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スピーカー 2
2番経営、ナンバーツーの引きこもごも。
この番組では、なかなか表に出ない会社の2番、ナンバーツーをテーマに、
トップのビジョンの実現の仕方や、この仕事の面白さ、大変さなど、
ナンバーツーの引きこもごもをリスナーの皆さんにお届けします。
スピーカー 1
こんにちは。株式会社オーツーパートナーズ取締役の風宮すいでです。
スピーカー 2
現当社新しい経済編集長のしだれゆうすけです。
2番経営第15回始まります。
今回は前回に引き続き、戦国時代の究極のナンバーツー、
豊臣秀永編の後編です。
前回はいろいろ、秀永の実績、ナンバーツーとしてどう動いてきたかというのを
風宮さん教えていただいたんですけど、
ちょっと僕もそれ聞いてですね、あまり秀永くわしくなかったんですけど、
どんな人だったかとかですね、そういったことが気になってきましたので、
ちょっと後編でですね、そのあたりも含めて教えていただければと思います。
スピーカー 1
前回ですね、武功というか戦績ですね、こんな戦をしましたとか、
武将としての黒田寛兵衛との比較みたいな話をさせてあげたんですけれども、
今度はですね、政治家豊臣秀永というところにちょっとフィッシャーしながらですね、
そのキャラクターもこれも推測でしかないんですけれども、
お話ししていければと思います。
まずはその統治行政力という観点なんですけれども、
秀永っていうのは豊臣政権のナンバーツーということでですね、
いろんな行政の記録ですとか、実質の手紙っていうのも多く残っています。
目立つようなエピソードっていうよりも、本当に行政官としての文章が残っているんですね。
なるほど。
字とか文もですね、うまかったらしいです。
前回ありましたけれども、23歳以下で農民から武士になりましたと。
農民時代はですね、おそらく文字を書いたりするっていうことってほとんどなかったと思います。
そこでもう地獄のような日々を送りながらですね、
一生懸命文字を学んでですね、文章を学んで、
っていうことを繰り返してきた20何年かっていうことを考えるとですね、またエモい。
スピーカー 2
そうですね、確かに。
素地がなかったわけですかね。むしろ追いついていったってことですよね。
はい。
スピーカー 1
ちなみにですね、お兄ちゃんの秀吉はですね、もうあのかなくぎりゅうというかめちゃくちゃ下手でですね、
かなと漢字とぐっちゃぐちゃの文字をよく書いてたと。
スピーカー 2
子供みたいな感じで今で言うとね。
スピーカー 1
その秀吉なんですけども、厳しい軍律を持ってよく家臣を統制すると言われてます。
部下の軍隊ですよね、こう率いているのは。
軍隊がですね、暴走するとその支配したところでですね、
いろんな乱暴労籍を働いたりということとかがあった戦国時代なんですけれども、
そこがもう規律をすごくしっかり守ってですね、家臣を統制していたと。
一方で良民を慈しむということでですね、非常にこの民の方たちを大事にされていたと。
理想的な文国統治を行ったと言われてます。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
じゃあどんなところを領主として支配していたのかなんですけども、
前回ですね、和歌山を攻めるところがありましたとお話ししたんですけども、
その後ですね、その岸を攻めた後は、紀伊、それから泉というところの領主になります。
和歌山ですね。和歌山城というのに入ってですね、そこを統治しました。
スピーカー 2
僕、和歌山出身なんですよね。和歌山城の近くに住んでます。
スピーカー 1
ああ、そうなんですね。
スピーカー 2
近くありますね。
はい。
スピーカー 1
で、志良さんはじめ、今の和歌山の方がどうかはわからないですけれども、
当時はですね、相当やんちゃだったんですね。和歌山エリア、紀伊のエリア。
信長の最大の敵と言われた一皇宗ですね。
一揆を起こしていた宗教勢力の一皇宗の地盤でありですね、
西賀宗、根頃宗っていう地侍がいてですね、
もう最後まで織田家に反発していたような人たちが非常に多くて、
気象が荒く独立心が強くてですね、
