1. グッドモーニングボイス
  2. 【GMV 359】甘えとは相手に好..
2021-04-15 40:27

【GMV 359】甘えとは相手に好意を持ち続けること

よく逆に考えられていますが、逆ではないわけです
00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
たぶんですね、グッドバイブスファクトリーというオンラインコミュニティを、
クラザノケイゾーさんと運営しているんですけど、
この中で、毎日グッドバイブスであるために、
最近クラザノさんが朝一番に投稿されている記事があったりするんですね。
それは私も毎朝一番最初に読んで、一日それをやろうとしてみるんですけど、
だいたい早々に10時半ぐらいには失敗してしまうんですが、
例えば攻撃を一切しないとか、あるいは脳内で会話をしないとか、
そういうやつがあるんですよ。時計を見ないとかね。
10時半ぐらいにといったのは時計なんですけどね。
10時半ぐらいに見るんですよね、僕は1回。
というようなものがあったり、あるいは私が一応週に1回ですね、
グッドバイブスにまつわる心理学の用語、週みたいなものをアップしたり、
もちろんコミュニティの皆さんからのご質問とかお悩み相談には随時答えております。
倉園さんは夜型で、私は普通の時間帯に起きているので、
だいたいどっちかが半日の間に対応すれば、あるいは1日またいだとしても
どちらかが対応すると24時間体制に一応なるという、
実際には倉園さんはすごい早く起きていればですが、
大量に書いてくださるので、24時間体制というのはもう全然守られている感じなんですが、
あと、ぶっちゃけ相談ってあります。YouTubeの。
あれをもう少しですね、私がグッドバイブスについてうまくできなかったりしたところを
倉園さんに答えてもらうという動画も配信されていたりして、
今、多分ですね、近日中にプライスオフをすると思うので、
よろしければチェックしてみてください。
いずれにしても1ヶ月無料体験というのができるので、
これ聞いていらっしゃる方で入りたいという方は多分すでに入っていらっしゃる気もするんですけど、
初めて聞くという方もいないわけじゃないと思うので、
毎日必ず再生数が変動するというですね、平均はいつも同じなのに再生数は変動するという、
当然と言えば当然だけど実に面白い現象でもあるので、
よろしければどうぞということですね。
グッドバイブスファクトリーです。
03:01
公式サイトの方から多分すぐ見つけられると思うし、
コミュニティそのものはFacebookグループで運営されています。
昨日その収録があったわけですよ。
TVとグッドバイブスTVというのとぶっちゃけ相談ですね。
この収録は私にはグッドバイブスの方向性を再度整理し直すのに大変いいんですね。
そういう目的でやっているわけではないですけれども、
僕にとってはそういう効果が上がるわけです。
昨日いろいろ思うところがあったんですけれども、
その中でですね、甘えるということについてもう少し言及してもよかったかなと思ったので、
その話しようと思います。
この甘えるというのはですね、母親との関係というのを絶対に持ってくる必要があるんですけれども、
今日その話までするとすっごいややこしくなりそうな気がするので出ちゃうかもしれませんが、
できればその話は明日以後に回したいと思うんですが、
まずそもそもこの甘えるというのは、
今私ちょっと本を書いているんですけれども、
その本の中でも一番言及したいことなんですけれども、
現在大変否定的にされているんですね、甘えるということが。
もうそれは甘えだよって言われることをかなりの人が恐れるようになりました。
この番組でも散々持ち出しているドイン・タケオさんの甘えの構造の中では、
甘えるというのはもっと遥かに肯定的だった時代があったことについて、
というかその遥かに肯定的な時代の話をしているんですよ。
だからあの本を読むと、私も最初読んだ時そういう印象になっちゃったんですけど、
すでに甘えの意味が逆転しているので、
甘えの価値だな、評価だ、意味は逆転していないんだけど、
価値が逆転しているのですごい分かりにくかったんですよ。
そういう印象を強く持ったんですけど、今ますますだと思うんですよ。
だからもう今あれほどのロングセラーだけど、
多分あんま売れなくなってきているんじゃないかと思うんですけど、
