特に兄弟同士で生き延びたんだみたいな話は、いや大変だなっていう兄弟同士で生き延びるって何なんだろうなっていう感じがしちゃうわけですよね。
でも私もあれを解読して、最近自分自身の序反応ということについて、あえてこの言葉にしてますけど今日は、自分自身の序反応というものについてすごく考えるようになりました。
私の場合、まんまということはないんだけど、思い出せば思い出すほど、いやこれはいわゆる虐待に相当するのかもしれないとか、いわゆるこれはトラウマに相当、
自分はそう思ってないから、今までそういう観点で見たことはなかったんですよ結局ね。
だけど、いやこれは今で言う要するに虐待なのかもしれないと。
そうすると、自分がこの種の療法を受けるとこういうことが起きるのかもしれないなと。
マイルドにですよもちろんね。マイルドになんだけど起きるのかもしれないなと。
そうすると、いや受けといた方がいいのかもって考え始めると、いやそもそも受けといた方がいいわけじゃない人ってどこにいるだろうみたいなね。
新井さんが最後にこの漫画の中で自分の息子さんにもEDMRを受けさせるんですけれども、
それは新井さん自身がこういうことをしちゃったからって言うんですけど、
いやそれは私の、いや考えすぎっていうのはおかしいんですけど、
いや別にそれは虐待とは言わなくないって思っちゃうんですよ。私はやっぱり昭和の人間だからですよね。
いやそれが虐待だったら私のは完全に虐待になっちゃうな、いろいろとっていうのがあるんだけど、
自分の中ではやっぱりピンとこないんですよね。
それは乖離とかではないんですよ全然。
ピンとこないっていうのは、みんなもそういう目に合ってたからねなんですよ、単純に言ってしまうと。
いやもっと酷い目に合ってる人もいっぱいいたけど、そういうもんだと思ってたし、
いやなんていうのかな、ここにちょっと誤解の種があると思うんですけど、昭和と大昭和違うんですよ。
昭和ってなんか最近、時代が昔になっちゃうとそうなるんでしょうけど、今後ますますそうなるでしょうけど、
なんかものすごいあたかもそれは明治かなんかみたいだなっていう言われようを
最近ちらちらと見て違和感を覚えるんですけど、はっきり言って私の小学校時代とかは、
今に比べればそれは遅れてますけれども、明治と昭和を比較したら昭和は令和にずっと似てますよ、戦後は特にですね、
と思いますよ私は。
だからもう明らかに時代錯誤的なものはいっぱいありましたよ。
例えば何も誰も何も考えずに、生徒さんの名簿は男子22名が呼ばれてから女子22名が呼ばれる。
それは誰も違和感は持たないという非常に今思えば不思議なことがまかり通っていたんだけれども、
例えば小学校6年ともなると女子の子が発達が早いんで、
例えば実際にはかけっことかすれば、クラスで一番早いのも二番目に早いのも女子だったりするっていうことはあったわけですよ。
あったわけですよ。
なんだけど絶対クラス対抗リレーは男女で分けていた上に、なぜか男子の方が早いという前提があったんですよ。
あれも考えてみればタイム測ってるのにそんな馬鹿な話があるかって感じなんだけど、
なんかねやっぱりね一番早い女の子でも一番早い男の子には負けるみたいなのってあったんですよね。
やはりわざとなのか、KOされるのか、後で嫌な目に遭うのか知りませんが、
絶対男子が勝つんだけどタイムは少なくとも、でもまあ男子だって一番早い子は相当早いんで、
分かんないですよそれはねもちろんね、分かんないけど、
でも絶対に常に男子勝ってるのおかしくねっていう、で現に今私あのね娘の運動会とか行ってみると、
女子しか代表になってないクラスとかあるしっていう、あって当たり前なんだけど、
特にその田舎のちっちゃい学校だとあって当たり前なんだけど、
いやこの光景すごくこう先進的に見えますねっていうのは、やっぱり僕が頭は古いんですよ。
でもだからといってですね、あの例えば小学校で精神中乳房を持っている兵隊さんがいましたとか、
そんなことはないんですよ昭和だって。そんなことはないんですよ。ごく普通に民主的なんですよ。
ただそういう時代錯誤的なものが、もちろん今だってあるわけなんだけども、
今時代錯誤っていうのはおかしいと思いますけどね。
でもやっぱ少なくとも僕が育った時代は、あのほぼ確実に大正時代に比べりゃ、
令和に近い昭和ですよ。
そりゃもう間違いない。あの別に満州とかがあったりじゃないしね。
で、その、何の話をしているのか今ちょっと飛んだんですけれども、
要するにですね、虐待的なことっていうのはつまり、今なら虐待とに、結局それは時代の空気って大事で、
今ならばそりゃあれは虐待だったと言えるような事例はいくらもあるんですが、
当時はそれを誰も虐待だと思わなかったというのも確かなんですよ。
そうすると、それよりも遥かに軽かった私の立場からすると、
いや自分の虐待だとは思えない。
でも新井さんが今息子さんをそういう風にトラウマ治療させるのだこれで、
という風なのってやっぱり時代が変わったんだなというのと、
受けて良かったみたいな感じで書いてあるんで、
これはやっぱり、いやそれは受ければ一律に良いことがあるとは思いませんけれども治療なんだから、
だけれども、この種の治療って全く新しいものなんですよね。
私もアメリカで留学2005年よりは前ですけど、やってた時には、
まだそれはある種ありましたけどアメリカだから、
