2022-07-27 33:26

【637GMV】社会は正しい?

価値があるところで思考が止まる
00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
えーっとですね、今、これをもう今後辞めるというような予定はさらさらないんですけど
ボイシーというメディアのサービスにですね、証拠理もなくまたちょっと申請してみたんですね。
もうパーセンテージから言うと僕が受かるとは思えないんですけど、今回ちょっと真剣に申し込んでみたので、もしかして受かったらいいなと。
えーと、全く有料にするとかではないんで、あちらから配信してもですね、ちょっと皆さん手間かもしれませんけど、
いつも聞いていただいている方は、もし移動したらですね、写っていただければいいかなと。
あるいはこう、ボイシーで2本、こっちで3本とかでもいいんですけど、なんか大体そういうことをやってうまくいかないような気もするんですよ。
だから、移れれば移ろうかなというぐらいに、そもそも受かるかどうかっていう前の段階なんで、全然わからんのですけれども。
というのはですね、やっぱり単純にですね、他にも理由はあるな。
単純にお金に困るんですね、私は。
すげえ困ってるっていうのとは違うんだけど、ほぼ慢性的に困ってるわけですね。
お金に困るというのは、私の今の現状についてちょっとつぶさに考えてみたら、要はマスに乗っからなければいけないシステムの中で、やっぱり私のような人間は生きているわけですよ。
例えば今Amazonの方ではなぜか本が在庫切れになり、でも楽天ブックスとかヨドバシ.comでは割と山のように残ってしまっているという状態が続いているんだけど、事実上その状態はほぼ放置されているわけですね。
なぜそうなるかというと、それは私がやっぱりマスには乗れていないから。
これで楽天も売り切れ、ヨドバシも売り切れになれば、受販が自然とかかっていくから、これがマスに乗れるシステムで好ましいとされるんだけど、そうはなかなか僕の場合はもうならないというか、そもそもそんなことには滅多になったことがない。
一度でもある方はラッキーというしかないんですけど、それはやっぱりマスなので、時代とのマッチングって非常に大事だと思うんですよ。
ここが私には一つ欠けているわけですね。今もそうですけれども、逆のことをしゃべっちゃっているようなところがありますからね。
それほど私たちはやっぱりこうですね、社会は正しいんですよ。
こういうふうに言うと、もっと自律的に自由に個人が生きていきたいってほとんどの方はおっしゃるんですけど、ここに罠があってですね、抽象的にはそうみんな望んでいるわけですよ。
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社会の言いなりになりたいですっていう人は、そこまで言う人ってやっぱり少ないんですけど、僕らはそうは言ってもですね、知らず知らずというか、相当の程度、社会ってのは正しいんですよ。
これはそう悪いことじゃないんですけどね、ある程度こういうふうじゃないと多分結構生きづらいんですよ、それはそれでね。
ただ、どうこすし割と社会は正義みたいなのって意外とどうこすし、しかも対してそのことについて意識していないのに自分は逆だとぐらいに思うのがまた僕らの面白いところなんですよ。
これは自由主義の世の中に生きているせいなのかもしれませんけどね。
まあまあそういうこともありまして、マスに乗っかることの難しさっていうのをですね、今も痛感している。
これはマスに乗れてないことが全てじゃなくて、システムの問題ではあるんですけどね。
楽天ブックスで多くの人は正直楽天で本を買おうっていう発想を、本売ってることを知っててもなんとなく持たないじゃないですか。
楽天では化粧品、Amazonで本買うみたいなのってあるじゃないですか。
逆にしたいっていうふうに思う人ってやっぱり少ないと思うんですよね。
ヨドバシ.comもあれほどAmazonさんに似せて作ってるけど、ヨドバシで僕の本買うっていうふうな発想にはなかなか至らないと思うんですよね。
で、そっちの方に全ての数が配分されていて、しばらく融通は効かせられませんっていうのはなんかシステム上のあれなんですけれども、しょうがないんですよね。
そういうふうになってるわけですから。
