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487_「めあて神話」を疑う~形式主義になってない?~
2026-08-20 10:20

487_「めあて神話」を疑う~形式主義になってない?~

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黒板に書く「めあて」、当たり前すぎて疑ったことはありますか?今回は、Xでのやり取りから生まれた「めあて神話」という言葉を手がかりに、めあて明示という指導技術の自明化・形骸化・子どもとの乖離という4つの問題を掘り下げます。次回は学術論文をもとに「価値目標」へ。

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#国語教育 #めあて神話 #授業づくり #教育ポッドキャスト #授業道

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みなさん、こんにちは。今日も明日も授業道~黒瀬直美です。この番組では、中学校・高等学校の国語教育、働く女性の問題、デジタル教育についてゆるっと配信しています。
今日は487回、「めあて神話を疑う、形式主義になっていない?」というタイトルでお届けしたいと思います。
今日から2回シリーズで、よく黒板に書く、「めあて」をあえて疑ってみる回となります。
めあて神話という言葉は、実はXでやりとりしていたフォロワーさんの投稿から拾った表現になります。
結構キャッチーでわかりやすいなと思って、今回の2回のテーマとして採用します。
これは、めあての否定ではなくて、当たり前になりすぎていないかという問い直しになります。
それでは今日も、国語教育についてゆるっと語ってみましょう。
それでは、めあて神話という言葉についてちょっと説明したいと思います。
国語の授業で、めあて、目標を明示するという指導技術が当たり前になってきております。
ちょっとここで整理してみたいんですけれども、めあてっていうのは、生徒の目標。
これとは別に狙いっていうのがあるんですけども、これは先生の目標だというふうに今回は設定したいと思います。
それでめあて神話っていうのは、研究論文の用語なんかではなくて、Xのフォロワーさんとのやりとりで私が知っためあて神話っていう、ちょっとめあてっていうものを揶揄した言葉になります。
これはそもそも多くの教室で、授業の冒頭部分に黒板へめあてっていうことを書くのがほぼルーチン化してしまっていますよね。
ルーチンが本当に学びを支えているのかっていうのをちょっと立ち止まって問い直してみましょうというようなことでめあて神話っていうのを使われています。
だいたいそのめあてを書くっていうこと自体が良い授業だという、そういうことの前提が疑われないまま流通してしまっていて、
以前からお話ししていると思うんですけれども、めあてっていうことを書くっていう形式主義に陥っていないのかということで、
提示自体をやめろという話ではなくて、本当にめあてを黒板に書くというのがちゃんと機能しているのかどうか疑ってみましょうよっていう、そういう回になります。
じゃあね、めあてっていうことの黒板に冒頭部分に書くっていうことがどういう問題点があるのかっていうのをちょっと4つAIとキャッチボールしながら整理してみました。
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まずめあてがあるということが当たり前化してしまっているという、いわゆるネタバレ問題です。
教員が最初にめあてを提示してしまって、もう生徒はこの授業がどういう意味付けがあるのかっていうことを考えていないという状態を生み出すという、いわば思考停止状態になっているんじゃないかと私は思うんですよね。
でも小学校とか学力的に厳しい生徒実態ではめあてがはっきりしている方がとても有効に働くということもあります。
そのあたりは発達段階も考慮する必要があると思うんですけれども、めあてを書くことによってもうすでに問題を与えられてしまっている、ネタバレになっているという、そういう問題があると思います。
2つ目に形式化してしまっているという問題。
もう授業で学習の見通しを持たせるっていうことが形式的にペタッと貼り付けられるように同じような言い回しで提示されてしまっていて、めあてっていうことがコピペ問題、コピペされた形式化されたものに陥りがちだという、そういう問題があると思います。
確かにどの授業でも似たような文言がコピペのようにちょっと形を変えて形式化されたものが貼り付けられるだけになっているという、そういうふうなことをどうしても私は目にしてしまうんですけど皆さんいかがでしょうか。
