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2025-01-12 18:02

心はフラット

#声日記

「心はこうして作られる」ニック•チェイター

「サピエンス全史」ユヴァル•ノア•ハラリ

を同時に読んで頭の中が楽しいことになっています。

サマリー

ポッドキャスト『心はフラット』では、ニック・チェイターの著書『心はこうして作られる』とユバル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』について語られ、人間の思考プロセスや社会の虚構の重要性が探求されます。心が即興で作られることや、虚構が国家や社会を支える要因であることが理解されます。また、会社での目標設定に対する考え方やその難しさについても探求されています。帝国モデルとサブスクモデルの対比を通じて、組織での目標設定の多様性が浮き彫りにされています。

心の作られ方
どうも、なにがしかのラジオです。今日もあまり役に立たない話をしていこうと思います。
えー、今読んでいる本なんです。相変わらず、心は押しで作られるニックチェイターという本を読んでいて、
それと同時にサピエンス全史、ユバルノア・ハラリ著を同時に読んでいて、同時に読んだらヤバいことになっていますという話をしたいと思います。
面白すぎてヤバいことになっています。
なんか、本を読んで知的好奇心が満たされまくって、じゃあこれこうなのかな、じゃあこういうこと?みたいな色々考えまくって、めっちゃ楽しいっていう経験をしているので、久しぶりだなと思って。
せっかく色々考えたので、ちょっと喋ってみようかなと思います。
1個目の心はこうして作られる、原タイトルはThe Mind is Flat、心は平らであるみたいなタイトルなんですけど、
心はフラットっていうタイトルの方がこの本の内容をよく表していると思うんですけど、
この本で書いているのは、人が物を考えるということはどういうことをやっているのかっていうのを、よくよく心理学の実験とかをしながら突き詰めて考えていくと、
心の内側に元から信念とか動機とかあるいは感情みたいなものがあって、それを解釈して言葉にしたり判断したことを喋ったり行動に移したりしていると我々は思いがちなんですけど、実はそんなことはなくて、
私はこう思うとか、あれがしたいとか、あれをするとか、これがいい、あれが嫌だとか、そういうことを考えるのは全部その場で作っていると、即興していると、
こっちをやりたいと考えた後にその理由を即興していると、心の中にもともと理由がすべてあって、それを考えた結果、私は今日何を食べたいですって言っているというふうに思いがちだけど、実は逆かもしれなくて、
今日カレーが食べたい、なぜなら昨日食べたやつがおいしかったからとか、冷蔵庫にこれがあるからとか、そういう理由を後付けで考えているみたいなのが本の内容の一つで、それを頭に置きながら例を一個挙げますと、
今年、例えば1月なので、今年の目標をどうしようかなみたいなことをよく考えるし、ポッドキャストとか聞いていても、いろんな人が去年一年の振り返りどうでしたかとか、今年一年新しい年はどういう年にしたいですかとか、いう話をすることはありますよね。
そういう時にどういうふうに今年の目標とかを考え出すかということをちょっと解像度を上げて考えてみると、一年といってもぼんやりしているので、そこに何らかの意味とかストーリーを与えていると思うんですよね。
今年は真ん中辺にこういう大きな予定があるからとか、決まっている予定があるからとか、自分は今年も今会社でこういう立場だからとか、子供がいるからとか、親だからとか、学生だったら今年は大学の何年生だからとか、
いうようなことを考えることで、ぼんやりした一年というぼんやりしたものに対して意味合いを与えていき、そういう一年がどうあるべきか、あるといいかというのを考えることができるというような思考プロセスをたどるようになると。
これってこの本でもよく例としてあげられるんですけど、騙し絵みたいなものがあって、白黒の絵でウサギにも見えるし老人にも見えるような絵があって、その白黒の線画に対してこれはウサギの絵だとか、これが老人の絵だというふうな意味合いを与えると。
