収録のトラブル
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
10月24日火曜日朝の7時38分ですね。
残念なことに、昨日の夜収録して今日出すというのは、ものの見事にもうすでにちくじってしまって、
すべてがちょっと今日ゴテゴテになっている。
今日ゴテゴテっていうのはおかしい。
昨日の夜からゴテゴテが起こっているんですね。
これは非常に、なんつうんですかね。
昨日の夜、不意にめちゃくちゃ調子が悪くなりまして、
大体なんでなのかは分かるような話なんですけど、とにかく悪くなりまして、
全然ダメダメだったわけですね。
だからこれがですね、昨日早速もう崩れてしまったわけですね。
夜録って朝出すというのは、もう一回で崩壊している。
すでに朝録って朝出すパターン。
それが回復できそうなんで、大体予想通りで良かったんですけど、
でもこれからですね、しばらく色々と昨日の夜、
ゴテゴテに回ったやつをなんとかせねばならないということでですね、
なかなか楽じゃない状況なんですね。
こういう余計なことを決意するのはダメかなと思うようになりそうなんだけど、
ここはちょっとしばらく、なんとかもうちょっと持ちこたえてみようと。
夜収録するか朝収録するかの違いだけですからね。
どっちでも良いようなもんだし、どっちでも難しいとは思えないんだけど、
別に難しかったわけじゃないんですけど、
初日とか楽々だったんですけどね、
あっさり昨日の夜に、わざわざ夜に体調を崩すという、
それだったら朝録っておけば良かったっていう、そういう話になっちゃうんで、
もう難しいというわけじゃないんですけど、色々なことが起きますわね。
でも昨日の夜、調子が悪くなったのは非常に致命な理由があるので、
実際起きてみたら全然何の問題もなく、このように朝収録をしていると。
この、なんていうんですかね、
混ぜこぜでいければいいかなぐらいな感じに早くも切り替わりつつあります。
今日休んでも良かったんですけれどもね、そういった事情もないわけじゃないんで、
でもいきなり2日目っていうのもどうかなっていうのもありまして、
まあまあ今日もやろうということにしました。
あんまり別にそんなに強い決意とかを抱いているわけではないですが、
10月中に3ヶ月チャレンジの、名前良くないのかなと思って最近、
3ヶ月コースとかにしちゃおうかなと思って、
あまりにもそれだと、訴求しにしてなさすぎる名前なような気もするので、
おいおい考えていくとしてですね、
とりあえず3ヶ月チャレンジの第4期、
なんていうんですかね、
気を確かに仕事をし続けるというね、
最近これもおいおいちょろちょろどっかに書いたり、読んだりしていこうと思ってるんですけど、
エンデのモモ、もう何週目くらいかな、
あんまり最初読んだとき好きな作品ではなかったんだけど、
なんだかんだ何週か読んでいるわけです。
5週くらいはしている気がするんですけど、
読んでみて、これは名作だなと、
うちの娘なんかに寄せると、あれのどこが名作なのか教えてほしいって言うんですけど、
一通り喋ってみてもあんまり借銭とした様子はなくてですね、
50ぐらいになるとわかるのかもしれんっていう感じなんですよ。
で、同じような作品の、僕に寄せるとほぼ全く同じ主題の、
エリコの丘っていう方はやたら気に入ってて何週もしてるんで、
こういうのは感性みたいなものだなと思う。
エリコの丘はもうすごい傑作だと思うんですけど、
モモに比べると全く有名じゃないですけど、
あっちの方がでもちょっと渋いんですよね。
渋くてだから売れない感じがするんですが、
そういうわけで、同じ主題は使ってても、
やっぱり好きになれるなれないっていうのは出るよなっていう。
円ではですね、たぶん10代の人が読むと、
積極さすぎるという感じがするのはもうよくわかるんですよ。
実際そうだから。
じゃあエリコの丘はそうじゃないのかっていうと微妙に、
あれだって十分そういう意味では積極さしいなと思うんだけど、
その辺がだから塩梅ってやつなんだろうなと思うんですよね。
でも円では文章も上手いんで、
うちの子も文章が好きで何回か読むみたいなことは言うんで、
文章が嫌なわけじゃないからやっぱりこれは難しい。
塩梅ってやつだなやっぱり。
僕の感じではですね。
塩梅って言葉がバンバン頭の中で飛び交ってるのは、
うちの地下に塩梅っていう地名がある。
地名じゃないなあれは。
でも塩梅っていう記念碑があるんですよね。
なんとかの塩梅って書いてあるんですよ。
なんであれがわざわざ残ってるのかがわからないんだけど、
塩梅って書いてですね。
その記念碑があるんですよね。
この記念碑の前をしょっちゅう通りかかる。
そんなしょっちゅうは通りかからないか。
でもちょいちょい通りかかって、
なぜこの人、ここに碑を建てた人は一体どういう気持ちでここを建てたんだろうなって
毎回思う塩梅なんですね。
それはいいんだけど。
3ヶ月チャレンジとタスクシュート
3ヶ月チャレンジをやりますので、
1枠ありますので。
28日にですね、
第1回のレクチャーみたいなのをしようと思ってるのは、
31日に申し込まれた方には別にちゃんとやりますので、
キックオフみたいなものはもうしませんけれども、
なぜかというと残りの1枠の方のみが新しい方になるから、
これでキックオフイベントってことに感じとしてならないので、
やってもいいんですけどね、別にね。
キックオフではないんだけども、
レクチャーみたいなものはちゃんとやりますので、
よろしければですね、それを、
それ目当てってことはないと思うんですけど、
それも聞いていただければというふうに思います。
これを無料説明会とかにすればいいんですかね。
よくわかんないんで、
今まだそこまでは手が回らなくなってきているので、
何しろ体調崩したりすると、