つまりそれはもっと大量に扱うという前提が今までずっとあったために、その前提が大きく崩れ始めている現在もあんまりそこをいじれてないという現実があるとか。
例えばですね、非常に面白いなと最近思うんですけど、書店さんに行くとAmazonで1位って書いてあるんですね。
これって昔じゃ絶対考えられないことじゃないですか。
だって他の書店で1位取ってるよってことを別の書店でCMしてどうすんだって感じなんだけど、もう今そういう時代じゃないんですよね。
Amazonレビューっていうのもそうですけど、実はレビューで本買うのを決めるのってAmazonだけじゃないですか。
それが自然ですよね。書店さんに行って星1の意見はどうとか、5の意見はどうとか、見たいとか見ようとかいう意識にすら多分ならないと思うんですよね。
そんなのなかったから。
で、現に私これも面白いなと思ったんですけど、楽天ブックスに行くと10位って全く気にならなくなるんですよ。
楽天ブックスでは何位になってるんだろうと僕は思わないんです。
なぜなら多分楽天で本を買うということをしたことがないからなんですよ。
で、やっぱり楽天ブックスでちらちらっといろんなの見たんだけど、書評なんて一個もついてはいないわけですよ。
考えてみると昔書店に行った時の風景ってのはまさにああだったわけですね。
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書本をレビューで判定して買うっていう文化って実に歴史が浅いんですよね。
つまりあれも多分マスで売ることが正義みたいな時代では必要のないものだったんじゃないかなって思うんですよ。
多分ね。
だから今はだいぶ違うんだけれども、でも実際にはマスに売れないものを出すのはなかなか難しいという状態で、
私は網の目を飼いくぐっているようなそういう感覚なんですね、精神的には。
マスにウケそうな顔をして自分勝手なことを言おうみたいなそういう辛さがあるんですよ。
まあイリュージョンなんですけどね。
これが辛くなくなればいいんだけど、やっぱり実際に本がボンと出てみて、順位がボンとついてみて、
それはつまり実はマスじゃないやり方なんだけど、マスの方では死因としているっていうこの状態にやっぱり苦しみを感じてしまうわけですね。
そうするともっと売れるようにしなきゃいけなかったかなと思うんだけど、もっと売れるようにどうすればよかったのかわからなかったりするわけです。
今回の本で娘がサクッと言ったのは前の本よりは売れそうだと。
なぜかというと想定とデザインが前のよりは売れそうに見える。
こういうことなんだろうなと思うんですよね。
ちなみに想定とデザインはどうすることができるかというと、私にはどうすることもできないんですね。
著者にできることは何もないわけですよ。
でも本の売れ行きというものを握っているのは著者だって思われてもいるじゃないですか。
この辺がこの構造と現実のややこしいところだなって思います。
というわけでタスク管理の本が出ています。
CMになっちゃいないんですけどね。
よろしければ見てみてください。
私が真面目にGTDについて論じた最初の本でそこに価値を見出せるかどうかも大きいかなって思っています。
今日は不満に思うことを考えてみたいですね。
私はこれを大げさに捉えればいいですよ。
はっきり言って別に不満なんてしょっちゅうですけど、
大げさに言うと不満を持つということは一つ現実を取り逃すようなものですよ。
釣った魚が逃げちゃうみたいな。そんなところがあるんですね。
昨日一昨日、Jさんとの共催セミナーで非常に盛況だったんですけど、
非常に盛況、つまりこれがマスってことの印象なんです。
マスって言うほどいらっしゃっているとは言えないんですけどね。
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1万人とか収容しましたとかじゃないからね。
この盛況だったがゆえに私の話じゃ通らないという人が現れます。
これは盛況だったという証拠で非常にいいことでもあるんですけれども、
ここでまた新しい一つの課題が生まれるわけですよ。
シンプルに言ってしまうとノープランというのはダメだという、
その感じがすごく不満だったから、もう効くに耐えなかったという感じの方と、
ノープランは素晴らしかったという方に別れちゃうわけですね。
だからマスを相手にするのはやめて、少数者とやりましょうという考え方もあります。
