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2025-01-28 30:15

099坂口安吾「明日は天気になれ(豪勢な貧乏、神伝夢想流、真庭念流、エラい狂人の話し)」

099坂口安吾「明日は天気になれ(豪勢な貧乏、神伝夢想流、真庭念流、エラい狂人の話し)」

やっぱりこの人の文章は手が合うので好きです。今回も寝落ちしてくれたら幸いです。


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寝落ちの本ポッドキャスト、こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品はすべて青空文庫から選んでおります。
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さて今日は坂口安吾さんの、
最近坂口安吾さん読むとしたらずっとこれなんですけど、
明日は天気になれというですね、
西日本新聞での連載コーナーをまとめたエッセイ集というか、
連載のまとめをね、
最近はこれをひたすら読んでいます。
坂口安吾さん、日本の小説家、評論家、随筆家、
戦後発表の堕落論、白痴らが評価され、
太宰治と並んで無礼派と呼ばれるということで、
堕落論も白痴もかつて読み上げてますので、
よかったら聞いてみてください。どっちもいいですよ。
堕落論はね、戦争を体験した人ならではのありありとした描写。
頭上に飛行機が飛んでって怖いのなんのって言う気持ちを横目に、
隣のカメラマンは憎らしいほどそんなの気にせず、
ファインダーを切ってるみたいな描写とかね、生々しいですね。
白痴はそれに影響を受けてると思うんですけど、
ちょっと似てるんですよね。映画で働いてる人が主人公なんで、
それもまた戦争中の火の手が上がった東京の真ん中でどう生きてくかみたいな。
生きてくかもちょっと違うけど。
随分こう、ただただ戦争に晒されてる人間のやりようのなさみたいなね。
もうちょっと出てる感じがします。
今日は、明日は天気になれですね。
明日は天気になれシリーズはもう何回目だろうか。
3回目か4回目になると思います。
とりあえず淡々とやっていきましょうか。
20分ぐらいを目指して。
20分読み上げぐらいを目指しています。
その間にみなさん寝落ちしていただければと思います。
それでは参ります。
明日は天気になれ。
豪勢な貧乏。
私は長らく、昔なら語り草になるような貧乏暮らしをやってきた。
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しかしそれも、昔なら、で、今では全く珍しくない。
戦争中から戦後にかけては多くの人々が空襲で火災を失い、
食料の欠廃、喜んで犬猫を喰らい、豚の餌や雑草苦労ありさまで、
天下の賃金類していた私の貧乏すらも、物の数ではなくなってしまった。
私の貧乏は本人が覚悟の上のことであるから何でもないけれども、
戦争の貧乏は人々がそれを欲していないのに身に振りかかってきたことで、
しかも全くガキ道の底に達した貧乏であるから哀れである。
ちょうど太平洋戦争に突入する年の頃、
私は小田原市のガラン堂というペンキ屋の飯を食っていた。
小田原の緑新道といえば目抜きの商店街であるが、
そこに飯場の掘ったて小屋のような汚い家があって、それがガラン堂の店だ。
もっとも、お手の物の大きな看板でごまかしているから通りから一見しただけではわからないが、
内実は掘ったて小屋なのだ。
店から奥の台所までドマ続きと言いたいが、実は他ならぬ地球の剥き出しの氷土である。
その地球の氷土の上に風呂桶もあるし、下駄を脱いで上がれば茶の間もある。
ガラン堂は今では十一人の小持ちであるが、
当時は八人の小持ちで小田原切手の貧乏で有名を轟かしていたのである。
しかし今から思うと彼の貧乏は豪勢なものであった。
彼は肉屋と魚屋に予約しておって、