たちまちこうスケジュールがやばい事態になるんです。
炎上しかけるんですよね。
結構今忙しいんだな、自分っていうことに気づきまして、
そんなにそんなにあれこれやってる場合じゃないんだなっていうのもね、
分かってきたので、
夏やっぱり調子がいいんで、
いい気になってですね、
仕事増やしてるんですよね。
冬に差し掛かる頃になって、
なんかこう慌て始めるという、
これもいつものパターンなんですが、
まあまあそんな感じで、
寒くなってきましたね、確かに。
あとはですね、
タスクシュートセミナーのお知らせ
11月19日に、
倉座の圭三さんと、
久しぶりだと思うんですよね、
オンラインオンリーで、
11月19日の日曜日の4時に、
5時か、
3時3時ごめんなさい。
15時に倉座のさんと、
私がタスクシュートの話をするという立て付けで、
そういう設定でセミナーをします。
時間を自由に使うっていう、
私はこれは、
割とタスクシュートユーザーでも、
歴の長い人は、
実践できてるはずだって思ってるんですね。
これを長く使ってて、
これができるようにならないと、
多分すごくつらいことになっていくんで、
やめちゃうんですよね。
だからこの話を先にすればいいんだと、
最近ちょっと気づきまして、
使えるようになったら自由に使えます、
ではなくて、
自由に使うっていう方針で使い始めれば、
きっと自由に使えるようになるし、
挫折もしにくくなると。
そういう考え方を最近、
すごい強く意識するようになりまして、
最初僕自分が、
タスクシュートを使った効果なり変遷なり、
3日ぐらいで通り抜けたために、
この前どういうつもりで挫折しそうになる人には、
何が起きるのかっていうのが、
ちょっとよく分かんないところがあるんですね。
僕結局使って初日以来、
一度も挫折ってしたことが、
タスクシュートに関してはないんですよ。
間が空いたとかもないし、
ほぼ最初から朝から晩まで、
すぐにそういう流れに切り替わっていったんですよね。
それがあっという間に起きて、
全然苦にもならなかったんで、
これは私、
Good Vibesでも割とあることで、
全部クラノフさんがおっしゃってる通りに、
できてるかっていうと、
そうでもないと思うんですけど、
一番最初のところから、
違和感はなかったんですよね、別に。
お話に違和感があるところは一切なかったし、
違和感はなく入って、
1週間と言わないまでも、
1ヶ月ぐらいで有効な効果は、
あっという間に次から次へと起きる感じだったんで、
今日もその話をちょっとしていきたいと思うんですけれども、
挫折っていうGood Vibesをやめようみたいに、
思ったことはないんですよ。
タスクシュートの方が当然長いから、
Good Vibesは今後あるかもしれないじゃんと言われれば、
でもあるとは思えないってところもあるんですよ。
これは分かんないんですけどね。
やめろと言われるとかね、
でも誰も言わないだろうしね、別に。
もっと初期の頃の方が、
スザキさんそっちの方を目に行ってしまうのかっていうね、
多分そういう起因に近いものなんだけど、
懸念を持たれた方はいらっしゃると思うんですけれども、
ここに至ってはですね、
別にそっちに行くとかはないんで、
これでインドとかに行っちゃうとか、
そういうことはないわけだから、
別にどってことはないと思うんですよ。
別にEvernoteもまだ使ってますからね、私ね。
それこそそっちに行ってる人たちもいるじゃないですか。
全然違う話ですよ、これは。
Evernoteとかにはもう見切りをつけましたみたいな。
僕はまだ使ってますからね、Evernoteで。
Scrapboxとかもまだ使ってますし、
別に全然そっちにもどっちにも行ってないと思うんですよね。
何だろう。
例えば、ポケットとかはもうあんま使ってないんですけどね。
そういう意味では別に僕はそっちとかこっちは、
IFTTTもほとんど稼働してない。
唯一1個だけ稼働してるのがあるんだけど、
惰性みたいなもんだっていう。
切るのがもうめんどくさくなったみたいなノリでしかなくて、
Lifhack系のことを何もしなくなったiPhoneも使ってますし、
最近買いましたしね。
まだ届いてないけど。
そんな感じで、Good Vibesも違和感なく続けています。
で、そのタスクシュートとGood Vibesの話になるわけですね。
自然と。11月19日は。
プライドのけいぞうさんとの共催で、
私がしゃべるから。
私はタスクシュートの部分を原則しゃべるんで、
タスクシュートが僕が思うに最も無理なく使うというのは、
基本3点守るだけ。
3点が無理なら2点守るだけでいけるっていうふうに、
最近は思うようになった。
その話をしたいんですね。
ジェイマン・スザキさんが100日チャレンジで、
よくお話になるような話なんだけど、
彼の話は100日チャレンジ全域に渡ってるわけで、
それなりにいろんなお話がありますが、
僕はもうこれを3点だけに絞る。
なぜなら100日チャレンジではないからですね。
タスクシュートを使えればいいという話になるから、
もっと絞れるわけですよ。
もっと絞って、とことん絞って話すとどうなるかというのを考えたときに、
この3点が残ったっていう感じなんですね。
タスクシュートについての認識
3点じゃなくてもいいかもって思ってて、
1点に本当はしたいんだけど、
1点にならなくてやっぱり2点なんですね。
2点は最低いるかなっていう。
でもこれ守ってればタスクシュートやってることになる上に、
これを守るだけでいいなら挫折はしない。
むしろですね、ここに盛っちゃうんですよね。
盛り込むんですよ。
盛るってやつですよね。
坂盛りの盛りですね。
あれをやるんですよね。
どうしてもその2点だけで何の効果があるとも思えないってことで、
追加事項をそこに加えてしまうんですよね。
