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はい、おはようございます。新潟のへラジオ、一戸信哉です。今日は11月20日日曜日の配信です。
先週も日曜日にお話をしていまして、すっかり日曜番組みたいになってますけど、
先週1週間もちょっと重めの仕事がいくつかあって、なかなか朝ゆっくりお話することができなくて、
いろいろネタ飛ばしちゃったなっていうところもあるんですけれども、
今日も日曜日になりましたが、そのお話、いろいろあったお仕事のうちの一つとして、
昨日参加してきたイベントのお話をしてみようと思います。
昨日はですね、ユニゾンプラザというですね、新潟ユニゾンプラザという、
中国上所にあるところで、正式な名前が中国残留法人等への理解を深める集い、
インニー型っていうイベントがありまして、そちらの方で30分ほど、私もお話をする機会をいただきまして行ってまいりました。
これはどういうイベントかというとですね、首都圏中国帰国者支援交流センターという団体が主催するイベントで、
聞いたら新潟でのイベントは初めてなんだそうですが、各地でイベントをやっている団体です。
名前の通り中国帰国者支援交流ということですので、
中国から帰国した人たちの支援活動をしているというそういう団体なんですが、
中国から帰国したって何の話ってことですけど、
いわゆる満州引上げっていうのが主な事業の内容で、
満州から引き上げてきた人たちの生活支援というのを取り組んできた。
とりわけ戦後直後に引き上げてきた人っていうよりは、
後に日本に帰ってくる、永住帰国されるということになった残留法人、
中国残留法人とかかつて残留孤児と言われた人たちですね。
こういう人たちのことを支援する活動を続けているという団体です。
私と同じぐらいの世代の方ですと、
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1980年代ぐらいですかね、子供の頃定期的にNHKでやってた、
肉身探しの映像を記憶されている方もいらっしゃると思いますが、
今も若い世代の人になると、それを見た記憶もなく、
ほとんど忘れてしまって、忘れているというか、
知らないという人も多いのではないかなと思いますが、
戦後、戦争が終わった時に日本に引き上げてくる際に、
たくさんの方も亡くなっているわけですけども、
亡くなってくる方、引き上げてくる方、いろんな方がいる中で、
引き上げてくる途中で、中国人の家庭に引き取られた子供の人とか、
あるいは女性と子供だけで引き上げてくる途中で、
中国人の男性の元に身を寄せて、その方と結婚して、命を繋いだというケースもあります。
そういう人たちが後に、日中の国交正常化以後、1970年代になって、
日本に帰ってくるということになるわけですが、
その後、さまざまな、帰ってきてよかったねという話では終わらないわけですよね。
そもそも長い間中国で暮らしていますので、
子供の頃に行き分かれてしまった人は、本当に中国の中で暮らしてきていますから、
日本語も全然喋れない状態で帰ってくるということになりますので、
そうでなくても、逆に残留婦人といわれる中国人の人と結婚して、
中国に残った人なんかは、逆にもう高齢になって、その方の生活をどうしていくかとか、
いろんな問題があったわけですね。
この人たちの支援活動をしてきた団体というのが、今回新潟でイベントを開いた団体ということになります。
今コメントをいただきましたが、だいぶ昔に中国残留婦人のことを聞きました。
この話題自体があまり大きくクローズアップされることも今あまりないですよね。
ないですが、依然としてこの影響は今も続いているんだと思いますよね。
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今回の話は、2歳3歳という話で、今回語り目として2歳の方。
どういうふうに2歳とか3歳ってカウントしていいかわからないんですが、
お母さんと一緒に、私とそんなに年が変わらない方だと思いますが、
お父さんとともに日本に引き上げてきた方が、そのまた上のおばあさんのことについてお話をしてくれました。
おばあさんは子どもたちの面倒を見るために、中国人の男性と結婚することになるわけですが、
その前の日本人の夫は兵隊に取られてしまって、行き分かれてしまうんですよね。
日本人のお父さんの方は新潟に戻ってきていて、再婚されているという状況で、それが分かってからだったかな。
お母さんの方も中国の人とやむなく、そういう意味で結婚するということになるんですけど、
そこでそれぞれまた再婚した相手との間に子どもができてっていうようなこともあり、
家族関係そのものも複雑になっていくんですよね。
今回お話してくださったのは、お母さんとともに中国に残った人たちの家族の息子さんですね。
息子さんの娘さんだから孫なんですよね。
お孫さんも私と同じくらいの世代なんですが、お婆さんと一緒に中国から日本に帰国するということになるわけですよね。
