2021-01-15 32:35

【GMV 298】なぜ他人にバカにされたくないのか?

「内心」を手放せればはるかに楽になれます。
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おはようございます、グッドモーニングバイオスです。
セミナーとかで、よく質問ありませんかっていう、
主催者側の決まり文句があるじゃないですか。 私はあれ、かなり一生懸命引っ張るんですよ。
そうすると、昔なんかはネタが切れたのかと思われがちだったんですけど、そういうことではなくてですね。
私は質問を出してもらわないと、セミナーにならないといつも思うんです。
特に今のような時代って、これもそうだけど、一方的に喋るだけならば、私はこういう人間なんで、実は結構いくらでも喋れるという、
多分なんかこれはですね、何かがダメなんですよ。
普通の人はこうではないということが最近分かってきたんですけど、私はこうなんですよ。
これはすごい勉強になったんですけど、 仕事の野橋玲奈さんとずっと仕事してるとですね、スライドをガチッと作るっていうのがあったんですよね。
100枚とか200枚とか。 私、途中から特にそうだったんですけど、実は全然あれはいらなくてですね。
実は私は何もなくてもずっと喋ってられるんですよ、もともと。 書くのがそうだったんですね。
本とかも、もともとノープランなんですよ、多分。
カチッとしたものをやらなくても、ずっと書いてられるんですよ。 あの、で、分かってきたんですけど、カチッとしたものを
用意するということ自体が、人によってもやり方が違うと思うんですけどね。 私結構こう、最初から
スライドを作っちゃいけないって言うじゃないですか、そういう話ありますよね。 最初アウトライン作って、その下書きを元にスライドを作っていきませんと。
私あれ最初やったんですけど、手間で手間でしょうがなくて、 あっという間にそれはやめてですね、スライドから作るんですよ。
で、スライドから作り出しても自分は実は止まらないんですよね。 ずっとスライド作ってられるんですよ。
100枚ぐらいまではあっという間になんですよ、割と。 要するに何かがおかしいんだなって思うんですよね。
多分大概の人はそういう感じじゃないんですよ。 質が良いとか悪いとか、私このアウトラインからやったからといって質とか全然良くならないんですね。
で、スライドをすごいいっぱい作っておくっていうのは何が非常に私には良かったかというと、
スライドの作り方が人と全然違うんだということがわかったのと、
いっぱいワーッて作るという流れが、スライドを作ろうと、ああいうのスライドいっぱい作るってやらない限り、私多分一生気づくことはなかったと思うんですね。
喋ればいい人間なんで、今手元に何もないわけですよ。iPhoneしかないんですね。 喋ればいい人間なんで、別にスライドとかいらないわけですよ。
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多分一生気づくことはなかったと思うんですよね。ああいうスライドを実は、私作ろうと思えば多分1週間あれば5000枚とか作れると思うんですね。
そんなにないと思うんで、入れられるかどうかも疑わしいのと、とにかくわけわかんなくなっちゃうんで、そういうのはないと思うんですけど、
やろうと思えばそういうことは全然、しかもそれは特殊能力とかじゃない気がするんですよね。
ただ止まることはないという、ただそんなことはしませんけどね。やりたいと今や少しも思いませんので。
今スライドを使うということ自体もあんまり気が乗らないというのが本音なんですよ。なぜならば邪魔なんですよ、要するに。
ただあることによって、忘れずに言えることが出てくるというのは事実なんですよね。そこのところにトレードオフはあるなと思ってます。
例えば私これ、毎回毎回どこかでセミナーのCMを挟もうと思ってるんだけど、忘れるわけですね。
それは何も用意してないから忘れるわけですよ。忘れた時は忘れることが良かったというふうに思うことにしてるわけですね、グッドバイオス的に。
ただとにかく忘れちゃうんで、忘れないためにはスライドがあった方がいいんだけれども、代わりに忘れないということはですね、
