1. 佐々木正悟の精神分析的ラジオ
  2. 精神分析を漫画で紹介したい。
精神分析を漫画で紹介したい。
2026-06-25 39:29

精神分析を漫画で紹介したい。

あらいぴろよさんの新刊のお話をしたと思います。
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感想

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00:05
おはようございます。佐々木正悟の精神分析的ラジオをお送りします。 6月25日木曜日7時18分です。
いやー
台風が近づいておりますが、 明後日土曜日に
この番組では何度も繰り返しお伝えしている 山崎隆明さんとの
神保町のイベントが中止にする気はないんでオンラインでやりますが、 いやー
残念ですね。 厳しいですね。
直撃することになっているので、 なんかねー
やっぱりこう、応援とか言うのは嫌だなと思いますね。 そういう感情が私にもあるんだなと思いました。
この感情を
ちょっとについて 深く検討しようと。今じゃないですけどね。
思いましたね。あんま私はここまでは思わないところがあるんで、いや思いますけどいろいろ。
でもこれはないだろうと。6月ですからね。 まあ異常気象とはいえ6月ですからね。
関東に台風がしかも2つも近づいてきていて、
なんていう、何が何でもやろうかなと思ってはいるんですけれども。 とはいえですね。
はい。 で
えーっと まあしょうがないのでオンラインでやるのが妥当かなぁとは思うんですけどね。
えーっと あと何の関係もありませんが投資番号で喋るのやめ、
あとこれで結局なんか今元に戻っちゃってますけれども、スタンドFM配信にしております。
あの やっぱりですね、週刊課の話とかってしますが私は
自分の望んだ通りの形では続かないんですよね。 続く人の続けるやり方ってなんかこう最初に描いたこととはすごく違ってるんだけど
最初に描いたことを続けていることとなっている、みたいなそういった感じなんですよ、週刊課って。
なんていうのかな、毎日2キロ走るって決めたんだけど、気がつくとやってることはジムのサイクリングで
なんか10キロぐらいサイクリングしていることになりました、みたいなそんな感じなんですよね。
ことになりましたって感じだと週刊課ってうまくいく気がします。
まあそれにはかなりの理由があると思うんですが今日はその話は別にしなくて、今日はですね、
明後日の告知もしたいんですが、まあ明後日やりますよ。
ただね、すごい残念感が頭の中をよぎってるんで、告知はすごいしなければと思うんですけど、
03:06
まあオンライン、大半の方はオンラインでご覧になるんで、配信側がオンラインだろうとオフラインだろうと差したる違いはなく、
もしかするとオンラインの方が良いぐらいののかもしれないけれど、
いやーでもなーちょっとなーそれもなーどうかなーと思うんですよね。
でもわかんないです。頑張って、もう洪水の中でも行くかもしれないぐらいやりたいんですよ。
その気持ちはあるんだけど、気持ちしか、気持ちだけだからねーみたいなのがありますね。
残念ながら、はい。台風だからね、相手は。
えーと、今日したい話って言いますか、別にそんなものは何も全くないんですけれども、
最近ですね、改めて、改めて改めて色々なことを考えまして、考えるきっかけはもういっぱいあったんですけど、
とどめのようにですね、新井ピロヨさんの話ってここで昔結構してたんですけど、覚えてらっしゃるかなっていうか聞いてないだろって話もありますが、
隠れぬっちしてましたっていう本で結構多分ブレイクされた方だと思っているんですけど、
今ではなんかもう全然すごい方向がですね、私としては非常にありがたくて、彼女の本はほとんど読んでると思うんですね、漫画は。
全部かわかんないんですけど、今は漫画描いてる方って色んな出され方してるから、手に入る限りはだいたい読んでると思うんですけどね。
今ではすごい臨床審理寄りになってて、本当にね、出るのを楽しみで予約して買うぐらいな勢いなんですけども、今回はトラウマ、彼女のトラウマは本当にトラウマなんでひどいなっていう話ばかりなんでね、
私こうさらっと言っているんですけれども、いや本当ひどいなと思って読んでるときは結構こう、何て言うんですかね、内圧高まって読んでるんですよ。読んでるだけな割には。
トラウマ治療の話なんですけど、これはもう絶対買おうと思ってたんですよ。
