1. 一戸信哉の新潟のへラジオ
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こんにちは、新潟のへラジオ、信哉です。
今日はですね、車で移動しながらお話ししたいと思います。
大学の方が新学期に入って、
今日ちょっと少し時間があるかなと、
昨日今日あたりまだ授業始まってないので、
少し余裕あるかなと思ったんですけど、
いろんな調整とかあってですね、
この時間までちょっと話ができなかったということなんですが、
今日も移動中ならば少しお話ししてみようと思います。
今日のテーマはですね、
白信線という路線のお話をしたいと思います。
これ1月頃にですね、
うちの本棚に眠っていた新潟と鉄道という本ですね、
作った本なんですが、
それをちょっとペラペラ巡ってみて、
そんな話があったというので、
ちょっとびっくりしたので、
少しご紹介したいと思います。
白信線というのはですね、
白山という新潟の市内の駅から、
新という新潟だと思うんですけど、
そうじゃなくて柴田ですね。
白山から柴田、つまり新潟から柴田に伸びている
鉄道ですね。
みんなの生活の足として結構使われている路線で、
柴田側から見れば通勤通学の鉄路としては、
極めて重要な路線ということになります。
私が勤めている慶和学園大学の学生たちも、
新潟市内から通っている人たちは、
白信線に乗って通っているという人たちがほとんど、
車以外はだいたいそうなると思います。
それだけ新潟市を中心とした鉄道の、
新潟駅を中心とした鉄道のネットワークの中では、
格別からざる存在である白信線なんですが、
実は出来上がったのは昭和の31年でしたかね。
だいぶ後なんですね。
これは実は全国に鉄道網が張り巡らされていく中での
新潟のポジションというのは、
少なからず関係している話なんですね。
ということが分かりました。
実は新潟は、もう合併してしまって、
既に新潟市、秋博という風になっていますが、
かつて新一市と呼ばれていた、
新一という町、あるいは新一という駅がありまして、
ここが鉄道の路線の、
あまり詳しく言えないけど、
鉄道のターミナルだったんですよね。
なので、いわゆる日本海をずっと貫いている鉄道、
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なんていうんですかね、
右越線だ、右越線といって、
新潟から山形、秋田へと伸びていくこの鉄路ですね。
幹線については、
新一を起点に新潟から北の方へ伸びていくという状態で、
その前はずっと新潟県内を縦断して、
富山、石川とこういう風に行くんだと思いますが、
日本海側の路線の、要するに起点となる鉄道駅が
新一駅ということだったんですね。
右越線という路線は、大正元年に開通しまして、
新一という町から、どこへ伸びていったかというと、
柴田というところ、柴田まで伸びていっています。
これは今でも右越線という鉄路があります。
つまり、新潟側と柴田をつないでいる路線というのは、
新一から柴田の方へ伸びて、
そこから山形へ伸びていっているという関係にありまして、
新潟駅から直接柴田へ伸びている路線というのはなかったんですね。
これに危機感を覚えた人たちが、鉄道の路線を、
何というか、ちょっと組み替えて、
新潟駅から柴田の方へ伸びていく鉄道を作ろうとしたというのが、
運動が始まるのは明治の終わり頃だと。
つまり、大正元年に右越線開通していますので、
その前後ということになりますが、
その時点で鉄道の計画はもう進んでいますので、
新一から柴田に鉄路が伸びていくのに対して、
いやいや、新潟から柴田へ伸ばそうよという話になったんですね。
これでも運動した人は誰なのかということなんですが、
実はこれは柴田の人ではないんです。
柴田の人はあまりそこに興味がなかったんでしょうか。
よくわからないですね。
主にこの運動を展開していった人は、
自分のタイトルに豊坂というふうに書きましたが、
現在の新潟市北区、これも新潟市になっちゃっているので、
私のように後から来た人たちは勉強しないとよくわからないですが、
豊坂市という別の町があったんですが、
ここの人たち、豊坂市あるいは屑塚の人たちだと言われています。
この人たちは何を考えたかというと、
やはり新潟は鉄道が伸びていくわけです。
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しかし新潟から新潟に鉄路が伸びていくことによって、
