えーと、言葉のない表現、無性映画ですね。
なるほど、無性映画。僕、無性映画を全く見たことがないってことはきっと人生の中ではないんだと思うんですけど、明確に無性映画を見ようとか無性作品を見ようと思って見たことってないかもしれないです。
私もないんです。
ないけど作ろうと思ったりとかするもんなんですか。そのないけど今回のテーマに選んでいるっていうのはどういうことなんですか。
まず、私が初めて5年前に作った作品なんですけど、5年前に撮って4年前に完成した作品が無性映画で作った作品を監督させていただきまして、
歌方少女っていう作品なんですけど、そちらを今作って、で、もう4年も経ってるんですけど、実は今になってお声掛けをいただいて、
人シアタースタジアムっていう企画の中で、短編3作品を映画館で同時に上映するっていうような企画がありまして、それが人シアターっていうところでが配給になって、映画館の方で今上映しているっていうような企画なんですけど、
その中の一つとして歌方少女がアップリンク吉祥寺にて上映を行っておりまして、っていうところで、もう昨日3月20日から始まって、昨日一度舞台挨拶もさせていただいたんですけど、始まっておりまして、っていうところで緊急でお時間いただけたということで。
なるほど、いやすごいですね。今まさに映画館で映画が上映されている監督さんにお越しいただいてるってことなんですけど、でも西畑さんご自身もそんなにずっと昔から無性映画が好きだったとかっていうわけではないんですか?
全くなくて、そう先ほどお伝えした通り、一度もそれまで、一度もとまでもいかないとは思うんですけど、ほとんどなくて。
だけど、歌方少女の時にはそれを作ってみようと思ったんですか?それとも無性映画を作ってくださいみたいな感じの依頼的なことがあったんですか?
それは、その前も一応自分の表現の一つとして映画として、あ、映画じゃないですね。それまでは映像作品としてちっちゃい、もう式もないような身内でやるような形でずっと作品っていうのは作り続けていて、である時、これはきっかけになるんですけど、
金魚を擬人化した作品を作りたいって思ったタイミングがあって、で、そこからどんどんやりたいことを、なんかその時にすごいいろんなことがやりたいなって思って、
その中で、なんか言葉のない映画を作りたいっていう頃から、いきなり本当になんでっていうのも、私もわかんない形で急に始まったんですけど、ただその無性映画にした理由っていうところで言うと、私自身が言葉がすごい苦手なんですよね。
そうなんですか?
そうなんです。なんか言葉って、言葉っていう箱の中に入れてしまうと、なんかちょっと違ったような、なんか自分が言いたいことと違うような形になって出てきてしまう感じがしていて、だから頭の中のものをそのまま伝えられるような表現の仕方がしたいって思ったのが一つ。
もう一つは、その時期に海外の方に作品を届けたいっていうふうに思っていて、だからその言葉の壁とか翻訳の壁なしで表現がしたいなっていう思いで、この2つの理由で無性映画にすることにしました。
手段としてたどり着いた先が、たまたま無性映画だったっていう、無性作品だったってことなんですね。
そうです。
もともとその映画界の中での無性映画って、多分当時音声を録音できるっていう機能がなくて、動いている動画からスタートした歴史だと思うんですけど、だから結果的に無性映画になっていた。作れるものがそれだったからそれになっていたっていうところから、西畑さんはあえて音声が取れる時代に音なしにしようっていうふうに決めたわけなんですね。
そうですね。何か言葉じゃない、例えば息遣いとか、体の動きとか、何か音で言うとそういうところの方を出していきたいというか、っていうのがあって。
じゃあ、無性映画というのは声がない映画だから、音がない無音動画、無音映画ではないってことですね。
ではなくて、体での表現と音楽での表現っていうところで、なので、そう、セリフがないので完全に無性ではないんですね。
そういうことなんですね。無音ではなく無性ってことなんですね。
そうです。