そもそも、それこそブレイクした、隠れウィッチしてましたの4コマの頃に比べると、いろんな意味で雲泥の差で、すごいなって思うんですけど、一番私が今回買うことは決めてたんですけど、決めてとなったとあえて言えばですね、精神分析的、こう書いてあるんですよね、精神分析療法って書いてあったような気がする。
ちょっと正確じゃないかもしれないけど、的心理療法とは書いてなかったんじゃないかな。的心理療法って書いてあったかな。とにかく精神分析療法みたいに書いてあって、精神分析的療法だったか。
とにかくですね、それはもう読むじゃないですか。はっきり言って。トラウマ治療で精神分析療法を新井さんが漫画で書いているとなれば、それは読むよねっていう感じで読みました。
06:06
で、ちょっとしか残念ながら精神分析療法なるものは本当にちょっとしか出てこなかったんですけど、でもトラウマ治療全域をものすごくしっかり書かれていて、改めてですね、なんて言えばいいのかわかんないですけど、おすすめも難しいんですよね。
読んでて厳しい気持ちになる方はいらっしゃると思うんですよ。私もなりましたけど、私なりに。とにかくおすすめ。漫画だから、まあ、すすめたいんですけど。だって、書いてる方は一つのエンタメとしても書いてるわけですからね。
すすめたいんですけど、でもおすすめというか、大丈夫だと思う方はお読みください。もうこういうことは言えないんですよね。言えるっていうのは僕は正しくないと思う。言えないと思うんですよ。
読んでてもつくつく思いました。助反応とかアブリアクションですか。出るわけじゃないですか、当然。あのぐらいになってしまうと。本当に考えさせられることは山のようにあったわけですけれども、助反応って精神分析では言いませんけどね。
でもああいうことって精神分析、もう本当ね、私の目は偏っちゃってるんで、全部が精神分析に見えるわけですよ。それがもういい眼球運動だろうと、ゾマティック療法であろうと、CBTだ。CBTなんかもう僕の目には、これは確かにCBT形式ではあるが、私の目にも精神分析的心療法であるって感じがしちゃうんですけどね。
それは間違ってますよ、たぶん。間違ってるんだけど、そういうものの見方は。それこそが学派的でないというものなんだけど、でもそう見えるんですよ、やっぱり。私の目にはね。もちろん精神分析療法が最も精神分析的ではありました。そこは本当に。
あ、そうなんですよ。もう一つ僕が、それはお前そのぐらいのことは知ってるんじゃないのかと言われれば、知ってはいますよ、そりゃ。でも新井さんの方が二つの意味で私にとって非常にいいんですね。一つ目が非常に大事で、Aですよ。Aなんですよ。ほとんどの私の知識のほぼ100%とは言わないまでも100%じゃないから、99%はGですよね、絶対に。
だって藤山直樹さん、この間不思議な学譜書いてましたけど、まあGじゃないですか。情報は全部Gです。松木さんはUに及ばず、そもそもあの人、図表とか、不材論に図表って出てくるんだけど、図表にすらAはないぐらいな図表ですからね。見るとGしかない図表とかがあるんで、それは図表なのかと。図表は表だけどさ、図表じゃないじゃん。文字表じゃん、それっていう感じ。
エクセルみたいなんですよね、松木さんが図表を書いても。なんかね、五色とかがあって鉛筆でここに入れるとか、不材論じゃないですよ。欲打ちパーソナリティ障害の本かな。ここに図を入れるとか、鉛筆っぽいので書いてあるんですよ。
09:14
本当にいかに絵図というものから離れている方かということを、でも考えてみるとフロイトもそうですけど、字ですよね。先進文学の世界って本当に文字情報ですよね。でも私は絶対絵がいる方がありがたいとは思うんですよ。
今回の新井さんの、ここがだからお勧めしにくいところ。新井さんのは本当にさすがは漫画家。漫画家ってこうじゃないとみたいな。カウンセリングの漫画ってとかくそうなりやすいんですけど、よくわかるんですけど、二人の人が向かい合ってお互いが喋っているコマが続いちゃったりするじゃないですか。今回のもそうなってますよ。なってる部分はありますが、新井さんそこでもすごい工夫されていて。
なるべくビジュアル情報が来るように描かれている。やっぱり漫画だからそうであってほしいよねとは思うんですよね。せっかく漫画なのにイメージが伝わらない。結局心の中で起きていることはさすがにイメージだと思うんですよ。私ははっきり言ってイメージにものすごい乏しい人間なんで、むしろすごいありがたいわけですよね。