だけども私はそれはダメだというか、ダメではないけど、私はそうはしたくしないんですよ。
理由は簡単で、それって恐れと不安による選択じゃないですか。
要するにこのジレンマですよね。両立しません。
同じことに対して拒否反応と絶賛とに出ちゃうということは、
仮にこれが両方とも超少数で一人一人ずつだとしても出ることは出るので、
出るのが嫌だってなったらもうここから回避するしかないわけですよね。
フライですね。フリーズかフライですよ。
返答対応なんですね。
そんなにきついものではないかもしれないけどね。
数を絞ればいいって話ですから、贅沢な悩みともいえるわけですよ。
でも私はここは一つの課題であって、解決できないわけではなかろうと思うんですよ。
とはいえ、実際のところノープランは言っちゃうし、
言うからこそすごくノープランが良かったっていう人も出るわけだから、
ここでノープランを言わないという選択も微妙に回避的なんですね。
結構これは僕は考えるところだなと思っているわけです。
ところでそのノープランというのはなぜいけないのかと言いますと、
これは時間の節約ができなくなるからなんです。
私この日、Jさんがアジェンダ作ってくださったんで、
アジェンダに沿って喋ってはいたんですよ。
そう受け止められないぞっていう人もいらっしゃったかもしれないけど、
そこはスキルの限度ってやつで、
私のスキルが伸びれば必ずアジェンダに沿ってないはずはないんですね。
だってそういうように喋ったわけだから。
とはいえ、アジェンダがあるのにノープランとはなんだっていう話になるわけじゃないですか。
そんなのは到底受け入れられないっていう話になった時、
これはノープランというものが時間の無駄だという感じを抱かせているからなんですね。
ここでもう愛入れてないわけですよ本当はね。
私は時間に無駄というものはないし、そもそも時間ってない。
究極的には無駄にはしようがないはずなので、
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時間の無駄という概念自体が成立していないんで、
こうやって押し切ってしまってもいいんですけどね。
ここをちょっと説明していこうと考えたんですよ。
で、ふと閃いたワードがですね、
これが蔵野さんのような閃きというやつなのかもしれませんが、
不投稿なんですね。
不投稿という現実が目の前に来ましたと。
もしこれを聞いていらっしゃる方が不投稿で私も困っていて、
この話は辛いということであればですね、
それこそ見逃してほしい、聞き逃したなこの場合ね。
許すっていうかそういうことだと思うんで、
感化するってやつですね。
ただ見逃すって言っても見るもんじゃないからこれ聞くもんなんで、
聞き逃しですね。
不投稿という現実が目の前にありますといったときに、
全ての不投稿をよく知っている人たちの話を聞くと、
やっぱり蔵野さんが言う話と基本変わんないなと。
それはある意味フロイトが言う話と基本変わんないなと。
結局それユンクが言う話とも基本変わんないなと。
何ならお釈迦様はですね、
ブッダという話とも全く同じだなと思うんですけど、
要は不投稿といったものに対して私たちがついやってしまう、
最もある意味初心者ですね、
初心者的な対応ってのはどういうものかというと、
子供に学校行けっていう態度で接してしまうんです。
言うかどうかですね。
そう言うか言わないかともかく、
学校行けと、そして心の中で、
学校にこのまま行っている現実のほうが良い現実なのに、
今私はそうじゃない現実に対面させられていて、
この現実をとにかくどうにかしたいという態度になってしまうほど、
これは多分僕が言う最も初心的な対応だと思うんです。
これは、だからなってないとか未熟だとか言うんですよ。
もしうちの子が不投稿を始めたら、
初日の私が取る態度は絶対こうに違いないって思うんですよ。
だから初心者なんですよ、これは。
しょうがないんですよ、親やってる以上。
倉園さんの言うところの現実を、
そう言うのはイリュージョンですからって、
頭では考えますよ、絶対に。
だけどなかなかそこまでたどり着くにはつけないんですね。
やっぱり行くのが当たり前だから。
僕冒頭言いましたよね、社会は正義だと。
こういうところに出るんですよ、社会は正義だと。
もう少し余裕を持って考えられるようになるとですね、