日本語を多分帰ってきて、日本に来ることになってから勉強されたんだと思いますよね。
今回は彼女自身の人生というよりは、お婆さんの人生に向き合って語り目としてお話をしてくれました。
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非常にそうなんだと思ったのは、やっぱりお婆さんがどういう苦難の道を歩んで、最後日本で晩年を過ごしていたかということを
長らく私と同世代の彼女は知らなかったということですね。
お婆さんが亡くなってから、お婆ちゃんが自分の反省を書いたものを読んで
実はお婆ちゃんは大変な苦労をして中国で生き抜いて、自分たちの家族の命を繋いでくれたんだということが
亡くなってから分かったっていうんですよね。
それはやっぱり、中国社会の中で息を潜めるように日本人として暮らしてきたという経緯があるので
こわだかに自分が残留法人であるということを言える状況でもなかったわけですよね。
日本人であるという出自が目立ったら、文革の時代に強制労働に出されたりとかしたわけですから
そういう意味で非常に息を潜めるように暮らしてきたお婆さんが
どんな思いで日本との間でやり取りをしたりしていたのかということが語られました。
非常に衝撃的でしたよね。
今回の授業は、2世3世の人たちが自らの体験を語る。
あるいはその2世3世が自分の祖先というか、自分のお父さんお母さんとかおじいちゃんおばあちゃんのことを語るということで
引き上げ者たち、中国で残留した人たちの苦難というのを語り継いでいこうという趣旨でもありますし
ただ、そういう形で語ってくれる人も多分そんなに多くはないということなんだと思いますが
もう一人お話ししてくださった方は、帰国者の方に日本語を教えてきた日本語の先生でしたね。
日本語の先生が、帰国者の人に一生懸命に日本語を教えに行くんだけど
教えに行く中でやっぱりその人自身が経験してきたことっていうのを色々聞いて
ご本人はどれぐらい日本語をしゃべれるのかちょっとわかりませんが
ご本人は表に出てそういうことを語ったりはあまりされてないんですけど
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それをその人に代わってお話しされているっていうケースで
非常に満州の時代に、満州でどんなふうに暮らしていて
その人たちの生活がどういうふうにひっくり返って
終戦後どんな思いをして帰ってくる、あるいは帰れない
帰れない中で帰るタイミングを待っている、文革が起きる
そういう様々な状況の中で永住局までどんな苦労されてきたかっていう話とか
あるいはさらに日本に帰ってきてからも
日本の中で生活基盤を築いて生きてくるまでにどんな苦労があったかとかですね
非常にリアリティのある語りを伺いました
今コメントをいただきまして
強制的に結婚したのかっていうコメントは
多分最初の事例ですよね
中国で中国人の男性と結婚するっていう話
そこを強制的に結婚したというよりは
多分生き抜かないといけないというところが
多分一番大きな背景にあったはずで
つまり男性のほうは最後召集されて国境警備に行くんですけど
国境警備に行った途端にソ連の侵攻が始まって
ほとんどみんなシベリアに連れて行かれてしまうわけで
だから子供とお母さんと子供とあとおじいちゃんおばあちゃんみたいな状態で
何百キロも移動して引き上げをしなければいけなかったっていうような背景があり
特に北の方の人ですよね
ハルビンよりさらに北の方にいた人たちなんかは本当に大変な苦労しているんですが
そういう中で千キロ単位で移動してくる途中でたくさんの人たちが亡くなりますが
そうするとやっぱり女性と子供だけで何とか生きていこうとするならば
中国の人の助けを得なければ生き抜くことはできないという中で
中国人の男性と結婚することが起きたんですよね
それを何と称するか難しいですよね
強制的にというよりはその状況の中で結婚するというような選択をしたという言い方もできるし
せざるを得なかったっていうふうにも言えるでしょうし
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それは立場によっていろんな見方があると思いますが
相当な数の方がそういう形で中国に残ったというふうに言われてますよね
途中で出てくるんですよね
引き上げ船が出るというタイミングで
中国政府の方からあなたもう帰れますけどどうしますかみたいなことを言われて帰りませんって言って
結果その後帰ることができなくなってしまうというふうなケースもあるんですけど
これも本当に何でしょうね
自己責任自分で選択したみたいな話をすればその通りですが
そんな簡単な話ではなくて
当然そこで自分たちの命をつないでくれた
あるいは一緒に生活を共にしてきた中国人の夫ですよね
との絵の恩義とかそういう思いもあるわけですよね
一方で日本の様子もちょっとはわかっていて
実は日本の夫が再婚していたりするともう本当に絶望してしまってとかですね
いろいろな状況がその時その時であって
その時どういう判断をしたかっていうことが
