こんにちは、スターシード気功師のイクコです。
Vlogラジオを改め、おしゃべりラジオとお名前を変えてみました。
Vlogというほどね、あんまり最初こそしておりましたが、
そんなに頻繁に収録して配信っていう風にしていないので、
ただのおしゃべりラジオにしてみました。
今日は3月11日です。火曜日。
今は、お庭から配信をしています。
お庭にね、ピクニックマットを敷いて、犬たちと一緒に外に出て、
この外でね、気功の練習というか気を回して、本を読んだりして、
あ、そうだ、ちょっとおしゃべりラジオね、しようかなと思って、
今こうやって収録をしています。
今日はちょっと曇りがちですけれども、穏やかなお天気で、
周りではね、鳥の声とか聞こえてるんですけど、
マイクに入るかちょっとわかりませんが、気持ちよく収録をしています。
今日は東日本大震災から14年になりますね。
今もまだ2万人以上の方がね、避難生活を送っているというのをニュースで見ました。
私はね、あの日のことをブログなどにね、今まで書いたりとかしてたんですけれども、
こうやって音声にね、残すということをしてなかったので、
80年後の私がね、脳内が健在で覚えていたらいいんですけれども、忘れちゃっていることもあるかもしれないので、
音声にね、残してみようかなと思って、こうおしゃべりをしています。
私はですね、14年前の震災があった日、東京に住んでいました。
長女が六本木にあるアメリカンスクールのね、幼稚園に通っていて、
長男は赤ちゃんではないですけど、2歳、3歳、そのぐらい、2歳でしたね。
で、その時はね、幼稚園が終わって、幼稚園ね、学校が終わった後に、幼稚園内でピアノの教室があってね、
で、長女はその当時ピアノをやっていて、ピアノのレッスンをね、ちょうど受けている時でした。
で、私はね、同じ教室内で端っこでね、椅子に座っていたんですけれども、
あ、地震だって思ったところからね、だんだんだんだん大きくなって、
ああ、ああって思ったんですよね。
そしたら、あの受付の人がね、パッと来て、あの、外に出ましょうって言って、
慌ててね、外に出るのは危なかったと思うんですけど、揺れがまだね、収まる前に、
外に出ましょうって言われて、ピアノの先生とね、娘と一緒に外に出た記憶はあります。
その間にね、揺れが収まったのかな、と思うんですけれども、
本当にね、そのアメリカンスクールの幼稚園、アーリーラーニングセンターって言うんですけれども、
六本木ヒルズの中にあるっていうかね、六本木ヒルズのあの、大きいビルの中ではないんですけれども、
六本木ヒルズにはいくつかビルディングがあってね、その一つのビルの中にあるんですね。
で、幼稚園の上は住宅になっていて、そこのマンションに住んでいる人とかもいたんですけれども、
ロボット公園っていうのがね、ちっちゃい公園なんですけれども、そのビルの合間にありまして、
そのロボット公園にね、避難したんですよね。
で、避難している時にも、余震がね、結構続いていたし、その本心の余韻だったのかわからないんですけれども、
なんかね、ビルが、目の前にあの大きいね、六本木ヒルズの丸っこいビルがあるんですけど、
それが、音は立ってないんですけれども、なんかね、ギギギギギっていう感じで、左右にね、ゆっくり触れてるんです。
で、そういうね、構造になっていたんだと思うんですけれども、そのビルの向こう側に見れてるビルと、
交差、ビルが交差するような感じで揺れていて、それをですね、みんなで見ていて、
あ、なんか先生がここって安全じゃないかもって、それを見てね、おっしゃったんですよね。
その時のね、揺れで六本木ヒルズのあの大きいビルは、最大でね、一番上が25メートル横に揺れたそうなんです。
ビルが25メートル揺れるんですよ。すごいですよね。すごい移動ですよね。
それを結構間近で見ていて、わーって思いました。