それから3番目に子どもたちの内発的動機づけからちょっと離れてしまうという問題があると思うんですよね。
子ども自身の学びたいっていう内発的な意欲と、それから先生がペタッと形式的に目標を提示するということでやらされ感が助長してしまうんじゃないかということで主体性が育ちにくいんじゃないかなというふうに思うんですよ。
学習指導要領で主体的対話的な深い学びっていうふうに歌いながら目当てをペタッと貼り付けたら途端に内発的な動機づけが減退していくという、そういうねじれ現象が起きていると思っています。
それから4番目に本当に深い学びになっているかどうかっていう質がなかなか問いにくくなるということです。
目標と評価を一体化させるっていうことで測れるものを目標にしがち目当てにしがちだからスキル中心になっていることが多いと思うんですよね。
だから達成できたかどうかっていうことを非常に重視されるようになって測れるものっていうのが目当てになって深い学びっていうところにフォーカスしにくくなっているとそういうふうな罠に陥っているように思います。
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ということでこれからのどういうふうに向き合っていくかっていうことを考えていきたいと思うんですけれども、
目当てを書くっていうこと自体はやっぱり小学校とか学力的に厳しいっていう生徒実態教室実態では効果的に働くことはあるっていうふうに思うんだけども、
目当てを書くっていうことが無批判に受け入れているっていうんじゃなくてちょっと疑ってみてそれで常に問い直す姿勢が大事だと思います。
一つには先生の言葉じゃなくて子供の言葉で目当てを立てるという言葉ことが大事だし、子供自身が抱くという目標設定にするということが大事だと思っています。
だから結局私は大前提として目標の二重構造過論というものがとても大切になってくると思っています。
授業者が考えるっていうのは指導目標。これは国語の読む聞く話す書くっていう技術が達成できたかどうかですね。
例えば比喩表現を通して登場人物の心情を読み取ろうとかそういったものが指導者の目標になってくると思うんですけれども、
学習者の目標はそうじゃなくてこの登場人物の言動がなぜこういうものになったのか、なぜ心が変わったのか、なぜここで涙を流したのかということ。
つまり自発的な問いっていうのを生徒の方に持たせてじゃあこれ解決しようかといった時に手がかりとして文章表現、例えば比喩表現、
これを根拠にして登場人物の心情を分析していくということがあるべき姿だと私は思うので、
まず生徒のなぜこの登場人物つまり他者自分ではない他者が涙を流すのかということを生徒がちょっと考えたいなって思う自発的な問いを大切にして、
それを分析して読み解いていく過程で比喩表現というものが手がかりになるんじゃないかということを発見し、
それを根拠にして読みを深めていくとやっぱり確実に登場人物の理解に行き着くっていう、そういうのが本来のあり方なんじゃないかと私は思っているわけです。
それをいきなり目当てに登場人物の心情を比喩表現を手がかりにして読み取ろうという、
そういう目当てにして経時してしまった場合、完全にネタバレで思考停止に陥るんじゃないかと思っているんですよ。
これは私が高等学校での指導歴が長いのでそういうことになるんじゃないかということもあるんですけれども、
小学校や中学校では目当てを提示した方がいい場合があるというふうにお伺いしたことがあるんですけれども、
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その目当てが本当に生徒の思考を深める目当てになっているのかネタバレになってはしないかということを考えていかなければならないと思っています。
ということで今回は黒板に書く目当て、これが形式化に陥ってしまってあるいはネタバレに陥ってしまって、
この指導技術というのはどうなのかというのをあえて立ち止まって疑ってみませんかという回でした。
目当てを書くこと自体が悪いのではなく、その中身を問い直していく姿勢が大事ということを私は言いたかったわけですけれども、
次回では佐賀大学立田徹先生の論文から勝ち目標という言葉との関連から目当て神話というものを考えていきたいと思っています。
感想やメッセージは概要欄のメールフォームからぜひお寄せください。
それでは今日の配信はここまでです。聞いてくださりありがとうございました。またお会いいたしましょう。
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