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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
10月22日日曜日の夜20時3分ですね。
これは明日の月曜日に出そうと思っているので、この目論見通りに行けばですね、おはようございますモードで行けるなと。
いろいろ思うところがありまして、ガチャガチャ動かしているわけですけれども、さまざま試行錯誤中というんですかね。
そんな感じでやっております。
今日はまあいろいろあるんだけど、その前にですね、3ヶ月チャレンジあと一枠あります。
22日が今日だから、来週あと8日くらいかな、9日くらいか。
秋が31日まであればですね、11月1日から第4期をスタートさせようと思っておりますので。
盛りだくさんなコースなのでそこそこお値段になっておりますけれども、いろいろありますし、一応全部オプションなので。
毎週1回の私とのセッションだけはオプションじゃないですけど、これも回数は選べますからね。
あとグループでの、グループセッションにやらないとなるとこの3ヶ月チャレンジの効果ってなんか僕半分ぐらいになっちゃうと思うんですけれども。
できればですね、グループセッションもお願いしたいけれども、というのはちょっとあれだという場合は、Facebookの投稿だけ2個参加いただくという手もあります。
なので、自由にやっていただけるので、よろしければ是非という感じですね。
Good Vibesのおすすめ
今日は早速なんですけどね、なんていうんですかね、単純に今私が簡単にお伝えしたいことはですね、
グッドバイブスをやってみましょうっていう、なんかこう1回の番組が全部CMになってしまうような感じにも聞こえるかもしれないんですけど、
今日こういう感、こういう発想を持ってみたんですよ。
Jマスザキさんと100日チャレンジの第6期がですね、本日キックオフ、先ほど終わったんですよ16時に。
それでつくづく思ったことがですね、いや私はある時から基本、倉園さんが言う通りに仕事しているだけだなと思ったんですよ。
で、それで、まあ、それってそんなことがそもそもできるのかって言われると、ちょっと分からないところは、つまり真横にいてずっと全部聞いてやってるわけではないし、
そんなことできないですからね。
それってどういう意味なんだっていうのが分からないかというか、分かりにくいと思うんで、その辺お話しようと思うんですけれどもね。
要はグッドバイブス的にやってると。
倉園さんがどういうふうにおっしゃるとか、どういうふうに倉園さんから見えるっていうのは僕には分からないんですけど、あまりそういうことも気にならなくなってるわけですね。
僕は倉園さんがおっしゃってる通りにほぼやってるだけだなって思ったんですよ、さっき。
この100日チャレンジ、運営とかもですね。
すごくJさんが、まあ大橋越夫さんもですけど、バックヤードすごいお二方なんで、ほとんどお任せ状態なんですけれども、すごい組織立ってきてるわけですね、100日チャレンジにしてもタスク修道協会にしても。
私がいつも心がけてることは要するに倉園さんが言ってる通りにやってるっていうことだけになっていて、これでうまくいっちゃうわけですね、自分としては。
これでいけないことって何にもないじゃないかっていうふうに思うんですよ。
ただですね、そんなやり方したくないよっていう場合の方は当然いらっしゃると思うし、そもそも別にグッドバイブス側に興味を持たないとか。
さすがにファクトリーまで入る気はしないとか、セッション倉園さんの1on1を受けるところまではいかないなって方が多いのは、これは当然そうだろうと思うんですね。
なぜならば、これを聞いて嫌々先に言ってる通りだわ、なるほどだわって思ってる人はすでにどこかに1on1ご利用いただいてるなり、ファクトリーに入ってらっしゃるでしょうから。
そうじゃないっていう方は、僕の話これ1度や2度聞いてるわけではないのにそうじゃないわけですから、そんなに簡単にね、グッドバイブスに興味はあるにしても本読むに留めておこうと思われるのは最もなんですよ。
でもこれはですね、ずっと閉鎖しない限りはこの放送はいつ誰にどんな話で聞いていただけるかわからないので、こういう話をしておくのも悪くはないかなと。
折に触れて僕この話してるししていこうと思ってるんですけど、果たしてどういうふうに言っていくのがいいのかなと時々考えるわけですね。
どういうふうに言っていくのがいいのかわからないわけですし、私はそのおよそこのね、フリーランスというものを20何年もやってきて最大にわかったですね、フリーランスをしてくる上でわかったこととして、
フリーランスにはマーケティング能力が大事だが私にはそれが全くない、そしてあんまり学ぶ気もないということだけはわかったんですね。
