1. 寝落ちの本ポッドキャスト
  2. 015倉田百三「念仏と生活」
2024-03-28 12:39

015倉田百三「念仏と生活」

015倉田百三「念仏と生活」

自己の死生観を見つめ、言語化しようとすると仏教っぽくなります。無から無へ。それもまた一興。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


ご意見・ご感想は公式X(旧Twitter)まで。寝落ちの本で検索してください。

00:07
寝落ちの本ポッドキャスト。
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品は全て青空文庫から選んでおります。
ご意見ご感想は、公式Xまでどうぞ。
さて、今日は倉田百三さんという方の、
念仏と生活というエッセイを読んでいきたいと思います。
倉田さんはですね、劇作家、それから評論家で、
代表作に出家とその弟子という作品があるそうです。
がっつり仏教系の方ですかね。
皆さんは何か信仰はありますか?
日本人はね、あんまり宗教の話を一歩引いてしまうというか、
構えてしまうという風潮があるかもしれませんけど、
その風潮こそ宗教だと言っている人がいましたけど、
少しだけちょっと語ればですね、僕も若い時ちょっと考えたんですよ。
アンパンマンの歌ってありますよね。
1番で、何のために生まれて、何をして生きるのか、
と問うわけですよね。
多分答えなんか出ないじゃないですか。
2番で、何が君の幸せ、何をして喜ぶ、と問うわけですけど、
自分が喜んでいることで後から振り返れば少しわかるじゃないですか。
あの時幸せだったなというか、
極論を言えば誰かが笑っているところを見ている、
近くの人が笑ってくれているのを見ているのが幸せみたいなところに行き着くのが、
人間という動物だと思うんですけど、
そんな気づきみたいなのを落とし込めていくと、
03:03
結論仏教っぽくなっていくなというのは僕の結論ですけど、
倉田百造さんの念仏と生活、どういった内容でしょうか。
それでは見ていきましょう。
私の信仰を言いますと、念仏もさるるように生きるという一語に尽きる。
法念聖人もこの世を渡るには念仏もさるるように生きよと仰せられた。
念仏者のイデオロギーは念仏が唱えられるように生きていくということである。
その決め方はいろいろあるであろう。
倫理的な生き方もあり、国のためになるように生活原理を立てることもあろう。
共産主義者ならば労働者のために役立つように生きていく。
おそらく皆さんもそうして生きているわけであろうと思う。
その生活原理を何で決めるかといえば、念仏もさるるように生きるということによって決める。
いろいろなことを知っていながら、いろいろな出来事がありながら、
それを総括する根本原理は常に念仏もさるるように生きる。
それがナムアビタ仏の信仰である。
念仏もさるるように生きること、そのことが真相信仰の生活である。
これは良いか、これは間違いではないかという生活は不安であり、同時に元気がない。
ところが念仏もさるるように生きると元気が出る。
ではなぜ念仏もさるるように生活の第一原理を決めるのか。
それは私はいろいろやってきたが、他のものでは不可能だったからである。
私はどうして生まれてきたのか知らなかったが、18句の時、
とにかく生きているということに気づいてから何をやってきたかといえば、
どういうふうに生きることが最も正しいかということを二十何年も考え通してきた。
そして結局念仏もさるるように生きることが最も正しいとわかったのであった。
ではどうしたら念仏もさるるように生きることができるかといえば、
第一、正しい人間になろうということを考えねばならぬ。
06:01
第二は、生きていくためにはいろいろな自分の興味を引くところのもの、
立心出世をしたいという欲望、
友達との愛、恋愛、美しい自然を鑑賞する、
いろんな芸術に触れる、
そうした人生の欲望というものを、
はじめは良いの悪いのと言わないで、
自分の欲しいものは何でも欲しい、その大きな執着心を起こさねばならぬ。
それが生きることの動機であるから、その欲望を起こすことが必要である。
その上に、いい人間になろうと考えねばならない。
正しいことには千万人といえども行く。
この二つのもののどちらもが生命の中に強くなければならぬ。
それがないことは生命に対して真面目でないことである。
その二つの欲望が弱いならば信仰はいらない。
いい加減のところに落ち着く体のものである。
この二つの欲望が弱くては信仰に到達し得ない。
良い人間、欲望を起こさず道徳的な考えばかりを持つ人も信仰に到達しない。
この二つのものがあってこそ二つの衝突がある。
生命の機構がそういう風にできているから必ず衝突する。
その時この衝突をどうして切り開いていくか。
この問題にぶつかった時どうしても他の方法によっては解決ができない。
例えば何よりも大きい問題は犠牲ということである。
我々が生きていくためには犠牲なしにはいきられない。
生命が存在し成長していくためには法則がある。
そこには犠牲なしにはいきていけない。
そこには犠牲なしにはいきていけない。
生存競争に打ち勝って犠牲の屍を築いてこそ生きられるのである。
悪いことをしなければ生きられない人間、悪を許せない人間、
その人間が善でもない悪でもない一つの命を押し切っていかねばならない。
そのたった一つの道が南無阿弥陀仏である。
09:01
神乱は掃除てもって存じせざるなりといった。
それは悪をも恐れず善をも願わず南無阿弥陀仏の一堂を生活していこうというところまで到達してこそ初めて発せられる言葉である。
念仏も押されるように生きるといえば古臭いようであるが、
今日の言葉でいえば実相感に生きることである。
実相感とは人道主義ではない。
実相主義を人道主義に結びつけようとすれば、それはつけ焼き場になってしまう。
そうした善悪を飛び越えたところ、二つのものを一つに還元しようとするのが実相感である。
実相とは言葉で言うことはできない。
事実というものは無法のもので、これが事実だと捕まえようとすれば、その事実がはっきりわからなくなってくる。
そのままを肯定するより他ないものが実相である。
生命の機微というのが善でもない、悪でもない実相である。
その機微に触れることが信仰生活である。
そのまま受け入れるということが信仰の局地である。
例えば私が道を歩いていたら、魚の頭が転がっていて、そこへハエがブーンと飛んできたとする。
その魚はかつては海で泳いでいたものを漁師が取って、そして人がそれを買ってお惣菜にしてくって、その頭を据えた。
そこへ青いハエが飛んできて食っているのである。
その事実を見て、それが良いとか悪いとか考えずに、事実を事実として感じたところが実相である。
人生もまたこうしてできているものである。
私は隠して人生の事実を念仏申されるように生きている。
そこまで到達しないならば、まだ信仰に徹してはいないのだと私は考える。
2006年第1冊発行 国書観光会 仏教の明髄筆2より読み終わりです。
12:05
やっぱり少し仏教をめいてくると、真っ黒くさい感じがするかもしれないですけど、
良いことを言っているんじゃないかなと僕は思うんですが、皆さんはいかがでしょうか。
ありのままでいいんだよ的なことを言ってくれているのが、僕は少し救われる気がしますが、
あんまり考えすぎると眠れなくなるかもしれない。
心あり一息抜いて、今日のところはおやすみなさい。
12:39

コメント

スクロール