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寝落ちの本ポッドキャスト。
こんばんは、Naotaroです。
このポッドキャストは、あなたの寝落ちのお手伝いをする番組です。
タイトルを聞いたことがあったり、実際に読んだこともあるような本、
それから興味深そうな本などを淡々と読んでいきます。
エッセイには面白すぎないツッコミを入れることもあるかもしれません。
作品は、すべて青空文庫から選んでおります。
ご意見ご感想は、公式Xまでどうぞ。
さて、今日は前回の続きですね。
坂口安吾さんの、「安吾巷談06ー東京ジャングル探検」の後編です。
前回すごい枕が長くてね。
その後は戦後の繁華街の闇の部分というか、
暗暗な部分をたくさん見せてくれましたが、
今回はスタートはまず新宿の交番だそうなので、
また香ばしい話が続くのではないかと思います。
それでは前回の続き、東京ジャングル探検後編です。
私は1950年4月15日という土曜日に許可を得て
新宿駅前の交番に立番し、
続いて上野公園の西郷さんの銅像下の交番に詰め、
おまわりさんの案内で上野の森の夜景を見せてもらった。
新宿の方はほとんど驚かなかった。
なぜなら我々が酔っ払った場合、
または酔っ払った周囲においてありがちなことが
どっとまとめて起こったに過ぎないからである。
しかし天下明大の新宿だけあって交番の忙しいこと、
その半分は酔っ払いの解放薬で、
死んだように酔っ払って交番へ担ぎ込まれ、
何をされても目を覚まさず、
コンコンと眠り続けているのがいる。
何を飲んでこんな風になるのだか、
その渾水状態というものは尋常一様のものではない。
22歳の身長のギャバ人の背広をきちんと着たサラリーマンだった。
解放窃盗を現れるのも無理がない。
解放窃盗というのは、
解放するふりをして身ぐるみ持ってくのを言うのだそうで、
新宿のマーケットでは酔っ払いが主としてこの被害を被るのである。
もっともこれには非常に紛らわしい場合がある。
ぐでんぐでんに酔って知らない酒場へ引きずり込まれる。
引きずり込まれるというのは客引きの女急が街頭に無数に出ていてタックルするからだ。
03:04
感情が足りなくて時計や上着を肩に取られて追い出される。
酔っ払い先生がこれを自覚していればいいのだが、
ふと気がついて所持品や時計や上着のないことだけ気づいた場合が厄介で、
解放窃盗にやられたのだか感情の肩に取られたのだか本人がわからないから厄介である。
こんなのが来た。酔っ払っているのは四十五六のどこかの課長さんだ。
これを交番へ引きずり込んだのは喫茶店のマダムで、
歳は三十二だと言ったが大柄で骨が太く顔に剣があり噛みつかれそうな異常部だ。
男は痩せて小さくて女上部に腕を取られて文字通り引きずり込まれてきたのである。
マダムも酔っていた。
そして一人の女級を連れていた。
無線飲食です。感情を取ってください。
と凄い肩膜で突き出した。
その感情というのがたった百円なのである。
女級が街頭に出張していると男が酔っ払って通りかかったのでタックルした。
もうお酒は飲みたくないというので女級が進めて牛乳二杯取らせた。
男が一杯女級が一杯。それが百円である。
一杯五十円の二杯ね。お砂糖入り牛乳ですよ。だから五十円。
女上部はお砂糖入りを繰り返し強調した。
男はカバンを持っていたのである。
感情を払う段にカバンが無くなっているのに気がついた。
いくらか酔いが冷めかけたのである。
しかしまだ全然路列が回らない。
カバンが無くなったから払えない。払わんとは言わん。僕はこういうものです。
男は名刺を取り出したがよろけてフラフラウイッと言って前へのめりそうになったり
今しゃべっていることを明朝覚えているとは思われない。
お巡りさんは名刺と定期券を合わせて調べたが確かに本人の名刺だ。
けれども女上部は承知しない。
所持金が無いと知りながら今すぐ払えという激烈な口ぶりだ。
つまり上着か何か型に取り立てる魂胆らしい。
巡査も呆れてたった100円のことじゃないかと叱りつけたが女はひるむどころか。
じゃあ明日の何時に交番の前で払うとお巡りさんが証人になって責任を取ってくださいとずるずるしいことを言い出した。
06:02
勝手に責任を押し付けられてはお巡りさんもたまらないから。
名刺をもらっているんだから信用したらどうかね。
偽の名刺じゃないことが証明済みなんだから。
こちらの方も悪意があるわけじゃない。
酔っ払って鞄を無くしたために払えないことがはっきりしとるじゃないか。
