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2020-08-25 24:18

【GMV 211】もっと融通を効かせる

謝ることで、お互いに得られるものが多い
00:03
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
毎朝やってて思うんですが、日に日に、特に最近ですね、日に日に難しくなってきたなっていうところがあります。
なんていうか、自分で喋っていても結構尻滅裂だなと思う時があるんですよね。
文章だったら間違いなく相当手入れをするところなんですが、
ご存知の通りで音声なんで、前後というものの修正は効かないんですよね。
言い間違えたらもう言い間違いっぱなしだし、結論に対してあってない話を事前にしちゃってもですね、
戻って修正してどうたらこうたらというのが効かないじゃないですか。
完全にシナリオ作ってから喋るっていうんだったら別なんですけれども、
そういうことを全くしていないので、尻滅裂感があるままここのところかなり手探りで進んでいます。
不審なんですよ。
以前よりはだいぶグッドバイブスを喋っていても自分の中でしっくりきてるんですけれども、
しっくりきているという感覚とともにそれについて喋るといろんな意味で収集がつきにくくなっていく。
一つにはグッドバイブス、これ自己啓発いろんな話にも通じますけれども、
一度にいろんなことが関連してきちゃうんですね。
一つ意識とか愛による選択とか、イリュージョンとか意味付けとか、
一斉にこう、この話も前にした気もしますが、一斉に関係してくるんで、
どっかに行って戻ってくるみたいなことをやると、まとまりが悪い感じになるんですよ。
結論がはっきりしたものが最初にあるっていうならだいぶ違うんでしょうけれども、
それもないまま喋っておりますから。
ただこれはですね、多分イリュージョンが結構あって、
僕は今の頭の中では最初の方はもっとちゃんと収集がついていた気がしてるんですけど、
多分最初の方がわからずに喋っていたから、
自分で聞き直すと最初の方がもっとひどいと思うんですね。
これを最初から聞かれている人にはどう聞こえているかはわからないんですけど、
多分ですね、自分が聞き直した場合、人にはわかりにくかったと例えしてもですね、
今の方が実は理にかなって喋っているのは思うんです。
昨日の若干続きみたいな話なんですけど、
謝るということについて、もうちょっと進めていきたいんですけど、
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謝るということは、要するに与えるということだと思うんですね。
与えるということはですね、
それ自体が与えることによって、私が思うにそこに新しい価値を生み出すということになると思うんですよ。
謝るときに一番ネックになるのがおそらくですね、
しかし私は悪くないぞっていう感情だと思うんです。
相手に怒られたら、
ごめんと言えばいいってことではないんですけど、
怒られたら相手が怒っている、つまり私に与えられた不安を取り除けと、
この構図はですね、ほぼ確実にそうだと言えるんですよね。
問題はこれがおそらく言いがかりだったという場合は、
その不安を取り除けと言われても、そうしてやる義理はないと思うのが一つと、
そもそもどうすればその不安を取り除けるのか、どうも私には分かりかねますという場合が一つ。
この二つは多分一緒にきます。
私はそれについて何の責任も、
そうだな、例えば今日で言えば娘が検尿検査で持ってたんですね。
そうなってないと思うんですけど、トイレがおじっこいっぱいだったとしっかりにします。
そのことを奥さんに怒られたと、私が。
その時に謝れるかっていうことなんですよ。
私がいかなる関与もしていなかったとして、してないんだけど、
その場合、なぜ私が謝らなければならないのかって思うと思うんですね。
私が悪いわけではないというのは事実なんですよ。
プラス、これに対して何をどうすれば相手の怒りが収まるのか、
相手が不安に思っていることは何か、不安に思っていることは分かりやすいんですよね。
トイレが汚くなった、清潔に衛生にこだわる人は、
これは大変腹立たしい、実に恐ろしいことなんです。
これは多分私がイメージできている恐ろしさの上を行ってますね。
というわけで恐ろしい。
取り除くには2つ考えられますよね。
1つは私が掃除をする。
でも多分これは受け入れられないと思うんですよ。
この非常に清潔さにこだわる人には、
自分で酷くなった場面ほど自分で掃除していれば安心できない。
必要なのは安心なのでね。
もう1つが謝る。
でも果たして私の謝罪によって気が収まるんだろうかということがありますよね。
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ところがこれが本気で謝ると収まるんですよね。
このことがグッドバイオス以来私が1つ学んだことなんですよ。
私たちの常識というか特に今の時代の常識で
