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みなさんこんばんは、内省るうむ。このチャンネルは、息をするように内省している私もみじが、今、自分の内側にある思いを言葉に出してみようという試みで発信しております。
今日はですね、自己犠牲のマインドはどこから作られてくるんだろうというテーマでお話ししてみたいと思います。
これを話そうかなと思ったきっかけは、私と夫はですね、毎朝朝ごはん朝食の時間に日本のアニメを見るんですよ。毎日、ほぼ毎日必ずですね。
夫がね、日本のアニメめちゃめちゃ好きで、もう仕事をね、多少遅刻してでも必ず1話か2話は見てから出社するっていう。
これね、もう出会う前から、私、夫と出会う前から彼はもうずっとそれでスタンス。すごいですよね。なんか遅刻しても別に構わない。
なんて言うんだろうな。そんなに大きな、そんなに問題にならない会社、職種っていうのもありまして、彼はね、必ず見るんです。
で、その中でね、私も横で一緒になって見るわけなんですけれども、すっごくね、僕が何々だったせいでとか、僕が我慢すればとか、そういうニュアンスの言葉をね、結構主人公だったりとか、
わき役のグループのメンバーだったりとかが、そういうふうに言って、話、そういうシーンっていうのがね、まあちょくちょく出てくるんですよ。
また出たな、また出たな、みたいなね。全部僕が悪いんだとか、なんかそういう、そういうのはね、もう本当多いんですよ。で、また出たなってなるから、夫もね、そのシーンになったら、私の夫は別に日本語話せないですよ。
でもね、そのシーンになったら、主人公とかがまたそういうセリフとか言う、そのフレーズだけはね、めちゃめちゃ上手にマネスできるんですよ。発音できるっていうかね。
なぜならもう、毎回のようにっていうか、毎回のようには言い過ぎか、でも、まあどのアニメにもそういうシーンは出てくるっていうか、しょっちゅうですよね。出てくるんですよね。
で、まあ今ね、私が暮らしているフランスとかって、まあ自己犠牲マインドって、まあ珍しいので、そういうコメントだったりとか、そういうムーブをする人に出会うことって、まあほぼほぼないんで。
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まあ多分夫にとっても、「え?」っていう、「あ、これ来た!」みたいなね、ちょっと目につくんでしょうね。で、私もこっちに暮らしてもう20年近く経つので、なんかね、私が日本にいる時とか、後は子供の時とかに、私は子供の時によくアニメを見ていたんですけれど、
その時にはね、そんなに気がつかなかったんですよ。そんなにこう、自己犠牲とか、自分を置いておいて、なんかこう他人を助けるだとか、他人のために自分は犠牲にするみたいな。
こんなに多かったんだみたいなね。全然でも当時は気がつかなかったし、まあ、ほうほうみたいな感じで、その時は見てたので、特に違和感とか感じなかったんですよね。
でもまあ、まあことあるごとに、こう自分を責めるセリフだったりとか、まあそういうムーブだったりとか、自分が我慢すればこのみんなは助かるみたいなのとか、そういうシーンが本当によく出てくるんですよね。
でね、その時に夫が、こうやって日本のこの自己犠牲マインドっていうか、このね、こうやって日本人は作られていくんだね、みたいな風に。
まあ彼はね、フランスで生まれ育っているから、まあ客観的、ちょっと離れた視点で見るわけですよね、そういうの。
ああ、まあこうやって作られていくんだね、日本人の心って、みたいな。
ぽそっとつぶやいた時に、なんかちょっと私ハッとして、いやそうだよね、みたいな。
もうなんか、ちょっとなんかあったらすぐ自己犠牲マインド発動みたいなね、そういうシーンをアニメでこんなにどの作品にもね、あっちでもこっちでもぽこぽこぽこぽこ出てきたら、まあそれが日常になっていく。
で、ほんとね、我が家は日本のドラマはあんまり見ないんですけど、たまに見る感じなんですが、ドラマにも絶対、ほぼ絶対で出てくるんですよね。
そういうシーンが、そういうシーンとか、そういうセリフとかが。
ずっとこれなんだって思うと、今は私たち、私の世代って結構テレビの世代だったので、子供の時から大人になるまで見るものは、今みたいにYouTubeとかネットの何コンテンツっていうよりはテレビで配信されているもの。
こうやって、こういうものなんだとか、こういうものの考え方が正しいみたいなね、それが普通みたいなマインドがちょっとずつ作られて、確かに作られてるかもみたいな納得みたいな気持ちになったんですよね。
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その中でずっと大きくなっていくわけですから、大人も子供も、子供の頃からそうだし、大人になってもずっとそれが続いていく。