いえ僕必ず払う。明日の朝7時ここで払う。
と男は胸をそらして威張ったが路列が回らずよろめき続けている。
今の約束も明朝を忘れているだろう。
女もこれ以上頑張るのは不利と見たらしく。
たった100円ですからね。よろしい。この人を信用しましょう。
私は信用して引き取りますからこの人の鞄を探してあげてください。
そう言ったから帰るかと思うとそうでもない。
帰りそうにしては険しい顔をきっと押し立てて
この名刺を信用して引き取りますがこの人の鞄を探してあげてください。頼みますよ。
今度は男の鞄を探してくれということをしつこく言い出して
いかにもそれも押し付けるように頼みますよと繰り返す。
その必要さに巡査も腹を立てて
君の鞄でもないのに何をしつこく頼むことがあるのか。
君に頼まれなくとも我々はそれが職務だから
余計な世話を焼かずに用が済んだら引き取りたまえ。
鞄を失くして気の毒だからさ。じゃあ100円明日ここへ届けてください。
と看板のような鼻息で女は引き上げた。
ところがそれから二三十分すると
交番の四五軒横野駅の玄関の柱に
女が何か大事そうに抱えて交番の巡査に
これ見よがしに佇んでいるのである。
その風呂敷包みはちょうど鞄ぐらいの大きさだ。
むろん鞄のはずはないが
いかにも疑ってくれという様子で
あまりにしつこくまた憎々しいやり方である。
巡査も忌々しがって女を交番の奥へ連れ込み
風呂敷の中を調べると案に違わず鞄ではない。
しかし一軒は暗出して
あのお客だがねえ鞄を君の店でなくした。
君の店までは確かに鞄を持って行ったと言ってる。
君を疑るわけではないが
相手が酔っ払いでも君の店でなくしたらしいという以上
一応君の店を調べなければならないから案内してくれたまえ。
君を疑ってるわけじゃないから悪く思うなよ。
とこのお巡りさん年は若いが
なかなか言い方が巧妙である。
ええええそうでしょうとも
あの人がそういう以上は調べを受けるのが当然ですよ。
09:01
と女はまるでそれを待っていたようである。
でも私は何とも不快だ。
この女は全部筋書きを立ててやっているのである。
巡査は女に案内させて調べに行ったが
もとより鞄のあるはずはなかった。
巡査は男が女の店へ鞄を忘れたと言ってると言ったが
これは巡査の咄嗟の方弁で
男は全てを記憶していないのだ。
どこで飲んだかも覚えていない。
あの女の店で酒を飲んだと言ったりする。
牛乳じゃないのかと聞くと不思議そうに考え込んでしまう。
そこでも酒を飲みそこを出てからよそでも飲み
また戻ってきて牛乳を飲んだのかもしれないし
しかし男の記憶は忘博として全く失われているようである。
客が前後不覚と見て鞄を巻き上げ
それをカモフラージュするために
100円の無線飲食だと言って
公募案へ突き出したのかもしれないし
鞄を盗んだように疑われそうだから
公募案へ突き出したのかもしれない。
状況だけではどうにも判断がつかないし
つけるわけにもいかない。
しかし女の態度はいかにも憎たらしいし作為的だ。
そして男の鞄にこだわりすぎる。
私が見ていた感じから言うと
女が犯人だとは言い切れないが
犯人の素質は十分にあることだけは確かである。
世間にザラに見かける女ではない。
こういう機械な人物が酒場を経営し
女急に命じてお客をタックルさせ
前後不覚の客に飲み物を押し付けて売るというのが
新宿の公然たる性格なのだから穏やかではない。
タックルしてくる客がお金があろうがなかろうが構わない。
むしろお金のない方がいいらしいようでもある。
金の型に取れそうな街灯や時計や鞄など持っていればOKというわけだ。
どの店なのか定かに記憶のない人もあろうし
取られたのか忘れたのか
型に置いてきたのか前後不覚の人もあろうし
街灯や鞄ならお金を苦面して取り返しに行くだろうが
時計などだとそれなりにしてしまう。
ビール一本か二本の話で馬鹿げた話だけれども
酔っ払いというものは身から出た錆。
災難と諦める精神の持ち主でもあるから
酔って儲けた話などはないものだ。
損するものと心得て
愛の手に禁酒宣言などやってみるが
しょうこりもないものだ。
開放窃盗というのは明らかに犯罪に決まっているが
12:04
前後不覚のお客を誘い込んで飲み物を押し付けて
所持品いろいろ型に取り上げる。
山賊とか足立賀原のババアかなんかが
宿屋を内職にしてそんなことをやっているわけじゃなくて
帝都の裏玄関
劣気とした新宿の駅前マーケットの
好善たる性格だから東京にはジャングルを
あるのである。
しかしジャングルにはスリルがある。
虎や狼怖くはない。
というのはカンカン娘だけではなくて