で、その時、東京は震度5弱で、まだね、携帯電話がスマホではなく、ガラケーだったんですよね。
で、もちろん情報が全然なく、震源地とかもね、一切わからず避難してて、
震度5弱の地震というのは、私の人生の中でも一番大きな地震でしたね。
で、震源もね、近くなんだろうなーって、なんか勝手にね、思っていました。
で、しばらくしてから、あ、使ったことがなかったんですけど、そのガラケーで、ワンセグっていう機能があって、ワンセグっていう機能を使うと、テレビがね、見れるんですよね。
で、あ、そうだ、テレビが見れるんだったな、確か。
と思って、携帯を開いて、そのワンセグっていうやつを初めて使ったら、それを見た時に、
あ、震源が東北の方で、しばらく経ってたので、もうね、津波が来てた時だったんですよね。
で、津波の映像が流れてきて、すごい衝撃を受けました。
子供もね、一緒にいて、その当時、私の娘は、ちょうど5歳くらいだったのかな、5歳、6歳になるくらいで、
娘にね、その映像を見せたか見せなかったのか、ちゃんと覚えていないんですけれども、
他の娘の学校のね、同級生のお母さんとか、そのビルに住んでるお友達とかがいたので、ちょうどそこで一緒にいて、
どうだったのかな、東北の方ですごい大きい地震があって、津波があったみたいっていう話をして、一緒に見たのかどうか、ちょっとよく覚えてないですね。
その公園には、2時間近くそこにいたと思います。
なんか寒かった時だったのか、そんなこともあんまり覚えてないんですけれども、3月だったので、ちょっと暖かくはなってきているものの、
でもやっぱ寒かったのかな、なんか衝撃がね、やはりその映像の衝撃とか、地震があって避難している、
なんかそういう興奮というか、アドレナリンがパーッと出ている感じっていうかね、あんまりその寒かったとかは覚えてないですね。
いつもね、娘を送り迎え、車でね、しているんですね。
当時、渋谷、大海山、新瀬、あのあたりにちょうど住んでいたんで、車でだいたい15分くらいで、ロボンギヒルズまで行けたんですね。
そしていつも、車を駐車するところは、なんていうかこう、コインパーキングっていうかね、そういうところが一番近くて、学校から。
で、そこに止めることが多かったんですね。
で、そのコインパーキングっていうと、普通の一般にあるコインパーキングと同じように、車輪を動かせなくなる、
こう、わかります?機械で、車輪止めみたいのがビーンって上がって、で、車が出せなくなるんですけれども、
たまたまその日は、たぶん娘を迎えに行く前にちょっと用事があって、
で、その大きいロボンギヒルズの森ビルの地下の普通の駐車場、そういうコインパーキングみたいのじゃなくて、普通の駐車場に止めていたので、
あ、車が出せるって思って、で、みんなだんだんこう、解散をしていく形になっていたので、森ビルの方に行って、
で、まずね、電話がやっぱりつながらなかったんですね。携帯電話が。
で、私の夫は当時、日本橋の方に会社があって、私は娘のピアノにいたんですけれども、息子が自宅でお手伝いさんと一緒にいたんですね。
で、お手伝いさんにも連絡がつかなくて、あ、なんか連絡を取らなきゃいけないと思ったので、森ビルの中に公衆電話があって、
公衆電話にね、全然人が並んでなくて、そこの公衆電話から夫に電話をして、
で、夫に電話をしたら、つながって、僕はもうこれから歩いて帰るっていうことでした。
で、お手伝いさんにはつながらなかったんですけれども、その当時住んでたマンションっていうのがね、ちょっといいマンションで、
コンシェルジュがいたので、そのコンシェルジュデスクに電話をしたら、つながって、
息子さんはお手伝いさんと一緒に、今ロビーの方に避難していますので、大丈夫ですっていうお話をいただいて安心して、
私自身は東京にいたので、自分の自宅にも帰ることができたし、安心と言えば安心でしたね。
