2025-08-25 30:07

運は天に任せる【1236】

羨望も嫉妬もよくできている。
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サマリー

このエピソードでは、精神分析における戦亡の概念を掘り下げ、自立心や破壊的な衝動との関係について論じます。赤ちゃんのメタファーを通じて、成長過程における葛藤や怒り、さらには宗教的な文脈での野心についても触れています。運を天に任せるというテーマのもと、人生の選択や自立の難しさについて語られ、自信のなさや他者との関係が自己形成に与える影響について掘り下げます。このエピソードでは、無意識に任せることの重要性と運を手に任せることで得られるメリットが語られ、カニのダンスを通じて人生におけるリビドの役割や幸せな生き方についての考察が行われます。

戦亡の概念
おはようございます。朝っぱらから精神分析第1236回をお送りします。
8月25日月曜日9時40分です。 ちょっとね、遅くなってしまったので、今日は早めに切り上げればと思っております。
何にも関わらず、お話しすることがパチッと決まってないという、 だからグダグダと長くなるパターンになりそうなので、ちょっと気をつけないとなと
思っておりましてですね。 だからいつもみたいに予断していないで、さっさと行こうと思うんですけど、
3ヶ月チャレンジの参加者さんと、戦亡がたまたま話題に上がったんですね。 戦亡って難しくはない概念だと思うんですけど、
しかもそこら中で見かける概念だと思うんですけど、問題なのは、 自分が戦亡しているということはですね、大体否認したいものなんですよね。
気持ちの良いものではない。で、その時すごい怒ってるから、大体受け入れるのも難しいんですよね。
言ってみればメタファーなんだと思うんですけど、生々しさを伴う具体性のあるメタファーということで、赤ちゃんがおっぱいを噛むってやつですね。
つまり、自分がそこから栄養を補給しているのに、それをわざわざ攻撃するっていうこれね。
これは普通にそこら辺で見られるわけですよね。赤ちゃんが噛んでるのは何でなのかは知りませんけれども、ここに原型があるってわけなんでしょうけど、あるいは原点があるって言いたいんでしょうけど。
ちなみにですね、私これもよく思うんですけど、私は情報発信をこれでしているつもりはありませんので、そこは一応お含みを聞いただければと思うんですね。
私はいつも言ってますけど、正規の心理医とか精神分析家とかでは全然なくて、あさっぱらから精神の話はやめましょうよとか言うじゃないですか。
あさっぱらから精神分析の話とかしてんじゃねーよっていうのを、しかしそれを聞いてしまうという人向けに、勝手に喋りたくて喋ってるっていうのがこれのたてつけで、この点すごい私は重視しているんですよ。
だって正確な精神分析の知識とかが得たければ、それこそ松木くんひろさんとか、ばばれいこさんの本とか、バッチリ正確に書いてあるわけで、しかもああいうのは必ず構成も編集の手もガリガリ入るからですね、多分ね、多分入るから、心配なく読めるわけですよ。
ウィキペディアとかより全然、私のこれはもうウィキペディア未満ですからね。何も知らなくても本読んで勝手に喋るっていう、そこ、そのレベルで喋りましょうねっていう皆さんっていう、これはね、そういう呼びかけでもあるんで。
情報発信とかって言い出すと、なんのこうね、なんとかベースみたいなものがエビデンスってやつですか。あれちなみにエビデンスっていうこのイントネーションに、まあいいや、そういうこと言ってるからいけないんだな、とにかくそういうものではありません。そういうものを私は絶対目指さないぞっていう、そこまで言ったらちょっと言い過ぎなんですけど。
基本的には、だってですね、赤ちゃんがせんぼうしてるからおっぱい噛むとかですね、そんなのは受け入れられない人からすると全然受け入れられない話だと思うんですよ。これはフィボナッチスーレスとかじゃないんですよ。だから、私がそれをさらに読んで喋って、なるほどなぁと思って喋ってるっていう、このなるほどなぁ感だけが大事でして、