酔っ払いは虎や狼にも相たがる。
足立賀原を招致の上で乗り込むのだから
身ぐるみ剥がれたっててめえが悪いんだ。
なるほどそうか。
しかしねえそんなことを言うと
酔っ払いが悪くて開放窃盗がいいみたいじゃないか。
どっちも悪いや。
あ、そうか。
酔っ払いというものは開放窃盗にやられても
天を恨まず人を恨まず自粛自戒して
3日間ぐらいずつ禁酒宣言などというものをやる。
誠に深くたくましき内政自粛精神と
引き続いて忘却精神と
猛善たる勇気と
色々の美徳をお金備え
あげて税金に奉仕している人種である。
我が身を考えると
よその酔っ払いを悪く言うわけにはいかないが
交番の中から眺めていると
酔っ払いというものは世話の焼けるもんだねえ。
交番の巡査を選んで話し込みに来る酔っ払いがいる。
交番の七八軒後ろの道にはパンパンが隣立しているし
あらゆる店には女急があぶれて
話しかけてくれるのを待っているのに。
そういうところには目もくれず
交番の巡査のところへ話し込みに来る。
交番に持たれて煙草をくわえてニヤニヤと
ねえ君、などと三十分も動かない
あっぱれな酔っ払いがいるものだ。
なるほど、交番へ遊びに来るのが一番安全には相違ない。
酔っ払いの無線飲食を引っ立ててきた酒場のマダムは
もうその向きがあるが。
交番へ人を引っ立ててくる人の中には
引っ立ててくる人物の方が
いかがわしい場合が少なくないから面白い。
交番を巡る神経、心理というものは微妙にこんがらがったもので
悪党に限って人を交番へ引っ立てたくなるのかもしれん。
二人のアロハのあんちゃん。
もっともアロハを着ているわけではない。
龍としたニュールックのダブル。
15:02
赤ネクタイの二人連れ。
酔っ払った労働者を引っ立てて交番へ乗り込んだ。
終電に近い頃だ。
切符を買おうとしたら
こいつがね酔っ払ってよろけるふりして
ポケットへ手を突っ込みあがってね
ほれ、ここにこれが見えるからね、不定すりだ。
腰のポケットに何やら貝物包みらしいものが覗けて見えるが
酔っ払ってひょろひょろと足元も定まらないようなすりがあるものか。
酔っ払いは怒って
何言ってやんで。よろけて触っていんげんつけやがって。
何?
アロハのあんちゃん交番の中でさっと上着を脱ごうとする。
へえ、へえ、すいません。
酔っ払いはわざとぺこりとお辞儀をして
路列の回らぬ下で
昔どこかで覚えたらしい仁義の真似事を切った。
すりの現行犯だからぶち込んどくれ。
と、あんちゃん連、すごい目をぎろりと向いて
中電に心急かされるのか、さっさと言ってしまった。
酔っ払いがすぐ釈放されたのは言うまでもない。
何のために交番へ引っ立ててきたのか。
この辺のところはまか不思議でわけがわからない。
あんちゃん方も何が何やら無意識に
ただもうアロハ的本能で行動していらっしゃるのかもしれない。
ふさっと上着を脱ぎかけたり、さっと逃げたり。
アロハ本能というもので相手が一文にもならなかったり
その場に限って自分に弱みがなかったりすると
相手を交番に引っ立てたくなるという
アロハ本能があるのかもしれない。
交番へ借金に来た代わり種もあった。
差し出した名刺を見ると
京橋の何々会社の取締役社長とある。
なるほど、叱るべき身なり。
四十ぐらいの苦み走った伊達男である。
この先生はいくらかのアルコールが回って心ウキウキしているらしいが
言葉も足腰もしっかりして、衰退は見られない。
この先生の出現は時に深夜一時
終電もなくなりさすがの新宿駅前も
まさに人影が途絶えようとしている時刻だ。
実はね私は新宿は初めてなんです。
かねて聞き及ぶ新宿で飲んでみようと思いましてね
そんなわけでこの土地に馴染みの飲み屋がないでしょう。
お館場が千円なんですが
私は現金は八百円しか持ち合わせがない。
しかし今日就勤した三万円の小切手があるから
これで釣り遅れと言ったら
釣りはやれん。小切手は困る。
現金でなくちゃいかん。と言うんです。
冗談じゃない。この小切手は横銭じゃない。
18:00
銀行さえ開いてりゃ
誰がいつでも現金に買えられる小切手ですわね。
ほらご覧なさい。
男は三万円の小切手を取り出してみせた。
私は小切手のことは皆目知らないが
不当りかどうか
勾番で鑑定の尽くしなものではなさそうだ。
しかし伊達男は苦み恥じった笑みをたたえて悠々たるもの。
小切手じゃどうしてもいけないって言うんだから弱りましたよ。
持ち合わせが八百円しかないんだから。
二百円貸しとけと言ったらそれもいけない。
馴染みじゃないんだから耳を揃えて千円払えてんですよ。
それはなんて店ですか。