昨日も調子が悪い中何とかちょっと頑張って聞いていた、
私はもう一切発言はできなかったんですけど、
体調的に聞いていたマスター講座の前夜祭みたいなのがやってたんですけど、
任天堂トレーナーの方々とJさんとでね。
どうしてもこういう話になってくると、
締め切りがどうしても気になるとか、
本当にやりたいことはどうすればいいのかっていう話が出てきてしまって、
話が一回転してるなっていうのがですね、
もちろん私が喋ってても同じ話になるんで、
どうしてもここの心配が抜けないんですよね。
抜けないのはよく分かるんだけど、
この心配を抜くのがタスク習得なんですよ。
結局100日使ってればそれが起きるはずであり、
起きないまま使うとすごい辛くなって挫折するんですね。
だからこの先やりたいことはどうなる。
特にGTDでいうところのサムデイリストみたいなのに相当する。
僕はもっともっと手前のですね、
GTDで一番重要だってフラグが立ってるのだって、
どんどん片付いてなんていかないんじゃないかって疑ってるんだけど、
サムデイリストなどという、
ほとんど一番最後に来るようなものはどうするんだって心配が先に来ちゃうんですね。
この順番が明らかにおかしいんですよ。
この明らかにおかしい順番を何とかすることができればですね、
そのような心配はそもそも起きなくなるはずなんですね。
そこのところに僕はいろんな考え方がそこのところでケアできるんですが、
Good Vibesが現状は一番いいと思ってるんですね。
なぜならば、生きている日本人の方の口からその話を、
そう老若く聞くことができるからですね。
同じような話をしている人が、そうじゃないけど、
フロイトだったとして無理じゃないですか。
まず彼は日本語は喋らない。もう生きてもいない。
と言っていることも全然そういう話たちが、
同じようなところを抽出しようとしてくると苦労がいっぱいあるわけですね。
オンラインでももちろん喋れない。
当たり前ですけどね。
こういうことは多いんですよ。
たぶん、Good Vibesのようなことを話されているインド人の人とかも
いると思うんですけど、この地上にはですね。
アップ持ちできないじゃないですか。
だからそういうふうに考えていくと、
これは一番簡単なのはGood Vibesの話を聞くことだっていうのが
私の結論なんですね。
で、やることの少なくともタスクシュートユーザーとして
お願いしたいことは1点しかないんですよ、基本的に。
その心配の順番がおかしくなっているのを
妥当な順番にしてみましょうということなんですね。
なんなら心配するのをやめれば一番いいんですね。
そうすると無理なく続いて効果も最大化されると
いうふうに私は思うんだけれども、
この話をいっぱいするよりは、昔の考えではいっぱいするよりは
タスクシュートをいっぱい使った方が手っ取り早いと僕は思ったから
実はほとんど話をしてこなかった面があるわけです。
結論しか喋んないみたいな。
なぜならば、そこのブラックボックスについていくらお話をしたところで
だいたい当時の感じでは無駄な感じがして
どうしたってサムデイを一番最初にやるのがいい人生なんだと
信じている方に、サムデイ一番最後にしましょう、なんなら捨てましょう
というのは響きっこないなというのがあったんですよね。
タスクシュートやってればこれは自然とわかることなので
わからないなら使えなくなってしまうものであれば
それをちょっと違う方向から言うことにしたと。
違う方向から言えばこと足りるのかって話もありますが
でもやっぱりここを我々は納得していくより他ないなと
最近桃を読んでて思うわけですね。エンデの桃ですね。
思うわけですよ。
だからこれを何とか先に認識するという形を取ろうと。
先に認識した上でタスクシュートをいじってみるというやり方だと
多分PDCAを回そうって発想よりはずっと楽にやれるようになる
だってやることがぐっと減りますから
そして自分にかかってくる負荷の重さが違う
100対0ぐらいに違うんで
だから無限に違うって感じなんですよ。
カーナビとの類似性
そんな感じで11月19日にテミナーしますので
こちらはぜひいろんな方に来ていただきたいなと
特にタスクシュートにかかってる人っていうのは
気にしてる人とか引っかかってる人には来ていただきたいかなと思ってます。
今日は昨日に引き続いてウッドバイブスを私が実践してきていて
いろいろ引っかかりがあるのかもわからないんですけど
私はあんまりなかったからね。
本当に少なかったんで
多いという方にもやってみてはどうかって話を昨日しましたね。
やってみるとどうなるのかって話を今日はしたいわけですが
やってみると一番どうなるか
一番はないんですけど
3つ4つ5つぐらいが並行してる感じになっちゃうんですけれどもね
1つ言えるのが
余計な反省をしなくなるっていうことなんですね。
これは100日チャレンジの第6期のキックオフでも繰り返し言いました。
余計な反省をやめましょうと。
グッドバイブスの文脈であろうとなかろうと僕はもう今は言っているんですね。
これタスクシュートだけに出てくる話ではないからね。
タスクシュートにも出てきちゃうのかもしれませんけど
僕はタスクシュートに反省が出てくるというのは
実はものすごくナンセンスだと思ってるんですよ。
これね先日何かで読んだんですね。
タスクシュートというのはカーナビみたいなもんだから
その通りに行けようとその通りの時間につかなかろうと
反省しないでしょうと書いてる方がいらっしゃって
ざっくり言うとねその通りだと思うんですよ。
だって私もカーナビで目的地セットってしますけれども
これもね世の中広いっていろんな方がいるんで
そうするとこの通りに行けないことを
反省する人もいるのかなって思うんですけど
僕はまだ見たことないんですよそういう人は。