吐きだめ捨てる象物、尻尾、脳みそ、あらの類を石油管に詰めて届けてもらう。
本日は十五銭でよろし、とか本日は二十銭、なぞと運んできた小僧がお金を受け取っていく。
だいたい石油管一つの吐きだめ向けに色を付けた品が十五銭から二十銭ぐらいで買えた。
ところがこれが非常に美味である。
魚のあらが美味であることは浜育ちの日本人なら大概知っているが、
日本の肉屋が吐きだめ捨てているものが獣肉中の王座を占める珍味だということは全く知られていない。
私が去年、日田の高山でランチを食ったら山奥には珍しく牛の尻尾のシチューを使っていた。
シチューには普通牛の尻尾を使う。
タンはしつこいが尻尾はあっさりしていて素朴な懐かしい味である。
けれども牛の尻尾や脳みそを使う料理屋は田舎にはたくさんないから主として吐きだめ捨ててしまう。
こういうものを石油管一杯十五銭から二十銭で買って親子十人に磯炉を入れて奉食していたのである。
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もっともパリや北京の料理院なら天下の珍味に仕立てる材料もガランドの手にかかってはただ鍋にぐつぐつ煮るだけのことで悪を抜くことを知らないから決して美味を楽しむというわけにはいかなかったが、
吐きだめ捨てるものを上食してやがると人々に後ろ指を刺された彼の貧乏も今から思えば豪勢極まる貧乏だ。
そして八人の子供はまるまると太っていたものである。
神殿無双流。東京に今なお鎖鎬の術を伝える人がいるそうだから、型を見せていただこうと一昨年訪れたことがある。
ところが主人は千歳で鎖鎬を失った余死で、私は鎖鎬をやるにはやりますが、元来は杖、錠を学んだものです。
錠とおっしゃると無双金之助の?
最後です。福岡に無双金之助の神殿無双流が今なお伝わっておりまして、自分はそれを学んだものです。
東京の警視庁で錠を教えている清水隆二という先生であることがわかった。
清水さんは昭和5年の展覧試合だかに錠術の型を披露するため神殿無双流の先生に伴われ、その皇帝として上京したのだそうだ。
その時錠の威力が警視庁の認めるところとなり、清水さんが壊れて東京に留まって術を伝えて今日に至っているよし。
昔、共産党その他の暴動対策に警視庁の新選組という某部隊が出動したが、これぞ清水さんが術を伝えた産物で、あの某が神殿無双流の錠だそうだ。
清水さんから錠の型を見せていただいて、一時はただ呆然とするほど驚いたものである。
生涯腐敗を誇った宮本武蔵も、無双御之助の錠にだけは手酷い目に遭っている。
悲劇目に見て引き分け程度の勝負であったらしいが、武蔵という人は後世の剣客と違って剣の他流だけを相手にした人ではなく、槍でも鎖釜でもあらゆる武器も相手と見て剣を学んだ人だ。
そういう武蔵だから、ともかく錠と一応勝負にもって行けたが、一般の剣客では到底問題にならないだろうと私は思った。
剣というものは束と刃が決まっていて、攻撃は一点からしか起こらないが、錠は全部が束でも刃でもあるし、槍でもあり、剣のつもりで一点を見ていると上下左右の思わざるところから攻撃が起こり、まるで百本の錠に責められているような厳惑を受ける。
その上、両手の幅と頭上へ手を伸ばした高さがあれば使えるから、山上の室内で自由に術を振るうことができる。
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棒を刀のように振り回すものとでも考えたら大間違いで、まるで棒が手中に吸い込まれて、前後左右上下の初歩から無再現に目にも止まらぬ速さで飛び出し、襲いかかってくるものと思い知っておかねばならぬ。
男女共に護身用としてこれほど栄がたい術はないように思ったが、特に家に留守を守る婦人にはこの上もない術であろう。
もっとも人が護身用の術を必要とするような時代は敬賀すべきではないけれども、血なまぐさい乱世の気配は遠ざかるどころか、ますます近づく趣もあって、かかる時に大男の傍観、ぬっと室内に上がり込むや、ぎゃっと叫び、途端にひばらを押さえてひっくり返っている。
