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2021-12-25 15:03

一戸信哉の新潟のへラジオ ライブ Vol.63 捕虜となった小柳胖さんと対日宣伝ビラ


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皆さん、こんばんは。新潟のへラジオ、一戸信哉です。なんかお久しぶりですかね。
このところですね、私のほうは、ライブの配信のほうはこんな感じで続いている一方で、
ポッドキャストですかね。ポッドキャストでスタンドFMで流したものをもう一回流してみようかなと思ってですね。
そういうこともやり始めてまして、なんていうか蔵出しばっかり最近やっているっていう感じですけども、
新しいネタも順次お話ししていきたいと思います。
今日はちょっと新しい話をしようと思って、準備してたらこんな時間になってしまいまして、
この時間を聞いてくださる方がどれくらいいるのかわかりませんが、お話ししてみましょう。
今日のテーマは、マリアナ・ジホウという字が出てますけど、
小柳豊さんという人のことをお話ししてみたいと思います。
この方は後に戦後、新潟日報の社長になる方なんですけど、
この人が戦争中に捕虜になって、このマリアナ・ジホウというのを作ったという話なんですね。
小柳さんについては、2020年の夏に県立歴史博物館の長岡ですね。
そこで、戦後75年、私の戦争体験記という企画がありまして、そこで初めて知ったんですけど、
県立歴史博物館の展示は撮影禁止で図版も無しというので、結局その時のメモだけが残っていて、
ちょっとFacebookとかで書いたやつを今取り出してみて復習してたんですけど、
捕虜になっているんだけど、対日宣伝に関わったりした人で、
俺は生きているっていう手紙を家族か日報の関係者かだったかと思いますが、
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送って生存していることが後にわかったというような話をその時には見ました。
今回ですね、ちょっとなんでこの話をもう一回取り出してきているかというと、
実はですね、昔の、私が新潟に来た頃、一緒に大学で働いていた先輩のですね、
北島藤里先生という先生が、新潟にもいらっしゃるんですが、北島先生がですね、
新潟出版文化賞というのに選ばれたというのを最近知りまして、
ドナルド・キーンさんに関する研究書、研究書ではないのかな、本を出されまして、
それが新潟出版文化賞に選ばれたということで、
ちょっと私も少し、ドナルド・キーンさんのこととかですね、少し調べていたんですね。
そしたらドナルド・キーンさんを調べていくとですね、また小柳豊さんのことが出てきて、
あれあれっていうことで、ちょっとまた復習していたと、そういうことなんですね。
ドナルド・キーンさんは大変日本語が堪能な日本文学者でしたけれども、
ドナルド・キーンさんは日本語を習得したのは、戦争目的っていうかな、戦争目的というか、
要するに軍の情報称号として働いてたんですね。情報称号として働くために、
軍で訓練を受けて日本語を習得したという形で、少し調べてみるとものすごい勢いで日本語を勉強させられて、
ずっと日本語を図形にさせられて日本語を勉強したっていう、そういう経験を何度もお話になっているんですけど、
そういう経験を積んだ上で、ハワイに送られて、ハワイで対日宣伝活動に従事するということになるわけですね。
この時に日本人の俺たちの中から英語ができて、新聞社で働いた経験がある人を選んだのかどうかちょっとよくわからないんですが、
そういう意味では小柳さんはそういう資質があるというふうに判断されていたということなんですね。
選挙区もやっぱり最後のほうになってきて、これになった人たちもだんだんこれになるとより詳しく選挙がわかってきて、
これはもう敗色濃厚であるということがわかってきて、このドナルド・キニーさんをはじめとして、
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もう一人オーテス・ケイリさんという方、後に同志者代の先生になられる方がいらっしゃるんですが、こういった情報商工の人たちと話をして、
これはもう戦争を早く終わらせるべきであるというふうに説得されて、納得した人たちというふうに言われていますが、こうした人たちが対日宣伝に協力した日本人捕虜として活動するようになるわけですね。
このメンバーの中に何人かジャーナリストとして戦後も活躍した方がいて、そのうちの一人が小柳豊さんということになります。
この人たちがかなり精力的に頑張って対日宣伝ビラを作ってですね、