水が止まったりもしませんでしたし、停電にもならなかったですね。
なので、特に家にいる分には何も心配はなく過ごしていたんですけれども、
福島の原発の事故があったということで、たくさんの情報が動作をしまして、
うちの夫はアメリカ人で、大使館からの連絡などがもう来ていましたね。
で、やはりその放射能の問題っていうのを、大使館の方からすごく心配視されていて、
翌日にですね、すごく対応が早くて、アメリカ大使館からアメリカ政府がチャーター便を用意して、
アメリカ人脱出計画みたいなのがね、もうあれよあれよという間に進みまして、
私はね、あの日本人だったので、家族もね、東京にいましたし、近郊にいましたので、
なんか家族を置いてっていうのがあったものの、子供たちを連れてね、翌日羽田から飛行機に乗って、
アメリカに行くことが決まりました。
なんかあの時は、すごく本当に複雑な気持ちがありましたね、私自身ね。
みんなを置いて、特に被害があるわけでもない、なんか自分だけ逃げるってどうなんだろう、みたいな気持ちになっていました。
ただね、子供たちのこともあるし、その時のこと、親とか兄弟はどういう気持ちだったのかっていうのを、そういえば聞いてないなぁって思うんですけれども、
今、カナディアンギースがね、ガンの群れが飛んできました。聞こえたかな?入ったかな?
その時、家族がね、どういうふうに思ったかどうかはわからないんですけれども、
まあもちろんね、親には伝えて、で私たちはそのアメリカ政府がチャーターした飛行機っていうのも、本当にいろいろあったのだと思うんですけれども、
あの夫のね、実家があるミシガンの方に行くことになって、もうお母さんも急遽ね、だったんですけれども、もちろんウェルカムしてくれて、受け入れて、
すぐにね、私たちはもう空港にね、お迎えに行くから、何も心配しないで来てねっていうことで来ました。
で夫はですね、会社の雑務っていうか、それぞれの、なんか会社でやらなきゃいけないことがあったので、
日本に少しの間残って、で彼はあのシンガポールの方にね、行きました。
でシンガポールの方にもオフィスがあるので、まあそこで仕事をするっていう感じだったんですね。
でアメリカに、やっぱ翌日行くっていうことで急にね、準備をして、夜もね、なかなか寝られなくて、ビルの外を見るとね、もう人々がずっと歩いているんです。
おいでね、こっちよ。
空港に着いて、アメリカの全国テレビのね、クルーが待ち構えていて、取材を受けたんですね。地震ではどうだったかとか、東京はどういう様子だったかとかね。
でも東京ってもう本当被害なんてなかったんですよ。電車が止まっちゃったとかね、そういう公共交通機関が止まったぐらいのことで、
まあ放射能のことはね、わからなかったけれども、これっていう被害がない中、私あの子どもたちを連れて避難して、
で、こんな取材を受けてて、なんかすごく自分がなんか恥ずかしいっていうか、なんか申し訳ないっていうか、罪悪感みたいなね、気持ちになったのをすごく覚えていて、
その罪悪感っていうものは、結構長いこと引きずっていました。
で、アメリカにね、滞在している間、3週間ぐらいアメリカにミシガンにね、夫の実家にいたと思うんですけれども、
アメリカ人って優しいなって思うことが本当にあってね、私たちが買い物とかにね、お母さんとかと一緒に行って、
で、当時ね、アメリカの車の免許なんか持ってないですから、日本に住んでいたし、
いつもね、お母さんがどこかに連れてってくれて、お散歩とかね、公園にね、子どもたち遊ばせるために連れてってくれたりとかしてたんですけれども、
あ、リスがいてね、犬がリスに吠えてます。
そう、それで私たちが、私は子どもにね、日本語で話しかけているので、私が違う言語でね、話しているっていうのをパッて見て、
あなたどこから来たの?って声かけてきてくれたりしてね、で、日本から来ましたって言ったら、