あれ読んでもですね、意味分かりにくいと思うんですよね。
一体甘えはいいのか悪いのか、そもそもそういうふうに思うこと自体が、
あの本が書かれている時代とは違うわけですよ。
甘えは悪いに決まっているだろうと思っている人からすると、
あの本の意味ってさっぱりだと思うんですね。
難しいことは特に書いてはいない、難しいところもありますね。
でもそんなに難しくないのもいっぱいあるんだけど、
全部難しくなってしまうんですよ。
あれ甘えが悪いものだと、あれ甘えはいいことだという前提で書かれてますから。
で、そのいいことだなんですけど、
どうやって甘えを定義しようかというまずことがありまして、
06:02
昨日思ったことはですね、甘えというのは、
つまりは相手のことを嫌いにならないという確信なんです。
つまり自分が誰かのことを好きになり、
これはもう永遠に変動しないぞということが甘えなんですよ。
多分これ、まずそもそもここが逆になっているような気がします。
甘えとは相手が自分に好意を持っている、
これ実は相互なんですけれども、
ただ私は突き詰めるとですね、
自分の主観からすれば自分が相手に好意を持っていて、
それを揺らぐことがないという意味でしか捉えようがないなと。
なぜなら相手の好意に関して絶対の確信とかは持ちようがないですから。
ここが非常に難しくなってきたのが、
大変現代的だとは思うんですけれども、
現代だろうと、古代だろうと、古代はないけど、
戦後間もなくぐらいだろうと、この点変わらないと思うんですよね。
自分が相手に対して好意を持っており、
その好意は相手次第ではないということですね。
そうなると、クラズノオさんがグッドワイブスで信頼と言っているのと
ほぼ変わらないものになってしまうんですけど、
まさにそういうことなんですよ。
というのも、有名な人で言うと、
有名と言ってももうあんまり知られていないけど、
エリック・エリクソンという人がですね、
赤ん坊が最初に考えなきゃいけないことは、
外界に対する絶対的信頼を持てるかどうかが
最大の問題だというふうに書いているのがあるんですけど、
あれと精神分析の世界でよく言う、
プライマリーラブとか言うんですけどね、
一時愛とか、一時ナルシシズムも近いかなと思うんですけど、
とにかく一時愛、つまり原初の愛みたいな、
母親への愛ということになるんだけど、
これとほとんど変わらないんですよね、
絶対的信頼と一時愛というのは。
規定になるみたいな言い方をします。
心の一番底にあるべきものであるみたいな。
これが村園さんのGood Vibesで言う信頼と同じ。
まさに信頼という言葉が、
もちろん英語なんて元は信頼という言葉じゃないけれど、
日本語に訳すと信頼と訳すより他にないものです。
ここで多分ですね、
さほどつまずかない人とひどくつまずく人に
まず別れるということなんですね。
好きになるかどうかは自分次第なのか。
突き詰めるとですよ、
好きになるというのは自分次第なのか、
それとも相手次第なのかというところに行き着くんですよ。
絶対相手次第だという話ってあると思うんですね。
だって相手がひどいことをしたら、
その人を好きになっていられるはずはないじゃないかと。
09:00
こういう議論があるわけですね。
ところが甘えというのはですね、
そうであったら成立しないと思うんです。
つまり私よく思うんですけれども、
私は娘に甘えてるなと思うんですよ。
倉園さんにもそうだし、
大橋哲夫さんという仕事をやっている人もそうなんですけれども、
私は彼らにも甘えてるなと思うんですよ。
娘には特に甘えてるなと思うんですけれども、
これってどういう意味なんだろうと。
それはつまり娘の態度次第とか以下にかかわらず、
自分は娘を嫌いになることはないということなんですよ。
これを甘えと言うんですよ。
なぜかというと、結局それはもう少し緩くなってしまえばですね、
結局それは娘は自分に悪くはしないだろうというような
見込みを含んじゃいがちですけれども、
どこまでも切っていくとですね、
どこまでも切っていくと、
やっぱり赤ん坊の母親に対する態度ってそうなるしかないと思うんですね。
何があろうと母を信頼する。
だってそうしれるしかないんだからということなんですよ。
母が信頼に値しないとなったら自分はもう死ぬんですよ。
つまり信頼か死かなんですよ。
そしたら信頼取りますよね。
