど
たまたまですね。
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人は自分の弱点を他人に投影するっていうところから
そっか、親だったら子供にこれ平気でやるよな
っていう風に考えてやってきたことなんですけど
ある種の関係性を簡単に、安易に築くには
一つのこれはテクニックになるんですよね。
どうしてこれを人がするかというと
結局、自分のいろんな部分を他人に投影してることは
僕らは間違いないわけですよ。
他人と考えているものって全部自分なんですね。
私もどうしてもそれはやってしまうんです。
ただ、自分の子供を持つとよく分かるんだけど
子供は自分そのものなんですよ。
ある意味似ているし、ずっと一緒にいるから
囲みみたいになってしまうのはやむを得ない。
しかも遺伝が半分入っているから一層そうなわけですよね。
ここに投影したいと思うものは何でも投影できてしまう。
だから怖いなとは思うんですよね。
子供のためにじゃないですよ。自分のためにですよ。
これやるのは自分に毒だと思いますよね。やっぱりね。
親に投影するのも考えてみれば当然なんだけど
子に投影するのは凄まじくて
ほぼ全部自分に見えてしまいかねないわけで
これを自分の子供だと思っている像ほど
インチキなものはないと思うんですよね。
全然外部がない。そんなはずないわけですよね。
ところが全然外部が見えてこない時があるんですよ。
そっくりに見える。自分。
だからこの親が子に自分の弱点なりを投影して
そこを徹底的に教育と思って攻撃するというのは
とっても自滅的な行為なわけですね。
自分の弱点を殴っているようなものなので
自分痛いですよ。そりゃ。
これをやっちゃったらね。僕殴ったこととかはほんとないんで。
でもちょっと怒っても後でものすごく自己嫌悪に陥りますもん。
それは子供のためにじゃないですよ。
この自己嫌悪をさらに高階さんのお母さんは
高階さんのせいだと思っているから
エスカレートして止まらないんですけれどもね。
自分殴りまくって痛いと相手のせいだと思ってもっと殴るっていう
そういう構図ですから。
辛いですよね。あの状態は。
これをやると自己嫌悪に陥るのは当たり前なんですよ。
例えば私が自分はどうも手先が不器用だと思っていて
娘の手先の不器用なところを見つけて攻撃すると
もうものすごく嫌じゃないですか。
自分が一番気にしていることを自分で徹底的に攻撃して
外部にあったつもりでいてすっかり傷つくわけですよね。
これをやって一番気の毒なのは子供じゃないんですよ。
自分なんだと僕は思うんですね。
だからよくよく子供の欠点について言及するときは
気をつけようと思うんですよ。
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子供は許してくれるかもしれないけど
自分はものすごく刺さりますからね。
自分のことがある意味一番分かっているという面があるので
そういうものをもろに自分で引き受けてしまうことはないんですよね。
本当は別にそんなことまでして
別に今時手先が不器用で困ることってないですから。
こういうことなんだろうなと思うんです。
いろんな話をしたんですが
好きになるか嫌いになるかは自分で間違いなく決められるということですね。
僕はこれほどリアリティを持って示されたことは
今まで何しろ牛乳ですからね。
人じゃないんでね。
ニュートラルじゃないですか。
牛乳好きか嫌いかどっちでもないって人はいっぱいいると思うんですよ。
ところがこれが自分の親とかになってしまうと
これはもう扱われようによって決まるに決まっていると思いますよね。
それだけにハードルが高いんですけど
それだけにここをなんとかできれば
つまりここも自分の自由意志で決まったんだと思えれば
後のことは楽だと思うんですよ。
後のことはそうに決まってますよね。
後で肯定的に自分で決定したにある意味決まっているわけです。
もちろんそれはいろんな要素があります。
あの牛乳の話がよかったらそのいろんな要素も入ってたところなんだけど
キシボジンを好きになれるかよって言われれば
そりゃあそうですよね。
キシボジンを自分の親だった場合特に好きになるかなれない。
だけれども問題なのは好きになれるかどうかではなくて
好きになるのも嫌いになるのも自分の自由だっていうことの方だ。
こっちの方が私は重要なことかなと思います。
それほど自分らは自由なんだということなんですよ。
ここを信じたくないということになると
信じられないというのはともかく信じたくないのであれば
自分は自由ではない方がいいということになります。
信じられないって話なんだと思うんですよ最終的には。
信じられるかどうか。
あとは自分が嫌いになっているもの。
やっぱり嫌いになっているものですよね。
相手がこういった気がするとかまで含めて
嫌いになっているもの、象徴的に遠ざけているものとか
嫌いだから距離を置いているとか
嫌いだから見ないようにしているとか
嫌いになりたくないんですというとか
そういうやつ全部ですね。
つまり相手次第で決まっているんだよって言っているときに
何をしているか、そして忘れていることはないかってことですね。
一番大事なのは。
思い出そうとしてもなぜ嫌いなのか思い出せないことってないかってことなんですよ。
思い出せる部分もあると思いますが
多分思い出せる部分も思い出したくないと思いますよ。
私だって例えば自分があんまり好きでないなと思っている人の
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原因になったクレームのメールとかを
よくよく読んでみるとかはつらいと思うんですよ。
ただ時々やってみて肌と気づくことがあるんです。
だいたい自分が想定していたものとは少し違っている。
完全に違っていることはないですけど
よく読むと少し違っている。
そしてそのことはすっかり忘れている。
その分自分はあえて嫌いになるってことを選択している。
ここを減らすだけでも結構違ってくるってことは
つまり自分がやってるってことに違いはないんですよね。
自分がやってるんだから自分がやめるってこともできるはずなんですね。
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