坂口安吾さんは太宰治と並び、ブライハと呼ばれる作家さんで、
有名どころではダラクロン、白痴、桜の森の満開の下とかですかね、いずれも過去に読み上げています。
今回は全体のボリューム感が定まっていないので、大体20分ぐらいを目途に読み上げていこうかなと思います。
どうかお付き合いください。それでは参ります。
明日は天気になれ。長崎ちゃんぽん。
私は長崎が好きだ。長崎の食べ物も好きである。そしてちゃんぽんが何より好きである。
豚の角煮もうまいけれども、あれはそもそも沖縄のラフテとどっちが本家なのであろうか、
全く同じものである。長崎の角煮は漆黒という宴会料理で、家庭ではあまりやらないようだ。
ラフテの方は沖縄の家庭料理だそうだから、ラフテの方が本家かもしれないと私は思っている。
私は太平洋戦争の始まる直前の頃に、天草・島原などを巡り歩いた。
天草・島原の乱を調べるためであった。
有栄だの、串の津だの、天草・島田、大江などと、あんまり東京の人の行かない土地のひなびた宿屋を泊まり歩いたが、
どこへ泊まっても味噌汁の中に至るまで魚がいっぱい。朝食の前から刺身、焼き魚、煮魚と粋の良い魚の出るは出るは。
東京ではもう物資欠乏の頃であったが、決食時ももて余さざるを得ない豊富さであった。
決食の都会人を哀れんでもてなしてくれたのかもしれない。
しかし私は長崎以来ちゃんぽんに親しみ、天草の本土でちゃんぽん屋を探してバスに乗り遅れたこともあるし、
三住の都選上へ降りた途端にちゃんぽんありますの紙切れを見つけて、そう腹も減っていないのにふらふらと座り込んだこともある。
昼飯にちゃんぽんを食うのが楽しみであった。どこで食っても一応うまかった。
昔、東京にも長崎ちゃんぽんを食べさせる店があった。
その頃の東京のは主としてもやしを盛り上げていた。東京人の好みに合うように自然そうなったのかもしれない。
私はそのちゃんぽんしか知らなかったから、初めて長崎へ行った時は東京のちゃんぽんがうまいような気がしたが、
食べるに従いたちまちそうでなくなって長崎式に限ると思うようになった。
私は生のキャベツは好きではないが、ちゃんぽんの上に山のごとくに盛り上げてくる生がかったキャベツならうまいと思うから妙だ。
それにいかにももりもり喰らうという感じで、正気ハツラツたる爽快みを感じるのである。
私が長崎へ旅行した時はいつも酒ばかり飲んでいて食欲が少なかったからちゃんぽんの大量なのを持て余したが、
近頃は種量が少なくなったところへゴルフに凝ったせいか食欲がいくらかたくましくなったから、
長崎ちゃんぽんを二つほど一時にぺろりと平らげにいってみたいなどとふと思うことがある。
私は元来麺類が好物であるが、日本のものは淡白すぎ、品のはしつこくちゃんぽんがちょうどよい。
けれどもちゃんぽんを懐かしむ思いのうちには味覚はさておいてあの巨大な量とそれをぺろりぺろりと平らげていく食欲の爽快さ。
巨大な量を軽くあしらうように平らげてしまう落ち着き払った食欲の快味などを懐かしむことも強いのだ。
ざるそばやラーメンにはそういう快感は思い描くことができない。
豊富な量と旺盛な食欲、それは私が少年期すぎて失ってしまったものでもある。
悲劇のままの城跡
私は確か昭和16年であったと思うが、甘草・島原の乱を調べにそのゆかりの土地を見て歩いた。
そのとき原城の跡がほぼ原型のまま畑になっているのに一興したのであった。
もともとこの城は甘草城が建てこもったときにすでに廃城であった。
新しく島原城を築くために有馬の原城を取り壊し石垣などを島原へ運んで新宿の城の石垣に用いた。
したがって原城の方は城の建物や石垣が取り去られて、丘だけが城の姿を留めていたのである。
甘草城はここへ籠ってバラックの城を築り、失われた石垣の代わりには竹柳や木柵を巡らした。
