年末年始の進行と不安ゼロのタスクシュート
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
はい、12月27日水曜日の夜21時47分です。
これは、今日取って出しはしないので、今朝出ましたからね。
明日の朝、7時ぐらいかな、をセットしてお終いにしたいと思います。
明日ですね、ありがちですが、年末ですし、家族で実家に一旦戻ろうと思っておりますので、
当然、明日は、朝は収録が無理ということで、明後日にはね、あっさり家に戻ってきて、そこで収録できればやろうかなと思っていますので、
あんまり年末年始関係、僕の場合はないんでね、このまま流れでやっちゃおうと思っておりますが、とはいえ、年末年始なのでどうなるか分かりません。
なので、とりあえず今日は、取っておこうと思ったわけです。
はい、その年末年始進行で30日に、倉園慶三さんと、ドバイブス×タスクシュートというテーマで、不安ゼロでタスク先送りゼロ。
この先送りゼロというか、不安ゼロが大事かなと思うんですけれどもね。
今日もあの、何だっけな、Twitterで話題になってましたね、僕その、モーニング娘。
その、モーニング娘。
っていう丸って書いてあるの
知らないんですよね本当に
本当に知らないっていうことを
なかなか本当には理解していただけないんだけど
なんか脅迫神経症だと
脅迫神経症ってのは果たしてそんなに
話題になるような話なのかなとも
思わなくはないんですけど
なんかありましたね
そういうお話が
脅迫神経症が辛くないとか
そういう話ではないですよもちろん
そういう話ではなくて
ニュースなのかなみたいな話なんですよね
私元モーニング娘。丸って書いてありますけど
なんだろうな
強い不安感や恐怖心があるんですよ
これが結びつかないじゃないですか
その言い方をすると
これがなくなるっていうことが
先送りがなくなるなどということよりも
はるかに大事だと思うんですよね
だから30日にはそういう話の一部も
今聞けるかなと思いますので
よろしければ明日明後日あたりで
お申し込みいただけると非常にいいかなと
わけですね2023年終わりということで
脅迫神経症と不安の関係
このモーニング娘。丸っていうのは
僕が知らないというのは
多分おかしなことで
多分すごい有名なんだと思うので
なんかこれを聞いてですね
そんな心配は僕がする必要はないと思うんですけど
多分無名ってことではないと思いますんで
僕もどっかでは聞いたことがあるような気がしますからね
あの何て言うんですかね
その恐怖症っていうのは
あのそう
その症状が辛いという風に
当人になればですけれども
当人も考えますし
私たちもよくその脅迫症の
クリニック外来とかもある専門のね
あるんですけど
私はやっぱりその時のその人の心理になってみるとですね
つくづく自体は不安
不安だという風に思うんですよ
辛いんですよ
でも辛いのは
症状も去ることがあるんですよ
だから不安が辛いんだという風に考えるのがやっぱり
自然だと思うんですよね
で不安ってのはニュース感って話なんですよ
だって簡単に我々の時代って不安を煽るじゃないですか
この不安であるということがむしろ必要だぐらいに
強い危機感が大事みたいな話って
こう割と無造作にされているじゃないですか
危機感がないっていう状態で
この状態がむしろ怖いみたいなね
危機感をなくならないようにしようみたいな
なくさないようにしようみたいなことも
無造作に言われるじゃないですか
危機感って不安じゃないですか
で不安が強いっていう人の方の話がニュースになるっていうのは
非常にある意味現代的な現象だなと思うんですね
夢見心地っていう漫画がね
今手元にあるんですけどね
藤本勝さんという亡くなった方が書かれた漫画なんですけど
それこそこの中にこの夢見心地っていうタイトルが
すでにいいんですけど
ひたすらひたすら誰かの夢が続いていくんですよ
でその中にですね
非常に面白いシーンがありまして
出発の時の動画をデジカメに収めてあるんですね
その中のタイトルに窓の鍵1
窓の鍵2
っていうのがあって
写真が撮ってあって
で出発の時の動画があって
セリフにね
これからいよいよ旅に出るところです
これから私が玄関の鍵を閉めますので
しかとご覧ください
2つ目の鍵も閉めましたよ
いかがでしたか映像さん
この通り間違いなく鍵をかけました
安心して旅を続けてください
という動画を見て