クラインがどう言ったかっていうのは言えるかもしれないけど、クラインが言ってることはどの程度正しいのかみたいな話はですね、もう実証のするような話じゃないと思うし、ましてクラインが実はどう思ってたかと考えてくると、いよいよわけわかんなくなっていくんで、そういうことはやめといた方がいいと思うんですよ。
ここは話題にするという場なんですよ。場はどこにもないんだけど、そういうことなんですね。で、なんでそういうことを今言ってるかというとですね、結局僕はこのせんぼうというのは死の本能の現れって言うんですけど、ま、怒ってるしね、破壊的だし、で自滅的でもあるから、なるほど死の衝動とかいうのは、
自立心と怒り
ま、もともとフロイトが言ったタナトスはそこまで言ってないんじゃないかって気もするんだけど、とりあえずその死の衝動とかっていうのは、いい感じなんですよね。これなんか、世界が破滅すればいいのに的なね、本当に破滅すると君も死んじゃうよとか言っても、なんかそういう人にはもういいんですもの、みたいな感じで怒ってるから、通じないわけですよね。
で、その怒りなんですけれども、私はやっぱりそれはでも、オリジナルになりたい欲求、つまりそれって言ってみればエリプスなんではないかって思うことも多くあるんですよ。つまり、自立に向かってるんではないかと。
ただ、いやでも、お前自立するにはまだオッパイじゃんとかって言われると腹立つじゃないですか。で、そういうことなんじゃないかなって思うんですよね。
【佐藤】クラインの中にも、どのすぎた野心かっていう表現が、この戦亡絡みで出てくるんですけど、野心ってのは結局独立に向かうって感じがするじゃないですか。
だいたい独立運動してる戦闘って、めっちゃ野心的じゃないですか。チトウとかね、まあいいんですけど、あとはなんだろう、ゲバラとか、みんな異常に野心的とは言わないかもしれませんけれども、
まあでも、非常に普通の人ではそういうことはいきなり考えつかないし、やんないよねっていうことを、なんかもう気がついたらやってるみたいな勢いの人っていますけど、
あれが戦亡によるものとは言いませんけど、戦亡ってどこかに僕は自立心ってものをやっぱり感じてしまうわけですね。
で、自立心っていうのは結構自己破壊的に働くものだと思う。だって家出るわけですから、それまで自分を、まあそれこそオッパイですよね。
教育費とか、食費とか、屋根とか、すべてついてるものにあるのに、わざわざそこ飛び出してって、お前らの言うことなんか聞いてられんみたいなことを言い出して、なんかこう偉そうなわけですよ。
で、しばしば自滅も本当にするじゃないですか。非常にこれは、戦亡ってのは親に対する、非常に理不尽な怒りを向けるときによくあるパターンで、これがですね、
宗教とか、コミュニティとか、教育機関みたいなところに向けられるのは、実に理にかなってるなって僕なんかは思ってしまうわけですね。
例えば、この話だから、昨日たまたまサンチャレの参加者さんとしたから、触発されて喋っているんだけれども、
昨日ね、タスクシュート協会の理事2人と、今、求心的に延びている、AIが延びてるわけですけど、そのAIについて語ることのできる方と3人でお話しされているセミナーを、
私はそれを、一参加者として、理事なんだけど、一参加者として、ぼんやり聞いていて、いやー、これやっぱり自分理事ダメじゃんって思うわけですよね。
この感じを抱かなかったらどうなるかってことなんですよ。私は、年齢も年齢ってこともあるのかもしれませんけれども、
もうなんか飛び出していって、ひと旗立てるぜっていう、そういう雰囲気の人間でも年齢でもないわけですね。
だから、たまたまここに拾われてラッキーでしたよ、私みたいな、そういう、どっか虚勢されたようなので、収まるんですよ、感覚的に、全然。
なんかここにプロテストして拳を振り上げようっていう気持ちは、さらさら起きない。それもどうかって言われるかもしれませんけど、