ちょっとネガティブな話なんですけど、これはね、でもしょうがないなっていうのがあるんですよ。
ただ僕はフリーランスで、まあそのこれもですね、不可抗力に様々なことが起きる時代、というかこれ時代と関係なく実は起きるんだけど、起きる世の中の中でですね、世の中の中っておかしいね、世の中って。
まあ多分何とかやっていけそうだなと。
これ最初からそう思ってたわけじゃないですからね。
30代半ば頃、後半の頃も40代前半の頃も、俺フリーランスやばくないってずっと思ってましたから。
しゃっちゅうお金底をつきそうになりましたしね。
今では底をつきそうにはならなくなってきたんだけど、まあ前とそんな変わらないわけですよね。
さっきもなんですけど、時々発作的に欲しくなるロディアのメモとか、ロディアのメモですからね。
メモとしてはちょっとお高めだけど、時々発作的に欲しくなるんだけど、これを買うのにも延々躊躇しちゃうわけですよ。
まあさすがに買えますよ、さすがにね。
これ買うのにも何かこと書くっていうことはないんだけど。
まあそういう人間なんで、フリーランスとしてやっていくのはどうかと思っていたわけですけど、さすがにもうやれるだろうと思っているわけですよ。
そういうふうになってみて思うのは、僕なんかよりははるかにフリーランスにしてもビジネスにしても長けている人がですね、当然多くいらっしゃるわけで。
それらの人たちがマクトリーとかグッドバイブスとかいう話にあんまり興味を持たないとして、その人がすでに人生は順風満帆なんですよっていう場合、これはそういう人に僕も別にそれほどお勧めしたいとは思わないんですね。
グッドバイブスにせよタスクシュートにせよ、だってそうじゃないですか。
グッドバイブスの魅力
例えばなんですけども、何者かになりたいっていう話にしてもですね、ある意味それに苦しんでいらっしゃるからグッドバイブスをする話をお伝えする意味はあるわけですよ。
いや明日にも何者かになれそうだっていう人にグッドバイブスの話はしませんよ、私だってね。
明日にも何者かになれそうならとりあえず何者かになっておきましょうって感じじゃないですか。
この聞く人の条件次第で、こういった話はいずれも聞く意味があると思うんですけど、聞くべき状況と必ずしもそうでない状況、条件はあると思うんですよね。
例えばタスクシュートにしても、巨大プロジェクトが逆算でどんどん上手くいってますって人にわざわざタスクシュートの順算方式がいいんですって話したってしょうがないですよね。
それは聞く耳持たない方が運命だと思うんですよ。
だからやっぱり逆算をしようとしているにもかかわらず、逆算めちゃくちゃしてるんだけど毎日毎日ガントチャートの出をつかなくなって死にそうで罪悪感もいっぱいですっていう人に、なぜそれなのに逆算で頑張らなきゃいけないんだって話をする意味はあると思うんですよね。
こういうことだと思う。だから、私はですね、Good Vibes、裏園圭造さんのお考えをお伝えするメリットっていうのは、当面こういう言い方もちょっとね、してみるとあれなんだけど、こういう風に言うしかないと思うんですけどね。
当面ちょっと上手くいってないとか、かなり厳しい状態にあるとか、そういう方にやっぱりお話ししていきたいわけですよ。
それだったらやってみて損はないんじゃないかと。これもね、不思議なものなんですけれども、今だとよくわかることがあるんですよ。
例えば私、アトピーですっごい大変だった時代、うまい説明ができないんですけど、当時の私はですね、直せる方法なんかありっこないんだって思ってたんですよ。
例えばこれGood Vibesじゃなくたって、有効な手段は実はいくらもあるんですよ。
面白いことに、アトピーのマスターじゃないですか。25年生まれてからすぐではないんだけど、
昔、口の悪い親戚とかがいて、ガンベとかって言われる。ガンベってどういう意味なんだろうな。ちょっとわかんないですよね。
北海道弁みたいなのか、一般用語なのかわかんないですけど、皮膚の上にかさぶたみたいなのができて、かきむしって汚い。
ちょっと見た目ね、厳しく見える。そして見た目なんかよりも遥かに子供としてはかゆくて辛いわけですけど、これをガンベっていうことをね、私おばさんに言われたことがあったんですよ。
父方だか母方だか忘れたけどね。その頃からだから、かれこれ30年ぐらいはアトピーだったわけですね。
治せるわけがないんだって感じを持ってしまうんですよ。これはね、すごくこの病気を持ったケースでは不利なんですよね。
発泡ふさがりって話を一時盛んにしていた時代があるんですけど、まさにそれなんですよね。発泡ふさがりに見えるんですね。
そしてなんかこう、発泡ふさがりであるのが現実だ。わかりにくいんでね、うまく言えないんですけれども、とにかくアトピーというのは一生自分は治せないんだっていう確信めいたものが治すのを大いに阻むんですね。