うちの父もしょっちゅう目的地セットとかしますけど
全然違う道走るわけですよ。
そうするとカーナビはリルートしますよね。
この度に反省する人っているのかな。
僕にはちょっと想像がつかないんですよね。
これと全く同じような構造の見え方をするときありますね。
タスクシュートもね。
リルートリルートなんですよ。
こっち先にやった。こっちも先にやった。
この時間は想定よりはかかった。
これでどうして反省しなきゃなんなくなるのかが
全然わかんないんですよね。
だって長距離ドライブするときにはむしろ
カーナビも言ってきますよね。
最近の気が利いてるんで2時間走ったから休みなさいみたいな。
時間変わるじゃないですか。当然のことながら。
他にもコンビニに寄るとかトイレに行くとか
しょっちゅう出てくるわけで
毎回毎回想定とはずれるわけですよね。
渋滞が発生すれば当然ずれますし
渋滞の想定もしますけど当たらんですからね。
あんなものはね。
だから当然のことながら想定から崩れていく。
そしてその度に反省するってことはありえないじゃないですか。
コンビニ寄ってしまったから脱線したから反省しますって
ないわけですよ。ないと僕は思う。
世の中広いんでそういう人もいらっしゃるのかもしれません。
でも私にはまだ見たことないし
なんかそんなことはしない方がいいと思いますね。
想定する時間は17時9分だったけど
着いた時間は17時15分だったから
タスクシュートと実行の関係
6分遅れて反省とかしない方がいいと思うんですよね。
このカーナビの行けると言った通りにできなかったのは
なぜなのかを検証してみましょうとかもしない方がいいと思います。
してる人いないと思います。いないと思いたい。
いないと思いたいぐらいですよね。
世界にいろんな人が本当にいるわけだから
そういう人もいらっしゃるのかもしれないし
そういう人に余計なことを言うこともないんですけど
タスクシュートではこれ関係ないですから。
タスクシュートの現在位置から終身までの想定とルートを出しますが
それと全然関係ない動きをしたからといって
反省する必要は全然ないんですよ。
カーナビと全く同じで
しかも反省するはずがないと私なら思うんですよね。
だってあんなルートはデタラメですから。
何て言うのかな。
昔、本当僕これカーナビでいいと思いますけど
もう一つあえて例を出すならば
浦沢直樹さんがマスターキートンという漫画を描いてます。
あれで子供の銃があってレーザー光線が当たるんですよね。
弾を撃つのは危ないからレーザー光線当たったら死んだってことに
やられたってことにするっていう遊びなんですね。
このレーザー光線を使ってキートンが悪人をやっつけるみたいな
そういういわゆる痛快ショートマンガなんですけど
それは1話ですね。
毎回毎回レーザー光線を使ってるわけじゃないんだけど
そのおもちゃのレーザー銃で引っかかった人に対して
キートンが言うわけですよ。
プロのスナイパーがこんなものを使うはずないだろうと。
実際にそんな光を出したら
射撃の位置は特定される上に
実際の弾丸の飛ぶルートとレーザーは関係ないんだから。
これですよね。私も絶対その通りしかないじゃないですか。
これとこのいわゆる光線の線とタスクシュートのカナビでもいいですけど
シミュレートは全く同じですよ。
これと実践とは関係ないんですよね。
だってその光の通りに弾飛ばないじゃないですか。
光の通りに弾飛ぼうとしない。
フォーミングミサイルじゃないんだから
実弾の線と射線は関係ないんですよ。
僕らこういうものに騙されるんですよ、不思議なことに。
この線の通りに飛んでくるような気がするんですよね。
この線と実弾とは本来関係のない世界を走ってるわけだから
関係ないわけですよね。
実弾をこう飛ぶように見えますというのを
なんとなく見せてるだけであって
タスクシュートも全くそうなんですよ。
このルートの通りにやろうとすることは別に
そういうやろうとしない方がいいと思うんだけど
でもやろうとする人がいらっしゃるのはいるかなと思うんだけど
これと実行することとの間には一切関係ないんですよね。
100%無視したって構わないわけですよ。
実際なんかね、家が火事になりそうだとかになったら
あれ100%無視するに決まってるわけですよ。
だから実行するコードと
事前に書いたプログラムの間には
実は何の関係もないんですよね。
これは僕は自明だと思うんで
前に書いた通りにできなかったことを反省するっていうのは
実はものすごく変な話を聞かされてる気が
罪悪感と正しさ
いっつもするんですよ。
Kawadamiが書いた通りのルートが
たどれなくて反省してるっていう風に
限りなく近い感じがして
Kawadamiが書いてるルートっていうのはあれは
地図上にとりあえず線書いてるだけなんで
その通りに行けるか行けないかとか
その通りに行くことになってるかどうかっていうのは
人間が知ったことじゃないんですよ。
そんなものは。
もともとなかったしね、Kawadamiなんて。
だからこれで反省するはずはないだろう
と思うんですよ。
ようやくここからGood Vibes的な話になっていくんですけど
反省しないってことの意味の中には
クラズノさんの言葉を
よく使われる言葉を使えば
罪と罰の仕組みは
自分は採用しないっていう意味になるんですね。
この段階で採用しないってことを
非常に重要なのは採用しないということに
決定しないとどうにもならないですね。
採用したくないなとかでは無理だと思うんですね。
なぜならば、ここで僕はよく精神分析持ち出すんだけど
これを最初私たちは親の愛を買うために
使ってしまってるから
そういう構造を持ってると思うんですよ。
エディプスコンプレックスってのはそういう意味だと思うんですね。
フロイトが指摘、指摘っていうか発見したってのはおかしいし