過去を統一していく大名というのがほとんどいなかったと。
なんかみんなそれぞれですね、わわわわやっていたという感じでした。
かつ、反豊臣勢力っていうのが存在をしていたと。
それと和歌山間からもうちょっと下っていくと熊野のあたりまで行きますと、
熊野水群ですとか有力な水群ですね、船などもあったので、
非常に統制が大事で必須でしたと。
かつ、いろんな建物を作っていくときの木材の重要な供給地でもありました。
ということで非常に大事なところですと。
ただ統治がとにかくしにくいと。
お兄ちゃんがですね、ちょっともう厄介なところをわーっと攻めて、
あとじゃあお前よろしくっていう感じで治させた。
まず奇襲ですね、和歌山としてというのがありました。
今度はですね、四国に攻めた話、50日で四国を落としたという話を前回にさせていただきましたけれども、
そこで四国を平定できたということのご褒美でですね、
木泉にプラスしてですね、今度は大和の地というのを与えられます。
大和、今の奈良県ですね。
大和の氷山城というお城があるんですけども、そこの城主になります。
ちょっと南の方にくどってきた感じですね。
紀伊というのが非常に統治が難しいところだったんですけども、
この大和という地、今の奈良県、想像してもわかるんですけれども、
幸福寺ですとか、霞大社という強力な自社勢力がありましたと。
今の神社仏閣とはわけが違います。
武装しているようなめっちゃ強い自社がいたというそんな感じのイメージですね。
かつ本当に力を持っていた領地を持っていてですね、
そこから年古じゃないですけれども、経済的にもそういったところからうろっていった、
そういった自社勢力というのがありました。
そういう自社勢力があったところで、そこにバーンと戦国大名が出てきたときにですね、
何も言わずにその自社領というのをどんどん摂取、勝手にですね、
分取っていくという歴史が奈良にはあったんですよね。
もともとの領地を勝手に戦国大名が武力を使って奪われていっちゃったという恨みつらみがあるという感じですね。
ちょっと今の中東情勢にも似た感じかもしれないですけれども、
もともとうちの土地だったんだけど、占拠されちゃってると。
なので所有権をめぐって、あの土地は我が寺のものだったんですけれども、
返していただけませんかっていう申し出がですね、死ぬほど来るそういう場所が山戸。
この山戸っていう地もですね、奈良県なので大阪京都の南にありますよね。
とても重要な場所です。
木材の産出の場所でもあったんですけれども、
当時ですね、日本で最も大事だった場所っていうのは天皇陛下というか帝がいた京都。
それから大阪城のある大阪。
京都大阪で日本を統治していたんですけども、その周辺である紀伊、それから山戸ですね。
こういったところはもう本当最重要地域と。
なるほど。
かつ藩、豊臣派がいたところっていうところですね。
そこをしっかり守るのに秀永を指示していたと。
まあご信頼とともにですね、守るべきところを一番信頼しているナンバー2に託していたっていうのがあってですね。
スピーカー 2
ある意味厄介なところを任せたってことですよね。
スピーカー 1
そうですね。もうあいつなら何とかしてくれるだろうと。
超重要だけどよろしくっていう感じで。
そこで自社の領地をしっかりと収めて、理想的な分国統治が両民を慈しんで大事にしてということをされてきたんですけれども。
それと同時にですね、日本を滑る政権のナンバー2でもありますんで、日本全国のことを考えなきゃいけないと。
日本全国っていうことは豊臣派以外ですね、日本中に大名がいるわけです。
関東も九州も四国も中国も戦国大名が依然いてですね、一応豊臣家に下っている状態ではあるんです。
そういったところとの関係構築っていうのはとっても大事でした。
そこの中には毛利、小早川、長足場、大友、島津、そういう大名が来るんですけれども。
そういった地方にいる戦国大名っていうのが大阪城とか京都に来るわけですね。
そういうときの接待っていうのは全部も秀永がやりました。
その中でも一番の大名、徳川家康ですね。
京都に来るっていうときには当然大接待をするんですけども、京都に家康さん、家建てますと。
その家を建てるときに明治田部下っていうのがですね、東道高虎っていう名前って聞かれたことあります?