これがもし娘がコロナの濃厚接触者ゆえに今日行かないだったらどうなるだろうと。
全くほとんど起こる現実は変わらないのに、
態度は全然一変するんですよ。
これが解釈ってやつなんですよ。
それは所詮物の見方でしょって人は言うんだけど、
所詮物の見方なんですけどね、
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所詮物の見方なんだけど、
態度がガラッと変わっちゃうから、
現実を変えてしまうんですよね、結局。
学校にあなたが行っているのが正しい現実だから、
今ある現実は全てモルアダプティブのモルっていう、
英語でMALかな、
MALっていうやつは非常に嫌な印象を与える英単語で、
窃盗時ってやつですけど、
MALなんですよね。
あってはならないことがあってしまっているみたいな、
そういう感じがする。
これがもう僕はダメだと思う。
一番まずい現実に対応し方だと思うんですよね。
この現実あってはならないのにあっちゃったみたいな。
これがもしコロナの濃厚接触だったら、
この現実はまるっと受け入れられるから、
ガラッと態度変わるんですよ。
でも元気な娘がそこにいて、学校に行っていないっていう、
何ら変わらないじゃないですか。
何ならその間も学校の授業はどんどん進んでいくから、
いわゆる勉強に置いていかれること、
遅れることが怖いならば、何にも変わらないんですよ。
コロナの濃厚接触でも不登校でもね。
コロナの濃厚接触だったら、中間期末の試験に対して
配点5プラスしてくれるとかないですからね。
不登校だって元気なんだから家でも勉強できるじゃないですか。
家で勉強しますよっていうお子さんも結構いらっしゃるわけですよ、今は。
何がモルなのかですよね。
何が異常なのか。
異常だという意味付けですよね。
ではその意味付けどこからきたかというと、
社会は正義ってやつですよ。
そのはずなんですよね。
ここから先はもう僕はないと思うんですよ。
ここまでだと思うんですよ。
社会は正義だから、これはあってはならない現実なのに
私はその現実に対応させられていて、
事実上どうしていいかわからないっていう状態。
ここまでなんですよ。
それはなぜいけないのって問われると
多分もう答えられないと思います。
ここら辺はもうカウンセリングの領域ですね。
それはなぜいけないのっていうカウンセラーが問う。
真剣にカウンセラーが
それはそれでありだっていうふうに思うならば
この問いは相当な意味を持ちますよね。
ここ考えたことがなかったってやつなんだ。
で、例えばなんですけど
あっちゃいけない現実に対応したときに
私たちはその現実に対応しないという態度にしかならないんです。
あっちゃいけないって。
これがまずいんですよ。
だってその現実はあるわけですから。
対応しない現実を目の前に置いて
そこから注意を完全に反らすような状態をずっと続けていると
その現実はまるごとそこに置き続けられるので
この不登校は多分続くんですよね。
続くから受け入れるように頑張ろうというところから始めるのが
いかにも初心的じゃないですか。
それを受け入れていることにならないんですよ。
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でも人間ってある意味すごいもので
こうやって受け入れていくことが理解できるようになるんですよ。
これどういうことかというと
つまり受け入れるべき何かというものが与えられているんだと
私はやっぱり思うんですよね。
そういう言い方をするといかにも真相心理的だし
精神分析的でもあるし
なんなら倉園さん的ではありますけれども
でも結局そういうことをみんな言うんですよ。
そこには何かがあるんですよね。
よく不登校というメッセージみたいな言い方をするんだけど
そこまで意図的に誰かのメッセージを発しているわけではないでしょうけれども
でもやっぱりそれはメッセージなんですよ。
だったら私が悪いのってみんな親は言っちゃうんですけど
そうではないってことなんですよ。
そうかもしれないですけどね。
何かとにかく伝えられるべきものがあって
何かが伝えられてきているわけで
それを無視したらずっと伝えられることになっちゃうわけですよ。
だからそこをやっぱり対応しなければどうにもならないと。
対応するときの大きなヒントの一つに
これがコロナの濃厚接触だった場合はどうなんだろうと