でも非常に実験的な導入実験的なニュアンスが強かったんですよ。
今でもやっぱ違うんだろうなっていうのはあるんで、
時間そんなに私余裕がある人間じゃないんでし、
勉強とか好きなわけでも読書が速いわけでもないんで、
ちまちまですけど、やっぱこういう話をそれこそ読んでいくと、
結局私にとって序判のうってものはないですし、
だから序判のうっていうのは序判のうというものが存在する文脈においてのみ、
私はあるものだと思うんですよね。
やっぱりこの話は時々考えるんですけど、
ホールディングとコンテーニングは突然そんな言い方してますけど、
違うと思うんですよ。
やっぱりウィニコットの世界だからホールディングが出てくるんだし、
ビヨンの世界だからコンテーニングが出てくるみたいに思う。
優れていったものは、例えばニードみたいなものはもう、
ビヨンの文脈でも使うし、ビヨンが使うってわけじゃないですよ。
でも明らかに使うと思うし、
なんならクライン派でも普通にニードって言うと思うんですよ。
優れた概念はそうなるし、それしかない場合はそうなると思う。
逆転はわざわざ言い換えないと思うんですよね。
ウィニコットはクラインのPSとDがよっぽど気に食わなかったらしい、
食うて妄想分裂ポジションという言い方を私はしないみたいな感じだったし、
D、デプレッシブポジションも歴史的ポジションだって言いますけど、
あんまり定着、広がらないじゃないですか。
やっぱりPSとDですよね。
そういうもんだと思うんだけど、
でもやっぱり歴史的ポジションって言いたいときは、
歴史的ポジションって言いたいときがあると思うんですよね。
覚えるとか、知識を増やすとか、テストを受けるっていう立場に立つと、
そういうのでは大変すぎるから、
まとめたくなるっていうのはよくわかるんだけど、
コンテーニングとホールディングは違う気がするんですよ。
物理感の有無みたいな感じってありますよね。
ホールドっていうとやっぱり手が出てくる感じがある。
手で抱えるぞっていう感じ。
そうでなくてもウィニコットって、
母親が物理化してるなって感じがするんだよね。
環境ってのは、彼はきっと物理的な環境を言ってるなって感じが、
コンテナってのはもっと概念的なものだと思うんですよ。
コンテナはありますし、母親の腕がコンテナだってのもそうなんだけど、
やっぱり、でも彼はチツとペニスに例えてたぐらいですもんね。
やっぱり心を受け止めるものっていうのは、
物じゃないって感じがしますよね。
だからコンテナっていうのは心だって感じがするので、
そうなんですよね。
そういう性的な部分も含んでいるし、
環境としての母親っていうのは性別は女性かもしれないけど、
社会というところがあって、そこに人々は言ってみれば服従させられていて、
従順に金を稼いで、閉塞感を感じてるんだけどなかなか抜け出せないそういう場所の中で、
様々なお金稼ぐ活動とか、マウント取るとか、
みんなで親分を決めるということをやってるんだということに突然気づくって、
だけどそのようなことをこの先生っていう人はずっと言ってたんじゃないっていうことに、
ずっと言ってたんだけど自分はこれまで全く気づかなかったなっていう、
これが死座の転換と呼ばれるものなんだと。
これは本に書いてあったことですけど、
事例いいよなと。臨床の事例でもなんでもないじゃないですか。
しかもごくごくつまらない話じゃないですか。
みんな知ってることじゃないですか。
でも確かに私たちは子供の時、先生、特に小学校1年の頃、
およそ純木に先生って思ってた時代から突然おっさんになっちゃうっていう、
なんでそうなるのかとか、毎日見てるからっていうのは僕は非常に大きいと思う。
だから僕は精神分析にせよ、特に精神分析ですが、
毎日見るということ。
だから設定動かさないんだろうなと思う。僕は動かしちゃってるんですけどね。
でも毎日見る、毎日会う、同じ人と同じような話をするっていうのは超大事だと思うんですよ。
落合博光っていう参加も参加に取った監督としても選手としてもすごい人なんですけど、
彼がよくですね、球場にはいつも同じ席に座ってる飲んだくれみたいなおっさんがいると。
で、監督になって最初にまず彼らと話を、やっぱ変わってるよね、
家に行って人はと思うんですけど。
部類の野球好きってことですよね。
昼日中から暇にして、ひたすらプロ野球の練習とかでも来るわけですよ。
面白くもなんともないですよ。僕相当野球好きだけど、
うちの妻も相当野球好きなんだけど、
新庄監督が監督になった時に、なんか全公開のテレビみたいなもの、テレビで放映してたんですけど、
野球の練習シーンだけをひたすら流すっていう、全然面白くない固定カメラでね。
いくら新庄さんだって全然面白くねえと思ったんだけど、
好きな人はそれでもずっと見てたいぐらい好きなんでしょうけれども、
自分がやったらいいのにってレベルだけど、やることはできないんでしょうけどね。
そういう人に話をしに行くと。何を話すのかというとですね、
同じ選手が毎年同じ場所から見えるわけですよね。
そうすると補給までの、確かに去年まではあそこの付近の球取れてたのに、
今年取れなくなっているということに気づくと。
で、そうすると落ち合いという人はですね、
たぶん何にも言わずにその選手を外しちゃったりするっていうことをやるっぽい話が出てくるんですよね。