小娘が四尺二寸の錠をたずさえてにこやかに現れる。謎という図は愛嬌もあり実行もあって面白い。
邸主の威力地に落ち、女房が武力を振るに至ると乱世も収まるかもしれない。
間庭念流。
間庭ってのは真実の真に二話なので、真定かもしれませんが、間庭と読みたいと思います。
①昔、立川文庫という少年用の講談本があった。
大概の男の子はこれを愛読する一期間を経て成人したものである。
私はその中で、間庭念流という独特の剣法を使う樋口十郎在門に、なんとなく教習に似たような愛着を感じていたものだ。
常州の間庭という関村に、先祖代々念流という独特の剣法を伝える樋口十郎在門が住んでいる。
代々里に隠れて、あえて立心を求めない。
門邸は主として里人で、里人みんな剣を使う。
里人の中に、四天王古天宮八賢子などというのがあり、他流の豪傑がこの田舎剣法をからかいに行くと、野良の百姓にコロコロやられてしまう。
こんな村が実在したら、さぞ面白かろうと思わず、教習に似た考えを覚えるような物語なのである。
ところがこの村が、そして剣法が、歴史的に実在したばかりでなく、今日においてもなお、積実のままに実在しているのである。
群馬県田の群、入の村、阿佐、間庭、そこに樋口家も、その道場も、また今なお剣を使う百姓たちも、そして四天王すらもみんな実在している。
高崎から城審電鉄という下に待機の電車で、三峡の里に入ったところ、縄毛山陽といって国史上重要な意味を持つ千何百年の石碑が三つある。
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その山陽の所在するちょうど中穂田のところに、間庭という里がある。
しかし樋口家は、賛否のように間庭の里に千何百年の剣の歴史を伝えているわけではない。
元は木曽義中を育てた樋口二郎から起こっている。木曽に樋口村というのがあってそこの出身である。
おそらく長男が木曽に残り、次男が村を出て城州間庭に至ったものらしい。
しかし木曽の樋口家には年流は伝わらない。年流はもっぱら間庭の樋口家に、当首で二十四代の傑脈と流儀を伝えている。
昔のままそっくり、今も姿を伝えているというので、私は道場の新年鏡開きの衆議を見物に出かけた。
なんとまあ今のようにこんな微笑ましい空景を見ようなぞとは夢にも思われないようなことであった。
私は何気なく門をくぐったが、門に連なる物置のようなのが実は昔のままの道場なのであった。
門の中、庭先には飴屋やおでん屋や風船屋やおもちゃ屋などが店を出して、村の祭礼と同じようにピーピーじゃかじゃかやっている。
鏡開き衆議の試合は、この中に三十枚の蒸し炉を敷いて行うのである。昔からの習いだそうだ。
村の祭礼風景と同じようなのは当たり前だ。門邸はみんな村の百姓で、四天王も村の百姓だ。
つまり間庭では道場の衆議に勝る祭礼はないわけだ。
村を出て都会で家を成している八十の老門邸も、この日のために寄居して懐かしい剣を握る。感動が顔に輝いている。
門構えとそれに連なる道場だけは物々しかったが、樋口家自身もたった四剣の小さな百姓屋なのである。
2 間庭練流の稽古では、今もって昔ながらの独特の面小手を用いている。
白布に綿を詰めたもので、むろん顔面を守る金具などはない。銅もない。ただ、薙刀相手の稽古に常に竹製の銅をつけることがある。小手は主として右手だけである。
それというのが、練流は築きもなく、銅を払うこともなく、小手を狙うこともない。
常にただ一手、身斬りと称して、膜口から竹割りに頭上へ斬り下ろすだけである。
またそれを受けるには、体を開いて同時に、敵の身剣へ斬り下ろしているか、巻き落としと称して敵の唾元へ飛び込み、
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こっちの唾元を引っ掛け、小手に小手を巻いて引き落とす。あるいは一瞬飛び抜いて、空を切らせて引き落とす。
