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2024-04-02 12:05

016小川未明「自由なる空想」

016小川未明「自由なる空想」

100年前も人間は人間。政治を糾弾し、世相を憂いて、それで何を創作していくのか。クリエイターの矜持が滲むテキストです。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


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寝落ちの本ポッドキャスト、こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
ご意見ご感想は、公式Xまでどうぞ。
さて今日は、小川未明という方の
自由なる空想というエッセイを読んでいきたいと思います。
かわいらしい名前ですけど、小川未明さん。実際はおじさんなんですね。
今日鼻詰まっているな。
日本児童文学の父、それから日本のアンデルセンなどと呼ばれているそうです。
代表作には赤いロウソクと人魚といった本があるそうです。
今回読む本はですね、
定本が1982年、今から40年ちょっと前の本ですが、
定本の親本は1930年発行なので、
今日僕が読み上げる2024年からするとおよそ100年前の本と思っていただければ幸いです。
ポッドキャストはね、アーカイブとして先々残っていくので、
今の時代の空気感とかあんまり込めるつもりもないんですけど、
少し思うところもないではないみたいな文章が時々100年経ってハッとするような文章にあったりするので、
人間が人間としての営みを続けていく以上は、
愚かな部分は愚かなまま残り、賢い部分は賢いままだったりするのだなぁみたいなのを感じながら、
受け止めていただければというか、受け止めていくしかないのだなぁと思う次第です。
それでは参りましょう。小川美媚、自由なる空想。
最近は政治的に行き詰まり、経済的にもまた行き詰まっているような気がする。
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その反映は文芸の上にも現れていないことはない。
だがこの時にこそ文芸は展開せられるのである。
我々は常に思想の自由を有している。
空想し、想像することの自由を有している。
外的関係が心までを萎縮するとは限らない。
現実の上に神秘の王国を築くことのできないものは、
これを常に心の上で築くことである。
芸術はすなわちその表現である。
紅葉たるロマンチシズムの世界には何人も強制を敷くことを許さぬ。
ここでは自由と美と正義が外科を奏している。
我らは文芸においてこそ最も自由なのではないか。
誰が文芸が政治に従属しなければならないというのだ。
再びロマンチシズムの運動は起こるのではなかろうか。
また、このすべての方面に行き詰まった時に、
我らはロマンチシズムの運動を起こさなければならぬ。
まず文芸において、
自由に空想し、自由に想像し、
自由に閲覧し、自由に反抗せよ。
新緑の好季節に造紙屋の母班を散歩すると、
そこには幾人もの詩人、作家、批評家が地下に眠っている。
私は共に歩いてきた、長い過去の文壇を願望する。
しかしこの中で真に何人が、
よく自分の天文を知り、
その境地に生きてきたであろうか。
思うに、この世の中において、
栄誉を負える多くの人々とは、
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真におのずからの生活に生きず、
その時代のどうけものだったり、
またジャーナリズムの機械人形に過ぎなかったのであった。
もとより、今日の資本主義のもとに、
全くまずらわされざる自身の生活というものはありえないが、
それを自覚するとせざるとによって、
この人に対する印象が異なるであろう。
これに比べて、無名の自敵な詩人に、
また田舎で暮らす百姓の中に、
まことに人間らしく、
自分の生活に生きている人がある。
その方がどれほど私には羨ましく、
尊いか知れないのである。
春になって花が咲いても、
初夏が至って新緑に天地は包まれても、
心から自然を味わい、
また愛する余裕を持たず、
その自愛心もなく、
いたずらに巨名につながれているやからのごとき、
いかにいやしいことか。
私は今にして生活の意義を考えるのである。
謝れる社会に、
正しい歴史の文献はありえない。
いかに今日、
人々に対する批評判断のいい加減になることよ。
これが直ちに記録となって、
将来の歴史を編成するのである。
誠実に生きる者は、
もとより記録を残すと否とについて考えないはずだ。
ただ俗人のみが全てにおいて計画的であるであろう。
同じく芸術は、
作家が自ら生きることの炎だ。
その人の生活を離れて、
芸術を論ずることはできぬ。
作品から受ける感激は、
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その作家の人格であろう。
世に愛許さざるものがある。
共権という愛。
所有と無欲、
これである。
平和への手段として、
共権を肯定することは、
興業、暴力の賛美にほかならない。
この意味において、平和への道は、
共権を否定して、
他の真理に、
道を見出すことである。
所有することにおいて、
幸福を見出すものと、
無欲に生きすることによって、
幸福の本質を意にするからだ。
いかなる場合にも、
おのずから偽ることなく、
ほがらかな気持になって、
勇ましく、
信ずるところに進んでこそ、
人間の幸福は感じられる。
しかるに矛盾に生き、
愛、愛さなければならぬと知りながら、
日々、
陰鬱なる闘争を余儀なくさせられるのは、
そもそも誰の意思なのか。
これ、
おのずからの信仰に生きずして、
権力に指導されるからではあるまいか。
1982年発行。
国文社より、
芸術は正道す。
より。
読み終わりです。
先ほども申しました通り、
定本の親文、親本は、
1930年が初版です。
第一次大戦と第二次大戦の間の、
アカデミックな人たちは、
やっぱりちょっとリベレントな思想が、
芽生え始めつつあるというか、
大正時代かなと思ったんですけど、
1930年は昭和5年ということでした。
大正デモクラシーの息吹が感じられましたか、
みたいな息なしみをしようかと思いましたけど、
そうでもなかったみたいです。
ただ穏やかな文面から滲む創作者、
クリエイターとしてのパッション、
みたいなものを感じましたが、
皆様はいかがだったでしょうか。
それでは今日のところはおやすみなさい。
12:01
また次回お会いしましょう。
12:05

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