1. グッドモーニングボイス
  2. 自分がない?【GMV 946】
2024-03-05 49:44

自分がない?【GMV 946】

ビジネスホテルでの私は自分がなかった。
00:05
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
3月の何日かな、今日は。5日ですね。
土曜日、朝7時55分です。
ちょっと遅くなってるんですけど、大体いつも通りかなと。
無事ですね、自宅に帰ってきまして。
今までちょっと、東京の方に実は外泊していたわけですけれども、
今日からですね、平常通り、いつも通り朝起きてですね、
弁当を用意して、娘を送り戻ってきて、コンビ出しなんかをして、
このGMVを撮るという、平常のルーティーンが戻ってきたわけです。
今ちょっとですね、先送りゼロの、この出版記念パーティー等で、
外泊していたわけですけれども、先送りゼロのAmazon順位が少し上がってきておりまして、
おかげさまで、まだなんとかいけるかなと。
結構このまま消えてしまうと、いつもの流れになっちゃいかねないんですけれども、
なんとかこらえていて、また順位が再浮上してきましたので、
ここで皆様に何をお願いするとか、よくわからないところもありますけど、
本当私自身もね、この状態で一体私に何ができるのかと、
いっつもこう、いろいろと考えるんですけれどもね、
何かできることがね、本当ツイッターでつぶやくぐらいしか残らなくなってくるんですよ。
そんなことはないのかもしれないけど、
何かですね、これを聞いていて、安崎これをやってないのがダメだ、みたいなのがあればですね、
ぜひ教えていただけると、それを教える義理はないと言われるとそうなんですけど、
教えていただけるとですね、そういう発想に何とも乏しい生き方をしてきてしまっているのは事実なんで、
ツイッターでつぶやくとかはしようと思っているんだけど、
本当に買ってくださいぐらいしか言えることが思いつかないんですよね。
なので、よろしくお願いします。
はい、何とかもうちょい、あの本はもう本当に私の中では基本的には、
今日は少しこの話もしたいんですけどね、できるかなこの話。
Jさんの本というところがありまして、
ミルヒールっていう表現がね、不思議な表現なんですけど、
Jさんが土台を作り、この上に僕が塗って、さらにそれの上にJさんが塗って、
これを4,5回繰り返すことで本になったという本なんですね。
どこの部分を自分が書くとかがなかった本なんですよ。
完全にこう、トータルで上塗りしていき、さらにその上を塗っていき、みたいな形で塗りまくっていくっていう感じが、
03:06
本当にあのブックカタリストでね、紹介していただいた時のミルヒールという表現はぴったりだなと思ったんですよ。
なんかこう層が重なっていってるっていう本です。
その説明一番正しいって私は今回は思います。
こういう作り方をしたことはかつてなかったんで、担当という場所がなかったと。
そういうことですね。
はい。
で、まあそういう本なんですが、
なのでね、特にこう、特に私がお勧めしたいのは、
これもことごとくJさんのパートなんだけど、
というか最もJさんらしさが出ている序章と、
序章っていうのはあれはね、時間はあるっていう、
名前のない章、一番冒頭のところがここなんだけどね。
この時間はあるという、
これは僕もずっと言ってきたことではあるんですけど、
そこをJさんが強調してくれて、Jさん調で書いて、
そのままの流れで序章、あれはもうJさんの話。
なんかこう、彼のね、独立して以降の反省みたいなの、
ジェットコースターみたいなスチンを書き綴った章で、
さらに後書き、ここを読んでいただくと、
まあそれは先隔離ゼロのメソッドそのものではないんですけれども、
そこを読んでいただくと、実に面白い本だとは思います。
ここをいかに面白くするかに、
かなり僕は熱を込めたつもりですから。
この本ってですね、まず彼の反省っていうのが背景にないと、
多分面白くない、面白く役には立つかもしれないけど、
面白さは足りなくなるかなって思ってたんですね。
で、役に立つのはビジネス書なんで、
これはもうどうしたって必要だと思うんですけれども、
面白いっていうのは、またちょっとやっぱり違いますよね。
最近はそのこともよく考えつつですね、
お前今そんなこと考えてる場合かといったところで、
本を売るべく努力しなさいという、
なんていうんですかね、有形無形のプレッシャーがかかっていて、
これがですね、私はいつも売る努力はしたいんですよ。
勝間和夫さんを久しぶりに思い出した。
各努力の5倍の売る努力をしなさいという、
あれは僕は名言だと思うんだけど、
5倍の努力って何をするんだっていうのは、
いつもここで私はとりあえずつぶやいて、
グッドモーニングボイスでも喋って寝ようみたいになりやすいわけですね。
考えつかないから。
多分これね、パーソナリティは絶対あると思うんですよね、やっぱりね。
書くときはいろいろ、なんていうんですかね、
06:01
楽しくいろいろなことを考えられるんだけど、
売るとなってくると単にそういうモードでは全くなくなる。
それでいいと思ったわけじゃないんですけどね。
書く努力に比べて、喋る努力とか、努力はしてないんですけどね。
ここが違う気がするんでね。
売るとなると途端に努力が始まっている。
Jさんのビルフィーユも作り方としてすごいあれじゃないですか。
非常に無駄の多い、ある意味作り方ですよね。
担当を分けてそこにカッチリ行ったら、
半分で済む努力を2倍も3倍もしているわけですが、
あれは別に大変だなとちょっと思ったんだけど、