これは治す方法を知っていれば治るって話ではないところにまた厳しさがあるんだけど、なんかそういうですね、自分に不利益に流れていく流れみたいなものにこだわり続け始めるという真理が苦しんでいる人の心には生まれる気がするんですね。
これだけではないんですよ。私やっぱり彼女ができない問題で過剰に苦しんでた時代、同じ問題が自分にはできるように頑張ってるつもりなんだけど、できないはずなんだみたいな。なんかね、EイコールMC事情じゃないですけど、もうなんか佐々木には彼女ができない方程式みたいなのが成立しちゃってる感じっていうのがあって、
佐々木は一生アトピーであることが方程式でもう合理として完成されているみたいな。そしてこの完成には僕はこだわるぞみたいなんですね。どうしてなのかわからないんだけど、そういう真理になるんですよ。非常に長く慢性的に苦しむと人にはそういう風になる傾向があるような気がするんですね。
だいぶ昔にですけれど、僕がそんな昔でもないか、でも割と前に、日暮らしのなく頃にっていうホラーコミックがあって、かわいい女の子が強変するホラーなんですけど、あれの中にですね、なんかもうこの状況を打開絶対できないんだみたいに苦しむ主人公が、
ロッカーの中の金属バットを見つけて、この金属バットでみんなを殴りまくっていけば事態が解放、突破できるかもしれないみたいな、ああいう真理に人ってなるよなって、あの辺を描くのがこの作家は上手いなっていう風に思った記憶があるんですよ。
なんかですね、正気ではないじゃないですか、もうすでにそういうシーンになるのって。それに打開作としてはえらい原始的で、何も考えずに見つけてしまった個体みたいな感じじゃないですか。ああいう風に不思議となるんですよね。
私もそういうのがよく、当時大変な思いをしていた頃はよくわかるような気がします。なんかこう、わけのわからない方法、しかもそれが非常に子供っぽくて、あまりにも過度に単純な方法じゃないと乗り切れない何かだみたいに思ってしまうっていうことが起こるんですよ。不思議とですね。
で、私が今仕方をお話しして、この第6期の私の仕事の仕方っていうのは、要するにくらどんさんが基本的に書いたりおっしゃってる通りにやってるに過ぎない感じが、だから非常に楽だし簡単なんですね。
なんつーんだろうな、こういう言い方をするとまた非常に良くないことをやってるように聞こえかねないんで、そこがちょっと本意ではないんですよ、全然。つまり上手くいってる人にこれを進めるつもりは別にないわけですよ。上手くいってる人により上手くいく方法を進めることって、なんかいかにも余計な感じがするんですよね。
でも全くさっきの私のアトピーとか、彼女ができなかった時みたいな、ああいう状態にあるならば、何を試しても損にはならないと思う。あの時だったら本当僕は何を試しても損にならないと思うんですね、今から考えると。あの時は間違いなく何試しても損にならない。
グッドバイブスの提唱
でもそういう時ほど我々はですね、警戒的になるんですね。警戒心が募るんです。一つには何を試しても良さそうなほど追い詰められた人は騙されやすくなるような気がしますね。
そうするとこの心理状態でとにかく唯一絶対に避けたいのは騙されることだっていう、そんなことはないんだけど、騙された方がマシなぐらいの状況にも感じられるんだけど、でもだからこそ騙されるということに対して非常に警戒的になるわけですね。
だからなんですよ。むしろそんな時こそひたすら救いを求めるのではなく、これをやると本当に騙されるという懸念が多分生じると思うんですね。ひたすら救われたいというのではなく、当時の私でいうととにかくアトピーが痒みがピタッと止まるとか、これがひたすら救いを求めるってことなんですよね。
あるいはいきなり向こうの方から本命の彼女がやってくるとかね。ありえないわけですよ。なかったしね、私の人生では。だからそういう発想を持ってはあれなんだと思うんですけど、だからこそこういう時にはですね、中身を検討するってことがやっぱりそれが難しいんだよって思われるかもしれませんけれども、
今大変だっていう時、そして何とか打開したい課題があるっていう時は、この課題が魔法のように消えてしまうっていうものを心は求め出すんですけど、そこと解決策自体を検討するってことは切り分けられるっていうのを考えてみたらいいんじゃないかなっていうふうに思うんですね。
基本これで全部みたいなもんで、全然Good Vibesの話ができてないんですけどね。だからGood Vibesの中身を検討しましょうと言いたいわけですよ。これを伝える人に対してはですね、もし何か訳があって躊躇する、ないしはそもそもどんな方法にせよこんな方法で、どんな方法にせよこんな方法でって心理状態になるんだけど、解決できるはずがないっていう心理状態ね。
これに入った時は、いろんな解決策が実際世の中にありますから、そのうちの一つとして私はGood Vibesを提唱したいわけで、このGood Vibesの中身を十分理性的にですね、検討されるとよろしいんではないかと、そういうふうに思うんですね。