基本としてはそれだけだ。それが基本の全部であるばかりでなく、練流のほとんど全部でもあって、ちゃんちゃんバラバラの打ち合いが完全にないのである。
つまり、徹頭徹尾、真剣勝負用のもので、一撃で相手を倒すか、相手の一撃をかわして倒すか、それだけの稽古である。
そういう剣法だから、今のちゃんちゃんバラバラ用の剣法と全く違って、第一に少なくとも三剣以上離れて向かい合う。
そして三、四剣離れたところからじりじりと間を測って一撃に決する。
したがって構えが特に独特のうちでも独特で、基本の構え、そして一番普通の構えを無構えと称する。
右足を前に出して膝を90度に折り、左足は後ろにぐっと引いてやや折り式に似ているが、あれよりも後ろ足がぐっと後ろへ引かれていることと、後ろ足の膝が地についていないところが違っている。
つまり、100mを全速力で疾走する人の瞬間写真のような姿で、その瞬間の姿は宙に浮いて走っているが、マニワ年流の場合は両足が地についているだけの相違である。
力はその足に、特に後ろ足にこもっている。いつでも地を蹴って飛び出す柔軟性を潜めて、全部の力の支点となっている。
ぼっけんはやや腕を曲げて軽く引きつけて横に倒して構えている。野球のバットを腰に構えたように横にぼっけんを倒して持つ。
まだ力はぼっけんよりも足にかかっているのだ。速力が全部なのだ。それがマニワ年流の構えである。
不思議な構えであるが、実は恐ろしいほど実用的な理にかなった構えなのかもしれない。
こうしてじりじりと間を測って、一瞬に3、4拳の間を詰めて一撃に勝負を決する。
一撃に敵を撃つにも、敵の一撃をかわして仕留めるにも一番都合の良い構えかもしれないという気がした。
しかし一見、変なヘッピリ腰で、いかにも野良の百姓がクワやスキの片手間に得たくしたように風変わりなものに見えるから、
ヘッピリ腰の百姓拳法などと他流に笑われやすかったらしいが、実はあべこべで、これぐらい真剣勝負なだけ考えて必殺を狙った拳法は珍しい。
その必殺に凝った激しい狙いが、逆にヘッピリ腰の百姓拳法に見えるだけなのだ。
3、マニワ年流の道場には豪傑善とした、また武芸者善とした人が一人もいない。
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20歳から80いくつまでの皇帝全部が集まっていたが、70を過ぎている人も数名はおる。
いずれもただの里の人々である。
今まで握っていたクワを捨て、手足と顔を洗って折り目のついた島の着物に着替え、
木綿のゴツゴツした袴を履いて現れてきた人たちで、稀に一二名文服を着ていた老人もいたが、多くの老人は生涯文服を着たことのなかった人であろう。
最高の腫れ気といえば折り目のついた島の着物で、今それを着て袴の桃立ちを取って勃献を握っているのである。
平平凡々たる農民たち。
むしろ、よその農民よりも忍僧の柔らかな老いたる農夫たちが、ひとたび勃献を握って無構えに構えた瞬間、唐突に忍僧が一変してしまう。
年齢に限らず、昔の剣法は、やっとうと掛け声を使ったものらしい。
江戸の頃は剣術をやっとうと言い、剣士をやっとう使いと言ったものだ。
そのやっとうという掛け声を私は生まれて初めてここで聞いた。
極意書を見せてもらった。
虎の巻、獅子の巻、竜の巻、象の巻、犬の巻などがあって、虎の巻が最後のおくゆるしである。
私は虎の巻の内容を見たのは生まれて初めてのことであったが、年齢の場合は、主として剣を使うにあたっての礼と作法を説いたもので、各条の下半分は「執短」という盆字で書かれた駄羅に用のものであった。
駄羅にの祭りはすべて曽我家という言葉で終わっていたようである。
転生年間、今から370年ほど昔に、間庭年流八世又七郎という人が次第忠説していた年流を、義安という院師から伝授を受けた伝書や、
その仙台が柏原秘禅の神から神道流の伝授を受けた伝書など、調べればまだいくらでも出てきそうな古文書が、破れほうけた古筒ら三つにぎっしり詰めて無造作に押入れの隅に放り込んである。
