1. 月刊ねいちゃー 和炭ポッドキャスト
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2024-12-14 17:07

創刊号 「とまと狩りのねいちゃー」園長が「和炭栽培」に辿り着くまで。

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「安全安心な農産物を生産する」シンプルな言葉ですが、この言葉を実現するための農業経営は試行錯誤と試練の連続です。

北九州市若松区有毛でトマト専門店「ねいちゃーまーけっと」とお客様が自ら収穫体験する「とまと狩り」を運営する株式会社Natureが、安全安心にかける想い、農業にかける想いを配信するポッドキャスト「月刊ねいちゃー」

とまと狩りに遊びに来たお客様が自身で収穫して、その場で食べる果実だからこそ、ねいちゃー園で生産する「和炭とまと」たちの、安全性や健やかさに最大限気を配っています。

園長が、研究を重ねた「和炭栽培」で健やかに育つブランド「和炭とまと」に込めたものとは。なかなか聞けないトマト農家の本気の声をインタビュー形式で配信します。
 

月刊ねいちゃーは、福岡県北九州市若松で「とまと狩り」を営む、ねいちゃー園の園長が、農業のこと、経営のこと、ネイチャーのことについて、考えるポッドキャストです。
 

#和炭とまと #月刊ねいちゃー #農業経営 #有機栽培
#農業のはなし #自分史上最高のとまと体験 #和炭栽培
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サマリー

このポッドキャストエピソードでは、福岡県北九州市のネイチャー園の園長が、自身の農業経歴と和炭栽培に至る経緯を語ります。彼は少年時代から農業に親しみ、化学肥料や農薬のリスクを理解しながら、安全な食べ物の提供に努めています。