あらゆる生き物はそうすると思うんですね。
信頼するのか死ぬのかってなったら信頼取るしかないんですよ。
これを甘えと言うんですよ。
相手次第だっていう言い方をするってことはですね、
自分は正しく判断でき、相手なしでもやっていけるぞっていう何か条件を要するんですね。
ここで一気に難しくなってしまう全てがですね、
ここで難しくなるからこそナルシシズム、一時じゃないやつですね。
一時愛とか一時ナルシシズムとかじゃなくて、
いわゆる自己愛と日本語で言うやつが出てくるしかなくなる。
出てくるしかなくなるってマイケル・バリントっていう人が言うんですよね。
出てくるしかなくなる。
母が本来は何でも絶対やってくれるはずの母が母じゃなくてもいいですよ。
父がでも。
ケアギバーみたいな、最近ちょっと前に流行ったやつですね。
とにかくケアしてくれるべき人がしてくれないと言うんだから、
無理やりでも自分で自分愛するしかないでしょっていうのがナルシシズムだと。
という話があるんですね。
ここに入ると一気に話が難しくなるんですよ。
まず信頼でき、信頼じゃないんですけど、
つまりこの人は自分が好きになっていいのかどうかを見極めなければいけない。
ここで初めてですね、甘えというものが本来無意識であるべきものなのに
意識化されてしまう。
甘えていい人なのかどうかを判別する。
もうこれ意識化なんですよ。
12:00
そうすると自意識で甘えるのですごく変なことになってしまうんですね。
あなたが私を良くしてくれるなら私はあなたを好きでいますよみたいなことを表明しなければならなくなります。
これを表明してみると分かるんですけど、とってもぎこちなくなるはずです。
本来これは言わなくていいことを言わなければならないから、ここには強い不安がありますよね。
この不安って解消されないじゃないですか。
たぶん何か自分が好きになっていないから、
解消されないじゃないですか。
たぶん何かいざこざがあったりした時にこの種のセリフが出たり出さなければならなくなったりするわけですよね。
人と人との関係でちょっとエモければですね。
エモいって言うんですよね、最近ね。
あれだ、サービスとかのことを考えればいいと思うんですよね。
この会社のこういうところが嫌だみたいなことを言い出すとですね、
すごくですね、話がややこしくなるし難しくなると思うんですよ。
私で言えばそうだな、デジタルノートでもなんでもいいんですけど、
こうなっている限りは信頼するが、こうなったら好きではなくなるみたいな、
普通そうですよね、会社のサービスとかは。
だから見極めというやつが必要になるんですよ。
本来はでも基本的に私たちは甘えるものなので、
好きになるということは何かがあっても好きであるということを含むはずなんですね。
何かがあったらたちむし嫌いになるというのをとことん厳密にやればやるほど、
とことん厳密にやるほど良いっていう風に言う人もいるんですが、
これとことん厳密にやればやるほど、多分相手から見るとクレームぽく見えるんですよ。
だからクレームって非常に面白いんですよ。
クレームを出すというのはひどくある意味甘えているように見えるんですが、逆なんだと思うんですね。
クレームを出すということは甘えられていない証拠なんですよ。
子供が母にクレームを出しているということはもう間違いなく甘えられていない証拠ですよね。
多くの場合それはダダをこねるとかそういう表現になるんですけど、
これってつまり甘えが十分満たされていないとどいたけおさんなんかが書くわけです。
もっとこうしてくれないと困るよって子供が親に言うっておかしいじゃないですか。
だから子供はダダをこねる理由がないんですよ。
これとよく似たことが起こってしまうんですね。
多分、ダダをこねている子供はつらいんだと思うんです。
クレームを出している人もつらいんですよ。
甘えられているという状態は非常に心安らかな状態なんで、甘えられていてつらいってことはありえないことなんですね。
甘えられていないというときにつらくなるんですよ。
15:01
このような恩者のこのような姿勢は私には到底受け入れられるものではありませんみたいな、
表現がどれほど丁寧であろうと罵倒を浴びせるものであろうと、
この雰囲気というのは持っている雰囲気が、
例えばそれを担当の会社の人が見ればドキッとすると、
慣れている人ならドキッともしないかもしれませんけど、