想像力って言われると困っちゃうっていうタイプの人間なんで、見ないとわかんないですよっていう感じ。まさに百聞は一見にの世界なんですよ。
いつか、そんなことは良くて、新井さんのトラウマ療法の様々な治療法、もちろん副薬から始まって、先生方の出来がいくらなんでも良すぎないかと思っちゃったりもするんですけど、長らくいろんな経験の中で最も良いところを抽出されているんだと思うんですよね。
わかんないですけどね。それは僕の予想ですけれども。でもこれをやっぱり読んで、精神分析とは使う用語が違うけど、起きている事象はこれはあれだろうし、これはつまりベータ要素だよね、僕勝手に読み替えちゃってるわけですけど、でもやっぱりそこに漫画があるって単に絵があるんじゃないですよね。
イラストがあるとかじゃないんですよ、やっぱり。漫画があるんですよね、そこに。ここがデカい。さすがにちょっとそのヨングの世界みたいなところがあって、でも僕はその新井さんの漫画ほぼ読んでるんで、新井さんももういくらかは他の人も知ってるだろうという前提で、これも強みだなと思うんですよね。売れっ子になった後にしかできないことなんですよ、あれは。
戸畑さんもやってますけど今は、あの時にこれを書いておいたから、ここはこれぐらいで済ませられるっていうのをやってくれることによって、流れを見失わずに漫画が成立するんですよ。
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あれを全部書くとなると、つまりそこだけで一貫文ってことになるじゃないですか。っていうのがグッと1ページぐらいに凝縮できる。でも本来あの漫画から始めるとあそこを読んでも意味がわかんなくなるわけじゃないんだけど、ほとんど理解は難しくなるっていうシーンは何箇所かあるんですよね。
でも私そこ知ってるんで、読んでるんで他の漫画で、これもこれが2つ目の新井さんの漫画を読む時の私のメリットなんですよ。そんな大したメリットじゃないですよ、みんなやってることなんだけど。
例えばこの番組でも、これすごく私の頭の中では似てる話なんですけど、新井さんの漫画とそういうのが似てるのかって言われると違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれないですけど、高階良子さんの漫画家さんの自伝、あれも同じなんですよ。
私高階さんの作品はかなりほとんど読んでるんで、高階さんがこの時にこれを書いたんだっていうのを読むことの意味が大きいんですよね。
例えばこの時に赤犬馬を書いたんだとか、この時にピアノ園田殺人事件が脚走できたんだって、ああなるほどねっていう感じがするわけですよ。
あれですよね、漫画道で藤子不条さんたちの作品を読んでれば読んでるほど漫画道は面白くなっていくっていうことと似てますよね。
特におばきゅう以前の作品って読んでないことがほとんどだと思うんですよ。僕は漫画が異常に好きだったせいもあって、結構読んでたから知ってるってことがあったわけですよね。
それがやっぱり、そんなの知らなくても漫画道はめちゃくちゃ面白いですけど、とにかくそういうことってあります。
私は新井さんの作品は読みやすい立場にあるっていうことですよね。
例えばしょっちゅう出てくる息子さんとかしょっちゅう出てくる旦那さんとのエピソードとか、慣れそめとかまで全部読んでるから、
なんとなくこの旦那さんがここでこういう話を突然振られてるわけとかがわかるんだけど、それはわかんないじゃないですか、そんなの普通は。
そういうことがわかって読むと、特にトラウマ療法なんかの話になってくると、アドバンテージありますみたいな。
別にこのアドバンテージが何に対する有利とかはないんですけど、とにかくわかりやすくなってますということなんです。極端にです。極度にわかりやすいですと。
で、いやもう非常にでも今回はですね、読んでくださいとしかでも、あんまり読んでくださいとも言いにくい作品でもあるんですよね。
読んでくださいと言うべきなんだけど、本当にひどいんで、別に新井さんが体験されたことなんで、漫画に罪は何もないし、新井さんが悪くも全然ないんですけど、
でも体験はすごい体験。やっぱ大変ですよねっていうことになっちゃうわけですね。
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特に兄弟同士で生き延びたんだみたいな話は、いや大変だなっていう兄弟同士で生き延びるって何なんだろうなっていう感じがしちゃうわけですよね。