辛いなとは全く思わなかったんですよ。
この辺に努力感の無さがあるわけですよね。
本作るときはこれが安くできるんだけど、
大変だとか辛いとか言ったりはしますよ。
言ったりはするんだけど、
全然それをやるのに何の問題もない感じがするんだけど、
問題っていうのかな。
何の苦しみはないわけですね、あんまり。
それが売るとなると、
この時の正直5倍どころか半分ぐらいしかできてないような気がするんだけど、
辛さは出てくるんですよね。
やっぱりやり方が下手なんだと思うんですよ。
あるいは情熱がそこにいまいち乗っかりきれないというのかな。
売らなくていいとか思っているわけじゃないんですよ。
広めなくていいとかね。
むしろ広めなきゃダメだと思うんだけど、
自然とこのリビドーが流れていかないというかね、
専門用語を使っちゃいましたけど、
しかもこの使い方が正しいのかどうかが僕には分かってないんですけど、
リビドー流れてないなみたいな感じがするわけですよ。
非常にこれは流行っているのとまたちょっと違うんですけど、
やっぱりパーソナリティってものはありますかね。
そんなことばっかり言っててもしょうがない。
この辺でやっぱり言っちゃってるというところも、
こんなこと言わないですもんね。
本作る時にはどういう役割があり、
何をしなければならないとしても、
なかなかこういう愚痴っぽいことがボンボンボンボン出てこないというのは、
やはりそこの差なのかなとの話をちょっとしていこうと思います。
先送りゼロの本なんかを考えると、
出版記念パーティーが一番いいですね。
あの時の自分というのを、
あそこに私行きましたけど当然ね、
出版記念パーティーに行かないというのはもうありえない行為になっちゃうんで、
それこそインフルエンザにでもかかってりゃ別ですけれども、
行きました。当然行きましたね。
で、あの空間に私が行った時の私っていうのは、
あの時にしか絶対出てきていないなと。
この話を先日、まさにそのパーティーの翌日に書き上げ塾で、
倉園圭三さんとそういうお話になったわけですね。
書き上げ塾でなぜその話になるのかと言われるかもしれませんが、
09:03
そこはちょっと飛ばしますが、
そういう話になったわけですよ。
で、私、これは対象関係論に出てくる話だと。
対象関係論の中でも私はここが大変面白いと思いつつ、
やっぱり壮大なと思っていたテーマの一つに、
私というのはそもそもいないんだっていうこれなんですね。
よく言うじゃないですか、自分の軸とかっていう言葉。
私、あの言葉が非常に微妙な気分になるんですよね。
自分の軸っていうのの軸っているかって感じがまずするわけですよね。
自分でいいじゃんっていう感じがするんですよ。
というのは自分って英訳が難しいって思うんですよね。
愛は私ですよね。
みーだと私をになりますが、
自分ってのは私はセルフなのかな。
でもセルフは自己とか訳されるわけですよ。
エゴは自我って訳されるんですよね。
自分ってないなっていつも思うんですよ。
これは特に日本語に特有の表現だと思うんだけど、
自分がないって言い方があるじゃないですか。
あれ自分の軸がないって言うと、
私はすごく限定されてしまうとよく思うんですね。
自分がないの方がはるかにいい表現だと思うんですよ。
自分の軸がないだろうと自分がないだろうと、
英訳ができない気がするんですよね。
まさかゼアリーズの自分とかって言うわけにはいかないし、
たぶん全く意味がわけわからん言葉になっちゃうと思うんですよね。
でも自分がないっていうのは、
そこを説明的に英語でしゃべっちゃうともうダメな気がするんですよ。
そもそもどう説明するんだ。
これは私の意見がないとかでは全くないと思うんですよね。
流されやすいぐらいに解釈を変えて、
その表現を取ることはできますが、
たぶんあの例のね、昔流行った、
敗戦直後に流行ったね、
日本人のここがダメ的な話にしかならないと思うんですよ。
そしてそれは全く意味が偏ると思うし、
全然それこそ本題を外してしまう気がするんですよ。
自分がないというのは、
人の意見に左右されまくるというだけでは決してないんですよね。
まして共和党だったくせに民主党のような意見を言ってるとか、
そういう風にどうせ思われるわけですよ。
そういう話でも全然ないじゃないですか。
自分がないというのは、いつも保守的なことを言ってるくせに、
急に民主党みたいなことを言ってることを言わないでしょ。
自分がないって日本人が言ったとき。
政治的なあるいは党派的な話はしてないですよね。
私は全然違うと思うんですね。
そういう話と全然違うと思うんですよ。
これは。
クラザノさんといるときの私って、
クラザノさんといるときしかいないんですよ。
出版記念パーティーのときの私なんてのはもう、
12:01
多分あのときにしか出現できないんですね。
そして例えば娘といるときの私、
そこには父親という属性も入ってきますけれども、
妻といるときの私、
そのときは夫という属性も入ってきますけど、
私はパパといるときの私、
これは息子という属性が入るんだけど、
じゃあ父親といるときはどうかというと違うんですよ。
息子という属性は当然入ります。
こうやって考えていくと自分ってものはですね、
私かなこの場合はね、
佐々木正吾という人間はいないんですよ。
その都度その都度異なる存在が出てくるわけですね。
これは相手の影響を受けるというのがあるんだけれども、
相手の影響といっても、
その影響は非常にいわく言い難い影響なわけですよ。
もちろん期待みたいなのもあるんだろうけど、
例えば父は私といたときに、
私にことさらに期待することもないわけですよ。