さあなんてんだが。
男は口御もっている。
巡査は不思議がって。
今頃まだ営業してるんですか。
なんて店ですか。
店のものを連れてらっしゃい。
それがね、じゃあ勾番へ行って話をつけようと言ったら
勾番はいけないとこう言うんです。
あんた一人で行ってこいとこう言うんですよ。
勾番はやだてんですよ。
どうもしようがありませんや。
何か品物を置いてったら。
はあ、品物を置くんですか。
品物は置いてないのですね。
ええ、置いてやしない。
男はびっくりしている。
新宿の性格を知らないらしい。
男はやがてポケットから100円札8枚取り出した。
ほらね、ここに800円。
私の持ち合わせ全部ですよ。
すみませんが200円貸してくださいな。
妙な話になってきた。
全然辻褄が合わんじゃないか。
区切ってはいけないんですよ。
全然辻褄が合わんじゃないか。
区切っては信用できんという。
なじみじゃないから200円貸すわけにはいかん。
たった200円負けてもくれず、
貸してもくれないほど信用しとらん客を
品物どころか800円も区切っても預からずに
お供をつけずに外へ出すとはおかしいじゃないか。
この先生にしたって本当に感情を払う気持ちがあるなら
このまま家へ帰って明朝返しに来るがいい。
交番へ200円借りに来ることはありやしない。
男はしかしそんな不合理は意に返していないらしい。
区切ってお交番の机の上に置いて。
ね、区切ってお預けしますよ。
明朝銀行が開きさえすれば現金になるんですから
現金に変えてお返ししますよ。
これを型に200円立て替えてください。
交番ではそういうことをするわけにはいきません。
何あなた、個人的に一時立て替えてくださいな。
区切ってお預けしますから。
お金はお貸しできませんが感情の話はつけてあげますから
21:00
店のものを連れてきなさい。
それが交番は嫌だって言うんだから困ったな。
いいじゃないですか。200円貸してくださいな。
この区切ってお預けしますよ。
交番だから信用してお預けするんですよ。
とにかく店のものを連れてらっしゃい。
200円は店の貸しにするように話をつけてあげますよ。
そうですか。困ったな。来てくれりゃいいんですが来ないんですよ。
じゃあ何か品物を型に置いてお代わりになったらいかがです。
そうですな。じゃあそうしましょう。
男はようやく諦めた。
そして二幸横の梅雨道へ大変な慌ただしさで駆け込んでいった。
私は思わず吹き出した。
言うまでもなくみんな嘘に決まっている。
梅雨道の奥にはおそらくパンパンが待っていたに沿いない。
パンパンを拾ったら1000円だという。
ところが800円しか持ち合わせがない。
しかしパンパンは負けてくれない。
小切手を見せてもダメだ。
そこでパンパンを待たせておいて交番へ200円借りに来たわけだ。
200円借りて小切手を預けた。
200円借りて小切手を預ける。
これぐらい安全な保管所はない。
一石二鳥というものだ。
すでに飲んだ酒の感情なら800円の有金まで持たせたまま
音ももつけず外に出すはずがないじゃないか。
慌ただしく駆け込んだまま再び姿を見せなかったところを見ると
800円でパンパンを説得するのに成功したのだろう。
路上で寝ているのを拾われてきた酔っ払いが交番の前に寝せてある。
小便は垂れ流し、上半身はヘドまみれ、つまり上下ともに汚物まみれで
これなら解放窃盗も鼻をつまんで近寄らないだろう。
とても交番の中へ入れられないので前の路上へ寝せておくわけだ。
全く渾水状態でいつ目覚めるともわからない。
ちょっとした交通事故が一件あったほかは、私たちがこの交番に接したのは
もっぱら酔っぱらい扇風であった。
応接いとまなしであった。
田川博数が私の横で深刻そうり腕組みしてつぶやいた。
もう新宿じゃあノーマン。
悲壮な顔だが、禁酒宣言というものは三日の寿命しかないものだ。
さて、いよいよ上野ジャングル探検記を語る順が回ってきた。
4月15日に探検して、それから一週間も過ぎてまだこの原稿にかかっているには訳がある。
私も上野ジャングルには呆然自出した。
24:01
私が面々と我が不良の生涯をご披露に及んだのも、
かかる不良なる人物すらも茫々然と自ら失う上野ジャングルを無言のうちに納得していただこうという懇談だった。
上野ジャングルにおいて私が目で見、耳で聞いた風物や言語音響をいかに表現すべきかに迷ったのである。
読者に深い不潔感を与えずに表現し得るであろうか。
そっくり書くと気の弱い読者は大都会を催して寝込んでしまうかもしれんが、その先に雑誌が発売禁止になってしまうよ。