なんかほっこりする犬がですね
その写真
その動画を見て
飛行機の中で
安心している
安心を得るという夢
夢じゃなくて動画を見ている
という話が
めっちゃ不安ですよね
この犬さんたち
映像さんという犬
めっちゃ不安になってなければ
こんなことはしないですよね
この話は
先日ノートに上げた話と
全く同じなんだけど
不安が
このような映像
脳内の鍵を閉め忘れたのではないか
という映像を作り出すんですね
で
その映像を
作り出してしまったがゆえに
万が一にも空いていたらどうしようと思って
家に帰らなければならない
ということになるんだけど
これは
映像がその人を不安にする
という順番で考えたらやっぱり
おかしいじゃないですか
不安がその映像を
作り出すと考える方が
妥当性が高いと思うんですよ
今日つい先ほど
そのような話をしてたんだけれども
問題なのはここに
エビデンスというものを
持ってこようとする
その何て言うんですかね
無理筋さっていうのかな
が私は
今の時代らしさだと思うんですね
エビデンスはないですよ
不安が映像を作り出しているのか
映像が不安を作り出しているのか
というのが
というのに対する
証拠立てろって言われても
困るわけですね
私は断然
不安が幽霊を見せるというのが
正しくて
幽霊がいることを証拠立てましょう
っていうのには無理があると思うんだけど
どっちが先にあるのかの
証拠を作れって言われても
用意しろって言われても
無理だと思うんですよね
で
不安と映像の関係についての考察
直し方っていう話も
直し方っていうのかな
アプローチの仕方としては
不安になる脳の中の神経のプロセスを
止める薬を飲むのがいいのか
それとも不安というものに
分析的なとか
あるいは脳の医者流のとかでもいいんだけど
アプローチがいいのか
どっちが治りやすいのかの
エビデンスという話を持ってきても
本人の苦しみに
なんて言えばいいんですかね
とって
どうであるかって話
だから
この薬でも
アプローチでも
そうなんだけれども
統計では測れないという
部分があると思うんですね
でこの藤本さんが
このコマをですね
こんなにしっかりと書いているのは
彼が不安だった
証拠だと思うんですね
この夢見心地という
漫画には
こうして覆っている
不安な感じってのが
すごくこう
あるんですよ
この人は辛いんだなーって感じが
書いてて辛いんだろうなって
感じがするんですよね
そのように
どこにも書いてないんだけど
漫画の中の
どこにも書いてないんだけど
漫画全体を読語した感覚は
不安って感じなんですよね
一言で言って不安
すっごい考えてるなって感じは
するんですけどね
でそれがまあテーマなんですよ
ここで僕がお話ししたいことは
結局2つありまして
要は僕の感じではね
この一変したところ
完璧な動画をいくら見ても
無駄だっていうことなんですね
それはタスクシュートで
何を管理しても無駄だというのと
タスク管理の講座は
関係ないという話を
したいわけですよ
だってこのデジカメに
講座位はないじゃないですか
デジカメがあるから
こういう不安がなくならないんだ
っていう議論を持ち出したら
僕はそれはおかしいと思うんですね
だけどデジカメで
いくら閉じまりをしたところの写真を
撮っても無駄なんですよ
そのことをよく書いているのが
この夢見心地の夢の
何重の夢になってるのか
知りませんが
このバカンスを楽しんでる
犬の映像さんは夢を見るんですよ
どういう夢かというと
小人が家の中で勝手に
ティッシュに火をつけて
家を家事にしていく
という夢を見てるんですよ
これを動画にコンロの火を消そうと
窓の閉じまりをしたところを撮ろうと
無駄なんですよね
彼の不安は消えない
不安が消えて良さそうな動画を
撮ってきてるんだけど
やっぱり不安は消えないんですよ
これは
辛いんですよ
確かに
でもそれは
バカンスができない辛さではないですよね
このような不安に
いつまでも苛まれる辛さなんだと
いう方が僕は
説得力を感じるんですね
この話この番組では多分
2度以上はしていると思うんだけれども
このコミックのこのシーンは
非常に良いと思うので
何度もしたいんですね
メールの
マナーとかってあるじゃないですか
お世話になっています
とか
なんとかです
ご無沙汰しておりますと書くとかね
こういうのどんなに守っても
不安が払拭できないのは
この動画をどれほどきちんと
収めておいても不安が払拭できないのと