せいぜい一緒にいることを期待するみたいなんだけど、
父はあんまりそういう人間でもないから、
一緒にいることすらあんまり期待はしないわけですね。
なので、
相手の影響といっても、
一緒にいることすらあんまり期待はしないわけですね。
非常に一緒にいて楽なんですけどね、そういう人はね。
この辺に非常に大事なポイントがあると思うんだけど、
無意識にでもしている期待みたいな、
あるいは無意識にもっている像なんですよね。
だからこれ、
投影って言葉が使いたくなってしまうんですよね。
専門家に聞かないと困っちゃうんだけど、
でもやっぱり父は私の像を無意識のうちにね、
しかもイメージとかじゃないですよ。
無意識のうちに投影してくるものがあって、
私は小さい頃のも知ってるからね、当然ね。
むしろ小さい頃の方の像を持ってるかもしれない。
で、その無意識に私の父が
私に対して投影する像があるわけ。
像じゃないんでね。
でも投影するものがあるわけですよ。
この投影に必ず私は影響を受けるわけですね。
人がどんなに微細だろうと微小だろう、
これを無視することは絶対無理なんですよ。
無視してるんだけど、影響は受けてるわけですね。
無視というか、意識はできてないんだけど、
影響は受けてるわけですよ。
だからそれになってしまう。
これを投影と同一化をセットして、
つまり投影された像に私がだんだん一致していく振る舞いを、
言語を取ることで、
松木さんっていう方が、
これは精神分析の人だけど、
書いてる通りだと思うんですよ。
投影だけってことはほぼなくて、
投影はもう投影と一化を生み出すんですよね、きっと。
私はそう思うんです。
これは哲学で近い話があると思うんだけど、
絶対これはそうなるなって思うんですよね。
母といる時は、母といる私にだんだんなっていく。
15:02
これを顔色を伺うという話になりやすいと思うんだけど、
そういう強くかかってくる期待とか影響って、
絶対したもんじゃないんですよね。
むしろ意識できないレベルで入ってくるやつの方が、
その人を規定するって僕はよく思うんです、これも。
例えば私、今回、
六本木のホテルに泊まってたんですね。
今、家に帰ってきてみると、
全然自分違う。
何をどういう説明をするのかは難しいんだけど、
違うことだけは自分にはっきりと分かるんですよ。
家にいる自分の方が断然いいっていうのがあるんだけど、
ホテルにいた時は別にそこに人いないわけですよ。
必須に自分がいるだけな。
今も他に人いないんですよ、
この空間に私がいるだけな。
同じだと思いそうなもんじゃないですか。
でも全く違うんですよね。
だから投影ってのは非常にややこしいんだけど、
人がするだけじゃないんですよ。
物もするって感じがするんですね。
僕が物に投影してるのかもしれないんだけどね。
そう考える方が自然ですけどね。
それが跳ね返ってくるわけですよ。
私は結局、六本木のホテルにいる時の私と、
家にいる時の私では異なってしまうんですね。
だからこういう風に、
当然ホテルに顔色をかがわないじゃないですか。
ホテルの部屋に顔色をかがわない。
そんなことはあり得ないですよね。
そういうことをしていない、
全く意識の範疇まで来ていないレベルでの
投影同一化の方が力強いなっていうのは、
私はいつも思いますね。
だから慣れた人と一緒にいる時の影響の方が
ずっとでかいわけですよ。
影響がないとかそういうことではない。
私は別に娘の顔色とかうががってないんだけど、
こういう時の方が、
私というものが、
はっきりと影響を受けた結果としての
私が出てきやすい。
それでいいんだけど、
どっちの方が影響力がでかいかというと、
顔色なんかうががってる人の影響なんて
それはどっちの方がっていうのは、
意見も様々あると思うんですけど、
私にとって大事なのはですね、
ベルにいる時は、私は自分がほとんどないってことを、
今ここに戻ってくると自分の家に
実感するんですよね。
強く実感する。
あの時の私は自分がないに近い、近づく。
自分がないって表現はああいう時にこそ相応しい。
自分がないっていうのはね、
意見がないとかじゃないって思うんですよね。
ホテルの椅子にいると何となく自分は
いつもの自分に慣れていない。
落ち着かないっていうのがいい表現なんでしょうけれどもね、
18:02
落ち着かないっていうのは、
そわそわするとかではないんですよね。
落ち着いてるつもりでいるんですよ。
あーってなってベッドに仕掛けていて、
落ち着いてないみたいな。
これはどいたきょうさんの、どいたきょうさんかな。
すいませんね。
甘えの構造の著者さんです。多分どいたきょうであってると思うんですが、
彼が書いていることって本当に、
正しいっていうよりもね、
いいポイントつくなみたいな感じなんですよね。
甘えの構造の話はこのポッドキャストでも
ちょっと前に散々パラしてるんですけれども、
同じ話してることになってると思いますけどね。
甘えられてないときには自分がないっていうのが、
彼のひとつの提前みたいなもんだと思うんですが、
そして、
それは事後的に、
自分があるときに、
あとから振り返って、
自分があのときはなかったというふうに、
そういうふうな認識の仕方しか
そういうふうにしか
意識できないものなんだっていう、
僕はあれはすごいやっぱり正しいなって思うんですよね。
自分があるなっていう感じも全くないわけじゃないんだけど、
ことさら意識しないし、
すごくそういうときの感覚は曖昧ですね。
ただ、後から振り返ると、
あの六本木のホテルにいたときの私は自分がなかった。
それはどういう意味かと言われると困るんだけど、
