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寝落ちの本ポッドキャスト
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには、面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見ご感想は、公式Xマでどうぞ。
さて、今日は
梶井基次郎さんの
温泉というテキストを読んでいこうと思います。
梶井基次郎さんは、
初めて読みますが、
大正末期から昭和初期にかけて活躍し、
20作ほどの短編小説を執筆しながら、
肺結核により31歳の若さで養成した作家。
代表作はレモンということで。
レモンだけ聞いたことあるなぁ。
漢字でね、漢字でレモン。
温泉ということで。
温泉はお好きでしょうか。
それでは参りましょう。
温泉。
夜になると、その谷間は真っ黒な闇に飲まれてしまう。
闇の底をゴーゴーと谷が流れている。
私の舞い降りてゆく浴場は、その谷際にあった。
浴場は、石とセメントで築き上げた、
力楼のような感じの橋頭湯であった。
その頑丈な石の壁は、
豪雨の度ごとに氾濫する谷の水を支え止めるためで、
その壁にくり抜かれた谷際への一つの出口がまた楼門そっくりなのであった。
昼間、その温泉に浸りながら楼門の外を眺めていると、
明るい日光の下で白く白く高まっている背のたぎりが目の高さに見えた。
差し出ているカエデの枝が見えた。
そのアーチ型の風景の中を弾丸のようにカワウが飛び抜けた。
また夕方、谷際へ出ていた人があがりの暗くなったのに驚いて、その門へ引き返して来ようとするとき、
ふと目の前に、その楼門の中に、
楽しく電灯がともり、
茂々と立ち込めた湯気の中に、にぎやかに男や女の死体が浮動しているのを見る。
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そんなとき人は、今まで自然の中で忘れ去っていた人間仲間の楽しさを切なく胸に染めるのである。
そしてそんなこともこのアーチ型の楼門のさせる技なのであった。
私が寝る前に入浴するのは、いつも人々の寝静まった真夜中であった。
その時刻にはもう誰も来ない。
ゴーゴーと鳴り響く谷の音ばかりが耳について、
お決まりの恐怖が変に私を落ち着かせないのである。
もっとも恐怖とは言うものの、私はそれを文字通りに感じていたのではない。
文字通りの気持ちから言えば、体に一種の抵抗、リフラクションを感じるのであった。
だから夜更けて湯へ行くことは、その抵抗だけのエネルギーを余分に持っていかなければならないといつも考えていた。
またそう考えることは定まらない不安定な、拉致のない恐怖にある限界を与えることになるのであった。
しかしそうやって、毎夜遅く湯へ降りて行くのが度重なるとともに、
私は自分の恐怖がある決まった形を持っているのに気がつくようになった。
それを言ってみれば、こうである。
その浴場は非常に広くて、真ん中で二つに仕切られていた。
一つは村の共同湯に、一つは旅館の客に当ててあった。
私がそのどちらかに入っていると、
決まってもう一つの湯に何かが来ている気がするのである。
村の方の湯に入っているときは、決まって客の湯の方に男女のポソポソ話をする声が聞こえる。
私はその声のもとを知っていた。
それは浴場についている水口で、絶えず清水がほとばしり出ているのである。
また男女という想像の寄ってくるところもわかっていた。
それは谷の上にだるまじゃやがあって、
そこの女が客と夜更けて湯へやってくることがありうべきことだったのである。
そういうことがわかっていながら、やはり変に気になるのである。
男女の話し声が水口の水の音だとわかっていながら、不可抗的に実態をまとい出す。
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その実態がまた変に幽霊のような性質なものに思えてくる。
いよいよそうなってくると、私はどうでも一度隣の湯を覗いてみて、それを確かめないではいられなくなる。
それで私は本当にそんな人たちが来ているときには、自分の顔が変な顔をしていないようにその用意をしながら、
取合の窓のところまで行って、そのガラス戸を開けてみるのである。
しかし案の定何にもいない。次は客の湯の方へ入っているときである。
例によって村の湯の方がどうも気になる。