その時にリビドの流れが変わるということなんですよ、この番組的に言えば。それは良いことじゃないんですよね、それ自体は。
本当は流れが変わらずに、しかも忘れないのが理想的なんですけど、そうはいかないんですよ。
やっぱり思い出すってことはある意味人格変わるということなんで、私だからその最近記憶についていちいち何かを覚えておく、思い出す、忘れないっていうのを
避けられる限りは避けようと思ってるんですよ。 人格交代はなんて言うんですかね。
起こるべき時には起きるはずなので、 起こさない方がいいと思うんですよ。
これを起こした方がいいというのが多分現代的な考え方なんですね。
そのセミナーのCMをここで挟みますが、1月30日にオンラインのセミナーをやりますので、ぜひこれを聞いていただくとですね、この番組が
最近ちょっとだいぶ昔に流行った言葉で言うと255倍ぐらい面白くなると思うので、ぜひお願いしたいと。
こういうことをですね、事前に言おうと思ってスライド用意しておくとかメモ用意しておくとかするとですね、今度
さっきまで喋っていたノリというものを全部失うことになるんですよね。これが嫌なんですよ。
で、あのセミナーでよくいただく質問があってですね、
違うな、セミナーで質問ありませんかと言っても
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していただけないと。で、それは質問がないわけじゃないんですよ。 だから私はしつこくしつこく聞くんですよ。
質問があるのことはわかってるんで、私としては。 質問はあってですね、
なぜしないかというと、 恥ずかしいからってやつなんですね。
今日要するにしたかったテーマは、今までのスライドの用意とかとは何の関係もなく、この恥ずかしい問題なんですが、
えっとですね、 まず日本人はよく恥の文化とかって言うじゃないですか。恥ずかしがり屋なんですけれども、それは
格好をつけたいからだということが言えると思うんですね。 で、格好をつけたいと恥ずかしいというのは両面なわけですね。
で、この両面ってことを言うってことはですね、 外面と内面があるっていう一つの前提がそこにあるわけですよ。
恥ずかしいという人はですね、世の中の人はすべて内心というもの、内なる心をですね、
持っているという大前提があってですね、 クラゾン・ケイドさんのよく言う言葉で言えばですね、
グッドバイブスのセミナーで、毎回ではないかもしれませんがほぼ出てくる、
自分を見るように他人を見るという、これ対応する心理学の何かがあるはずだと私は思って探してるんですけど、
見つけられないんですよね。なんか近いのがトム・ソヤの壁塗りだと思うんですけれども、あれは心理学じゃないし、
ミラーニューロンという話では私は十分じゃないと思うんですよ、これについては。
ミラーニューロンは脳科学であって心理学じゃないんですよね。
自分を見るように他人を見るっていうところありますよね。 人ってのは私が考えているように考えているんだろうなと。
これは大きな誤解であることも少なくないんですけどね。 つまりこんな質問をしたらバカだと思われるんじゃないかという心配をしているわけですよね。
恥ずかしいということは。 ということは、しょっちゅうそういうことをその人は思うってことですよね。
あいつあんな質問をしてバカなんじゃないだろうかと、そういうことを思っているんですよ、きっと。
少なくとも言えそうなことは、こういうことを思っているというのはちょっと意地悪かもしれないと、
少なくともありそうなのはですね、内面というのがあるっていう考え方なんですよね。内心というのが。
そういう質問が飛んだと仮にちょっと、何て言えばいいのか分かりませんが、
ある種の質問が飛んだとき、お前バカじゃないのっていう人いないんですよ。
多分いないと思うんですよ。相当その人は、それはそれですごい人だと思うんですよ。
さっきのスライド5000枚に相当するぐらいある意味すごいと思うんですよね。 つまり壊れていると思うんですよ、何かが。
それはやっぱりやっちゃいけないとされているだけではなく、私たちの文化の中ではかなり強いタブーなんだと思うんですよね。
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なぜならば、私たちは内心があるという文化のもとに生きているのでね、