その中身ってなんだっていうのもお話ししないと伝わらないでしょうから、お話しするんですけれども、私がですね、Jさんと一緒にやっていて、随所にいろんなものが、いろんなここでGood Vibesで考えればいいんだみたいなところが随所に出てくるんですけれども、
一番やっぱり大きいのがですね、今一番簡単にお伝えできそうで、おそらく皆さんが少なくともGood Vibesをお勧めしたいような方にとってネックになりそうなところが、罪悪感を持たない。反省しない。
ついでに言うと恥ずかしいと思わない。これはちょっとその人その人のメンタル、メンタリティによってちょっと違いが出てくるんだけど、私だったらこれを3つを、この3つは1つのことを指しているんですけれども、この3つを言っておきたいんですね。
どの3つの言い方が刺さるかが分かりませんから、この3つを言っておきたい。私はJマスザヒさんと特にね、Jマスザヒ株式会社の仕事を手伝う、一意欲を担うって言ったら言い過ぎかもしれませんけど、そういうことをやるようになってから入ったわけじゃないですよ、会社に。
これを徹底するっていうのをまず随所でやってるなっていうのを感じるんですよ。随所で彼に、何と言えばいいのかな、いわば迷惑をかけたと昔の私なら思いそうになるところで必ずそう考えない見方というものを探し出す。
これができるようになってから非常に彼とやっていくっていうのがうまくいくようになった気がするんですね。
このグッドバイブスの考え方が仕事でも家庭の人間関係でも同じだけれども、適用する際にですね、この罪悪感を抱かないとか恥ずかしいと思わないとか、相手に迷惑だとか考えないっていうのは全部同じ意味なんだけれども、
ただこうなんてことないときに聞いた上では、それほど独特でもなければ難しくもなさそうに思えるじゃないですか。
ところが、いざ私がですね、例えば私の立場で一般的な観点から言えば明らかに何かをやらかしたと思ってしまったときに、この視点を取らないっていうのは難しいことなんですよ、やっぱり。
なかなか。これはやっぱり日頃からそういう意思をわりと強固に固めておかないと、簡単に迷惑をかけてしまったって思ってしまうんですよ。
で、それは、こういうふうにぶっちゃけ言ってしまいますけど、いいことではないんですね。いいことではないんです。
これがいいことではないっていうことに気づいてなかったから、2016年以前は、うまくいかなくなることが起きてたんですよ。
これはですね、常識的に、常識的はおかしいか。後から振り返って考えてみると、オルクト・Jさんでタスクシュート絡みのプロジェクトをやってて、うまくいかなくなるわけがないんですよ。
大筋彼と私は話が合うんですよ。別にタスクシュートの話をしてなくても。2013年の頃からそうだったんですよ。
だから、ポータルで考えてみれば、うまくいくに決まってる関係なんですよ。
しかも、扱ってるプロジェクトが2人ともどっぷりハマってるツールなわけですね、メソッドとしてもね。
うまくいかなくなるっていうことが起きる理由がほとんどないんですね。このほとんどがミソなんですね。
時々はあるってことですよ。おそらく一般的な人間関係の中でも時々はあるだけれども、私とJさんの関係ではそれが少ないんですね、非常に。
でもないわけじゃん。これがネックになってこじれるってことが起きちゃうんですよ。
だから、普通の人間関係だったらもっともっとこじれても、例えば会社で働いていて、普通の上司と部下だったらもっとこじれると思うんですよ。
私とJさんのように、もともと気が合ってたってわけではないわけですよ。
そこへ持ってきて会社のプロジェクトっていうのは、自分自身もそうだろうし、もしかすると上司の人も好きでそういうプロジェクトに携わってるわけじゃないケースもいっぱいあるわけじゃないですか。
会社の仕事だからやむを得ずやってると。
つまり、私とJさんの関係では、そもそもプロジェクトが自分らに向いている。
しかも人間関係としても上手くいくように大体できているっていう、これほど恵まれた条件においても、時々関係がこじれるんですね。
だから人間関係において関係をこじらせる要因っていうのは、もっともっと普通の関係においてはたくさんあるんだと思うんですね。
私は、つまりこういうことですよ。
イージーモードだろ、お前のやってる仕事と人間関係はってことなんですよ。
イージーモードなのですよ。
このイージーモードに、しかしイージーモードですら私はとちるわけね。
要するに人間関係をダメにしてしまうわけですよ。
そんなにイージーモードな人間関係すらダメにするようで、ハードモードな人間関係は無理じゃないですか。
イージーモードで、私は条件に恵まれてやってきているわけなんだけれども、そこにおいてすらちくじってきた。
それを、このグッドバイブスのね、倉園三流の、倉園三流って言っても、これも後で説明しますけれども。