幕府軍はその対面の丘に砲台を築いて攻撃した。
その大砲の弾は原城まで届かなかったが、砲台は昔の図面通りに今もその姿を知ることができる。
しかし一番驚くべきことは城跡で、建物と石垣はないが形はそっくり王子のままといってよい。
牢城の百姓軍が全滅したとき、城内の空港の中に女子供が三千人隠れているのが発見され、これが貴郷をがえんぜず、危機として斬首された。
危機として死んだことは松平伊豆の長男の日記に書かれている。
こうして城内の者は男も女も子供も全滅してしまったのである。
このときの女子供三千名が隠れていたという空港まで、昔のままと死ぬべき姿で現存しているのである。
広さは百坪ほどもあろうか。深さはかなり深い。四メートルぐらいかもしれん。
そこへ降りて行く道はないのに、じゃがいも畑になっていた。
この空港の底面を畳やしている百姓は、自分の商工や日よけの運搬にどういう方法を用いているのだろうかと私はいぶかった。
島原の乱から三百四年も過ぎているのだから、誰かが商工の道ぐらい作ってもよさそうなものだ。
三百何年間道を作らずに、はしごか何かで世を弁じているのだとすれば、痛快極まるほど悠々たる世界ではある。
私はおかしくてたまらなかったから、はしごの所在や、はしごの商工口とみられる地点を探してみたが、一面の畑があるばかりで、はしごなどは存在せず、また特に踏み荒らされたところも、商工口と目される空き地も見出すことができなかった。
今ここを耕している人たちは、ここで戦死した人たちの子孫ではないのである。
この辺の農民はみんな原城に籠って、老若男女を共に全滅してしまったから、一気に酸化しなかった二三の村を除いて、南高木郡は全くの無人となり、累々たる白骨だけが天秤にさらされていたのである。
その状態で十年過ぎ、十年目に他国から農民を移住させて、新しく村を開き工作を始めたのだ。
初めの十年ぐらいは、この空港や城跡を恐れたかもしれないが、そんな気持ちが永続するはずのないことは、広島・長崎の例でも知り得よう。
だから三百四年過ぎて、昔の原型のまま畑とかしているのも他の理由によるものであろうけれども、商工の道すらも未だにないとは、突拍子もない話であろう。
名のない女。歴史小説を書いていると、読者にはちょっと想像もできないほどバカバカしいところで苦労しなければならないものである。
例えば、女の名前である。史上有名な女の名なら、むろん苦労の必要はないが、例えば信長の母の名は何であるかという段になると大騒ぎになる。
経図を探しても、過去帳を見ても、居配を突き止めても、名は出てこない。昔の経図を見ると、男の名はみんな出てくる。次男坊でも、十男坊でも、ちゃんとそれぞれの名前がある。
ところが女の方は、生妻の長女に生まれても、ただ女である。そして何が死に化したと言って、結婚した男の名の方が出てくるだけだ。
そこで、結婚した何が死の方の経図を調べてみると、ここでも女としか書かれていない。何が死の女と結婚したとあるだけで、ここではその父親の生命が書かれている。女はどっちの経図でも、ただの女でしかないのである。
武集・駒村の駒家は、千何百年間特殊な血統を守った有意秘ある家だから、その経図の様式に特別なものがあるかと思って一見させてもらったら、ここでも女の子とおっ母さんは千何百年間ずっとただの女であった。女に名の記されたものは完全に一つもなかったのである。
もっともこの経図は鎌倉時代に消失して再製作したもので、一族重心の経図を集め、それを参照して再製作した。
だからその時鎌倉の様式が取り入れられたのかもしれん。鎌倉といえば武家時代。男の力だけが物を言う時代で、まさに女が完全に名無しの女に過ぎなくなったのはこの時代においてであったろう。