全く同じだと
私は思う
だから手を当てるべきなのは
行動とか
結果の方ではなくて
やっぱり原因の方だと思うんですよ
でも
この話の難しいところは
神経症に原因というものを求めても
無駄なんだという学説も
根深くというか
極めて強くあるんですよね
私はそれについては結構
一生懸命読んできたわけですよ
アメリカでですけど
一生懸命読んできたわけです
だからどちらかというと
症状に手を当てるべきなんだというのが
一時すごく優勢になったし
強い今でも強いわけですね
そこにはエビデンスというものが
用意できるわけです
脳の中でこういう
このエビデンスもね
非常にややこしい
話があるんですけどね
本当は
とりあえず
こういうところの神経基準に
こういうプロセスがたどると
不安というものを覚えるんですよ
というエビデンスは
少なくとも
精神分析でやっているのに比べると
写真に撮ったりできるから
ある種の説得力が増す
ただそれはエビデンスなのか
というのは
僕は残ると思うんですよね
その例えばこの犬の映像さんが
夢を見ている時の
基礎は確実にそうなってると言えるかっていう
その基礎がそうなってる時
そういう夢を見ているって言えるかって言うと
それは僕は言えないと思うんですけどね
結局夢というのかな
不安ってのはどこまでいっても
抽象概念だと思うんですよ
その人その人が体験している
その体験そのものを神経の伝達物質の中に
その体験そのものを神経の伝達物質の中に
その体験そのものを神経の伝達物質の中に
その体験そのものを神経の伝達物質の基礎で
終えるとは僕には信じられないし
仮にそんなことができたとしても
その夢の基礎を薬で止めるのが
解決になるのかというと
異論はあると思う
私は異論を出すだろうなって思う
っていう話にもつながってくるわけですね
いずれにしても
不安というものが僕は先にあるっていう
立場を持つようになる
立場を持つようになる
特に2017年以降
その立場がはっきりするようになったわけですよ
不安の結果
見るものをあれこれいじってみても
事態をよくはできる気がしない
というか私について言えば
事態を悪化させる一方だった気がする
ただこれはそういう療法が
ダメだという話ではない
問題なのはそういう療法しかなくなる
というのが嫌だっていう話です
この療法でうまくいく限り
そっちをやっとけばいいし
その療法そのもの
つまりどちらかというと
対症療法的な療法に
ケチをつけたいとは
僕は今は思わないですが
こっちしかない状態が望ましいっていうのが
怖いっていうのはあるわけですね
こっちしかなければ
私は当時は
手も足も出なくなっていた気がするんですね
2019年2020年ごらん
そのあたりの時まで
でその不安とは何かって話です
最終的にはね
この不安をどう取り除くのか
グッドバイブスで
倉園慶三さんの話を聞きに行ってください
で僕は済ませたい時もあるんですけれどもね
私自身の話をするならば
不安はどこから来たのかというと
母親に突き放されたという
私のイリュージョンから来ました
というのが最近
最近でもない
いいんだけど
一つの重要な結論
ここに皆さん皆さんっていうのかな
世の中一般では大変不評な
フロイトの性欲説っていうのが絡んできます
つまり私の子供の頃はですね
結構まだまだその辺の話が厳しくてですね
簡単に言うと子供は性欲持っちゃダメです
っていう話だったんですね
これエリプスですよね
非常にエリプス的です
えっとあれですよ
要するに
お母さんの相手に追っ立ててたら
お父さんにチンチン切られるよって話です
こんなことをいくら当時昭和だからって
こんな話をですね
そこら中でされてたわけではないですよ
でもこういうことを口走るおじさんはいましたよ
私のプレイごめんなさい
少年野球のコーチとかが
そんな話を割と真顔でしてました
だからそんな時代だったということでもありますよ
ただですね
私が言いたいのは
もろもろそんなことを
えっとナイーブに
信じるわけでは
信じてたわけじゃないです
小学校4年の頃ですらですね
そんな話聞いたこともないですよ
あの私が言いたいのはこういうことです
例えばえっと
ポルノって当時言ってたんですね
ポルノビデオみたいなの
小学校6年生が見てたら
こっきり怒られましたね
バレればね
めっちゃ怒られました
あの七井剛さんの血行仮面っていうね
まだしょうもないというわけじゃない