倉園三流のね、グッドバイブスでいちいちケアするように、自分の中でですよ。
彼との関係の中でケアするというより、自分の中でこういう時はこう考えちゃダメなんだと。
こう考えずに、ああ考えようと。
グッドバイブス流に考えようというのを、ただただもうですね、ひたすらそれをやる。
単純に言われている通りにやっていると。
それで、絶対にこじれなくなるなってこれだったらっていう、確信が得られている。
これを伝えたいんですね。
罪悪感との向き合い方
で、うまくいっているんだったら、これはいらないわけですよ。
やっぱこじれるから必要になる。
だからこじれていて、どうしたってあっち行ってもこっち行っても、会社に行っても人間関係がつらいし、うまくいかないしっていう人が試すんであればですね、
この、反省しない、罪悪感を持たない、そして恥ずかしいと感じない、迷惑をかけたとかいうことで気遅れしない。
これができるようになると、全然違うはずなんだと。
これが中身です。
グッドバイオスだったら救われますよって言うと、信用できないじゃないですか。
発砲防がりのときは特に信用できない。
ということをさっきお話ししたわけですけれども、でも、だからこそ中身を考えてみてほしいわけですね。
この罪悪感とか、すっごい羞恥心とか、人に迷惑をかけすぎたと、そういう思いに苛まれて苦しんできたとか、今も苦しんでいるっていうことがないですか。
これが中身の見当だと思うんですよ。
ここにダイレクトに向かっているメソッドでもあるってことです。
これが唯一ではないですけれども、これは私が考えつく一つの重要なファクターだと思うんですよ。
これを手に入れればですね、だいぶ変わる。
だから、だいぶ変わるであろう人は少なくないと私は思う。
だから、そんなにそういう考え方をとってみれば、1月目無料、以降2200円かな。
高くはないと僕は思うんですよね。
もちろんわかりますよ。
騙される懸念を感じる人は、いやだって中に入ったら抜けにくくなるんでしょうとか、そこでいろんなものを洗脳的に押し付けられていくんでしょうって思うかもしれないんですが、
だからこそそこで、中身そのものを考えているうちに、3ヶ月経っちゃって6600円を失っても、そんなに痛くはないじゃないですか。
わかりますよ。明日にも何者かになりたいという人にしてみれば、そんなのに3ヶ月も付き合って6600円不意にするというのは大損だって考えるのもわからなくはないです。
でも、明日にも何者かになれるとは限らないじゃないですか。
現在の情勢から考えて、3ヶ月以内に不意にマイケル・ジャクソンのようになれるってわけじゃないっていう場合は、
一応3ヶ月くらい不意にしていいってことにはならないかもしれませんけれども、検討するだけの意味はあると思うんですよ。
これはですね、私が26、27、28くらいかな、一番アトピーがひどかった頃にこの話を受けて、果たして真実だかっていうと確かに難しいんですけど、
でも、なんとか療法とかカントカ療法とかに6600円どころじゃないぐらいのお金は払ってきているわけですね。
明日にも特効薬が出てきて治るのって話はどこにもなかったわけですよ。今もないんだけどね、まだなお。
だからこういう、そういうふうに、あえて自分の状態を当時の私みたいな頃に置かれているんだとすると、
効く耳ぐらい持っても悪くはないんじゃないかと、損にはならないんじゃないかなっていうお話なんですね。
これだけだとさすがにもう一つだと思うので、もう一つお話ししておきますと、
そもそも私がJさんでも橋下さんでもいいんですけどね、どうしてこれでうまくいくようになったと思えるようになるというとですね、
まず迷惑って何なんだろうってことなんですね。
一番、これも正確にもよると思うんですけど、私は罪悪感というキーワードで一番難しいなって感じるのが、
世間一般の評価に照らし合わせて考えた場合、自分が間違いなく失敗した、そのしりぬぐいを誰かにしてもらっていると感じたとき、
この時、罪悪感というものと無縁でいるってのが、おそらく一番難しくなる気がするんですね。
例えば今回の今日のでもいいですよ。
第6回、第6期100日チャレンジのキックオフが始まりますと、
一つ目、この人数100人集めるにあたって私の貢献度はゼロでしたと、
佐々木がいるから来てくれたって人はゼロ人でしたと、
この上で、しかもこのキックオフの時間に私は寝坊でもしてですね、
夕方の4時からなんだけど、寝てて、あるいは娘と一緒に箱根の温泉とか行っちゃってて、
キックオフすっぽかしちゃいました。
それでも罪悪感というものが一切いらないのかっていう話ですよ。
持ちそうになると思いますね、そんなことが起きれば。
でも私はそこで裏野さんがお話になっている通りを選択する。
一切持たない。
それでシェイさんが怒らないのかって話に次はなると思うんですよね。
謝りもしないって話ではないですよ。反省はしないって話です。
で、罪悪感は持たない。自分が悪かったとは思わないってことです。