少なくとも好感を持つ人は少ないと思うんですね、それを見た瞬間に。
なぜこれが行われるかというと、
もちろんそれはその恩者の姿勢そのものが本当に問題があるというケースもある。
ここでもう議論が起こるじゃないですか。
でも体内の場合はそういうことよりも何よりも、
その人が甘えるということに慣れていないために、
その会社を信用できないと。
信用できないと何をしなければいけなくなるかというと、
正さなければいけなくなったり、
本来するべきサービスになるものを会社に提示しなければいけなくなるんですね。
私はこういうことで不満に思っているんですと。
つまりこれをもっと原始的というか子供っぽい言葉で言い直すならば、
このままではあなたのことが嫌いになりますと言っているんですよ。
私はあなたを嫌いになりたくありませんから、
嫌いにならないようにしてくださいってこういう要求なんですね。
これを多分この言葉の持っている雰囲気がクレームというときに必ず伝わるんだと思うんです。
そうすると普通はどっちが正しいのかという議論に多分なると思うんですよ。
どっちが正しいのかという議論はどうやるかというと、
みんなはどう思っているかという話になるんですよ。
御社の姿勢とか御社のサービスの対応の仕方というのは、
みんなはどう思っているんでしょうという話に多分なるんです。
本当はそんなことはどうでもいいんだけど、
ここで私はあなたのことを嫌いになりたくありませんと表現するのは相当妙な感じになるので、
どうしてもこの世論一般ではどうなんでしょうみたいな話になるんですよ。
予報区考えてみると、子供が親に対してあれこれ難しい話をしだすときってこれと同じことが起こると思うんですよね。
みんなは買ってもらってるよとかそういう話するじゃないですか。
他の家ではどうなのかと。
どっちが正しいのかと。
甘えさせてくれない子の状態が正しいのか。
それとも甘えされるという要求を通そうとする自分が正しいのか。
この段階で甘えられていないんですね。
ここが問題になってくるんだということなんです。
もし子供側が親を100%このままでは嫌いになりますみたいなことが絶対に起こらないとすればですね、
それは人間関係なんでいろいろとごちゃごちゃすることがあるにしても、
18:03
こういう話に本当のところならないんですよね。
今のところ幸いにもうちじゃなんないんですね。
で、なんないということを考えてみたときに、
なんでなんないんだろうって思うと、やっぱこれしかないんですよ。
他の家でどうなってるかとか、先生はどう言ってるかとか、
他の子はどういうふうにされてるかとか、一切関係なくなっていく。
どうしてかというと、自分次第で全部決定されるからなんです。
相手を好きかどうかは。
相手次第じゃないからなんですよ。
相手次第だということになれば、
他の親はこうしてるんだからあんたもそうするべきだっていう、
これ相手次第なんですよ。
子供から見たときに親の対応次第で親が好きでいるか嫌いになるかが決するのであれば、
親は対応を変えるべき理由を子供の側は見せる必要がありますよね。
だから他の親はこうしています。あんたもそうするべきです。
だから他の親はこうしています。あんたもそうするべきです。
っていうのを子供らしく表現するわけです。
これを会社に何かを出すときには、その顧客らしく表現するわけです。
でも言ってることはいつも同じで、
このままではあなたのことが嫌いになります。
あるいは私はあなたのことが嫌いになりそうです。
っていう表現なんですね。
これはつまり甘えが不足してるんです。
甘えが不足してるというのはつまり、
自分が相手に対して絶対に好きでいますという
その気持ちが不足してしまっているんです。
で、こういうことはでも起こるではないかというと起こるんですよ。
必ず起こるんです。
だけれども起こったときに2つ態度があって
しかも多分2つしかないんだと思うんですよね。
っていうのが最初に申し上げたあれですよ。
自分が相手を好きであるのは相手次第で決まることなのか
自分次第で決まることなのかということなんです。
で、ここがですね、どうしても最初の
一番最初のエイクソーの言った絶対的信頼というものを
経験するのが難しかったり、これ虐待とは限らないんですよ。
すぐ私たちは子供が母親を絶対に信頼できないと言ったとき
虐待って話になりがちなんですけど、虐待とは限らないんですよね。