しょうもなくはないんだけど
非常に昭和な
漫画があったんですよ
平気でそれが
えっとうちの妹とか
買ってたような気がするんですよね
不思議ですよね
今思えばね
何だったんだろう
あの厳しさの緩やかさの
あの絶妙にむちゃくちゃな感じ
あんな漫画が
えっと小学生の女の子が買ってこれる
でも読んでるところを見つけると
なんか親とかがやたら怒られるって
この訳のわかんなさがあるんですよね
で
まあその訳はわかんなさはいいとして
僕が買ったのかもしれないしね
その
このなんか変な背徳的世界みたいなのの中で
つまりあれは何だったのかは
親も分かってなかったんじゃないのかなって
感じがするので
この性はダメってのは何だったんだろうと
まあ僕はエディプスが一番説明としては
手っ取り早いと思うんですよ
まあ僕はエディプスが一番説明としては手っ取り早いと思うんですよ
まあ僕はエディプスが一番説明としては手っ取り早いと思うんですよ
やっぱり
いやそれは謹慎相関をタブー視するための一つのオプションだったんじゃないの
そういうアプローチだったんじゃないんですかって考えると
すっげえいける感じがするんですよね
じゃないと性そのものを完全にタブーにしてしまうほど
簡単に子供が性に向かうということが悪だって
あんなにあからさまに悪だっていうことにする
メリットってどこにあるんだろうね
一方で保健体育とかで教えてるんですからね
じゃあ性の何がダメなのかっていう
性の後ろめたい部分がダメなんですよっていう話をするんだったら
どこが後ろめたくてどこが後ろめたくないのかを
それこそエビデンスで示してくださいって
今時言ったら大変難しいことになると思うんですよ
当時は
例えば服脱ぐのがダメですよ
服着たままするのかって話
服着たまますればいいのかって話し始めちゃったら
どうしようもなくなっちゃうじゃないですか
だもんしても
ダメですよ
当時だったらね
全然ダメ
で結局これは
隠れてこそこそ大人がするならいいんですって話にしかならない
でもこれで
背徳感がないかっていうとそんなことはないですよね
非常に僕不思議だったんですよ
昔からね
例えば世の中には
セックス家でやっちゃダメですってのが多分にあったんですよね
だから世の中にラブホテルだらけになってくるんです
これはいいのかって話が
僕にはさっぱり理解できなかったんですよ
昔からね
子供の目にもあからさまに
そういうところですっていうのがむしろ
大々的にCMでもされてるような
当時のもうちょっと先に
あれが来ますからね
バブルが来ますからね
大人が何やってんのか
子供が
中学生なら分かりますよね
あれですよ
当時僕は
段階ジュニアでめちゃくちゃおそらく
受験の厳しさがピークに達してた頃
厳密に言うと僕の2年後がそうなんだけれども
ピークに達してた頃の子
産家の子供の頭の良さって
もう頭抜けてますよね
普通に大学やってる大人よりも
頭が回ってるんじゃないかと思うんです
あの子たちがラブホテルで
何を大人がやってるのか分かんないっていうのを
期待するんだとすると
それはもう内部を通り越して
アホですよ完全に
もう絶対分かってるんですよ
手に取るように分かってる子だって
いっぱいいるわけですよ
でもそんなのはどの時代だって
そうだと思うんだけどね
でそれは隠してるってことになるのか
隠している手を装っておけばいいって話じゃないの
っていうむしろ気すらするわけですよ
フロイトの性欲説
でフロイトっていうのは性にこだわりすぎて
頭おかしいよねっていう権利は
権利も資格も全然ないだろうなって感じが
僕なんかしちゃうんですけれども
つまり性の取り扱いって難しいよねってことなんですけれども
このもう一段先に
えっと
そうは言っても
性には大概の人は恵まれてはいないと僕は思うんですよ
あの杉あの人はスーパー大真面目な人で
私はいつもこうなんていうのある種の
深刻すぎる
なんていうんですかね
ちょっとした同情を持っていつも読んじゃうという
悪い癖がある杉田俊介さんですね
1975年生まれ
これもまた僕より2歳下ですから
思いっきりその段階ジュニア
ど真ん中に入っちゃってる
方なんですよね
でひもての品格という本を書いている
この本は深刻なわけですよ
この本の深刻さはそうですね
うまく説明が全くで言いません
の中でこういう例があるんですよね
えっと僕は
何だろうな
ある種の人が出てくるんですよ
の人が言うんですよね
本当にひどいと思うんだけれども