心の奥底を探ってみると、いまいち起きてないっていう。だって、どうせ同じようなことになっちゃうしな、みたいな、そういうことを考えてしまうわけですね。
で、戦謀って僕はオリジナルに向かう怒りだと思うんですよね。で、これはみんなあると思うんですよ。
宗教における野心
そして、そこでいい目を見れば見るほど怒りうるものだって思うんですね。
もう一つは、その人になりたいっていう人に僕は近づくのはリスク高いなって思うんです。
これは、うちが寺だったからなんですよね、たぶん。
あの、仏典にあるんですよね。仏典にはないのかもしれないけど、手塚治虫の仏陀には書いてありましたね。
だから、ああいうことを書く人っていますよね。大和だったっていう有名な、有名じゃないか、仏陀に敵対する勢力を作る、野心的なわけですよ、要するに。
で、彼、戦謀の極地の感じなんですよね。最後に手塚治虫は、僕は意識的に書かせたセリフだと思うんですけど、
あの、「お前、私はお前の敵ではない。」って仏陀に言われて、「いや、あんたは敵だった。なぜなら私はあんたにとって変わりたかったんだ。」
僕はこれが戦謀だって思うんですよ。やっぱミルクをもらう側じゃなくて、供給する側になりたいんだけどミルクは出ないしね。
そして腹が出すんで、舌ともにぶっ壊すみたいな、そういう理不尽な行き通りに向かっていってしまうという感じ。
この感じが、実際、大和だったの行動ってものすごく戦謀的だったし、結局自滅したっていう流れになってますし。
手塚治虫さんの仏陀の漫画を読んでください。気になる方は。お城の方なんですけどね。
これを仏陀で読もうとするとすっげーめんどくさい気持ちになると思うんで、気になる方は漫画の方が、しかも手塚治虫さんもですから、男児で面白いんで、いいんじゃないかなと思うんですけど、
あれは戦謀って感じが私の中ではするわけですよ。で、やっぱああいうことが宗教ってのはすごい起こると思うんですね。
本当にただただ消えして、要するにこんなものが見つかってラッキーでしたみたいな人はそれで済むんですけど、やっぱりこういうことがしたいとか少しでも思っちゃってると、こういう人になりたいとか思っちゃってると、
取って変わりたい看法って無理があるじゃないですか。無理があるんですよ、これ。
ちょっと聞き慣れになるわけですけど、やっぱりタスクシュート見てて思うんですよね。タスクシュートのいろいろなバージョンは出回りがちなんですよ。
我々の教会では基本的にはあまり良いものとしてはなかなか受け入れられないものなんだけど、
何で僕はこのコピーに近いものが出るかっていうと、これぐらいなら自分でも作れるしって人は思ってしまうからなんですよね、ある種の方から見ると。
昔僕は数学の先生がやっぱりついついログ対数ぐらい自分だって、ロガリズムね、考えついたと思っちゃうんだよねみたいなことを言ってて、
あの、逆転位を認めなかったというのは、クラインの気質は多分にあると思うんだけど、やっぱりですね、ナンバー2とかっていうのは、やっぱりナンバー1になりたいわけじゃないですか。
なりたくないナンバー2みたいな僕みたいなタイプもいるんですけれども、ここで収まるのがピッタリしっくりくるみたいなタイプもいないわけじゃないんですけど、
近づきすぎるとですね、起こるんですよ、そういうことって、きっと。
だから、その人に助けてほしくて、ただ近づく場合はいいんだけど、
この人のようにでありたいのにっていう気持ちがある中で近づいていくと、
この戦亡みたいな気持ちって、それは嫉妬なんじゃないのかって言われると、
私は嫉妬と戦亡を区別するのはクライン用語なので、もう諦めましょうみたいな気が。
確かに嫉妬は、あなたがいいものを取ってるから、要するに横取りするから腹が立つんだっていう三者関係ですよね。
で、戦亡はとにかくあんたがいいことが許せないんだっていう二者関係ね。
より理不尽な度合いが強いっていうのは、うまいこと言うなと思うんだけど、
でも本当にそういう区別をこの日本語でできるかっていうと疑わしいものだとも思いますね。
思いますけど、とりあえずこの場はクラインに敬意を表している場としてですね、