例えばそのときたまたま母さんは何か病気になって
子供の面倒を見られなかったということもあり得るわけですよね。
他にすぐすぐに1年と開かずに次の子が生まれてきた
これもあり得るわけです。
この手のケースは結構言われます。
私2歳のときに妹が生まれてるんですよ。
やっぱりそういうことを思い出すんですよね。
子供が年になってようやく思い出せてきてることが
出てくるんですけれども、なるほどなと思うんですよ。
だってそりゃ当然じゃないですか。
今まで一心に自分のケアをされていたのに半分になるわけです。
実際に半分以下になるんですよ。2歳児ですよ。
21:03
突然それが起こる。
でも2歳年下の弟妹がいるって人いっぱいいますよね。
大体そのときのことって不思議と4歳の頃以降の記憶が
大体の人はありますが、遅くとも6歳以降大体ありますが
2歳の頃の記憶ってないじゃないですか。
でも妹弟生まれたときのってあると思うんですよ。
ここにですね、トラウマっぽいものが入ることって
多々あるんですね。
生まれて初めて親にクレームを出したという自覚があるのが
2、3歳であるということは少なくないと思います。
そのときなんか起こるんですよね。
私の場合は典型的に妹が生まれたと。
妹が生まれたということがどういうことなのか
当時わかるはずがないんですが、
自分へのケアが半分以下になると。
あるいはこういうことが起こりますよね。
今まで自分のケアをしていたのはほぼ当時そういう時代ですから
今からもう50年くらい前ですから。
母親だったけど突然父親になったと。
父親になったと。
私、未だに覚えていることがあるんですけど
これはもう2歳とかじゃないですけど
ずっとそれまで床屋さんで女の人が来てくれてたのに
突然おじさんに来られて泣き出したという記憶がある。
あれ5歳くらいかなと思うんですけどね。
少なくとも3歳とかではないんです。
私3歳の頃青森にいたんですが
4歳以降、朝霞に引っ越してきていて
その床屋さんは朝霞にある床屋さんなんで
そのおじさんとは大変仲良くなったので覚えてるんですけど
最初めちゃくちゃ泣いたんですよ。
そういう記憶があるんですけど
そういうことが起こるんですね。
その床屋さんは別ですよ。
たまたまの話です。
だけど母親の世話しか受けてこなかったような子が
唐突に父親の世話に切り替わるみたいな時に
当然上手くできないじゃないですか。
父親などというのは。
その当時は特にやり慣れてなければ。
だからいろんな問題が発生するわけですよ。
父親酒飲んだりもするしね。
あの当時お母さんは酒飲んでなかったりもしてましたから。
そういうこともあるわけです。
この辺のことは全て
今の男女問題と家事育児問題とも絡むんですけれども
それを一旦一切考えずに
子供側の視点から考えた時にですね
そういうクレームを出したくなる心理というものが
発生するわけです。
ただその前に2歳でそういうことを経験するのは
大変良いことだと思うんですよ。
0歳の時にそういうのを経験すると
かなり厳しいことになる。
なぜならばそういう発想自体を持ち得ませんからね。
もうわからないわけですよね。
何が起きているのか一切さっぱり。
つまり記憶が一切ないレベルの時にそれが起きると
その後絶対的信頼を置くというのは
そもそもどういうことなのかが
よくわからないということになるわけですね。
24:00
で、今の時代の難しさは
絶対的信頼を置くべきではありませんという
処生術みたいなものが
かなりそれなりにですね
市民権を得ているところまで来ているので
難しくなっているわけですよ。
この最大のポイントというか
そうですね、そう言っていいと思うんですけれども
何が違うって
この甘えられることがいかに楽かってことなんです。
多くのケースで言われているのはこの逆のことです。
特に甘えそのものが逆転しているので
もはや甘えをこの文明で使うことも難しい。
信頼と言った方がいいのかもしれません。
そういう意味では。
信頼に関しても同じで
条件次第で信頼した方が
自分にとって有利である。
この有利。
有利であるということは
そうした方がいわば
効率的に生きられる。
人生の質を上げる。
楽に生きられる。
幸せに生きられるというような意味になると思うんですけれども
そうは決してならないと
精神分析、グッドバイブスもそうですが
言うのは非常に妥当だと思うんですよ。