農業の始まりと家族の影響
月刊ネイチャーは、福岡県北九州市若松で農業を営むネイチャー園の園長が、農業のこと、経営のこと、ネイチャーのことについて考えるポッドキャストです。
和炭ポッドに至るまで。
そうですね、きっかけとか。
農業を始めたのが18歳。
18歳から。
正式に始めたのが18歳。高校を卒業してたらしい。
経緯としては、兄弟の中でも、俺はいつも手伝いをしよって。
勉強船代わりに手伝いしたら来られない、みたいな。
それがあったので、ずっとやってて。
農業を継ぐっていうのも、小学校からずっと言ってて。
高校も行くかどうかって、もう農業するっていいよ、みたいなことを言いたいと。
でも高校ぐらいは行ってくださいってことで高校に行って、高校卒業とともにずっと農業を。
夏休みとか、普通に学校帰ってきてからでも、ずっと手伝いをしよって。
農業に本当に慣れ親しんできた感じ。
そもそも何代前からずっと代々農業されてるとか。
ちょっと軽く話すと、ひいじいちゃんから一応やるようです。
ひいじいちゃんは、うちの天野というのが途絶えたときに養子で来たんですね。
養子で来て、それで天野家に入ってずっと。
ひいじいちゃん、昔のひいじいちゃん。
その前から天野家っていうのはあったんやけど、
それの2代前か1代前かぐらいに別のところからまた女の人が来て、
分家というかな。
2代前かぐらいから分家になって、そこに子供ができんって養子で来て、
ひいじいちゃんが養子で来た。
はっきりとしたのは父ちゃんの記憶の中では120年ぐらいは続いたんだろうね。
農業としては農家としては。
明確にわかるところが。本当はもっと前からのような気もするけど、そういうところです。
農業への向き合い方
農業を18から始めて、最初はどうにかしようとかっていうつもりではなくて、
高校生のときに年少1億ぐらいの農家の人の話を聞いて、
それで、父ちゃん母ちゃんに楽させてやれる農業もできるかもしれんと思って、
ちょっと農業に前向きになったというか、
勉強せんでできることしかないぐらいやろみたいなところやったけど、
なんとかすればなんとかなるのかなみたいな。
そういうふうに高校生のときぐらいから思い始めて。
農業を始めて、20歳になる前やったかな。19歳ぐらいのときに、
20歳になってからか。
それまで親の下で修行を積み上げた感じなんやけど、
一部農薬が危ないとか化学肥料が危ないとかっていう声を、
青年部とかに入ってちらちら聞くようになった。
ただうちの父ちゃんはマスクをせずに農薬かけよったり、
ご飯相撲にランニングで農薬かけよったり、
どこが危ないんやろとか、そういう興味を持って。
それでどうやったらそれがわかるのかなと思って、
興味を持ち出した。
それで、俺の師匠みたいな人に出会うきっかけがあって、
その人が電子技法をしよったんやけど、
その人もいろんな手があったりするので、
それで県内外のいろんな人のところを見て、勉強をして。
勉強というか試験よね。
いろんな比較試験。この肥料を使ったらどうなるか。
こういう水かけやったりどうなるか。
みたいな比較試験をずっとやりながら、
勉強も知識も入れて、
はっきりこの農薬がこうなる、ああなるっていうのはわかっていない。
その恐れがあるっていうことは確実にわかったので、
その中で自信を持って自分が食べてくださいって進めるようなものを作りたいと思い出して、
そういう比較試験とか研究みたいなことを始めていった。
うちの理念を決めたのが26歳ぐらいかな。
うちはこのために農業をやるんだ、みたいなことを決めて、
またそのフォーカル農業に決めていこう、みたいな意思と、
安全なものを提供するっていう、そっちが根底ない。
安全なものっていうのは、消費者のためっていうところが大きいんですかね。
ご家族を守るためとか、消費者にそれを届けたいとか、
例えば環境のためとか、どの部分が大きいとかってありますか。
大きさでいうと、いいものを作るような人たちの影響をかなり受けてるんですけど、
いいものを作るような人たちの影響は受けました。
なんでそれを作るかって言ったら、実質的に健康被害がある人たちに食べられるっていうところが大きいんですよ。
例えばトマトアレルギーがあるとか、人参アレルギーがあるとか、
もうガンで食べられるとか、そういった人たちもたくさんその中で見てきた。
その人たちが安全に作ったものが食べられる、みたいなものがあって、
自分はそういうものを作りたいということなんで。
トマト栽培の経歴
どっちかというと、その中で環境のこととかもすごく学んできたし、
でもそっちのほうがやっぱり強いかな、実際に。
ですね。
26歳で人間を作ってた時代は、その頃に設立も同時にみたいな感じなんですか。
そうですね。ネイチャーの野望をつけたのもその時代の頃だけ。
野望をつけた理由とか。
最初はごっこじゃないけど、
なんか、頑張るぞ、じゃあどうしようか、名前決めるな、
名前はネイチャーで、理念はどういうことか、みたいなのをその時期に考えて。
そちらも本当にミティのおかげで、話を聞いてくれたりすることによって生まれてきた。
一緒にそのあたりからミニファンキャストで。
うーん、そうね。
結局、安全に作るっていうのをやり直したのは、
俺が24歳で経営をもらったんですね。
結局、勉強して、ああ作る、こう作る、みたいなことを言って、
結局親とバチバチになってしまう。
1年間ぐらい、結局喋るのもよく伝えきらんし、
いろいろ見に行ったり勉強したりするのも、農業宣言で何しようか、みたいなところもありながら。
結局1年ぐらい喧嘩したうちに、お前好きにせって言われて、
言い言葉にかい言葉だったけど、俺それを拾い上げてありがとうございますって言って、
これでもう勝手にさせてもらうわって、経営を奪い取って。
これでやり始めた。
その頃からは安全な食べ物にガッツリリフトして、
2年ぐらい、3年目ぐらいまでか、無肥料で作った悪いものをよくために、結局土壌分析するんです。
めちゃくちゃ父が悪かったので。
一応環境の変化としては、その頃は病気で何か作って、3分の1、最後まで作ってた。
それで、なめくじがめちゃくちゃ多かったよね。
それが無肥料で3年間作って、それと昔肥料を使いながらずっとやってきたら、
まずなめくじが来らんかった。
それで耳ずが増えた。
それと、病気で枯れるのがだんだんと来て、たくさんの量ができる状態になった。
本当にトマトの栽培は、アマゾさんに経営変わられてからずっとされてるみたいな感じですか?
それとも以前からトマトをされてる?
以前から、トマトを。
お父さんの大学生の時から?
その時からもう2作、春チューリー秋トマトとか、春トマト秋チューリーとか、ちょっと変わりながら。
私がやり始める前までは、18からやり始めたときはもうそっちになる。
その前まではハウスでスイカを作ったんですよ。
担当ハウスというか、一個一個分かれてるハウスとか。
スイカをちょっと早めに収穫するためのハウスだったりとか。
つながったハウスに田んぼ機を入れて作れるようになった。
っていう形の作画が変わってきた。
もともとお父さんの大学生の時からはメインはトマトでされてて、
浜野さんもそれを突き継いでトマトで。
ただもううちになってから、何年目からやったかな。
30ぐらいからかな、キュウリ作らずにトマト1本にした。
なんでかっていうと、キュウリは肥料がないとどんどん育ったんだよね。
土がやっぱり痛むのにね。
なので、これに経営移ってすぐぐらいか。
20、21は立ち上げてから。
たぶん28ぐらいから、キュウリ作ると土が荒れたりする。
それでもトマト1本で。
それも偉術屋っていうのがあったので。
キュウリは評価されにくい。
でもトマトは評価されやすい。
トマトを畳めたいけどキュウリ作ると土が荒れる。
ということもあって、もうやめた。
収入が2作というか1作だけになるから。
偉術屋っていうのがあったので、
単価がぐっと上がって安定的にとれるようになったので、もう1本でいいと。
そんな形になっている。
最初の肥料でされてて、それでずっとその肥料が継続される形になっているんですか。
いやいや、今はやってるやってる。
ですよね。
ただ、今までは一般栽培をしようとしてたんですよ。
要は化学肥料をやってたんですけど、それのリスクが大きかった。
それってパウスの中ではなかなか抜けないのよ。
雨が当たらないけ。
だっけ、それを抜くために無肥料を作っていたっていう感じだったけど、
それは全然できんかった。
そうですよね。
できんかったっていうのは、肥料がないけできんかったっていうのは、
肥料のバランスが悪すぎて。
それで病気になったり、どんどんできんかった。
だいたい3年目ぐらいから成果が出だしたり、そこから肥料成分もやっぱり下がってくるので、
少し、だんだんと収量が増えてきたり、それと同時にいずつやに認められたり。
基礎としてはいずつやにやり始めたのは、
バイヤーさんがうちのトマトを5ケースぐらい冷蔵庫に入れとったんだ。
その冷蔵庫に入れとって、冷蔵庫ってこんなブレハブ型の大きな冷蔵庫になってるから、
トマトの匂いがいっぱいになってたんですよね。
今までトマトがそういう経験がなかったらしい。
それで、「なんじゃこのトマト」って連絡をしてきて、取引が始まったっていう。
それも結局、「一見取引できんけ、そういういいものを集めて取引してくれんか?」って言って、
私が組合が今までご勉強とかでいろいろダンサーを集めて後に自分で出荷するっていう組合を決めました。
このポッドキャストは株式会社ネイチャーの提供でお送りしました。
トマトのこと、農業経営のこと、ネイチャーのことについて配信してまいります。
フォローご意見お待ちしておりますぜひ 北九州市若松区有毛のネイチャー園に遊びに来て
自分史上最高のトマト体験を味わってください
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