新宿交番が酔っ払い事件の応接に厭まなく、ただもうむやみに忙しいのに比べると、上野の森の交番は四辺新館として静まに満ち、
大人う人もなく全然のんびりしている。のんびりせざるを縁のである。
一足暗闇の外へ出て闇に向かって光を照らすと百鬼夜行、ジャングル万山百鬼のうごめきに満ちている。処置がない。
新宿は喧騒に満ち、時に血まみれ事件が起こっても番人が酔えば自らも覚えのある世界であり事件であって、我々自身の生活からの距離のあるものではない。
いつ我々が同じ事件に巻き込まれるかは知れないという心細さを感じるのである。
上野は異国だ。我々が住み生活する国から甚大の距離がある。何千リアルか知らないが、そこは完全な異国なのだ。
天下の野獣馬を持って任じる私が終戦以来一度も上野を訪れたことがないとは不思議だが、しかし私が見た上野はぶらりと出かけて見聞できる上野ではない。
ピストルを持った警官が案内してくれなければ踏み込むことのできないジャングルなのである。私は上野を思うたびにいつも思い出す人物があった。
昔銀座裏に千代産という飲み屋があった。ここに山さんという美少年の異僧狼がいた。歳は十八。
左断寺のお弟子の小山で、小山という言葉から山さんの相性とされていたが、水も滴るような美少年だ。
当人は自分を女優という、私は女優です、というのである。
男の服装はしているが心は全く女であった。私はこの山さんに惚れられて三年間執念深くつきまとわれた。
27:03
私は倒作した性欲には無縁で、つきまとわれて困るばかりだ。
しかし山さんという人物は実に愛すべき美徳を備え、歌舞伎という古い伝統の中でしつけられてきたのだから義理人情に熱く、たしなみ深く、かりさめにもはしたない振る舞いを見せない。
私につきまとうにしても歌舞伎の舞台の娘が一途に男を慕うと同じ有様で、思いつめているばかり。
踊りや長歌などの稽古にかこつけて私を訪れて、きちんと座って芸道の話をしたり聞いたり。
しかし時には深夜二時三時に自動車で乗りつけて私が出てみると、ただ肖然とうなだれていたりして、こういう時には困ったものだ。
そんな時にはずいぶん邪剣に叱りつけたり追い返したり、時には私が酔っていてひどいいたずらをしたこともあった。
深夜にやってきて、どうしても私から離れないから軟縮壁のある九州男児を呼び迎え、私はそっと抜け出して小牢へ走ってしまった。
そこから電話をかけてみると、山さん受話器にしがみついて、「殺されそうです。助けに来てください。」
まったく悪いいたずらをしたものだ。
世の荒波にじっと耐えて高貴な魂を失うことなく、塩梅の内義に対しては忠義一途。
人々に親切で思いやり深く、人柄としては世に稀な少年だった。
学問はなかったが、歌舞伎の芸で鍛えた教養があった。
その後、私が東京を去り、そのまま温心が絶えていたが、
終戦2年目、私が小説を発表し、住所が知れると一通の手紙をもらった。
戦争中は自分のようなものまで徴用されて、洗板機などに取り付き、
指もふしくれてしまったが、それでもお国に尽くすことができたと満足している。
今は誰それの一座におり、何々劇場に出演しているからぜひ来ていただきたいと懐かしさにあふれたっているような文面であった。
一度、劇場へ訪ねてみようと思いながら、それなりになっていた。
そのうち、上野の森だの断章だのと騒がれるようになり、それにつけて思われるのは山さんだ。
歌舞伎の下っ端はもともと生活が苦しかったものだが、
終戦後は別して歌舞伎の経営不振で、お給金はただのようなものだという。
30:00
とても暮らしがたたないとすれば、他に生活力のない山さんが自然やりそうなことは思いやられるのである。
上野の森のナンバーワン小山出身などというと彼ではないかと気にかかり、
断章の写真が出ているなどと聞くと、わざわざ雑誌を借りたり取り寄せたり、
その中に彼がいないかと気がかりのせいなのである。
彼の美貌というものは、とうこん騒がれている断章ナンバーワンどころのものではなかった。
水も滴る色分かしゅうであったのである。
私は、上野というと山さんを連想する習慣だったが、実地に見た上野ジャングルというものは、なんと、なんと、
水も滴る山さんと愛さること何千万里、ここは全くの異国なのである。
公園入口に百人ぐらいの人たちが群れている。断章とパンパンだ。そんなところは何でもない。
上野ジャングルはそんなところにはないのである。
山下から都電が分かれて、一本は池の方へ曲がろうとするところに共同便所がある。
あの便所が柿屋の仕事場なんですよ。と、私服の下にピストルを忍ばせた警官が指す。
柿屋?