発明もおかしいんだけど
再発見したの。
誰かが言ってたな、精神分析は全て再発見の産物だっていう
そういうことなんですけど
非常に素朴な話として
お父さんをお母さんと僕が取り合うって話なんですね。
お母さんをお父さんと僕が取り合うって話ですね。
でもそこでお父さんというのは強くて正しいから
罪悪感を抱き
お父さんの言う通りにする。
悔しいけどそうするって話。
非常に素朴に言えばそういう話。
ここに罪悪感が出てくるんですよ。
これがすっごいあの話の中では大事なんですね。
罪悪感を持つということによって人は
三つのことを同時にある意味に成し遂げる。
一つはお父さんと僕は違うという。
あるいはお母さんと僕は違う。
つまり僕ってのはこの二人とは別個の存在なんだというのを
はっきり認識する。
これがつまり自立への一歩になるわけですね。
で、残念ながら世の中には
自分が望んだというだけでは
その結末を得るわけにはいかない。
これが当たり前かもしれないけれども
3歳2歳の頃には
そう当たり前じゃないわけですよ。
泣けばミルクが出てくるっていうのが常識の世界であり
そうでなければまずいわけです。
ここで大きくその世界観が変わってしまう。
ここに罪悪感ってものが出てき
出てくることになってるんですよ。
人間社会ではね。
つまりこれまでは泣けばミルクがもらえてたら
どういうことかというと
自分はあるがままでいいっていうことなんですよ。
自分が望んだら泣く。
泣いたらミルクが出てくる。
これが正しい世界の在り方なんですね。
だけれどもそれが一変する。
お母さんを望む。けれどもそれは叶わない。
無理やり叶えようとすると
この家の構造を壊すことになる。
ところまでわかんないですけどね。3歳児児。
まあまあそういうことを予感する。
そうすると何が起きるか。
条件次第では
親は私を愛してくれなくなるという恐怖がここに芽生える。
これが罪悪感の原理だっていう話なんですね。
これがあるから人は
あるものとあるものの両方望んだとき両立しないならば
どちらかを我慢しなければならない。
そこに我慢するべき理由ってのが必要になるでしょう。
この家の子でいたいとかね。
そういうふうにこの家のルールなり
起きてなりを守るってこと。
ここに正しさってものが出てくる。
だから正しさと自立と罪悪感が一斉に発生するのが
エディフスコンプレックスだってこと。
ここにある種の苦痛があるわけですね。
だからこれがある種のケースによりますが
トラウマにもなると。
この時に親に対する愛情と親に対する憎しみが同居するという人生を
ここから歩まなきゃなんだくなるし
それができないうちはですね
少なくともその法がすらないという段階で
人間社会で生きていくのはかなり困難になりますよっていう話。
だから快楽原則から現実原則に至るわけですね。
ここを快楽原則で押していくと
かなり困難になるじゃないですか。
私何やってもいいんだで頑張るんだけれども
それが通るためにはですね
小国の独裁者の王子様ぐらいじゃないと
むしろみんなからひどい目に合わされますよね。
そこでよく出てくるやつが白外妄想というものに
なんでみんなは私のが思った通りにしてくれないんだろう
っていうのが非常に難しい問題を招くわけです。
でもこれはディプスコンプレックスっていうのはですね
フロイトも言う通りですけれども
いろんな人が言う通り
完全な形になることは絶対ないわけですね。
ある意味では。わからないじゃないですか。
本当は悪いのがどっちなのかこの話は何も語っていない。
お父さんは正しいのか強いのか曖昧ですよね。
現実原則というのはそういうものであって
その都度その都度検討していかなければならないわけです。
ここを飛ばしたくなると漂白神経症気味になっていくわけです。
世の中には絶対に正しい置き手があって
その通りにみんながやればいいんだっていう
発想を取ると
あれ、鍵閉めたっけって話になるわけです。
これどうも繋がらない感じがするかもしれませんけれども
世の中が常に正しく動くこと
時計の針みたいなもの
プログラムされているものの通りに動いているっていう
大前提を持ってくる
お父さんは正しくて強いっていう
何にもそこで葛藤を味わいたくないっていう風になるためには
お父さんが正しいってことに100%決めてしまいたくなるんですね。
そうするとお父さんがちょっとでも間違ったことをするってことは
認められなくなるし
あってはならないことになってしまう。
でもお父さんは鍵をかけ忘れたりもする。
これどうしたらいいんだって話になった時に
困るわけですよ。
こうして鍵を忘れるとか
ガスの元栓がどうしたこうしたって話が出てくるわけですね。
自立っていうものをした時には
いつも自分は絶対に正しいことだけを
し続けてなきゃならないことになるわけですよ。
自立が100%の自立を意味するんだろう。
お父さんが正しいっていう理由で
エディプスコンプレックス
自分が我慢したってことになるならば
お父さんは正しくあり続けてくんないと困るし
自分が自立したのが正しいならば
自分もずっと正しいことをし続けなきゃならなくなるわけですね。
間違うことができなくなる。病気。
それが多分脅迫症っていうことになるんだろうと思います。
今ちょっと脱線してるんだけど
この中で一番問題になって
一つ重要な問題が罪悪感を抱く。
正しいことをするには罪悪感が必要なのかっていう話ですね。
これはですね
この文脈でもそうだったけど
持っちゃうという話なんですよ。
そもそもエリプスコンプレックスにおいて。
持たないようにできないのかっていう議論もなくはなくて
オングデンっていう人は
すっごくそこのところも頑張ってるなと思うし
私も子供が持つにしても
少なければ少ないほどいいとは思うんですね。
ただ持っちゃうっていう
人間の精神行動上持っちゃうというのが