とにかく自分がなかった。
自分の意見がなかったとかではないんです。
実質に一人きりでいるときに意見いらないでしょ。
別にちょっと成林寺の岸田さんの答えはなってないなとか思わないですよ。
別にそんなことテレビ見てるわけじゃないしね。
だからそういうことではないんです。
自分の意見がないとか、
誰かに言いなりになっていると一人しかいないんだから。
ただ自分があのときは、
月が三日月になっているみたいにね、
大きく欠落してしまっている部分が
あのときはあった。
でもそのときにはわかんないんですよ、あんまり。
なんかちょっと落ち着いてないなとか、
ホテルの部屋にいても疲れとれてないなとか、
そういうことでしかわからない。
本当のところ何が起きているのかはっきりわかってない。
でももう一つあの状態をよく考えてみると、
甘えがうまくできてないとは思うんですよね。
これは人と一緒にいないと、
甘えってのも非常に自分がないとそっくりで、
甘えってのは、
甘えられてないときにしか出てこない表現なんですよ。
だからこいつ甘えてるって言ったときは、
その人甘えられてないんですよ。
甘ったれてるとか、甘えがひどいとか、
あの人甘えた人だとか、
そういうことの言い換えなんですね。
唯一これだけは言わない。
21:02
私は甘えられていますって、これはおかしい。
日本語としておかしいですよね。
つまり肯定表現は取れない表現なんですね。
自分がないも同じなんですよ。
自分がないとは言える。
あの人自分があるよねっておかしいんですよ。
使うことあるかもしれませんけれども、
自分があるときは意識しなくていいわけです。
甘えもそうで、甘えられてるときは意識しなくていいわけですよ。
この種の表現を日本語で取ったときの
感触ってのが感触なのかな。
すごく精神分析的っていう感じが
やっぱりするんですよね。
甘えられていないというときに
いろんな甘ったれてるとか、甘やかしているとか、
いずれも甘え不成立、
つまり不成立のときの表現しかないってことなんですね。
成立しているときは素晴らしくて、
それに該当する表現は存在しないみたいな、
そういう表現なんですよ。
だから分かりにくいんだけど、
すごく言葉としてはいい感じの言葉なんですね。
自分があるもそう、自分があるということもありますが、
自分がないに比べると不自然な感じがすごくします。
私の感じとしては。
例えば出版記念パーティーとかね、
ああいうときには甘えられているわけです。
だから自分があるんですよ。
甘えられているっていうのはことさら意識しないですよね。
いい感じだったとか。
それこそプラザの慶応さんのグッドバイブスっていうのは
僕はだいたい甘えが成立しているっていう言い方で
考えてるんですけれども、
完全に同じじゃないかもしれませんけどね。
だからグッドバイブスっていうのは
あえて言わないと
今ここはグッドバイブスですみたいな感じ。
バッドバイブスだとみんな通列に意識するわけですよ。
うわ、嫌だわって感じがあるから。
だけどグッドバイブスはもういいわけですよ、それで。
ことさらここの表現について盛り上がってるねとか
なんとか言うかもしれないけど、盛り上がってない場合もあるじゃないですか。
別に盛り上がってないけれども、
みんないい気分になれているみたいなことはあるわけで、
盛り上がってるかどうかじゃないんですよね。
盛り上がってるっていうことが多いでしょうけどね、他人数の場合には。
で、
何か甘えられているということが
必要な状態なんですよね。
そうしないと自分がなくなってしまう。
で、後から振り返って
あの時自分なかったなというふうに考えることによって
しか認識できないので厄介なんですね。
自分があるという状態。
私はホテルに行った時は自分がなくなっていた気がするし、
パーティーに行った時は自分があったと思えるんですよ。
どうしてなのかは説明できないんですね。
別にだってね、出版記念パーティーで
私が自分の意見を激しく主張したとか
24:01
だいたい激しく主張するような時は自分が失われかけているんだけど
激しく主張したとか一切なかった場合じゃないですか。
私はせいぜい自分の本を紹介
読みましたという話を聞いて
簡単したに過ぎないわけですよ。
でもその時自分は確かにあったという感じが
でもこの場合の自分があったは
今私が実質にいる自分があるのと
あるいはこのグッドモーニングボイスを喋っている自分があるのとは
少し違っているんですよ。
ただ三者に共通していることは
自分があるという感じがするってことです。
あえて言うと自分が何をやっているのかを
余裕を持って意識できているという状態なんですよ。
ちょっと聞かれたんですけど
私はパーティーでもスピーチしたわけですね。
短い別にスピーチってほどのもんじゃないんですけど
あの時にうまく喋れていると
だからコツを教えてくれって言われたんだけど
コツを言うのは難しいんですよ。
コツを言うとすると甘えるってことなんですよね。
他にはもう言えることは何もないくらいな感じがします。
即興かどうかとか
事前に用意しておくかどうかってのは
用意しておかない方がいいと思いますよ。
なぜ用意しておかない方がいいと思うかというと
用意するってことは甘えられないかもしれないっていう
懸念から生み出されるものだから
用意ってのは大抵の場合そうなりますから
用意するっていう段階ですでに甘えられないんですよ。
甘えってのは甘えられるかどうかで
全てが決まってしまうものであって
甘えられないかもしれないっていう段階でも
甘えられてはいないわけですね。
そうすると喋っている時に自分がなくなってしまうんです。