つまりマスターベーションを欠かせるという指の商売。お客は主として中年以上の男です。
この人が、と思うような好意好感が来るものですよ。捕まえてみますとね、
パンパンを飼う常連の中にも社会的地位のある人がかなり紛れ込んでいるんですよ。
私たちは共同便所へと進んだ。
20メートルぐらいまで来るとしゃがれ声で、借り込みーとうめく声。
巡査はぱっと駆け寄って、懐中電灯を一閃。柿屋を捕まえるためでなく、現場を我々に見せてくれるためだ。
しかし、借り込みを察知されたのが早かったので、便所の入り口へ駆けつけた巡査が、懐中電灯で中を照らし出したときには、
7人の男が雲の子を散らすように逃げ出るときであった。一瞬にして八方へ散る。
ヨレヨレの国民服みたいなものを着た五十杉のじいさん、三十五六の兵隊風の男、などなど、
いずれも街頭で靴を磨いているような人たちだが、
共同便所の暗闇の中で泥靴を磨くにふさわしい彼らの手で、一物を磨いてもらう趣味家はどんな人々なのか、まるで想像もつかない。
柿屋の料金は五十円です。
と、おまわりさんは教えてくれた。
33:00
田川君と徳田淳君が付き添ってくれたが、
徳田君は、車の帰りに一度は上野に立ち寄って、ちょっとぶらついてみないと心が満ち足りないという上野通であったが、
かほどの通人にして柿屋の存在を知らなかった。
つまり、公園入口にぶらぶら群れている百人余りの男少パンパンが、いわゆる一般人に名の知れた野神で、
共同便所から池の旗の都電に沿った一帯の暗黒地帯は、ピストルの護衛がないと、とても上人は踏み込めない。
通人も踏み込めない。
ただ、命がけの大趣味家だけが踏み込むのである。
私は皆さんをそこへご案内するわけだが、ピストルの護衛付きでも足がすくんだ。
まあ、しかし可憐なところからお話ししよう。
私たちを案内してくれた警官は、天才的なほど勘の鋭い人だった。
彼の互感は研ぎ澄まされているようだ。
私がまだ何の予感もないのに、彼がにわかに暗闇の一点をパッと照らし出す。
そこに確実に現場が展開されているのである。
彼が失敗したのは柿屋の時だけだった。
彼はすれ違う女を照らし出した。
ズックのカバンを肩にかけている。
彼は無言でカバンの中を開けさせた。
この女はオオシュなんです。
上野にはオオシュのパンパンが十二名いるんです。
丸みのある顔、いかにものんびり明るい顔だ。
くったくのない笑い声。
口と耳がダメなんだということを自分の指で指して示した。
小ざっぱりしたワンピース、清潔な感じである。
カバンの中にはきちんと折り畳んだ何枚かの新しいタオル、紙、歯磨き類がきれいに整頓して詰められている。
ビタミンBの培薬とサックが入っている。
上野が安住の地なのだ。
他に生活の仕様がないのに相違ない。
きれい好きで整頓好きの彼女は、しかしのんびりとおだくの上野に身を任せている。
他のパンパン男将は群れていたが、彼女は一人で真っ暗なひっそりジャングルのペーブメントを歩いていた。
まるでお嬢さんが一人ぼっちで銀座を歩いているように。
巡査が懐中電灯を消すと、彼女は振り向いて、コツコツと静かな足音で歩き去った。
巡査はさっと身をひるがえして植え込みの中へ駆け込んだ。
間髪を入れず我々が追う。
さっと懐中電灯が照らしたところ、閉際で男女が立って仕事をしている。
36:00
光が消えた。
この巡査は思いやりがあるのだ。
刈り込みではないから女に逃げる余裕を与えているのだ。
女は塀の向こうへ逃げ去った。
男は狐につままれたような顔で、ズボンのボタンをはめ忘れてぼんやり立っている。
いくらで買ったか?