これはですね
一番最晩年にフロイトが言っていた通り
原始時代に持つ構造を
そもそも霊長類の世界にはありがちだよな。
つまりオフスを頂点としたヒエラルキー社会みたいな
猿山ですよね要するに。
あそこから進化してきた人間は
やっぱり群れから弾き出される恐怖っていうものに
心理構造上持ちやすいんだろうなっていうのがあるんですね。
結局この話は長田上さんが
漫画ではっきり書かれている通りで
長字画ってのはですね
自分の分身みたいなやつになりそうなんですよね。
長字画のイメージって分かんないんですよ。
フロイトが書いてるのもどうもはっきりしないし
ただ正しいことをやれって言ってくる
というか自分に無理をさせたりする。
長田上さんは早く起きろと苦しくても起きろ
お腹痛くても起きろみたいなので苦しんでるんだけど
その時のイメージが親のイメージじゃないんですよね。
漫画家さんってあそこ何か書かなきゃならないから
アテナとか超人とかでも何でもいいけど書かなきゃならないから
長田上さんはご自分を書いてたんですよ。
ただし色が違うんですね。
長田上さんの漫画では長田さん自身は白で書かれてるけど
長字画はピンクになってたんですよ。
これはですねこの方にとっての長字画のイメージは
やっぱ自分なんだなっていうちょっと強そうな自分で
自分を引きずり回す自分なんですよ。
このピンクの自分、長字画の自分は何をやらせようとしてるかというと
親に気に入らせようとしてるんです。
この白い自分を引っ叩いて勉強させて
引っ叩いて朝たたき起こして
お腹が痛くてつらいって言っててもそんなの大したことないって言って
無理やり引きずり起こすと。
とにかく大したことがない。そんなことで弱音を吐くなっていう
体育会系なんですね長田上さんの長字画は。
このピンクの自分がさあどうですかここまでやりましたよって言って
親に見せるんですよ自分自身。
これはつまりこの絵はすっごく僕は毎度読んでいて
非常にしんみりもさせられるし
いやーこれかなりいい線いってるよなと思うんですけど
これがかなりエディプスだなって思うんですよね。
必ずしも父親ではないんですよ。父親と母親に同時に見せて
しかもこのシーンがいいんですよ。
父親と母親はどうですかここまでやりましたよって
親への愛とミスコミュニケーション
ピンクのお姉さんが言って見せてボロボロになってる
長田さんを見せて親は?っていう顔をしてるんですよ。
つまり親の愛が欲しいからこれやってるわけですよね。
いろんなことをやる早く起きる宿題をする。
でも親はかんましい反応見せてくれない。
なんか親はよくわかんない反応
なんかこの子よくわかんないことやってるなっていう顔をしている。
つまり長田さんよくわかっていらっしゃるんですよ。
これをしていても親は自分を愛してはくれない。
ここにある種のミスコミュニケーションがあるわけですね。
非常に頑張ってる。長寿がの言う通りにしている。
でも長寿がは幼いので一体全体何をすれば人が喜ぶのかがよくわかっていない。
とにかく頑張ってる。体育会計的に頑張ってる。
そうすれば人は自分にそういうふうにやっぱり学んできた気がするんだと思う。
頑張れと言われている。早く起きろと言われている。
言われていることは確かにそうなんでしょうけども、実際にそれをやってみると意外と相手は喜んでいない。
ここに怒りがありますよね。間違いなく僕はやっぱりここには怒りがあると思うんですけど、
それは愛が欲しかったからこそ怒ってるわけですよね。
罪悪感っていうのはこういう構造を持ちがちなんですよ。
で、親が喜ばないのは私が至らないせいだろうか。
罪悪感とトラウマ
永中さんはそういうふうにはっきりと思うんだけれども、みんながみんなそうはっきり思うかわかりませんが、
結局でもそう思いがちになりやすいですよ。
やっぱりちゃんと早起きできていないから疲れないんだとか、
ちゃんと早起きできていないからお前がグズだからこの家で休んでいるっていうことに親はいい顔しないんだとか。
つまり愛は条件付きであるけれども、その条件を満たせてないんじゃないだろう。
でも満たしてもいるんじゃないだろうかっていう疑いは常に抜けないわけですね。
いや自分結構ちゃんとやってるつもりなんだけどな、みたいなのもあるわけですよ。
だから愛が欲しいというのと同時にもらえないから腹が立つっていうのがやってきて、
非常にこう、なんていうんですかね、一人で苦しんでいくことになっていくんです。
この話、どこにもそれじゃ物足りないと言ってる親は出てこない。
親はただハテナっていう反応をしているに過ぎない。
このハテナがいけないんですよね。
このハテナのミスコミュニケーションによって子供はかなりのダメージを受ける。
ウィニコット流に言うと心臭ですね、トラウマになってしまう。
このハテナがトラウマになる。
だってめっちゃ頑張って自分のいいところを見せてきたのに、
親の反応がハテナだったら子供はガクッときますよね。
それまでが快楽原則で生きてきただけに一層そうなりますよね。
泣けばミルクが来ている時代があったわけだから前に、
愛の条件と自己罰
それが急にこんなに頑張ってるのに親の反応がかんばしくないとなれば、
それはもうガクッとなって、
これが多分ですね、永田さんはこれが私の欲打つ状態に直結してるんだということが
ちゃんと漫画で描かれてるんですよ。
これはやっぱりすごい良い話だなと。
罪悪感というものが鬱を招くんだっていうのが、
しかもこれは親が抱かせたとは言い切れないんですけれども、
というか親が抱かせたわけではないんですけどね。
やっぱり長時間によって自分は罪悪感を持つことになり、
結局のところ自罰していくという、
自罰って言ってもそれは非常に不思議な自罰なんですけど、
精神的に自分を、ピンクの自分ですけどね、
精神的に自分で自分を苛むという形での自罰なんですね。