みんながみんなそう信じているとは言いませんが、でも大体の人がそういう感じを持っていると思うんですよね。
内面と外面、内と外ってものがあると。日本人の考え方のベースにはあると思うんですよ。
内と外っていうのはね、その外に出してはいけないものを、しかも攻撃的なものをバーンと投げかけるっていうのは、やっぱり相当なものだと思うんですよ。
この文化の中でそれができる人は、どこかを壊してしまっていないとちょっと無理だと思うんですよね。
だからっていう面もあって、一層恐れるわけですよ。誰も言わないけれども、みんなが私のことをバカだと思っている。
恥ずかしい奴だと思っている。あんな恥ずかしい質問をしてよく平気でいられると思っているって思っちゃうんですよね、自分で。
だからみんな死因として主催者だけが困るという。主催者はいくら困っても知ったことじゃないですからね。
これが多分僕はあると思っております。あると思っているからとにかく聞きまくるんですよ。聞きまくることによってこいつがこんなに聞くからしょうがないから答えてやろうという
心理に切り替わるはずだと思っているんですよ、どこかで。そうするとですね、恥ずかしくなくなるわけですよ。
いやいや、質問をすごいしたかったわけじゃないんだけど、主催の佐々木がバカみたいに何度も何度も質問しろ質問しろって言うからしょうがなくしてやったんだと思ってくれればいいはずなんですよ、それで。
要は質問出ればいいわけですからね、結果として。で、えーとですね、
その恥ずかしいなんですが、内心というものがあるわけですよね。
で、私はその内心というものがあるというのが大きなイリュージョンだと思うんです。この内心、内心というのがそもそもイリュージョンだと思うんですよね。
実在してないと思うんですよ。だからこの内心を手放すということがですね、実はすっごく
人とグッドバイブスにやっていくとかいうことにおいてもですね、
有効なんじゃないかと思ってるんです。例えば私は、私たちはですね、なんか奥さんが不機嫌だとかって言うじゃないですか、それは内心というものをもう前提としちゃってますよね。
いやいや別に何でもない、いつもと同じだよって言っても信じないですよね。
それは外的な表面の言いつくろいであって、内心では俺のことに対して腹を立ててるとかって平気でそこのところに確信を抱くわけですよね。
これをやるから、私たちは辛くなったり疲れたりするんだと思うようになりました。
なぜならば、結局イリュージョンを手放すってことを真剣にやっていくと、内心を手放すってところに入っていくざるを得ないんですね。
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そうすると実は自分はいろんな内心というものを勝手に想定、結局それは選択ってことと同じなんだけれども、
例えば誰かに新しい企画でこんなオファーどうでしょうとかっていう、まあこれが仕事である編集さんとかもでも、
きっと私の内心、私にオファーとか私物書きなんでするじゃないですか。
私の内心ってものはね、想定しちゃってると思うんですよ。
内心では佐々木はどうなんだろうみたいな、ぜひやりたいと思うのですが、最近忙しくとかって表面的に言うっていう言い方があるじゃないですか。
そうすると断ると、内心この条件はお金が安かったんだなと勝手に向こうを思うわけですよね。
それでもおかしいですよ、本当は。書いた通りなのかもしれないじゃないですか。
本当のことはわからないんですよ。で、本当のことがわからないというよりも大事だと僕はこの場合には思うのはですね、
内心があるという想定がおかしいと思うんですね。
そんなに私たちはいつもいつも心の中でモノローグモノローグやってるわけじゃ、私やる方だと思うんですけど、
それでもですね、四六時中ずーっとモノローグやってるわけじゃないし、書いた通りであること、喋ってる通りであることもあるわけですよね。
で、HSPとかいう方々がですね、ひとつ私はよくこう、私はHSPですって書いてた時によく思うことがひとつあるんですよ。
これもちょっと意地悪いなとは思いますけれども、これをテーマによくしているからご理解いただきたいんですけど、最近の政府じゃないですけどね。