200円。
よし行けよ。ズボンのボタンをはめるぐらい忘れるな。
男が去った。
男が去った。
するともう一人義足の男がそれに続いて、
コツンコツンと義足の音を鳴らしながら立ち去っていく。
どこにいたのだろう。そしてどういう男だろう。
光で照らされた窓の中にはこの男の姿は見えなかったのである。
巡査はそれには目もくれず足元の地上を照らしてみせた。
るいるいたる紙くず。
洗浄の跡ですよ。
立ったまま仕事するほどの慌ただしさでも紙は使うと見える。
五十ぐらいの紙くずが散らかりそれがみんな真新しい。
この一夜のものだ。
靴で踏む勇気もなかった。
なおも暗闇のペーブメントを歩いて行くと歩道に二三十人の男女が立っているところがある。
その三分の二はパンパンだが男も混じっていてお客でもなければ男将でもない。
この道沿いに掘ったて小屋を作っている人たちでパンパンの営業とある種の利害関係を持っている人種だ。
巡査はその一群れの隅っこで立ち止まったが群れに目をつけているのではなく何か多くの暗闇をうかがっている様子である。
私たちも仕方がないから立ち止まる。
場所が悪いや入れ替わり立ち替わりパンパンが誘いに来るしみんな見ているし薄気味悪いことおびただしい。
佇むこと三四分。
警官身をひるがえして暗闇へ駆け込む。
我々も一塊にそれに続く。
我々の目の前に懐中電灯の光の輪がぱっと映った。
掘ったて小屋だ。
一坪もない小屋。
天井も四辺もむしろなのだ。
地面へ直にむしろを敷いてそれが畳の代わりである。
むしろの上に毛布一枚そこに一対の男女がまさしく仕事の最中であった。
仕事の傍らに五つぐらいの女の子が眠りこけている。
私がそれを見たのを見届けると警官は光を消して
男は立ち去ってよろしい。
女を支度して出てこい。
男がごそごそと這い出して去る。
39:01
ちょっとまた光で照らすと女がズロースを履いたところだ。
女はワンピースの服、ストッキングもそのままズロースだけ取って仕事していたのである。
小屋の外の暗闇に三十五六の女は
呆然と立っている。
田舎物地見た人の良さそうな女だ。
赤ん坊を抱いている。
この女がほったて小屋の主なのである。
仕事の横で寝ていたのはこの女の子供。
抱いているのはパンパンの子供。
仕事中預かったのだ。
一仕事につき五十円の間代。
むしろ作りのほったて小屋の住人は
パンパンから相当の小屋貸し料を稼いで
それで生活しているのである。
天井もむしろも雨が降ったら困るだろうと思ったが
葉の茂った樹木の下に作るから
それほどでもないということであった。
出てきたパンパンは子供を抱き取って
勘弁してくださいな。生活できないから仕方ないんです。
まだこんなことを始めたばかりなんです。
嘘つけ。三年前からいるじゃないか。
ええ。駅のあっち側で青缶やってたけど
悪いと思って寄せたんです。そしてたかってたんです。
だけど子供が生まれたでしょう。
たかれじゃ暮らせないから仕方なしにやるようになったんですよ。
たかっていたというのはもらいをしていたという意味だ。
光の中で見ると二十三歳。
美人じゃないが素直らしい女で偉大たしい感じだ。
青缶だの。植え込みの陰で立ったままだの。
よくても掘ったて子やという柄の悪いこと随一の上のだが
それだけにここのパンパンはグズで素直で人が良くて
三日やるとやめられないという
小敷のようにのんびりしたところがあるのかもしれない。
今日だけは勘弁してくださいな。
今日だけは勘弁してください。まだお金ももらわなかったんです。
よしよし今日は勘弁してる。しかしな。
巡査は私に目顔で何か聞きたいことがあったらと知らせたが
私は聞きたいこともなかった。
私たちがそこを離れると二十人ぐらいの群れが私たちを取り巻いて
ぐるぐる回りながら一緒に歩いてくる。
さては来たなと私は巣はといえば囲みを破って逃げる用心をしていると
いつの間にか囲みが解けて彼らは私たちから離れていた。
弁天様の前の公園へ出る。
42:00
洋装の女に化けた男将が巡査と見てとって
あら旦那とからかって逃げる。
後ろの方から旦那のあれ固いわね。
ひひひ。
大きな声でからかってくる。
ベンチにパンパンが並んでいて
やあやあ昨日はご苦労様と冷やかす。
昨日一斉刈り込みをやったのである。
それをうまくずらかった連中らしい。