あの身体障害とか精神障害の人に全く同情できない
なぜなら彼らの中には結構セックスできてる人がいるじゃないですか
僕は本当にそういうことに全く縁がなく生きてきてるんですとか
自分にアイデンティティがあるならば
障害というアイデンティティでもいいから
性的なことがしたかったっていう
そういう証言みたいなのが出てきて
でも本当にこれは自分でもひどいぐらい
あの偏見に見せてると思うんですけど
でも本音を言うとそうなんですっていう
こういう深刻な話なんですよ
深刻だなってつくづく思うんですよね
こういう話を読むと
だから僕こういうのを読むとですね
フロイトが性にこだわりすぎていて
人間の欲望の大半を性欲が占めてるなんて
ナンセンスだっていうのってどうか来るんだろうなって思うんですよね
めっちゃ深刻じゃんっていう感じが
いかにこうモテない
モテないっていうのとは違うんですよね
要は性欲が満たしようがないということが
どれほどこう人間を
何て言うんですかね
根本的に災難を
進むことになりうるかっていう話だ
いう解釈を僕はとりあえずしているんですけど
でも僕はここをもう一歩進めたいんですよね
その性欲って何なのって感じがするんですよ
多分僕はこれは男性だったら一般的に言って
単に射精がしたいってことではないと思うんですよ
それは簡単にできますよね
そこを満たすのに困ってる人って誰も
誰もいないとまでは言いませんけれども
杉田俊介のひもての品格
少ないと思うんですよ
つまり一人で射精すればいいんだったら
話早いと思うんですよね
ここであの話と混ざってくるんですよ
永田香美さんの話と
永田香美さんの結局
えっと母という概念に抱きついて
母という概念ですからね
彼女が抱きついてた相手
母じゃないんですよ
母という概念に抱きついて
あれが僕は答えの一端になってる
彼女はたまたま女性だったんで
すごく僕はこの話に啓蒙された
という感じがするんですよ
母という概念に抱きつくのが
もし男性だと
頭の中で混乱が起こる
心の中でね
心で混乱が起きるんですよ
自分はそれを性欲を満たしたいものなんだと
信じてしまうんだけど
そうじゃないと思うんですよね
たまたま母が女性で自分が男性だから
母という概念に抱きつきたい
性欲の本質
自分が男性だった場合
それを性欲だと取り違えちゃうと思うんですよ
でもそれは当然だと思うんですね
お腹も空いていますから
多分空想上の美味しい食べ物が食べたいというのと
空腹がセットになってやってくると
ごっちゃになっちゃうと思うんですよ
結局カップラーメン食べて済ませてしまう
そして何か虚しくなるみたいなことが起きる
本当はその人は豪華なものが食べたいんですけれども
お腹が空いてもいるもんだから
なんか手近にお腹を満たせるものなら
何でも良くなってしまうんですよ
そういうことって起こっちゃうと思うんですね
性的に欲求不満がある時に
神経症と不安
母親に抱きつきたいという気持ちがあり
しかもそこにタブーがかかってくると
何が起こるかってことを考えたいわけですね
自分としては
これがつまり私は性欲だってことになってくると思うんですよ
そこに私が思う強い不満ってものがにじみ出てくる
つまり長高美さんもそうだったんだけど
母という概念に抱きついていて
ものすごく安心感を持っている
つまり大事なのはそこで得たいのは安心感なんですよ
性欲を満たしたいわけじゃないんですね
だけれどもそれが男女の関係と被ってくると
長高美さんなんかはそれをレズ風俗って表現をしてたんだけど
安心感を満たしたいという気持ちが
どこかで性欲に転嫁されていってしまう
だから性欲を満たせば安心感も同時に得られる
ここに二重の苦痛があるんですよ
要するにこれはものすごく安心感を持っているんですよ
ものすごくお腹が減っている人が
食べ物食べれば安心すると思っている時の心理状態に近いと思うんですね
食べ物食べれば安心する
同時に空腹も大いに満たせるってなった
飢えた人がいたらものすごく辛いじゃないですか
そしてそこにタブーまでかかってきちゃう場合ですよ
しかし食べ物を食べるとひどい目に合うぞっていうことですよ
これがエディプスコンプレックスなんですね
三重苦ですよね
そういう話を僕は
エフロイトが紐解こうとしたんじゃないかと思っているんですよ
だから神経症というのは辛いんですよ
三重苦なんですよ
性的な欲求不満
不安
そして
なんていうのかな
この不安は二重にかかっているんですね