ひとつの大きなリスクを犯していると、まあこのリスクは日本の中では大してリスクじゃないけれども、でも犯していると思うんですよ。
HSPというのは内心というものがあるという前提をはっきり示すことになり、しかもですね、内心には少なくともポジティブには思ってないんだぞっていう表明にあれはなっていると私は思うんですよ。
あの診断を全部読んでいくと、いろんな診断ありますけどね、だいたい似た入り寄ったりですよ。
それを見ていくと、例えば調子に乗っていると思われたくないとか、あるいは大きな声で怒鳴っている人を見るととても怖く、自分が怒られてなくても怖くなるとか、私はあれは全部、かなりの部分ですね、私は内心でネガティブに思っているんですよということを表明していて、しかも他人も少なからずそうなんですよということを言っている気がするんですよ。
例えば大きな声で怒鳴っている、そういう人はですね、恥ずかしいっていうのとはちょっと違うかもしれませんけど、みっともないというのは絶対あると思うんですよね。
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ああいう人でありたくないみたいな、そしてその意味っていうのは文化的な意味じゃないですか、私だけがそう思っているっていう意味では決してないと思うんですよ。
多分このように思う人は必ず恐れていることがあってですね、自分が同じように振る舞ったら多くの人に恥ずかしい奴だ、みっともない奴だ、あんなに怒鳴りまくって相手の心も気遣えずにって思われるということがとても怖いんだと思うんですよ。
ってことは人ってそういうふうに思うものだって相当程度思っているわけじゃないですか、怒鳴っている人は違うんですよね。怒鳴っている人は浮き上がっているんだと思うんですよ、その人の心の中では。
つまりセミナーで質問をするときに懸念することと同じだと思うんですよね。恥ずかしい奴だと。でもこれはやっぱりですね、同じことを同時に表明していることになると思うんですよ。
私はしょっちゅうあのいう奴は恥ずかしい奴だと思うのです。この表明ってなかなかなものだと思うんですよね。
つまり私は相当内心では他人を見下していますよ、しょっちゅうってことになっちゃうじゃないですか。で、この怖いとHSPの人は怖いと言うんだけれども、単に怖がっているというかすごくネガティブに見ていると思うんですよ。
この怒鳴る上司は実はみんなから詐欺すまれているんだと。そういうふうにどこかで思っていなければですね、このネガティブな内心をみんなが共有しているという前提そのものが崩れちゃうので、実はそんなに怖くなくなるはずなんですよね。怒鳴っている人だの、恥ずかしい質問をすることだのといったことがですね、
自分を見るように他人を見るということが実際にあるならばですね、これを実際にあるというエビデンスを私は探しているわけですけれども、クラゾンさんがそれを言ったとき、大概の人はそのことに異議を唱えないし、私もいつもそのことは内心同意できるんで、内心、そうだろうと思うんだけれども、
多分私たちは確かに、人のことを自分と同じようなものだというふうにみなすところがありますよね。だから、言われのない非難とかを受けるのも嫌なんですよ。
言われのない非難を受けてもですね、この非難を真に受ける人がきっといるだろうと、この時も同じリスクを私たちは犯しているはずなんですよ。そういうことを言うからには、私も根も葉もない噂を平気で鵜呑みにすることがあるんですと言っているのと全く同じことを意味しますよね、これは。
だって他人のことに対する想定をそうやってかけているわけですから、それは全ての人に聞いて回るわけにいかないので、ほぼ確実に自分が代表者なんですよ。全人類の代表者なんですよね。
全人類は言い過ぎにしても、日本語が通る世界の代表者として、私はこういう噂を鵜呑みにしますと、怒鳴っている人が浮き上がって恥ずかしい人だと思ってますと、
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感心できない質問をするやつはバカだと思ってますと言っているのと同じだと思うんですよね。
そのような内心がみんなにあるっていうことが、私たちの中で自分に対する恐怖感になるので、行動を制限してくるはずなんですよ。