絶対的信頼を人に置かないという生き方は
とっても厳しい生き方になっちゃうんですよ。
そういう生き方は普通の人にはまず無理だから
精神分析では繰り返し繰り返し
この絶対的信頼というものを強調するんですね。
どうしてもここで
特に男女同権的に
長い歴史があるんですよ、精神分析は。
やられてきたし
戦ってきたと言ってしまえばそういうことになる。
とにかくディスカッションの長い歴史があるんだけど
ここをどうしても譲ろうとしなかったのは
たぶんこれ抜きで生きるとは
とっても厳しいことになり
だいたいいい結果を生まないという
経験値に近いものですよね。
そういう歴史があるものだから
つまりですね、カウンセリングを受けている人たち
精神分析を受けている人たちは
みんな知っているわけです。
ここは欠損している。
マイケル・バリントが書いた言葉を使うと
そのままになります。
既定欠損状態って言うんですよ。
これを治療するべく
全力を挙げてきたような歴史があるんで
ここが最初からないというのは
市民権を得始めるというのは
たぶんこの種の側からは
同意できない話なんだと思うんです。
絶対的信頼を置くと
だってですね、お母さんにせよ
ケアギバーにせよ
お父さんにせよ、いいんですけど
生まれてきたところのその両親が
信頼に値するかどうかなんて
分からないじゃないですか。
というか、うんじゃないですか。
それはもう完全に。
でも赤ん坊はそうは言ったって
そこを信頼するしかないわけですよね。
アルコール中毒であろう、依存症ですね。
27:01
今で言えば依存症であろうと
極端に言うと薬物依存であろうと
その親を信頼するしかないんじゃないですか。
既定的に信頼するしかないということは
結局同じことになるんですよね。
サービスであれ、人であれ
成人後の人であれですね。
あなたのことを絶対信頼します。
私の方から嫌いになることはないです。
という、あれ、それですね。
で、この状態が上手くいく状態を
作り出せないのであれば
生きていくこと自体が
大変無理になってくる。
にも関わらず
いやいや好きになると相手次第です。
相手が良くしてくれるから好きになるんです。
相手が良くしてくれないんだったら
あるいは相手が自分を気が付かないところで
自分に対して不利益を感じて
自分に対して不利益を葬らせるような人ならば
距離を置きましょうという話になってくるとですね
まずそれは親に対しては不可能ですよね。
それと見極めなければならなくなりますよね。
見極める能力がないということは
悪いことだということになってしまう。
子供はそもそも無理ですよね。
こんなこういう
ちゃんと子供を育てる責任を
持っていない親のところを
見極められずに自分は生まれ落ちてしまって
大変失敗したという罪悪感を持ったら
持ってられないじゃないですか。
そんなことはあり得ませんけれども
子供がそういうことを生まれ落ちて考えることはあり得ませんが
結局それに近いことを大人になって
一生懸命やらなきゃならなくなるわけです。
こんな会社のデジタルノートに
いっぱいノートを作ってしまった
自分が失敗したんだと
見極める能力が足りなかったとか
そういうことを一つ一つについて
検証していって
しかもイリュージョンを全部廃していって
正しく判断できるのかというと
僕には絶対できる気がしません。
しかもそれをずっとやり続けて
生きていくのが幸せだと言われても
なんかものすごく神経使う感じがして
えらい疲れる感じしかしないんですよ。
だから一心気巻き直し言うんですけど
マイケル・バリントンはですね
要は信頼というものをし続けるということ
繰り返し繰り返しそこでやり直し続けると
これしかないんだというようなニュアンスがあるんですね。
もし規定が欠損されているんだとすれば。
そうだと自分も思うんですよ。
これは欠損されてなくても同じだと思うんですよ。
現に私考えてみてそうなんですよ。
母親に関して絶対嫌いにならないかというと
絶対嫌いになることはないなと。
なんでなんだろうと思うと
自分次第としか答えようがないんですよね。
母親がこうしたからああしたからとかいうのは
ナンセンスな感じがします。
そこに条件を持ち込んでみても
いい条件なんてそんなにボコボコボコボコは出てこないんですよ。
30:00
悪い条件も結構出てきます。
そんなにひどい育てられ方はしてないんですけれども
出てこないわけではないです。