ところが小説というものは事実を伝える学問とは違って、無いものは無いでは済まないのである。信長のおっ母さんやお嫁さんやおめかけさんや娘さんぐらいになると、どうしても名前を付けなければならん。
これ、〇〇大使よ、と言って皆妙で呼ぶわけに甘えらない。私の恋しい織田信長さんのお嬢さんよ、という恋組を書かせるわけにもいかない。そこでどうしてもいい加減の名前をでっち上げなければならないのである。
ところが、女の名前は完全に不明なりと決まっていれば、のんびりとでたらめの名前をでっち上げて落ち着き払っていられるけれども、思わぬところに本名が出ていることもあるから、どうも後味がよろしくない。
〇〇軍旗というような後世の俗書などに、〇〇大使がちゃんと生きた人間の名前で恋を語らっていることもあるから油断ができないのだ。もっとも、〇〇軍旗の作者もおそらくでたらめにつけたなだろうと私は思う。
我々にとっては江戸時代も鎌倉時代も同じように昔であるが、江戸時代と鎌倉時代、戦国時代の間にだって大変な隔たりがあるのだ。どうせ嘘を書く小説だと悟りは開いているつもりだが、どうも後味は良くないものだ。
予言経時代。1953年8月20日に世界に大異変が起こり、新しく生まれ変わるそうだ。これは、エジプトのピラビットの中から現れた何千年前の予言だそうである。
島原の乱の時に島民をあじって一気に走らせた黒幕の作者たちは、追放のバタレン、神父ママコスの予言というのを用いた。
550年、地継域に神道現れ、習わざるに諸学に通じている。その時、海に山に白旗なびき、神の世となるであろう云々、というような予言だ。
追放のバタレンママコスという名は、実際の追放バタレンに該当する名が見当たらないが、当時外国人や外国語に全く無縁無知の日本人が、いかにもそれらしいママコスなぞという名をでたらめに発明できようとは思われないから、何かの根拠はある、なだろう。
地継域に神道現れ、とは、実在の神道天草志郎に付会したもの。山に海に白旗なびき、の海の方は、当時続々来朝し始めて、やがて通称を骨禁されたマニラやマカオ等からの急遠の外国船を指すのであろう。これをたった一時変えるだけで、つまり、白旗を赤旗にするだけで、現代の予言の一つに流用できそうなところが面白い。
現代においても、いつごろが第三次大戦の危機か、というようなことは、アメリカやヨーロッパのジャーナリズム、日本の益壇所などで二、三年前から予言めいたことをやりつけていることで、論章的に論断しても予言は予言である。むしろ、現代においては、論章的、紙面的でない予言はないと言ってよい。
それらの益壇所は、太平洋戦争の時には、日本の大将を益壇しているはずである。
当たるも白旗、当たらぬも白旗という通りだ。
二つに一つだから、率の良い当てものだ。
私は去年、去る雑誌社に、西角の本案小説を頼まれたおかげで、江戸時代に仕掛山節というものが存在したことを知った。
山節がごも与えて祈ると、御兵がことこと動き出し、御頭苗が風もないのに自然に消えてしまう。
そういう法力を見せるから、伏せものが現れなくても、病気が治らなくても、信仰が絶えないらしい。
この御兵を差しておく容器の中に、生きた土壌が入れてある。
山節は荒々しく祈りながら石状をどしんどしん突き鳴らすから、それに驚いて土壌が騒ぎ出す。御兵が動くのだそうだ。
また御頭苗の方は砂時計の仕掛けを利用したもので、一定時間に一定量の油がそこから抜かれる仕掛けになっていて、祈りの終わる時に自然にパッと消えるのだそうだ。
これを仕掛け山節というのだそうだが、現代の何々教でもこの仕掛けで結構通用しそうじゃないか。
とにかく現代は、ジャーナリズムも教祖も預言教時代である。
戦争なんか勝手にしやがれという連中は、クイズや競輪でこれもあてっこに熱中している。
ピラミッドの御神託も雄大で結構だが、再び古事記の御神託が復活しないよう、祈りや説である。