そうすると自分が何をやっているかを
意識する余裕がとっても乏しくなるので
ぎこちなくならざるを得ないわけですね。
どう喋るっていうのを考えなきゃならないってことは
その場に甘えられないってことを意味して
甘えられないということは甘えさせられないってことなんですよ。
甘えってのは偏無的なものであることは
絶対ないんですよね、きっと。
甘えさせることと甘えることは
同時に同義なんですよ。
これはもう何と言えばいいのか難しいんだけど
母子一体ってのは一体であって母子なのであって
お母さんが子供を甘えさせるっていう
偏無的なね、私が一方的にやるものだって思った瞬間に
もう不定律な一体じゃないじゃないですか。
母子一体というのは一体だから
母と子で一体だから、どちらかが甘えさせる
という時は同時に甘えさせていて
同時に甘えているわけですね。
これをどういう状態かを説明することはできないんだけど
ただこの母子一体になった途端に
母子とも自分がある状態が成立するわけですね。
だからあれなんですよ。
27:00
私は夫を甘えさせていて
夫の面倒ばかり見ていて大変だって
こういう偏無的な一方的に義務を負ってるような感じがしてる時は
すでに甘えさせてはいないし甘えられてもいない。
つまり甘え不正律なんですね。
この時に夫は私に甘えているという言葉が
とてもよく響くわけですよ。正常なんですね。
夫は私に甘えているといった瞬間に
その人は夫を甘えさせられてもいないし
ご主人はその人に甘えられてもいないんですよ。
甘えはあくまでも否定的な時に表現されるんですよ。
ということを自分という話になった時に感じたわけですね。
私が倉園さんといる時はZの牙みたいな
倉園のZね。Zの牙みたいになるわけですね。
大橋哲夫さんといる時はEの牙みたいになるわけですよ。
哲夫のEね。
つまり同じ人間ではないってこと。
これがすごく大事なんですね。
同じ人間じゃないというのはその二人母子と同じなんですよね。
二人になった時の私というものしか出てこない。
ただ自分があるという時にはですね。
そういう時に自分があるんだけど
自分の意見が言えるとかいうことは
結果として出てくるわけですね。
自分の意見が言えるとか自分の判断で動けるとか。
これが自分がないというケースの場合には
相手の影響は数列に受けることになるわけですから
これは誰であっても受けるので
例えばクラゾノさんと一緒にいる時は
ものすごくグッドバイブスなことを言う人が
別の人といると全然グッドバイブスな話なんか
意見なんか持ってない人になってしまう。
例えばですよこれはね。
私がクラゾノさんといる時は
グッドバイブス万歳みたいになってるんだけど
うちの奥さんといる時は
グッドバイブスなんてクソくらいだみたいになっちゃうみたいなね。
それはうちの奥さんは例えばそうじゃないけど
グッドバイブスに対してとても否定的なので
その影響を意識的無意識的に関わらず受けて
めちゃくちゃグッドバイブスに対して否定的になるとか
自分がない感じがするじゃないですかそういう人って。
こういう現象が自然と起きてしまうという話なんですね。
そうすると例えば大橋さんといる時は
もうタスクシュートって素晴らしいですよねと
ああいうパーティーとかでもそう言ってるんだけど
家に帰ってくるとタスクシュートなんて触りもしないとか
こういうことが起きるわけですね。
起きても全然良いとか悪いって話じゃないですよ。
ただこの生き方をするというのはとても大変だと。
一見すごい柔軟に見えるじゃないですか。
でもこれは多分とても大変なんですよ。
この状態ってつまり甘えられない状態なんですね。
すごく事さらになってしまうでしょう。
倉園さんといるんだからグッドバイブスでなきゃみたいに
30:00
全然甘えられないわけですよ。
大橋さんといるんだからタスクシュートの人間にならなきゃ
っていうのも全然甘えられてないわけですよ。
そして家に帰ると今度は
家の人のあるいは家の状態に左右されるから
タスクシュートもグッドバイブスも
はなぐり捨てるみたいになるわけで
全然その人には自分がないわけですよね。
この状態で生きるのはすごい辛いわけです。
どこに行っても自分は甘えられないっていう状態が
そしてその人はひどく甘えているように見えるんですよこれが。
じゃあ一貫した自分というものがあればいいのかというと
これも非常に微妙なんですよ。
だから自分があるというのは
軸があるとかぶれないとかいう話とは
イコールにならないんですね。
例えばですよだって
例えば出版記念パーティーに行くけど
いや俺はもうアンチタスクシュートだからって
事さらに主張している人は
すごく意見ははっきりしているかもしれないし
クリアな感じはするかもしれないけど
その人に自分があるって感じって
あんまりしないと思うんですよね。
まあその人が例えば
アンチタスクシュートとして
私といてもタスクシュートの批判をし
大橋さんといてもタスクシュートの批判をするみたいな
一貫はしてるんだけれども
全く
この人って自分の軸があってぶれないなみたいな
感じはするかもしれないけど
なんとなく私はその人は
自分があるって感じがしないんですよ。
なんかこう
強い主張があるって感じしかしない。
そういうような
病理って言ってしまったら
あれなのかもしれませんけれども
そういうような性格の難しさになりますよね。
これもまた全然
生きてて楽そうな感じはしないですよね。
甘えられないわけですよ。
どう考えてもこれでは甘えられはしない。
甘えてないからこそ
そういう感じになってしまうんだと思うんですよね。