ここで謝らない、謝ることに意味がない気がするというのは
1つはこの謝罪がただこの場を収めようとすると聞かないんですね。
ここが非常に不思議なんですけれども
ここを説明するのが容易じゃないために話が難しくなって
尻滅裂な方向に行くんですが
1つは私たちが時間の観念に猛烈に縛られているために
平等ということについてですね。
現在までの平等ということにひどくこだわるんですよね。
何か私が謝罪するなりトイレの掃除をすることによって
私の方が1つ余計なことをさせられたと。
その場合私の損害が1つ積み上がったというふうに考えちゃうんですよね。
トータルで見るということがどういうわけかですね。
私たちの時代には不思議と欠けていて
こんなに未来予測を従う割にいわゆる長い目で
それもかなり長い目で見るという視点が欠けるんですよね。
報酬はもしかするとうんと後になって戻ってくるかもしれない。
戻ってこないかもしれませんけどね。
ただ与えた瞬間に与えられるというのはですね。
つまりここで損失が置き去りにされることはないという話を
プラゾンの計像さんグッドバイブスで言ってるんですよ。きっと。
これが全然受け入れられないということであると
つまり今この瞬間の関係が対等ないし貸し借りがゼロにならない限り
許せないという感情がどこかに働いているはずで
それはそれでですね私は決して現実主義的じゃないと思うんですね。
たぶんライハックやってる人はこの後からの報酬というものが見込めないと考えるんですよ。
あるいは後から例えば私が先に謝ったとして
相手が途端に態度を変えるということでは納得がいかないと思っているとするじゃないですか。
そうするとですね、あるいは相手の態度が変わらないかもしれないじゃないかと思っているということもあり得ますよね。
ただそこにものすごくこだわるということは
この貸し借りの話で自分が先に損をすることは決して認められないという
そういう感情にすごくこだわっているということになるはずなんですよね。
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現にこだわっていると思うんですよ。
謝るということが問題になるのはたぶん
これはごくつまらない話をしますけど
言葉を出すことが苦痛だとか
口を動かすことのエネルギーが余計だとかそういうことでは決してないと思うんですね。
あくまでもやっぱり最初に自分が損を切るということが耐えられない
単にそれだけのことなんじゃないかと思うんです。
なぜ謝罪が求められているというのかという話なんですけど
本当はもっといっぱいありますけど
一番ミニマムに言ってもごくごく少ない部分だけ取っても
相手が怒ったからなんですね。
よく言う人いるじゃないですか。
あれあれで絶対理不尽に聞こえるはずなんですが
私を怒らせるなと。私も言われたことありますよ。
で、怒らせた分だけでも謝ればいいんですよ。
これは大変理不尽だと思うと思うんですよ。
私を怒らせるなって。あんたそんなに偉いのかって思うんですよ。やっぱり。
それに別に俺が怒らせたわけじゃないとも思うんですよ。
とはいえですね、とにかく相手からしてみればですよ
現実に怒らさせられたんですよね。
言い回しおかしいんだけど、これ以外ないんだよな。
現実が私の怒りを作り出した。怒りのネタを作った。
現実のどこかから謝ってもらうしかないんです。
謝れる存在があるとすれば、トイレには無理なので
娘も学校に行っちゃったら帰ってくるまでは無理なので
私しかいない。だから謝るんですよ。
相手の視点に立てばって話ですよ、これは。
現実のどこかから謝ってもらえない。
現実が自分に対して恐怖感を与えたんだから。
これ分かりにくいかもしれないんですけれどもね。
とはいえ、例えばそうだな。
あまりいい例がパッと思い浮かばないのでこの例で言っちゃいますけども
例えば庭に出て、庭に行くとですね、今蜂がやたらいるんですよね。
サチに刺されたと。
蜂に怒るのが妥当かもしれませんが
庭に怒りたくなるような気が私するんですよね。
こういう時は。
そもそもそうすると蜂が本当はいけないんだけども
庭に出たくなくなりますからね。
このニュアンス伝わりますかね。
要するに庭に腹を立てるというのは全く筋違いなんだけど
でも感覚としてはそうなっちゃうんですよね。
庭に出たせいで夢にあったみたいなところがあるんですよ。
もちろん蜂にっていうのはあるんですけどね。
これとちょっと似てると思うんですよね。
娘が出会っても夫に謝罪を求める。
庭に謝罪は求めないけど
よくしてほしかったのに庭にひどい目に合わされた感じがするんですよね。
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これでもしですね。
庭謝んないですけどね。
庭に謝罪されれば私は受け入れられると思うんですよね。
この感じが相手にあるんだと僕は思うんですよ。
蜂が謝ってくれなくてもですね。
蜂も庭も謝っちゃくれませんけどね。
だから結局のところ私たちが
相手が人間じゃない場合にできることって唯一