あるいは人が書いた文字、ぐちゃぐちゃな手書き文字を解読するときに最初はネズミのようなぐちゃぐちゃな文字だけど、これを何回か見ているうちにこれはひらがなのなんていう字だ、みたいな意味合いを与えると。
ただのぐちゃぐちゃな線にそういう意味を与えると。そういうプロセスを脳はずっとやっていると。文字を読んだりするときもそういうプロセスをやっているし、今年一年どういうふうにしようかなというふうに考えるときだってそうやっているし、あらゆるときにそういう思考プロセスを動員して物事を考えていると。
ということが書いてありますね。他にも例としては将棋の盤面なんかで、将棋の素人にとっては何の意味もないランダムにコマが配置されたように見える盤面でも、ある程度の将棋の力がある人にとってみたら、この局面はこの地点が攻められているからここを守らないといけない局面だなとか、
このコマを取れそうだからこのコマを取ると有利にできるぞとか、これはもう実は積んでいる局面だなとか、そういう意味を与えることができると。そういう意味を与えることこそが人の思考プロセスであると。
このごちゃごちゃした複雑な現実に意味を与えていくことこそが人の思考プロセスであるという話が、今読んでいる1個目の心はこうして作られる、The Mind is Flatでした。
虚構の力
もう1個同時に読んでいるサピエンス全史、こっちの一番大きな主張は、人はなぜ、もともとアフリカで細々暮らしていた猿が猿の一種だったわけですけど、別に他の動物に対して強かったわけではない。
何なら他の肉食動物に食われたりすることもあったし、数もそんな多くなかったし、でも今や同じ遺伝子を持った同じ種が食物連鎖の頂点に立っている上に、他の動物の方法をコントロールしているし、地球環境すらコントロールしている。
なぜそうなったのか、それを解く鍵は虚構にあると。
私たちが当たり前のように信じている国家や国民、企業や法律、人権や平等といった概念も虚構であって、虚構こそが集団を協力に導く、協力というのはコーペレーションに導く。
それが可能になったから、人の集団が力を発揮して反映することができているという本で、これってまさにさっきの本で読んだ、あやふやな、ぼんやりした現実に意味を与える。
例えば、自分というものが何かと考えてもぼんやりしたものなので、それだけだと捉えどころがない。
それを日本人ですとか、会社の社員ですとか、研究者ですとか、エンジニアですとか、親ですとか、子ですとか、男ですとか女ですとか、そういうふうに意味を与える。
大体のそういった意味合いは虚構である、虚構というのはもう決め事である。
人類が発明したこういうルールというか、枠組み、秩序、想像上の地図、実在はしない。
書類の上とか概念の上で存在している秩序である。
だけどそれを与えることでまとまって動くことができる。
社会が安定するし、人同士の争いも減るし、効率的に動けることができるし、経済も回るし、戦争も起きないし、そういったことで反映しているというような主張です。
思考パターンの変化
どちらも、このサピエン選手も世界自然体をこのテーマの下で見直してみると確かにそうだなという話がありました。
人が物を考える時のプロセス、パターンとそういうパターンで物を考えることができる生き物だったからこのように反映したという主張をしているサピエン選手と両方同時に読んで、なるほどそうだなと思い至った次第です。
いやー面白いです。
じゃあ何なんだみたいな話なんですけど、でも最近これでいろんな物事を、これは想像上の秩序なんだなと、つまり虚構なんだなと、あれもこれもそうじゃん、こういう思考パターンじゃん、あれもこれもこういう思考パターンじゃん、いろんな身の回りの物事の見方が変わってきてですね、面白いなと思っていて。
その例の一つを上げてみると、会社とかで年度ごとに目標設定ってするじゃないですか、だいたい上司とワンオンして、じゃあ今年の目標これでいきましょうということを話すんですけど、私あれすごい嫌で、いつも苦痛で、時間の無駄だなと思ったりするんですけど、