一つにはですね、これは非常にこじつけまましく聞こえると思うんですけど、
僕が考えるようになったのはですね、非常にこじつけまましく聞こえるとは思いますけれども、
いいことが起きるかもしれないかです。
世間の圧力と関係性
これはですね、わからないと思うんですよね。
悪いことをしたっていうのは必ず悪い結果になるという意味じゃないとおかしいと思うんですよ。
悪いことが悪であるというのであればですね、
それは相手にとっても自分にとっても、あるいはこの場合は100日チャレンジの参加者さんになるか、
だから参加者全ての人にとっておそらくお怒りになる人はいらっしゃると思う。
だけどその人にとって悪いことが起きたと断言できるかどうかって僕なら考えるんですよ。
もしかすると、これもちょっと若干寂しい話になっちゃうんですけど、
上手い例が今すぐに頭に思い浮かばないからこう言うんですけどね、
Jさんが一人でやったほうが大いに盛り上がったかもしれないですね。
で、私が温泉に行ってる間に新しい上手いビジネスを考えついたかもしれないですよね。
それはわかんないですよ。
つまりそうすることによって100%悪いことのみが起きたと断定する条件は一個も揃ってない気がするんですよ。
ただこれが世間一般から見てどうなのっていう条件であるっていうのを満たすとは思いますね。
だけれども、だからといっていいことが起きたかもしれない。
ここがすっごい大事なポイントですよ。
わかんないんですよ、そんなことは。
5年ぐらい経ってみると、あのとき本当に偶然だけど、
さっきすっぽかしといて本当に良かったよね、タスクシュート協会全体にとってってことは。
あり得るんですよ、不思議なことにですけどね。
なのにも関わらず、なんで世間一般ではこれは悪いと思われるはずだから、
心の底から反省して膝を抱えて机の下に潜り込んだりしなければならないのか。
なんとなくそういうイメージが浮かぶんだけれども、
これ何の得なのか。
世間一般というものの何か、それには実態ないんだけどの喜びのためなのか。
それだったらナンセンスな感じがするじゃないですか。
いいことは絶対に起きないっていうなら、
別に膝を抱えて机の下に潜り込むメリットはないと思うんだけど、
それはそれでもしょうがないと思うんですよ。
でもいいことが1%も何一つ起きないということが断定できない段階で、
私とJさんが何らかの形でどっちかの気持ちがすごいネガティブになるということを引き受けてまでですね、
世間一般の常識というものを満足させるメリットっていうのはないと思うんですよね。
やっぱり冷静に考えることができればですね。
今のようなことがあるので、
つまりいいことにつながる可能性というものが常に否定できないので、
これを完全に否定し去ってしまって、
私が一方的に自分が悪かったというふうに認識するということはいいことではない。
そういうことまで考えておくとですね、次のことができるんですよ。
つまり私が罪悪感を持たないということによって、
際どいラインに来ますけど、そこまでやらかせばね、
やらかしたというその判定がやっぱり引き受けそうになる条件が整ってしまうとですね、
受け入れそうになるんだけど、
それによって私ができることっていうのは、心に傷のようなものをつけるんですよね。
そこからは苦味が発生すると感じてしまう。
私はもう長らくこの課題に、
Jさんとの関係ではなく夫婦間で取り組んできたので、
いろんな、ここには諸要素があっていろんな話があるんですけれども、
ごく表面的な話としてもですね、
苦い、つらいっていうこの感情を持ち始めるとどうしてもですね、
めちゃくちゃ理不尽だとは思うんですけど、
どうしてもかすかには、かすかにとどめますが、かすかにはJさんのことを恨み出すんですよね。
非常に僕これはおかしいと思いますけどね。
これが起きるんですよ。
ほとんど起きないですよ。
僕は彼と出会ってから、彼にネガティブな感情を抱いたケースそのものが非常に少ないので、
なくはないですよ。
普通の人に対するよりは少なくて済みます。
でも今の話は自分が一応100%悪いと世間的に認定されるであろう話をサンプルとして用意してみたわけですよ。
にもかかわらず、私はかすかににせよJさんに対する恨みを持とうと頑張るんですよ。
なぜかというとやっぱりこれは心につけた傷が痛みをもたらすと信じているからなんですよ。
この痛みについては覚えていたらですが、今週別の回でお話ししたいと思うんですけど、
この痛みというのは実は極めて本質的な意味でイリュージョンなんですよ。
これはですね、歯の痛みとは全然違うという言い方をしてもいいんだけど、
心の傷からくる痛みについては私は一つ先日別の発見があったんですけど、
今その話をすると脱線が激しくなるんでちょっと止めますが、
いずれにしてもこの心の傷の痛みというものは存在しないんですが、
存在すると信じてしまうんですね。