でも私もあれを解読して、最近自分自身の序反応ということについて、あえてこの言葉にしてますけど今日は、自分自身の序反応というものについてすごく考えるようになりました。
私の場合、まんまということはないんだけど、思い出せば思い出すほど、いやこれはいわゆる虐待に相当するのかもしれないとか、いわゆるこれはトラウマに相当、
自分はそう思ってないから、今までそういう観点で見たことはなかったんですよ結局ね。
だけど、いやこれは今で言う要するに虐待なのかもしれないと。
そうすると、自分がこの種の療法を受けるとこういうことが起きるのかもしれないなと。
マイルドにですよもちろんね。マイルドになんだけど起きるのかもしれないなと。
そうすると、いや受けといた方がいいのかもって考え始めると、いやそもそも受けといた方がいいわけじゃない人ってどこにいるだろうみたいなね。
新井さんが最後にこの漫画の中で自分の息子さんにもEDMRを受けさせるんですけれども、
それは新井さん自身がこういうことをしちゃったからって言うんですけど、
いやそれは私の、いや考えすぎっていうのはおかしいんですけど、
いや別にそれは虐待とは言わなくないって思っちゃうんですよ。私はやっぱり昭和の人間だからですよね。
いやそれが虐待だったら私のは完全に虐待になっちゃうな、いろいろとっていうのがあるんだけど、
自分の中ではやっぱりピンとこないんですよね。
それは乖離とかではないんですよ全然。
ピンとこないっていうのは、みんなもそういう目に合ってたからねなんですよ、単純に言ってしまうと。
いやもっと酷い目に合ってる人もいっぱいいたけど、そういうもんだと思ってたし、
いやなんていうのかな、ここにちょっと誤解の種があると思うんですけど、昭和と大昭和違うんですよ。
昭和ってなんか最近、時代が昔になっちゃうとそうなるんでしょうけど、今後ますますそうなるでしょうけど、
なんかものすごいあたかもそれは明治かなんかみたいだなっていう言われようを
最近ちらちらと見て違和感を覚えるんですけど、はっきり言って私の小学校時代とかは、
今に比べればそれは遅れてますけれども、明治と昭和を比較したら昭和は令和にずっと似てますよ、戦後は特にですね、
と思いますよ私は。
だからもう明らかに時代錯誤的なものはいっぱいありましたよ。
例えば何も誰も何も考えずに、生徒さんの名簿は男子22名が呼ばれてから女子22名が呼ばれる。
それは誰も違和感は持たないという非常に今思えば不思議なことがまかり通っていたんだけれども、
18:01
例えば小学校6年ともなると女子の子が発達が早いんで、
例えば実際にはかけっことかすれば、クラスで一番早いのも二番目に早いのも女子だったりするっていうことはあったわけですよ。
あったわけですよ。
なんだけど絶対クラス対抗リレーは男女で分けていた上に、なぜか男子の方が早いという前提があったんですよ。
あれも考えてみればタイム測ってるのにそんな馬鹿な話があるかって感じなんだけど、
なんかねやっぱりね一番早い女の子でも一番早い男の子には負けるみたいなのってあったんですよね。
やはりわざとなのか、KOされるのか、後で嫌な目に遭うのか知りませんが、
絶対男子が勝つんだけどタイムは少なくとも、でもまあ男子だって一番早い子は相当早いんで、
分かんないですよそれはねもちろんね、分かんないけど、
でも絶対に常に男子勝ってるのおかしくねっていう、で現に今私あのね娘の運動会とか行ってみると、
女子しか代表になってないクラスとかあるしっていう、あって当たり前なんだけど、
特にその田舎のちっちゃい学校だとあって当たり前なんだけど、
いやこの光景すごくこう先進的に見えますねっていうのは、やっぱり僕が頭は古いんですよ。
でもだからといってですね、あの例えば小学校で精神中乳房を持っている兵隊さんがいましたとか、
そんなことはないんですよ昭和だって。そんなことはないんですよ。ごく普通に民主的なんですよ。
ただそういう時代錯誤的なものが、もちろん今だってあるわけなんだけども、
今時代錯誤っていうのはおかしいと思いますけどね。
でもやっぱ少なくとも僕が育った時代は、あのほぼ確実に大正時代に比べりゃ、
令和に近い昭和ですよ。
そりゃもう間違いない。あの別に満州とかがあったりじゃないしね。
で、その、何の話をしているのか今ちょっと飛んだんですけれども、
要するにですね、虐待的なことっていうのはつまり、今なら虐待とに、結局それは時代の空気って大事で、
