いじめの問題の認識
こんにちは、ザ・ディープダイブです。
えっと、最近ですね、SNSを開くと、ちょっと目を置いたくなるような、まあいじめの動画が流れてくること、あなたも経験ありませんか?
あれを見るとつい、今の世の中本当にむのそうになったなーとか、いじめってこんなに増えてるのか?って思っちゃいますよね。
でも、それって本当にそうなのでしょうか?
今日、私たちが深く潜っていくのは、村尾雅則さんという方が書いた一本の記事です。
タイトルがですね、SNSでいじめ動画が拡散される今、それでも表に出ない”いじめ”が、圧倒的に多い理、
これがですね、ご自身のまあかなり壮絶な体験から始まっていて、なぜ多くのいじめが私たちの見えないところで起きているのか?
その根っこの部分をこうえぐり出しているんです。
今回のミッションは、SNSで見えているものの裏側にある、もっとずっと大きくて静かな問題、
つまり、声に出せない痛みが生まれるメカニズムを、この記事を手がかりに、あなたと一緒に解き明かしていくことです。
今日のポイントは、SNSの動画はあくまで見えるようになっただけで、問題のなんていうか、ほんの一部でしかないという視点ですよね。
この記事を読むと、いじめ問題に対する考え方が、もしかしたらガラッと変わるかもしれません。
無力感と沈黙のメカニズム
特に、なぜ被害者は助けを求められないのか、っていう誰もが一度は思う疑問に対して、個人の体験から社会の構造までを貫く一本の答えが示されていますね。
じゃあ早速見ていきましょうか。
この記事本当に息を飲むような一文で始まるんですよね。
私は35年間いじめられてきた、と。
しかも、ただの悪口とかじゃなくて、殴る、蹴る、押さえつけられるっていう、もう明らかな暴力があった、と。
普通に考えたら、え、35年も?なんで親とか先生に言わなかったの?って思いますよね。
僕もそう思いました。
でも、著者の答えは、怖かったからじゃないんです。
もっとこう、根深い。
彼はこう書いてるんです。
言っても何も変わらないと知っていたから。
あー。
声を上げるより、もう嵐が過ぎ去るのを黙って待つ方が安全だと身体が覚えてしまっていた、と。
ここ、本当に重要なポイントです。
しかもこれ、単なる諦めじゃないんですよ。
えーと、心理学に学習性無力感という言葉がありますけど、まさにそれなんです。
学習性無力感?
ええ。
例えば、箱に入れられた動物が何度ボタンを押しても餌が出てこないとしますよね。
そうすると、そのうち本当に餌が出てくるボタンが現れても、もう押そうとしなくなる。
それと同じで、助けてっていうボタンを押しても無視されたり、逆にお前も悪かったんじゃないかなんて罰を受けたりし続けた人間は、
本当に助けが必要な時でさえ、そのボタンを押す気力も発想すらも失ってしまうんです。
うわー、その例えすごくわかりやすいです。
つまり、助けてっていうこと自体が、もうリスクでしかないと学習してしまったと。
だから、著者はこれを弱さじゃなかった、生き延びるための選択だったってはっきり書いている。
そうなんです。
沈黙は弱さじゃなくて、生き残るための鎧だったということですよね。
その通りです。
いじめの根本的な構造
だからこそ、被害者が声を上げないことを、本人の弱さとか責任にしちゃいけない。
声を上げても無駄どころか、もっと危険になるかもしれないっていう環境、その構造が沈黙という鎧を選ばせている。
まずこの視点を持つことが、この問題を理解するスタートラインになりますね。
なるほど。
その沈黙という鎧を着ざるを得なかった人たちがいる一方で、
今、SNSでは暴力的な動画がどんどん可視化されて、
最近は物騒であって、僕も含めてみんな言ってるわけですけど、
この記事はその見方自体にちょっと待ったをかけているんですよね。
そうなんです。
著者の感覚は、僕たちの一般的な感覚とはちょっと違う。
いじめは増えたのではなく、たまたま映ったものが見えているだけだと言い切っています。
あー、なるほど。
正面に出ていない、誰にも相談できない、証拠が残らない、
あるいは大したことない、と片付けられてしまういじめの方が、
水面下にはもう比較にならないほど大量に存在している、と。
でもそれって、私たちの脳の仕組みからすると、すごく錯覚しやすい状況ですよね。
まさに、これは私たちの脳のショートカット機能の副作用みたいなものなんです。
利用可能性ヒューリスティックといって、思い出しやすい、インパクトの強い情報ほど、
それが頻繁に起きていることだと錯覚してしまう。
はいはいはい。
例えば、飛行機事故のニュースを大々的に見た後だと、
統計的には車の方がずっと危険なのに、なぜか飛行機の方が怖いと感じてしまう。
それと同じで、SNSで衝撃的ないじめ動画が繰り返し流れてくると、
私たちの脳は、いじめが激増している、と短絡的に結論づけてしまうんです。
水面下にある、もっと静かで膨大な数の声なきいじめのことはすっかり忘れて。
ああ、なるほど。
じゃあ、多くの人が考えがちな、SNSが問題なんだから、
スマホを取り上げたりとか、もっと規制すればいいじゃないかっていう意見はどうなんでしょう?