無くなりもせず、自然に溜まったから保存してあるというだけの応用な無造作家言で、それは漢に使えず、代々里に伝わったために、自ら保存された応用な筋道を語るものでもあろう。
また樋口家そのものが、二十四代建を伝えるとは言うものの、立派なのは道場だけで、豪能でもなく、中能ですらもない。小部屋が四つあるだけの、ただの小百姓にすぎないということも、自らすべてが保存される原因であったかもしれない。
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二十四代も伝わる建の教祖の家が、小百姓のままだというのは素晴らしい話じゃないか。だからまた、間庭の里の界隈では、あらゆる里人、あらゆる百姓の魂の中に、正しい建が生き続けてきたのであろう。正しい生活として、正しい趣味として、正しい誇りとして生き続けてきた。今もなお、つつましく生きている。
滅びることのない生活として。こんな懐かしい里が、昔あったことすらも異様であるのに、今も実在するというのは、素晴らしいことだ。
偉い教人の話
1. 常人と教人の差は程度の問題だと言われているが、職業上、個人の思考や行為の進歩が状態以上に大きいことを必要とする立場の人たちは、職業上の立場と個人の立場が混戦して、個人の狂気が反前しない場合などがある。
例えばヒトラーは、その破壊面から教人のように描かれたり、考えられたりされやすいけれども、その建設面から見れば天才と称せざるを得ない。しかし、天才とは狂気の同義語でもあって、ヒトラー教人説を否定することも不可能であろう。
大体において、一代にして名を成した独裁者のような偉大な成り上がり者は、おおむね天才的な人物であるから、教人と神人への危険人物と考えてよろしいかと思う。
したがって、彼なくしては成し難かったような建設的な業績を残す代わりに、狂気の諸賛を気見上げにする場合も少なくない。歴史を読んでいると、ここのところは狂気の諸賛と判断せざるを得ない場合を見出すことが多いものである。
歴史的に考えても、独裁者はおおむね教人的とみてよろしいようだ。そのために、せっかくの業績を残しながら、自らもまた人民の生活をも破滅に導いている場合が少なくない。
要するに、独裁という様式が、彼の天才を生かしやすい代わりに、彼の狂気をも生かしやすいところに欠点があるのであろう。狂気を抑えるブレーキの機構を設ければ、彼の天才を抑えるブレーキにもなりやすいから、とかくやりくりは面倒なものだ。
日本の独裁者で誰がどのような狂気を行っているかというと、まず、豊臣秀吉の朝鮮成抜を挙げることができる。
秀吉は、愛知鶴松を失ったときに発狂状態になった。状態を意識して、ふらふらと有馬温泉へ保養に行き、うつうつたる十数日の物思いの挙げ句、突如として朝鮮成抜を発令したのである。
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この命令は、当時においても秀吉の発狂の産物だと世人にもっぱら取り沙汰されたことは、当時の文書に見かけることができる。
長人たちからそういう批判の声が起こったというのは欲々のことで、前後の史実から考えても狂気の初産と見るべきもののようだ。
もとより朝鮮成抜というよりも、民との貿易再開ということは秀吉のかねての念願で、その志は早くあったし、またその志は真剣でもあった。その志が深くまた真剣であるために、狂気に飛躍したときに行ってしまう。
しかし彼が望んだ最大のことは民との貿易で、それによって巨万の富を手に入れたいのが目的であるにもかかわらず、それが戦争目的の上には常にひた隠しに隠されていた。
今なら貿易とか経済問題が最大の戦争理由になることは常識であるが、当時においてはそうではなくて改善に必要なのは他の大義名分であった。
今度の太平洋戦争においても、実は経済的に追い詰められて改善しながら、大統和理念という宗教的な大義名分を真っ向に掲げたところを見ると、これは日本の性格的なものかもしれない。