全く問題なく受け入れてしまう自分がいるとすると
そこには結局社会は絶対じゃないと日頃考えていながら
社会を絶対視している自分というのがいるってことですよね。
これも一つのメッセージの受け止め方だと思うんですね。
私は不登校の話がしたかったわけじゃなくて
これとノープランの受け入れられないというのは
全く同じことだと思うんですね。
ノープランというものは時間の節約に反すると
ほぼ逆転だと。
何故かプランをはっきりさせておいてくれて
今日しゃべることについてきっちり資料なり
Jさんが用意してくれたすごいスライドみたいなものを用意すれば
これに対してずっと集中して聞かずに済むってことですよ。
私がノープランでしゃべりだしちゃったら
ずっと集中して聞かなきゃならない。
この辺に面白さがあるじゃないですか。
そもそも集中して聞くには対しないかもしれない話を
そんなに時間が欲しいのに聞くってのはどうかとまず思うわけですね。
これを言うと元も子もなくなるんで
これは言えないんですけどね。
これを言わずにこれを伝えなければならないから難しいんですけどね。
30分。私はわずか30分でしたから。
これもあったんですよ。
集中して聞き続けられないはずはない時間なんですね。
でも集中して聞けないのは何故か。
これは非常に簡単なんですよ。
多くの人はここでそうは言わないんだけど
倉殿さんがここは言う通りですよね。
集中して聞くのは嫌だからですよ。
他の理由は一切いらないと思います。
集中して聞くには値しないんですよ。私の話は。
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だから集中しては聞かないことにしてるのに。
だから集中しては聞けっこないんですね。
だって自分でそうしているわけだから。
自由じゃないですか。集中して聞こうと聞くまいと。
おそらくそうだと思いますよ。
お母さんが見張ってるとかじゃないと思うんでね。
だから集中して聞く聞かないは自分の意思で決められる。
聞かないということは意識的に聞かないわけですよ。
これをしかし今の人たちは面白いことに聞けないと言うんですよ。
私たちには集中力がないと。
何なら発達障害だとか、軽度の自閉症だというのを持ち出してでも聞けないことにしたいんですね。
つまり、ここは面白いんですけど、私が悪いんじゃないと言ってるわけですよ。
意識的に聞かないんだと私はそう思うんですけれども、
そうではなくて、私の中の何かが、それこそモルで、
聞く、集中して聞くというのが発揮できないんだということになっちゃうんですよね。
わずか30分で、わざわざその時間聞こうとしているんだけど聞けない。
だから、アジェンダに沿った、プランに沿った話を、
何ならば喋る内容も全て資料として用意しておいてくださいといった話になるんですよ。
ここでノープランだって佐々木が言うというのが、もう本当に受け入れられない現実だから拒否する。
これは不登校の子供を拒否するというのと同じで、この現実はないものになるわけです。
でも現実としてやってくる。
とっても不愉快なので、何か書くとかそういう方法になるんだけど、
何を書くとかはこの場合もうほぼ全く重要じゃないですね。
この30分が空白になってしまうという、非常にだからある意味では諸子が貫徹されているんですね。
こういうところに言語的な世界ですね、現れますよね。
聞かないぞという意志はちゃんとこのようにして発揮され、
目的が達成されるわけですよ。
私の話なんか聞かないぞ、佐々木の話なんか聞かないぞという最初の意識はちゃんと目標を達成される。
ここでせっぽこはそれでいいんだけど、私はこれじゃよくないわけですよ。
ここを頑張らなきゃいけないなって思うわけですね。
だから一つにはスキルの問題と冒頭で言ったんですよ。
話をうんと面白くすれば聞かざるを得なくできると。
それができてないのは僕のスキル不足ですね。
ノープランがいいという話の評価の人が多かったので、今後ノープランをやめますというわけにはいかないんですよ。
それも恐れと不安による選択ですからね。
今後私の話が好きだという人だけにいたしますというのもダメなんですよ、私からすると。
やっぱりダメではないけどね。
これも恐れと不安ですからね。
恐れと不安はなぜいけないかというと、
この解決策がいかにもスマートなようにも見えるケースがあると思うんですけど、
24:02