皆さんね、もう私たちも日本のために祈っていますって、大変でしたねって、これからもね、日本のために祈りますって言って、
なんかアメリカにね、来てくれてありがとう、みたいな声をね、皆さんかけてくれるんですよ。
なんかこれが反対の立場だったらね、どうなんだろうって思ったんですよね。
なんかこんな、そんな風にしてさ、アメリカの人たちにね、声をかけてもらってね、日本のために祈ってますなんて、そんな言葉をいただけるなんて、考えてもみなくてね、
私、自分が反対の立場だったら、あ、あの人ね、どっから来たんだろうと思っても、多分声とかかけなかったかなって思うんです。
なんか、なんかいいなって思って、そういうのが。
リスが来ました。でかい。お母さんリスですね。
そんな感じでしたね。でまぁ、3週間ね、アメリカにいる間、夜寝れなくなったんですよね。
夜寝れなくなって、なんで寝れないんだろうって、ふって気がついたのが、自分がね、やっぱりニュースを追いかけてるんです。
ニュースを追いかけていて、それで神経がやっぱり過敏になってね、寝れなかったんですよね。
ニュースを見すぎてはいけないっていうのに、気がついて、ニュースをあまり見るように、見なくなってから、寝れるようになりました。
そんな感じで3週間ね、まあ過ごして、でですね、子どもたちがアラームの音にやっぱり敏感になってました。
あの緊急アラームが携帯で鳴るじゃないですか。で、ガラ系だったけど、当時もやっぱり鳴るんですよね。
で、そういうアラームの、いろいろなそういう電子音みたいのにすごく敏感になっていて、
アメリカに滞在中に買い物とかに行った時にね、アラーム音ってことじゃないんですけど、ちょっとお知らせみたいな音?
ショッピングセンターの中とかで人を呼び出したりするような時のアラーム音が、あんまり覚えてないんですけど、ちょっと警報の音に似てたのかな。
すごい怖がってね、子どもたちが。で、街中でちょっと車の警報音っていうか、そういうのが聞こえたりとかすることにもすごく敏感になっていたのを今も思い出しますね。
いつの間にかね、なくなったと思うんですけれども、そういうのがありました。
で、3週間過ごして日本に帰って、いつ頃から学校が再開したのかちょっとよく覚えてないんですけれども、
幼稚園もしばらく閉まっていたかな?戻った時もまだアメリカンスクールは閉まっていたと思いますね、1ヶ月ぐらい。
もしかしたらもうちょっと閉まっていたかもしれないですね。
で、学校が再開して戻ってからも、学校に戻ってきてないお友達結構いました。
で、特に大使館に勤めていた家族ですね、のお子さんは戻ってきませんでしたね。
フランスの大使館にいた方も戻ってこなかったし、アメリカ大使館にいた方も戻ってこなかったです。
戻ってこなかったらね、家とかってどうしたんだろう?とか思っちゃうんですけど、
たぶんね、あの同僚とかがね、そういう引っ越しの手続きとかしたんでしょうね。
だからそのままになっちゃったね、お友達もいました。
まあ私たちの家族もみんな普通にね、暮らしてますし、思い返せばね、放射能動向とかありましたけど、
普通に生活に戻りましたよね。
東北の方の本当被災された方たちは、今も大変な方たちがいっぱいいらっしゃって、
もうできることといえばね、本当寄付をするくらいのことしかできないんですけれども、
しばらくね、私思ってたそういった、そんな大変でもなかったのに、
避難をした、国外に避難をしたっていうことに対する罪悪感みたいなものは、もうしばらく持っていて、
そうですね、コロナの後にやっぱ気候を始めて、自分のエネルギーとかね、自分自身の内側と本当にこの向き合っていく、
そういった中で、やっとやっと手放すことができたっていう感じでした。
なのでもう10年ぐらいはね、持っていましたね、そういった罪悪感を。
今はね、思い出すと、ちょっとその時の気持ちにリンクするので、うんってありますけれども、