えー、それってなんかちょっと怖いなって思ったんですよね。
でね、まあ、自己犠牲のマインドは悪いとは思わないけれども、何でもかんでもそこに話を持っていくっていうのは、やっぱりちょっと思考停止だしね。
なんかそれで本当に幸せってあるのかみたいな、生きるっていうことって本当にそういうことなんだろうかみたいな、自己犠牲マインドがこう前に前に来ちゃうのって、
え、それってどうなんだろうみたいなことをね、ちょっと考えたんですよね。
でね、ついついまあ、皆さんの中にももしかしたら自分のこと後回しにして、誰かのために頑張るとかっていうこと、そういう経験あるなーとか、
あ、今自分そうかもみたいなね、人いませんかね。
もしかしたら、なんか自分が我慢すればうまくいくっていう考えが、なんかこうずーっと浴びている、それも日常でね浴びている、
まあ、メディアだったり、なんだろうな、学校とかもあるのかな、そういう考えに、私が思うのは、まあ、甘んじてしまっている。
知らないうちにね、っていうことはないかな、そういうことってないだろうか。
私はね、昔そうだったなってすごい思うんですよ。
当時の自分は、自分が我慢することとかね、それでうまくいくんだったら、そうするのが正しいみたいなふうに、ちょっとその思考に甘んじてたところあったなーってすごく思うんですよね。
で、それもあるし、またなんかこう、自己犠牲を求められたりすることもあったよな。
で、それが正しいことなんだ、こういうものなんだって思ってた時期はね、絶対にあったんですよ、本当に。
今から思うとね、当時はそういうことを客観的な視点で見るってことはできなかったんだけど。
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だから、夫のね、こうやって日本人マインド作られていくんだねって何気なく、彼は本当に何気なく言ったんですよね。
なんだけど、めちゃめちゃハッとしたっていうね、そういう話なんですよ。
でね、ここの自己犠牲マインドってね、いろんな要因が本当に複雑に絡み合ってる、いるんだろうなって思うんですよ。
もちろん家族の影響、多分私の親世代とか、私が子供だった頃の周りの大人、大人だったりとか、兄弟、いとことかもやっぱり、
誰かのために何かをすることで、あ、いい子だね、みたいな大人が、そういうリアクションを大人がする。
ってなると、子供心に自然と自分を犠牲にするっていうのが当たり前なんだ。
自分を差し置いて人のために何かっていうのが素晴らしいこと。
少なくとも素晴らしいことっていうところまで考えが及ばない。
低学年の時でも大人から褒められるっていうことって子供にとってめちゃめちゃご褒美なわけじゃないですか。
だからね、教育って絶対あったよなーって思うんですよね。
学校教育でも、やっぱり輪を乱さないことが美徳、みたいな。今はどうなんだろう、わかんない。
でも私が子供の時はもう確実にそうだったし。
それは先生だけじゃなくて、もうクラスの中で輪を乱すのは、もう学生同士の中でも、えー、みたいなね。
そういうのがすっごく強かった。
全体の中で、クラス全体の中で、そのために自分を抑えるような教育は絶対にあったなって思うんですよね。
あとは、
うん、そうだな、社会全体でね、自分よりも他人を優先することとか、みんなのために頑張ることが美徳。
そこがやっぱり空気を読むとか協調性とかっていうのを、
日常の中でね、本当に稀に聞くんじゃなくて、本当にしょっちゅうしょっちゅう耳にするじゃないですか、この言葉って。
空気っていう言葉は一日に何回耳にするんだろうっていうぐらい聞く。
こういうのが全部それぞれ複雑に絡み合いながらも影響して、やっぱり、
あ、じゃあ自分が我慢すれば丸く収まるっていう思考がどんどん固まっていくんじゃないのかなって思いました。
まあね、確かに良い面、この自己犠牲のマインドには良い面、悪い面っていうのがあるんですよね。
やっぱり自己犠牲をすることで周りの人との良い関係を築けたりとか、トラブルを回避できることっていうのはね、あるんですよ、やっぱり。
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短期的にはこれで良かったって感じることも多いのは、やっぱりそれも確かだなって思うんです。
ただね、私やっぱりこれって、もうなんか自己犠牲がシステマティックにその自己犠牲マインドが出てくるっていうのはやっぱり危険だなと思って。
何でかっていうとね、なんかそれが普通みたいな感じになってくると、やっぱり私たち自分の気持ちを押し殺してるわけじゃないですか。
徐々にいつしかね、本当に自分が何をしたいのかとか、自分が何を感じてるのかっていうのがわからなくなってきちゃう。
私はこれセッションをね、いろんな方とやってきて、本当にこれをね、感じるんです。