戦亡はより原始的な願望ということにしてあるわけですね。
で、私は何度も言うけど、これは自立っていうものがやっぱり絶対散らつくし、
だから健全な自立みたいな言い方するじゃないですか。
ところが僕はそうは感じられないんですよ。
ほとんどの場合、自立というのは危ういことになる。
で、この危うさがいいとは言いませんけど、大事なんじゃないかなと思うんですよね。
やっぱり自立に向かわないって困るじゃないですか。
自立で向かわないということはひたすら自分が無力感に苛まれて、ヘルプレスネスですよね。
自分自身との対峙
その抑えつけられていて、だから私のこのさっき言った通り、
ナンバー2で収まってるっていうのは酷く虚勢された感じって出てくるわけですけど、
人生難しいですよね。
ナンバー2でいていいんだって思ったら、いやそれは虚勢っぽいよねって感じだし、
ナンバーワンにとって代わってやるぜって言うとそれは戦亡でしょうみたいになって、
どうすりゃいいんだって感じになるじゃないですか。
だからその辺を上手いことパーソナライズして、
現実的な落とし所を探っていくってことになるわけでしょうけれども、
まあ、その、甲斐がないわけですよね、結局ね。
で、このオリジナルにとって変わりたいと。
それはそもそもおかしいんですけど、
オリジナルがあるからお前はオリジナルを知ってるんだろうっていうことであって、
オリジナルにとって変わりたいと思っているということは、
やっぱり自分に対して頼れないと感じているってことだと思うんですよね。
ここが僕は難しいと思うんですけど、
直面化ができるレベルに入ってくれば直面したいところではあるし、直面したくはないか。
でもやっぱりそれしかないわけじゃないんですよね。
他にもいろいろというか、それが唯一の甲斐だというふうには思わないんだけど、
少なくともそこには自分が弱いっていう気持ちがどこかにあるはずって、
そいつを見つけ出してですね、実際そんなに弱かったことはあるかもしれないが、
今はそこまで弱くはないはずだっていうふうに思い直せるかどうかがポイントかなって思うんですよね。
コピーと受け入れられること
そこにはやっぱりですね、運を天に任せる感っていうものが必要なんですよ。
そうそう、こうやって結びついてるんですね、一応ね、話がね。
どこに行くんだろうと思って僕も喋って聞いてたんですけど、
この喋って聞いてるんですけどね、自分はね、ちょっとナルシシスティックですけどね。
弱いと思っているからタスクシュートのコピーなんかを作りたくなってしまうわけですよ。
なぜならば、それはまずタスクシュートというものがある。
ないものを自分が考えつくのは難しいっていう思いが一つありそうです。
もう一つは、タスクシュートというものはみんなに受けている、ある程度はね。
その不十分であると、教会とか理事ではまだ不十分であると思ってるからこういう活動をしてるわけですけど、
まあそうは言っても、それなりに受け入れられている。
受け入れられているものを作りたい。
これも既に受け入れられているものというものを作ることによって、
受け入れられるという事態を確保したいっていう雰囲気があるんですけど、
やっぱりここには、自分だけでは受け入れられるようなものを考えつかない。
もしくは受け入れられるようなところまで持っていける気がしないみたいな、
自信のなさみたいなものがこう、ちらつきますよね。
こいつを何とかした方がいいと思うんですよね。
そのコピー云々の話よりもはるかに大事だと思うんですよ。
そうじゃないでしょうっていう感じはやっぱり、他者としては僕は言いたくなるわけです。
自分のことだと頼み上がるんだけどね。
他者としては言いたくなるわけですよ。
いやいやいや、考えつくし、広められますから。
広められると思うんですよ、やっぱりね。
そういうことまでやろうというぐらいの人であるならば、
ここで何かある種の気弱さにあっさりとして、
いやもう既にあるものをコピーした方が楽じゃんみたいな、
この楽っていうのは楽なのではなくて、不安なんだろうとやっぱ思うわけですね。