不安と恐怖があるんです
虚勢恐怖ですね
つまりこの不安を満たそうとすることに対する罰というものが
極めて過酷なために
とてもじゃないけど
この不安を主食することはない
できない
母親に抱きつくのはタブーなんで
つまり母親というところには
安心と
性欲と
そして
父親との戦いというものが
三つかかってきちゃうわけですよね
父親というのは法律と言い換えてもいいと思う
法で不安を満たすことが
禁止されているんですよ
とんでもないくないですか
これだからひもての品格みたいな本が
出てくるんだろうなって感じが
私はするんですね
結局あの本の中では
職業がとか
不安定な派遣の立場がとか
これ完全にエディフスの話してますよね
どこにも性欲の話出てきてないんですよ
その話結構
本の
大部分の締めを締めてるんですね
だから僕は
杉田さんはそれを
従々整理されていますけれども
多分整理につかない状態から始まってるんだと思うんですね
この話を
お前がやりたいときに
お前がやりたいことは
モテたいことなのか
職案に行きたいことなのか
どっちかって話ですよ
どっちも混ざっちゃうわけですね
だから不安だっていうのが
お父さんが怖いのか
お母さんと一致したいのか
それとも単に安心したいのか
そのどれで
どれなのかが本人の中で分かってないですよ
3つとも合流しちゃってるんですね
僕はこれが脅迫症というものだと思います
つまり
これはババレーコさんの本に
出てくるんですよ
精神分析の
自我心理学派の方ですけど
自我心理学派の方では
これを多分かなり得意とするんだと思うんですよ
神経症水準の人をよく見ていたか
最初関係論を
もっと重い人を見ちゃうんだけれども
もう少し軽いところで
軽いから楽だったわけじゃないんですよ
脅迫神経症はどう出てくるか
性欲が人にバレるのが怖いって感じで
出るわけですね
鍵を閉めただろうか
こじまりしただろうか
火を消しただろうかという不安は
結局は社会的な不安ですよね
火事が起きたら人に
バージされる
罰される
あるいは泥棒に入られたって
結局人に罰される
お金を失う
全て社会的な不安なんですよね
その不安が最初に出てくるのはどこか
人に性欲があることがバレる
我々の時代にはそういうところがあったんですね
だから
思春期になると
非常に儀式的な形で脅迫症が出るわけです
寝る前には
4つのシーツを
きっちり折りたたみ
枕の上には
よくわからない時計をセットして寝ると
無制せずに
線を済むとか
こういうのを恐れるわけですよ
男の子はね
そしてこういう儀式を毎晩きっちりしないと
気が済まなくなる
この気が済まないというのは脅迫症の
日本人にとってのキーワードであるというのを
戸井武夫さんが指摘したわけですけれども
こういうのが一番危険になるのは
どういう時かというとですね
修学旅行とかの時じゃないですか
一番バレそうですよね
またそういうの男の子いじってくるから
なんでいじってくるかというと
自分の隠したいからじゃないですか
非常に分かりやすいというところなんですよ
こういうのをいじられる時に
儀式ができなくなりますよね
その儀式が何を意味するのかが
同性の目には分かりやすいので
これが不安なんですよ
だから不安は脅迫症を作り出すんだと思うんですよね
この儀式をやっておけば
どういう意味があるのか
漏らさずに済むということです
つまりお漏らしするというのは
脅迫症のスタートなわけですよ
お漏らしすることになんて赤ちゃんは気づきませんよね
全然全く気づきません
全然そのことを恐れていませんからね
恐れるのは
トイレットトレーニングをされた後の話じゃないですか
つまりこの種のこと
自分が生理的な存在であるということが
恐ろしくなってくる
だから誰だったかな
あれは誰だったかな
哲学者の漢字内男を書いた人が
自分の体から匂いが発するのを恐れている
これは有名なものがあるんですよね
匂うことに対する恐怖症なんですよね
この恐怖症というのも
自分が生理的な存在であるということに対する不安なんです
全部こういうところにやっぱりかかってくるんだと思うんですよ
人間というのはすごく自分が生理的な存在ではないかのような顔をして生きているので
生理的な存在であるということは
いちいち隠さなきゃなと思うんですよ
そういうことをするときは
どこか特別な個室に行って鍵かけなきゃならないわけですよ
特に外を歩いているときであれば