今度は男女の話し声ではない。 気になるのはさっきの谷への出口なのである。
そこから変な奴が入ってきそうな気がしてならない。 変な奴ってどんな奴なんだと人は聞くに違いない。
いやそれが実に嫌な変な奴なのである。 陰鬱な顔をしている。
かじかのような肌をしている。 そいつが毎夜決まった時刻に谷から湯へつかりに来るのである。
ぷふぅ、何という馬鹿げた空想をしたもんだろう。 しかし私はそいつが別に辺りを見回すというのでもなく、
いかにも毎夜のことのように陰鬱な表情で、 谷から入ってくる姿に、
ふと私が隣の湯を覗いた瞬間、 私の視線にぶつかるような気がしてならなかったのである。
ある時一人の女の客が私に話をした。 私も眠れなくて夜中に一度湯へ入るのですが、
なんだか君が悪御惨してね。 隣の湯へ谷から何かが入ってくるような気がして、
私は別にそれがどんなものかは聞きはしなかった。 彼女の言葉に同感の意を表して、
やはり自分のあれは本当なんだなと思ったのである。 時々私はその楼門から谷へ出てみることがあった。
ゴーゴーたる背のたぎりは、 白蛇の尾をひいて河下の闇へ消えていた。
向こう岸には闇よりも濃い木の闇、 山の闇が黙々と空へおしのぼっていた。
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その中で一本の無垢の木の幹だけが、 ほの白く闇の中から浮かんで見えるのであった。
これは素晴らしい銅版画のモチーフである。 黙々としたぼうおくの黒い影、
銀色にむかび出ている竹藪の闇、それだけ。 わけもなく簡単な黒と白のイメージである。
しかしなんという言い表しがたい感情に包まれた風景か。 その銅版画にはここに人が住んでいる、
戸を閉ざし眠りに入っている。 星空の下に、
暗闇の中に、 彼らは何も知らない。
この星空も、この暗闇も。 虚無から彼らを守っているのは家である。
その妊婦の表情を見よ。 彼は虚無に対抗している。
重圧する威負の下に、黙々と哀れな人間の意図を守っている。 一番端の家は、よそから流れてきた
浄瑠璃語りの家である。 宵の内は、その障子に人影が映り、
デデンデンというシャミセンの発音と、 下手なオエツの歌が聞こえてくる。
その次は、門屋の婆さんと言われている、 年寄ったダルマジャヤの女が、
古くからその門屋から飛び出して、 一人で汁小屋を始めている家である。
客の来ているのは見たことがない。 婆さんはいつでも滝屋という別のダルマ屋の囲炉裏のそばで、
門屋の悪口を言っては、ガラス戸越しに、 街道を通る人に媚びを打っている。
その隣は木地屋である。 背の高いお人よしの主人は猫背で、
ツンボである。 その猫背は、彼が長年盆や膳を削ってきた 繰物台のせいである。
夜、彼がサイ君と一緒に温泉へやってくる時の 格好を見るがいい。
長い首を斜めに突き出し、丸く背を曲げて 胸をへこましている。
まるで病人のようである。 しかし繰物台に座っている時の、
彼の何とがっしりしていることよ。 彼はまるで獲物を獲った虎のように、
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繰物台を抑え込んでしまっている。 人は、彼がツンボであって、
無類のお人よしであることすら忘れてしまうのである。 往来へ出てきた彼は、だから機械から外してきた クランクのようなものである。
少しばかりの格好の滑稽なのは仕方がないのである。 彼は滅多に口を聞かない。
その代わり、いつでもニコニコしている。 おそらくこれが人のいいツンボの態度とでも言うのであろう。
だから商売はサイ君任せである。 サイ君は醜い女であるが、しっかり者である。
やはりお人よしのおばあさんと二人で せっせと盆に着うるしを塗り、戸棚へしまい込む。
何にも知らない温泉客が、 邸主の笑顔から値段の傲態を豪取しようとでもするときには、 彼女は言うのである。
この人はちっと眠がっているでな。 これはちっともおかしくない。
彼ら二人は実にいい夫婦なのである。 彼らは家の間の一つを商人宿にしている。
ここもアンマが住んでいるのである。 このムネさんというアンマは、
ジョールリアの常連の一人で尺八も吹く。 生地屋から聞こえてくる尺八はムネさんの暇でいる証拠である。
家の入り口には二軒の百姓家が向かい合って立っている。 家の前庭は広く、
砥石のように美しい。 ダリヤやバラが縁を飾っていて、舞台のように街道から築き上げられている。