だからここを考え始めると
非常に厳密になってしまって
たぶんそもそも無理な挑戦を始めることになってしまう。
結局どうしてもですね
クレームじみたものになってしまうんですよね。
あなたがこうしてくれないならもういいですみたいな
そういう表現になる。
もしこういう表現を取るのならば
結局のところはあらゆる人に
対してそういう表現とそういう態度と
そういう基準を考えていかなければならないじゃないですか。
私が嫌だと思ったんだからあなたは悪事をしたっていう論法というのかな。
なんて言うんですかねこれは。
自分軸とかって言われるんですけど
そうは思えないんですよね。
何かこうすごく厳密な尺度みたいなものが
必要になってくると思うんです。
そしてたぶんそれを聞かされて相手はギョッとするんですよ。
私の今までの経験からして全部そうだったんですよ。
ギョッとするんですね。
そういう基準がこの世にあるのかと思ってしまうんです。
なぜならばそれは結局主観側の基準なので
相手からは決して見えないものだからなんですね。
よく考えてみなくてもそうなんですけれども
これはもう精神分析の世界で山ほど出てくる
非常に面白い事例なんですけど
例えば赤ちゃんにしてみると
お腹が空いたという段階ですでにトラウマ者だと
これも議論の余地はあります。
ここでどうしても男女同権的な話になるんですけれども
赤ちゃんがおっぱいが欲しいけれども
その時お母さんが洗濯物をしてます。
絶対ありますよね。
これなんですよ。
クレームとはそういうものだってことです。
赤ちゃんはクレームを出します。
だってそういうことがあっちゃいけませんからね。
そのまま放置して自分死ぬかもしれないじゃないですか。
まず立つことができない。
食べ物を探すこともできない。
はいはいもできないんですから。
首も座ってない。
何にもできないんですよ。
差し出されるということが
しかも自分が泣いてたらですね
ベルを鳴らしてたらですね
すぐすっとんでくるべきなんですよ。
母親は。
そういう観念すらないですけれども
とにかく泣き、おっぱいが絶対出てくるものだと
確信して待ってる。
これ以外何にもないんですよね。
でも出てこない。
何か洗濯物やってると。
そういう認識もないですけどね多分。
そうすると激怒する。
こうなりますよね。
で、この後でくればそれでいいんですよ。
こうして絶対的信頼というものが
獲得されていくはずだという理屈になっていて
そうでないときには
33:01
つまりひたすらクレームが出ると。
主観側のそれは勝手な意見ですよ。
そもそもお腹が空いてるのか
おしめが不愉快なのか
その他もろもろどれだかすら分かんない。
分かんなきゃダメだって言うんですよ。
赤ちゃんの方。
非常に何かに似ているじゃないですか。
俺が不愉快になったと
このデジタルノートを使って不愉快になったと
どうしてくれるんだと。
同じですよね。
子供っぽいと言われるとそうなんだけれども
つまりそういうことなんだと思うんですよ。
ここで正しさの話に持ってっちゃうんですよね。
私たちは。
いやいや、俺が子供っぽいんではない。
ここでノートがドラッグ&ドロップできなくて不愉快なのは
ユーザー1万人中9900人の意見である。
こういう話になるじゃないですか。
これが正しさということですよね。
なぜこういう話をしているのかというと
自分が不愉快な目にあっているということは
許されることではないからですよね。
これが許されることであるということになるためには
ユーザー1万人中
実は私1人しか言っていませんから納得しました
という話には絶対ならないんですよ。
多くの場合。
納得できないですよね。
なぜならこれは甘えの問題だから。
心理的にはそうはならないと思うんです。
赤ちゃんは絶対そうならないじゃないですか。
他の子はみんな我視しているから
僕も我視しても大丈夫。
現にそういう時代あったはずなんですよ。
そうは絶対赤ちゃんは
考えられないと思うんですね。
どれほど家には食べ物もない。
村にもない。
一体全く食べ物がないという時には
そういうことになっちゃうんだけど
それで納得するわけにはいかないですよね。
デジタルノートも同じだと思うんです。
1万人中クレームを出しているのは
私だけだが
このクレームは絶対に正しいというのが
その人の感情なんだと思うんですよ。
この問題は解消されることは
多分ないと思うんです。