今ならばそりゃあれは虐待だったと言えるような事例はいくらもあるんですが、
当時はそれを誰も虐待だと思わなかったというのも確かなんですよ。
そうすると、それよりも遥かに軽かった私の立場からすると、
いや自分の虐待だとは思えない。
でも新井さんが今息子さんをそういう風にトラウマ治療させるのだこれで、
という風なのってやっぱり時代が変わったんだなというのと、
受けて良かったみたいな感じで書いてあるんで、
これはやっぱり、いやそれは受ければ一律に良いことがあるとは思いませんけれども治療なんだから、
だけれども、この種の治療って全く新しいものなんですよね。
私もアメリカで留学2005年よりは前ですけど、やってた時には、
21:02
まだそれはある種ありましたけどアメリカだから、
でも非常に実験的な導入実験的なニュアンスが強かったんですよ。
今でもやっぱ違うんだろうなっていうのはあるんで、
時間そんなに私余裕がある人間じゃないんでし、
勉強とか好きなわけでも読書が速いわけでもないんで、
ちまちまですけど、やっぱこういう話をそれこそ読んでいくと、
結局私にとって序判のうってものはないですし、
だから序判のうっていうのは序判のうというものが存在する文脈においてのみ、
私はあるものだと思うんですよね。
やっぱりこの話は時々考えるんですけど、
ホールディングとコンテーニングは突然そんな言い方してますけど、
違うと思うんですよ。
やっぱりウィニコットの世界だからホールディングが出てくるんだし、
ビヨンの世界だからコンテーニングが出てくるみたいに思う。
優れていったものは、例えばニードみたいなものはもう、
ビヨンの文脈でも使うし、ビヨンが使うってわけじゃないですよ。
でも明らかに使うと思うし、
なんならクライン派でも普通にニードって言うと思うんですよ。
優れた概念はそうなるし、それしかない場合はそうなると思う。
逆転はわざわざ言い換えないと思うんですよね。
ウィニコットはクラインのPSとDがよっぽど気に食わなかったらしい、
食うて妄想分裂ポジションという言い方を私はしないみたいな感じだったし、
D、デプレッシブポジションも歴史的ポジションだって言いますけど、
あんまり定着、広がらないじゃないですか。
やっぱりPSとDですよね。
そういうもんだと思うんだけど、
でもやっぱり歴史的ポジションって言いたいときは、
歴史的ポジションって言いたいときがあると思うんですよね。
覚えるとか、知識を増やすとか、テストを受けるっていう立場に立つと、
そういうのでは大変すぎるから、
まとめたくなるっていうのはよくわかるんだけど、
コンテーニングとホールディングは違う気がするんですよ。
物理感の有無みたいな感じってありますよね。
ホールドっていうとやっぱり手が出てくる感じがある。
手で抱えるぞっていう感じ。
そうでなくてもウィニコットって、
母親が物理化してるなって感じがするんだよね。
環境ってのは、彼はきっと物理的な環境を言ってるなって感じが、
コンテナってのはもっと概念的なものだと思うんですよ。
コンテナはありますし、母親の腕がコンテナだってのもそうなんだけど、
やっぱり、でも彼はチツとペニスに例えてたぐらいですもんね。
やっぱり心を受け止めるものっていうのは、
物じゃないって感じがしますよね。
だからコンテナっていうのは心だって感じがするので、
そうなんですよね。
そういう性的な部分も含んでいるし、
環境としての母親っていうのは性別は女性かもしれないけど、
24:00
なんかこう違う気がするんですよね。
ちょっと考え方としては。
コンテナの一種ではあるが、逆を言えないような気がしますね。
で、トラウマ両方。
だからトラウマって言葉も本当にやむを得ないと思います。
文脈が文脈だしね。
確かにあれはトラウマ両方だから。
ただ私は、みんなが受けても差し支えないものとして考えた時には、
トラウマ両方という言葉は、
私自分があれをやりに行く時は、
自分のトラウマの治療をしてもらうためだとは思わない気がするんですよね。
そうではない。
私はだから精神分析に偏りがちなんで、
これをあれですよ。
だからビヨンが視点と言った、頂点と言ったのか。
で、頂点はさすがに、
ビヨンが何を言いたいかはもちろん分かるけどって言いつつ、
松木さんはやっぱり視座って言うんですよね。
視点なんだけど視座って言うわけです。
そういう言い方はビヨンは好まなかったんだということまでわざわざ書いていて、
ここら辺が松木さんの細かさだなと思うんですよね。