声をそろえて冷やかす。
行く先々まだ近づかぬうちからみんな巡査の一行と知っている。
私はふと気がついた。
私たちは四人連れだったが
いつの間にか五人連れになっているのだ。
するすると囲みが解けた時
その時から実は人間が一人増えていたのである。
暗闇だから定かではないが
二十二三の若者らしい。
私たちが立ち止まると彼も一緒に立ち止まる。
暗闇のベンチに五六人のパンパンが腰掛けたり立ったり集まっている。
その前に和服の着流しの音が立っていて
僕はねえ人生の落語者でねえ
パンパンと仲良くおしゃべりしている。
三十近い年配らしい。
学者崩れというような様子。
本郷らへんから毎晩ここへ散歩に来て
パンパンと話し込むのが道楽という様子である。
趣味家がいるのだ。
命をかけても趣味を行うという勇者も相当いる。
世の中は広大なものだ。
かかる趣味家の存在によって
上野ジャングルの動物は生活していくことができる。
このジャングルの住人たちは趣味家を大事にする。
お金を譲ったり着替えを加えたりしない。
彼らが来てくれないと自分の生活が成り立たなくなるからだ。
新宿のあんちゃんは自分のジャングルへ来るお客からはぎ取るが
このジャングルは暗闇で清掃の木がみなぎっているが
大人を趣味家はむしろ無難だ。
上野で危害を受けるのはアベックだそうだ。
アベックはジャングルを荒らすばかりで
一文の足しにもならないからだ。
それにしても音に名高い上野の森でランデブーするとは
無茶な恋人同士があるものだが
常にそれが絶えないというから
やっぱり世の中は広大だ。
上野ジャングルの夜景について
これ以上書く必要はないだろう。
私が書いたのは夜景の一部に過ぎないが
いくら書いても同じことだ。
懐中電灯がパッと光ると
そこには必ずあれが行われているのだから。
45:00
音もなく光もなく。
地上で木の陰で平際でどこででも。
新宿の交番は多忙で
酔っ払いを巡る事件の応接に
てんてこまいを続ける。
ところが上野の交番ときては
音なう人もなく通りかかる人もない。
夜間通行禁止だからである。
そして交番は全然平和でのんびりしている。
しかしもしも一足交番を出て
懐中電灯を照らすなら
これまた応接にいとまもない。
とても霧がないことになるから
ジャングルの静寂をそっとしておいて
より大いなる事件の突発に備えているというわけだ。
しかし上野ジャングルの平和さから
我々は一つの教訓を知ることができる。
上野ジャングルの構成までには
ヤクザの組織、ヤクザ的ボスの手が
ほとんど加えられていない。
戦争の自然発生的な男女の落武者が
ジャングルに雑居してしまっただけだ。
上野は異国であり
我々の生活から遠く離れたジャングルであるが
そして百鬼うごめく夜景にもかかわらず
百鬼のおのずから自治によって
害して平穏だ。
漫山暗闇ながら害して平穏なのである。
ボスの手が加わらず
ボスの落武者もいないからだ。
家もなくまたはむしろの小屋に住み
自らの住む暗闇のジャングルを平穏にして
保つ異国人こそ
悲しく痛々しく可憐ではないか。
私は彼らを愛す。
彼らの仕事には目を背けずにいられないが
彼らは多分私よりも善良かもしれない。
あの山さんがそうであったように。
上野ジャングルの夜景には
まさに度肝を抜かれたが
目を覆ったえふけしさにもかかわらず
平穏だ。
ひるがえって思えば
一松の清涼なものを感じられる。
彼らが人を恨まず
自らの定めに休んじ
小さくやすらかにむしろの小屋を守り
ジャングルの平和を守っているからだ。
我がジャングルで金を揺すり
衣服をはぎ血を流している
他の盛り場のあんちゃんは下の下だ。
精神的にはこの方が異国人に相違ない。
焼け跡の多くがまだ復興していないのだから
ジャングルが残っているのは仕方がないが
上野ジャングルの方は
当分そっとしておいてやっても
我々と没交渉であり
48:00
どこか切ない意地らしさもあるではないか。
早々叩き潰す必要のあるのは
ボスとボスの作った盛り場の組織と
あんちゃんの存在だ。
1998年発行
1998年より読み終わりです。
これはなかなか厳しいテキストでしたね。
ちょっと注釈入れとかないとな。
下品な表現が含まれますみたいな。
読んでて疲れました。
それでは今日はこのへんで
また次回お会いしましょう。
おやすみなさい。