それによって庭を嫌いにならないことじゃないですか。
トイレが汚れていても
家のこととか家族のこととか現実を
広く言えばですけど現実を嫌いにならないことが必要ですよね。
それにひと役変えるんですよね。
謝罪するということを。
とっさにここまでは考えられませんけれども。
私はそれって結局ですね。
現実を
僕はこういう言葉をついつい使っちゃうんですけど
他の言葉がやっぱりないんですよ。
変容させる。変えるに容器のようです。
これがつまり
クリエーションってことなんじゃないかなと思うんですよ。
最近すくすくそう思うようになりました。
できないことの方が多いですけど
できればそれを可能にすると思うんです。
お年寄りに席を譲るとかそうですよ。
あれと謝罪はよく似てると思います。
あえてできないこともあると思うんですよ。
それはそれでいいと思うんですよ。
とにかく
よく道徳の教科書とかにあるじゃないですか。
私が譲ろうと思って悩んでいるうちに
他の人が譲ってしまって残念だったみたいな。
私あれ良くないと思うんですよね。
誰でもいいはずなんですよ。
この誰でもいいってところがなかなか大事でして
鉢に刺されても庭に謝ってもらえれば
すごい良いと思うんですよ。
謝っちゃくれないですよ。何度も言いますけど。
でもそうだな。謝っちゃくれませんけど
鉢に刺されても例えばですね
すげえ良いトマトがなってましただったら
なんかこう良い感じがするんですよね。
つまり
なんで僕が思うにですね
自分が譲れなくて隣の人が譲ったを
残念に思うべきでないと思うかというと
ポイントは
現実の変容というものが
ある人にとってよく作用すれば
それで価値なんで
そのところに譲ったのは誰かという問題は
ほぼ大した問題じゃない。
2席必要ないわけですからね。
この話はあまり効率的
あるいは効率的に受け取るところでもないんですよ。
他に譲る人がいないなら自分が譲るのがいいと思うんです。
要は
そういう現実を作り出せるっていう
その融通というのかな
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自由という言い方が僕の中ではするんだけど
融通が効くんですよ。
融通が効かないのが
つまりクリエイティブじゃないんですよ。
誰であってもいいわけですよ。
関与する人は
参与する人っていうのかな
トイレについて謝るのは
トイレが謝るのが一番いいんですよ。
極論にいってしまえば。
僕はそういう気がするんですよ。
いや汚くなっちゃって申し訳ないですって言ってくれれば
絶対その人は非常に納得すると思うんですよ。
現実が融通が効かないんですよ。
一番悪いのはそこで謝ることが可能であり
トイレをきれいにすることも可能である私が
なぜ謝らなければならないのかって言って
固くなりあること。
つまり現実というものは
可能であるようなことすらも
可能にしてくれないんだっていう態度を
現実が取ってしまうことが
良くないような気がとてもするんですね。
クリエイティブじゃない感じがするんですよ。
これが今回自分が
謝るということについて
実際に謝ると何度も言うけれども
それによって変容するんですね。
相手の態度が。
これを見たいんだと思うんですね。
この変容っていうのって
ある恐れと深い関係があると僕は思ってるんです。
私たちは自分についての変容を恐れるんですよね。
これが多分プライドというものと
プライドって他にいろんな説明の仕方ができるから
難しいんですけど
でも謝ることができないのはプライドが邪魔してますよね。
多くの場合。
下に見られるとか下手に出過ぎなんじゃないか
っていう感じがあると思うんですけれども
私は結局プライドっていうことにこだわってる人は
自分にこだわってると思うんですね。
本当は謝ることによって
感情奉仕とかっていう言葉を
本当は良くないと思うんですよ。
隣の人が席を譲った時に
モラルの問題で悩むっていうのと同じで
何々すべきっていうことに
こだわりすぎている気がするんですよね。
すごく融通が効かない方向にむしろ向かっちゃうような
自分が自分でありたいわけですよね、私たちは。
プライドってそういうことだと思うんですね。
ここで謝ってしまったら
私は私ではなくなるみたいな。
口先だけでだから謝るんですよね。
本当は謝ってないよっていう。
それは自分が自分であることが大事だから。
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変容を許さないんですよね。
これは本当によくあることで
私は不審議とですね
この辺で話がどんどん崩壊している感じがするんだけど
謝るということと愛するということは
実によく似てるなと思うんですよね。
どっちも何が難しくするかというと
自分が自分であることが難しくするんですよ。
私が私である限りある政治家のことは許せないとか
私が私である限りここで謝るわけにはいかないとか
よく似てると思うんですよね。
謝ることや愛することは実は簡単なんですよ。
子どもが見ている、子ども見ていると本当に思います。