人にも甘えさせないぞっていう
そういうある種の
固くなさみたいなものが目につくという
自分の無さがあるわけですよ。
自分軸みたいなものはあるのかもしれないし
ぶれないっていうような言い方はできるのかもしれないけど
自分があるって感じは
私はこれはしないんですよね。
やっぱり。
そういう人にとって
例えば一人になった時
じゃあどうなるのかっていうと
何もある意味なくなってしまったり
しかねないじゃないですか。
ことさら一人でいるのに
俺はタスクジュートしないんだみたいな
主張っていらないわけですよね。
しなければいいだけなんでね。
誰もそこにいないんだから。
だからそういう風な性格ってのは
アンチが必要ってことになっちゃうわけですよ。
誰かの主張がいるみたいな。
そこに出かけていって
アンチを喋るみたいな
そうすることで
初めて自分らしさが意識できる
っていうような生き方
そういうのもあるんですよね。
そういう生き方も。
ただこれは楽じゃないだろうな
って感じはします。
だからやっぱり甘えというのは
変物的なものであってはいけないわけです。
33:02
こういう時に私が
相手を甘えさせることによって
いやいいんですよタスクシュートとか
全然アンチでも
っていうのって
甘えさせているとは言えないんですよね。
やっぱり
単に甘やかしている
みたいになっちゃうわけですね。
ちょっとニュアンス変わりますけどね。
甘やかすってのは
そういう感じじゃないけど
でもやっぱそういう
なんか無理やり甘えを成立させようと
頑張るみたいになって
しまって
そういう時に
甘えってものがですね
なんか目についちゃうわけですよね。
両方とも甘えの世界にはいられない。
つまりお互いの信頼が全くない
みたいな
そういう感じになるということですね。
だってそういう話する必要ないですからね
そもそもね別に。
つまりですね
これは程よいバランスがあるよね
って話ではないんですよ。
そこまで簡単な話じゃないですね。
最初の方言った通り
誰の前では自分がどんな状態になるかは
完全には自分のコントロール下にはないわけです。
例えば私なんか母と一緒にいるときに
それが的面で
明らかにもう東映ドイツ化が起きてしまう。
起きますよ。
それは当然起きます。
だからこういう称号だというイメージに
沿ったようにスーッと動くわけです。
こういうときにも自分がある感じがするんですよ。
ここでつまり自分があるというのはですね。
どんな人といてもどんなところにいても
自分が何をしているかを余裕を持って
眺められる自分がいるっていう状態というのは
コントロールはできないってことだと思うんですよ。
その人に自分があるかないかっていうのは
全くない人とかすごくある人とかってのはおかしいんで
やっぱりある方に
大筋あるよねっていうのと
大筋ないよねっていうのはあると思うんだけど
自分がある感じっていうのはですね。
ある程度は自然と含まれるべきものであって
私とはこういう
私がこういう私ですというのを
意識的に規定するとなると
さっきのアンチの人みたいになってしまうわけですよ。
どこに行っても意見がぶれないようにするために
整合性を求むみたいな。
すごくそれが極端になると
つまりノーションにそれを書いておいて
確認しようみたいな。
私の意見としてはこうこうだから
タスクシュートはY入れないから
こういう意見をこれから述べようみたいな。
そうなると全然それは
リラックスして自分がやってることを眺める私がいるとか
そういう感じでは全くないわけじゃないですか。
そういう風になるものじゃないと思うんですよね。
だから自分を作るってもんじゃないと思うんですよ。
自分はいろんなところに行っても
失われないように育っているみたいな
そんな感じしかしないですよね。
どこにいても自然な自分というものが
そこにその状態にふさわしい形で立ち現れるみたいな。
だから私はその何かこう
36:02
ホテルで一人きりでいるみたいなのに対する
何かが自然と育まれてないんでしょ。
だからその時には
いつものような私が出てこないわけですよ。
自分が自己意識がないとかではないですよ全く。
しかもこれは乖離とかいう話と全然違うわけですよ。
乖離はしていない。
その時何をしてたか思い出せますから。
その時タスクシュートもしていたし。
タスクシュートっていうのはその辺にちょっとね
接触してくる感じはありますけれども
タスクシュートさえやってれば自分があるとか
そういう問題じゃないんですよ。
ドイタ教さんのお話とか
藤山直樹さんのお話とか
精神分析科の話に出てくるんだけど
後からだいぶこう調子が良くなった
つまり甘えられるようになった患者さんは
時々これを言うらしいんですよ。
先生と最初に会っていた頃の私は
自分がなかったんですみたいなことを言うらしい。
こういう後から振り返ることができるけれども
その時には意識できない状態なんですよね。
自分がない状態っていうのは。
らしいんですよ。
だから今私が家に帰ってきて
パーティーの時はあった。
秋葉原塾の時もあった。
でもアパホテルにいた時は
ホテル名出しちゃったけどなかった。
気がする。
これは後から振り返ることしかできない
っていう意味で
すごく甘えられないって話と似ている。
出版記念パーティーの時に
時間クエストという本を
他の順さんからいただいたんですよ。
僕監修ってことになってましたけど
だからいただいたわけですよ。
あの本の中に自然と出てきている表現が
実に日本語的な感じがしてよかったんですけど
あれは時間クエストっていう本は
完璧主義の話をしてるんですね。
完璧主義がラスボスなわけですよ。