スピーカー 2
聞いたことあります。
スピーカー 1
東道高虎って何が有名かっていうと、築城の名人で有名です。
東道高虎、黒田、官兵衛、それから加藤清政っていうのが築城の三名人と呼ばれていた。
全員秀吉の部下なんですけども、東道高虎に家康が京都に来たときの家の設計をさせるんですね。
スピーカー 2
これ、知り合いの社長が別荘を建てるっていうときに、じゃあ熊謙吾先生に頼みますとか。
スピーカー 1
そんな感じですね。
スピーカー 2
そんな感じですね。今で言うと本当に。
スピーカー 1
これぐらい家康を大事に。お二人はものすごく仲良くなってですね、信頼関係もあって。
秀永が最後ですね、病気で奈良の方にずっといたときもですね、家康は何回も奈良まで見舞いに来た。
そんな記録もあったようですね。
スピーカー 1
こういった接待だったりとか、家康を大事にする、親密になるっていうのはどういうことかっていうと、
全国統一戦争をして侵入した大名っていうのが豊臣大名として編成されることになります。
日本を滑るというか。ただこう進化になったとはいえですね、いろんな大名っていうのは力をまだ持っている状態です。
反抗しようと思ったら反抗できる。そこのバランスっていうのをずっと保っていく。
かつ豊臣大名の進化でいてもらうっていうためのバランサーが必要だったんですね。
そのバランサーが秀永がずっと務めていたと。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
まあなんでちょっとでも機嫌を損ねると、なんかうわっと来るかもしれないっていう感じ。
めっちゃ重要ですね、これは確かに。
そのバランサーっていうところ、ここからですね、ちょっと秀永のキャラのところに入っていきたいと思うんですけれども、
冒頭で農民から武士になった最初の10年間、20年間っていうのはもう本当に愚直に耐えて耐えてきたという、非常に忍耐強さがあるなというような気がします。
それからいろんな大名を調整していったっていう、特別な調整能力、バランス能力っていうのも非常に強くあったと思うんですね。
この辺りはですね、全国大名の過信団の構成っていう、これもなんか論文があってですね、調べてて出てきたんですけれども、
全国大名の過信団の構成要素っていうのは3つあります。
1つは一文集、これは家族と思ってください。
なるほど。
分かりやすい表現ね、家族集。
それから付代集。
この付代っていうのは直接の過信団ですね。
直産の部下って感じです。
それから戸様。
家族、付代、戸様。
この3種類があるんです。
基本的には部下っていうのはずっと代々続いているので、いわゆるファミリー企業みたいなもんですね。
織田家もそうでした。竹田家もそうでした。
ずっとそこの王様みたいなもんですよね。
だからずっと部下がいるわけですよ。
ジュニアになったらジュニアに就く部下もいると。
そういう形で、当然兄弟もたくさんいます。
弟がいたらお兄ちゃんを立てるっていうような形で、その家族がいます。
妹がいたら妹が嫁いだ先っていうのもファミリーになっていくっていうことで、
だいたいその一新党、二新党ぐらいの近いところですね。
その家族集っていうのが、まず何十人かいますっていうのが普通。
かつ、過信も代々いるので、そこの過信団っていうのもいるんですね。
直接の部下っていうのもバーっています。
部下の息子も部下になるっていう感じですね。
そっから征服していった土地が新たな部下としてここに行くって感じなんですけれども、
豊臣家っていうのは、まず家族がいない。
農民だったので代々いる部下っていうのもいないんです。
で、その中の唯一の家族が秀菜。
それ以外にも何人かですね、秀嗣とか妹とかお姉さんが嫁いだ先だったりとかっていろいろあるはするんですけれども、
他の戦国大名に比べると圧倒的に薄い。
昔からの部下っていうのもほとんどいない。