上司からするとこういうことやってほしいと、私からするとあんま無理な目標を立てたくないと、そのパワーゲームであって、力の引っ張り合いであって、最終的には別に上司の方が決める権限があるんだから、私にやってほしいことを勝手に目標として設定すればいいじゃんと思うんで、ワンオンなんかしなくても向こうから一方的に与えてくればいいじゃんと、
じゃあこのワンオンの時間何なんだといつも思いながら目標設定っていうのをやってたんですけど、そういうの毎年やってるので、なんで私こんなにワンオンが嫌なんだろうっていうのを毎年考えてたんですけど、
これって会社での仕事という取り組みに対して意味を与えようとする活動、取り組みですよね。
今年の仕事、会社での仕事はこういうゲームのルールでやりましょうと、こういう条件クリアしたら勝ちだという、こういうの達成したらクリアだというようなゲームとして、
今年の仕事を捉えましょうという、そういう物語、曲を一緒に設定しましょうねという会なんだなと認識しましてですね。
ただそれはそうなんだけど、それって結構難しくないと思って、物語を与えるのはいいんだけど、絵をこれはウサギだと思っている人とこれは老人の絵だと思っている人が2人いて、
あるいは別にウサギでも老人でもないと思っている人がいて、その人たちが話し合って、これはウサギだねって納得することがあるか、納得するプロセスってどういうもんだと思ったりしてですね。
どっちかどっちかに譲るということしかないのではと思ったりして、そういうふうに捉えると新たな問いとして、話し合いでこういう曲をとか、その人が物語として物事を認識するとして、
話し合いでこの物事はこういうストーリーとして捉えたらいいねっていう一致点を見出せるものなのかなと思って、
誰かがこれはこうだよって言って、まだ誰もそういうのを考えたことがなかった人に対して説明して、ああそうだねって納得させるっていうことはすごいよくあると思うと。
あるいはこれはウサギだと思っている人とこれは老人だと思っている人がいて、そこに第三の説が出てきて、これは第三の説だよって言って、両二人とも納得させる何か、もっと強力な物語を提示し、ああなるほどって二人ともなると、そういうプロセスがあればいいのか、そうかもしれない。
相当難しくないと思った次第ですよね、でもそういうのって。
組織運営のモデル
今までよくあるトップダウンで力の強い方が、この会社の場合でいうと上司が、今年の目標はこれだから、今年は売上立てていかないといけないから、これだけの売上にしていこうねみたいなのを目標にするとか。
あるいはベンチャー企業でも、ベンチャー企業だと会社のビジョンに納得するような人しかそもそも採用しないというゲートコントロールができているから、ある意味この経営者のビジョンをトップダウンで浸透させるということがあるよね。
これをサピエンス全史の用語を借りると、帝国モデルということができると。
だいたい帝国モデルで目標設定って行われるものじゃないのかなと思ってはいるんだけど、違うのかな。
私はこういうものしか知らないけど、世の中には他の館があるのかもしれないな。
もう一個他にあるとしたら、そもそも統一したビジョンを持たない、それぞれ勝手にやる。勝手に今年の目標をそれぞれ立てる。
立てつつ、組織が崩壊せずにちゃんとまとまって活動できるようにするためには、
みんなそれぞれの目標を追求するんだけど、最低限これだけの貢献は組織に対してしてくださいねと。
税金を払うみたいな。あるいはサブスクの公独料を払うと。サブスクモデルと呼んでもいいかもしれないが、
組織維持のために必要な最低限の義務を果たすという認識でやっていくというやり方もあるよねと。
これサブスクモデルと呼ぶと。帝国モデルとサブスクモデルというのが思い浮かぶわけだけど、
他のやり方はあるのかなと思ったりして生きています。
今回はちょっとそこいうことまで考えたよというだけですね。
特段オチのない話ですけど、今回もここまでにしようと思います。
では。
18:02

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