イデアって言うんですけど
完璧な理想的な人物ってこと。
彼は言うわけですよ。
主人公たちに向かって
お前たちは甘えている。
この言葉が完璧主義者から出るってのは
いかにもじゃないですか。
言いますよね。完璧主義な人って
甘えていると。
つまり完璧主義の人って甘えられてないから
完璧主義なわけですよ。
完璧じゃない人間はダメだってことは
人をまず甘えさせられないってことを
つくつく言ってるじゃないですか。
完璧じゃないんですから
他の人はみんな。
だからダメだと。ダメだってことは
つまり甘えさせられないってことですよね。
で、その人たちに向かって甘えている
って言うわけですよ。
これが甘え不成立において
のみ甘えって言葉が出てくる。
表現として出てくるってのを
すっごく自然に描かれてる感じが
するんですよね。
日本人はみんなこれを知ってますよね。
人に甘えているって言ってるときは
甘え不成立ってわけですね。
で、完璧主義者である
あの漫画では
39:01
イデアなんだけど、
まったく同じですよね。
彼は自分が完璧であるから
いいと思ってるわけですよね。
これはつまり、自分が
自分である限り許されない。
自分は完璧でなければ
許されないってのが
まったくこの人の甘えられなさ
ってのをよく表現している
わけですよ。
主人公の一人である
シーホースにも言ってましたよね。
全てが俺の甘えだと。
つまり甘えられてないってことなんですよ。
甘えを人が意識しているときは
いつだって否定的な
わけですね。甘えだって
言ってるところにいい意味が
まったくないわけですよね。
ちゃんとしていなかったからだとか、
優先順位がわかってなかったからだとか、
スキル不足だとか、全て自己否定的
ですよね。このときに
自分は甘えだって言うわけですよ。
つまり甘えられてない
証拠なわけですね。
イデアのようには慣れていない。
まさに自分じゃないものになろうとしている。
これは自分がないっていう
やっぱりことなんですよね。
本人はそのことに全く
気づいてないんですよね。自分は
シーホースとして自分があると思っていて、
未熟だったりスキル不足だったり
する自分があると思ってるけど、
それはシーホースがイデア
って人を目指しているからであって、
そうすると自分がなくなっていくわけですよね。
目指してるんだから。
イデアになろうとして慣れていないっていうのは
自分じゃないわけですよね。
なったら自分じゃないし、慣れてなくても
もうそれを肯定できてないから、
自分じゃないわけですよね。
そして自分は甘えているんだって言って、
甘え不成立なわけですよね。
すっごくここは
日本語的だなと思ったし、
全くこれが時間管理の問題
なんだろうなって感じが、
時間をそもそも管理しなきゃいけないと思ってる
段階で甘え不成立な
わけですよ。
どうして甘えが成立してなきゃ
ダメなんだっていう話なんだけど、
一つにはそれは、
それでは生きづらくて仕方がないからですね。
私が今自宅にいて、
ここがやっぱり一番甘えられている
って感じられるってことが
まさに大事なポイントじゃないですか。
これをくつろぐとかいろいろ言うんだけど、
この状態でない状態で
生きるっていうことほど、
厳しい生き方ないわけですね。
いつも自分はダメだと思って、
甘えているんだと思って生きていかなきゃ
なんないわけだから、まず大事に厳しい。
で、だいたい
うまくはいかないんですよね。
シーフォース全然うまくいってなかったけど、
ああいう人はいっぱいいるじゃないですか。
何かイデアを目指してしくじり続けている人
っていうのはいっぱいいるわけですよね。
この方式で物事うまくいかないわけ。
これが2つ目の問題だと思います。
私がその
スピーチがうまかったのかどうか
知りませんが、
あれがよくできていたんだとすると、
まさに甘えられていたからですよ。
そこには投影同一化が
間違いなく働いていますよね。
多くの人の私像というのが
悪いものではないだろうというのを
私は知っていて、
意識的にも無意識的にも
そこにいる
70人から80人の
42:01
たくさん集まっていただいて
大変ありがたい限りなんですが、
しかもこれらの人の大半が
私に好意的な眼差しを向けていることを
私は知っているわけですね。
したがって、無意識に投影される
私の像に、私はただ
同一化していけば大体うまくいくわけですよ。
これが全く
甘えられている状態なんだと思うんですよ。
佐々木という人間は
本来いないわけですよ。
あの場には、あの場の佐々木というものが
現れてくる。
どういうからくりかを
完全に説明できなくてあって、
そういうことは起こるわけです。
みんなが
集合無意識というのはこの場合ちょっと
おかしいと思うんだけど、
でも集団として
私に向かって
投影してくる佐々木像というものに
ただ私は同一化していけば
うまくいくに決まってるんですよ。
この人うまくやってくれるだろうという期待が
みんなの中にあるわけですから。
それにただただ同一していけばいいわ。
これを甘えと言うんだと
私は思う。
その時に、これをやれる
ということは、
何がその場で起きているのかを
私は十分余裕を持って
眺めているので、
よく言うやつですけど、頭が真っ白になる
ということは起こらないわけですね。
あとは、口をついて出てくる
言葉に任せておけばいいわ。
そうすれば、何を
しゃべるかは知りませんけれども、
多分その場にふさわしくないことは
しゃべらないはずだし、
うまいこといくようになってるわけですよ。
つまり、甘えられる必要が
なぜあるのかの答えはこれなんですよ。
一つは、くつろいで生きて