なので、そこの中でもほとんど徒様、後から来るっていう方たちをいかに調整していくのかっていうのがとても大事なんですね。
スピーカー 1
部下の役割だったんじゃないかなというふうに思います。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
なので今、過信団代々っていうふうに申し上げたんですけども、
結局ですね、戦国大名、織田家もそうなんですけども徳川家もみんなそうなんですけども、
結局ですね、ファミリー企業同士の争いなんですね。
代々続いていってるんですよ。代々社長の家なんですよ。
それが日本中にバーッとあって、ファミリー企業同士の戦いで、そこでスタートアップとか参入してこないんですよ、全然。
代々続いたJTC同士の争いっていうのが基本的に戦国っていうのは。
そこでたまーにスタートアップっていうのが突然変異的に現れるんです。
それが一つは関東の北条県、それから斎藤道山っていう斎藤県、甲田家に滅ぼされるんですけども、
この2つぐらいですね、出自がわからなくていきなりドーンと生まれた。
それと同じような感じに近いのがこの豊臣家、木下家、橋場家ですね。
ある有名なJTCのファミリー企業である小田家という会社に入りました。
なんかわかんないですけども、中卒社員なんだけども、なんか出世しちゃってですね、子会社の社長になっちゃいました。
でも同期みんな大卒ですと。中高もエリート高いってて、みんな同級生とか名古屋とかめっちゃいるわけですよ。
なんか家族も集まってですね、何か怒涛を組んでると。小会社をこうすべてると。
でも自分はもう学歴もない、仲間も全然いないけど、なんかお前小会社の社長やれっていきなりトップから言われましたと。
信長社長に言われましたっていうのが豊臣家をして、そこで何とか人を集めると。
人足んないんだったら、じゃあ本社の人からよこす、出向させるからって言うんで来るんですけど、出向した方も、何この小会社社長、なんかちょっと変な顔してみたいな感じでずっといるので。
そういう親会社から来た社員、これを当時よりきって言ったんですけども、信長の部下、親会社の社員、そういう人たちですね。
八塚孤六っていう人だったり、前の長屋須堀代、竹中半兵衛っていうのもそうでした。
みんなですね、織田信長の部下なんですね。実は黒田寛兵衛も最初は信長の部下だったんです。
そういう人たちがとりあえず配置替えで、秀吉の会社の部下になってですね。
だんだん直接そこから出向から転席になって、プロバー社員に変わっていく感じです。
これはその人たちだけ見ると、出向者が転席しましたって感じなんですけども、出向してくる時には、そうは言っても採用活動も頑張っている。
豊臣県、橋場県ですので、ひねらんもめっちゃ頑張ってます。ですのでそこにはプロバー社員も生まれてくるわけですよね。
そうするとプロバーと親会社から来た出向転席社員の圧力も当然出てくる。
しかつ最初はひたすら戦いまくっている武力タイプ、武功タイプの人たちが多かったんですけども、だんだん良知が増えてくると、それを収めて政治力が必要になる。
政治力、分治派と言って行政、法制度で仕切っていく。例えば石田三成とかそんな感じですね。
スピーカー 2
なので武功タイプと分治派っていうのの争いですとか、そういう調整を一手に引き受けていたのが秀永であったわけです。
スピーカー 1
すごいなぁ。
スピーカー 2
ずっと胃が痛かったと思います。
スピーカー 1
ですよね。
そこの調整もずっと頑張り続けながらやってます。社員同士の争いですね。
自分のことも一応ナンバー2なんだけど、最初は馬鹿にされてたんじゃないかなと思うんですよ。
それでも一生懸命真摯に対応して、みんなが信頼できるナンバー2になってました。
とりあえず秀永さんちょっと聞いてくださいよって感じで話を聞きながら調整をしていくってことをずっと繰り返してきた。
スピーカー 2