またその後その人たちの家族のいろいろ運命を変えていくんですけど
そういうドラマがあるということですね
コメントをいただきました
中国政府が聞いてくるのですね
帰国するのか残留するのか
そういう話は何度も聞きます
やっぱり中国政府が把握してるんですよね実はね
どこに日本人がいるかっていうのは把握していて
それを聞いてくるっていうことが起きるんですよね
というようなこととか
いろいろ昨日もお話を伺いました
その後どうやってその命をつないでいったか
また子どもの世代が文革の時代にどんな目にあったかとか
でもその中で中国の人にどのように助けられたかという
そういういろんな
日本と中国の間国境がなくて
文革の時代ってほとんど何が起きてたかって
その時わからなかったわけですけど
その時代を生きた人たちはいろいろなことを経験されてるんですよね
72年の国交回復
日中国交共同声明か
その後でだんだん帰ってくることができるようになるわけですが
それもそのまでにいろんな
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家族が形成されていて
子どもたち成長して
いろんなことがあって
あるわけです
でもそれをしてでも帰ろうとして
帰ってくる人たちもいて
昨日の話では中国人の夫も一緒に日本に来たって言いましたね
そういうケースもあるんですね
そうするとまたその方も含めて
家族でもう一度中日本で生活を
構築していくというようなことも起きるし
ということなんですね
こういういろいろなことが
最初の我々の世代がテレビで見たような
憎しみ探しと言っていたフェーズから
その後のところでいろいろなことが起きていったんだっていうことが
非常によくわかる話でした
ただ今回のイベントの趣旨は
そういうことを知らなかった人たちに
もっと知ってもらいたいという形で
東京から出てきて
新潟でイベントを開催したということで
結構会場埋まってましたけど
でも一見してタフはあまり関係者の人多いのかなと
つまり今言ってたような話を全然知らない人に
伝えるためのことを目的にしてイベントをやったんだと思いますけど
全然知らないという人はあまりいなかったような気がしますよね
だからそこにリーチするのは非常に難しいと
今回私がお話ししたのはそういう意味で
若者というか大学生と一緒にこういうテーマについて
映像制作をしているっていう立場から
どんな体験をしてきたか
私自身が学生に対して働きかけて
こういう作品作っていこうってなった時に
どんなことを感じているかとか
どういう体験をしてきたかっていうようなことをお話ししました
端的に言えばなかなか戦争の時に
どんな苦労をしたかっていうことを聞けば
それなりに衝撃をもって受け止めることは受け止めますけど
その先のこの2世3世の生活の話であるとかってなると
なかなか関心を持ってもらうのは難しいですし
戦争のこともまたあまりに遠くのことになりすぎて
自らそのテーマをやろうっていうふうに
なかなか言ってくれないよねとかですね
いろんなことをお話をしました
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今いくつかコメントをいただきました
中国政府のことだから帰国させないかと思った
なるほど そうですね
永住帰国の時ですよね
これはもう中国政府はおそらくは
帰りたいという人は積極的に帰そうというふうな
体制になっていきましたよね
でもやっぱり生活が中国でできていますから
そういう意味でなかなか判断が迷った人たちもたくさんいるんでしょうね
とはいえ永住帰国が始まった頃は
やはり日本と中国の間では経済格差があったので
さっきお話ししたようにご家族も含めて
やっぱり日本に来たいというふうに
家族全体でまとまって
永住帰国に向けて
意思がまとまったっていうところがあるかもしれないですね
今は逆に
今はそういうことはあんまりないと思いますが
今だったらもっと複雑な
もう別に中国に行ったほうがいいじゃないかとか
いろんなことが起きそうですけどね
当時はまだそういう状況だったのではないかなと思いますね
柔軟なところもあるんですね
あれですよね
日本が在日朝鮮
韓国朝鮮人の人たちを
北朝鮮に帰した時も
同じようなところはあるんじゃないですか
国際親善のためにとか
あるいは人道的な観点から返すっていうふうに
日本政府は言ってましたけど
でも多分帰還事業で
帰還事業で朝鮮に帰った人たちは
もちろん自分の意思で帰ったっていうことになってるんですけど
やっぱりそういう国際関係の中で
日本政府もむしろ帰ってくれと
つまり在日コリアンの人たちの生活問題というのも
結構大きな課題としてなっていたので
帰りたい帰りたいって言うんだったら
ぜひ帰ってくれっていうふうにしたっていう面はあると思いますよ
だからそれと同じようなことが
中国政府としてもあったんじゃないですかね
中国国内に日本人がいっぱいいて
それはそれでいろいろと差別の対象になったりとか
そういう問題もあるし
それは人道的な観点もあったかもしれませんし
そこをどう解釈するかは難しいところですが