ここがわからないっていう方がとっても多い、特にセッションの始めの頃ね。
あとはこれくらい我慢しなきゃとか、自分を出すことがなんかこうわがままっていう形で表現する方もすごく多い。
でもそれを続けた結果、やっぱり心のバランス崩しちゃったりとかね、心が折れちゃったりとか、最終的にこう自分自身が壊れてしまう可能性って絶対にあると思うんですよね。
それはね本当にこのマインドの怖いところだなって思います。
本来、これって私全ての生物、生き物に通じることだと思うんだけど、自分が一番好きだし可愛いはずなんですよ。
それって生命の基本形だと思うんです。そうじゃないと生きられないんですよね。
だからその自分が可愛い、自分が一番大事っていうところに、
罪悪感を持つ何かがあるっていうのは、本当はそれ健全じゃない。
ちょっと何か歪んだ何かあるんじゃないのかなっていう気がします。
誰もが、全ての生物、ここでは生物にかけて、今はじゃあ人っていうふうにぐっくりで考えてもいいんですけれど、
全ての人は基本的にもう自分が一番大事だし、自分が一番好きだ。
それはもうデフォルトである。
で、その上で、自分はこの人のために何かしたいという欲求があるんだな。
それも自分の欲求じゃないですか、自分自身の。
それってこの人のために何かしたいと思っている自分の欲を満たしたいっていうふうに考えれるんじゃないかなって私は思ったら、
そんなにね、こう、利他的なのが美しくて利己的なのが良くないっていうお話もすごくよく聞くんだ。
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そういうかマインドでいるお話もすごくよく聞くんだけど、決してそんなことない。
生物の基本は自分が一番大事で、どうやって生物単位でいえば生き延びるかっていうことだと思うんです。
だから自分を守るし、自分がより長く生命活動を続ける。
それをなんかこう、ある意味感動ポルノ的な感じで、自分はダメでもこれをどうにかしたいっていうのが美しいっていうのが一番に来ちゃうと、
人としてとか生物として、本来の機能というかね、その生存意義っていうところが全部由来じゃんじゃないのかなっていう、
そんなの、そういう思いが私の中にはあります。
この自己犠牲のマインドからじゃあ抜け出すにはどうしたらいいのかなっていうのをちょっと考えたりもするんですよね。
そう簡単に、小さい頃からずっとこう思っていた環境の中で身についたこの感覚っていうのを、
そう簡単にはね、なんか一個やったらちょっとやったらパッと抜け出しましたみたいにはやっぱりならないだけれども、
でもまずは自分が本当にどう感じているのかを知るっていうのは、
まず一番最初にしなきゃいけないことなんじゃないかなって思います。
これが本当に最初の一歩。
それはジャーナリングだったりとか、自分自身にとジャーナリングって私は結構セルフコーチングみたいなものだなって思ってるので、
自分が今何感じてるのかな、どんな思いがあるのかな、
これはなんかいいなって感じるな、これはなんか嫌だなって感じるな、
まずはもうそのぐらいなところからね、ちょっと始めてみるっていうのはすごい大事なんじゃないかなって有効なんじゃないかなって思います。
少し利己的であることを自分に許して、許す。
許すっていう言葉ね、本当あんまり使いたくないんだけどね。
最初はその利己的であることに抵抗感がある方ってきっとすごく多いと思うので、
最初はもう利己的でも、そうだな、利己的であるのが生命の基本ぐらいなところね。
ちょっとなんか自分に許す、許す以外の言葉がちょっと見つからないのが不本意ではありますが、
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それは決してわがままではない。
そこをわがままだっていう人はね、私は微妙にちょっとモアハラな何かを感じます。
基本的にすべての生物、人間は利己的なのにね、それをわがままだよ、よくないよっていうのは、
この人はちょっとモアハラ的な何かないかなって、ちょっと私は警戒しちゃうかな。
だってすべての生物は自分が大事ですよ。
そうじゃないと生物として成り立たないもん。
なんかね、何度も同じこと結局言ってたなっていう気もすごくしちゃうんですけれども、
そうですね、そうだな、自分を犠牲にすることも、自分を大切にすることも、
自分でこう意図的にね、どちらでも選べる自由っていうのがきっとあると思うのでね、
自分の心と向き合う時間をなるべくこう思ってそのバランスを見つけれたらいいですよね。
ぜひなんかこう、この今日の話をきっかけに皆さんも自分の声聞いてみたら、
いただいたら嬉しいなって思います。
今日も最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。
それではまた次回お会いしましょう。
おやすみなさい。