そういうことになるわけです
日本人はまたこれに妙にうるさいところがありますよね
中国ではほら
ドアが半分ぐらい下が開いているとかで
日本人はこういうところで安心できないみたいな話が出てくるじゃないですか
この安心というのも同じですよね
すごく脅迫的な文化なところが
どこか一面あるわけです
これは僕はアメリカに来て
行ってすら感じたんで
アメリカの方が個室で守られて良さそうな文化なんだけど
そうではないですよね
意外とそうではないわけです
いろんな意味で脅迫というものと不安というものは
結局逆転させる部分
逆転させるべきものじゃないと思うんですよ
なんで思春期の男の子が儀式やってるのかというと
儀式の方を見ちゃダメじゃないですか
不安と親の不信感
やっぱり不安でなくなれば
そんな儀式は消滅しますよ
当然
意味が全くないんで
これを隠さなければならないという理由がないんで
ここに例の
例のと言いますか
グッドバイブスでもおなじみの信頼というのが出てくるわけですよ
不信感があるわけですよね
親が怒るんではないかとか
親が分かってくれないんではないかとか
そういった不信感があるわけです
つまり親に対する不信感がなければ
この種の儀式をする理由は何もなくなるわけです
大体この種の不信感を親が持たせるわけですよ
親が持たせるというのはどうかと思うんですよね
お前私が生まれたのなんだと思ってるんだと
母親は処女解体かみたいな話ですよね
私はあれを親の態度として実に不思議だったんですよね
やることやらずに自分がいるわけないわけですよ
この自分がいるっていうのが何よりも証拠になっちゃうじゃないですか
どんだけ子供をナイブ扱いしてもですね
無駄だと思うんですよね
それこそイブホワイトですよね
いやもう白腹以外好きじゃないですか
好きな花はありませんみたいな顔してる人だって
ことに及ばずに子供を作れるはずがないってのは
当然知ってなければおかしいですよね
全部そういうことを知ってるのはイブブラックですって言っても
とんでもない話なわけですよ
しかもあの話の中で
ここをどう見ても
そのことの行為の最中に
強いショックと不快感を受けたのはイブホワイトだったんですよ
イブブラックはその時消えてたんですよね
多分ですけどね
あの本の話の筋を全部追えば
そう解釈するのが妥当だなって感じがするんですよ
まあこれは親が悪いですよねやっぱりね
僕は思いますけどね
どう考えたって
そりゃないだろうって感じがします
で結局その親が悪かろうが悪くなかろうがいいんですけれども
不安というのはそういう風にして現れるものであるから
やっぱりこう
最初に
不安が生まれる多分
動員を何らかの形で作ってるのは親だと思うんですよ
親に対する不信というものがなければ
不安と脅迫症
そんな身近な生理的なところから来る
自分の
えーとなんて言うんですかね
もう例に対して不安になる理由は別にないと思うんですよね
不安になるということは
親がそういう目を向けたっていう証拠の一種だと思うんです
ここで僕が前に戻ってくるんですよ
母親に突き放されたということが
私の突き放さない女性というものを探す
長い旅になってしまうわけですよ
つまり母を訪ねて三千里になっちゃうわけですね
自分の母親はそうじゃなかったから
そうである母親の存在というものを追い求めて
それを女性の上に投影していくという
長い旅が始まるわけですよね
というストーリーは私の妄想だと言われれば
それに反論する術はないです
投影している
エビデンスを示すことは不可能な
おそらく一案として投影しているということを示す
エビデンスとして画家は絵を描くんですよ
写真家は写真を撮る
ここにほら僕が投影している
この素晴らしい女性像ってのを見てってことですよ
こんなものが見えているんですよっていうのが一案としてある
だから芸術がフロイトに言わせると
性欲が厳選になってるというのは
僕は妥当で
極めて妥当な感じがするんですけれども
そしてラフをあんなに描いてるからね画家は
これを戯言だっていう資格は
僕ら人間にはないんじゃないかなって感じがするんですけどね
だってルノワールの絵とかも
母親じゃないという方に
むしろ無理がないそれっていう感じがするぐらい
そういう感じの女性じゃないですか
スラッとしていて少女みたいなんていう絵では
絶対ないですよね
これを投影しているんですよ僕はっていうあれは
フロイトが性にこだわったのはそんなに変な話なのか?