よく白色だということは細かいということだと思うんだけど、
やっぱりビヨンはそういう偏りというものを極力配するためにも、
数式的に行こうっていう風に、だから頂点とかになっちゃうんですけど、
人は頂点からものを見ないじゃないですか。
やっぱり視点からものを見るじゃないですか。
ものを見るんだから。
そこにすでに立場が、なんかデリガーみたいですよね。
立場すなわちファシズムであるぐらいの勢いを感じるんですけど、
私やっぱりそこまでは、つまりある言葉を使うというのは暴力だって言いたいわけなんだと思うんですけど、
厳密に考えていけばそうかもしれないけど、
そんなことを言ったって我々は、だからといって記号の交換とかをする気にならないじゃないですか。
そんなことやってたら不便でしょうがないですし、
抽象化にも限りはあると思うんですよ。
なんでやっぱり、死座ぐらいはしょうがないよなっていう。
死座、死座で全然いいじゃん。別にファシズムじゃないでしょって感じはしますが、
面白い例があるんですよ。非常に面白い例だなと。
私はやっぱりああいう風にものを考えられるようになりたいなと思ったんですけど、
ある生徒さんが毎日学校に通ってて、
突然に目の前にいる社会科の先生というのは、
これはやっぱり事例がいいですよね。
社会科の先生というのは、
お金を稼ぐために仕事をしている太ったくたびれた中年のおっさんに過ぎないんだということに突然気づくんだと。
松木さんが気づいたんだろうなって気がするんですけどね。
で、突然気づくともうこれまでの光景は一変すると。
要するに先生とは呼ばずあいつと言いたくなると、軽蔑的にね。
しかしいわゆるあいつというかそいつが言っていることというのは、
27:01
社会というところがあって、そこに人々は言ってみれば服従させられていて、
従順に金を稼いで、閉塞感を感じてるんだけどなかなか抜け出せないそういう場所の中で、
様々なお金稼ぐ活動とか、マウント取るとか、
みんなで親分を決めるということをやってるんだということに突然気づくって、
だけどそのようなことをこの先生っていう人はずっと言ってたんじゃないっていうことに、
ずっと言ってたんだけど自分はこれまで全く気づかなかったなっていう、
これが死座の転換と呼ばれるものなんだと。
これは本に書いてあったことですけど、
事例いいよなと。臨床の事例でもなんでもないじゃないですか。
しかもごくごくつまらない話じゃないですか。
みんな知ってることじゃないですか。
でも確かに私たちは子供の時、先生、特に小学校1年の頃、
およそ純木に先生って思ってた時代から突然おっさんになっちゃうっていう、
なんでそうなるのかとか、毎日見てるからっていうのは僕は非常に大きいと思う。
だから僕は精神分析にせよ、特に精神分析ですが、
毎日見るということ。
だから設定動かさないんだろうなと思う。僕は動かしちゃってるんですけどね。
でも毎日見る、毎日会う、同じ人と同じような話をするっていうのは超大事だと思うんですよ。
落合博光っていう参加も参加に取った監督としても選手としてもすごい人なんですけど、
彼がよくですね、球場にはいつも同じ席に座ってる飲んだくれみたいなおっさんがいると。
で、監督になって最初にまず彼らと話を、やっぱ変わってるよね、
家に行って人はと思うんですけど。
部類の野球好きってことですよね。
昼日中から暇にして、ひたすらプロ野球の練習とかでも来るわけですよ。
面白くもなんともないですよ。僕相当野球好きだけど、
うちの妻も相当野球好きなんだけど、
新庄監督が監督になった時に、なんか全公開のテレビみたいなもの、テレビで放映してたんですけど、
野球の練習シーンだけをひたすら流すっていう、全然面白くない固定カメラでね。
いくら新庄さんだって全然面白くねえと思ったんだけど、
好きな人はそれでもずっと見てたいぐらい好きなんでしょうけれども、
自分がやったらいいのにってレベルだけど、やることはできないんでしょうけどね。
そういう人に話をしに行くと。何を話すのかというとですね、
同じ選手が毎年同じ場所から見えるわけですよね。
そうすると補給までの、確かに去年まではあそこの付近の球取れてたのに、
今年取れなくなっているということに気づくと。
で、そうすると落ち合いという人はですね、
たぶん何にも言わずにその選手を外しちゃったりするっていうことをやるっぽい話が出てくるんですよね。
30:07
いやだって追いつけなくなってるしみたいな。
本人が悪いってわけじゃないんですよね、別に。