そこに自立へ向かうことの怖さっていうようなものがある気がするんですよ。
だからコピーになってしまう。
せっかく家飛び出したのに気がつくとお父さんと同じような職業について、
お母さんとそっくりの女の人を探し回って、
お父さんが住んでるような都市のお父さんが住んでるようなお家に住んでたりするじゃないですか。
それだって今だったら立派なもんだってことになると思うし、
それでいいと思うんですけれども。
つまり、戦亡というもの、自立っていうことにはですね、
やっぱりこう、でも参考にはオリジナルをするっていうことになってしまって、
いやオリジナルを倒すとどこへ行ったみたいな、そういうものがあるわけですよね。
それよりももうちょっと不安になると、そもそも家から寝られませんってことにもなると思うんですけれども、
いずれにしてもこのコピーをするときには、どっかですね、運を天に任せるしかない、
運を天に任せる
コピーじゃない、自立するとなるときには運を手に任せるしかないと思うんですよね。
これが嫌だから情報収集に走り出すんじゃないですか。
だから俺情報発信はしませんよっていうわけですけれども、
情報収集に走るということは、この株買っておけば将来は安泰だとか、
この保険に入っておけば保険ですからね、将来は安泰だとか、
そういうことに、そういうふうに持ってってですね、
自分の不安というものと追い合いをつけるために、先に保証を立てたいというわけですよ。
そうするともう、ある意味、飛び出した感じっていうものが何だったんだろうみたいなことになりかねないので、
だから戦亡ってことになりかねないわけですよね。
自他共に破壊するっていうことで終わっちゃう。
終わらないようにするためには、やっぱりどっかですね、
運ですよね。
それは運が良かっただけじゃんっていうやつですよね。
これがいると思うんですよ。
昨日つくづく思ったわけですよ。
そのセミナー聞いていて、いやー大したもんですよねっていう感じがしたわけですよね。
PTXで、今AIで、AIのタスク管理のAIみたいな話をされている方は、
1000名とかは全然、PTXのサーバーがそのおかげで少しおかしくなったじゃないかと、
そこまで行くんだろうかって僕なんか思ったんだけど、
それにしてもすごい話だなと。
だって僕25名集めて、もう諸手を挙げてBRで祝杯してましたから、
一桁じゃないですからね、二桁違いますからね。
これやっぱりすごいよなと思わずにはいられないわけですよ。
この凄さが、自分なんかタスク集と大とAIみたいなところにどっぷり入っていくべきだったんじゃないかみたいなことを考えさせられるわけですよね。
なんで朝っ端から精神分析喋ってるわけみたいな感じになるわけですよ。
なるんだけど、それってつまり不安を抱いてるわけじゃないですか。
だから自立できない気持ちっていうものに苛まれてるわけじゃないですか。
だからオリジナルっていうものに向かいたくなるんですよね。
私自分でつくづく聞いていてですね、
昨日その客何名の方が参加しているセミナーに聞きながら、
なぜ私は屋根を手に入れることができたのか不思議だなって思ってたわけですね。
このやり方でよく他の人に聞かれても困るんですよね。
時々聞かれるんですよ。
やっさひさんフリーランスで家も建ててるし奥さんもらって成功してらっしゃいますけど、
なんか秘訣ありますかって。
いやそんな、二度とこれをやれと言われてもできる気がしませんみたいな気がします。
つまり語れることは何にもありません。
それは多分失望を呼ぶような答えだと思うんですけどしょうがないですよね。
本当のところそうなんで。
あれ dase にね 幽閉してくれることによっていいかもしれまし
かって思うんですよね。
でもあの母親と歊り合っている子とかとかじゃないかっていうのは、
最近は問題意味はないかもしれないですよね。
そのあたりにいくつかの苦しさ。
言いたいことですね。
ada お願いします。
流れてですね、することになるんだけど、いつ何の話をしていても、私がよく思うのは、よくできてるなぁって思うんですよ、ある意味では。