この時そのいわゆる世間知ってやつが襲いかかってくる感じが僕の場合はあります。
どっちかがダメにならなければダメだみたいな、そういう声が、声じゃないな、声じゃない。
そういう圧がかかってくるんです。
心の傷らしきところからそういう圧がかかってくるんですよ。
だから結局のところ何が起きなければいけないかというと、
私とJさんの関係性が少なくとも感情のこじれが起きなければ、
世間が納得しないって感じを持つんです。
すっごい不思議なんですよ、僕には。
僕とJの問題じゃないですか、この話、本当なら。
でもそうではないんですよね。
多分これをですね、ある種の第三者の方に話してみると、
Jさんって本当我慢強いねって言うと思うんですよ。
これが世間の圧力ってやつなんですよ。
私よく、奥さんとの関係の中で妻に罪悪感を持たせないとか攻撃しないとか、
理不尽だという思いをしたという時にも、
それに対して私は基本的にはケアという立場を取るっていう、
今カイツマンでしゃべりました。
そういう話をするとですね、
いやそれじゃあ奥さん、椿さんそれでいいの?みたいになるんですよ。
これが世間からの圧力なんですね。
これって私と妻の問題ですよね。
私と妻だけで完結すればいいんですよ。
私が理不尽な目に遭おうと搾取されようと暴力を振るわれようと、
そんなことは他の人には関係ないわけですよ。
もちろん私がそのことに苦しんでると言って、
倉田のさんなりカウンセラーの人なり精神分析家に持ち込めばそこはまた別です。
が、私が別にどうこうするつもりが全くないのであれば、
それはそれで他の人が別にそこに介入する筋の話ではないんですよ。
ここにバウンダリーって話が出てくるんだけど、
このバウンダリーの話は一旦置いといて、
つまり自他の区別がつかなくなりがちな人にとって、
私に対する強い同情心が起きてしまうっていう辛さが、
このエピソードから感じ取ってしまうって話はまた一旦置いとくとして、
そういうものが一切関係ないならば、
これは私と妻の話であって、
私がどんな目に遭おうと別にその人が介入してくる筋の話ではないと僕は思うんですね。
だから僕とJに関してもそうで、
自他の区別とバウンダリー
Jが納得するんだらそれでいいわけです。
それを世の中の人がどうこう考えるっていう部分は本当はいらないはずなんですね。
そういうふうに考えることができれば、
罪悪感っていらなくなるじゃないですか。
結局この話どっちが悪いかっていう話をする必要は実はないんですよね。
この状態をどう評価するかって話だけで済むはずなんですよ。
実際100日チャレンジの第6期、Jさん一人でどうだった。
いやもうバッチリでしたよ。
これでいいはずなんですよ。
このことを私が他人の気持ちとか他人の評価とか、
他人の感じ方とかを介入させるから、
私とJさんの関係が何か悪化しなければ済まされないんじゃないだろうか、
そういうことですよね。
私が例えば妻に暴力を振るわれているとか、
私が妻に暴力を振るっているとか、
そういうことを世間の人が聞いてそれでいいのって聞くってことは、
それではいけなくならなければいけないっていう筋合いになってくるじゃないですか。
そういう筋の話になる。
そしたら私と妻は離婚するなり離婚しないんだったら今後もうまくやっていけるかどうか、
つまり仲が悪くなっていて叱るべきだという圧がそこにかかっているってことになるはずなんですよ。
これに負けてたんですよ、私は。
だから私がやらかした、いった気持ちになった時、
本来Jさんに対してどうこう思う必要は当然ないわけですよね、私がやらかしている。
Jさんがそれでいいよって言ってくれれば、
あるいはくれれば、そういったのを聞いたならば、
それをストレートに信じておけばいいわけじゃないですか。
ここに信頼って話と許すって話と両方同時に出てきていると思うんだけれども、
ここで私が裏を読むわけですよ。
罪悪感と感情の持ち方
彼はこう言ってるけど、ロッキュをしっぽ化した佐々木を本当は嫌なやつだと、
年が上でね、先にタスクシュートの話をしていたもんだから、
俺がここで折れなきゃいけないと思っているからこういうことができるんだろうと思われてるんじゃないだろうかとかって考え出すわけじゃないですか。
こういう話しょっちゅう出てきますよ。
こうして世間の圧力に負けるような形で、
何ら吹く必要のない隙間風みたいなものを吹かせようという努力を私の心がやっちゃうってこと。
これっていうのはものすごく無駄だと思うんですね。
無駄、なんか違う言い方があると思うんですけど、全く必要のないことだと思うんですね。
で、私は全く必要のないことだと思う、こういう表現になっちゃいますけど、
全く必要のないことだと確信する勇気というものを持ったんですよ。
これを倉田野さんが持ちなさいと言ったように僕には聞こえたってことなんですよ。
だから持ったんですよ。
これを持ってもいい条件と状況にある人が、今これを聞いていらっしゃる方の中にも僕はいると思っているんですね。