発明の拷問
近頃の外国映画には拷問と手術の場面が多い。
鎖でぶら下げてコテで肌を焼くという拷問が主である。
手術の方は素人の応急手術の場面が多く、内臓からピストルの玉を抜いてこれもコテで焼いて消毒する。
こんな場面は映画の筋や効果の上から不必要だと思うのに、焼きゴテを当ててうーっと埋めかせる。
焼きゴテで埋めかせるのに特別な趣味があるとしか思われない。
その場面がなければ、芸術上の効果が減ずるという必然性によるものなら話はわかるけれども、なくて済むのにわざと見せるのは悪趣味という以外にしようがない。
シナの小説には、敵の首をなまそにして食ったりするのが出てくるが、日本の軍旗は恩和で、ちゃんちゃんバラバラまでは肩のごとくだが、しつこい憎悪は出てこない。
しつこい殺し方は出てこない。
その代わり殺されたのが幽霊になると世界一しつこいな。
けれども、日本になぶり殺しや拷問がなかったわけではなく、特にキリシタンの拷問ではあの手この手の変化の数々において世界無比のところがあったかもしれない。
その方法は斬首、張り付け、火あぶり、水攻め、氷攻め、熱湯攻め、のこぎり引き、身の踊り、穴あつるしなどなどいろいろある。
それは死刑の方法のごとくであるが、貴重すれば勘弁してくれるのだから、この場合は拷問といったほうがよろしいかと思う。
氷攻めは仙台の広瀬川で一度行われた例があるだけだが、あとは九州がキリシタンの本場だから、首都して九州で行われた。
熱湯攻めは雲泉で行われたが、今はもう熱湯攻めのできるような場所はないようだ。
身の踊りは人間をすまき、もしくはたわら爪のようにして火をつける。
ミノムシの動くようにもがくのでこの名が出たという。
一番最後に発明したのが穴あつるしであるが、具体的にどういう方法であったかどうもよくわからない。
だいたいこのように拷問や処刑の方法が変化したのには理由があった。
はじめには斬首や張り付けであったが、見物人に挨拶したり説教したり、戒心を進めたりして堂々と死ぬので、見物人や首切役人まで戒心して信者になる者が処刑の度に増加した。
これはいかんというので、死の草言を封じなければいかんということになった。
火破りは死ぬまでの時間が長く、その場で説教し続けるので最も草言でいけなかった。
最後に発明したのが穴あつるしだ。
手足をおのおの爆して妙な逆さずるしか何かにするらしいが、これをやられると実に滑稽極まるもがき方をし、見ているとおかしくなるばかりで全然重々しいところがない。
おまけに声が出なくて説教ができない。
死後一ぶら下がって実につまらなく死ぬので、見物人もバカバカしくなるのだという。
この穴あつるしの発明以来急速に信者が減った。
この穴あつるしの発明の必要や過程を考えるとどこかユーモアがある。
発明者側の真剣な大脳ぶりがうかがわれて変にユーモラスなのかもしれない。
再びこのようなことが日本において行われぬように祈るや説である。
西洋映画によく現れるヤキゴテ拷問で思い出すのは日本のお給である。
お給の方は日本ではもっぱら落語の材料で愛嬌がある。
しかし自発的にやることだから愛嬌があるのだけれども、
工房給などというでかいやつを無理にやられることになればこれも拷問であろう。
日本では子供を脅かすのにお給を据えるぞという脅迫の言辞を寛容するところを見ても、
お給は自発的にやらない限り愛嬌のあるものではない。
落語で大きなお給を据えて人を笑わせるのは八三熊さんであるが、
実際に工房給という大きなお給の信者にはむしろ女が多いということである。
そう言われて思い出すのは私が30年も昔に当時全く武蔵野のままだった世田谷で
小学校の大洋教員をやってた時、その学校の迎えに
阿波島様という昔からお給で有名なお寺があった。
月に二度か一度お給の日がある。