結局のところ、親は子供を離したくない。子供はしかし、自立というものをしないわけにはいかない。いずれはだって、見通しの上で親が先にいなくなってしまいますからね。
あるいは、少なくともいなくならなくても親が先に稼げなくなってしまいますから、やっぱり自立ってことはしないわけにはいかない。
で、その時にしかし、葛藤が起こるわけで、その葛藤の中で双極みたいな動きが起きたり、それこそ戦亡みたいな話になってみたり、三角関係が起こってみたり。
でもそういう三角関係、例えば、原光系みたいなものであるわけじゃないですか。
見ないにしても、私、原光系の話、今日、サラッとしようと思ってたんですけど忘れてたんですが、私、昔ね、やっぱり母に恋をしていたわけですよ。
4歳半ぐらいの頃がピークだったと思うんですけど、今も覚えてるんですけど、4歳半の頃に青森県から埼玉県に引っ越したら、母がですね、何を思ったかいきなりロングだったのがバサッと噛み切ったんですよ。
僕がこれを思い出した時に、あ、こいつが私の巨星なんだっていうのに、ほぼこれで完全界に近いんじゃないかと。
まあ、完全界があるのかって話もあるんですけど、僕がそれにショックを受けたのは間違いないですよ。
ロングの母が好きだったんでしょうね、私はね。
ショックを受けたことしか覚えてないんで、ロングの母のイメージが浮かばないんですけど、いや、最初から短かったような気がするんだぐらい。
まあ、そんなもんなんですよ、恋愛なんて。3歳児の恋愛なんてね。
でも、たぶんロングが好きだったんでしょうね。
で、切ったと。それはいいんですけど、別に全然。切った方しか僕は覚えてないしね、どうせ。
なぜ切ったのかは、説明してたのを思い出したんですよ。
だって埼玉県のお寺に来たら忙しくてさ、髪洗う暇もないのよってこのセリフ覚えてる。覚えてる気持ちがしてるだけかもしれないけど。
それ言われてもたぶん5歳ちょいだったと思うんですよね。
で、この時に僕は怒りを覚えたわけです。
つまり、私はロングが好きだったのに、髪切ったのは結局父親の仕事ってことを優先したって話になるじゃないですか。
ここに三角関係があるわ。
つまり、藤山直樹さんが書いてるんですけど、原稿系というのは確かに阻害されるという悲しみでもあるんだけど、
それのおかげで独立できるんだと。そういうことですよね、やっぱりね。
だからもうこの二人は勝手に楽しくやっててくださいと。
私は私で生きていくんだみたいな気持ちがそこに芽生えるじゃないですか。原稿系のおかげで。
原稿系っていうのは要するに虚勢を伴っているわけですけど、髪切るみたいなそういう話ですよね。
母があれはいいわけで、多分あの人はただショートとパーマをかけてみたかった。
何しろ青森にそういう洒落た美容院とか多くなかったから。
50年前の話ですからね。
50年前のムス氏は、まあまあ私は覚えてるんですけど、
3階建ての、多分3階建てだったんだけど、ムスも付き合っているところが一番でかくて、
うわあすごい、ここすごいって思って輪投げをしていて、全然届かなかった。
僕2歳ぐらいだったもん。
それで初めて、埼玉県というよりは東京に来てですね、サンシャイン6畳を見て、
なんか気が遠くなりそうになったんです。
それまで4階建てしか知らない子が60階とかを見たから、
何なのこれみたいな、もう完全に魔法の国に来た感じですよね。
それはね、母が髪型変えたくなるのも無理はないわけですよね。
服装とかもガラッと変わりましたからね。
だからあれ忙しくなったわけではないんですけど、
無意識に任せる重要性
当時は僕はそれを間に受けて、確かに忙しくはなってたんで、
全然相手をしてくれなくなっていくわけですよ。
この辺もあるんですよね。
で、やっぱこれってよくできてるじゃないですか。
これがないと、なかなか自立になって向かわないですよね。
お母さんがすべてしてくれる時代の方がいいわけだから。
心地いいし。
なんだけど、今のこの情勢を考えてみると、
母ももう80に手が届きそうになってるし、
もう1分前に置いた財布のことも全部忘れて、