いかにも安易だと思うんですね、この解決策が。
その安易な解決というのはどういう意味かというと、
時間の節約なんですよ。
さっきと同じなんですね。
結局資料とか、
例えばですよ、資料をきちっと用意して、
そういう要求があったわけじゃないですよ。
資料をきちっと用意して、それについてしゃべる。
極端な話、しゃべる内容はすでに書いてある原稿をよこせぐらいの勢いじゃないですか。
昔後で読むというのが流行ったんですけど、まさにそれなんですよ。
後で読むって、僕からすると大変安直な解決策なんですね。
大概後で読まないですよね。
なんで後で読むのを後で読まないのに後で読むということにするのかというと、
これも実に簡単で、読むに値しないからです。
絶対に読むに値するものならその場で読みますよね。
だから私はその場で読むか、二度と読まないかのどっちかにします。
これを言うと切立てきすぎて怖いって言うんですよ。
これはどういうことかというと、取っておきたいわけですね。
取っておきたいということは損をしたくないってことですよ。
私はそれは損をしていると思うんですけどね、完全に。
だけど損をしたくないわけですよ。
取っておくっていうのは万能の解決策だと思われているわけですよね。
つまり取っておくことによって相互に時間が節約できて、
本当に価値のあるものを後で読むわけですよ。
どうしてその時本当に価値があるかどうかがわからなかったのに、
わからなかったから取っておくわけですよね。
捨ててしまうにはもったいないかもしれないけれども、
今すぐ読むほどの価値は感じられないっていうわけですよね。
つまり判断できていないのに、
なぜ後だったら判断できるのかという大きな問題があるんだけど、
僕は考えていないわけですよね。
そうではなく相互に時間が節約できるのは良いことだっていう考えがここにあって、
ここで思考が止まるわけです。
つまり社会は正しいんですよ。
そうですよね。
相互に時間の節約が正しいってのは多分社会だと私は思うんですよ。
つまりここは不登校と全く同じになっちゃうんですよ。
一番安直な解決策は何かというと、
子供を無理やり学校に行かせることですよ。
こうして社会が言ってる通りに正しい現実を出現させるっていうのが一番楽なの。
あとは非常に学校を残すんだけど楽な解決の仕方なんですね。
これ以上の手間をかけるのは恐ろしいんですよ。
一つはそれがうまくいかないと自分の力量に対して自分が不信感を抱くから、
もう一つはそれによって多大な時間を浪費するから。
ここにも全く同じで社会は正しいがあるんですね。
お父さんとかお父さんでしょうね。
こういう時に力量を発揮して子供をうまく学校に誘導してあげるのが正しいお父さん像だっていうのがきっとあるんですよ。
これに不信感を抱くのは社会の目がなければ必要が全くなくなることだと私は思うんですね。
だって子供がいても本当は嫌なのかどうか疑わしいですからね。
27:00
さっきのコロナの濃厚接触だったらOKって話になると、
完全にこれは体裁の問題になってくるじゃないですか。
社会なんですよね。社会ですよね体裁というのは。
もう一つの時間の浪費なんかはもう本当にそうだと思うんですよ。
子供に時間をかけすぎることが怖いなんていうのは、
どっか自分以外のところに基準点がなければ意味が全くない話をしているように私なんかには聞こえるんで、
つまり子供だけが問題だって言うんだったらここは問題じゃないと思うんですよね。
やっぱりこれ社会は正義だって言ってるんですよ。
これくらい社会という方向に言ってみれば旗を振っているにもかかわらず、
自分は社会の言いなりになっていないって思えるのが私たちなんですよ。
僕はこういうところに第2領域とかも全部出てくると思うんですよね。
くしくも100日チャレンジのアンケートなりでやっぱりあるんですよね。
第2領域というものの話をしている時の私の話はなんか煙に巻いているような感じがすると。
そうじゃなくて第2領域というのはもっと充実した時間とか将来に向けての投資とかの話をしているのであって、
私が言っているような仏教的な時間感みたいな話は正しいのかもしれないけど釈然としないと。
これは全く社会は正義だってことなんですよ。
成功とか充実した時間が大事というところで価値観が決定されているんです。
これが良い悪いの話ではないんですよ。こういう時よく言うけどね。