だからここに罪と罰っていう構造を子供心に植え付けたっていう過去がありまして、
こいつがですね、この仕組みがいけないわけですよ。
反省を強いるし、そもそも人にダメージを残す。
そこにでも大きな元になっているのがですね、
ある種の誤解に満ちた愛情表現なんですね、これはきっと。
だから結局のところは親に捨てられたくないわけですよ、一言で言えば。
親が愛してくれるような正しい自分でいたいと、
これが罪悪感の大元にあるってことにさえ認識が至ればですね、
例えば、人が自分を責めているんじゃないだろうかっていう、
私は昨日も出したから今日も出しておきますけど、
やっておきたい話を出すのは嫌なんつうか、つまんない話かなと思うんですけど、
今あんま頭に思い浮かばないんですよね。
いろいろ喋ってきたからなんだと思うんですけど、
今永田さんの漫画しか頭に浮かんでなくて、
それこそ鍋にお玉を突っ込んでおいたという罪。
それは罪だって話をされると喧嘩になると。
こういう時に何がこの罪の意識っていうものを作り出すかというと、
結局は私の長寿がわなんですね。
私の長寿がわは今言った通りの構造で、
大元は親に見捨てられたくないという。
これは一番最初は子供にとって決まって単純な話なんですよ。
非常に簡単に言うと、ミルクこぼしちゃった。
二度とお母さんを愛してくれないっていう恐怖なんですよ。
そんな恐怖は持たないような気がしますが、一切じゃ持つんですよ。
この恐怖がつまり悪いことをしてはいけないという気持ちにつながるんですね。
悪いことっていうのはこの場合、親が嫌な顔をすることが全部悪いことになるわけですよ。
だから私の長寿がにこういうのがあるわけです。
鍋にはお玉を突っ込んでおけという。
これは母に言われたことがあるの。よく思い出したんですね。
突っ込んでおけと。これが長寿がの命じるところだったんです。
鍋にお玉を突っ込んでおかないと母は愛してくれなくなるっていうこの構造を逆転させて、
鍋に突っ込んでおかないから母は私を見捨てたっていうイリュージョンを作り出すんですね。
これはイリュージョンですよね。そんなことはなかったから。
こういうものを作り出して私は罪の意識を突っ込んでおかないと持つ。
ここでラフさんに突っ込んでおいたのは罪だと。
それは奥様の方の長寿がの命じるところなんですね。
こうして人間関係がこじれるんですよ。
しかも私の母の長寿がに、女の子には男の子は優しくしなさいというのが昔にあったんですよ。
本人信じてもいないんだけど。だから私は学校の先生とかにもそうだったんだけど昔は、
女の子というものをいじめたりして泣かせたりするとかなり厳しい目に遭うんですね。
これもまた先生なり親の愛を買うことができない。
ところが親の言う通りにすると女の子が泣くというシチュエーションはどうすればいいのかというようなダブルバインドをここで仕掛けられる。
罪と罰の構造というのは非常に単純な親子関係のところでは割と簡単になりだすけど、
これを複数の社会の中に平気で持ち出すのは無理があるんですね。もともと大した仕組みではないんですよ。
あなたは私が望んでいる通りにしなさい。そうしないと見捨てますよ、みたいな。
そういう罰と罪の構造を使って人をコントロールするという、割と霊長類のやり方なんですよね。
チンパンジーあたりだと非常に有効に作用するかもしれないけど、人間社会はあれよりずっと複雑な社会を作っているので、
およそこれで回していくのは無理がある。ほんのちょっとしたところでも、
こういうふうに相手の女の子が望んでいる通りにしようとすると、自分のお母さんを怒らせることになるんだけど、
お母さんは女の子の言う通りにしろと言っている。この場合はどうするのかというような問題すら解けないんです。
で、こんな問題を解くのは非常に簡単じゃないですか。実はね。実は。
お玉取り出せばいいわけですよ。
ここで自分があるって話に繋がるんだと思うんですよね。非常に今のは構造上単純にしましたけど、でもそういうことなんですよ。
ここでお玉取り出せばいいんですよ。だって横でお母さん見てるわけじゃないわけですよ。
シチュエーションを考えれば、長時間に怒られるということと、親に怒られるということ、
長時間は見捨てられるぞということと、本当に見捨てられるということは全然関係ないんですよ。
この関係の無さが、私たちが実は情緒的にはよく分かってないところなんですね。
たぶん私自身はそうでした。結局こういうことで、いざこざを起こしたり喧嘩になったりすると、
自分の罪悪感と、つまりお玉を鍋に入れっぱなしにしておくのか取り出すのか、どっちが正しいのかって話をし始める。
そんなことに答えが出るわけがないんですね。
これでも結構本当に不思議ですよ。
この話、以前もポッドキャストでしたことがありまして、その時の感想で、
罪と罰の構造
我が家ではこうしていますみたいな話。
つまりこれは、正しさの方に焦点付けされることの方が、むしろ人間社会でも自然だと思われているんですね。
僕はここに正しさは一切いらないと思うんですよ。
入れても入れなくてもどっちでもいいんですよ、完全に。
だからなんつーんですかね、ここに正しさはいらないんですね。
正しさがいらないところに罪と罰はないわけですよ。
ところがここに正しさにこだわろうとするっていう真理が働くってことは、
やっぱり間違った行動は改めなければならないっていうふうに思われてるわけじゃないですか。
これがポッドの場合にはいらないですよ。
一体どこでもいらないかとは言わないですけれども、
親子の関係とかごくごく初期のしつけとかに出てくるっていうのは起こってしまうと僕は思うんですけれどもね、
ゼロ歳児とか言葉も通じないし。
つまりこれって言葉未満かギリギリ言葉が使えるかどうかレベルでのやり方であってですね、