すごいなぁ。想像をどこまでできるかわからないけど、正直この時代でもこの仕事ってめんどくさいですよね。
スピーカー 1
本当にめんどくさいと思いますね。
スピーカー 2
せめて落とそうが楽っていうちょっと語弊があるかもしれないけど、シンプルですもんね。占領しにくい方が。
スピーカー 1
いやもう本当そうなんですよね。
はぁ。
今回戦国時代を改めて本なんかも読み直したりしながら見てて、もう中間管理職の被害しか感じないんですよ。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
派手な戦場のシーンとかってあんまりなくてですね、もうひたすら調整事をやってきたんだろうなと。
もう環境を考えるとそこに不審していないとやっぱり成り立たないっていうところがいろんなところに見えてですね。
で、豊臣秀吉っていうのは後継がいないで有名な武将でもありましたと。
そこの中でですね、なかなか子供ができないときに、親戚の秀次っていう後取り候補がいましたと。
その秀次っていうのは老いっ子になるんですけども、これがなんかいまいちな感じだったんですね。
ものすごい優秀な人材というわけではなかったです。いろんな言われ方があるんですけれども。
この秀次がですね、前回静岡岳の争いって言って、
吉畑勝家という織田信長の後継戦争の時に出てきた戦いでですね、大チョンボしちゃうんですね。
当然秀吉の老いっ子なので将軍みたいな感じで現場にはですね、後輩されるんですけど。
全然働かなくて、とりあえず右往左往して、秀吉が秀次のフォローをするために大事な部下を当てるんですけれども。
それもしなしてしまうっていうぐらいの大チョンボをしましたと。
秀次もすみませんね、お預かりした大事な部下をなくしてしまいましたっていう感じで報告すればいいのに、
すみません部下死んじゃったんで新しい部下くださいみたいな感じで秀吉に言ってました。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
秀吉がブチ切れるっていうようなことがありましたと。
でもこの人しかいないんですよ、秀吉の後を継ぐ人。
スピーカー 2
なるほどね、そうですね。
スピーカー 1
で、それをナンバー2たる秀長が見てるわけです。
ヤベェと、次のナンバー1がこの状態だとまずい。
先ほど全国統一戦争で奇襲を責めました、四国を責めましたって話をしましたよね。
その時にいまいちな秀次を連れていくわけですよ。
お膳立てをして、はい、秀次、行って、行って、よし、よかった、早く戻ってきて、はい次、はい次って言って、
なんとかですね、武功を挙げさせるってことも言ってましたね。
スピーカー 2
すげえな。
スピーカー 1
このトップとその次の世代のナンバー1の調整事っていうのも頑張っていたっていうのがこれまた見える。
そういういろんなところでの調整だったりとかサポートをしていたんですけれども、
スピーカー 1
きっとですね、すごい人格者でいろんな人から信頼されて調整をするってことあったと思うんですけども、
人間同士ですので、当然ですね、言うこと聞かない人もいたんだと思います。
いい人に言われて必ずいい結果が出るっていうことも限らないと思うんですけども、
それをどうやって解決していったのかっていうのがちょっと垣間見れる話があるんですけれども、
秀長が亡くなりましたと。
亡くなった後ですね、お城の中を見るとですね、金とか銀とかがですね、もうあふれんばかりにたまってましたという記録が残っているんですね。
部屋の天井まで積み上げられて、もう数知れない。金質が5万6千枚ありましたとか、そういう記録が残っています。
それを見た当時、秀長のことをよく思っていなかったお坊さんだと思うんですけど、浅ましい浅ましいって言ったり、そんな記録が残っています。
なんかこう、ケチとか蓄財家って言われたりとかするんですけれども、