良い悪いの話ではないんですよ。社会が正義だって良いじゃないですか。
全くそうじゃなかったら困りますよね。
だけれども、私が話を社会は正義で止める必要はさらさら感じていないから、私はもっと先まで行っちゃうわけですね。
もう少し考えたいと。なぜならば社会が正義とは限らないからね。社会が不正義だって言っているわけじゃないんですよ。
だけれども、英語の勉強したり将来に投資するのは正しいでしょうと言っているのは私じゃない感じがするんですね。
私の中では全く明らかに頑固なり非常に社会派寄りの人たちが言ったのをある程度受け入れた私なんですよ。
そういう価値観を全く信じない私だけがいるわけじゃないですよ。
だけれども、語学の勉強って言ったって多分中国語とか英語とかでしょう。
ここでウクライナ語とかロシア語とか投入してくると話が一気に難しくなってくると思うんですよね。
それは社会は正義のところでどうやって止めるかっていう問題と抵触するからですよ。
何が正義なのかっていうのはその社会によって違うじゃないですか。やっぱり。
だから何語を学ぶみたいな話にしても何語でもいいわけでもないんですよね。
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ここでラテン語だったらどうかって話が出てくると僕は思うんですよ。持ち込めばですけどね。
だからこれは必ずしも別に仏教的なって話をしてるだけではないんですよ。
むしろどうしてそんなに社会は正しいんですかっていう話で一石投じられると思っているだけなんですね。
別にだってプランガチガチで行ってもいいわけじゃないですか。
でもプランガチガチで行くということはアジェンダ通りの話をするってことじゃないですか。
アジェンダ通りで資料を後で読めばいいってことはつまり僕がその時喋らなくてもいいってことじゃないですか。
というような資料が欲しいということは僕の話をやっぱりはしょって聞きたいってことですよね。
一応役に立つ部分だけを聞きたいと。つまり時間が無駄だと。そういう話になってるわけですよ。
これぐらいアンビバレントな、役に立つか立たないかわからないから資料だけもらうぐらいにしておきたい人の話なんだけど
得する部分を聞き逃すと損になるからとりあえず聞いておきたい、後で読みたいっていうこのレベルのところにもかかわらず
そんなにこだわるということになると、こだわった分だけつまり何をしたいかというと時間を浮かせたいわけですよね。
その浮いた時間というもので何をするんですかね。
つまりいろんなところでその時間に向き合いたくないわけですよ。究極的には。
注意を払いたくないというのと向き合いたくないのは全く同じことですから。不登校の話がいい例ですよね。
向き合いたくないわけじゃないですか。それに注意を払うような、そういう現実ではないと。
そういう現実ではないというところで時間を節約する。時間の節約というのが常にいいことならば
そういうところで向き合いたくないというところがあらゆる時間に適応されていったら
向き合いたい時間というのはどういう時間なんだという話になると思うんですよ。
その時に出てくる本当に向き合いたい時間はこれなんですというのが
もしあると言うならばなぜそっちを先にやらないんでしょうね。
ここが一番僕は面白いところだし考えどころだと思うんですよね。
僕の話なんか聞いてないで資料をもらう時間だって惜しいから
その本当に向き合いたい時間に向き合ったらいいと思うんですよね。
一番最初に何をされても。
ところが多分それは無理だって言うんですよ。無理だって話になる。
なぜならば他の時間に要求されているいろんなことがあるから
それらを向き合いたくはないんだけど
佐々木は例えば日曜の4時なんかに開始するって言うから
そしてそっちが全部優先されるんですよ。これは何なのかと。
それは結局他人の都合が優先されているわけじゃないですか。
これは私は時間の節約の話をする人に
第二領域でも同じなんだけど
33:01
ぜひ絶対ここについてはもっとはるかに真剣に考える価値もあるし
そうしないと一生そういうことを続けていなきゃいけないんじゃないかと思うんですけど
他人の都合を優先しているわけですよ。これは。
他人の都合を優先するというのはどうしてかというと
社会が正義だからじゃないですか。
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