いきやすいから。
やっとけばうまくいくからです。
ことさらに、これの
反対をやって、イデアを目指して
うまくいくというケースを
私は知らないんですよ。
かなり頑張ってるという場合は、
いい感じには
なるのかもしれないけど、
いい感じにならないんですよね。
成功させることは
できたって感じになるんですよ。
そして本人はすごく
消耗するんですよ、多分、あれをやると。
人々の
期待というものとは関係のない
自分が用意したものとか
完全なものっていうものを作り出して
それを
間違いのない形で
表現する。全然僕は
これをクリエイティブな感じを
受けないし、当然
甘えられてはいないですし、
何よりも自分がないって感じが
するんですよね、そこには何か。
自分というものが
そこにはない感じがする。
やっぱり自分というのは
同栄同一かというものと
私自身の
努力というのかな、
思いっていうのが
やっぱり近いですよね。
倉殿さんの言葉、さすがですよね。
愛でもいいんですよ。
リビドウって愛ですからね、結局。
そういうものの
一致した結果なんですね。
それがクリエイティブ
っていうようなもんだと思います。
だから
45:01
甘えが成立するのは
それも結果なんだけれども
必要なんですよね。
絶対にそれがやっぱりないと
そうはならない。
そうはならないと
いうふうに思うんですね。
必ず
同栄というものは起きます。
だって絶対起きるんでね。
これを押しとどめたら
何にも起こらないと思うんですよね。
一緒に人といるということは
同栄が起きる。そしてそれに
あとは同一化することが
できるかどうかっていう感じが
しますね。
それが嫌だっていうような
つまりなんかわけわかんない同栄を
山のように投げられて
そんなのに同一化するのは耐えられないよっていう話
になってくるとカウンセラーが
必要になってくるわけですよ、そこで。
カウンセラーは
その同栄同一化を果たすことによって
悪人とかにさせられる
わけですよね。だからこそ
あれは
やっぱりある程度プロフェッショナルな
仕事にならざるを得ないのであって
料金取るからですね、スーパーバイザー
ってものが必要になってくる
と思うんですよ。そこで起きたことを
後で振り返る
必要があるからなんでしょう。
その時、同栄同一化が
完全に、しかもすごいネガティブな
形で果たされると
自分ってものが非常に危うく
なってしまう、というか危うく
ならないと仕事にならないと思うんですよ。
危うくなったということを
後で確認しなければいけない
ということをスーパーバイザーってのは
言ってるんじゃないのかなと思うんですよ。
すごくこういう仕事も
できるようになってくると、多分なんですけど
私ができるわけじゃないんで
予測の範囲を超えませんけれども
すごくできるようになってくると
完全に自分を失う
ということも可能になるんだと思うんですよ。
それを誰かがやってあげないと
いけないんだと思うんですよ。
赤ちゃんの時に、親がそれを
多分怠ったので
怠ったために
投影同一化というものによって
甘えるということが
どうしても理解できないまま
大人になってしまうということが
起こるんですよね。
カウンセリングが必要というのは
そういうことだと思います。
私なんかの
出版記念パーティーは全く逆で
良い投影同一化というのかな
それしか起きてなかったから
あれは完全にカウンセリング的に
機能するわけですよね。
そこで私は従前に甘える
確実にできるわけです。
これは
参加した人にも
全く同一なことが起きなければ
おかしいわけですよね。
完全に私を甘えさせることができる
ということは、完全に自分が甘えて
いいということになるわけだから
それは同時に成立しないと
佐々木がこう言わない限りは
認められないっていう風になった
瞬間に
その厳しい条件を
自分に同時に課すことになって
しまうので、その瞬間にリラックス
はすっ飛ぶんですよ。だから
甘えというのは
やっぱり偏無的であることは
絶対起こり得ない
48:01
はずなんですよね。
私だけがこの家で頑張ってるとか
という犠牲的世話役を
やっている限り、甘えというのは
すごく中途半端な形に
とどまってしまう。そして生きづらい
みたいな、そういうことになるんだろう
と思いますね。
だからやっぱり私は
決して悪いホテルじゃなかったんですけど
いいホテルだったんですけどね
ホテルで何か私は
甘えるというのが
十分できない何かが
育ち方なんでしょうね。
あるんだろうなと思います。
そして物に甘えるっていうのは
意外に難しいんですよ。
できないわけではないんですよね。
家ではできるんだから
物に甘えるっていうのはできるんだけれども
意外に難しい。
だからやっぱりこう
一人で頑張って
ひたすら物に頼る
つまりそれが
なんていうのかな
物質的に
自分を甘えさせるという
努力なんだけど、これが
簡単なようで簡単でないというのは
きっとそういうこと
なんだろうなっていう感じがします。
やっぱり物でなると
リフレクションでしかない
ですからね。それ自体は
私に何かを期待しないので
結局は私が物に投影したのが
戻ってくるっていう形を
取るしかなくなってしまうので
それは自分が調子がいいときは
いいでしょうけれども、自分の調子が
悪いときは
そのまんまになってしまうので
難しいかなっていう感じがします。
これが多分人が必要な
重要な理由
なんじゃないのかなと思いますね。
甘えにはやっぱり他人が
いりますよね。
49:44

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