これはイリュージョンですよね、結局。まず全ての人に内心があるっていう段階ですでにイリュージョンです。
ない人はいるんですよね、これが。だいたいあのHSPの人を分けてるじゃないですか。怒鳴っている人と自分を完全に分けている。
つまりそっちの人の内心については、ほぼ興味がないばかりか、ないんだと思っている節すらありますよね。
そういう人には内心がないと。だいたい内心がない人はネガティブに評価されてるんですけどね。
で、恥じってのは結局みんなが、だからそうなんですよ。セミナーでどういう質問をしても、いやお前そんな質問して恥ずかしくないのかと誰も言えないのは、
みんなが内心を持っているという強固な、なんて言うんですかね、みんなで同じイリュージョンを抱くってことによって成立するんですよね。
そうじゃないとすればその発言が出てもある意味おかしくはないわけで、でもそういう発言は絶対出ません。
絶対出ないにも関わらず強く恐れるわけです。そうすればみんなが恥ずかしい奴だと思うことになっているからですね。
で、このイリュージョン手放すということによってですね、
私がちょっと飛躍上がるようなんですが、一番得られる大きなメリットとしてですね、
自分の中の一つ意識を一つ推進することができるんですよ。
結局これどこまで行っても証拠は決して得られない話なので、外的な現実には決してならないんですよ。
どこまで行っても、何ならば一人一人にですね、私の質問は恥ずかしかったですかと、それに近いことをなさっている方がいておかしかったんですけど、
あれいくらやってもダメなんですよ。なぜなら日本人がみんなそう思っているので、内心があると思っているので、
絶対その恥ずかしい質問だ、愚かな質問だ、バカな質問だと思った人がいても、そうは言わないんですよ。
だからこそこの疑心暗鬼は価値があるわけです。価値というか力を持つわけであって、
決してそれは表には出てこない。表に出てこないことが恐れの源泉ですからね。
もしそれが表に出てくると、むしろ議論になるって、恥ずかしいことを恐れるって段階を出してしまうんですよ。
だからつまり、周知に訴えて恐怖心を与えて人の行動を左右するということは、実はこれ表に出た段階で壊れちゃうんですね、きっと。
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で、そういうことがあるので表に出てこないと、つまりどこまで行ってもイリュージョンであり続けるというところがミソで、
手放してしまえばですね、同時に2つのものがなくなりますよね。
1つは自分の中の内心というものを手放すことができるので、訳のわからん分裂を自分の中で抱え込まなくていいわけです。
これって自分の中の分裂ですよね。1つは質問したい、発言したい、自己表現したい、何か言いたいことがあるのに、それを押し留めるという自分がいるわけです。
人が恥ずかしいと思うからだと思っているかもしれませんが、何であってもそれは自分の内心なんだから、当然自分の心の中の話ですね。
これが2つに分裂して葛藤を起こしているわけで、これを1つにする方がそれは楽になるに決まっているんですよ。
で、倉津野さんのあれですよね。人のことも自分と同じように見るので、もし自分の内心というものを手放すことができると同時に他人の内心も消えていくんですよ。
この話は大変不可解に思われると思うんですけれどもね、自分の内心を手放しても人の内心はそこに残っているだろうって、図式的にはそう思えるかもしれません。
でも実際には自分の内心を手放してしまうと人の内心は消えるはずなんです。
このからくりって自分の内心を作り出すことによって人の内心を成立させているので、逆では決してないんで、
内心というものを、みんなの内心というものをですね、客観的に確認できた人はいないところにミソがあるんで、
囚人のジレンマとよく似てるんですけれども、とにかく内心そう思っているんじゃないかという自分の疑いが全厳選ですから、この厳選自体が消えればですね、相手の内心は消えるんですよ。
全ての人の内心が消えていく。これができるとものすごく楽になるはずです。
で、心配症な人は、つまりこれは内心というものに不確信を、これも変なんだけどね、疑うことに信頼を寄せるのはおかしいんですが、