息遣いとかっていう意味では、多少その人の口から出るものは入っているっていう。
そうです。
でもそれって、僕も過去にはというか、ちょっと前までラジオドラマなんかをムシャラジオの中では作っていたりとかしたので、
まあ、ポッドキャストで無性映画は無理だと思うんですね、たぶん。
そうですね、それは。
本当に息遣いだけになっちゃうから、いけんのかな。すごい挑戦だと思いますけど、やるにしても。
で、どうやったらその言葉で表現できるかなんていうことを考えてたことが何回かあるから余計思うんですけど、
その言葉という、伝える上ですごく重要なものを一個、ある種その表現の中ではハンデを背負っている状態じゃないですか。
すごく伝えるというか、西畑さんがこの映画を見た人にこう思ってもらいたいとかっていうものを表現するのって難しそうですね。
なんかあんまりハンデとは私は思わなかったかなって、今振り返ると思っていて、
なんか言葉じゃない方が伝わるものがあったりとかする気がしていて、さっきの話でも通ずるんですけど、
なんか言葉に、なんか実際思ってることとかって、
んーと、余白の中にある気がしていて、言葉に出ることって表面上のことだけに感じていて、
なので、ハンデとはあまり思わなかったのと、あともう一つ結構、どちらかというと絵ありきというか、絵で表現している部分が多くて、
なんかメタファーをすごく込めたんです。いろんなところに着ているお洋服の色だったり、天気だったり、持っている傘とかも重要なアイテムになるんですけど、
だったり、そこにあるもの、金魚鉢とか、そういうお花とか、もうすごいいろんなことを入れてるので、
なんか言葉じゃない、視覚で感じてもらいたいみたいな感じで、なんかこれを受け取ってほしいですじゃなくて、
ストーリーはちゃんとあって、結構共感できるものがある、ヒューマンドラマかけるアートみたいな感じにはなっているので、あるんですけど、
なんか視覚で体感してもらいたいみたいな思いもあって、なので、あまり、なんかこっちからのメッセージを絶対伝えなきゃみたいなものもなくって、
それで感じてもらえたもの自体が作品だと思っているので、なので、あまり反で、言葉がないことに反でとは思わなかったですね、私は。
なるほど。もちろん西畑さんは、いわゆる、そんな言い方するのかわからないですけど、有声映画も撮られたことはあるんですよね。
もちろんです。
もちろんそうですよね。その無声映画と有声映画、声が入っているものとで、無声映画を撮るときって何か違いってあったりするものなんですか?
例えば、なんかそれこそ、その表情だったりとか、その息遣いだったりとかを見てもらいたいっていう意味では、なんか目元のアップとか、表情のアップとかが多くなるとか、そういうことってあったりするんですか?
そういうのはやってましたね、確かに。手言を結構入れたり、あと息遣いとかも音声さんに頼んで、結構大げさなぐらい、非日常ぐらいにちゃんと収録をしてほしいとか、
あと、一つ一つの音とかも追加して入れたりとか、普通のドラマでも入れたりはするんですけど、それをちょっと大きめに、
もっと繊細に聞こえるような、繊細な音も聞こえるような感じにはしてましたね。
ここを見てほしいというか、ここの部分を聞いてほしいとか、そういうところが少しクローズアップされるようにもなってくるものなんですね。
そうですね、やってましたね。
なるほど。他に無性映画ならでは、西原さんの無性映画ならではの表現って何かあったりするんですか?
ならではか。
こういうふうに、ここを見てほしいみたいな、わかんないですけど、もしかしたら、さっきおっしゃったようにメタファーがあって、そういう細部、持ってる傘のデザインだったりとか、
もしかしたら、映画のテクニック的なところで言うと、主人公が追い込まれているときは壁が近かったり、後ろの壁が近かったり、
ちょっと気持ちが晴れているときは開放的な空間にいたり、絵の引きにしていて余白が多かったりなんていうのがあったりは聞いたことがあるんですけど、
そういう、いわゆる小回りみたいな感じのことだったりとか、有性映画と違う部分、こだわった部分ってどういうところに現れるんでしょうか?