それも、著者は、規制ではいじめはなくならない、と断言していますね。
これは問題の根根を捉えられていないからだ、と。
というと?
いじめの本質は、スマホやアプリというツールにあるんじゃなくて、
人間関係の構造そのものにある、と。
SNSは、もともと学校や職場に存在していた支配とか優劣、
同調圧力みたいな、目に見えない関係性をただ増幅させて、
可視化している装置に過ぎない、というわけです。
その構造っていうのが、いまいちピンとこない人もいるかもしれないですね。
例えば、ダムにヒビが入って水が漏れているとします。
多くの人は、水を汲み出すバケツ、これがSNSですね。
これを見て、このバケツが問題だ、って言うんですけど、
本当に問題なのは、ダムそのものに入っているヒビ。
つまり、人間関係の構造の方ですよね。
ああ、なるほど。
教室や会社っていう物理的な空間の中で、
誰が上で誰が下か、誰の意見が尊重されて誰が黙らせられるか、
っていうパワーバランスの構造がなくならない限り、
いじめはなくならない、というロジックですね。
なるほど。
ルールじゃなくて、その場の空気とかパワーバランスそのものが問題なんだと。
ということは、その教室で起きていた構造っていうのは、
著者がもっとずっと昔に別の場所で経験した構造とつながっている、
という話になってくるわけですね。
まさにそこなんです。
なぜ著者は、助けてと言えなくなってしまったのか。
そのルーツをたどっていくと、
彼が毒親的な環境で育ったと告白している部分に行き着きます。
具体的には、感情を出すと否定される、
余安は迷惑、わがままできる子がいい子、
という価値観の中で育った後、
これ、まあ程度のさこさあれ、
どこか心当たりがあるっていう方もいるかもしれません。
こういう環境だと、子供は生き延びるために学びますよね。
言わない方が安全だ、耐える方が親に愛されるんだ、と。
この感覚が頭の理解を超えて、
愛着形成として身体に刻まれる、と著者は書いています。
愛着形成、よく聞く言葉ですけど、
この文脈だとどういう風に捉えたらいいんでしょうか。
赤ちゃんって、自分じゃ何もできない、
いばば小さな警報アラームみたいなものじゃないですか。
お腹が空いた、怖い、寂しい、っていう時に、
おぎゃーって鳴いて、助けを求める信号を送るわけです。
その信号に対して、親や保護者が、
どうしたの、大丈夫だよって駆けつけて安心させてくれる。
このやりとりを繰り返すことで、
自分の声は届くんだ、世界は安全な場所なんだ、
っていう感覚の土台が作られる。
これが愛着形成の基本です。
でも、もしその信号が無視されたり、
うるさいって怒られたりし続けたらどうなるか。
いじめの見えない側面
子供は自分の感情は迷惑なんだ、
助けを求めることは悪いことなんだ、と学習してしまう。
そうなると、いざという時の助けてと言えないのは、
もう選択の結果じゃないんです。
身体が勝手にそう反応してしまう。
最初の学習性無力感の話に戻りますが、
著者にとって助けてボタンは、
学校で壊されたんじゃなくて、
もっと前の家庭という最初の場所で、
すでに壊れていた。
あるいは、存在しないものとして
身体に刻み込まれてしまったと言えるかもしれません。
だから35年間っていう、
信じられないくらい長い時間が必要になったのかもしれないですね。
でもこの記事、ここで終わらないんですよね。
ここから少し光が見える方向に話が展開していく。
その言葉を奪われた沈黙の中で、