でもプロってそういうもんでしょうみたいな話なんだけど、
これに近い、これはすごい超競争社会だから妙に残酷に聞こえますけども、
でも全く同じ、これが死座ですよね。
同じ場所で全く同じものを飽きずに飽きずに、だから同じに見えるはずなんですよね。
その人にとっては全く同じ風景に見えるんだけど、
それだけに同じということが完全に成立すると、
違いというものが別に努力もなく目に入ってくるっていう話をしてるわけですよね。
だってそのおっさんはプロなわけじゃないわけですから。
だけれども同じ場所から同じものを同じようにいつも見ているからわかるわけですよ。
で、そんなところにずっとコーチの人が座ってたり監督座ったりはできないから話聞きに行くわけですよね。
そういう視点が大事なんだっていう。
たくさん視点があればあるほど信用できる視点っていうことになってくると思うんだけど、
たくさん視点があればあるほどいいんだってことですよね。
だからこの定点観測的なもの、それだけをやるわけじゃないんですけど、
心理観戦のニンニクっていうのはきっとっていうか絶対に。
ただこの定点観測的なものを通さなければ気づけないことが人間にはあるんですよ、やっぱり。
だから松木さんもかなり苦しい事例として、
こうずーっと壁にぶつかっていると、
ずっと壁にぶつかっている人間っていないじゃないですか。
でもよくわかる気がするんですよ。
私はそういう風には耐えられなくなるに違いないから、
そういうやり方はしないんですけど、
でも精神分析の世界っていうのは特殊っていうか独特なんで、
ずーっと壁にぶつかっている感じがするっていう。
でもふと突然その壁に穴が開いていることに気づいて、
その穴を見た途端に違う世界に行っているみたいな。
かなり苦しい話だなと。
一方すると覗きの話してるみたいになっちゃうけど、
でも何を言わんとしているかはとてもよくわかる気がします。
社会科の先生の話と全く同じですよね。
こういうことなんだなと思うんですよ。
ちょっと違うんですけれども、私がよく思うのは、
やっぱりいつも編集さんとのメールのやり取りって、
すっごいあるわけですよね。
すごいあるんですよ。
いつもメールをやり取りしてやり取りして、
最近はさすがに減ってきたんですけれども、
昔は本当にメールでやり取りをすることが仕事なのかぐらいに
やってくる人もいらっしゃったわけですよ。
ほとんど毎日じゃんみたいな。
ここに定点観測的なものがあるじゃないですか。
そうやって毎日読んでると、別に読み込んでるわけじゃないですよ。
すっげえ適当に読んでますよ。
33:01
なのに、あれこれ合わないとって思う日が出てくるんですよ。
別に読む必要ないわけですよ。
向こうもそう思ってないし、
メールでいいじゃんって思ってるわけですよね。
昔みたいに喫茶店予約して、
そこで話し込むみたいな、
そういう牧歌的な幸せな時代は、
もうビジネス著作家にはどうにもなくて、
オンラインが全てみたいになっちゃう。
経費削減ですよね。
ところがずっとオンラインでやってると、
いや、あれこれおかしくない?みたいな感じで合わないと。
っていう風に会ってみると、
その人が怒ってたり、何か考えていたり、
何か企んでいたり、
企むって別に悪事はなくなるわけじゃないんだけど、
企んでいたりするわけですよ。
っていうことに気づくんですよ。
あれと似てるんですよね、すごくね。
すごく似てる。
だからリアルで会うっていうことが、
本来はそういう意味で大事なんだろうな、
みたいに思うことがある一方で、
リアルに会うっていうのは、
非常に今の時代はやっぱり、
コストとみなされてるし難しいんで。
あのあれですよね、
今回の山崎さんとのイベントも、
リアルは枠5でも埋まらないんですよね。
すでに20というところまで来てるけど、
リアル枠は5でも埋まらないっていう、
やっぱり今リアルって明らかにコストだと考えられているんで、
リアルそのものが心理臨床の人は大変だなと思うんですけど、
つまり私は心理臨床じゃないぞって、
ここでアンに言ってるわけですが、
その難しいと思いますね。
リアルというものでしか多分、
手に入らないものは確かにあるんですが、
コストだというのも思われてしまうのも本当なんで、
松木さん書いてましたけど、
新幹線でいつもずっと来られている方もいらっしゃると、
そういうことも合わせて考えてみようみたいな、
その通りだと思うんですけど、
なかなかやっぱりそういうわけにいかない、
というのも確かだと思うんですね。