当時は中国政府としても返す動機はあったんじゃないかなという気はしますね
今もう一件コメントいただいてますね
祖父母も満州に渡っていたので決して他人事ではありません
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そうですよね今コメントをいただいた方も
おそらくは多少おじいちゃんおばあちゃんの経験というのを
聞いているんではないかなと思いますけど
もう今の大学生ぐらいになると聞いてないんです
聞いてないというかそのおじいちゃんおばあちゃんというか
方の経験を断片的にでも聞く機会がない世代というのが
もう今の若い人たちの世代ですよね
私ぐらいの世代だと
あのおじいちゃんおばあちゃんは実は戦争の時に
大変な思いして引き上げてきたんですとか
そういう話は聞いたことはありますよね
私もそうですよね
親戚で頭を丸坊主にして朝鮮から帰ってきた
人のおばあちゃんの話とか
それは直接は聞かないんですよね
それも直接聞く機会はないままなくなってしまいましたけども
でも間接的にはそういうふうなことを聞き
そしてそういう人は生きてるときにその話を聞いているわけですよね
そういう意味でのリアリティは
今の20代ぐらいの人たちはほぼ完全に切れちゃっているので
そこのリアリティはもっと薄いんだろうなというふうに思いますね
というお話をしました
今日はだいぶ話が長くなりましたけど
今日お話ししたかったのは
実はこの今言っていたような
残留法人の二世三世の人たちが
相当数まだ新潟市内にもお住まいで
その方々の支援をされている方にもお会いしましたし
そういう人が一定数新潟市内にも暮らしていらっしゃるんですよね
今ちょっと慎重にお話ししましたけど
昨日はいろいろ聞きました
この辺のところで二世の人たちが
たまに集まったりしてるんですよとか
いろいろ聞きましたけど
知らないですよね
あまり言ってないのかもしれないので
今あまり具体的にこの辺の街でとかいう話をしませんが
なるほどねっていうふうな
あの辺ですねみたいなことを聞く
それは結構オフィシャルにそういう会合をしているのかもしれないけど
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やはりなかなかそれをみんな知らないですよね
そしてその人たちの結構みんな日本名を当然
残留小児あるいは残留法人の子孫ということになると
大体日本名があるわけですよね
だからわかんないですよね
多分その人たちのまたさらに子供たちというふうになると
もう多分日本で教育を受けて育ってきているので
言葉もある意味日本語ネイティブでしょうし
まあまあわからないね
もうそういう家系の皆さんが
どうやってその新潟で暮らしていらっしゃるか暮らしているのか
ということはもうそうなるともうわからない
それはわからないのが悪いことではないかもしれない
むしろむしろそういう意味では
日本社会の中に再び溶け込んで
その子孫の人たちは平穏に暮らしているという言い方もできるかもしれませんが
今の課題としては言葉ができないまま永住帰国したけれども
なかなか生活が言葉ができるようにならなくて
なかなか生活が安定しないみたいな話も聞くわけですよね
でまたその貧困
いわゆる貧困の連鎖というところで
さらにその下の人たちがどうなるのかという話もありますよね
国籍は日本人の扱いになるはずです
なってると思いますよ
と思いますが
そうですね
日本人なんだけれども
なかなか生活が安定しないという風なところもあるのかなと
そういうふうに聞いていますよね
というような話で
イベントを主催された団体の皆さんからすると
もっと若い世代の人たちに話を聞いてもらいたいというような趣旨であったと思いますが
そこはなかなかうまく果たせなかったところがあると思いますけど
私自身はちょっと私も話させていただいた後
来ている方といろいろお話をさせていただいて
新潟で暮らしている中国人の
中国残留法人の
二世三世の皆さんの実態とか
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それにまつわる様々な人たちとかとお話をすることができて
この話に今後どんなふうに関わっていけばいいのかはわからないですけども
私自身もいろいろ勉強していきたいなというふうには思ったところです
今日はちょっとね久しぶりで長くお話しました
大体いろいろ喋りたいことがあるときは大体忙しいときで
なかなかまとまってお話ができないんですけど
実は先週とかもいろいろあったんですよね
またちょっと
先週何のお話しましたっけ
先週話した話題についても
また後でフォローアップしようと思って
新潟地震の話
新潟地震先週話した後
県民会館の像の話で
彫刻の話もまたその後調べたら
いろいろ導きの像っていう彫刻を作った人の話も
いろいろゾロゾロと出てきて
その話もしようと思ってたんですけどね
1週間また経っちゃいましたね
もう30分喋ってます
今日はこの辺にしましょうか
また次回お話ししたいと思います
ありがとうございました