そのような機能は
おそらくそんな状況では
実装されませんから。
どういうことになるかというと
こういうことになると思うんですよね。
でも私はこのサービスを
嫌いになることはありません。
これしか心安らぐコースって
ないんじゃないかと思うんです。
他の何人が
これを実装望んでるとか
望んでないというのは
現実社会では
そういう話にします。
そうしないと
どうにもならないですからね。
でも現実社会では
そういう話にしますけれども
そのことと
この甘えの問題の解決というのは
また別のものだということです。
もちろんサービスであれば
離れることができるし
大体のサービスに行くこともできます。
つまりそれが
社会的な対応というやつなんだけれども
これを
自分の経験においても
そうですけれども
36:00
情緒上
つまり
本来の人対人とか
人対会社の中で
持ち込んだら
ダメなんだと思うんですよね。
つまり相手次第であるべきだ
というのは
やっぱり私には限界があるというか
最初から無理があるという風に思うんです。
相手次第じゃないんですよね。
つまり相手次第だったら
離れることができないです。
だって相手次第ですから。
それは
結局のところは
裏切られる可能性というわけですよね。
裏切られるという表現は
この場合不適切だと思いますが
裏切られる可能性
ゼロにはできないですよね。
そもそも会社倒産するかもしれません。
つまり親だったら
いなくなってしまうかもしれない。
それはゼロにできないんですよね。
だから本来
根源的にそういう風になってないはずなんですよ。
この前の問題というのは。
だから甘えるというのは
定義上
自分が相手のことを
好きであり
永遠に嫌いにはならないというか
条件次第で嫌いにならない。
相手の何かによって
嫌いにならない。
ただこれはですね
多くの場合
この話をしてしまうと
非常に極端なケース
今回もそうでした。
でもそういう話を
精神分析でもします。
お母さんがあるいは
その養育者が
虐待的であるとか
サディストだとか
話します。
それでもかなのかって話を
したいからなんだけど
本当はそうじゃないんですよ。
本当はさっき言ったみたいに
洗濯物にちょっとかまけていてとか
そういうことなんですよ。
現実的には。
そして私たちはよく
前回
早々と200円が
落とされていたけれども
早すぎるのではないかとか
そういうことなんですよ。
実はとても些細なんですね。
ものすごくでかいことだとは
思えないんですよ。
何があろうと
これは自分の娘とかだと
何があろうとになるから
結局何があろうと議論でも
いいと思うんだけれども
例えば会社の場合
会社の情報を盗み取っていたけど
嫌いになっちゃダメなのかとか
そういう議論をしたら
なり方なくなります。
ほとんどの場合は
そういう極端なことは
脇に置いておくという
ただ好き嫌いとか
信頼信頼しないというのは
条件次第であるということを
許し始めると
あっという間に
基準に沿ってるか沿ってないか論と
世論はどう言ってるか論だけの
議論を延々と繰り返すだけになり
とっても疲れるので
多くの場合は
離れる必要があるときは
離れるということにするにせよ
結局親もそうですからね。
39:01
今では社会が何とか代わりにする
みたいなシステムを
作るようになっています。
ので、そうするにしても
嫌いにはならないと。
この点が大事なんだと思うんですね。
この点を確実にすることさえ
できれば
私たちは多分
ものすごく楽になれると思うんです。
私もずっと
自創意図的に生きてきたんですけれども
全然楽じゃないです。
相手次第とか条件次第
ということにすることは
ものすごくその人は賢く
振る舞ってるように見えるし
現に賢くなんなきゃなんなくなるんですよね。
情報強者みたいな感じで
ありとあらゆることを考慮に入れて
信用していいのかどうかを決すると。
そしてそれを
油断なくそのまま
ウォッチし続けると。
全然
それが
好きだっていう人はいらっしゃると思うんです。
自分の能力に対する
自信を深められるというような
意味もあると思いますが
楽だということは
多分
絶対ないだろうと。
それは私たちは
根源的に甘えなきゃやっぱり
生きていけないからなんだと思うんですね。
そしてそれは
相手が自分を好きであるという意味では
さらさらないということです。
40:27

コメント

スクロール