豊坂というか屑塚の町は鉄道の経路から外れるということが問題になるわけですね。
そこでどうなったかというと、
豊坂も通る路線をもう一歩引きましょうということで、
軽便鉄道、今の企画よりもう少し違うやつですよね、
飛行という運動を始めます。
それは豊坂の人たちが言っただけではなかなか実現しないので、
新潟市の経済界も巻き込んで運動を展開していくということです。
ちょっとタイミングを忘れましたが、
一方、新潟駅から西の方には現在も越後線という鉄路が走っているので、
これが柏崎とかずっと先へ伸びていっているので、
ここを通したらどうかと。
今でいうと越後線、さらに白心線、ここを通って山形へ抜けていくところを、
つまり鉄道のメインルートにしようという構想を打ち出しまして、
そうすると、屑塚だけ、屑塚というか今の北区だけじゃなく、
新潟市の中心部の人たちにとっても恩恵があると。
要するに日本海側を縦断する鉄道の路線上に新潟駅というのが位置づけられるということで、
運動を展開していくということになります。
いろいろ探っていくのですが、
実は越後線というのも物流の幹線としてこの鉄路を使うには、
さっき言っていた軽便鉄道みたいなものだったのかな、
とにかく企画がそういうのに適さないということで、
実はそれもうまくいかなくて、
結局越後線から白心線を通っていく路線というのは、
そのまま日本海を縦断する路線にはならず、
結局現在も新潟を起点にしたところが、一応幹線ということになる。
そこはなかなかうまく決着していかないですよね。
そうこうしていくうちに昭和の恐慌になってお金もなくなって、
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結局戦争を終わるまでの間、
白心線という路線は建設できないままずっといきまして、
戦後経済復興をうなし遂げてからということで出来上がるのが、
昭和31年の白心線の開通ということになります。
昭和31年の白心線の開通の写真とかを見てみると、
何かどっちだったかな、
藤塚駅と言っていたか豊坂駅と言っていたか忘れましたか、
今の豊坂駅の人たちが旗を振って喜んでいる写真みたいなのがよく出てきまして、
やっぱり鉄道というのは開通したら嬉しいよねっていうぐらいにしか思っていなかったんですが、
たまたま先ほど最初に言った新潟と鉄道という本を読んでみて、
ああそういうことなんだというふうに理解しました。
つまり藤塚あるいは豊坂の人たちにとっては、
この白心線というのは要するに交通インフラの発展からだいぶ乗り遅れていたんだけど、
これでこの地域の発展も期待できるぞという意味合いも非常に大きかったんだなと思います。
現在の鉄道について私もうまく説明できませんが、
私が青森出身なんですけど、青森の方向へ鉄道で移動する際には、
稲穂という特急が今秋田まで、かつて青森まで走っていたんですが、秋田まで走っていますが、
これは新潟駅始発で、今の白心線を通って柴田まで行き、そこからいわゆる上越線を通っているという形で、
新潟の駅周辺で暮らしている人たちから見ると、
新潟というのは、新潟基点にした移動の基点からは外れた状態に今はなっています。
一回だけ私、寝台特急で新潟駅で乗って、関西、大阪から来た寝台列車だと思いますけど、
寝台列車で青森の方まで移動したことがありますが、
名前なんだったっけ、白鳥でしたっけ、それももうなくなってしまいまして、
実はあんまり新潟まで行って、そこで北の方へ向かうというのは、あんまり機会がなくなってしまいました。
ごめんなさい、私が乗っていないだけで実はあれがあるよみたいなのがあるかもしれませんが、
私としてはもう乗る機会が全然なくなってしまったところです。
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そうですね、というわけで、白心線というのは、要するに後からできて、
そしてそれが故に少し新潟駅を中心とする鉄道のネットワークというのは、
なんというかねじれがあるというかですね、いう歴史的な経緯をたどったと、そういうお話でした。
また皆さんに新しい話題、鉄道の話題は鉄道詳しい方がいっぱいいらっしゃると思うので、
あまり私が生半可な知識でしゃべると怒られそうですが、
ぜひまたこの何潟のことを知る小ネタみたいな感じでまたお話しできればと思います。
今日もお付き合いいただいてありがとうございました。
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