言葉が使える人間にこれ使う必要はないんですよね。
もし言葉が使えるにもかかわらず、
罪と罰を持ち出さないと全然自分の行動を社会に全くあらゆる意味で合わせることができないというのであれば、
その人はおよそですね、ここはもうGood Vibesで言われてるわけじゃなくて僕の考えですが、
およそその人を流地上に交流するんではなくて、やっぱりカウンセリングに持っていくべきだと思うんですよ。
人間社会というのはそういうふうなものではないっていう。
こんな話が飲み込めないということはやっぱりエディプス以前の話であって、
エディプス以前というのはつまりやっぱり霊長類の社会なんですよ。
猿山の社会なんですね。
正しくない行動をしたからボコボコにぶん殴る社会なんですよ。
それは人間社会では成立しないんですよ。
それを無理やり成立させようとすると多分戦争になっちゃうんですよね。
あれやっていると今見ていると悲惨さってこともあるけど、
無茶苦茶さっていうのがあるじゃないですか。
ここまで世の中の技術が進展してきた上で、
暴力に物を言わせるってやり方を取るとデカいですよね。
受けるダメージが。
石器時代じゃないんで、やっぱり石器時代だってすっげえ悲惨だと思うんですけど、
でも石器時代じゃないんで、
あんなことを今の時代でやってったらやっぱりもう持たないと思うんですよ。
だからエリプスなんですよ。
罪と罰の仕組みっていうのは結局限界があるんですね。
それもすっごい早いところにある。
せいぜい小学校低学年の教室でしか採用していいもんではないと思うんですね。
これを使って法廷とかまで持ってくっていうのはですね、
だから今私いつも見てて思うんですけど、
およそりに合わない重大な犯罪が起きた時っていうのは、
ほとんどこの人を、よくやってますよね最近もね、
責任能力ってやつですけど、あるように見えるケースが一個もないって感じがするんですよね。
全部精神分析のこれは領域に持ってった方がいいような感じがする。
それぐらい動機がほとんど子供っぽいの領域を下げて幼児に近い何かがあって、
だけど起きてる事態は非常にでかくなってしまっているっていうのはやっぱりこう、
これっていうのはつまり、
エリプスでずっとやってくるとこうなってしまう。
結局のところ3歳児へ向けての押し付けを30何歳の人とかに持っていくっていうのはですね、
無理なんですよね。
どない無理なんだと思うんですよ。
そこで出てくる憎しみもでかいし、
現実的な物理的な力も大きいし、欲望もでかい。
ミルクが飲みたいってわけじゃないですからね。
もっともっとでかいことになってしまう。
でも結局突き詰めて抑えていくと、
親の愛が欲しいみたいな話になっていたりすることがものすごく多いと思うんですよね。
親の愛が欲しいですから、長寿がの言い分っての結局。
親が条件付きの愛しかくれないからその条件に沿った行動を起こしたいっていうのが、
つまり長寿がの言い分ですから。
それ自体は何ら罪のないものでありますからね。
だからこういう話で、私はGood Vibesでずっとですね、
結論としては反省しないってことになる。
もう一歩言うと、自分の長寿がより自分の方が上だってことにする。
それで自分の行動を正す必要っていうのは、正すことはできないってことですよ。
反省しなくても行動は変えられるということの意味
親の関心を買うなどという動機で、自分の行動を正すことはできないんですよ。
で、多くの場合、そうではなくて自分は社会のだって思っているんだけど、
それは社会に親を投影しているだけで、現に社会の常識と家の常識は違うから、
そのことで社会の人って非常識だなって思う人と、
うちって非常識だったんだなって思う人といらっしゃるんだけど、
どっちもどっちだと思うんですよね。
社会全体のルールと自分家のルールが、そこがあるのは当然で、
大きいからショックを受ける人もいるのかもしれないけど、やっぱり当然だと思うんですよ。
朝早く起きるのがルールだって家と、夜に起きても構わないって家はあるんですよね、世の中には絶対に。
そういう話でしかないと思うんですよ。
だから反省しないっていうのは、自分より長寿が上だと。
結局自立ってそういうことだけを意味するんではないかと思うんですよね。
家があるとか、ファイナンスがいいとか、そういう話ではなくて、
自分は長寿がに従うっていう状態を出すって意味ではないかと思うんですね。
もう一つは反省しないってことは、同時に人の長寿がというものに、
人は従う必要もなければ、従う自由があるっていうことなんですよ、きっと。
つまり人の長寿がってものもあるわけですよね。
お玉どっちに入れるかってのはそういうことですよ。
出しておけっていう長寿がにその人が従いたいというのは、
その人が親の愛を買いたいと思ってるってことだと思うんですね。
これを、これに納得できれば、
そしてそれ故に自分というものの長寿がの言い分を無視することができるのであれば、
反省する必要はない
もうそれでその話は成立するし通ると思います。
だから反省する必要と反省させる必要で。
反省させたいというのは、
俺の長寿がの方があなたの長寿がより正しいからって言ってるわけですから。
そしてそれを反省することによって、
あなたはその長寿がを手放しなさいって言ってるんですよ。
私は自分の長寿がを手放しませんって言ってるんですよ。
これは通らないと思うんですよね。
ここまでわかった場合には。
だから反省というのをする必要というのは、
させる必要も含めて一個もなくて。
そうしなくて、
倉澤さんがよくおっしゃるところでは、
罪悪感なしに間違いを修正する能力は人は持ってるっていうことなんだけど、
持ってると思うんですよ。
それが本当の意味で全くないということであったとするならば、
それは多分ですが、
言葉が本当は通じないっていう意味になるんだろうと思うんですね。