実際にお金を貯めていたってことはあったと思うんですけども、
なんとなくですね、その秀長のお金の使い方というか、散財しているようには見えないですし、
使うところに使っていたなっていう印象がなんとなくあるんですね。
すべて把握したわけじゃないんですけども、これどういうことかっていうと、
先ほどの人間関係の調整とかって、かなりお金を使ってたんじゃないかなっていうふうに思っています。
スピーカー 2
そういうことか。
スピーカー 1
なので、例えば名誉を問じる人にはその名誉を立てて、それに折れる人にはお金を与えることでバランスを取るですとか、
だけど大和の地を併定していた時に自社勢力っていうのがあってですね、
昔これはうちの土地なんだけど、もう返してくれって言われた時に返すわけにはいかないから、
このお金で収めてほしいとか、そういうことをやってきたんじゃないかなと。
スピーカー 2
なるほど。
スピーカー 1
これは秀吉がですね、結構お金を借金しまくってお金を使いまくるっていう戦い方をしていたんですね。
水攻めをするとか、水攻めってお城の周り全部水で埋めちゃうっていう戦い方ですけれども、
それ、水流せば埋まるってわけじゃないので、当然柵をずっとバーっと土木工場をして水攻めをするっていうことをやる。
当然、鉄砲を買うとか、もう大量に買うこともありましたし、
敵がですね、牢状している時にですね、お米を買い占めるっていうこともやります。
そのお米も通常の3倍の価格で買い占めたというような技術もあったり。
とにかく天下を取っていったらお金が返ってくるんでっていう発想で、お金を有効に使っていた兄を見ていてですね、
そういった争い事の調整も経済力とかお金を使って解決できるという術を使っていたんじゃないかなって気がしますね。
長野このキャラっていうのを改めて見直すとですね、記録としてこういう性格だったっていうのはそんな残ってるわけではないんですけれども、
おそらくなさってきたことを見るとですね、人格に非常に優れた人物で温厚突実。
肝心態度っていう言葉を使っている学者さんもいらっしゃいました。
肝心態度、僕は初めてなんですけど、心が広くて情け深く、度量の大きいという。
もうなんか大絶賛な感じですね。
そういう人格者で、どっちかというと秀吉っていうのは厳格で部下に厳しいと。
スピーカー 1
性格希少っていうのが激しいっていうキャラ。
一方で弟の秀長っていうのはそれと反対の性格で、兄弟が補完関係になるというような。
これからの大河ドラマもそうですし、過去の大河ドラマもそうですし、小説なんかでも秀吉が天才肌の劇場化で秀長っていうのが冷静沈着な実向かって描かれることが非常に多かったです。
前回小説の中で坂谷太一さんのどういう意味秀長っていうのが一番有名なんですけど、その中で坂谷さんが書かれているセリフでこんなのがあります。
実力と権力の大きさでも兄秀吉に次ぐ存在だった。誰疑うこともないナンバー2だった。
だがその故をもって次期ナンバーワンを目指すことはなかった。
この人の機能は穂差役であって後継者ではなかった。
良き穂差役であることに誇りを持っていたことである。
本当に究極のナンバー2といったゆえんがここにあるんですけど。
スピーカー 2
先ほど郷秀次っていう出来の悪い老い子を何度か盛り上げている。
まあまあ自分仕事できるんで、自分が兄よりちょっとだけ若いので、次のナンバーワン取ってもいいんですけど、おそらくそういうことも夢夢思わなかったんじゃないかなという感じですね。
スピーカー 1
お兄さんの影になって突き沿いながら黒子に徹していた。
たぶん戦いとかその戦いの中でのエピソードが少ないっていうところもそうなんですけども。
おそらく独創性とかビジョナリーとかそういうことはほとんどなくてですね、本当に愚直真面目。
何と言ってもお兄ちゃんの野心というかビジョンが大きいので、その目的を達成すること、それに尽力することっていうことがもう生き甲斐にまで昇華させる。