話なんじゃないかなって感じがするんですけど
それだけじゃないかもしれないし
これほどのことが人間には表現できるんですっていう
ある種の自慢話みたいなところがあるとも思うんですけれども
そうは言ってもなんでその題材なのっていうのは
大事だとは思うんですけどね
そうでなくてもキリスト教文化って
うるさいじゃないですか愛の革命に
やたらと厳しいですよね
でもああいう絵ばっかりっていうところがなくはないわけですよね
同時に
なんでなのかっていうと
っていう話になったらやっぱり当然こういうことになるんじゃないのかなって感じ
そうじゃないと話のつちつまが合わないと思うんですよ
別に美しければいいんだったら
何だっていいことになるわけじゃないですか
ここなんて割とそうですよね
暇割りとかですもんね
結局そういう話になってきたときに
さっき言った3つの問題が全部閉ざされてしまうとですね
そういう話になってきたときに
めっちゃくちゃこう不安になるし
めっちゃくちゃこう突き放されてしまうし
そしてこう
寄るべないわけですよ
だから私は寄るべなさと長寿がというのはですね
寄るべない理由
母を訪ねてと
セットになると思うんですよね
自分が頼りないというのは
この感触から来たに違いないと思うんですよ
実際に現実に通用しないとか
いろんな言い方されますけど
甘えは許されないとかね
全部でだらめに聞こえるわけですね
ある意味では
私にとってはですね
この母親というものに突き放された感触の中で
例えばトイレするときに不安になりますとか
そういったことさえなければ
こんなに自分が頼りないと思う理由ってない気がする
最近つくづく思うんですよ
一体自分何歳だと
50年も生きてくる
目高なんてどんなに頑張って勝っても
まあ5年は生きられませんからね
50年っていうのは
生物としての経験値があるからね
経験値としては相当なもんだなって思うんですよ
強い層に見えるけど
トラとか20年とか
良くてね
そんなもんだと思うんですよね
大型動物は長生きする方ではありますけれども
50年現実を見てくるっていうのは
なかなか大した長さで
えっと
そうそうできることではないわけですよ
本人は強いつもりは全くないかもしれないけれども
相当いろんなこと知ってますし
えっと
そういうのが
例えば季節ってものを知ってますしね
季節知らないで亡くなっていく生物いっぱいいますからね
季節ってものを知ってますし
1年ってものも知ってますし
四季ってものも知ってますしね
非常にこう
ある意味では
強いっていうのとは違うんだかもしれませんけど
そうは言っても人間っていうのは
大型の方ですし
小型な動物とは全然違いますからね
だからなんでこんなに
寄るべないのかなっていうことですよね
あの
長田カビさんがそうですけど
母という概念で
抱かれてぐっすり眠りたいっていう
そういう欲求で
どんだけ不安になってるのか
この不安が本当に現実なのかどうかっていうと
グッドバイブス的になってくるんですけど
幻想的なものなんじゃないかなと思うんですよね
そしてそのテーマの中に
虚勢不安って言葉が入ってきて
それは強靭の卵とって感じは僕は全然しないですよね
なんで僕らが
えっと
例えば金子に
相関なり
例えば同性愛なり
昔
昔からこう
やたらと金威金威って言葉を使ってですね
どうもこう
いちいち
なんかこう
締め縄みたいなものが出てくる
この金威ってものに
仕立て上げたがったこの
ある種のそれが
なんかこう
全然自然のものじゃないですよね
だいたいあの
ある意味滑稽じゃないですか
僕なんかそう思うときがあるんですよ
なんか縄とか
何かこうそこに折り紙みたいなのぶら下げたりしてですね
何をしたいのかな人間はと
少なくとも自然にできたものだとは
絶対言えないと思うんですよね
でそれをなんかさも自然のもののあるかのような顔まで従うと
絶対これは不自然だとしか思えない
こういったものに頼ってでも
何かをさせまいさせまいとしているこの力を我々が引き受けては不安になっていると
こういったものに頼ってでも何かをさせまいさせまいとしているこの力を我々が引き受けては不安になっていると
こういったものに頼ってでも何かをさせまいとしているこの力を我々が引き受けては不安になっていると
これがですね
現実的であるっていう感じは全く受けないわけですよ
なんか本当にこうね
夜な夜な何かこうかがり火を焚きながら
わら人形だのなんだのってやって
いう話に限りなく近いんじゃないかなと
ああいうものに不安を覚えるのはやっぱりですね
子供の頃に親にがっつり怒られたみたいな話
そんなものがベースにあっても
不思議はないんじゃないかなと
不思議はないんでしょうかっていう話が意外に通りにくいんですよね