ところで秀吉の狂気は信長の遺伝のようなものでもあった。
2. 信長が一頃、キリシタンの最大の保護者であったことは人に知られているが、晩年においてキリシタンの敵となる。外国宣教師の呪いを受けていることは案外知られていない。
何分信長の電気作者の目から見ると、キリシタンの問題は察したることではなかったから、具体的にどんな弾圧をしたかということはよくわからないが、
外国宣教師が本国へ送った報告によると、信長が悪魔に見入られて神教の敵となり、その挙句、奇妙なことを発案し実行しつつあるように伝えている。
それによると、信長は安土城内に宗建寺を作り、その本尊として尺尊ではなく、彼自身の像を飾ることを考えている。
信長は日本中の人間に自分の像を礼拝させる野望に見入られて、悪魔になったというのである。
安土城と尊建寺が完成して今日に残っていると、嘘か本当かもわかるし、とにかく信長という花々独創的な人物の独特の着想も知ることができるのだけれども、わずかに土台ぐらいしか残っていないから何もわからない。
しかしキリシタン教徒のジャスイにしても、信長が自分の像をお寺の本尊にして日本中の人間に礼拝させる野望に疲れているというのは、いかにも独創的で面白い。
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ジャスイとしても独創的であるし、本当としても独創的だ。どっちにしても痛快的に馬鹿げている。
信長は一面非常に近直で合理派で現実主義者でありながら宗教を軽蔑しつつ、独特な角度からいつも宗教と花々密接につながっていたり、晩年に至ってまだ日本の半分も平定しないのに死な朝鮮の征服を相互したり、
また明智光秀と妙にもつれた友情を持つに至っている点など、彼の性格において狂気と紙一重のところにあるものか、晩年における狂気の事実を考えさせるものがあるように思う。
彼の一生の功績では喧騒なほど開放的なものと蓋を閉じた貝のように陰気なものとが交錯していて、一見して彼ほど激烈で強敵な独裁者は日本の市場では類が少ないように思われる。
徳川家康は温厚なフルダヌキのように考えられているが、彼の側近の記録によると、自分に不利なことが起こると、たちまち顔色が青ざめ、ぼりぼり爪を噛む癖があったという。
そして、査定は図られたか、もうダメか、謎と独り言をつぶやき、一時的に岩の空の状態が続いたという。
関ヶ原の時なぞも、近後中長の裏切りが起こる直前までというものは、味方の旗色が悪かったので、彼は全く転倒し、青ざめて独り言を言いながら爪を噛んでいたそうである。
平凡で正真なタイプであるが、こういう人が天下を握って家を守るという段になると、ゆたらに謹慎を疑って暴殺に励まざるを得ないような狂気もさせられようというものだ。
もともと、強敵な人が偉くなっても、凡人が偉くなっても、権力を握るということは、半ば基地外の門を開くことを意味するのではないかと私は思う。
他の時は知らず、特に昨今においては、世界も日本もその傾向を、はなはだ著しいように私は思っているのである。
1999年発行 筑波書房 坂口安吾全集 13 より一部独了読み終わりです。
冒頭、坂口安吾の代表作などを言いましたが、《堕落論》と《白痴》ね。
その他にも結構歴史小説とか書いているそうなので、いつかは読みたいですね。坂口安吾さんのね。
歴史小説を書くにあたって、時代背景とか時代交渉とか、おそらくたくさん調べ物して、作品制作に取り掛かったと思うので、こういう文章が書けるちゅうことでしょうな。
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またいつか、そういうテキストに触れたら読んでみたいと思います。長くなったらちょっと考えるけど。
といったところで、今日のところはこの辺で。また次回お会いしましょう。おやすみなさい。
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