生き甲斐とかそういう感覚もなかったかもしれないんですけれども。
何よりも次のナンバーワンじゃないっていうことで、武功とか功を求めない。
功名心がないっていう感じ。
何よりも大事なのは自分がここで活躍して自分の名前が売れるじゃなくて、最終的にお兄ちゃんがうまくいくことが一番大事。
自分が武功を立てなくても功名を取らなくても部下が取ればいい。あるいは老いっ子が活躍するっていうのが残ればそれでOKって感じなんですよね。
そこの加減に徹するっていうトップの補佐ってあって、何だったらトップと同化してるようなそんな存在だったんじゃないかなと。
トップが果たさなきゃいけない機能の一部っていうのを担っていたトップ機能そのものだったんじゃないかなと。
なるほど。
それだからというわけではないんですけれども、秀永が亡くなった後は、この秀吉っていうのは一人でトップ機能を回し続けるってことはなかなかできなくてですね、豊臣政権が一気に瓦解をしていきます。
スピーカー 2
なるほどな。
スピーカー 1
本当にガタガタっていう感じなんですけれども、実際に秀永の先ほどいい人だったっていう話だったんですけれども、
実際にですね、御葬式の時にはこんな記録が残ってます。野も山も崩れんばかりの20万人が参拝した。
スピーカー 2
すご。
スピーカー 1
葬式に20万人動員って。
スピーカー 2
動員そうですね、すごいですね。
スピーカー 1
動員ですよ。
スピーカー 2
しかも当時ですよね。
スピーカー 1
当時ですよ。20万人動員するイベントってなんか。
スピーカー 2
いやもう、昔のグレーのライブ。
1999年幕張のあの伝説の10万人ライブ。
スピーカー 1
あれだけです。
お葬式なのでどんな形だったかわからないですけれども、それぐらいの方が秀永だったという。
スピーカー 2
野も山も崩れんばかりのですからね。
スピーカー 1
奈良県ですからね。そこまで20万人が行くんですよ。
亡くなったのが1591年1月になくなったそうです。
実はですね、その年の2月に千利休が切腹をします。
これあの前回打ち打ちの義は利休に、政治のことは私に相談してくださいというセリフが冒頭の時にご紹介したんですけども、
当時千利休という存在はですね、豊臣政権の中でも一定の重要なポイントを収めていた。
おそらくですね、出吉と千利休の間を取り持つバランサーの役割も秀永がしていたっぽいんですよね。
ただまあその抑えがなくなって、出吉との仲違いっていうのがドンと切って千利休が切腹して亡くなると。
それが1591年でした。
翌年ですね、1592年に文禄の駅、これは朝鮮出兵が始まります。
朝鮮出兵はもともと秀永が生きていた時も、この国を弟に任して自分は行くんだっていうことをおっしゃってたので、
多分生きていたとしても行われたことだとは思うんですけれども、
その3年後ですね、1595年、秀永が亡くなってから4年後、何とかですね盛り上げたその老いっ子。
当時は漢博だったんですけど、漢博豊臣秀次が切腹をします。
この時には秀永がもう生まれていた時ではあるんですけれども、秀次が亡くなったと。
四月が秀永が生まれたといっても、先ほど言ったように戦国時代の大名の家臣団っていうのはまず家族集っていうのがいるわけですね。
一人でも失うっていうのは当然政権にとって絶対にマイナスなわけですけども、それを切腹させてしまう。
その後慶長の役という朝鮮執兵があってですね、その最中に秀氏が亡くなっていくと。
スピーカー 2
なるほど。だから秀永がいたらまたちょっと違ってたかもしれないですね、歴史後の後半のところ。
スピーカー 1
そうですね。よくこれは歴史のもしもこうだったらっていうので語られる内容のようなんですけれども、
ちょっと私の個人的な感覚にしか過ぎないんですけども、正直秀永一人だけ生きていたから大きい流れが変わったかどうかっていうのはちょっとわかんないと思います。