でもさっき言った通りのところで、違うのは、無性映画だからってわけじゃないんですけど、
本当にビジュアル的なもので表現しているので、心情表現と現実が混じった世界を描いていて、例えば、この話って女の子2人のお話で、赤い女の子と白い女の子がいるんですけど、
この色にも意味があったりするんですけど、その幼馴染の女の子が、すごい仲良かった、仲良いというか、もう友達レベルを超えたぐらいの魂レベルで繋がっていたような子なんだけど、
もう何十年ぶりにふと現れて、で、ひょんなことから共同生活が始まるっていうところから始まる作品なので、幼馴染同士の話なんですけど、
なので、白い女の子の方が結構家にこもった、囚われた世界にいる女の子、で、赤い女の子の方が結構自由奔放に外にいる女の子みたいな感じで、外に白い女の子を連れ出すみたいな感じの描写が結構あったりするんですけど、
その白い女の子の過去の回想のところで、家族との距離感を出したいなと思って、絵で見せたいなと思って、なんかテーブルがすっごい長いんですよ。
お父さんがいて、お母さんもすごい遠くにいて、で、真ん中に白い女の子がいて、ご飯を食べているシーンなんですけど、
最初の絵では普通に食べているところなんですよ。それがカメラを引いていくと、すごい長いテーブルの先にお父さんとお母さんがいるみたいな、そういう人の距離感とかも、そういうふうに距離、本当の物理的な距離で表現したりとか、
あと、心の隙間、あまり言うと結構後半のほうになってくるんですけど、心が空っぽになっちゃうみたいな表現を、本当に物理的に表現したりとか、そういったところとか、でも、どこを見てもらいたいかというと、
結構、もう本当に一個一個の絵として、なんかもうアートを見るかのように、一個一個に結構こだわって、置いてあるものも、色も、全部こうやっているので、一つ一つ見てもらって、考えてもらえると楽しい、なんか考えることを楽しんでもらいたいなっていうのはありますね。
そういった意味では、映像作品に対しては、僕自身が映像作品っていうものを、YouTubeぐらいは作ったことありますけど、映像作品って物語と言えるようなものは作ったことがなくて、受け取る一方なんですね、ずっと。
昨日も映画を見てきて、プロジェクト、ヘイルメリー見てきて、その映像として受け取ったけれども、その受け取って自分が感じたことを答え合わせってなかなかできないじゃないですか、たまにパンフレットとかで、ここはこういう意図があって撮ってるんだよっていうのがあったりとかして、それがあってた時とか、自分が感じたものがあってて嬉しいなって思うこととかってあると思うんですけど、
こうやって映像を作る側の方、監督側から見て、そのご自身のやっぱり意図はあるわけじゃないですか、でもそのその意図が正確に受け取り手が受け取れてるかどうかっていう答え合わせってなかなかできないと思うんですけど、それって答え合わせみたいなものをどう思いましたかっていうのは監督から見るとしたいものですか、それとも個々に受け取ったものでいいよっていう感じなんですか、どっちですか。
私は完全に個々で受け取ったものも含めた時に作品が完成すると思ってるので、絶対こう感じてほしいみたいなことはあまりないですね。
感想とかを、それこそ舞台挨拶とかもされると思うから、感想とか言われることとかもあると思うんですけど、それが西畑さんが思ってたことを、そうそうそう受け取ったのねっていう、そう私が思った通りに受け取ったっていうパターンと、なるほどそういう風に受け取る目線もあるかって思うのだと監督としてはどっちの感想の方が嬉しいとかってあったりします。
どっちも嬉しくって、むしろそれが楽しくって、校舎のこうやって考えてここを表現したのかなっていうのを教えてもらうと、むしろなるほどって思うことが結構あって、っていうのも私にとって作品って自分との対話だったり、自分の潜在的なもっと深い部分での対話だと思ってるから、
自分が気づけてないレベルで出てきてるものを感じてもらってるのかなって思うと、なるほどっていう、なんかそこが、そここそが私が作品作りをしてる一番楽しいところ。なのでむしろいっぱい聞きたいですね、なんかいろんな意見を。
いかい。
仕事柄、僕はこのポッドキャストじゃなくて、本業でその映画を撮っている方とお話しする機会だったりとか、映像作品に出られている方とお話しする機会とかっていうのもあったりとかするんですけど、その時に特に映画監督とか漫画家さんとかと話してる時に、受け取り方が正しいかどうかお話しするときにちょっと緊張するなって。
そういう時に緊張するなってあるんですけど、そこはもうむしろどんな意見でも作り手側としては、ああそういうふうに伝わったんだっていうのを喜んでもらえるものなんですかね。
いや私はもう本当にむしろ知りたい、なんか本心を知りたいなって思うし、思いますね。
人によって違う気はするんですけど、やっぱりすごくメッセージ強くこれだってやってる監督さんもいると思うし、違うとは思うんですけど、私は本当に嬉しくて、パリでも上映させてもらったんですけど、
パリにちょっと住んでた、半年間だけ住んでたときに上映させてもらって、なんかその時にすごく感じたんですよ、あちらの方ってすごく映画もアートとして楽しむっていうのがすごい根付いてるので、
なんかその映画を見終わった後に、それこそ歌方少女を見終わった後に、フランス人同士で私はこうだったと思う、こうだったと思うっていうのを言い合って、目を輝かせながら言い合ってくれてるのが、もうめっちゃ嬉しいなと思って、すごい楽しくて、なのでなんかそういう意見の出し合いとかやってもらえたらむしろめっちゃ嬉しいです。