内心ってなんでも絶対あるんじゃないかと思う人の中には、それをやると恥ずかしさというものが消えてしまって、
ものすごく恥ずかしいことをどんどん取るという恐怖感があるかもしれませんが、そんなことが起こることは多分絶対ないと思います。
現に私はこの内心が非常に減ってきたんだけど、だからといって、あれじゃないですか、なんかこう外で裸踊りとか始めないんですよね。
それは体の問題ってことも一つはあるんですけれども、いずれにしてもそういうことって起こりません。
それよりはどっちかというとまだ難しいのはですね、昔から残っていた強い内心の残骸みたいなものが、
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自分の行動を良くし続けるほぼ意味もなく、そういう方が苦痛というかな苦しみを与え続けますね。
恥ずかしさがなくなるってことは決してないんですよ。
私、HSP義味だという方が一度、一度ではない、一度や二度ではなく何度も訴えてこられたのは、
私は人のそういう繊細な心の辛さみたいなものをわからない人間になりたくないんですっておっしゃって、
だから言ってみればそれはHSPであり続けたいんですってことですよね。まさにこれなんですよ。
この真理こそがその状態を作り出し続けるのであって、
そのHSPの人がいるという段階ですでにある意味イリュージョンなわけですよね。
これは言ってみれば、私はセミナーで恥ずかしい質問を平気でするような人になりたくないんですっていうのと全く同じです。
そしてそれは、つまり私はある種の人たちの質問を恥ずかしいと思って内心見下してます。
見下し続けたいんですっていうのとも同じです。結果としてですけどね。
だからこれをやり続けたいという気持ちはあるのかもわからないんですけれども、
あるいはどうしても自分やっちゃうんです。これはちょっとニュアンス違ってきますけどね。
でもこれ自体がですね、つまり繊細な人の気持ちに気づく優しい人でありたいということだけであればいいと思うんですけれども、
多くの場合そこにネガティブなものが入り込みますよね。多くの場合入り込むわけです。
ほとんどの人は恐怖感の方をむしろ強く訴えています。怒鳴りまくる人とかの恐怖感。
最近コミックでですね、怒鳴りまくる人の恐怖感というものがあるということは、
必ず怒鳴っている人に対するネガティブな気持ちというものもあるはずで、
結局のところはそこはネガティブな評価を捨てる気はないんですというのとほとんど近いというか同じなんですよ。
だからこっちだけでもせめて捨てれば、これを捨てることになるということは、
結局はこの内心問題を全部廃棄することにきっとなると思うんですけどね。
それでコミックの話が出たんだ。ここを飛ばしましたね。
コミックで妻が口をきいてくれませんというコミックがあるんです。
きっつい状態だと思います。ただですね、あの状態がきついのは、
実際のところ内心というものに対する、口を聞いてくれなくて何年も経っちゃったみたいなのは、
異常事態なんで、私の一番冒頭で言った何かが壊れてるんで、
それは何か違う施策はいると思います。
ただこのしばしば無視されるとかがきつくなるのはですね、
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やっぱりこの内心というイリュージョンのせいが大きいんですよ。
内心こう思ってるだろう。おそらく思ってますよね。
そりゃ口を聞かずに何年とか言うんだったら思ってるでしょうよ。
でも内心ってのは実は自分の心をよーく覗いてみるとですね、
多くのケースでないんですよ、そんなものは。
どっちかというと、口を聞きそうになった時に、
いやいや待て、今口を聞いちゃいけない、こいつはこういうことを私に知れかしたんだっていう、
イリュージョン使ってるはずなんですよ。
で、通常そんな長いこと全く同じ内心をずっと抱えていたら病気になっちゃうんで、
そんなことはできないと思うんですね、人間は。
何年も口を聞かない配偶者とずっと家庭を一緒にするという段階で既にやや病的ですが、
口を聞いてくれないという時に私たちは決してそのことだけを見てないですよね。
必ずそこに内心というものを勝手に想定しています。
内心があり、内心は怒ってる。こっちが怖いわけじゃないですか。