しょうご財布持ってるでしょとかわけわかんないことを言い出すようになっちゃったんで、
ここにべったりだったら大変なことになってますよね。
なので、やっぱいいんですよね。
よくできてるわけですよ。
この東映同一化といい、
総局障害といい、
総局といい、
総局構造といい、
ふりこ的に理想化と脱価値化を言ったり来たりするのといい、
戦亡といい、
三角関係といいですね。
全部それらがある意味では、
一つ一つは苦々しいんですが、
でもある意味では自分をここに置いて、
だから答えにならないと思うんですけどね、質問された方には。
フリーランスでザキさんはどうやってそういうところまで来たのかって言われると、
いやこれはだから天の廃材みたいなもんですよっていうこと。
エリフスコンプレックスみたいなものがうまく働くんですよ結局みたいな。
そういう答えになるんですよ。
だから無意識に任せておけば大丈夫みたいな。
信用できないって言われればその通りなんですけど、
僕はやっぱり家の中にいてですね、
なぜ外がこんなに狂ったように暑いのに、
クーラーが一応効いてるところに自分いられるのだろうって考えたときに、
現行系とか大事だよなって思わざるを得ないんですよね。
それに比べれば、
どこかの大学を一生懸命出るとか、
入学したとか、
みんなそういうストーリーの方が好むんですけれどもね。
例えば、編集さんからいただいた書籍の方は、
人税がどんなに安くても引き受けましたみたいな話をすると、
なんかみんな、やっぱりそうですよねみたいになるんだけど、
でもバンバン断ってるけど、
僕より売れるようになりましたみたいな話はザラにあるんで、
そういう法則を見つけ出そうとしても、
だいたい不毛な結果に終わるんですよ。
そんなものよりは、
私の考えではですね、
東映ドイツかとか直接コミュニケーションとかですね、
無意識の働きの中に身を委ねている方に、
結局行くべきところには行き着くんじゃないかなと、
ついては今の思いでなかなか考えていませんがね、
こんなものを生かしたのかもしんないですよね。
カニのダンスと人生
こういうふうに思ってると一生懸命やってigos、
Animesとかで受け入れている、
あの、昔私、NHKのあのなんだあれだ、
ダーウィンが来たんだったな、
蟹のダンスってのがあって、
蟹はオスがみんな、ディスコやるんですよ。
思うんですね。それでも、億単位の年数とか、億単位かないか、でも万単位の年数と関係があるじゃないですか。
カニなんてもう相当、昔からいた生き物ですから。
なので、やっぱああいうことだと思うんですよ。幸せに生きたいんだったら、まあですけどね。
結局、頑張って踊って、踊り見せて、上手いことをゲットして子孫残せば幸せっていうことじゃないですか。
そこで、あんなディスコかったるいし、やってらんねーとかいうカニがもしいると、だいたいいいことないわけですよ。
これって結局、自分のリビドにいかに乗っかっておくかって話ですよね。
カニはもちろん自分のリビドに乗っかってるという自覚すら一切ないと思うんですけど、でもやってることはそういうことですよね。
結局、これにいかに適当に乗っかっておくかっていうことこそが、長い射程における人生の良し悪しを結構決めるんじゃないかなっていうふうに、
別にどっちでもいいじゃん、それじゃったらっていうことになったら、どっちでもいいと思う、僕も思う。
そこはやっぱりミニコットが正しいと思うんですよね。これは所詮遊びだよねっていう、それはそうだと思うんですけれども。
でも、そこをなんとかより求を得る、高いほうがいいっていうことであればですね、
やっぱり運を手に任せるほうが、運を頭脳に任せるよりはずっと当てになるよなと、僕は50年の結論としてはそう思いますね。
あと50年経つと真逆のことを喋ってるかもしれないけど、100歳の時にそんなに頭脳を信用なるかっていう話もあるんで、
あんま変わんないんじゃないですかね。
30:07

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