我々は心理だけに生きてるわけではないので、
そういうふうなことをさまざま、
ドラマ両方の新井さんの漫画は考えさせられました。
やっぱり見るっていうのは本当に、
そしてやっぱり彼女は漫画を描けるというところが、
素晴らしいって思うんですよね。
投影ってのはやっぱり絵で表すのが一番わかりやすい。
ただそれは分かってやっているのは、
自分が投影してるって意識もしているし、
それを漫画で描けるっていうスキルも必要なんで、
両方ないとダメなんで、
非常に限られてくると思うんですけど、
その意味では描かないんじゃないかな、
っていう感じがします。
絶対にそういう表現は出てきてないんですけど、
やっぱりこれは可能性空間だろう、
これを可能性空間と言うでしょうっていうのを、
私は何回も何回も、
そして可能性空間はやっぱり、
絵で描いてほしいじゃないですか。
空間なんだから。
可能性空間とは、みたいなことを
36:00
オグレンさんとかが字で書くわけで、
藤山さんもしょっちゅう書いてますけど、
ここに第3点があってって、
ここに第3点があるって言われても見えないから、
ここに第3点があるって、
ここに第3点があるなら描けよ、みたいな感じなんだけど、
描かないですよね、新聞的な人々は。
文字でひたすら読ませますよね。
そういうものから伝えてくるすごさっていうのは、
特に藤山さんはすごいと思うんだけど、
やっぱり点が3つあるって言うんだから、
三角形を入れるためには空間が必要だって、
描けよっていう感じが、
北山治さんは一生懸命それでも書いてくださってるんですけれども、
やっぱり絵を描くって感じの人でもないんで、
あれは何なんだろうな、テキスト情報に生きるという傾向が、
精神分析の人はやや強い気がしますね。
心理臨床の人は強いんだろうか。
やっぱり描けないものなんだよ、みたいなことを言われると、
絵が絵手じゃないのか、それとも本来原理的に描けないのか、
絵が描けない私にはわかんない、
お前人のこと全く言えないよねって言われると、
全くどの通りでございますけど、
しかし原田さんのように見ると、
これはやっぱりスキルの問題だなっていうのが痛感されます。
どこにもそのウェニコットとかいう言葉すら出てこないから、
第3点も第3項も可能性空間も移行空間も、
言葉としては出てきませんが、
全部出てきます。間違いなく。
と思います。
私素人なんで、この辺がちょっと素人の泣きどころなんですけど、
専門の人に読んでいただいて、
いやあれ可能性空間ですよねっていう風に言いたいんですけれどもね、
言って欲しいっていうのもあるんですけど、
違いますよって言うなら、
それはそれで言って欲しいんだけど、
私にはでもこれを可能性空間と言わずして何と言うんだみたいな、
でもそこで行われてるのがCBDだったりするんで、
言わないですよね、確かにそれは。
文脈が違えば、学科が違えば文脈が違うし、文脈が違えば用語が違うのは、
同じような、ほぼようなじゃなくて同じだと言っていい事象でも、
違う表現になるのは、そもそもその空間に名前もついてないみたいな、
その辺は私からするとやっぱりちょっと不思議ですけどね、
いやこの事象絶対名前つけないとっていう感じしちゃうんですけど、
別にそのなんとかスペースとかでもいいから、
いやスペースよくないな。
なんかちょっとほら、英語のスペースはスペースかもしれないけど、
日本語でスペース言っちゃうと、
なんか宇宙空間みたいなものを連想しちゃうじゃないですか。
なんかもっと手狭な感じっていうのか、
心の空間感がパーソナルスペースとか言いますけどね、
なんかちょっと違うような気がしちゃうんですけれども、
やっぱりだから用語って難しいなって思いますね。
でもスペースでもいいんで、
なんでもいいから名前はつけたほうがいいような気がしますよね。
ああいう事象が起きるってやっぱあればですよね。
じゃないと取り合えようがなくなっちゃうと思うんですよね。
39:00
描ける人はいいですよね、本当に。
でも新井さんだったらかなり苦労して描かれたと思うんですよ。
サラサラっと描けるって話とは違うと思うんですよね。
描けない人間にはそもそもサラサラっとすら私のような人間には描けないんで、
テント定規を使って可能性、空間みたいになっちゃうんで、
そういうのを出したいなって思うんですよね。
39:29

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