作っていた人たちはつまりはそういう意味で言うと、一人でも多くの日本人がですね、当然兵士として戦地に行っていたわけですから、どんな状況かよくわかっているわけですよね。
小柳さんは伊予島の伊予島の戦いの生き残りですので、最後玉砕してみんなが倒れていく状況というのをよく知っているわけですよね。
そういうことをしないで最後投稿すればいいですよとか、あるいはこの新聞の方は最後ポツダム宣言の受諾に向けて、こういうポツダム宣言が発表されてますよっていうことをビラで撒いたりしてたわけですよね。
というようなことを真似を持って行っていたということなんですね。ただ当然それはその立場になってそのような活動をしていたけれども、たぶん捕虜の間ではあいつは裏切り者だと言われたりもしたのかもしれないですし、
帰ってきてから日本でどういうふうに受け入れられるかっていうのも多分懸念はあったんだと思うんですけど、そういうふうな取り組みをしたということなんですね。
このマリアノ時報というのは東京でも撒かれていて、実は皇居の中に撒かれていたものを天皇陛下も木戸内大臣とかと一緒に見てたという話も出てくるぐらいで、相当日本国内でも影響力があったというふうに見られています。
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これは最終的にどれほど効果があったのかって、紙で上から配っているものですからよくわからないんですけど、そういうふうに見られているわけですよね。
というようなことをした人が実は新潟にもいたということなんですね。
この人は伊予島で戦ってますので、戦死後、亡くなったという知らせがどこかのタイミングで一回来て、お葬式もやったんだけども、その後でどういうふうに届いたのかな。
大手スケールさんが持ってきたのかな。とにかく俺は生きているという手紙を書いて、新潟の家族や関係者に自分が生きているということを知らせたという話は読みました。読みましたというか、展示をされていました。
ということですね。この人たちが結局、対日宣伝に従事したアメリカ人の人たちがそれぞれ日本に目を張る人たちも出てくるということで、ドナルドキンさんとかそれから大手スケールさんなんかが後に日本で仕事をされて、大手スケールさんも長く同社大学で先生をされていたということですよね。
小柳さんどうなるかというと、小柳さんも新潟日報に復帰されるんですけど、たぶん戦争に行く前のことなんだと思いますよね。編集局長をやってたのかな。
そういう立場上の問題もあり、復帰するんですが、公職追放に一度会ったんですよね。大分後になってから新潟日報に復帰して、そして最終的には社長も務められたということですよね。
小柳さんの他にも朝日に復帰した、朝日新聞に復帰した横田昌平さんと、
それから小島清文さんという方は後に岩見タイムズ、島根県に行く。それから共同通信に戻られた方ももう一人いたと思うんですが、ごめんなさい、今ちょっと見つからない。
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高橋よしきさんという方が同盟通信の記者で、後に共同通信に戻って記者として活躍されたということですね。4人の方の名前が出てきます。
ということで、それぞれの横田さんとか小島さんとか高橋さん、この3人は、この捕虜の体験について何らかの形で書き残したものを発表されているんですが、実は小柳さんは書いてないんですね。
小柳さんの書いたもの、喋ったものというのは、もちろん新聞社の中で書いたものはもちろんあるんでしょうけど、この時の捕虜になってた時期にどんなことをしていたのかっていうことについては、やっぱり語らないままなくなり、今も書いたものなんかも残ってないようですよね。
信念を持ってこういう活動をしたんだという話が、ケイリさんですね。先ほど出てきた情報商工の一人、オーティスケイリさんが後に書き記したものの中で、どんなふうにハワイで田舎を活動して新聞を作ってたかっていうことを、
オーティスケイリさんの視点で書いたものはあるようなんですけど、日本人としてはなかなか葛藤がね、おそらくある種の信念を持ってやったとはいえ葛藤があるんだろうと思いますね。
ということで、小柳さんの書いたものは残ってないということです。ちょっと調べてみたら、新潟日報では毎年のように1年1回ぐらいは小柳さんのことや捕虜のこと、それからドナルドキンさんとの関わりっていうのを1年1回ぐらい取り上げていて、
実は調べれば、新潟日報は元社長の話なので、よく取り上げているんだなということがわかりましたが、実は私も去年展示を見るまで全然知らなかった話です。
今日はちょっと夜遅くなりましたけど、新潟日報の社長だった小柳豊さんのお話をいたしました。ありがとうございました。
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