だから試してみる価値はありますよということなんです。
そんなことをして世間どう思われるかわかったものじゃないって思う人は、そもそもそんな自分のやらかしを世間に向かってラウドスピーカーで公表しているわけじゃないはずなのに、
そう思ってしまうってことは、自分の心というものが何かですね、世間の寒風っていうんですかね、寒い風みたいなのにさらされているっていうイリュージョンでいらっしゃるはずなんですよ。
これはいらないでしょ。どこからどう考えてるんです。
というかそれは非リフジョンでしょ。
しかも自分を苦しめるという機能以外は一切持ってないイリュージョンですよね。
それを持っていることによって自分がやらかさなくはならないし、やらかさなくならないからやらかしたっていう話に対して罪悪感がいるかいらないかっていう仮説みたいな話を今ずっと積み上げているわけだから。
つまりこの世間に睨まれているとか、世間からひどい目に、ひどい白い目で見られるという恐怖みたいなそういうイリュージョンを持っていたところでやらかさなくはならない。
盛大にやらかすことは十分起こり得る。
で、このやらかすという評価そのものがその世間の白い目と実は密接に関係しているんです。
法治者同士の関係だけであれば、ちょっとした勇気を持っているだけでもですね、相手は多めに見て、これは先に多めに見てくれるかどうかを検討しても意味がないんです。
どんなやらかしをするかなんてわかんないから。
ただ、そういうことが起きたときにまず何よりも真っ先に起きそうなこととしては、この世間が白い目で見たときにですね、見るという空想を抱いたときに、だからその世間を納得させるためにも、この関係において、悪しき感情がお互いの心に宿さなければならないっていうのが罪悪感ってものだと思うんですよ。
これをやるっていうのをここまで認識してもなお、僕はやるはずないと思うんですよね。本当に。
相手が納得しているかどうかなんてわかんないじゃんっていう声も僕からは出てこないんですよ。
当事者の評価と個人差
世間的なものから出てくるんですよ。意味が全くないと思う。僕は思うんですね。
現に当事者になってみると不思議なことに、妻との関係においてもそうなんだけど、お互いが許すかどうかっていうのはですね、すごく世間的な評価と関係ないところから出てきたりするんですよ。
いや、それは世の中ではすごく腹が立つのかもしれないけど、俺はそこは全然腹が立つ。ただ、全然別のところに立つなみたいなことが起こりやすいんですね。
だから、当事者との間で物事は評価するのが一番良くて、その場合どちらが損をしたとか得をしたっていうその観点自体が実に個人差があるんですね。
たぶん私は、私が思うにですね、100人が100人ともJさんの力による集客で、実際そんなことはないけど、6機の飛行砲を飛ばしても、あんまり腹が立たない日が今はするっていうのはよくわかります。
これも、罪悪感を一切持たないっていうことに決めて以来、見えるようにむしろなった。わかんないですよ、もちろん。推定だから、人の気持ちに対する。でも、おそらくそうだろうなっていうのが感じ取れるんですよね。
これももちろん、他の人でも同じになるかわかりません。私と彼の関係においてはそうだろうなっていうのが言えます。
全く同じような話が、私と大橋裕三さんの間では成立しない。そういうこともわかるようになったんですよ。以前はこういうことがよくわかってなかったんですね。
だからある出来事は同じように評価されてしまうし、同じように評価してしまう。その同じようにって誰がやるのって言ったら、世間ってやつじゃないですか。
世間だから何かのイベントをすっぽかすっていうような、ハイゾードのいい加減で荒っぽいものの見方になっちゃうんですよ。
イベント一つすっぽかすって言っても、昨日あったんですけれども、タスクシュートの手帳会議のイベントに私が参加できないのと、百日チャレンジのキックオフに参加できないのは全然違うんですよ。
こういうの全部同じようなものとして見てしまうんですよね。それはつまり、自分がちゃんとその当事者として見てないからなんだと思うんですよね。
そういうことが、そういう諸々がですね、すごくざっくりと雑然と裁判沙汰にされてしまうのが、罪悪感というものであって、
これを持っていたところで、自体をよくもできないし、何かを未然に防ぐことすらできないし、
ただ当事者が本来腹を立てなくてもいいことで、お互いが少しずつ腹を立て合うことによって、
かなり簡単にうまくいくはずの人間関係すら壊しかねない力を持っているというものに、
もし今ですね、そういうことに関わることで、苦痛を感じていらっしゃるということであれば、
このやり方っていうのはホットバイブスってやつね、意味のないもんではないかもしれないっていうぐらいに考えておいていただくと、
私としてはですね、ここで一生懸命喋っている甲斐が少しはあるかなって感じがします。