1. 一戸信哉の新潟のへラジオ
  2. Vol.197 新潟地震で子供たちを..

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はい、おはようございます。新潟のへラジオ、一戸信哉です。今日は11月13日になりますね。
13日、日曜日の配信になります。日曜日配信は普段ないんですけどね、このところちょっと配信できてなかったので、久しぶりにちょっとお話ししてみようと思って立ち上げてみました。
よろしくお願いします。今日はですね、新潟地震に関連する石碑っていうのかな、ちょっとなんか共産主義国っぽい像があるんですけど、導きの像という話をしてみたいと思います。
先週金曜日ちょっと用事があってですね、県民会館の方に行って、新潟県民会館リュートピア、あの辺の一帯にちょっと行ったときに、県民会館の前にある石像のですね、前を久しぶりに通りまして、ちょっと改めて写真を撮ったりして眺めてきたので、そのお話をしたいと思います。
今アイコンにうまく写真入ってますかね。先生と小学生ぐらいの子どもたちが、みんな一緒になってどこかに歩いているっていうような内容で、彫刻で、立体彫刻ですよね。
説明がなければ遠足なのかなみたいに、遠目からは見えるかもしれないんですが、実際には下の書いてある内容を見ると、下の石碑の台座のところに書いてある内容を見ると、新潟地震のことを言っているんだなっていうのがわかる内容になっています。
新潟地震は1964年に発生をしていて、当時の映像はね、YouTubeなんかでも見ていただくとわかりますけど、もう新潟が滅亡してしまうんじゃないかぐらい、東区の電球コンビナートで火災が発生したりして、本当にものすごい災害の状況。
当時の映像の作り方っていうのもあるんだと思うんですけど、衝撃的な映像が流れてますよね。
ただその後の東日本大震災とか中越地震とか、何度も地震を体験している今の現代から見れば、人的被害というのはそんなになかったということではあるんですけど、
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当時の防災の技術からすれば限界があったというか、この新潟地震を機に様々な防災対策が施されたと。都市防災の進歩はこの経験を経て発展したと言われてますけどね。
昭和大橋が崩れたりとか、県営住宅でしたっけ、品川沿いの大きい集合住宅が横倒しになったりとか、結構衝撃的、生活空間の中でも多くの被害をもたらしたものなんですよね。
この地震の時に小学生を誘導した先生たちの働きを記念して、1964年の地震を経て作られたのが、昭和42年に最初に石膏像が作られて、
その後、県民会館の会館に合わせて彫刻家早川亜美さんという人が作ったというふうに書いてありますね。
今見ている資料はですね、ミナトピアが作っている繁晶精林という博物館ニュースがありまして、
繁晶精林の2021年の4月号52号に書かれているコラム、学芸員の中村さんが書かれているコラムを見ています。
これによると震災復興大博覧会というのが昭和42年1967年に松並町開品で開催されて、この時にこれと同じようなモチーフの石膏像が展示された。
これをデザインしたのは金井二郎さんという別のデザイナーの方なんですが、その後県民会館に同じようなモチーフのものを作った時に、早川亜美さんがこれを作っているということで、
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最終的には早川亜美さんが作っているけど、最初のデザインは金井さんという人が作っているということになるようですね。
これは国土地理院が自然災害伝承費として全国の災害に関わる石碑モニュメントというのを指定しているんだそうですが、その中の一つ、新潟市の自然災害伝承費が6基あるうちの一つがこの道引きの像ということになるんだそうです。
他の5つはなんだろうね。今度また調べたらお話ししてみたいと思いますが、その一つだということです。
今一生懸命に概要を説明したけど、私これを見て思ったのは、1964年とかその後67年、新潟地震の記憶がまだ新しい時期に作られた石碑ということで、
文脈が、その当時は先生たちが素晴らしい働きをして、子どもたちの大災害の中でも子どもたちの命を守ったんだというストーリーが語られたんだと思いますけど、
1964年から半世紀以上ですよね。60年近く経つのか。経ってみると、だんだん文脈が抜けていくんだなということを感じますよね。
この時、小学生だった人たちがもう歓力を超えているということになりますからね。だんだんその時の記憶というのは薄らいでいって、もちろん1964年に地震が起きて、こういう災害があり、こういう被害が出てというところの上積みのところというか、
要点の部分は残りますけど、そこの中でやっぱり人々がどのように行動したのかとか、当時語られていたエピソードみたいなものは、やっぱり次第次第に薄らいでいって、そのことを思い出して、石碑のところに立ち止まる人もあまりいないですよね。
ということだなと思いました。もちろん逆に言えば、それだけみんなこの文明を忘れつつある中で、60年代から70年代にかけてこういうものを作って残しておこうというふうに考えたことの意義というのはあるし、逆にこの今の60年をみんな忘れてしまっているっていうことの状況の中では、
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それを残す意味はあったというふうに思いますが、人々の記憶の薄れ方っていうのは、こういうものよねっていうことも感じたと。そういうお話でした。
今私が参考にしました、ミナトピアの繁晶成林という博物館ニュースは、ミナトピアのウェブページに出ています。繁晶成林、字難しいですよね。いかにも博物館っていう感じで。どういう意味なんだろう。なんか意味あるんだと思いますけどね。
今コメントいただきました。ありがとうございます。他方、他方だっけ。第二小学校にも作品がある。なるほど。同じような作品ですかね。
やっぱり先生がここで重要な働きをしたっていうのは、当時多分相当に語られたがゆえに、こういうふうに石器が残っているっていうことなんだと思いますけどね。
面白いというかなんというかですね。岡畑第二小学校を今見てみてますけど。あ、十二形ね。十二形もね、なんかこの間学生が調べてきてくれて初めて知りましたけど。これもなかなか面白いですね。岡畑。ないですね。どこでしょう。岡畑。導きの像があるんですかね。岡畑第二小学校。
あ、なんかありますね。全身像。早川亜美さん。早川亜美さんの像があるってことかな。なるほど。はいはいはい。この早川亜美さんという方そのものも今回初めて知りましたけれども。
いろいろ、新潟のご出身の方なんでしょうね。いろいろ作品を新潟市内にも残していらっしゃるようですね。
はい。なんか検索するとまたこれもいろいろ出てきますね。早川亜美さんね。
はい、ということで早川亜美さんもこれ一回できそうですし、あと先ほどのなんだっけ。
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自然災害の像ですよね。というのも、ごめんなさい忘れた。自然災害伝承碑。自然災害伝承碑もたぶんまた一つずつ掘り起こしてお話できそうですので、またお話ししてみたいと思います。
今日197ということでね、もうすぐ200回。200回目まで頑張っていきたいと思います。特にイベントとかは予定していませんが。
はい、ということでどうもありがとうございました。
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