著者は代わりに別の力を育てていった、と。
ええ、ここがこの記事のある種の救いであり、
非常に力強いメッセージになっている部分ですね。
言葉で出力することを封じられた代わりに、
彼は周りの状況を読み取る入力の感度を極限まで高めていった、と。
具体的には空気を読む力、
人の感情を察する力、
言葉にならない痛みを理解する力、
そして誰かの苦しさを言語化する力、
これすごい力ですよね。
すごい力です。
これは自己表現の在り方を問い直す視点でもあります。
著者は自己表現とは大声で叫ぶことじゃない、
沈黙の奥にあった感情を丁寧に言葉に戻すこともまた自己表現だ、
というようなことを書いています。
なるほど。
声を奪われた経験はただの傷や欠落じゃない、
他者の声にならない痛みを感じ取るための特殊なアンテナになるんだ、と。
なるほど。
つまり、彼は壊れてしまったんじゃなくて、
コミュニケーションの回路が普通の人とは違う形に進化した、
みたいなことですかね。
話すっていう出力の回路が細い分、
感じるっていう入力の回路がものすごく太くなった、と。
まさにそういうことです。
そして今、彼は作家として、
その研ぎ澄まされた入力の力を使って、
言葉という新しい出力の方法を手に入れた。
かつて自分が言えなかった言葉、
そして今もイエスにいる誰かの心の声を文章を通して差し出している。
弱さだと思っていたものが、
実は他者を深く理解するための累々な強さだったと気づくプロセスが、
ここには描かれています。
いやー、深いですね。
それでは今回の話をまとめていきましょうか。
まず、SNSで私たちが見ているいじめの動画は、
巨大な氷山のごく一角でしかない、ということ。
その水面下には声を出したくても出せない、
膨大な数の見えない痛みが広がっている。
ええ。
そしてその沈黙の背景には、
言っても無駄だと身体に刻み込んでしまう学習性無力感や、
もっと言えば幼い頃の親子関係で気づかれる愛着の問題が深く横たわっている。
言葉を取り戻す力
ツールを規制するだけでは、
この根っこにある構造は何も変わらない、ということでした。
でも、絶望だけじゃない。
その言葉にならない痛みを抱え続けた沈黙の中からでさえ、
他者の痛みを誰よりも深く理解し、
それを言葉にするという新しい表現の力が生まれる可能性がある。
ここまでが今回の記事から見えてきたことでした。
最後に、著者がこの記事を締めくくっているメッセージを、
これはもしかしたら今同じような痛みを抱えているかもしれないあなたに直接届けるつもりで読ませてください。
もしあなたが、何も言えなかった、助けを求められなかった、ずっと耐えてきた、
そんな過去を持っているなら、それは恥でも弱さでもない。
あなたは壊れたんじゃない。
別の形で表現する力を育ててきただけ。
その言葉は、きっと誰かを救うと私は信じています。
この記事は、沈黙を費いられられてきた人が、
いかにして言葉を取り戻すか、その力について語っていました。
では、その言葉を受け取る側の私たちは、ここから何を考えるべきか。
最後に、こんな問いをあなたに残して、今回の探究を終わりにしたいと思います。
もし、あなたの周りにいる、いつも物静かなあの人が、
かつて言葉を奪われるような経験をしてきた人だとしたら、
その人が考えに考え抜いて、ようやく絞り出した、
その小さく慎重な言葉の奥にある本当の意味を、
私たちはどれだけ想像力を働かせて耳を傾けることができるでしょうか。