田舎には珍しいダリヤやバラだと思って眺めている人は、 そこへこの家の娘が顔を出せばもう一度驚くに違いない。
グレートヘンである。 評判の美人である。
彼女は前庭の日向で眉を見ながら、実際グレートヘンのように糸車を回していることがある。
そうかと思うと小屋ほどもある枯れかやを、 醤油枠で背負って山から帰ってくることもある。
夜になると弟を連れて温泉へやってくる。 健やかな堂々。
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まるでギリシャの水瓶である。 エマニュエルド・ファルレをして、シャコンヌ舞曲を作らしめよ。
この家はこの娘のために、なんとなく幸福そうに見える。 一群れの鶏も、数匹の白うさぎも。
ダリヤの寝方で舌を出している赤犬に至るまで。 しかし向かいの百姓家はそれに引き換え、なんとなしに陰気臭い。
それは東京へ出て苦学していたその家の次男が、 最近骨になって帰ってきたからである。
その青年は新聞配達をしていた。 風邪で死んだというが肺結核だったらしい。
こんな綺麗な前庭を持っている。 その上堂々とした家計の水たまりさえある立派な家のせがれが、
なぜまた新聞の配達というようなひどい労働へ入っていったのだろう。 なんと楽しげな生活がこの谷間にはあるではないか。
森林の伐採。 杉苗の植え付け。
夏のツタキリ。 枯れかやを買って山を焼く。
春になるとわらび。吹きの党。 夏になるとタニオオアユが登ってくる。
彼らはいち早く水中眼鏡とかぎ針を用意する。 瀬や淵へ潜り込む。
上がってくる時は口の中へ一匹、手に一匹、 針に一匹。そんな谷の水で冷え切った体は岩間の温泉で温める。
馬にさえ馬の温泉というものがある。 田植えで泥濡れになった動物がピカピカに光って街道を帰っていく。
それからまた晩週の自燃所掘り。 夕方、山から土に濡れて帰ってくる彼らを見るが良い。
背に二冠三冠の自燃所を背負っている。 杖にしている木の枝には、
セキラに皮を剥がれたマムシが縛り付けられている。 食うのだ。
彼らはまた朝早くから四里も五里も山の中へ、 わさび沢へ出かけていく。
奈良やクヌギを切り倒して、椎茸のぼたきを作る。 わさびや椎茸にはどんな水や空気や光線が必要か、
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彼らよりよく知っているものはないのだ。 しかし、こんな田園主の中にも生活の鉄則は横たわっている。
彼らは何も白い手の炭焼のために、 かくも見事に釜を使っているのではない。
食っていけない。 それで村の自燃や山難たちは、
どこかよそへ出て行かなければならないのだ。 ある者は半島の他の温泉場でいた場になっている。
ある者はトラックの運転手をしている。 都会へ出て大工や
差し物師になっている者もある。 杉や欅の出る土地柄だからだ。
しかし、この百姓家の次男は東京へ出て新聞配達になった。 真面目な青年だったそうだ。
苦学というからには、募集広告の好断者的な欺瞞に ひっかかったのに違いない。
それにしても死ぬまで東京にいるとは。 おそらく死に際の幻覚には。
目に立てて見る塵もない自分の家の前庭や したたり集まってくる苔の水が
水晶のように美しい家計の水たまりが 彼を悲しましたであろう。
これがこの小さな字である。 1972年発行。
大文社、大文社文庫。 レモン。ある心の風景。他20編。より一部読み終わりです。
今のがですね、断編1という パートになっていて、他に断編3まであるんですが
同じことを語っているので表現違いで 今回は割愛しました。
温泉といえば僕は子供の頃 お風呂当番だった時に
お風呂の掃除をして 津村だかどっかだかの
親が買ってきたんだかもらってきたんだかの 温泉のもと、お風呂のもと
日本六名泉みたいな 北海道のぼり別
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草津温泉、有馬温泉、道後温泉
レップという風にもあったかな 京都の幼児屋の
油鳥神の拍子みたいな絵の 半画絵がついたパッケージをお風呂に入れて
楽しんだのを何かふと思い出しました ミルク色に濁った乳白色のお湯が好きだったけど
あれはどこの温泉だったのでしょう 皆さん好きな温泉があったらぜひ教えてください
それでは今日はこの辺でまた次回お会いしましょう おやすみなさい