すぐ本気で謝りますよ、子どもは。
怖いってのはあると思うんだけれども
自分に対するこだわりが私たちよりは緩やかですよね。
当然自我にかかってきたコストの差がありますからね。
まだ10年ぐらいしか経っていないし
自我ができてから10年は経ってないので
こだわりも少ないっちゃ少ないわけですよね。
私の場合40年は経っちゃってるわけですから。
そうするとこうあるものが好きになれない。
なぜなら食べ物でさえ言う人いるじゃないですか。
その食べ物は私が私である限り好きになれないっていうような。
だから食べてもみないみたいな。
今の例だとちょっとあんまりぱっちりこないと思うんですけど
やっぱり誰かのことを好意が持てない。
好意が持てるような自分はもう自分ではないみたいな言い方は
非常によく聞くと思うんですよね。
この好きになれないことと謝ることができないことは
ひどく似てるなと最近気がついたんです。
これも非常にグッドワイブス的なコンテクストですね。
だからなんですけど、つまり差し止めてるんですよね。
自分で自分をそっち行ってはいかんみたいな。
そっちを好きになる自分はもう自分崩壊するぞみたいな。
謝るというのも同じで。
実はそれが違うんだと思うんですよ。
自分というのはもっと変容度の高いというか
可変性が高いというか、なんかこういう言葉になっちゃうな。
とにかく多様であり得ると言ったらいいんですかね。
これもまたグッドワイブス的なコンテクストなんですけど
自分だと思うっていうのがあるんですよ、グッドワイブスにね。
自分事だと思うというのか、もう自分だと思う。
だから奥さんがそれについて恐れているなら
自分もそれについて恐れているという風に受け止めるみたいな感じで
家族は特に何てのことも自分だと思うと。
そうすると結局自分の領域が変わるじゃないですか。
そのすぐそのすぐ自分だと思うんだったら
自分ってどんどんどんどん増えていきますよね。
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あるいは変化していってしまいますよね。
これが耐えられないっていうことが
つまりプライドが邪魔をしているっていうことだとすると
自分ってのは
これ以外の何物でもない自分ってのがいるっていう意味だと思うんですよ。
自分でなくなってしまうっていうのはまさにその通りなんですよね、ある意味。
このコンテクストで言うと。
他人のことも家族のことは特に
私が奥さんのことを自分だと考えるっていうのは
そうすれば自分の恐れを取るためだったら
いろんなことができるでしょうっていう
さっきのコンテクストと似てくるじゃないですか。
自分のことだと思えば謝るぐらいはできるという
自分が自分に謝るっていうのは変なんですけれども
でも自分のためだと思えばできるっていう
これは一つの
そういうグッドバイブス的な発想っていう
言い方になりますけれども
そういうものだと思うんですよ。
そうすると
自分が増えていくというか
自分がその都度いろんな人になり得るわけですよね。
それが嫌だってことなんじゃないかと思うんですよ。
自分自身にこだわるということは
相手の立場に立ちというか
相手が自分だと思うということができれば
ある意味どんな理不尽なことでも納得できるわけじゃないですか。
そうするとどんな人にでもなれるってこと
それは今の相手も自分だと思うということからすると
出てくると思うんですね。
そういう誰にでもなれる。
席譲るなんてまさにそうじゃないですか。
年寄りが自分だと思えば
この席に座りたいと思う。
それを実現させる。
だから譲るのは自分じゃなくてもいいわけですよ。
そうすると同時に相手が自分だと思うということは
自分はお年寄りでもあるってことになりますよね。
ここら辺がポイントかなと思うんです。
そうすると私たちはそれをやるたびに
自分が違う人間になるわけですよね。
いろんな人になっていく。
で、それがいいんじゃないかと思うんですよ。
自分はこの人ではありえないとか
自分は結局ササギショウゴ以外の人間には
絶対になりたくないっていう時ほど
不法不下がりになっていく感じがするんですよ。
変容しなくなりますからね。
自分も世の中もあるいは現実もですね。
変容するほど都合がいいわけじゃないですか。
トイレが山ってくれるのが一番いいって
さっき言ったのは庭とかでもいいんですけれども
都合がいいじゃないですか。お互いに。
お互いに都合がいいほどいいわけじゃないですか。
変容しないと何がいけないって
都合が悪いことが起きた時に
塞がっちゃうということだと思うんです。
このスタートラインに
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というかこの話の全ての中に
謝るというのはかなりいろんなところで
オールマイティーのカードみたいに使える
切りやすいカードなんではないかと
そういうことをちょっと考えたんですね。
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