口聞いてくれないのも辛いけど、多分こっちが怖い、こっちしか見てないと思うんですよ。
こっちを見続ける限り、この事態は決して私は好転はしないだろうなと思います。
なぜならそれは自分の内心、結局奥さんの内心というのは自分がイメージしているだけじゃないですか。
明らかにそれはイリュージョンですよね。怒っているでしょうけれど、
怒りがそこにあるというのは私自身の心の中で作っていることです。
だって見えてないし、表現もされてないわけですから。
だからこの見えてないものを勝手に見るわけですよね。
そして間違いなく自分ももちろんそのことがコミックになっていたり、
辛さが訴えられるということは辛いわけだから、つまり自分の心の中にその辛さがあるわけですけれども、
それも内心ですよね。ほぼ確実に。
現実ならなんとかなるって話あるんですけれども、
この種の現実は厳しいとは思うんですけれども、でも内心というものを
動かしがたく確かに現実だと、苦しいんですって話ではないですよ。
内心がそこにあるんですっていうのをまずなんとかすることができるっていうことです。
なぜならばですね、ないわけですよ結局。
私このことに気づいてから、内心というものは私の心の中にしかないんだと。
人の内心もですよ。気づいてからというものですね。
まず間違いなく現実に近づいた感じがするということはつまり、
今まで見ていた方がよっぽど非現実的な何かだったということですよ。
このことをですね、多分受け入れられないんだと思うんですよね。
私は本当に妻の内心というものがあることも知ってるし、分かってるんだと思ってるんですよ。
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なんかこう話しかけてみたんだけど、プイッとされるとか、
なんかこう接近するんだけど跳ねつけられるとか、そういうのが嫌なわけじゃないですか。嫌ですけど。
で、その時に何を感じるかって多分人は恥ずかしさを感じると思うんですよ。
これはですね、古くは親に冷たくされた時の子供の心理だと思うんですよね。
それを思い出してるんですよ。そういう意味ではこの番組中で使った表現をするならば、
転移ですね。これは完全に転移なんですよ。転移だという段階ですでにイリュージョンですよ。
転移ってイリュージョンですから。そこにありもしない親子関係を見るわけですからね。
でもやりますよ。夫婦関係は特にやります。
妻の中にお母さんを見てしまう。その時自分は小さな子供になって奥さんに冷たくされると、
お母さんに厳しくされた時の恥ずかしさと罪悪感を思い出して、
きつくなってくるんですよ。逆もあります。そうすると怒るじゃないですか。
ダダッコのように怒るでしょ。そうすると相手は、しかし自分、私なんか40過ぎてるからダダッコには見えないわけですよ。
お父さんの姿を見るわけですよね。お互いに転移しちゃうんですよ。
今度は娘だった自分とお父さんである私という関係になり、お父さんにすごく怒られて嫌な思いをしている。
そういう風になっていると思うんですよね。これが夫婦喧嘩だと思うんです。
その時のベースに、いつか子供は必ず親の内心というものをですね、
勝手に見るようになっちゃうんですよね。お父さん機嫌悪いのかな、みたいな。
あの時、子供がイメージしている親の内心って完璧に間違ってますよね。
大概全然正しくないですよ。お父さんは機嫌悪いかもしれませんよ。
最近で言えば、電力の自由化になって電気代が10倍にもなるという話があるので、
お父さんはLPを電気にしちゃっていて、お金の心配をしているのかもしれませんが、
だいたい娘さんはそういうことは想像できないので、
なんかこう、さっきおもちゃのことでダダをこねたから怒ってるとか、そういうことにしかならないわけですよね。
あの、大きな間違いですよね。内心というものに対する想像は。
これは私たちは多分大きくなっても、遥かに想像するものが大人らしくなっているとはいえ、
多分ちっとも当たってないものを平気で繰り返していて、
しかも子供の時と同じようにそれに対する確信を抱いているということがあるんだと思うんですね。
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