底辺の人々について語る
おはようございます、なっちゃのです。
今日はですね、ノンフィクショナイターとボイシーパーソナリティの中村敦彦さんが、
底辺っていうのは自分を見つめてない、自分と向き合ってない人なんだっていう話をされていて、
ちょっとこれが、これがっていうか、この関連の放送がひっつけ役となって、
アンチキラっぽいブームに私の周りはなってるんですけど、ちょっと私もそれに乗っかろうと思います。
この話っていうのは、すごいわかりみが深すぎるんですけど、かつて自分がそうだったように、
自分と向き合ってないっていうのは、客観的に自分が見れてないとも言えるし、
自分の現在地が正確にわかってないんだなっていうふうに思うんですね。
現在地っていうのは、例えば田舎の小学校で勉強ができる方だったとして、
田舎の30人のクラスの1位と都会の30人のクラスの1位では、都会の方が成績がいいわけですよ。
小学校に、小学生にこれをわからせるとかそういう意味じゃなくて、
単純に現在地を理解する例として、田舎で1番でも、ここは田舎で、世界は広いから、
自分は中の上ぐらいかなって理解することができるみたいなことですよね。
でも、基本的に多くの人は自分のことを高く見つめている人が多いと思うんですよ。
田舎で1番というか、1番というのは本当にそこから東大行く人とかもいるので何とも言えないんですけど、
2番とか3番だったとして、自分はすごく頭がいいって思いたいから多分思うんですよ。
田舎で2番、3番とっていると。
でも、広い世の中になると自分より頭がいい人っていうのはたくさんいて、
自分より仕事ができる人とかもたくさんいて、自分は認められないみたいなふうに、
歪んでいって変な方向に向かい始めるんですよね。
これも中畑さんが言ってたことなんですけど、
自己啓発系が危ないというのは、それはもう私でさえ知っていることなんですけど、
変な方向っていうのがまさにその自己啓発系なんですよね。
だから本当は田舎の小学校で2番、3番の成績でした。
でも、広い目で見るとその偏差値っていうのは50とか55ですっていうふうになったときに、
本当の自分の偏差値は50なのに、
いや、あんなに頭が良かったから65くらいあるはずだとか思うから、
いや、あなたは65だよって。
素晴らしい。あなたは頭いいよ。ちゃんと通じてるよ。できる。大丈夫。
みたいなところに導かれていくんじゃないかなっていうふうに思います。
だから、ちゃんと自分の偏差値が50って知ろうっていう話なんじゃないかなって思っていて、
50って知っていれば、まずは55になるためにどういう勉強すればいいかっていうふうに考えられるんですよ。
でも、50なのに65だと思っていると、
55のための勉強が受け入れられないんですよね。
まずそこから受け入れられなくて、
だから安易に認めてくれる自己啓発系とかに行ってしまうんじゃないかなというふうに思います。
だから、そういう65だと思っている人がプライドが高いとか話が通じないとか、
全部つながってくるなって思うと、
やっぱりそういうことで、キラポエっていうのは厄介だなっていうふうに思います。
できないことはできないし、自分の可能性を信じるっていうこと自体はいいことだと思うんですけど、
50の人が60だと思って65の学びをしているって、それは可能性を信じているわけじゃなくて、
自分を過信しているだけですし、目の前が見えてないし、
インフルエンサーとかマルチ聴講とかに搾取されてるし、絶対学びはうまくいくわけもないし、
いいことないじゃないですか。
だからポエって楽しいくらいかせいぜいじゃないかなと思います。
でもそれってすごく痛々しいですよって、痛々しく見えますよっていう話なだけですよね、という感じに思いました。
まさに私が身の奥、介護職は偏差値40くらいなのに65を目指しているくらいの乖離があって、
それが気持ち悪さの正体なんじゃないかなというふうに思っています。
ということで、自分を見つめるとか自分を向き合うっていうのはどういうことなのかなということを考えてみました。
ということで終わりにします。それではまた。